あなたへ
あなたへ残せるもの。
さあ、始めましょう。
こんなお手紙を書くのは、なんだか恥ずかしいような気がします。
あなたには、生前たくさんの苦労をおかけしました。
私が血を吐いたとき、あなたは、この世の終わりだ、どうやって生きていけばいいんだ、そう叫んで泣きました。
私もとても悲しかった。
あなたとの日々が終わってしまうのだと思うと、とても死へ向かって、どうやって進んでいけばいいのかわからなかった。
毎日が火の消えたようでした。
でも、でもね。
私が買ってほしいと頼んで、あなたが買ってくれた鉢植えが、どんどん私が水をやることで、どんどんどんどん育っていくの。
私もあなたが毎日部屋に顔を出して、身の回りの世話をしてくれることで、なんだか生き返っていくような、新しくなっていくような、そんな気持ちになりました。
毎日、部屋を慈しむようにきれいにして、シーツを干して、洗濯したての服を着て。
ご飯を食べて、毎日、毎日命を削りながら、あなたとの時間が濃密になっていく。
私はね、前は、死んだように生きていた気がするの。
それでもね、こうやって、ああ終わってしまうんだ、いつかは、そう思うと、あなたがどれだけ輝かしい人であったか、今になってわかるんです。
毎日マメに動いて、働いて、話して、そして眠るあなた。
まるで子供のころに戻ったよう。
懐かしくて、寝顔を見て笑ってしまった。
ねえ。
毎日はね、終わっていくけれど、それと同時に、新しくこの瞬間も感性は育っていて、それは表現すれば始まっていくの。
それはあなたの美的感覚でもいいし、創作でも、なんだっていいの。
ただ、前を見すえて、人と話していればいい。繋げていくということが大事なの。
私の命は確かに終わる。二人の楽しい日々は終わる。
でもね、あなたの本当の日々が、これから始まるの。
たった一人の遠い旅。それでも私とあなたは赤鬼と青鬼みたいに、いつもお互いを思っている。
あなたは新しいことを日々学んで、悩んだり傷ついたりして、それから飲むお酒の美味しさを知ったり、案外面白いものを見つけて、笑う日々がきっと来るの。
私が保証する。あなたは一人でもやっていける。
だって私に出会う前だって、こうして人の中で生きてきたのだから。
だから独りぼっちにならなくても大丈夫なの。新しく始めればいいの。
可能性を見失わない限り、絶望はないのだから。
私がいなくなったら、植物たちをよろしくね。
あと、案外読書も楽しいものですよ。私の本を差し上げます。
それからきっと、いつでも初恋をしていてほしい。片思いだっていい。
いつでもときめきを忘れないで。
NHKのドラマはいつでもチェックしてね。夕方のドラマの再放送も忘れずに。
一度に買い物しないで、好きな時に好きな漫画でも買って、笑って過ごしてね。
ああ、もう、眠いや。
ここで、妻の手紙は途絶えていた。
僕らはお互い、寂しかった。僕は仕事に忙殺され、妻は一人暮らしともいえる日々を送っていた。
妻の生命保険が出て、それで僕はあらかじめ決めていたように、会社を辞めた。
あんなところに勤めていたから、妻との時間が取れなかった。
部長に逆らえるほど、僕は強くなかった。
それでも妻は、毎日笑っていてくれていた。
時には激しく泣く日もあった。気分を損ねて顔を合わせない日もあった。
なんで僕ばっかり、こんな目に。
そう思って、屋上で空を見上げた日もあった。
妻を火葬した後、見つかったもの。
サクランボ型のイヤリング。
「なぜ、こんなものが」
そう周りがざわめく中、僕はそれが、妻に初めて送ったものだとわかった。
妻は、「新しく始めなさい」と、僕に訴えているのだ。
僕は、妻の遺骨を抱えながら、左手にイヤリングを握りしめて、西日の当たる電車の中、座席の上でただ一筋だけ涙を流した。
隣の女子高生がびっくりして、「大丈夫ですか」と聞いてくれた。
「大丈夫」
僕は大丈夫だよ。
僕はそう、妻に誓った。
家に帰って、僕がしたこと。
ペットボトルに水を淹れ、窓をからからと開けて、蕾をつけた名前も知らない植物に水をやった。
「もうすぐ、咲きますね」
隣のおばあさんにそうベランダ越しに微笑まれて、「ええ」と僕は微笑を返した。
さあ、これからどうしようか。
とりあえず、散らかったこの部屋をどうにかしよう。
僕はごみ袋を広げ、ゴム手袋を装着し、眼鏡をちゃっとかけなおした。
その意気よ、あなた。
そう妻が笑った気がした。
あなたへ
ありがちですが。