桜の樹の物語

桜の樹の物語

桜の蕾の下で

桜の蕾の下で

  ヘシアン・ヴィクセンの独白
  大学一年・四月

 木々がざわめいている。
 夜中から降りつづく花時の雨は、ほころびはじめた桜の蕾と、傘をもたずに路上に立ちつくす僕を冷たく叩く。じっと風上を見つめた。東の空。
 あぁ、そうか。これは必死にこらえるカノジョの涙だ。
 遠い街で独り歯噛みし、年に数回僕に逢うときだけ濡れた頬をさらけるんだ。花時雨のようにときに激しく、春霖のようにときにしとしとと。キズつかないでほしい、泣かないでほしいと心から願う。

 行かなきゃ。

 僕の想いビト。僕と同い歳の女の子。母親が違うほんの数ヶ月だけ年下の妹。
 妹の名はディルサ・ライネージ。ライネージはカノジョの母親の姓だ。その母親はいない。まだ妹が幼いころに死んだ。国家反逆罪で火刑に処された。王国主神の神官だった僕の母親の手で魔女裁判にかけられた。
 僕の母親も十二年前に死んだ。妹の母親と同じように火刑に処された。僕らの血縁は、厳格な祖父と心がコワれた父だけになった。

 きっと妹は泣いている。今日も、昨日も、そして明日も。ダレもその涙に気づいてあげられない。
 僕の少年時代はカノジョと共にあった。いや、カノジョのためにあった。いや、カノジョにしか存在理由を見出せなかった。いくら恋焦がれても手に入れられない存在に。それを嘆く権利も義務もないのは、自分自身が一番理解している。感情がついていかないだけ。
 僕と父と祖父がディルサを見つけただしたのは、僕が六歳のときだった。僕に妹がいることを知ったのもそのとき。母親の葬儀がすんで、初めてのお墓参りの日のことだった。
 そのとき感じたものは、いわゆる孤児の悲壮感ではなく、周囲のヒトたちに愛されて育ったんだろうなという幸福感だった。

 むしろ僕との出逢いが妹の人生を狂わせたのでは。慕っていたおばあちゃんの死。育ての親である薬屋の裏切り。憧れていたカレの変容。教師に疎まれ、同級生にハブられて。妹の心は泣いていた。ダレもその涙に気づいてあげられない。

 行ってはダメだ。

 僕ももうそろそろ妹を解放するべきだ。高校でいろんなヒトたちに出逢えた。妹もいろんなヒトに出逢えた。逢うたびに笑顔が増えてる。強い言葉が発せられる。おばあちゃんへの懺悔のため神殿に通いながら自分に自信をもって生きている。
 変わるべきなのは、僕だ。とりまくすべてから逃げてはならない。
 僕は妹に桜を見出した。儚く咲いて、潔く散って、また蕾をつけて、ヒトビトを優しい気持ちにさせる桜を、カノジョいや、彼女の中に見たんだ。


  ピェシータ・ウェイテラの独白
  高校二年・四月 

 また、この季節がきた。
 桜の花びらがひらひらと舞ってる。出逢いと別れの季節、なんて感傷にひたれるから春は好き。ほんのちょっとの希望と大きな喪失感があたしの心を満たしていく。

 ひらひらひらひら

 あ、ぼやけたピンクの壁があたしの視界を塞いだ。泣いてない。まだ、ひんやりしてる風が瞳に沁みただけ。
 おー、このセリフ、小説に使えそうじゃない? 

 でも、大好きだった先輩は卒業しちゃったから、批評も聞けないんだよね。マイッタな。ちゃんとコクればよかった。
 あたしも高校二年生。さ来年逢いにいきます。なんて強がってみたところで、きっとさ来年どころか来年すらないことはわかってる。先輩はカッコいいから、大学行ったらすぐカノジョができるはずだ。

 大学といえば、キャンパス見学のときに見かけたあの男のヒト、なんで桜の樹を観てたんだろう。しかも、まだ咲いてないツボミなんて観賞しても楽しくないとおもうんだけど。しかも、台風並みに雨風がひどいのに、傘もさしてなかった。
 あたしとおんなじで、失恋でもしたのかな?
 水も滴るいいオトコ。いや、ずぶ濡れで視界不良だったから、いいオトコかどうかは判別できなかったけど、ちょっとドキッとしたな。

 そして、何かを期待してその桜の樹の下に立ってるあたしもイタい娘だな。あれから、一週間で桜が咲いたよ。今度こそ観にくればいいのに。でなければ、先輩に逢えればいいのに。
 あ、オトコのヒト。ん? なんだ、兄か。そういえばこないだも、今日も、兄に呼ばれてわざわざ大学まで来たんだっけ。
 うわ。兄のあんな笑い顔見たことないわ。マジメが顔に貼りついたあの兄に笑顔は似合わない。
 あのオトコはダレだ? 爽やかな笑顔のメガネ男子。
 兄のトモダチ? シャツの裾をズボンから出したことのない兄のトモダチとは思えないんだけど。
 紹介された。うわ、いいオトコ。
 あれれ? 
 このヒトってたしか桜のツボミを観てたヒトじゃない? もしかしてこれって運命ってヤツ? 兄、偉いぞ。いや、きちんと紹介しろよ。
 ちゃうの? あたしを紹介するんじゃないの? あっそ。
 バカ兄。カレのほうがよかったなんて聞くな。もう忘れた。

 散った桜がまた咲きました。


  コーノス・ウェイテラの独白
  大学一年・四月 

 初めてアイツと会ったのは大学の入学式の日のことだ。まだ数回しか来たことのない広いキャンパスで迷っていた俺に、あっちの方から声をかけてきた。満開の桜の下のキャンパス案内板を、何人もの学生たちは眺め去っていく。その中から俺に声をかけたのは偶然だと思っていた。あとから聞いた話では、昔から俺のことを知っていたらしい。

 俺はアイツのことを知っていた。あくまで一方的にだが。この街の大司教を祖父として、首都の王宮に出入りする父を持つエリート。中学のときに首都で学校占拠なんてクーデターを起こして、王国の不正を訴えるなんて大それたことをしでかしたのも鮮明に覚えている。俺もそれに参加していたから。そのときは、権力と金を持ってるからだろうと羨むばかりだった。
 しかし、確かに根回しはある程度してもらったらしいが、計画そのものはアイツとその仲間数人で作成したということも後々知った。

