『オーヴァードライブ』

『オーヴァードライブ』第一話

由美の息の微かな感触が目の前にあって、僕はまっすぐに彼女の姿を眺めた。彼女は十六歳で、僕の友達の妹だ。陰影のある表情を浮かべ、静かな意思を有し、唇をまっすぐに結んでいる。恵比寿ガーデンプレイスのふもとにあるカフェで、僕たちは座っていた。春休みの温かな日差しが、冷たい風に混ざりこみ、僕と由美の体をすり抜けている。時々、うねりをあげて、風たちは僕たちの会話から音を奪い去っていく。
 天気は穏やかとは言えないものの、悪くはなかった。温かな日差しがあって、風が時折強かった。
 このデートを提案したのは、友人の幸一で彼女の兄にあたる。僕たちは大学の同級生で、二人とも二十歳だった。
 デートと言っても、由美は僕へ愛情を抱いているというわけではなかった。彼女の愛している男性はもっと違うところへ居て、その愛は成果としてかたちを成すまでにまだ時間がかかる種類のものだった。
 由美の恋愛の相手は、予備校の先生だ。品川にある小さなスクールの国語の先生。年齢は三十歳で、妻子はいないらしかった。そのシチュエーションを聞いて、盲目的な愛を思い浮かべる人もいるだろう。良くある話なのかもしれない。ある年齢の女の子が、年上の教師に恋をする。しかし、由美は賢い女の子だ。はっきりとその目で、愛のかたちを見据えている。その愛を成功させることが、最終的にどのようなかたちをしていて、どのような色をしているのかを、彼女はおそらく知っているのだろう。
「デモンストレーションとしてのデート」と僕は言った。彼女は笑って、頷いた。
「湊さんと一緒にいる時間は本当に楽しいです。様々な話を聞くことができるし、私が浮かびあがってくる感想というものには、彩りを与える意見を言ってくれます」
「恋は、時として如何ともしがたいものになる。持て余す感情となって、君の心に表面から侵入し、内奥を占拠してしまうことだってある。迷っているのなら、行動に移すといいのかもしれない。予行演習として、今日のデートは成功するだろうね。現に、君は素敵な女の子で、僕は君の姿に見とれてしまうことだってあった。続きは夢のなかで踊って、その先生と時間を過ごすことができるかもしれない」
 由美は明るい目をして、僕を見つめた。彼女の瞳孔には太陽の光と何か別の正しいものを含んでいた。結果として温かい眼差しとなって、僕の目と交わっている。僕は笑った。かわいい女の子と時を過ごしているのにうってつけの笑顔をしてみせた。
カフェで会計を払って、僕たちはガーデンプレイスの映画館へ行って、そこでひと時を過ごした。映画館の暗がりは、二人のあいだに集積として親密な空間を生み出している。コマーシャルを映し出されているスクリーンが光となって、僕たちの姿に色を織り成す。
由美、と短く彼女の名前を言ってみた。彼女は僕の目を見た。柔らかな表情が、映画の光と混じりあって、僕の心に届く。由美の手はするりと、僕の手の上に重なった。温かな体温が、その白い手を通して伝わってきた。
 ふと、彼女はその恋愛を通して、温もりを失っていくのかもしれないな、と僕は思った。何故ならそれはありきたりの話で、最後にはたいてい失敗が付きまとって来る。相場は決まっているのだ。彼女はその局面になって、感情の立て直しを迫られ、結果としてまたひとつ成長を重ねる。
 先生との恋。良くある話だ。全国どこの都道府県へ行っても、この手の話があったり、こういったシチュエーションを経験した女の子は少なくはないだろう。
 彼女の場合、その結果はどうなるのだろうか。僕は少し心配になった。
 映画は終わって、僕たちはその感想を話し合い、時間を過ごした。江古田が彼女の住まいだったので、僕は池袋まで電車に乗って彼女を送った。池袋のささやかなマンションが僕の住居だった。やがて遠ざかって行く彼女の後姿を見て、僕は小さなため息をついた。  デートは成功だ。メールで彼女の兄である直太郎にその旨を報告した。その言葉の返信として、彼の大きな感謝があった。
 愛を抱くというには、明るい感情を生むこともあれば、暗いものへ変じることもある。池袋で馴染みの喫茶店へ入って、ミックスグリルとホットコーヒーを注文した。その喫茶店には、あまり客がいなかった。いつもはもっと客がいるのだけど。僕はウィンストンの煙草を取り出して、吸った。
 由美から携帯に電話が入ったので、僕は取った。とりとめのない話をいくつかして、僕が電話を切ろうとしたときに彼女は言った。「日を違って、もう一度、デートがしたいです。気持ちは湊さんにあるというわけじゃありません。れっきとして、愛は別のところにあります。今、この電話で何を言っているのか私にも良く分かりませんが、今日はとても楽しいものでした。次回のデートの開催について、湊さんは少し考えておいてください」
 僕は携帯電話の通話を切って、テーブルの上に置いた。携帯電話はしっとりとその色を放っていることを除いて、携帯電話としてのあるべき質量を失っていた。喫茶店の中央のテーブルには、ネオンテトラの青とディスカスの赤が揺れていた。
 ミックスグリルの海老を食べ、ハンバーグを口に運ぶ。彼女の抱いている世界について、ささやかな気持ちを抱く。
 僕の名前は湊圭一。二十歳の経済学部の大学生。詩を書いていて、インディーズの音楽アーティストに歌詞を提供したり、ブログにアップしている。僕の詩には、女の子の意識というものが必要だった。若い、女の子の恋が混ざって、僕の詩は一段と深みをますことだろう、と僕は思った。僕はしばらくのあいだ、恋というものをしておらず、そこに生じる感情の温かさは既に忘れ去ってしまっていたのだ。
 二十歳。世間から見ると、若い年齢と言っても差し支えがない、しかし、由美の十六歳はもっと若かったし、僕はその頃の感性というものを失ってしまっていた。食事を終えて、僕は何も掴んでいない両手を眺める。十六歳の頃の僕はいったい何に夢中だったのだろうか。店内にはジャズ・ミュージックがかかり、その音が耳に入って来て、神経によく馴染む。古い音楽だろうな、と僕は思う。煙草に火を点けて、その時間が潜んでいるものを見据える。僕は深呼吸をする、ジャズの音に身を浸す。思考が向こうのところへいってしまい、静謐な雰囲気が醸成されていく。僕はノートを取り出して、その静謐を言葉にし、詩として書き出す。

