井戸と女

 井戸があったので、カメラを捨てました。
 だれが住んでいたのかもわからない廃屋の、古びた井戸でしたが、水はあるようでした。落としたカメラがぼちゃんと、水面に叩きつけられる音がしましたから。
 カメラは、プロの方が使うような一眼レフなどのごつごつしたのではない、コンビニエンス・ストアで売っている使い切りのカメラでした。なので一切の迷いなく、井戸の中へ抛ることができました。二十四枚しか撮影できないものだった。けれどもつまりは二十四枚も、うち何枚かは光の加減や手元のブレで失敗していたとしても、二十四枚も実にくだらない写真が撮られたのだなァと、井戸の底(はじめて見た井戸の底など計り知れないが)に沈んでいったカメラに少しばかり同情の念が沸き上がるのでした。ぼくが、ぼく自身の手でカメラを葬ったくせに、おかしな話だ。
 そういえば、きのう、あの喫茶店にいたおねえさんはどうなっただろうか。
 カウンターのすみっこやテーブルのはしっこに、壁棚に、窓際に、いつも古めかしい本が積まれている喫茶店にいたおねえさんは、ひとり、目の前のアイスコーヒーをじっと見つめ、グラスの中の氷をストローでごろごろと転がしていた。
 おねえさんは、美人だった。
 けれども、左頬におおきな青い痣があった。
 いかにもワケアリな感じが、おねえさんの美しさを際立たせていた。おねえさんは青い痣を長い髪で隠すでも、うつむいて見えないようにするでもなく、観たければ観なさいよ、とでも言いたげに左頬をあらわにしたまま、アイスコーヒーの氷をごろごろごろごろ転がしていた。白いストローを時計回りに、ときに逆時計回りに、本を開くでも、携帯電話を操作するでも、だれかと待ち合わせているでもなく、グラスの中の氷をごろごろかきまぜて、かきまぜてはひとくち、ふたくち飲んで、またかきまぜて、ふたたび飲んでを繰り返したのち、おねえさんは店を出て行ったのでした。おねえさんの黒いハイヒールが、喫茶店の床をこつこつとノックする音が、妙に耳に残っている。きょうになっても。
 恋人に殴られたのだろうか。
 それとも、旦那さん。
 もしくは、友だち。
 まさか、暴漢。
 そういえば井戸の中から出てくる幽霊、いるよね。だいたい女の人だよね、ああいうのって。それから、あんなに氷をかきまぜて溶かしたらアイスコーヒー、うすくなってるよね。おねえさんのアイスコーヒーに、ミルクは入っていなかった。ガムシロップは、わからないけれど。
 きのうのおねえさんのことと、さっき、つい一時間前にぼくが飛び出してきた部屋の住人のことを、交互に思い浮かべる。おねえさんは美人であって、ぼくを壊そうとした人も、美人の類ではあった。
 ぼくは井戸の中をおそるおそる覗きこみました。
 真っ暗でした。水の音はしましたが、水面はまったく見えませんでした。雨水のような匂いもしました。幽かな風と、明らかに温度の違う空気も肌に感じました。井戸ではおそらく、なにかしらの生き物が死んでいるものと思われました。それは誤って転落した野良猫だったり、水飲みに這い下りたもののアクシデントで上がってこれなくなったヘビだったり、故意に身を投げた女性だったり。
 あのカメラはもう、井戸の底に到達しただろうか。
 今さらだけれど、燃せばよかったなァと思う。ぼくの目でしかと、あのカメラが現像され世に触れられることがないよう、炭となり、粉々になるまでを見守ればよかった。もし、あの人がぼくを追ってきていたとして、今も、廃屋の陰からぼくの行動を盗み見ていて、ぼくが去ったあとに井戸の中を捜索しようものなら、という想像をしながら、ぼくは、右の手首に残る縄の擦れた痕を舐めました。ぼくは、ぼくを壊すあの人が怖いのでした。けれども、嫌いにはなれないのでした。なので、ぼくは、こんな古びた井戸の、薄暗い湿ったところでひとり、興奮している。笑いながら。
 そういえば喫茶店にいたおねえさんも、アイスコーヒーの氷をかきまぜながら、笑っていたっけなァ。

井戸と女

井戸と女

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-16

CC BY-NC-ND
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