 あの時は手伝ってもらって助かった。ありがとう。

 キャンパスで会ったあの日、アイツはそう言って笑ったんだ。俺はただ、コドモの分際でどこまでできるのか見物してやろうと思っただけだったんだが。いいかげん、神学校の生活に飽き飽きしていたし、この街が王国から独立するという噂もあったから。その辺を確かめたかっただけだったんだが。それなのに、俺のことを覚えていた。驚いた。
 確かに参加動機は不純だったかも知れない。それでも、参加してからは計画を絶対成功させてやろうという強い決意をもった。アイツに強い決意を感じたからだ。

 本当に信頼していた。

 あのときのことを正直に話したら、アイツはそんなことを言って、また笑った。俺には眩しすぎた。嫉妬と羨望に身を引き裂かれる。にも拘らず、自分の黒い思いが膨らむにつれて、アイツと過ごす時間が増えた。
 悔しいが、認める。アイツはいい奴だ。勝負にもならないのは判っている。二人でつるんでいるのを見た学生たちが、俺が引き立て役にしかなってないと後ろ指を差していることも判っている。

 なのに、だ。俺は大きく溜息を洩らして、苦笑した。
 オンナを紹介しろ? 俺にか? オマエよりよっぽどオンナっけのない人生なんだがな。バカだろ、コイツ。でも、このどっか螺子が抜けたところがなかったら、俺は絶対近寄らなかったんだろうな。

 満開の桜は美しいが、そういう弱さを持っているから、やさしくなれる。でも、どこか淋しくなる。


  ルービスの独白
  高校三年・四月

 トモダチにオンナ紹介しろって言われたからって、何故わたしなのさ。いくら後輩だからって、ムチャブリでしょうが。

 学校の授業と神殿の仕事の両立は大変なのよ。しかも受験生だし。

 って断ったら、
 そこをなんとか、俺の顔を立ててくれ。
 なんて土下座をされた。

 いやいやいや…なんで先輩の面目のためにわたしが失恋しなきゃならないのさ。恋愛にも発展してないのに、っていうか、会ってもいないヒトに失恋って単語を使うのもおかしな話だけど。

 そもそも先輩にトモダチ少ないのがいけないんじゃない。ってか、なにより朴念仁の先輩に恋愛相談するオトコとは、なんて見る目がない。トモダチはきちんと選びなよ。

 そして、あのオッサンは桜の下でナニやってんだ? 

 そう。それもヒト付き合いをお断りしたい原因だ。タダでさえヒト見知りなのに、あんなのが家に住みついてるって知られたら…
 ヒトに秘密を知られたときの反応がコワい。絶対ひくから。先輩だって最初めいっぱいひいてたでしょうが。

 世間では、桜の樹の下に死体が埋まってるらしい。
 しかし、ウチの神殿の桜の樹の下には死体が立っている。真昼間から散歩して、畑仕事をしている。自分の切れ端を撒くと、野菜がおいしく育つって、そんなことを言う。やめてみんなにあげられなくなる。新鮮野菜を楽しみにしてる信者さんだっているの。

 おいしいに越したことはないだろうって? それはそうだけど…絶対他のヒトにしゃべらないでよ。

 確実に現実逃避だ。なんで受験生がこんなことに頭を悩ませなければならないのよ。やっぱり断ろう。あたしには分不相応だ。

 今の気持ちを歌え? バカ言うな。っていうか、わたしの気持ちを読むな。顔に出てるから、心を読むまでもない? あぁ、そうですか。って、失礼な。

 …独り遊びが得意になったのはいつからだろうな。少しだけ淋しくなった。
 だったら、会うだけ会ってみたら? 
 そうねぇ…別にトモダチ増やすのもありかなぁ…あっ! やっぱり心読んだでしょ!

 さくらさくら わたしの心を隠しておくれ。

 はい。歌った。竪琴を手に久々に笑った。


  シータス・ミアロートの独白
  大学二年・春

 私はいつの時代も傍観者だ。

 多感な子供時代は王国の存亡をかけて、戦場に出ていく父母や叔母を笑顔で見送り、時折耳に入ってくる噂と自分の空想・予測を加えて分析する毎日だった。

 その後、血縁の呪いに巻き込まれる形で、転生を繰り返す身となった。五十歳の誕生日を迎えると同時に、私は自分の意思とは関係なく輪廻転生を繰り返す。知らない女性を母体として幼年期を過ごし、周囲が私の正体を疑い始める前に、神隠しにでもあったかのように身を隠す。もう何回目だろう。

 不幸にも母体として選ばれてしまった女性とその夫となったヒトが泣き喚き、必死に捜し回る様子を眺めていると、少しだけ胸が痛む。初めて転生したときは、その悲嘆ぶりを見てられなくて、その家に戻った。でも、結局少女期に喧嘩して出て行った。

 二回目は耐えた。三女で生まれたから、愛情が分散したのが、一回目より楽な気分にさせた。三回目には麻痺した。村を上げての大捜索を、高台からぼんやりと眺めていた。三日三晩、そこから動かなかった。それ以降はあまり記憶にない。

 ダレとも関わらないで、次の輪廻転生を待つ五十年。短く感じたときもあった。長くて、早く死にたいと思ったこともあった。

 私の傍には、一桁回数の転生のときから父がいる。父といっても肉体はすでに朽ち果て、私の持ち歩くカリンバと呼ばれる楽器の中に精神と魂が閉じ込められているだけだが。実母、実母と表現すべきなのかは不明ではあるものの、一回目に私を産んだ母は十数回転生したのち、いつの間にか死んでいた。叔母は未だ生き続けている。三十代で彼女の年齢は止まったらしい。

 今は、何回目の大学一年生なのだろう。

 自分でも信じられないのだが、約千年の時を経た今、初めてトモダチができた。叔母に目いっぱい驚かれた。当然だ。これまでヒトと関わらない五十年を繰り返してきたのだ。小学校からほとんど一緒にいる。一組の男女。常に傍観者だった私に変化をもたらしてくれた二人には、ホントに感謝している。

 おかげで、さらに最近またトモダチが増えた。変に生真面目な男とかスウィーツオタクな女とか、武器マニアの女とか、今度は生真面目男の後輩とやらに挨拶でも行こうか。妹を引き込もうか。私には、いや多分あの二人にもない、アタリマエの日常を生きてきたトモダチが好きだ。そんな言い方すると、怒られんだろうな。

 また、桜の季節が訪れ、去っていった。

 しかし、たとえ永遠に私の転生が繰り返すとしても、私はこの時代を忘れないだろう。


  桜の樹の物語
  四月

 この物語の主人公は五人。
 まず、光明神神官ヘスとその友達のシータ。そして、和神神官コナとペシタ。最後に生命神神官ルビ。

 舞台は王国カラトン神大学。宗教都市カラトンは多神教である王国で信仰される全ての神殿が立ち並んでいる。その神官らを育成する場がカラトン神大学である。キャンパスの大聖堂前に学生に対する連絡事項が張り出された掲示板がある。