『オーヴァードライブ』第二話


 大学で学んでいる経済と詩はまったく関係がなかった。経済を学んでいても、僕の頭には詩というものが大きなウェイトを占めていて、僕はそこに現出する言葉の世界を愛していた。イギリスの詩人ワーズワースが様々な人間模様や湖水、自然といったものを詩に変えていったみたいに、僕は自分の置かれている情景や人物を言葉にしていた。主題は時として、インスピレーションが引き起こしていく。インスピレーションは、常に研磨し、自分の肉体や精神と分離させてはならない。ささやかな不文律が僕の創作活動にはあった。
「昨日はありがとうな。由美、すっかり喜んでいたよ。本当のステップじゃないにしろ、異性とデートをしたことは初めての経験だったし、嬉しい言葉だってあったって上機嫌だった。湊は女の子を扱うことが上手だと僕は思う。詩だって書くし、文学や音楽の造詣が深い。それにしても、どうしてそんな君に恋人ができないのだろうね」
 幸一は笑った。ここは大学のキャンパス内にある、ベンチだ。僕たちの所属する音楽同好会の集会があって、僕たちはそこへ顔を出していた。音楽同好会では邦楽からイギリスやアメリカのロックソング、スウェーデンのポップ、フォーク、邦楽といもので、ノンジャンル。CDを複製して皆で回したり、路上でフォークソングのイベントをしたりしていた。
 何か音楽的成果を求めているサークルではなかった。成果と呼べるようなものはひとつだってない。路上ライブだって、気まぐれのささやかなものに過ぎない。緩い雰囲気のなかで、楽しみを見出して、お付き合いを深めましょうというのが僕たちのスローガンだった。そのスローガンは、僕にとってこのサークルを居心地の良い場所へしていた。
「恋人は作ろうとしないからだよ。独りでそっと時間を使うことが好きなんだ。求めていなくても、いつかはまた恋人を作るだろうね。今はまだその時期ではない。インベーダーゲームみたいに、次から次へテンポよくステージが進むというわけじゃない、少しずつ世界が変わっていく。変化の途上で、また恋人が必要になったら、その時は作るさ。僕の詩には、移ろいというものが重要なテーマとなっている。色々なものが姿や性質を変貌させていく、その瞬間をとらえて、言葉に封じ込め、詩として作品になる。恋人のいない時期にしか書けないものだって、きちんとある」
「いつか詩集にでもなると良いのにね」幸一は言った。
 僕は頷いた。「文学としての詩では食べて行くことはできないだろうけど、音楽に混ぜて商業性を持つことができたのなから、あるいはその夢が叶うかもしれない。僕が詩を提供しているインディーズ・バンドなら、うまくいけば夢を叶えてくれそうだよ」
 レトロ・フィーチャー。それが彼らのバンドの名前だった。フリーターの集まりで年齢は平均二十五歳、ブログを通して知り合った。彼らは東京近郊や名古屋、大阪でライブ活動を行っている。詩を提供していると言っても、彼らの作品のすべてにではないし、ある一部分だけだ。
 レトロ・フィーチャーと僕は親密だった。
 彼らの夢はメジャーデビューを果たし、わけのわからない地点まで成功すること。ビートルズやオアシスがそうであったように、音楽を世界中で駆け巡らせて、ツアーに出て、時代の潮流を作り出す。夢みたいなことを本気で語り、彼らは音楽に人生を捧げているのだ。
 幸一は電話を取って、誰かと話していた。春の陽気がその日にはあった。しかし、風はまだ冷たく、僕たちの下を吹き過ぎていった。
「由美が近くまで、来ているらしいんだ。湊に会いたいって。会ってあげてくれないか? キャンパスまで来るからここで待っているだけで良い。僕は用事があるから、この場を離れるけどね」
 僕は了承した。幸一は笑顔を見せて、キャンパスから去っていった。春休みなので大学の敷地内は、静かなものだった。人の姿はまばらで、太陽は高みにあり、風は時折刃のようにその姿を現していく。
 バッグのなかからタブレットを取り出して、インターネットをする。僕のブログ『オーヴァードライブ』にアクセスして、新しくアップした詩のコメントを返信する。時計は刻み、三十分は待っただろうか、そこへ由美が姿を見せ、ベンチに座っている僕の隣に座る。僕のブログのトップには、ウィリアム・ワーズワースの詩『ルーシーの歌』を掲載している。英語で原文のまま、載せている。
 お待たせしました、と由美が白い歯を見せる。「そのブログ、全部じゃないけどだいたい目を通しましたよ。湊さんって言葉に鋭敏なのですね。私には、新鮮で共感できるところばかりでした。女子高校生向けの海外文学って何か良いのありますか? 私はそういったものに疎くて」
 フランスの女流作家フランソワ・サガンの『悲しみよ、こんにちは』を勧めてみた。サガンの簡単な経歴を説明し、僕がこの小説によって感じたものを彼女に伝えた。
 切ない者をつなぎとめる楔となっていくのかもしれない、由美にとって。最も小説というのは、読む人生の時期によって何もかもが変わるということもある。サガンの世界が、必ずしも由美に溶け、何かを与えてくれるとは限らない。肌にしっくりくるのかは、読み終えてみるまで分からないものだ。
 彼女は僕の言葉をしっかりと耳に入れて、内容を確かめていた。
「私は愛している人がいる。その愛は途方もなく重たいもので、どうしようもないぐらいに、私は持っている感情を持て余しています。毎日が苦しいし、息をしていても、しんどくなってしまうこともあります」
「文学で救われることだってあるよ。あるいは一篇の詩で、すっかり心に色が戻っていくこともある」
「『オーヴァードライブ』、何度も読み返しました。湊さんの詩って、若い人たちのほろ苦さを代弁しているような気がします。共感する部分が多いです」
 僕は彼女の目を見て、少しの間沈黙に身を浸した。
 「僕は代弁などしてない、代弁するような立派な人間じゃない。自ら表現したいものがあったら、そこに拙い言葉しかなくても自分自身で書き始めることだよ。正しい言葉は、おのずから精神に生じてくる。君がその言葉を求めることを決して止めなかったらね」
 そのセリフはある種の効力を持って、彼女の内側に入っていったみたいだった。大学のキャンパスを出て、僕は煙草を一本吸った。春休みの学生街。活気はなく、静かなものだ。
「さて、いったいどこへ行こう?」
「湊さんの住んでいる部屋へ行きたいです。お金だってないし、男の子の部屋がいったいどういったものか私は知らない。兄の部屋に時々足を踏み入れることはあります。でも兄は兄だし、予想通りのものです。参考にはなりませんね」
 僕は了解した。ずいぶん散らかっているけど、それでも良ければ。
 マンションはこの大学から、歩いて十分ぐらいのところにあった。学生街のマンションで、スーパーやコンビニエンスストアが揃っていて、デカダンス的なところとはかけ離れた平和的なマンションとその周囲。面白味も文学もそこにはなかった。
 部屋に由美を招き入れて、僕はそこに広がっている様々な情報を整理していた。歴史や映画に関する本は、テーブルの向こう側に追いやって、フランスの抒情詩人のものは本棚に収め、富士通のノートパソコンの向きを直し、埃がつもっているところには布巾を持って拭いて回った。
 彼女は僕の様子をじっと眺めていた。言葉を発することなく、座って動くこともなかった。僕はパソコンの電源が入っていることを確かめると、エンターキーとパスワードでスクリーンセーバーのロックを解き、ユーチューブにアクセスする。
 僕が関わっているバンド、レトロ・フィーチャーの音楽を流し始める。「レトロ・フィーチャーのこの曲は僕が作詞したものなんだ。アクセス数はまだ少ないけど、彼らは僕の詩に鋭い曲を乗せて作った。出来はまずまずと言ったところだよ」
 しばらくその音楽を流していた。僕は彼女の分とコーヒーを作って、テーブルの上に置いた。
「私の恋のことだけど、終わってしまったのです。その予備校の先生、結婚してしまって。私はそのシチュエーションで、自らに踏ん切りをつけるために告白しました。相手は固まってしまって、声を出すことすら一苦労です。冷静になりなさいとかそんなことを言われました。私は差しあたって冷静です、と返事をしました。冷静に好きなのです」
 僕は彼女の口がすっかり閉じていることに気付いた。彼女に浮かび上がっている、表情を見つめた。哀しかったのだろう。僕は由美の気持ちを思いやり、彼女の口に何か言葉が浮かび上がってくることを待った。
「でも、私は今度デートに誘われてしまったのです。妻をめとったばかりの三十歳の男性に。嬉しいという気持ちはもうありません。予備校にも行きづらくなったので、辞めようかと思っています。彼は思っていた人と違っていた。あるいは、もっと別の何か狙いのようなものがあるのかもしれない。彼の気持ちが分からないでいます」
「それでそのデートは断ったんだね?」
 彼女は頷いた、うっすらと涙を浮かべ、僕を見つめた。「恋愛は抱いていたよりも、ずっと怖いものとして私の目に映りました。ワイドショーでは次から次へと不倫の話が持ち上がっています。私だって、その意味するところを考えてみるときもありました。彼は不倫をして、私と寝たいのだ、と結論付けました。大人と違って、高校生にはその事実は重たかった。いや、大人にだって、不倫は重みのあるものですよね」
 僕はコーヒーを飲み、煙草を吸った。「ゆっくりと眠ることだね。起きているあいだに、サガンやサリンジャーの本を読み、時々お兄ちゃんの相手をして、時間を過ごす。その感情の傷を埋めるには、時間を過ごすことしかないんだ。誰だって、そんな話を持ちかけられたら、ショックを受けるに決まっている」
 僕はそこで言葉を止めて、彼女の様子を眺めた。「二回目のデートはどうする? デモンストレーションとしてのデートではなくなってしまった。意味を成すことのないものなのかもしれない」
 由美は僕の言葉を受け止め、思考を巡らせていた。「湊さんのほうの都合が悪くなければ、二回目のデートをしたいです。未成年だからお酒も煙草も駄目だけど、もしご迷惑じゃないとすれば」
「レトロ・フィーチャーのライブを観に行こうか? 来週の土曜日に高円寺であってね。チケットが余っているということもあって、もし良かったら」
 彼女の表情に喜色が浮かんだ。「ありがとうございます。申し訳ないのですが、レトロ・フィーチャーのCDを複製して欲しいです。ライブの事前準備みたいなものです。ライブって演奏する曲を知っていると、知らないのではずいぶん違ったものになると聞いたことがあります。できることなら、楽しい時間にしたいです」
 僕はその申し出を受けた。「あとで複製を行って、彼らのCDを渡すよ」
「ところで、パソコンを少し貸してくれませんか? 湊さんのブログにアクセスしたいです。急に、湊さんの詩を読みたくなってしまって」
 パソコンで僕は自分のブログ『オーヴァードライブ』にアクセスし、彼女に渡した。彼女は、リンクを辿って、ある詩編に辿り着く。『雨のなかで』という詩だった。
「この『雨のなかで』という詩は特に私の心を惹きました。雨は陰鬱で、めんどうくさいというぐらいにしか思っていなかったですから。色鮮やかに雨がそこでは表現されていて、命の恵みというところに繋がっています。発想が良いし、素晴らしいです」
 ありがとう、僕は短く言って、笑った。この詩は確か高校生時代に書いたものだったな、と僕はその頃の情景を細かく思い出していた。記憶はところどころ欠落を生じていたが、僕の置かれている状況は、今よりもずっとシンプルなものだった。
 高校三年生の受験生だった。栃木に住んでいた。僕は女の子に恋をしていた。そういった言葉に、僕の人生の過去はあった。
「『雨の中で』僕らは探し物をしているのかもしれない。傘じゃないし、ルームキーでもない。部屋には差しあたって入ることができるというのに、家には帰る気分じゃない。帰ってみても、孤独が待っているだけだからね。僕らは探し物をする。思いがけない何かを求めて、降りしきる雨の街へ繰り出す。この詩を作った時期には、同級生の恋人がいたんだよ。かわいい女の子だった、特筆するものは何もない女の子だったけどね。ここに出て来る女の子は、彼女の影で作り出されている」
 由美は笑って僕の詩を読み、彼女の心に届いている何かを見つめている。
「僕は詩を書いているけど、それは自分自身のためというポイントが大きい。詩を書くことによって、自分がいったい何を考えているのか整理する。この部屋で、たくさんの詩を書いて、出来の良いものはブログへ転載する。出先ではノートを取ったりもしている。授業中に、アイデアをひねり出すこともある。レトロ・フィーチャーの歌詞を書く時は、コーヒーをたっぷり真夜中に飲んで、その真夜中の時間の独特な流れ方とともに言葉を練る。朝方には、それが出来上がっていて、今ではメロディーに乗って、詩は音楽としての需要になっている。経済とは何の関係もないよ。大学で習っている経済学は大がかりなもので、僕が提供しているものはささやかなものに過ぎない。マクロもなく、ミクロもない。ケインズやトマス・ピケの本も関係がない。興味のないことを僕は大学で学んでいる。成績は悪くない。だけど、商社マンや銀行員には向いていないと思う。僕は文学部に進むべきだったかもしれないな」
 彼女は頷いた。コーヒーを飲み、僕の目を見た。瞳の奥には、穏やかな感情が映っていた。
「湊さんって、素敵な恋をしてそうだと思います。感受性は確かだし、女の子へのエチケットも完璧です。独自の生き方というものがあって、揺るぎのないものとなっている」
「話をするほど、昔に感情は持っていないよ。さっきも言ったように恋人がいる時期もあった。受験生時代や大学の一年生に入ってすぐの話だけど、別に大して興味を抱くほどでもない。愛して、セックスをして、ベンチに座ったり、お菓子を食べながら時間を過ごした。やがて色々なことがやがて面倒くさくなっていくんだ。彼女の声なんて聞きたくなくなったし、関係を成立させ続けることが難しくなっていった。二回の恋は揃ってバッドエンドだった。後には何も残らなかった、詩を別にしてね。そんなところかな。教唆するものもない。別に特別な出来事ではなかった、良くある話で、何の感興も浮かび上がってはこない、今となってはね」
 いつの間にか時刻は夕方の六時に指しあたっていた。僕は料理を作って、彼女をもてなした。ポークソテーと、デミグラスソースを溶かし込んだハヤシライス風の野菜のスープ、少量のライスはリゾットにした。
 由美は喜んで、その料理を食べ、感想を僕に伝えた。親密な空気が広がっていく。僕は由美の表情の光を見つめ、彼女の美しさの際立ちを認める。彼女はすうっと、僕に体を寄せて目を閉じる。ゆっくりと時間を掛けて、体の温もりを交換し合っていく。彼女の体はやがて小刻みに震えを持って、顔をうつむけ出した。
 彼女は突然涙を流し始めた。感情が堰を切ったかのように、表出し、彼女の声は哀しいものとして嗚咽する。僕の部屋は次第に温度を失っていき、冷たくなっていった。
「それでも、私、あの先生のことが好きです。どうしようもないぐらいに」ぽつりと言った。
 僕はその言葉の白い部分を見て、静かに二回頷いた。彼女は混乱していた。頭の中が真っ白なのだ。
 彼女の涙が静かに止まるまで、僕はじっと待った。体はこわばり、硬直した感情を持て余す。マンションの一室は、音を取り去ったかのように静かで、僕たちの魂の行く末を受け止め、押しとどめていた。スクリーンセーバーとして眠っているパソコンは、光を失っている。
「その先生の名前はいったい何と言うんだい?」
「朽木浩平。情熱的で、分かりやすい授業が好評の国語の先生。髪の色は抜いていて、小さなダイヤのピアスをしています。結婚してしまって、決まった人がいるというのに、私にも手を差し伸べてくれます。寝たいというのは私の考え過ぎなのかもしれません。しかし、結局のところは、私と寝たいのかもしれませんね。デートへ行って、どんなに楽しい思い出を作っても、その思い出は最後に行き場所を失ってしまう。どうして私をデートに誘ったりするのだろう? 分からないのです。彼からその話を受けた時、私は複雑な心境になってしまいました」
「もし、そのことが露見してしまったら、世間や所属の予備校から彼はバッシングを受けて、講師の職を解くことになるかもしれない。君はまだ高校生の女の子に過ぎない。世間の目というものは、時として冷たく、例外を探し求め、記事にする。ニュースにだってなりうる、展開次第では。良いかい? その話に乗ってはいけない。君がまずすることは予備校を変えることだね。彼のことはすっかり忘れて、違う生活をスタートさせるんだ」
 作った料理はすべて胃の中に入れて、僕は時計を見た。七時を回っていた。パソコンでレトロ・フィーチャーの曲をコピーして、複製のCDを作った。彼らは二枚のオリジナルアルバムをインディーレーベルから出している。僕は彼らに詩を提供して、一年になる。僕だって、レトロ・フィーチャーの一員になっているのだ。彼らのイベント活動は功を奏して、メジャーデビューの話も持ち上がっている。いくつかのレーベルが手を挙げている。しかし、彼らは冷静だった、焦ってはいなかったし、着実に歩を進めていくということを念頭に置いている。
 彼らにとって、レトロ・フューチャーはまだ始まったばかりなのだ。
「駅まで送って行くよ」僕はCDを手渡して、立ち上がった。
「ありがとうございます。ひとつお願いがあるのです」
 僕は目を細めて、由美を見つめた。
「先生のことを兄に伏せておいて欲しいのです。兄がこのことを知ったら、先生に実力行使をするかもしれません。兄はとても怒りっぽいし、喧嘩っはやいのです。知ってしまえば、事態はずっとややこしいものになってしまうでしょう。本当にニュースへなってしまう」
 僕はその申し出を了解した。知らなくて良いものだって、時にはある。
「恋ってどうしてこんなにももどかしいのでしょうね。綺麗な恋愛の終わり方って私は知らないです。私は十六歳で、世間のことなど知らない、ただの高校生の女の子。無理もないことなのかもしれません」
「そういったことが分かるには、もう少し年齢を重ねる必要があるのかもしれない。総体としての理解には辿りつかなくても、何かが分かることもある、それがいったい何であるのかということをね」
 マンションを出ると、夜はその存在感を増して、慄然とあった。常夜灯が、無言の光を投げかけ、冷たい空気が流れている。僕は最寄りの駅まで、彼女を送って、コンビニエンスストアで買い物をし、部屋に戻った。
 シャワーを浴びて、ビールを飲み、煙草を一本吸った。オーディオにセットして、ファットボーイスリムのアルバムを流した。その音楽が終わってしまうと、僕はレトロ・フィーチャーのアルバムをデッキに入れて、彼らの音楽に耳を傾け、詩作に入る。思考と経験は、僕の体のなかにあって、情景を言葉に移し替えて、鋭さを付け足していく。
 出来上がった詩を更新する。ブログ『オーヴァードライブ』には、約二百の詩編が存在する。僕のブログは、写真を入れることがなかった。あくまで、言葉だけでインターネットユーザーに訴える。
 最新作のタイトルは『遠ざかっていたもの、抱いていたもの』という名前で、力強い単語によって、短い感情をいくつか込めた。
 パソコンをオフにして、歯を磨き、テレビのニュース番組を少し観てから、ベッドへ入って眠りに落ちた。夢はなく、静けさと溶け合ったような眠りがそこにはあった。
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『オーヴァードライブ』第三話

 僕が行っているアルバイトはカラオケショップの店員だった。住まいから近くということもあって、僕はそのアルバイトに応募し、採用された。客があまり来ないカラオケショップだった。系列ではなく、個人店。オーナーはこの辺りで有名な地主で、税金対策としてカラオケショップを開いていて、利益には興味がなく、経費を落とすことに注力している店だった。
 僕は夕方からシフトインし、夜の二十三時まで残る。ここにはレトロ・フィーチャーのベーシスト池田君がいる。アルバイトを探していたから、僕が紹介したのだ。池田はサボってばかりで、質の良い店員とは言えなかった。すらりとした長身の、髪の長い男だ。髪はうっすらとした赤に染まっていて、金のピアスをしている。外見は音楽関係者とすぐに分かるものだった。
「今度のライブ、女の子をひとり連れて行くことにしました」僕は言った。
 店内には客がいなかった。このカラオケショップの平日の夕方はいつだってそういったものだった。珍しい光景ではない。フロントに設置してある、小型のTVを見つめながら池田君は言った。「ありがとう。客が多いに越したことはないよ。ところで、僕が今いったい何を考えているか分かる?」
 彼はぼんやりとTVを見つめている。ドラマの再放送。主演は竹内結子だ。
 分かりませんね、あなたがいったい何を考えているのかなんて、僕は苦笑した。
「ボーカルの存在感に勝利するベーシストになることさ。目立つにはどうしたら良いのか。湊君に何か良いアイデアがあったら教えて欲しいな」
 僕もTVを見つめた。竹内結子は僕の好きなタイプだった。「ボーカルの前に立って、ベースを弾いたらどうです? 別にボーカルが視界不良になっても、演奏には支障がないでしょう」
 池田君は声をあげてけらけらと笑った、「そのアイデア、気に入ったね。うろうろするふりをして、ボーカルのポジションを奪ってしまう。まったく悪くないアイデアだよ」
 二組の客が来て、僕たちはTVを消し、応対をする。僕が部屋に案内し、池田君が飲み物を作る。カプチーノと生ビール、解凍する枝豆と凍っているチャーハン。カラオケの機材はハイパージョイサウンド。部屋の数はビップルームも含めて、十二というものだった。店内にある食料は、自由に僕たちが食べて良かった。その消費も、経費という名前に変わって、最終的には経営的な美徳という言葉になる。
 経費ということについてなら、僕は論文を書くことができるかもしれない。アルバイトの片隅で、そっと思った。
 六時半が過ぎて、時間が空いたので夕食タイムにした。池田君が作る役割だ。彼は店長が買い込んでいたインスタントラーメンを作って、僕たちは食べた。店内には有線で、ブルース・スプリングスティーンの『ボーンインザUSA』がかかっていた。
 ラーメンをすすりながら、池田君は言った。「高円寺はマイホームタウンだよ。僕たちは高円寺で出会い、結成した。当初、僕がギターを弾いて、ボーカルのジェイが歌った。五年も前の話になる。ジェイは歌うということに対しては、とてもスペシャルだ。メジャーのどんな歌手にだって負けてはいない。レトロ・フィーチャーの原型は路上から出発し、君の協力を経て、モンスターバンドに成長したいと願うようになった。僕たちがちからを併せれば、大丈夫。現在のありふれた音楽シーンに風穴を開けることができると僕は思っている」
「詩を書くということと、歌詞を書くということは繋がっているようで、本当は離れた存在です。違う頭の回転が必要になって来ます。その経験は、回路として組み上がり、今となっては僕のひとつの楽しみです。詩作から切り替えての歌詞作り。Aという回路から、Bという回路へ切り替えていく。歌詞作りは本当に良い経験だと思います」
「僕たちがビッグバンドになったら、君はどうする? 経済学部を出て会社勤めをするのか、それとも僕たちの大きな夢に乗って仕事をしたいのか」
 僕は顎に手をやって、ひとしきり考えた。一組の客が来た。僕たちはラーメンを置いて、接客をした。いつものように、僕は部屋を案内し、池田君はドリンクを作った。
 レトロ・フューチャーの一員としてシステムを構築するか、既に動いている会社システムに自分は就職するか。僕にはまだそんな先のことは分からなかった。ビッグバンドの歌詞担当としての僕はいったいどのような思考をするのだろう。美しい未来がそこへ待っているのだろうか。求めているものが果たしてあるのだろうか。
 再び、暇な時間がやって来る。池田君は携帯のゲーム・アプリに夢中だった。僕は耳に入ってくる客の歌声の切れ端を聴いていた。時計が過ぎ去っていくのをじっと待った。
 アルバイトが終わって、部屋に戻りブログをチェックする。新しい詩について、コメントが入っていたので、僕は丁寧にその返事をする。メールが来ていたので、内容を読み、返信をする。
 ブログのタイトル『オーヴァードライブ』というのは、ジュディーアンドマリーのあの曲が由来ですか? という質問がメールに入っていた。
 僕はその答えをメールとして返事にした。その作業を終えると、僕は昔書いたノートを見て、新しい詩の材料を見つけることにした。
 気が付くと、幸一から携帯にメールが入っていた。「由美が元気になったり、そうじゃなかったりしていてびっくりしている。沈み込み、家族の手を握ろうとしなかったかと思えば、急に元気になって遊びまわるということもある。様子がおかしい、湊は何か知らないか? 僕は兄としてとても心配しているよ」
 何も知らない、と僕はメールをした。その年頃にある、不安定さが今となって表面化しただけだと思う。君の妹は、しっかりした女の子で、心配は必要ないんじゃないかな。
 幸一はその内容を見て、メールすることを止めたみたいだった。携帯電話は静寂を取り戻している。幸一は色々な人に現状を話し、同じことを言われているのかもしれないな、と僕は思った。
 詩作にふけっている、アイデアを昔のノートに求めて。そういった時に、僕は小さな旅へ出るような気持ちになる。風景は次々と変わり、人はめくるめく僕の脳裏を掠めていく。ヴィジョンを捉えて、言葉を織り成す。その作業は真夜中の二時まで続き、集中した時間を取って、美しい詩を作っていく。その過去のヴィジョンに、由美がひょいと姿を現す。思い出のところどころで、由美が存在感を持って映像となる。僕は首を横に振った。思考回路が混乱しているのだ、僕は詩を作ることを停止した。
 あるいは、由美に纏わる詩を書いても良いのかもしれないな、と僕は思う。彼女の抱いていた幻想と現実の入り混じり方について、僕は思考を巡らせる。
 気分転換として、カルピスウォーターにクラッシュドアイスを入れて、少しずつ飲み、僕は肺の空気を入れ替える。煙草を一本吸って、じりじりとパソコンの画面を見つめる。由美の姿を思い起こし、彼女との時間の過ぎ去り方について頭に浮かべ、そこに抱いたものを言葉に変換していく。言葉は列を作って、やがて集合的な文章となり、真っ白なワードへ書き込み、イメージを出現させる。
 タイトルはまだそこには存在しない。出来上がってみたら、タイトルは決まって来るだろうな、と僕は思う。
 深夜の三時に差し掛かって、僕は疲労を覚えたのでその作業を中止した。インスピレーションがぶれはじめたのだ。
 ふと、携帯を見ると、幸一から返事があった。ずいぶん前のメールだった。僕はその内容を眺め、それが僕の予想と合致していることを確かめた。
 時間を持て余したので、テレビを付けた。朝までの討論番組が行われて、コメンテイターが現代の若者の労働意欲の低下について、話をしている。労働なんてあのカラオケショップ以外では行っていないし、僕は意欲というものを持っていない。池田君だって持っていない。それがいったいどうしたというのだ? 意欲がなくても労働することはできるのだ。
再現映像が混じりそれが終わり、とある男にカメラはズームアップしていった。眼鏡をかけた赤髪の男で、彼の名前は朽木浩平だった。第一印象として彼の容姿を見て、インパクトが深かった。時代の寵児として、颯爽とした印象を受ける。その名前は、由美が恋している男のものと同じだった。肩書として、予備校講師となっている。間違いない、この男があの朽木浩平なのだ。僕は眠気をよそに、その討論番組を観ることにした。
「何かを考えずに、働く。そういったことが難しくなっています。私は、若い子を予備校講師として見ていて、彼らの抱いている不安と目の移ろいに心を痛めることがあります。日本の経済は脆弱で、年金システムは崩壊の一途を辿り、容易に生きるということが難しくなっています。夢を抱くこともできず、立ち尽くすこともできず、生じる痛みをこらえているだけです。バブル期とは違って、生き方と方向性がしっかりしていないと、まず残ることができません。世の中には、貧困ビジネスというものまで登場しています。私たちが彼らにやってあげることができるものは、この時代を生き抜く地力を付けさせるというものです。弱い者から脱して、時代の要請にこたえることができる人間を育てる。それが、私どもの予備校のコンセプトです。学業を通して、そのことを僕は教えています」
 カメラはしばらく朽木浩平を映し出し、また別のコメンテイターを映す。その言葉のあとにも、彼の持論は展開し、クローズアップされ、話題として中心になっていった。彼の弁説は巧みだったし、まるで若手の政治家のように、観ている僕を納得させてしまう何かがあった。
 朝の五時にその番組が終わり、僕は思わぬかたちで朽木浩平の顔を知ったことに、言い知れぬ何かを感じ取った。悪い人間のようには思わなかった。彼は知力があり、弁説が上手で、カリスマ性を備えた人間だった。
 僕は一眠りして、昼過ぎにこのことを由美にメールした。その返事はすぐに返って来て、僕はメールを読み、もう一度眠った。そのメールには、朽木浩平がいかに素晴らしいかについて書いてあった。
 放送は私も観ていました。
 先生のあの姿を見て、再び愛がそこに生じました。愛って言っても、私にとっては目的地の分からない地図みたいなものです。地図を辿っていって、そこにまた違ったかたちの愛があるのかもしれない。朽木先生にとって、それが二番目の愛となっても。私はその頼りない地図を持っている。目的地の分からない愛について、静かに想いを捧げています。TVの姿は、真夜中に眺めていました。私の確かな愛、あるいは不確かな愛。