 その裏から枝葉を繁らす桜の樹が、私だ。

 もう一つの舞台は同カラトン市西部郊外にある生命神テナ神殿。英雄墓地の一角に建立された神殿にも大きな桜の樹がある。

 それも私だ。そして、大学付属高校、市内大通りの桜並木。精霊である私は、個を持たない。故に、あらゆる桜は同一だ。

 その二つの舞台で、彼らは時に笑い、時に泣き、時に怒り、疑い、信じ、頼り、依存され、惑い、お互いの関係をよりよいものにしようと努力を続けていた。

 しかし、時代や環境や社会というものは、一人ひとりのニンゲンの想いや努力を時に無にする。残酷なまでに。ナニかに、ダレかに関わることは傷つくことで、傷つけるものなのだ。

 独り涙を零すニンゲンを見ると、感情が希薄な我々精霊でも、憐れに思うこともある。しかし、どんなに傷ついたとしても、結果悪い思いにとらわれたとしても、私は彼らが愛おしい。そして、羨ましいのだ。怒りに私の幹に拳を叩きつけたとしても、泣きながら何度も何度も殴りつけたとしても、私は愛おしく、羨ましいのだ。

 私には見守ることしかできない。成長、変化、関係性、彼らに関わるヒトビトも含めて。彼らを慰めることも、一緒に笑い泣くことも、怒りを共有することもできない。

 だから、せめて私を見上げ癒されて欲しい。どんなに傷ついても、私は変わらず見守っているから。
 時代も社会もヒトビトも変わっていく。それは真実だ。しかし、私は変わらない。種が長い年月をかけて樹となり、蕾をつけ花を咲かせ、散ってもいずれまた花を咲かせる。それも真実であることを信じて欲しい。

 だから、私は咲き続ける。彼らに変わらぬ真実があることを伝えるため。桜色の永遠を信じて欲しい。

 傷ついた彼らがまた次の一歩踏み出せるように、私は咲き続けるから。

 物語は彼らの出会いから。
 ヘシアン・ヴィクセン、シータス・ミアロート、コーノス・ウェイテラの三人がカラトン神大学一年。ピェシータ・ウェイテラがカラトン市立高校二年。物語の中心となるルービスが同高校三年。
 そこから話を始めよう。

四月

四月

  五人の春の物語
  桜の花の下にて 

  ヘシアン・ヴィクセン
  大学一年・四月

 カラトン市北西部は、近年変わりつつある。
 東に北部工業地帯が広がり、西は英雄墓地に繋がるこの場所に王国最大の大学が設立されたのは五年前のことだ。職業ギルドの高位専門学校や貴族子女の通う女子大は各市にもあるが、スコラと呼ばれる最高学府は首都ロムールとその東部の町の工業大学、南部の農業水産大学の三つしかなかった。
 王侯貴族と金持ちしか入学できないロムール大学は、学歴格差の象徴であり、統一信仰を推し進める急進派の温床と化していた。表向きは王侯貴族以外の市民平等と信仰の自由を謳っていながらだ。

 僕は大学入試の論文問題の導入部にそんなことを書いた。それは、まだ卒業OBの少ないカラトン神大学の存在価値をさし示すきっかけになったとカラトン市に表彰された。
 手前味噌だが、ひそかな自慢だ。

「また、ヘスの妄想癖が始まった。」
 横から、呆れたような溜息が聞こえた。
 慌てて見上げた視界にとびこんでくる淡い桜色に、僕は思わず目を伏せた。
「あ、ごめん、シータ。で、何の話だっけ?」
「しっかりしてよ。次期大司教ヘシアン・ヴィクセン様。」
ポンと肩を叩かれた。

 正直言って、その呼称は嫌いだ。
 出自だの、育ちのよさだのを強調されて、本性を隠さなければならなくなる。たしかに祖父は、光明神ラ・ザ・フォーのカラトン大神殿のトップ、大司教の地位にいる。
 ほんらい父が継ぐべきなのだろうが、はるか昔に勘当されている。今は首都ロムールで神官ではない仕事をしている。だから、祖父のあとを継ぐのが僕なのは決定事項なのだろう。
 ただ、べつに大司教の地位は世襲制ではないから、次期大司教ではない。

 シータ、シータス・ミアロートは、小学校からの付き合いだ。だから、僕がそういった不満を持っていることを百も承知のはず。だからこそ、ムッとして黙りこんだのに、追い打ちをかけるように頭を撫でられた。
「大学のキャンパスでもその顔見せてみたら?」
 怒る気もなくして、苦笑まじりにおとなしくその掌に頭をあずけた。グリグリとゆらされる視界に楽しそうに笑いあう学生たちが映る。平和だな、と独りごちた。

「授業終わったら、桜の下で待ち合わせね。」
 それが一般大学生の日常会話なのだろう。今一度桜の花びらと枝葉を見上げた。

 僕とシータスはカラトン神大学の一年生だ。
 基本神官を目指す学生にとっての最高学歴なのだが、それはタテマエで、半分以上の学生は神様とは無関係の出自のヒトだ。神学一筋のマジメ学生はごく一部である。

 なぜならば、一般学生を入れなければ、大学及び各神殿、ひいてはカラトン市が財政難に陥るからだ。一般入試の学生を入れれば、それだけ寄付金が集まる。受験料や授業料の軽減免除がないに等しいから、予算が組みやすい。
 反対に、将来的に神官になった学生には、授業料等々が返還される仕組みになっている。奨学金や学校関係費の一部免除も申請可能だ。当然それは、王国とカラトン市に収められる税金と神殿の寄付金によってまかなわれるわけだ。

「貴方は光の申し子です。」
 光明神ラ・ザ・フォーの神官ら、特に大司教のトリマキらは、そう言って僕を讃える。当然その背中を見て育ったジュニア世代、つまり僕と同じ年代のヒトも僕を祀り上げた。

 僕にちょっかいを出してくるこの少女は、神様とは無縁だ。むしろ、神の示すヒトとしての生き方を完全にムシしている。にも拘らず、僕と同じ神大学に通っているというわけだ。
「タイクツだね。」
 シータがあくび交じりに呟いた。
「世の中はどんどん変わっていってんのにね。」