『オーヴァードライブ』第四話

  高円寺のライブの当日。レトロ・フィーチャーのライブが、イベントハウス『メタリオン』であって、僕は由美と駅の改札で待ち合わせをし、合流してから向かった。時刻は午後の十七時。レトロ・フューチャーのライブスタートは十九時だった。ライブ会場は高円寺駅から徒歩十分ぐらいのところで、かなり立派なイベントハウスだった。内装は、シャンデリアがあって、ドリンクカウンターがあり、広々としたステージがあった。僕はジントニックを注文し、由美はジンジャーエールを頼んだ。
 朽木浩平の話はしなかった。彼女が彼を愛していて、それが最終的な結論だとしても、僕に止める権利はなかった。それに一時的な感情で、再びの愛を語っているのかもしれなかった。
「湊さんとのデート、三回目ですね」彼女は軽やかな口で言った。「レトロ・フィーチャーのアルバム、かなり聴きこんできましたよ。心の奥底に届くぐらいに、彼らの音楽がそこにありました。オリジナリティーとしてのロックと言うのでしょうか」
「彼らなら、現代のロック・アイコンになることができる可能性を秘めている、と僕は思っている。彼らの作り出すロックは上質だし、メジャーデビューを通して、時代を代表するバンドになるかもしれない。ささやかなところからスタートして、スタジアムを埋め尽くすような大きさにまで変貌する。そうなったら、彼らは幸福だろうね」
 僕はジントニックを飲み、ウィンストンに火を点けた。三組のバンドが、各々の曲を演奏し、その場を取り繕った。聞いたことのないバンドたちだったが、彼らの演奏も悪くはなかった。客は八十人ぐらいだろうか。フロアは広かったので、大きくスペースが空いていた。
 シャンデリアは光を放っておらず、ステージに照明が集まっている。音が大きな塊として耳に届く。僕はジントニックのお代わりを貰って、席に座って、レトロ・フューチャーが現れるのを待った。時計は十九時を回っていて、由美の目は期待で輝いていた。
 照明が一瞬すべて消えて、拍手が砂ぼこりのように巻き起こる。多くの人間がステージの付近に詰め寄って、腕を振り回したり、ジャンプをしたりする。その振動はテーブル席に伝わってくる。レトロ・フューチャーの四人組がステージに姿を現して、ライブがスタートする。始まりの曲は『ノー・フューチャー』だった。セックス・ピストルズの曲からタイトルを作ったパンクロック風の音楽、音響はフロアに満ちて、大がかりなトリックがあるわけでもないのに、聴衆を魅了していた。既に、他の出演バンドのどれもが、彼らの放つメッセージ性と熱気に打ち負かされていた。
 池田君はきちんとベースの位置に居て、さわやかな笑顔を振りまいている。アルバイト先で話し合った、ボーカルの前に立ってベースを弾くという目立ち方はしなかった。いくらなんでも、そんなバンドは存在しない。そこにはいつものレトロ・フューチャーがあった。
 オーディエンスとバンドが織り成す熱気はハリケーンのように、その空間を作り出していた。由美は席を立って、ステージの前へ行って、ドリンクを飲みながら、彼らの演奏を楽しんでいる。
 演奏時間は四十分ほどだった。池田君は僕の姿を認めると、にこやかな顔を見せた。ボーカルのジェイは、静かに僕の目を見つめた。彼は池田君と違って、冷静沈着、感情や馴れ合いを表に出す人物ではなかった。しかし、レトロ・フューチャーのリーダーは彼だった。
 ラストの二曲。『ハイウェイ』と『流刑地にて』は僕が歌詞を提供したもので、『流刑地にて』というのはカフカの短編からそのタイトルを借りたものだった。僕の歌詞には文学的要素を散りばめる、そこへ現代的な言葉を介在させ、まるでミスリルの剣みたいな精巧な鋭さを現出する。
 歌は質量を伴って、イベントハウス『メタリオン』に響いていく。壁が音に反響して、僕たちはレトロ・フューチャーの世界に没頭していくことになった。
 彼らのライブが終わって、ステージからフロアに身を移した池田君と話をする。新しいファンとして、由美を紹介する。ジェイは鋭い目つきを解いて、柔和な顔を浮かべる。
「実は、メジャーデビューが決まったんだ。いくつかのレーベルが手を挙げていて、僕たちは慎重に、彼らのなかから組むべき会社をセレクトした。君にはまた歌詞を作って欲しいと僕は考えている。スタートするには、君のちからが必要なんだよ。いくらかの謝礼をするし、受けてくれないか」
 僕はジェイを見つめた。彼はまっすぐに僕を見つめ、怜悧な目となっていた。
「歌詞を作るということは構いませんよ。僕だって、レトロ・フィーチャーに関わっていきたいし、あなたたちの夢に乗ってみたい。ただ、歌詞については素人なので、多作をするということはできないかもしれない。僕は素人の学生だ。プロの作詞家ではないのです。詩を書くことはできても、歌詞を作るのは手探り状態というのが本当のところです。フランツ・カフカの小説と同じです。謎を解いて、また新しい謎が出現する。その総体として、僕の歌詞作りがある。そこに生じるブラックボックス性によって、僕の歌詞作りは成り立っているから、必ず完成するという約束はできません」
 君のペースで構わないよ、ありがとう、とジェイは笑った。微かな笑顔だった。
 僕と由美はライブ会場を後にして、高円寺の居酒屋へ行き、彼女はソフトドリンクを頼み、僕は生ビールを飲んだ。鳥料理の専門店で、様々な種類の料理を楽しむことができる店だった。「私、予備校を移すことにしました。そして朽木先生とデートをする。たった一回だけ。私の感情がそれを望んでいるんです。彼のことを考えるだけでも、心が沈み込んでしまう。そのデートを終えて、私は新しい世界に旅をします。結婚している男性とだって、恋をしたいもの。でも、本当にそうするわけにはいかないのよね。だから、そういったものの卒業としてのデートをします。苦しい恋です。もっと、楽な恋がしたかった。私は朽木先生とのデートを断ることができなかったのです」
「行ってきなよ。そしてそのデートが終わった暁に、君は恋の盲目から立ち直る。デートでは、僕との予行演習がいささか役に立つのかもしれない」
 鳥刺しを食べて、フライドポテトをつまみ、二杯目のアルコールを飲んだ。
「私って、いったいどこへ行きたいのでしょうね。そのデートを終えて、私は朽木浩平から本当に解放されるのかしら」
 由美はため息をついた。「私もこの状況を整理するために、詩を書いてみようかな。国語の勉強になるかもしれないし」
「詩を書くということは良いことだ。心の内側と外側をつなぐ、クラッチみたいなものだ。心の悩みが、言葉となって詩になっていく。本格的に書くのなら、たくさんの詩を読んで、たくさんの思い出を言葉にする手段を身に付けなくてはいけない。書いてみて、他の詩を読み、また書いてみる。その繰り返しだよ」
 僕はそこで、文学的話題としてフランソワ・サガンの話をした。サガンの小説は、美しく色を持っていた。彼女にしか描くことのできない世界観があり、その微細なところまで青春のほろ苦さを作り出している。
 彼女は『悲しみよ、こんにちは』をまだ読んではいなかった。僕はその事実に、少し肩を落とした。しかし、気を取り直した。僕は言葉を続ける。
「恋愛と小説は本当に深い。多くの人は恋愛というものが分からないから、小説にその一時的な答えを求める。納得するようなヴィジョンはないのかもしれない。ないからこそ人は求める。相互補完関係にある」
「『オーヴァードライブ』を何度も読んで、そこに愛のかたちがあることに気づきます。詩という表現をとって、無数の愛を感じることができる。豊富な語彙力から、クリエイターとしての鋭敏性を感じます。湊さん、小説は書かないのですか?」
 時期が来たら、あるいは書くのかもしれないと僕は言った。それは二十代よりもっと向こうの三十代になってからかもしれないし、あるいは書かないでおく可能性だってある。僕はその言葉を飲み込み、今はその気はない。
 いつかは小説も書いてみたい、と僕は付け足した。
 三十代、僕はいったい何をしているだろうな、と僕は思った。今から十年後の未来なんて、誰にだって分からない。僕は経済学部の大学生で、時折ブログに詩を書いている存在に過ぎない。こんな人間は、世間にはたくさんいるのだ。しかし、レトロ・フューチャーが売れて、正式に歌詞担当となってしまったら、未来はずいぶんと変わったものになるだろう。印税を分かち合う話だって出るのかもしれない。有名にもなる。彼らの成長は、僕の人生にも関わって来るのだ。
「新進気鋭のロックンロールとして、レトロ・フューチャーの音楽は鋭いナイフみたいにシーンへ飛び込んでいく。その立ち上がりとして、僕たちは今日のライブを体験した。素晴らしい音楽だったね。僕は彼らとこれからも関わっていくよ」
「私もすっかりファンになってしまいました。ジェイさんに、今度サイン貰いたいです。音楽というのは、時々しか聴いていないけど、良いものですね。湊さんには、フレッシュな経験をたくさん積ませてもらっています。恵比寿でのデートのときもそうですが」
 彼女は微かな笑顔を見せた。焼き鳥が運ばれてきて、僕はつくねから食べた。つくねにはウズラ卵がのっていた。それは本当に美味しかった。由美は数本セレクトして、口の中に入れていった。
 総武線から新宿駅で乗り換えて、池袋に着く。僕は歩いて岐路に着き、彼女は江古田に戻るため電車を乗り換えていった。十五分歩いて、住宅街に入り、僕は自分のマンションへ戻った。パソコンのスイッチを入れて、メールをチェックする。ブログのなかで公開しているフリーのメールアドレスだ。
 僕は煙草を吸って、メールボックスの中身を確認した。新しいメールが二通届いていた。一通はインターネット・ショッピングサイトからのダイレクトメールで、もう一通は朽木浩平からのものだった。『初めまして』というタイトル、FROM欄には『朽木浩平』という名前があった。僕は目を細めて、彼が送って来たメールを開いてみた。

『オーヴァードライブ』第五話

 生徒の由美から湊さんのブログを教えて貰って、メールをしました。朽木浩平と申します。既に聞いているのかもしれませんが、私は品川の予備校講師です。国語を担当しています。湊さんの詩は、その道のプロである私のほうから見ても、素晴らしい出来です。詩編『雨のなかで』であったり、『路上の夜』であったり、何度も読み直しました。僕と会って、文学話をしてくれませんか。僕は宮沢賢治の詩が好きです。時間が出来たら、良かったらメールで返事を下さい。よろしくお願いします。  インターネットで時々、このようなメールが来る。詩編に共感したので、会って貰いたい云々。僕はそういった人に、会うことをしなかった。ひとつには、インターネットの万能性というものに信頼を置いていなかったし、顔の知らない人に会うことは田舎を出てきた僕にしては慎重にならざるを得なかった。しかし、朽木浩平には興味があった。テレビ画面越しに顔を知っていたし、由美の話の中心でもある。宮沢賢治は僕の好きな作家でもあった。特に『生徒諸君に寄せる』という未完成の詩は傑作で、何度だって読み返すこともあった。  僕は思考回路を巡らせた。彼の申し出をどうするべきか、考えてみた。時計は、夜中の一時を少し回っていた。僕はその考えを朝まで保留することにし、久しぶりに宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を本棚から取り出して、読んだ。貧しく、孤独な少年ジョバンニと親友カムパネルラの銀河鉄道での旅を。  賢治の小説『銀河鉄道の夜』は幻想が織り成していた。彼の小説の多くは、寓話の内側に透徹としたリアリティーの姿があり、それは恐ろしくもあった。伏線が何本も張ってあって、現代の予言とも取れる結末へと導いていく。彼の小説家としての手腕、彼の美しい詩。最も未完の作品が多く、後の人の手によって世に出る作品も多かった。  詩というものは、言葉の魂を表現するものだと僕は考える。言葉を失っていては、詩や小説を書くことができない。我々は不完全であれ、言葉という道具を手にして、何かを人に伝えていくのだ。  僕は窓を開けて、部屋の空気を入れ替えた。けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ  賢治の詩が、頭のなかで浮かび上がって、そのありありとした情景を現代によみがえらせていく。生きるということは、必然死を以って、完結に至る。その死からスタートする生は、残されたものにとって、生々しいものへなってしまうことだってある。  気が付くと朝の七時を回っていたので、僕は池袋の中心街に向かって歩き、時々寄る喫茶店でモーニング・セットを注文し、煙草を吸ってそれらが出て来るのを待った。新聞を広げて、そこに載っているニュースを眺め、時間が思うように経っていかないことを感じた。高速道路での大型トラックの横転事故があり、選挙を前に政党が公約を掲げ、女子大生が首をくくって自殺をし、経済は暗雲の様相を呈しているという記事を読んだ。新聞は僕の心に暗い影を落とす役割をした。ずいぶん、ひどい世の中を生きているものだ、と僕は思った。アイスコーヒーがまず出てきて、それからかりかりに焼いたトーストサンドがテーブルの上にあった。  僕はトーストを齧り、コーヒーを飲み、新聞を折りたたんでラックに戻す。世界はとめどなく、動いているのだ。僕の世界も然り、由美の世界も然り。タブレットを取り出して、僕はフリーメールの画面を開き、朽木浩平にメールの返事をした。