 高台にあるキャンパスの東側には灰色の箱型が建ち並ぶ。そこでは強制労働に近いかたちで、劣悪な環境のなか働いているオトナたちがいる。
 南東には純白に輝く光明神殿と屹立する鐘楼が見えた。そこから西にうねりながら真っ白な城壁のようなものが続いていた。通称『竜の道』。光明神殿から大司教以下高位神官が英雄墓地に向かう道だ。
 白壁に囲まれた道を挟んで向こう側は、農業地区となっていて種まきのすんだばかりの畑は茶色のジュウタンだ。
 そして白い道の先、西の丘には真っ黒のドット柄のような広大な墓地が広がっている。工業区、農業区に住む一般のヒトには関わりのない墓地で、その名のとおり過去の英雄が眠っている墓地である。ここからは見づらいが、キャンパスの西側に回れば、それをとり囲むように種々多様な神殿が点在しているのも見えるはずだ。

「そういえばさぁ…」
 英雄墓地のほうをぼんやりと眺めながら、シータが話す。
「テナ神殿の噂って聞いたことある?」
「テナ神殿って、去年の冬に神官長が殺害されたって、アレ?」
 黙って肯くシータ。ちょうど受験勉強してたから、各神殿の集まる公会議には参加しなかった。参加した祖父に受験後聞いた。
「大司教から聞いた。あと父からも。」
「お父さん、なんて言ってた?」
 父は大司教である祖父と冷戦状態のため、この街にはいない。ロムールに居を構えており、僕とは母親が違う妹と暮らしている。
「それが、父のところに死体が届かなかったらしい。」
 父は死体管理人だ。主に変死体や病死したヒトを検死する仕事をしている。
「どういうこと?」
「送られてこないから、直接こっちに見にきたらしいけど、テナ神殿ですでに火葬されていたって言ってた。」
 殺人事件であることは、公会議で発表された。にもかかわらず、父の検死なしに埋葬されることはかなり稀なことだ。
「警邏隊も動かなかったらしいよね?」
「うん。らしいね。でも、まぁ、身内や神殿が認める信者に関しては、治外法権の部分はあるからありえないことじゃないよ。」
 しばしシータが考えこむ。彼女が宗教ネタに首をツッコむのも稀だ。
「なんか気になることでも?」
「うん、まぁ…でも、ダレもそれに対して文句や疑問を言ってるわけじゃないんだよね。だったら、私なんかが口出す話じゃないのかな。」
 シータのほうから話を切った。なんかモヤモヤ感が残ったから、全部話してもらおうと思ったが、それすら遮るように彼女は続けた。

「あ、時間だ。そろそろ行きましょ。」
 大学の時計台を見ると十時になろうとしていた。今日は大学の選択授業の説明会だ。まだ春休み中で入学式前にもかかわらず、キャンパスにやたらヒトがいるのはそのためだ。

 しかたなくさっきの話は諦めた。いずれ、父と祖父に確認してみようとシータについて立ち上がったところで、ふと足を止めた。
「どうしたの?」
 シータがそれに気づいて尋ねてきた。僕は桜の下の掲示板を指差した。その先には二人の男性の姿。一人はお堅いスーツを着込んでいるから、教授だろう。僕と眼が合うと、ニヤリと笑んだ。いや、会釈をしたのだろう。
 しかし、僕が気になったのはソッチの男性ではない。タータンチェックのシャツにブルゾンを羽織り、踝丈のジーンズをはいた若い男性のほうだ。
「知ってるヒト?」
「あ、覚えてないか。」
 どうも説明会の場所に迷っているように見えた。早足にその男性の傍へと歩み寄った。それに気づいた男性が僕をふり返った。久しぶりと声をかけてみた。
「あれ? 覚えてない?」
 ヒト違いではないと思う。驚いたように目を見開いて、口をパクパクさせているから、まったく知らないニンゲンを警戒している、といった雰囲気ではない。
「まぁ、いいや。たぶん僕と同じクラスだよ。一緒に説明会にいこう。」
 驚きより、迷っていることを思いだしたのだろう。慌てて彼は頷いた。とりあえずシータのとこに戻り、三人で校舎へと歩きだした。とちゅう自己紹介をしながら。
「コーノス・ウェイテラです。よろしくお願いします。」
 同い歳なんだけどな、なんて苦笑しつつ彼を横目に見ると、僕にというよりシータに戸惑っているようだった。
「私はシータス・ミアロート。このヒトのカノジョよ。」
「黙れ。ピンク頭。」
 僕が冷静にツッコむとようやくコーノスに笑顔が見られた。

 満開の桜の花びらももつられ笑いをするように風に揺れた。


  コーノス・ウェイテラ
  大学一年・四月

 大学の正門をくぐると、今までの自分がニセモノであるかのように不安になった。高校からの持ち上がりが多いはずなのにまったくもって知り合いに出会わない。足がなかなか前に進んでくれない俺の横を、笑いながら女の子グループが追い抜いていった。
 一人は気楽だ。しかし、団体の中の独りはとてつもなく不安になる。和神フィース・ラホブの神殿では自分の役割が明確なので、神官長の息子という立場でいられる。しかし、ここでは俺は役割も立場も剥ぎ取られた個人だと思い知らされる。

「そんなんでダイジョウブなの?」
 二つ下の妹にからかい半分、心配されるのも当然だ。

 校舎が左手先に見えた。五階建ての建物が数棟見える。ということはそれだけの学生がいるということか。結構うんざりする。
 しかし、右手先に桜の巨木を認め、俺は安堵した。自らの美しさを誇り咲く満開の桜に憧れていた。俺には皆無の圧倒的な存在感。そんな将来を夢見て高校時代を過ごしたのだから。

 正門から校舎へと向かう小道に立ち並ぶ桜は、まだ満開のひとつ手前くらいだろうか。このところ暖かい日が続いているから、入学式の頃には満開を迎えるだろう。今日は入学式前の登校日で、入学や選択授業の説明が行われる。
 相変わらず俺以外の学生は楽しそうに、俺を追い越していく。初めてここを訪れたのではないのか? みんなして迷わず校舎へと入っていく。受験会場だったから、もう見知った校舎なのだろうか。俺は、高校からの持ち上がりだから初めてだというのに。とりあえず桜の樹の下に掲示板があるのは知っている。そこで確認しようと、みんなとは別方向へと歩いた。

 掲示板の前には先客がいた。スーツを着ているからおそらく先生だと思われた。その先に学生と思われる男女が二人。一人は長髪眼鏡の男で、もう一人はピンクの頭をした女だ。俺は嫌悪感で目をそらした。あんなちゃらちゃらした奴らでも、神様の下へ来られるのだと思うと、真面目に生きてきた自分が愚かしく思えた。

「嫉妬だよな。」
 彼らに対する嫌悪ではなく、自己嫌悪であることは分析済みだ。くだらない感情は無視して、今日するべきことをしよう。俺はそう考え直し、掲示板を見つめる。
「解らん。」
 小さく独りごちた。どうしようか。隣の先生に訊いてみようか。しかし、それは和神の次期神官長として、評価に関わるだろうか。横目に見た先生は、静かに桜の蕾を愛でていた。年の頃は四十代に見えた。細身の黒い四つボタンスーツに目深に平高帽を被っていた。表情があまり判別できなかった。優しげにも見えるし、厳しいヒトにも見える。