『オーヴァードライブ』第六話

  二日後の平日の夜に、銀座で僕は朽木浩平に会った。TVで見た通りの格好と雰囲気だ。赤い髪の色に、ダイヤのピアス。光のある目をしていて、利発な印象を受けた。僕は彼のことを既に知っている。
 素晴らしい詩編を何度か読み返したよ、と彼は言った。「ブログの冒頭の詩ワーズワースの『ルーシー』については良く知っている。彼女の存在を疑う論者もいるが、僕はきっと実在した人物だと思うがね」
 僕は頷いた。「僕も本物のルーシーが居ると思っています。架空の人物に、あのような愛を捧げることはできない」
 彼は笑った。「おなかが空いているだろう。僕が奢るから、美味しいイタリアンレストランに行こう。学生がまず入ることはない、種類のレストランだよ」
 銀座のイタリアンレストラン『モデルノ』へ行った。コース料理を彼は予約していたのだ。年代物のワインで乾杯をし、豊饒な香りを楽しみながら、料理を頂いた。僕は自身の創作について、二、三の話をまとめて行い、彼は頷いてみせた。
「創作として、僕は何かを成し遂げたことがなかった。若い頃は小説や演劇のシナリオを書きたいと熱心にノートとボールペンを持ったこともあった。サマセット・モームやフィッツジェラルドの姿に憧れていてね。書いていくということで、飯を食ってみたいと思うようになり、それはやがて信念となって僕の過去は重なっていった。大学を卒業して、就職もせずに、オノレ・バルザックのような信念を持って、作家修行をしたものさ。しかし、実を結ぶことはなかった。気持ちだけで書くということはできなかった。才能がそこには、必要だと、誰にだって書けるというものじゃないということを思い知らされたんだよ。そんなことを忘れて、いつしか予備校の講師になって、その気概すら思い起こすこともない忙しい日々を送っていた。そこへ君の『オーヴァードライブ』が目に入った。由美からアドレスを教えて貰ってね。まったく驚いたよ。君には本当の才能がある」
 TVに映っている予備校講師の朽木浩平は、そのイメージを保持して、僕の目の前にいる。彼の言葉には熱気がこもっていた。才能がある、と僕はいろいろな人に言われている。しかし、彼に言われてみると、言葉は性質を失ったかのように、判然としないものとなっていった。彼のセリフに、十全の信頼を抱いてはいない。
 僕のいったいどこに才能があるというのだ?
「僕はたいして才能はないです。朽木さんの思い違いです。頭だってそんなに良くないし、学校の成績は悪くはないけど、おまけに経済学部で、文学とはかけ離れた勉強をしています。趣味として詩を書いているに過ぎません。それにしても、ここのイタリア料理は美味しいですね。ずいぶん、お高いかと思いますが」
「値段のことは気にしなくて良いよ。二次会は会員制のバーを用意している。店員が皆、女の子でね、女優みたいに綺麗な子たちだよ。予備校の講師という仕事は、便利だね。今ではタレントみたいな場所に立っている。コメンテイターもやっているし、金のことで苦労しなくて済むようになった」
 僕たちは宮沢賢治や中原中也の話をして、好きな詩の感想を伝えた。彼らの持っている言葉の選び方は、僕たちにとって憧れの存在でもある。詩というものは、現代では商業化しにくいという事実で、彼は同意した。ひとつには、詩というものの独立性が問題で、もうひとつは詩への需要が少ないと言う点を彼はあげた。
 彼はまっすぐに僕を見て、微笑した。
「ところで、その件なんだ。君さえ良かったら、出版社の人間を紹介しようと考えている。大手の出版社だよ。僕はTVに出るようになって、三冊の本を出した。その本は、自分で言うのも何だが、かなりの売れ行きを示した。本が売れても、僕は作家の魂といったものを持ち合わせてはいない。それは自叙伝や受験勉強の持論と言ったもので、文学的要素は含んでいないからだ。しかし、金がまとまって、手に入った。そして、出版社とのコネクションは残っている」
 僕は彼の視線を少しだけ外した。
「いまどき詩なんてものは売れないですよ。しかも無名の学生が書いた詩。ブログは無料だから、皆見るのです。有料だったら、きっと見向きもされないでしょうね。クオリティーには自信がありますけども、お金を頂くものじゃないし。お話はありがたいのですが、出版は考えていません」
 彼はオマールエビをナイフで丁寧に切り、美味しそうに頬張った。「考えが変わったのなら、連絡して欲しい。僕の勘では、けっこうなセールスになると思う」
 僕はフォアグラのソテーを食べた。重厚な肉汁と、甘い肉が口のなかでほどけ、胃へと入っていった。「ところで、朽木さんは女性関係が派手ですか? それとも地味なほうですか?」
 その言葉は温度を失って、彼の心に届いたようだった。彼の目が鋭くなり、冷たい光が宿っている。僕は少したじろいだ。それは居心地が悪くなる種類の目だった。
「女性関係はあっさりしたものだよ。叩いても、埃は出ない。結婚したばかりで家庭は円満、妻は妊娠三ヶ月、結婚式は来月といったものだ。妻以外の女の子には、興味がない。これから行く会員制のバーには、確かにかわいい女の子がいる。かと言って、僕は口説くことをしない。僕が求めれば、いろいろな女の子を手にすることができるかもしれない。しかし、僕はそういったものを求めてはいない」
 ワインを飲み、彼の言葉を整理する。だとしたら、いったいどういう気持ちで由美とのデートを提案したのだろうか。僕は言葉としてそれを切り出すことができない。
 デザートにティラミスが出てきて、僕たちは美味しくそれを食べた。時刻は九時を回っていて、僕は少し酔っていた。終電まではまだ時間があったので、僕は彼の提案した会員制のバーに足を運んだ。そこで働いている女性の、まるでTV世界のような美しさを持っていることにある種の感動を覚えた。それは向こう側ではなく、こちら側に存在していた。キープしてあるボトル、ブランデーのカミュが出てきて、カウンター越しに女の子と話ができる。僕はカミュをロックで飲み、彼は水割りにした。
 諸君はこの颯爽たる未来圏から吹いて来る、と僕は言った。
「透明な清潔な風を感じないのか」彼は笑って宮沢賢治の詩を続けた。「君と僕は、文学的親友だ。今日という日を持って、僕たちは親友になる。悪くはないだろう? こういった店をたくさん知っているし、費用はすべて僕持ちだ。ファッショナブルで親切な交際を始めようじゃないか」
 茜ですよろしくお願いします、と彼女は言った。きらびやかで、美しい女の子だ。年齢は二十歳だった。僕と同じだ。二十歳と耳に入って、彼女の顔を見る。大人びた印象を受ける。
 彼女はプラチナのイアリングをしていて、ティファニーのスタンダードなネックレスをアクセントにファッションをしていた。短いスカート、シックなブラウス。綺麗だった。
 僕は彼女に簡単な自己紹介をして、そこでふっつりと話は途絶えたので、朽木浩平へ顔を向けた。
「でも、由美とはデートをするのですね。結婚しているのに、そのことは誠実とは言えませんよね」
 彼はその言葉に反応せず、茜と会話をした。あるいは酔っていて、聞こえなかったのかもしれない。僕はカミュの入っているグラスを傾け、二口飲んだ。上品な味わいがあった。
 彼女とは初対面ではないらしくて、話は弾んでいた。僕はその会話が終わることを待った。
 茜が僕の顔を見て、にっこりと笑った。
「ここは有名人も時々来るバーなのです。店内の質を保持するために、会員制となっています。誰かの紹介が必要で、誰にだって入れるところじゃないです。湊さんは朽木さんの紹介なので、会員カードを発行したいのですが良いですか? そのカードがあれば、今後自由にこのお店を出入りすることができます」
「湊君にボトルキープをしてあげて欲しい、そうだな、レミーマルタンのVSOPぐらいが良いだろうね。できるかい?」
 畏まりました、レミーマルタンのVSOPですね。用意しますので少々お待ちください、と彼女は言った。
 後ろの酒棚から、彼女はレミーマルタンを取り出して、ネームプレートに僕の名前をブルーのペンで記入した。ローマ字で書いてある。丸みのあるかわいらしい文字だった。「ボトルキープを飲むことによって、お酒を楽しめます。チャージは頂いておりません。最も他のお酒にはお金がかかってしまいますが。ここの料金は高いので、出来るだけボトルで飲むことをお勧めしますね。時間に制約はないので、一杯のグラスで二時間だろうが三時間だろうが居ても良いですよ。女の子にお酒を奢ることもできますが、必ずしもそうしないといけないわけではないです」
「来たいときに、いつでも来るがいいよ。時には女の子と飲む酒だって必要になるときもあるだろうね。茜以外の女の子も綺麗だし、話し上手だ。洗練された都会の夜がここにはある。会員制だから、過ごす時間はしっとりとしたものだよ。独りで入ったって、十分楽しむことができる。素晴らしい詩を見せて貰ったことに対する、ささやかなお礼だね」
 僕は早速レミーマルタンのVSOPをロックで飲み、酔いを回していった。こんなに飲んだのは久しぶりだったので、酔いが体を支配していく快感と、歪な気持ち悪さが次第にぐるぐるとする。神経が暗い方向に回り始めた。
 目をぱちぱちさせて、朽木浩平の顔を見つめた。茜は口を結び、じっと僕の様子を眺めている。
 朽木が口を開く。彼のグラスは空だった。
「金は手にする方法を間違えると、使い方まで間違ってしまう。政治家のスキャンダルなどその最たるものだ。現実問題としてこの世のたいていのものは、金で買うことができる。しかし、いったん金を失ってしまうと、そういったものは雲散霧消し、かけらも残さない。女の子やマンションや高級外車とかね、本当に何も残らないんだ。このことは覚えておくと良いね。僕は何人もそういった事態になることを眺めてきた。他人事じゃなかった。洪水のように貧しさは押し寄せてきて、あっという間に濁流に叩き込み、根こそぎ大事なものが失われていく。ただし、金を使うというのは楽なことであり、金を使わないで何かをするということは難しいことだ。難しいことを選択する、そういった価値観もある。湊君も大人になって、生活してみれば、僕の言わんとしていることが分かるだろうね」
 気が付くと意識が朦朧とし始めていて、体がずっと熱かった。これ以上、酒を飲むことはできないなと僕は思った。茜が心配そうな表情を浮かべて、僕を見つめている。朽木浩平は、白い歯を輝かせて、茜に話を始めていた。そこで僕の意識が点滅信号のように感覚を引きずったままゆっくりと途切れていった。気が付くと、銀座のシティーホテルのベッドルームで、起きたのは朝の七時だった。僕はそこに至るまでの記憶がなかった。チェックインは彼が行ったのだ。
ベッドのヘッドデスクには小さなメモに、書置きが残っていた。
 会計はすべて済ませている。楽しい一日をありがとう。また飲みに行けたらと思う。きっと僕たちは良い友達になることだろう。
 僕は重たい頭をもたげて、シャワールームへ行って、シャワーを浴びた。ドライヤーで髪を乾かし、髭剃りで髭を剃った。それから、三階のレストランへ行き、ビュッフェ形式の朝食を取り、パンを食べて、コーヒーを飲み、スクランブルエッグをとった。ベーコンはあっさりしていて、卵は新鮮で地味があり、コーヒーは格調が高かった。レストランには、抽象画がいくつか飾ってあり、花瓶には色とりどりの花が活けてあった。
あとでフロントへ行った時、プレートに掲げてあるそこのシングルルームの料金に驚いた。かなり高いシティーホテルだ。学生には過ぎたものだった。
昨晩からの一連のお金の使い方は学生の僕ではすることのできないものだった。朽木浩平の全体的な印象としては、悪くはなかった。むしろ、好感を持つことができる。しかし、由美とのことがあったので、その印象には少なからずの影が差していた。どの顔がいったい本当の彼のものだろう、と僕は思った。朝の銀座の街で、太陽はその姿を既に見せ、力強い光を放っている。僕はフロントで駅の方角を訊き、歩いていった。たくさんの人が、それぞれの方角へ向かって、歩みを始めていた。
新しい詩の着想が、その街にはあった。新しいものへの感触が久しぶりに手に残り、僕はバッグにしまってあったノートを取り出して、電車のなかで座りながら言葉を字に変えていった。

『オーヴァードライブ』第七話

由美に朽木浩平と会った時の話をした。なるほど、好感が持てる男性で、きっと由美とのデートも悪いようにはしないだろう、と話をした。
「デートの話ならもう決まりました。ディズニーシーへ連れて行ってくれるそうです」
 僕はその話を聞いて安心した。「ディズニーシーは行ったことがないな。ディズニーランドならあるけど」
 遠足みたいなものですよ、と彼女は言った。「湊さんとのデートが、予行演習として役に立つかもしれません。今度の日曜日だから、また事後報告をしますね」
 そこで電話が切れて、僕は携帯をカーペットの上に置いた。銀座の夜を通して、僕は都会的な詩をいくつか書き、ノートにそれをストックした。そのストックを並べてみては、あの夜に経験した何もかもが、冷たい現実のように思えてきた。彼は向こう側にいて、僕はこちら側にいる。その壁には、遠いものがあって、掴むことのできないものがあり、年齢によって分け隔てられているものがあった。あまりにも遠い彼の世界から、レミーマルタンのVSOPのボトルが、その世界との結び目となっている。僕はあのバーの会員証を摘み上げ、眺めた。英語で店名が書いてあり、裏面は真っ白だった。
僕はレトロ・フューチャーのアルバムをCDラックから取り出して、デッキに入れて、彼らの音楽を聴いた。『冷たい夜に』や『流刑地にて』を聴いて、僕は静かに安堵した。この世界も、やがてあの世界に繋がっているのだ。
成功者としての世界を僕は思浮かべる。
きらびやかで、瀟洒なレストラン、とびきり綺麗な女の子がいる会員制のバー、システマティックな資本を投下した高級シティーホテル、向こう側のTVの世界に至るまで。
 僕もやがてその世界に入っていくことになるのかもしれない。そこで、上手い具合にやっていくことができるだろうか。僕は『オーヴァードライブ』の過去作品を眺め、そこに刻まれている、既に過ぎ去ってしまった感情や感覚を眺めた。そうなってしまったら、きっと詩編を書くことができなくなってしまうだろうな。もしくは、価値のないものしか詩が出て来なくなるのかもしれない。

『オーヴァードライブ』第八話

カラオケショップではベックの『ルーサー』が流れている。池田君はステップを踏み、上機嫌でその歌を歌っている。夜の七時だと言うのに、一組の客もいなかった。僕たちは賄として、同じく税金対策でやっている小料理屋の鳥南蛮定食を食べて、店に置いてあるペプシコーラを飲み、椅子に座って歓談する。


 今日も、池田君と二人で店番だ。ベックの次はニルヴァーナで『インブルーム』が流れ、その曲も池田君のレンジだったので、彼はにこやかな表情を浮かべていた。


 こんな素晴らしいバイトは初めてだよ。客は来ないし、売り上げは気にしなくて良い、小料理屋から賄が出て、椅子に座ってテレビを勤務中に観ることができる。僕は湊という人間に敬意を払う、ありがとうとメッセージを送る。彼は笑った。


 店長は胃を悪くして、しばらくのあいだ休暇を取っていた。最も彼がいたところで、客が増えるわけでもなく、大して違いはなかった。


「レトロ・フューチャーのメジャーデビューの時期はいつか決まっているのですか?」と僕は質問した。


「夏じゃなくて秋だろうな。ジェイが言っていた、それに向けて契約を取りまとめている最中だってね。君にも新しい詩を書いて欲しい。『流刑地にて』のような歌詞。本当に、あの歌詞は、現代世界を暗示していて良いものだったよ。ファンのなかでも、好評だし」


 僕はオレンジジュースをコップに入れて、少し飲み、彼の顔を見つめた。


「フランツ・カフカの短編『流刑地にて』には、奇妙な機械が登場します。その機械は、描写だけではいったいどのような拷問殺人機械か分からず、囚人は判決も罪状も知らされず、その処罰を受けます。暗い作品です。その話に流れているのは、現代システムです。現代は、その機械のような側面を持っています。部分としてクローズアップ、全体としてはミステリーのまま、物語は進行していきます。そこに描かれている恐怖を詩的なものとして、言葉に落とし込み、順列を作って歌詞にしました」


 池田君は目を細めて、僕の言葉を聞いた。「その経緯みたいなものを僕は理解することができない。文学的な土台がない。フランツ・カフカのことも知らないよ。ただ、音楽として君の力はレトロ・フューチャーにとって必要だと言うことは確かだ。君が文学を使って作ったその歌詞にロックの魂を吹き込んでいくのは、僕たちの役目だ」


 テレビはバラエティー番組を映し出している。時計が八時にさしかかったところで、客が来た。四人組の女の子で、そのなかに由美がいた。


「こんにちは、湊さん、池田さん」


 由美ちゃんじゃないか、と池田君は椅子から立ち上がった。「どうしたの? 今日はいったい?」


「渋谷でお洋服の買い物を四人でしていて、その帰りです。店の場所は携帯のインターネットで調べて、遊びに来ました」


「ビップルームを用意するから、遊んで行ってよ。おつまみの盛り合わせもサービスするね。チョコレートと柿ピー、するめいかにポテトチップスの組み合わせ。今日は暇だし、僕もカラオケに参加するよ。ジェイほどではないけど、僕だって綺麗な声をしているんだ。新しい客が来たら、湊ひとりで対応してくれよ、じゃ、頼んだよ」


 名前と住所を由美は記入し、三階のビップルームへ池田君が案内した。ビップルームは十人以上の団体客が使うところだった。音響機材も違うし、ゆったりとすることができる。池田君は下りて来なかった。僕はおつまみの盛り合わせを作って、ソフトドリンクとともにビップルームへ持っていった。池田君はエアロスミスの『ウォークディスウェイ』を歌っていた。ステップを踏み、シャウトを交えたその声はジェイと違った魅力があった。池田君はすらりとしていて、容姿が良かったし、彼女たちは夢中だった。僕はドリンクを置き終ると、ビップルームを出て、フロントの椅子に座りTVを見た。ゴールデンタイムのバラエティー番組は、どのチャンネルを回してもまずまず面白いものだった。


 客は来ず、僕は暇をもてあまし、タブレットをいじっていた。インターネットをし、いくつかのブログを見て、動画サイトをチェックし、面白い動画がアップされていないか検索した。ふと思い立って、検索窓に『朽木浩平』と入力して、タッチした。


 そこには無数のヒットがあり、彼の略歴やホームページまでウィキペディアに出てきた。埼玉の高校を出て、東京大学の文学部に入学し、卒業。谷崎潤一郎の研究をしていて、二年間のフリーター生活のあとで品川の予備校へ講師として就職。分かりやすい文章の読解メソッドとカリスマ性で多くの受験生から絶大な支持を得る。著書として『一生を賭けて』という自叙伝と、他には二冊の受験のためのノウハウ本がある。また、彼のオフィシャルホームページは、タレント活動を中心にアップしていて、僕はそこで彼のTVの向こう側での人物を知る。


 巨大掲示板には、彼のスレッドがあり、有効な情報や出どころのない噂、非情な中傷がそこに書きこまれている。六本木のバーで彼を見たというものや、銀座の街を歩いているところに遭遇したというものまで。朽木浩平は、自分の予備校の女生徒に何人も手を出している、と書いてある。


 あくまでも無記名の投稿スレッドで、その情報に信憑性は存在しない。いったいどこ誰が投稿したのかも分からない。インターネットを通して彼を知ったつもりが、色々な情報があり過ぎて、却って分からなくなっていた。僕は由美のことが心配になった。時計は九時を少し回っている。僕はビップルームにコールをして、由美をフロントに呼び出す。話したいことがあるんだ、と僕は言った。由美は分かりましたと言って、一階のフロントまで下りてきた。


 歌い疲れたという様子もなく、楽しい時間を過ごす由美。フロントのカウンター越しに、彼女は僕を見つめ、言った。「話っていったい何のことですか?」


 僕は静かにその言葉を切り出す。「朽木浩平から手を引いたほうが良い。彼の人となりは知ったつもりだし、ある種の魅力を備えた男性だということも分かった。しかし、君の恋はどこへも辿りつかない種類のものだ。ゴールのない、スタートなど存在しない。実りのない愛などどこへ向かってもいかないよ」


 その言葉の節々が、彼女の心に下りていったようだった。時間は鋭利に、カラオケボックスの僕たち二人のあいだを過ぎ去っていった。


 少し、考えさせてくださいと彼女は言った。


 僕はそれ以上何も言わなかった。彼女はビップルームへ戻り、僕はスタッフルームでペプシコーラを飲み、黙って煙草を吸った。有線の店内音楽はマドンナの『レイオブライト』が流れていた。


 池田君がフロントに戻って来て、笑顔を見せる。しばらくすると、彼女たちは姿を見せ、会計を済ませ岐路につく。時計はちょうど二十二時辺りだった。池田君は、自分の煙草を一本吸って、僕に言った「今日は当たりだ。大当たり。綺麗な女の子がやって来て、一緒に歌った。ツイているね、まったくもって」


 仕事してくださいよ、僕は愚痴を言った。池田君は微かに笑った。

『オーヴァードライブ』第九話

その二日後に、湊さんにもデートを付き合って欲しいというメールが来た。僕はそのメールに、とりとめのにない安心を覚えた。理由はどうあっても、結婚している男性とふたりでどこかへ行くというのは、正しいことではないのだ。僕は由美に携帯でメールをして、一息ついた。共通の友人として、僕の名前があがったのだろう。行先はディズニーシーではなく、奥多摩の湖畔だった。車を回すから、僕は最寄りの駅の改札で待っているようにお願いしますと返信のメールに書いてあった。

 当日にトヨタのアルフォードに乗って、僕たち三人は奥多摩の湖畔公園に向かった。三人でのデートという申し出は、由美のほうから言い出したものらしかった。彼の返事はオッケーというもので、僕も混ぜて自然を体験しに行こうというコンセプトに繋がり、アルフォードに乗っている。彼はスピードを出し、風景を後ろ側に追いやって、言葉は少ないというものだった。おかしな様子も無く、静かな大人がそこにはいた。音楽はステレオフォニックスのものがいくつかかかっている。ステレオフォニックスのアルバムが終わってしまうと、彼はカプセルの『ストリー・スカイ』をセレクトし、その斬新な音楽が車内に満ちて、一種の親和性がそこに生じている。
「僕がお邪魔することになって、申し訳ありません。せっかく、二人のデートだったというのに」
 彼はフロントガラスの向こう側を見つめ、言った。「僕の方はこれで良かったと思っている。二人でデートすることも悪くはない、しかし、僕は君との親交を深めることがしたかった。新しく出来た詩編について、僕は読んだよ。今までと違って、都会的な喧騒がそこの言葉に満ちていた。あの時出会った、都会の包括的な表層が、そっと表現されている。僕は抱いた感想を、口頭で伝えたかったし、君ともう一度会って話がしたかった。由美の気持ちはずっと昔から気づいていよ。どういったところへいても、その気持ちは嬉しいものだね」
 車内の曲はカプセルの『シュガーレス・ガール』に移り、トンネルをいくつか通って、車は山間に辿り着いている。密集した木々がそこにあり、鮮やかな緑が目に映っている。
 三月の日曜日の、晴れた午前。日差しは強く、無形の何かを主張している。朽木浩平は、僕が考えていた以上に、大人でしっかりとした考え方を持っている人間だった。彼に比べたら、僕や由美といった人間は、世間知らずでやわな存在だった。由美が好きになるのも、無理はないな、と僕は思った。彼は社会で成功していて、その成功はいろいろなかたちで、僕たちの目の前で表出されている。トヨタのアルフォードとして、銀座のきらびやかで瀟洒な店として、システマティックな高級シティーホテルとして。他にも女の子をとりこにするレパートリーがたくさんあるのだろう。僕はアイスコーヒーを飲み、煙草を一本取り出して吸った。
 奥多摩の湖畔公園には、多くの人がいて、彼らは思い思いに、その時間を過ごそうとしていた。テントの材料を持っている者もいれば、釣り道具を片手に笑い合っている家族連れもいる。車を駐車場に停めて、僕たちはレストランに足を運ぶ。湖で採ることのできる川魚の料理を楽しみ、僕たちは湖畔へと足を向ける。由美はじっとしていて、とても静かだった。
 湖畔では水が太陽の光を様々なかたちで反射していて、葦や水草にはっきりとした影を作り出していた。
「『エディンバラ・レビュー』によって、ワーズワースを始めとする湖水詩人の作品は掲載されて、世の中から待望と批判を受けることになった。湖畔の美しさは、人生を映し出す鏡として、彼らの創作の片側に常にあった。時期は少しずれるが、フランスでは印象画のブームが始まり、マネやモネによって、その潮流が形づくされていった。時代によって、阻まれて、時代によって出来上がる表現というものが存在する。ワーズワースや他の湖水詩人がもし現代を生きていたら、彼らはいったい何を表現するだろう、とね、僕は時々考えてしまう。現代と融合した湖水詩人たち。そして、マネやモネの瞳に映る、この高度情報化社会の写実性について」
「理解を超えたものとなっていくのか、あるいは僕たちの理解の範囲内に収まって、その表現は成されていくのでしょうか」僕はそう言った。
「理解の総体として、そこには人々の思惑を超えた何かが生じるのかもしれない。最も、ワーズワースや印象派の画家の時代はずいぶん前に過ぎ去ってしまった。仮定は今以上の効力を発揮せず、色のついていない親和性のある想像として、僕たちの頭にその姿を現す」
 由美は彼の言葉を砕いて、頭のなかで何かにしているようだった。現代には、現代の芸術家がいて、彼らは疾走している。レトロ・フューチャーだって、その芸術家のなかのひとつだった。彼らの作品には、その時代の色と情熱があり、魂があった。
 世間の一部分はレトロ・フューチャーのことを認めている。
「朽木先生、あの、結婚生活って楽しいですか? 私は先生のことが好きで、結婚生活の出来事について聞くのは、あるいは胸が痛むのかもしれないと思っていましたが、良かったら聞いてみたいです」彼女は視線を落として、また口を結んでしまった。由美は彼の言葉を待った。彼の返事は、月並みなもので、その言葉にはある種の安心が存在していた。そこには波乱も無く、予期せざるものもなかった。
 彼女は頷いて、その言葉を耳に入れていった。遠くの方で、鳥が鳴く声。しっとりとした水を含んでいる、僕たちを取り巻いている空気と環境。自然の優美さがあった。
 湖畔で僕たちはマスを釣り、その時間を楽しんだ。レンタルの釣竿で、エサにはいくらの卵。水面の影を狙って、僕は仕掛けを投じ、三匹のマスを釣りあげることができた。由美は釣ることができず、朽木浩平は五匹釣ることができた。気が付くと夕方になっていた。太陽は力強かった光を少しずつ減らしていき、湖畔の光景に人々の波は反復力を失わせていった。
 釣り上げたマスたちは、キャンピングサイトの近くででスタッフに調理して貰い、塩焼きにして胃の中に放り込んだ。夕闇が、次第に忍び寄ってきた。姿が消えてしまった人々のあとには、温もりを失ってしまった言葉が存在し、静けさとなって僕の目の前に映っていた。食べ終わって、僕と朽木浩平は喫煙スペースで、煙草を吸った。
 由美は言った。「私はこの気持ちにけじめをつけるということをしなくてはいけないです。思春期にあたって、それは誰もが経験するというものかもしれない、辛くて泣いてしまうことだってあります。そういった夜に、どうやって心を向けていっていいのか分かりません。気持ちをごまかす、このことは何度も行ってきました。先生が結婚してしまって、その事実はひとつの楔のように、私の心を石みたいに変化させていった」
 彼女はうっすらと涙を浮かべ、それ以上言葉を紡ぐことにちからを失わせてしまっていた。
「僕には代弁することができない、君は自身の詩を書くべきだろうね。小説だって構わないし、何かを表現することだ。例え、その結果、何を生み出すことがなくても、いつか有意義なものとして、この経験がかたちを変えるということになるのかもしれない」僕はそう言って、彼女の震える肩を持った。
 朽木浩平は目を閉じ、何も言わなかった。煙草の煙が、湖畔の景色に混ざり合って、白い靄が勢いを失って、周囲に留まっては消えていく。
「僕もまた、とても多くのものを失ってきた。会員制のバーや、高級住宅街や高価なシアターセットを通り抜けて、僕はたいして何も手にしていないことに気付く。仕事は順調だし、車もあるし、結婚したばかりで世間的には愛もある。他人からすれば素晴らしい人生だと思えてくるだろうね。素晴らしい、朽木の人生は一点の曇りだってないってね。実際にはそうじゃないというのに」
 彼は左手の拳を握り、その力を空中で振り回した。左目は閉ざされていて、右目は由美の顔を見ている。宙を切った拳は、彼のポケットに戻って、存在感を増している。
「時々、くだらないと思う。色々なものが、ゴミみたいに思って、存在の確かさを失わせていく。TVにはもう出たくないと思っているけども、TVは僕の方へ出演を要請し、事務所はその申し出を受け、僕の姿は電波に乗って、人々に届く。TVではある種のキャラクターを作り、その残像を公共電波に込めて、仕事をする。結婚生活だって、他人が想っているようには、楽しいものじゃないよ。その生活によって、僕の神経はすり減らされることもある。妻は、僕へ無償の愛を与えてはくれない。彼女は僕に付随している何もかもを愛している。様式としてはそうなっている。でも、本当に愛しているかなんてことは分からない。そうじゃないのかもしれない」
 朽木浩平の目は、光を失っていた。生気というものが無く、そこには透き通ったリアリティーがあった。現実として機能しているふたつの瞳。冷たいものとなって、僕や由美の場所に届いている。
「本当のことを言うよ。彼女とのあいだに、愛などはなかった。愛は、今も存在しない。少なくとも僕の心に、彼女への愛は欠けている。僕はその未来に、自分自身を投げ打っていく。言葉には表現することのできない、感情を伴ってね。幸福じゃないし、見かけほどタフでもない。僕は本当に寂しい人間だよ」