 グダグダと優柔不断をしていたら、さっき向こうにいたはずの学生がこっちに歩いてきた。別に俺に用があるわけではないだろうと一瞥しただけで掲示板に視線を戻した俺に、その学生が声をかけてきた。
「久しぶり。」
 思わぬ台詞に慌てて彼を見た。驚いた。驚きすぎて、返答に詰まった。
「あれ? 覚えてない?」
 覚えていないわけがない。しかし、あの事件は五年近く前のことだ。俺には眩しすぎる存在。神は二物も三物もヒトに与える。この男は、俺みたいな凡人に話しかけるようなニンゲンではない。

 なのに、

「まぁ、いいや。多分僕と同じクラスだよ。一緒に説明会に行こう。」
 と気軽に声をかけてきた。そして、戸惑い曖昧に頷く俺について来いとばかりに歩き出した。時計を見ると、すでに時間は迫っている。迷ってる暇はないようだ。
 すると、男は校舎に向かわず、予想通りピンク頭の女性のほうへと歩いていく。さっきの自分の評価を恥じて、女性をまともに見られない。
「じゃあ、行こうか。」
 その女性は、俺のそんな想いを気にも留めずに校舎へと歩いていった。途中自己紹介をしながら。
「コーノス・ウェイテラです。よろしくお願いします。」
 同い歳なんだけど、気後れしてつい丁寧語になってしまった。怪訝そうに見た二人から目線をそらした。そんな俺にピンク頭が声をかけてきた。勝手にとげとげした声を連想していた俺は、
「私はシータス・ミアロート。このヒトのカノジョよ。」
「黙れ。ピンク頭。」
 という二人のやり取りに思わず笑ってしまった。やばいと一瞬で表情を引き締めたが、むしろ彼らのほうが笑っていた。

「コーノスさんって、ヘスとどんな関係なの? 友達?」
 少し間の伸びた話し方につい気が緩んだ。しかし、全力で彼女の問いを否定してしまう。
「え? やっぱり覚えてない?」
 それにも全力で否定した。当然怪訝そうな目線が俺を刺した。
「いや、ヘシアンさんのことは、よく知ってます。光明神殿の大司教様のご子息であることも…」
 中学のときの事件のこともと言おうとして、言葉に詰まった。
「なんか緊張している? とりあえず同じ新入生なんだから、ヘスとシータって 
呼んでよ。」
「あ、俺はコナって呼ばれてます。」
 二人が顔を見合わせた。そこで会話が終わった。目的の教室についたのだ。

「ありがとうございました。」
 そう言って彼らと別れようと思ったのに、さも当然とばかりに俺の隣に二人並ぶ。俺を挟むように。周りの学生がちらちらとこっちを見ているのが解った。当然だ。光明神殿次期大司教として幼い頃から表舞台で活躍するヘシアンと外見的に一目を惹くシータスにはさまれた一般人という異色の三人が並んで座っているのだから。

「ねぇ、コナって入学式は神官着? それともスーツ?」
 とか、
「うわぁ、そんなに授業入れるの? 五コマ目までぎっしりじゃん。コナってマジメなのねぇ。」
 とか、
「その教授、出席厳しいよ。こっちの授業にしようよ。ヘスもそうしよ。」
 とか、
「掲示板の前にいたスーツのヒトって知ってるヒト? あ、違うんだ。」
 とか。シータは、なんとも気安い女性だった。なんとなく妹と同じ系統に思えた。
「シータ…さんって、ずいぶん大学に詳しいんですね。」
 本気で感心してそんなことを言ったら、
「ここの大学三回目だしね。」
 冗談で返された。ヘシアンにぺしりと叩かれて、唇を尖らせている。高校時代には目の端にも捕らえることのなかった、薄紅の引かれた唇に思わず見入ってしまう。不思議そうに首を傾げられ、慌てて目線をそらした。
 そらした窓辺に桜が見えた。こっち側の桜はまだ蕾。咲きかけの蕾がシータの唇に見えた。小さく頭を下げた。

 これから始まる大学生活が桜色に染まった。


  シータス・ミアロート
  大学一年・四月

 カラトン神大学がはるか昔に存在していたことを知っているのは私くらいだろうな。一度組織ぐるみの不正があって大学を閉鎖されたことがある。今となっては知っている教授もいない事実だ。
 昔を懐かしみながら、桜の樹を見上げた。いまだ緑と茶色が残る枝の隙間から、ちらちらと陽光がこぼれていた。
「アンタだけは変わらないね。」
 私は愛でるように樹の幹を撫でた。くすぐったそうに葉を揺らす桜も、懐かしい顔を歓迎しているようだ。

「あ、シータ、来てたんだ。」
 遠くからヘシアン・ヴィクセンの声。私をもう一度この場所に連れてきたヒトだ。
 小学校からの親友で、腹違いで同い年の妹がいて、その妹が誰よりも大好きな光明神大司教のお孫さん。その妹とも親友だ。ときどきロムールに戻って、二人でお茶をしたり、テレパスで長話したりしている。
 彼女がいまだ私とヘスをくっつけようとしていることを、ヘスは知らない。私もいいかげん何度も否定しているのだが、彼女が納得することはない。

 予定時間までは一時間近くある。桜の見えるところで少し暇つぶしすることにした。うん。蕾も多いけど咲きムラ含め、五分咲きくらいか。

「そういえばさぁ…」
 ムダ話の途中でふと思い出したことがあったので、ヘスに訊いてみた。ちょうどウチらが受験勉強の追い込みに入ったころ。いや私はしてないけど、今更勉強する必要などないから。
 英雄墓地のほうに目を向けた。
「テナ神殿のウワサって聞いたことある?」
「テナ神殿って、去年の冬に神官長が殺害されたって、アレ?」
 私が黙って頷くと、彼は少し考えて答えた。
「大司教から聞いた。あと父からも。」
「お父さん、なんて言ってた?」
 意外な返答が返ってきた。いや、少し予測もしていた。彼が話すことには、ヘスの父のところに死体が届かなかったらしい。さらに、送られてこないから直接こっちに見にきたらしいけど、テナ神殿ですでに火葬されていたって言ってた、と彼は続けた。
 やはり、おかしな話だ。受験勉強の必要がなかった私は退屈しのぎに、テナ神殿で起こった殺人事件を調べていた。にも拘らず、調査はまったく進展を見せなかった。
 なぜならば、
「警邏隊も動かなかったらしいさ?」
「うん。らしいね。でも、まぁ、身内や神殿が認める信者に関しては、治外法権の部分はあるからありえないことじゃないよ。」
 しばし考えをめぐらす。やはり納得いかない。
「何か気になることでも?」
「うん、まぁ…でも、ダレもナンも言ってないんでしょ? だったら、私なんかが口出すネタじゃないのかな。」
 納得いかないけど、せっかく始まる大学生活を穏やかなものにしたかったから、それ以上話を続けるのはやめた。