 湖畔の出来事があってから、一ヶ月の時間が過ぎた。大学生としての新しい学期が始まり、由美もその生活をスタートさせていた。四月の入学シーズンには、音楽同好会の勧誘活動があった。ちらしに僕たちのスローガンとコンセプトを刷り、見知らぬ新入生たちに手渡していった。反応はあって、何十人かの新入生が集まって、僕たちは彼らをもてなし、勧誘した。
 そのちらしには、僕があるロックバンドの歌詞作りを担当しているということも書いてあった。しかし、それはサークルの一環として作っているわけではなく、あくまで個人的な行為だった。
 八人の新入生が入部を希望し、僕たちはその申し出を受けた。その人たちのなかに、久美子はいた。彼女は社会学部の二年生だった。バスケットサークルに入っていたが、飲み会ばかりでどうにも合わないので、辞めて、新しい出会いを求めたと彼女は言っていた。
 久美子とは話が合って、僕は二人だけで楽しい時間を過ごすことになった。彼女は十九歳で、うっすらとした笑顔がチャーミングだった。彼女はレトロ・フィーチャーのことや僕のブログ『オーヴァードライブ』のことをきっちりと知っていた。
 ある日のサークル飲み会の帰りだった。僕たちはそのアルコールの余韻を引きずりながら、彼女の住まいである渋谷へ二人で移動した。二人きりで、あとの部員はいない。彼女の住まいはキッチン付きのワンルームマンションで、ささやかなものだった。部屋には一体型のNECのデスクトップパソコンがあり、オーディオはソニーのものだった。彼女はオレンジジュースを飲み、僕はワインクーラーを飲んだ。オーディオは、スミスの音楽が流されていて、彼らの陰影のある音楽が渋谷の片隅を彩った。
「今度は、湊さんが働いているカラオケショップに行きたいです。湊さんのシフトが入っていない、休みの時に。そして、レトロ・フィーチャーのベーシストが入っている時に。湊さんと二人でデートを重ねていきたいと私は思っています」
 テーブルの上には、小さなミルクチョコレートがいくつかあった。ラップをほどいて、僕はミルクチョコレートを口に入れて、彼女に良い返事をした。彼女は喜んでいた。スミスの音楽から、シフトチェンジして華原朋美の古いアルバムが部屋を流れていた。
「レパートリーが広いね。UKロックから、日本のポップアルバムに至るまで」
「私は何をするにしろ、境界線を持たないことにしています。良いと思ったものを、掘り下げていく。方向性が違ったとしても、私は意に介さないです。華原朋美とスミスでは、ずいぶん違いますよね。私は珍しい人間かもしれない」
 僕は由美の姿を掠め、思い出す。彼女が慈しんでいた、恋のかけらを手にして、そこに宿っている鼓動を懐かしむように見つめる。
 その気持ちは、いったい今どうしているのだろう、と僕は思った。
 オレンジジュースと割っただけのワインクーラーを飲み、僕は久美子の表情の細かい部分を眺める。その空間は、まるで静謐だった。華原朋美の歌が、静けさにある種の存在感を持って、慄然と僕たちの内側にあった。
「『オーヴァードライブ』という詩は書かないのですか? 素敵なタイトルなのに、まるで実体を伴っていない。リンクを見ても、存在しない。湊さんの詩のなかに、『オーヴァードライブ』というものはないですよね」
 僕は頷いた、「それを書き出すことは、僕にとってまだ早いというものだと思う。僕が『オーヴァードライブ』という詩を書くことができたのなら、それはもっと僕の位相を違ったものにしないといけない。年を重ねるというものかもしれないし、仕事をするということや愛を育むということが足りていない。かと言って、近々書き出すことになるかもしれないよ。その時期が、いつやって来るかは僕に分からない」
 シンクロニシティー、ぽつりと彼女は言って、笑った。共時性、と僕はその単語に翻訳をし、笑顔を見せた。詩は様々な出来事を包括し、中心として僕の生活に命を生み出していた。
 『オーヴァードライブ』がそこにはまだ生じていなかった。その単語が持っている、ある種のちからを僕は想い、まだヴィジョンがやって来ないことを確認する。
 久美子は僕の手を握り、僕を見つめる。僕たちは淡いキスをした。まるで何かのしるしみたいに、その口づけは軽やかで、甘かった。
 時刻は十時半を少し回っていた。僕は久美子の部屋から出て、しばらく歩いた。やがて込み入って来る渋谷の街の一部になって、僕は歩み、喧噪のなかで呼吸をする。色とりどりの街の一部には、朽木浩平と由美の姿があった。その姿は、すぐに建物のなかに消え去ってしまう種類のもので、僕は自分の目をごしごしとこすった。由美は薄手のハーフコートを着ていて、朽木浩平はチェックの長袖シャツだった。
 まるで幻みたいに彼らの姿は、そこから消えていったのだ。
 僕は肺の空気を入れ替えて、彼らが消えていった建物を見つめた。そこは街中にある、富裕層向けのシティーホテルだった。そのシチュエーションに、僕は少なからずショックを受けた。由美や、朽木浩平を問いただすべきだろうか。僕はぼんやりとした頭をもたげて、やがて振った。「今夜、僕は何も見なかったということにした方が良いだろうな」と僕はつぶやく。遠目にそのホテルの内装や様子を見つめる。
 シティーホテルのロビーは広々としたもので、フロントの奥には写実画が飾ってある。回転式のドアは、静かな記号のように、その存在感を立体的なものにしている。僕は家に帰らずに、銀座の会員制バーへ入った。瀟洒なシャンデリアと、綺麗な女の子がいる空間。学生の僕には、とても手が出ないもの。
 ボトルキープしてあるレミーマルタンのVSOPを注文し、僕は席に着く。時刻は十一時半で、真夜中の時間はまだたっぷりとあった。煩わしい携帯電話のスイッチをオフにして、僕は目の前に立っている女の子に意識を集中した。レミーマルタンのボトル代金は二万五千円だった。朽木浩平が手にしている世界は、多くの人たちに認められたものなのだ。需要があり、そこには無数の人が呼吸をしている。
 彼は別の世界の住人だ、と僕は思った。
「お客様、ずいぶん若いですね。私の名前は由香里です。年齢は二十五歳で、文学部の出身です。夜の世界に住みついて、一年になります」
 僕は自分の名前を名乗って、レミーマルタンを少し飲んだ。
「私もご一緒して良いですか?」彼女は微笑した。女の子のドリンクは一杯三千円だった。その値段が高いのか、果たして安いのか僕には分からなかった。銀座の夜の店としては良心的なものだろうな。僕は同意した。その程度のお金なら、持っている。
 心はいつの間にか、落ち着きを取り戻していた。自己紹介として、ある大学の経済学に通っているということと、詩や作詞を行っていて、朽木浩平の知り合いということを告げる。朽木浩平さんはたまにこのバーに来ます、と言っても私は直接話をしたことがありませんけどね。TVにも映っているし、彼の生き方には勢いというものがありますよね。「予備校講師はやりがいのある仕事でしょうね。まるで、ショーウィンドウの向こう側の人間のようです。ここには時々、そういった男性がやって来ます。若手の政治家や美容院の運営者、音楽関係者に至るまで。彼ら成功者は、この空間に安らぎを求めているのかもしれません。銀座という街は、そこに人々の欲望があります。有形無形の欲望は、様々な色と溶け合って、具象されていく。本物の夢とは違って、そこに痛みを伴うものは少ないです。痛みが生じない夢を、人は買っていきます。お金で買うことのできる、健全な現実です。銀座の街は、その欲望を満たすことのできるものです」
 僕は彼女の言葉を最後まで聞き、その言葉が意図するものについて想いを巡らす。痛みが生じない夢、と僕はその単語を繰り返す。彼女はにっこりと笑う。グラスを傾け、次の言葉が生み出す前の時間を僕たちは過ごす。その時間はうっとりとするぐらい優しさが巡り、店内のクラシカルな音楽とともに存在する。
 とりとめの無い話をする。指し示すこともなければ、意味を成すものでもない。しかし、僕にはその時間に親しみを感じた。
 ささやかで親密な時間がそこにはあった。
時刻は二時を回ったところで、僕は話を切り上げた。由香里の飲み代、二杯分の六千円を払って、僕はその店を出た。無数のネオンが飛び交っている銀座の片隅にあるファミリーレストランに身を寄せた。携帯の電源を入れて、立ち上がって来るのを待った。由美からのメッセージも、朽木浩平からのメールや電話もそこにはなかった。ファミリーレストランには、時間を持て余した人もいて、正しい座り方をしている。その人々には、存在感があり、そこで過ごしている時間が僕と異質なものだと思った。
 ドリンクバーのアイスコーヒーを飲み、ノートを広げて、詩作をする。三十分経っても、それが一時間を経ても、僕にはひとつの言葉すら浮かび上がってはこない。真夜中の時間はうず高く積もり上がっていて、その重みは匿名性を持って、僕のテーブルのノートにのしかかっている。
 僕はノートを閉じ、固いテーブルに顔を伏せて、目を閉じる。何かが、僕の背中にのしかかっているような感触があった。しかし、その何かがいったい何であるのか僕には分からなかった。

『オーヴァードライブ』第十話

六月の雨が降っている日曜日に、由美はひとりで僕の住んでいる部屋に来た。湖畔の日以降、僕と由美は会っていなかったし、ずいぶんと間隔があった。そのあいだ、僕は久美子と付き合うことになり、彼女と部屋を行き来していた。詩編にも、モデルとして久美子のことが登場することだってあったし、彼女は僕に良い影響を与えていた。サークルのメンバーはこのことを知っていたし、彼らは僕と久美子を祝福した。


「予備校が変わって、私もまた変わったの。朽木先生とは、時々連絡を取っています。彼は私のことを心配してくれるし、温かなまなざしを送ってくれます」


 温かなまなざし、と僕はその言葉を心のなかで繰り返した、ひっそりとした気持ちになった。彼らが、渋谷のホテルに姿を消したことを思い浮かべる。


 朽木浩平からのメールや電話というものは、僕のところにはなかった。時折、TV番組で彼の姿を見ることがあって、僕は注意深くそれを見つめた。テーゼがあって、主張があり、彼の個性があった。彼はどこにでもいるような大人ではなかった。希少性を持っているのだ。だから、TVに映る。


 もっともそのイメージは、人工的に作り出されたものだ。彼だって、僕にそのことを語っていた。イメージと実在では、話が違うのだ。


「彼のことは、もう忘れてしまった方が良いと思うよ。君とは立ち位置が違うし、彼は家庭というものを持っている」


 僕はひとつ呼吸を置いた。「知っているんだ。僕は由美と朽木浩平がホテルへ行ったことを」僕のセリフは鋭さを持って、彼女の耳に入った。


 彼女はそのことについて否定をしなかった。少しばかりの時間が経ち、僕たちの抱いている空気に、無言の圧力が生じ始め、静かな夜に重みが少しずつ加わっていく。


「あなたはいったいどこまで知っていると言うのですか? そのことを簡単に口にする。あなたは私に何か悔恨のようなものを求める。しかし、私たちは間違ってはいないし、正しいことを行っているつもりです。確かに私はまだ朽木先生のことが好きで、愛しています。先生は私の愛を受け止め、確かさを持って私に届けてくれるのです」


 僕は彼女の目を見た。そこには、とめどの無い涙があった。涙は白い頬を伝わって、テーブルの上に落ちて、溜まっていく。その感情の拙さは、奇妙な存在感として僕の瞳に映る。僕は震える彼女の小さな肩を持って、手を添える。


「仕方がないのです。分かっているし、世間の理解を得ることなんてできない。しかし、私には到底止めることのできる種類の感情ではないのです」


 そのセリフは吐き出されてしまうと、冷たいナイフのように僕の心を割いていった。切れ味の良いナイフがもたらしていったものについて僕は考える。鮮やかな傷からは、無形の感情が浮かび上がっていく。言葉が次第に失われていって、止めようのない感触がそこには残る。


 彼女は部屋を出ていってしまう、頬にはまだ幾筋もの涙が残っていて、不安定に揺らされている彼女の心は、マンションの一室に奇妙な存在感を残す。時刻が真夜中の中心点に移動していった時に、幸一から電話があった。由美とまったく連絡が取れなくなって、彼女は夜中の二時現在になっても家に帰って来ない。何か、事情を知らないか? というものだった。


 事情なら朽木浩平が知っているのかもしれない。僕はそう思ったが、彼に言うことができなかった。彼の性格なら、そういったことを知って、いったい何をしでかすか分からない。その行為の結果は、インターネットや電波に乗ってニュースになってしまうのかもしれない。朽木浩平は半ば芸能人みたいなものだからだ。


「僕の方でも、行方を探してみるよ」僕はそう言って、電話を切った。


 一呼吸を置いて、僕は朽木浩平の携帯電話に連絡する。しかし、電源が入っていないため、彼に繋がることはない。


 夜は静けさを持って、マンションの部屋にある。僕は自転車に乗って、深夜営業の店やファミリーレストランを回り、由美の姿がないことを見て回る。朽木浩平の携帯にメールを打って、事情を説明し、彼女の行方を知らないかを書く。

 メールの返事はなく、僕は真夜中の街を探索し、彼女の姿を探す。ちりのように、彼女の不在は積もりを見せて、僕はその夜を冷たく過ごす。 .