「あ、時間だ。そろそろ行きましょ。」
 大学の時計台を見ると十時になろうとしていた。今日は大学の選択授業の説明会だ。他の学生たちと一緒に楽しく、自分のことに目いっぱい悩みながら、大学生活を送ることが私の夢だから。

 突然ヘスは掲示板のほうへと歩き出した。知り合いを見つけたらしい。遠目に掲示板を見ると二人の男性の姿。一人は学生だろう。友達かな。
「あいつ…」
 もう一人の男と眼が合った。途端背筋に寒気が走る。ぞわぞわと虫が這うような感覚。私の全神経がそのオトコに警笛を鳴らしていた。
 ニヤリ。
 オトコがいやらしく笑んだ。ヘスとその友達はそれに気づくことはない。和気藹々とまではいかないまでも、熱心に話しこんでいた。

 その睨みあいは、ヘスと友達が私のほうへ戻ってくるまで続いた。私はすぐにでもその場をたち去りたく、集合時間が迫っていることを二人に告げる。そして、足早に校舎へと向かった。途中自己紹介をしながら。
「コーノス・ウェイテラです。よろしくお願いします。」
 癖なのだろうか、緊張しているのだろうか。あ、私の外見に違和感を感じているのか、なるほど。ヒトって第一印象が大事だよね。そんなことを思い直す。
「私はシータス・ミアロート。このヒトのカノジョよ。」
「黙れ。ピンク頭。」
 あえて。軽口を叩いてみた。ようやく警戒が解けたらしい、三人で笑えた。
「コーノスさんって、ヘスとどんな関係なの? トモダチ?」
 全力で否定された。
「え? やっぱり覚えてない?」
 しかし、その問いにも全力で否定する。なんだそりゃ?
「いや、ヘシアンさんのことは、よく知ってます。光明神殿の大司教様のご子息であることも…」
 やっぱりそういう人柄なのだろう。なんかいいヒトっぽい。素直すぎてコワいくらいだ。
「なんかキンチョウしとる? とりあえず同じ新入生なんだから、ヘスとシータって呼んでよ。」
「あ、俺はコナって呼ばれてます。」
 ヘスと顔を見合わせてしまう。しばらく慣れるまで時間がかかりそうだな、なんて思っていたら、目的の教室についた。
「ありがとうございました。」
 そう言って逃げだそうとしたから、むりやりヘスと挟みこんだ。理由は二つ。新しい友達を作りたかったのと、いまだイヤな視線を感じていたから。いろいろコナと話してみた。さっきのことをさりげなく絡めながら。
「掲示板の前にいたスーツのヒトって知ってるヒト? あ、違うんだ。」
 自分で何を訊いて、何を言ったかあまり覚えていない。あの視線が気になって。
「シータ…さんって、ずいぶん大学に詳しいんですね。」
「ここの大学三回目だしね。」
 やばい。口が滑った。慌てて訂正しようとした私の後頭部をぺしりと叩かれた。 ヘス。ナイスフォロー。
 唇を尖らせて、ヘスを睨みつける。横目に見たコナは、素直に冗談と受け取ってくれたらしい。私を見つめ、微笑んで目線をそらした。きっと楽しい大学生活とはこういうことなんだ。私は一人納得する。

 だから、今を守らなければならない。

「ちょっとお花摘みに行ってきます。」
 と私は席を立つ。怪訝そうに私を見つめるコナと苦笑するヘス。大丈夫。バレない。私は教室を出ると、視線の主を捜した。
「隠れる気はないのね。」
 意外に早くそれは見つかった。笑みをはりつかせたまま、教室を出てすぐの廊下に立っていた。四つボタンのブラックスーツとシルクハット。やや時代錯誤のファッションセンスだが、大学教授としてはさほど違和感がない。
「狙いは?」
 そのオトコのヒトならざる気配に、つつっと汗が流れていく。桜も開花しそうな陽気に似合わぬ気配。むしろ妖気。
「ずいぶんと敏感なんですね。」
 紳士な口調だが、優しくはない。むしろ威圧的だ。
「大丈夫です。あの二人には危害は加えません。」
「私に用事ってことね。」
「えぇ、まぁ。しかし、警告に従っていただければ、貴女に何かしようというつもりはありません。」
 ダレだ、こいつ。私の長い人生記録から必死に人物を検索していく。しかしまったくヒットしない。
「余計な詮索するな。」
 低く、まるでジゴクから響くような声に私は思考を止めた。止めざる得なかった。
「なにを詮索するなって? それがわからなかったら、なにをやめればいいのか、わからないわ。」
「ごもっとも。」
 再び紳士な口調に戻った。しかし、続いた言葉に愕然とした。
「テナ神殿長は自殺だ。」
 喉が涸れる。いや体中の水分を吸い尽くされた感覚に私はめまいを起こし、廊下の壁に背中を打ちつけた。
「大丈夫ですか? では、そういうことでよろしくお願いします。」

 刹那。

 感覚がよみがえる。春の陽気。教室の笑い声。饐えた臭いが一瞬にして消えた。私は乾いた口内と唇を潤した。
「校舎裏にもこんな大きな桜があったんだ。」
 教室を背に廊下の窓の外に春待ちする桜の樹を見つめた。


  ルービス
  高校三年・四月

 コナ先輩が卒業していった。唯一心を許せた先輩が。四月からわたしはヒトリだ。クラスメイトも吹奏楽部の後輩たちも、わたしに遠慮しているみたい。わたしもみんなとの距離感が測れない。

「だからといって家に帰ったところでダレもいないしな。」
 唯一のニクシンだった父が死んだのは去年の冬のこと。新しい年が明ける直前の二十八日のことだ。
 本来十一月には花を閉じるアニソドンテアの花がまだ咲いていた。桜の花に似た優しいピンク色の花は、雪の降る日に僅かばかりの彩を添えていた。 

 今日限り

 皮肉な花言葉だ。
 今日限りのはずの不幸は、永遠の不幸をひき連れてきた。父親の不審死。そのことにわたしは大したショックを受けてはいない。
 なぜなら、父はわたしにとってテキ以外の何者でもないからだ。父はわたしを虐待していた。だから、外目には落胆しているように見えてただろうが、内心安堵していたのだ。フタリきりの密閉空間で、彼の存在に怯える必要がなくなった。

 しかし、それによってわたしに残されたのは、生命神テナの神殿長という重圧だった。生活じたいは信者の寄付金でまかなえた。むしろ、わたしを憐れんだヒトビトが寄付という名目で、神殿に金銭を置いていった。
 寄付金を生命神のためではなく、我がモノのように扱う父親はもういない。贅沢に慣れていないわたしはその寄付金をどう使っていいかすら解らない。しかたがないので、地下の蔵に都度しまっていた。

 わたしはさらにそれらヒトビトの善意をどう扱っていいかもわからなかった。心の底から感謝はする。でも、もっと奥深い部分では謝罪の言葉を唱えていた。

「わたしは根暗なニンゲンだ。」
 校庭の桜並木を眺めながら、ぼそりとヒトリごちた。まだ、五分咲きくらいか。

「確かに。でも、ネアカなルビ先輩は想像できません。」
 ヒトリ言のつもりだったのに、いつの間にか隣にいた後輩が答えた。やたら明るい声にムッとする以前に溜息が洩れた。
「溜息一回で幸せが一個逃げますよ。」
「わたしの幸せはもう尽きたわ。だから、隣にいるペシタの幸せを借りるわね。」
 苦笑混じりに隣を一瞥すると、ホンキで困った顔をする後輩の姿があった。
「しかたない。あり余るあたしの幸せを先輩に少しあげます。」
 そう言ってドヤ顔しているのは、ピェシータ・ウェイテラだ。
 卒業した先輩コーノス・ウェイテラの二つ下の妹で、わたしの一つ下の後輩。あだ名はペシタ。まぁ、ヒトリじゃないか。先輩にしてたようなマジメな話をすることは、ほぼ皆無だけど。

「で、ナニを想いめぐらせてたのですか? カレシ?」
「いないの知ってるでしょうが。」
 自然と呆れ口調になる。この娘の頭の中はいつもピンク色だ。満開の桜のように。ちょうど窓の外の桜みたい。なんであのマジメが服を着て歩いているような兄の妹がこんななのかと首を傾げてしまう。

「今年はどんな進入部員が入ってくるのかな、って想像してたのよ。」
「お、さすが新部長。」
 ただでさえ、家がワタワタしてるのに、さらにそんな立場もつけ足された。ペシタの兄に。

 苦笑まじりに一瞥した後輩は、一生懸命爪を研いでいた。
 丁寧に砥がれた丸みを帯びた爪と細い指先を見ると、彼女の育ちの良さが見て取れた。茶髪で軽めにウェーブかけて、見た目からして軽い。クリンとした大きな目で見つめられ、ポテッとした赤い唇で甘ったるい声を聞かされるたび、同姓にも拘らずクラッとくる。わたしと正反対の女の子だ。

「そもそもわたしを新部長に任命したのだって、コナ先輩だし。」
 決してわたしが信頼されているからではない。
 元部長の名指しで、かつわたしが吹奏楽部にも拘らず、鍵盤担当だからだ。各吹奏楽器のパートリーダーが、統括リーダーをするのは、予想外に辛いと言って、唯一の鍵盤担当のわたしが名指しされただけだ。

「ルビ先輩って、なんでそんなに卑屈なんですか?」
 ヒトの気も知らず、ずけずけと言ってのけるのは兄と同類だ。
 まぁ、だからこっちも本音でしゃべれることは確かだけど。
「わたしもペシタみたいにカワイイ女の子だったらねぇ。」
 半分イヤミ。半分ヤッカミ。
「えー。あたし、メガネ女子好きですよ。きれいな黒髪も、その瞳も。」
「わたしにそんな趣味ありません。」
 じっと覗き込んできたペシタから逃げた。
「あたしもです!」
 慌てて掌をピラピラさせる仕草も、いらいらするくらいカワイイ。嫌いではないんだよな。きっと。そんなことを考える。

「で、ソッチのカレシはどうなの?」
 話題をそらした。これ以上自分を嫌いになりたくない。
「ナカヨシです。」
 また、微妙な表現だ。多分、近いうち別れるな、とちょっとだけ思った。
 それを決定づけたのは、副部長に任命されたオトコが声をかけてきたとき。部活を終わりにしようと、わたしに声かけてきたカレに嬉しそうに、残念そうに微笑み返したのを見たとき。一瞬、問い詰めてみようかと思ったら、
「あ、校門にカレシ来てますよ。」
 と先手を打たれた。
「カレシじゃない。あんなオジさん、わたしは好きじゃない。」
 あからさまな不快感に、ペシタが黙り込んだ。少し悪いことしたかな、と思いながらも、わたしは徐に立ち上がり、ペシタに別れを告げる。
「はい。じゃあ、また明日。」

 今は春休み。だけど、新歓の準備のために練習に来ている。わたしは昇降口を抜け、校庭をぐるりと回るついでに校舎を見た。ペシタがじっと校門を見つめていた。笑っているようには見えなかった。

「ねぇ、まだ送迎必要?」
 わたしは校門につくなり、キセルを加えていたオトコに、そう問いかけた。
「何か問題でも?」
「いえ、何も。」
 もう一度ふり返ると、桜の花と枝葉が邪魔してペシタの姿を見ることはできなかった。
「きっとはやく満開になるように祈ってたのよ。」
 そう自分に言い聞かせるように呟いた。怪訝そうにオトコはわたしを見た。わたしの髪と同じくらい真っ黒なスーツと平高帽子が先に歩き出した。わたしは連行されるように俯いたまま、その背中を追った。

 わたしの家には居候がいる。居候なんて生易しいものではない。歳は四十代に見える。しかし、本当の年齢はわからない。彼は死人だ。死霊術の最大禁呪である蘇りの法を使用し、生きながらにして、死人となった。
「悪魔。いつまでウチに居ついているつもり?」
 わたしは恨みがましく、紳士面した死人を睨みつけた。オトコは涼しい顔をして、わたしの恨みつらみを受け流していた。

「ふぅ…ねぇ、やっぱり送迎はナシにできない?」
「どうしてだ?」
 少し考えてしまう。カレシと勘違いしている後輩がいるから? 
 いや、そんなことは言えない。鼻で笑い飛ばし、むしろ調子に乗ってどこ行くのにもついてこようとするだろう。