『オーヴァードライブ』第十一話

由美は一週間のあいだ、その姿をくらまし、学校を休んでいた。兄である幸一が、いったいどこへ行っていたのかを探ろうとしても彼女は口をつぐみ、話をしない。僕は由美と幸一の家に呼ばれていて、テーブルに座っていた。この日は、日曜日で、両親もいる。父親は暗い表情を浮かべ、母親は気丈に振舞った。
 一週間のうちのいくらかは、朽木浩平の下にいたのかもしれないな、と僕は思った。彼の所持しているマンションに身を潜めていたのだろうか。僕はその可能性について、話をしなかったし、胸に仕舞っておいた。朽木浩平は彼女の中で、乗り越えていかなくてはならない種類の人間だった。
 家族が心配の表情を浮かべ、由美を囲っている。しかし、彼女の表情は変化せず、沈黙が押しなべて並んでいる。
「私のなかでは、その物事はもう終わってしまったのよ。触れることすら、考えることすら、ままらなかったそのモノは、皆に迷惑を掛けない。脈打っていた現実は、大小さまざまな石となって、私の手元にある」
 僕はその言葉の意味するところを考えて、静かにコーヒーをすすった。兄は薄目に、由美の後姿を見つめ、腕組みをした。
「俺は知っているんだぞ」と父親は大きな声で言った。「朽木浩平だろう。あの男が、由美をたぶらかしたんだ」
 彼女の返事はイエスもノーもなかった、そういった範囲に彼女の答えは介在することを拒んだ。それはもう過ぎ去ってしまった種類のもので、現実的な意味を帯びるということすらないのだ。
 彼女はじっとしていた。父親はそう言ってしまうと、肘をついてカレンダーの方向を睨んでいた。
 時間は鏡のように停止し、僕は深呼吸を何度かした。
 由美はその日以降落ち着いている。時々、僕のマンションやカラオケショップに遊びに来る。マンションには彼女の友達を連れて来ることもあった。カラオケショップでは、池田君が混じってカラオケを楽しみ、ビップルームへ招待し、今度は料金すら取らなかった。彼はカラオケショップでやりたい放題だった。
平和で牧歌的な日々がそこにあった。

 秋になって、レトロ・フィーチャーのメジャーデビューの話がまとまると、ジェイがあらためて僕に正式な歌詞担当となって欲しいことを願い出た。傍らには、池田君がいて、彼もいつになく真剣な表情を浮かべている。
 僕はその回答をし、固い雰囲気がほぐれ、僕はバンドの一員となる。ジェイはにこやかな表情だった。
「音楽を通してしか、語ることのできない情景というものは存在する。いつかは失っていくものだとしても、それはいつだって音楽として僕たちの懐にある。愛を歌いたい時だってあるし、とめどない感情の暗がりを表現したいこともある。湊君の歌詞には、何かしら訴えかけるものがある、というのが僕たちの共通見解だよ。この申し出を受けてくれて喜ばしく思うね」とジェイが言った。
 僕たちはビッグになる、それは決まっているものなんだ。池田君は笑う。「ようこそ、レトロ・フィーチャーへ。君が正式に、その一員となることへ僕たちは祝福の心を示す」
 彼の言葉は、しみのように僕の心に浸透していった。
 僕はその場を去って、彼らは残る。僕は電車に乗って、銀座へ向かい、あの会員制バーへ顔を出す。二回目のことで、レミーマルタンのVSOPはまだ残っていた。朽木浩平から連絡というものはなく、彼が残していった時間を見つめ、僕はスツールに座り、きらめく棚のガラス食器が放つ光のひとつひとつを眺めた。僕のテーブルについたのは、朽木浩平と初めてこのバーへ入ったときの店員、茜だった。彼女は二十歳で、銀座の夜が持っているある種の雰囲気を所持した女の子だ。
「朽木さんのお連れさんの」彼女は思いだし、短い言葉で区切った。「今夜は、朽木さんがいないのですね。よろしくお願いします」
「彼とはずいぶん会っていないんです。連絡をするということもしていない。ところが、ここへの会員証とレミーマルタンのボトルはまだ残っています。僕は彼の手にしている世界の端っこにいて、そのおこぼれを楽しんでいる」
「朽木さんも最近は姿を見せていませんね。結婚したということもあるのかもしれないし、もっと違った時間の過ごし方を見つけたのかもしれない。偶然が重なって、静かにこの店で過ごすということ自体が難しくなったのかもしれない。本当のところ、いったいどういった理由があるのか分かりません。しかし、そういった人はこの街には珍しくありません。突然、店に顔を出さなくなる。ここで使っていた時間に、別の何かが彼らの人生にはすり替わっているのでしょうね」
 彼のことならもう良いんだ、と僕は言った。
 プラチナのネックレスが呼吸を持ったかのように、彼女の首元で輝きを放っている。僕はレトロ・フィーチャーのことを話し、正式に作詞をすることになったと言った。茜は、その話に興味を持ち、拍手をした。
「おめでとうございます、大変なのはこれからですね」
「歌詞のタイトルだけは決まっている、それは『オーヴァードライブ』だよ。僕のブログのタイトルでもあって、その単語には深いものがある」
 オーヴァードライブ、と茜はその言葉を繰り返して、笑った。
「ジュディーアンドマリーの古い歌のタイトルと同じですね」
 僕はその言葉に否定をすることはなかった。
レミーマルタンの水割りを飲み、僕は煙草に火を点ける。時間がゆっくりとその過去を立ち上げ始める、ジュディーアンドマリーの『オーヴァードライブ』がもたらしていった過去を。僕は首を横に振る、その過去はもうここにはなくて、収縮し、新しいものが持ち上がっている。鮮やかだったあの情景は、古いものとなって、その残りが遺跡のようにきらめいている。ガラス細工で出来上がった古い遺跡。そこにあるものは、ぴかぴかの遺跡だった。イタリアかどこかの。僕は空想と経験を分別することができなかった。少し酔っているのだ。
 ナッツの盛り合わせを注文し、僕は茜に様々な話をする。大学の経済学の話から、とりとめのない日常、カラオケボックスで有名人が時折姿を現すといったものまで、種々をアルコールに絡めて、話題にあげる。彼女は水商売のプロとしてではなく、ひとりの聴衆として、その話を聞いて、何か別の話をする。
 リラックスした時間がそこにはあった。
 やがて店内は混み始め、人の気配がうようよとするようになった。僕は時計を見て、帰り道につこうとする。茜は笑って、会計をする。僕は黙って、それが終わるのを待つ。僕の後ろ側に、気配がする。僕はその気配の方向に振り向いた、朽木浩平だった。「久しぶりだね、湊君」と彼は笑う。「せっかくだから、飲みに行こうか。これから、朝まで。何、君の付き合える範囲の時間までで良いんだ。途中でタクシーに乗って帰っても良い。僕は今日、暇を持て余していてね。久しぶりにこのバーへ足を運んだところだよ」
 僕にだって話をしたいことがあります、と僕は返事をした。その言葉は、確かなキメを持って、彼の耳に入った。茜は僕たちを見送って、店へ入っていく。朽木浩平はタクシーを捕まえて、「六本木」と行先を言って、うっすらと目を閉じた。ずいぶん飲んでいるらしかった。あるいは、妻以外の女の子と一緒にいたのかもしれないな、と僕は思った。車窓を流れていく、人々やネオンや建物。タクシーからはFMの音楽。タイトルすら知らないその音楽は、真夜中の夜に微かな存在感を放っていた。

『オーヴァードライブ』最終話

僕はこれと言って、取り柄の無い人間だよ、と彼は言った。そこは六本木の外国人バーだった。巨大なスピーカーがあり、大きな音楽がある。イギリスの古いロックアルバムで、セックス・ピストルズの『勝手にしやがれ』が流れていた。外国人たちはその大きな体で、はっきりとした影を作り、英語で何かを語り合っていた。
 それはまたしても僕が足を踏み入れたことのない種類の場所だった。
「手にしたものの確かさは、あることにはある。妻は美しいし、予備校やTVタレントとして生み出すことのできる金はかなり大きなものだ。個人としてのサクセスストーリーは、世間一般の人にとって大きなものだろうね」
「どうして由美に手を出したのですか?」僕は意を決し、その質問をした。彼の目は丸くなり、中性的な瞳には僕の姿が映っている。その瞳は、男性のものでも女性のものでもなかった。中立的な、という言葉が当てはまった。
 青いカクテルを傾け、彼は僕を見つめる。
「もう終わってしまったことだよ。彼女にとってそれは有意義なものではなかったし、僕にとってもその有効性を失っていた。意味を成す種類のものではなくなった。僕は大人で、彼女は女子高生だ。壁は厚く、どうしようもなかった……」
「理由はどうあっても、妻がいる大人の男性が、未成年の女の子に手を出すべきではなかったと思います。なるほど、あなたはその事実を葬ったのかもしれない。週刊誌に掲載されることもなく、彼女の口から真実を語られることもない。うまくいったというところでしょう」
 世間的にはうまくいったのかもしれない、と彼は言った。「例え、そういったことがうまくいかなくても、僕は無理やり終わらせて、後には何も残らないということをする。由美との関係だけじゃない、色々な関係で僕は幸福であった精神にやがて嫌気を差す。スイッチを押せば、その関係は即座に折りたたまれて、手ごろなサイズになる。それはオートマティックでシステマティックなものだよ。とても便利なものだ。そういった手段を持っている。そして、僕は迷わずトラッシュボックスに捨てる。何度となくそういったことを行ってきた。誰にも文句は言われたことがない。僕の女性関係は、夢が無くなってしまった時に終焉を迎える。夢はふいに失われていき、エンジンの停まったラジコンカーのように、その動きが終わる。予期するときと、しないときがある。由美の場合は後者だ。僕はこのピリオドを予期していた」
 セックス・ピストルズの音楽から、クラッシュの『ロンドン・コーリング』に代わり、フロアのスクリーンにはシャネルのファッションビデオが流れている。
 僕は由美のことについて、それ以上何も言わなかった。その物事は綺麗に終わったのだ。オートマティックでシステマティックな機械を通して、静かな出来事としてトラッシュボックスのなかにあった。今さら、掘り返してみても、その事実はどこへ運ぼうともしないだろう。
 スクロールしていく時間の暗がりに、僕は意識を集中した。朽木浩平はひどく酔っていて、セリフは途切れ途切れとなり、油を失ったブリキのようにやがて眠りに落ちた。
 酔っていなかったら、あるいはこの本音を聞くことができなかったのかもしれない。
「彼のお友達なの?」女性の店員は、僕の目を見つめて言った。僕は否定もしなかったし、肯定もしなかった。僕と朽木浩平の関係はいったい何だろう? と僕は思った。時刻は朝の五時。店内の客はまばらで、店員は掃除をしていた。僕は肩を揺すって、朽木浩平を起こす。店内の音楽は、鳴りやみ、そこには取り残されたようにして、僕たち二人の姿がある。
 彼はやがて目を覚ます。アルコールが抜けて、正気を取り戻している。「申し訳ないけど、ここ数時間の記憶が曖昧なんだ。僕がこの店へやって来たというところまでは覚えていて、そこから先はふっつりと糸を断ち切ったみたいな記憶になっている。僕は妙なことを言わなかったかい?」
 僕は首を横に振った、朽木さんはとても熱心に生き方を語っていました。予備校で実践している生き方の信念について。そして、TVの向こう側の世界について。僕はそう言って、嘘を付いた。
 そこには安らかな空気が流れていた。彼は財布を取り出して、そのバーでの精算を済ませ、僕に少しばかりの笑顔を見せる。

 レトロ・フューチャーの新しい曲『オーヴァードライブ』は都内のスタジオで録音され、メイキングビデオが作られた。作詞したのはもちろん僕で、その音楽は素晴らしいものとなった。発売に伴って、その事実は周囲に知られることになった。ブログ『オーヴァードライブ』は、桁違いのアクセス数を見せていった。これまで以上に、閲覧者からのメールやコメントがあり、僕は時間を作ってそのメッセージに返信していった。
忙しくなったという理由で池田君はカラオケショップのアルバイトを辞め、音楽に専念し始めた。長期休暇を取っていた店長の胃はとっくに良くなっていたので、僕は店長とカラオケショップのシフトに入った。彼は赤字に頭を悩ますということはなく、客の来ない合間に、プロ野球を観て、血圧を測り、申し訳程度の煙草を吸った。
カラオケショップでは健全な経営を求められてはいないのだ。経費としてそれが落ちていけばいい、という考え方だった。オーナーの顔は見たことが無く、僕たちのカラオケショップはある意味では肯定の存在だった。
 冬休みに差し掛かった頃のある日、池田君は由美を連れて僕たちのカラオケショップに顔を出した。
「僕らのファンとのデートだよ」と池田君は笑った。由美はセーラー服に身を包み、しとやかな印象を僕に与える。頭を下げて、視線を僕に繋げる。
「付き合っているわけでもないし、疾しいことがあるというわけでもない。ただのプラトニックなデートだよ。こういう日も来るかと思って、僕たちは連絡先を交換していたんだ。僕は勘が良いからね」
 店長は上等な部屋に彼らを誘導し、おつまみの盛り合わせとドリンクを出した。すべて店長のサービスだ。
 池田はうちの店の出世頭だな。レトロ・フューチャーは、街の隅々まで鳴っていて、うちの親戚ですら知っているよ。まだ、中学生なんだけどね、その姪は。サインをせがまれていてね、まったく困った姪だ。
 彼らが部屋に入ってしまうと、カラオケショップはまた静けさを持って、そこにあった。僕は笑って頷き、店長は頭を掻いて、遠い目をした。
「池田は綺麗な年を重ねている、湊だってそうだ。年を取り過ぎているということもないし、その年齢に振り回されるということもない。成長、と人はそのことを言う。予想の範囲内で、君たちは成長している」
 僕はタブレットを取り出して、そこにあった『オーヴァードライブ』というリンクを辿った。その歌詞には現在書くことのできる、最良の言葉が、ありありとした存在感で載っている。レトロ・フューチャーのメジャーデビュー。その始まりは、この曲を持ってスタートする。様々な人の想いを詰めて。
 久美子からメールがあったので、返信する。僕たちの愛は上手にいっている、と僕は思った。新しいものが次から次へとスタートしている。僕が予期したものもあれば、そうじゃないものだってある。
 もう少しだけ車のアクセルを踏みスピードを上げてみよう、あのカーブをうまくこなして、スリリングな気持ちで目的地へ向かうようなスピードに。僕はタブレットをバッグに戻し、微かに届いてくる池田君の美声に耳を傾ける。

『オーヴァードライブ』

『オーヴァードライブ』

ほろにがさが残る恋愛小説です。セックス・ピストルズからウィリアム・ワーズワース、宮沢賢治に至るまで。文体は都会的なものをセレクトして書き出しました。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 『オーヴァードライブ』第一話
  2. 『オーヴァードライブ』第二話
  3. 『オーヴァードライブ』第三話
  4. 『オーヴァードライブ』第四話
  5. 『オーヴァードライブ』第五話
  6. 『オーヴァードライブ』第六話
  7. 『オーヴァードライブ』第七話
  8. 『オーヴァードライブ』第八話
  9. 『オーヴァードライブ』第九話
  10. 『オーヴァードライブ』第十話
  11. 『オーヴァードライブ』第十一話
  12. 『オーヴァードライブ』最終話