「何百年も動いていると、退屈なんだよ。少しは楽しませてもらわないと、とり憑いている価値がない。」

 ヤツはいつぞや言っていた。なぜ、わたしにとり憑いたんだよ。これではいつまで経っても、カレシなんて作れない。いや、そんなピンク色はどうでもいい。わたしはヒトナミのフツウの生活がしたいのだ。
「まぁ、ルービスに支障がないなら、送迎はやめてやってもいい。」
 なぜ、上から目線? 支障があるのはヤツが憑いてくること自体だというのに。
 ありがと、とわたしは溜息混じりに答えた。これ以上ごねて、やっぱり憑いてくるって言われたら迷惑だ。
「ちょうど他に暇つぶしも見つけたことだしな。」
 そのままソッチにとり憑いてくれないかなと願ってしまう自分がホントにイヤになる。テナ神殿の正門をくぐると、桜が咲き乱れていた。まだ、高校の桜は咲きかけだというのに。

 狂い咲き。わたしと同じだ。


  ピェシータ・ウェイテラ
  高校二年・四月

 一学年上になった。
 実感はないが、確実に歳をとっている。制服に身を包み、高校生でいられるのもあと二年しかない。この戦闘服を脱いだら、あたしは何者になるのだろう、と毎日戦々恐々としている。

「わたしは根暗なニンゲンだ。」
 そんなあたしの横で聞こえた先輩の声。
「たしかに。でも、ネアカなルビ先輩はそーぞーできません。」
 ルビ先輩は、独り言を拾われてムッとした表情を見せていた。
「タメイキ一回でシアワセが一個逃げますよ。」
「わたしの幸せはもう尽きたわ。だから、隣にいるペシタの幸せを借りるわね。」

 こりゃ、重症だわ。

 あたしの悩みがあっさりとどっかに消え去った。
 ルビ先輩、本名ルービス先輩は生命神テナの神殿長になった。まだ高校三年生なのに、神殿長なった。
 さすがに気丈で責任感の強いヒトでもマイッてる。いや、そんな性格だから、よけいにマイッてるのかもしれない。

 そう考えたら、あたしがクラい顔をしていられない。
「しかたない。あり余るあたしのシアワセを先輩にちょっとだけあげます。」
 と笑顔をルビ先輩に向けた。そして、さらにカレシのこと、と問い質す。
 返ってきたアキれ顔、アキれ口調はまた兄と比べられたんだな、と少しだけキズついた。あたしはダレかが隣にいないと生きていけない。それだけなんだけど。むしろ自分のヨワさに落ちこんでんだけどな。そう思うけど口には出せない。

 なんかイヤになって、ぼんやりと爪を研いでいた。ながらで話さないと、ヨワい自分がルビ先輩にヤツアタリしそうだった。新部長とおだてるのもイヤミに聞こえてしまうらしい。
「そもそもわたしを新部長に任命したのだって、コナ先輩だし。」

 コナ先輩とはあたしの兄だ。今年から大学生になる。前部長でルビ先輩がゆいいつ心を許していた存在だ。あたしはそんな兄に命じられて、ルビ先輩の傍にいる。
「ルビ先輩って、なんでそんなにヒクツなんですか?」
 思わず声に出してしまった。ヤバイ。警戒されてしまった。でも、怒らない。むしろタメイキをつかれた。
「わたしもペシタみたいにカワイイ女の子だったらねぇ。」
「えっ。あたし、メガネ女子好きですよ。キレいな黒髪も、その瞳も。」
「わたしにそんな趣味ありません。」
 ほっと胸をなでおろし、自然と軽口が出た。そこでふとあることに気づいた。

 兄の命令だなんてウソだ。あたしがルビ先輩の傍にいたいのだ。ヨワりきったルビ先輩の傍にいることで、自分の存在意義を感じているのだ。じっと覗きこんだら、目線をそらされた。メガネに映ったあたしはすごく笑顔だった。

「あたしもです!」
 先輩のヤサしい笑顔に救われた。あたしがカワイイ自分でいれば、先輩は笑顔でいてくれる。

 なのにどうしてうまくいかないんだろう。先輩が、意図せずカレシの話をフッてきた。感情を覚られたくない。副部長がちょうど話しかけてきたから、笑顔で逃げようとした。
 それも逆効果だった。さらにアワてたあたしは、ふと校門に人影を見つけた。これはラッキーとばかりに矛先をかえる。
「あ、校門にカレシ来てますよ。」
「カレシじゃない。あんなオジさん、わたしは好きじゃない。」
 しかし、それすら逆鱗に触れたらしい。これ以上は笑顔でいられなかった。さすがに打たれ強いことを自負するあたしでもヘコんだ。

「お疲れさまでした。」
 それを言うのが精一杯。春休みもまだ何回も逢うんだけど、明日は他の話題を探そうと、消えていく背中に誓う。じっと校門を見つめた。
「ナカよさそうなんだけど、なにか問題があるのかなぁ。」
 蕾をつけた桜の下からタノしそうに帰り道をいく二人を羨ましく思った。そう思ったら、なんでだろう。二人をもう少し見ていたくなった。いっそう嫌われるのを覚悟しながらも、あたしは校舎をとびだした。

「やっぱマズイよね。」
 独りごちながら、二人の後をつけた。一定の距離を保ちながらだから、会話の内容は聞きとれなかった。それでも、二人の距離感と横顔からは、ナカのワルさを感じられない。
「でも、あのヒトの話題をフッたときのルビ先輩、いつもと違かったんだよねぇ。あんな表情はじめて見たもんな。」
 独り言が増えるが、彼らが気づくことはない。

 校門を出て西へ三十分ちょっと。我にかえってみれば、生命神テナの神殿前まで来ていた。
「スゴ…ここ桜、咲いてんだ。」
 さっきまでコソコソと足音をしのんでいたことも忘れて、神殿の門の前に佇んだ。数人、信者さんと思われるヒトたちが不審者を見るような目で通りすぎていった。

「きれいでしょう?」
 とつぜん、男性の声が耳元に響いた。聞こえたと表現しづらい感覚だった。アワてて周囲を見渡すと、桜の樹の下に紳士面した男性が立っていた。
 目もそらさずに桜に魅入っていたのにいつの間にいたのだろう。
 そして、その距離感。声の届く範囲にいることは違わないが、遠近法が正しくない。
「す、すみません。あまりにキレいだったのでつい…」
 たまたま立ち寄ったていで、頭を下げた。にこやかに笑みをはりつかせて、男は言った。
「ずっとついてきましたね。ルービスに何か御用ですか?」
 あたしは探偵には向かないらしい。気づかれずに尾行していたつもりだっただけだった。とはいえ、テナ神殿に向かっていたことは明確だったから、尾行もヘッタクレもない。
「ルビ先輩、今日ゲンキなかったから、心配だっただけです。」
「そうですか。優しいんですね。」

 このヒト、すごくヤバいヒトだ。

 頭の中で警笛が鳴り響いていた。あたしの得意技。ヒトのご機嫌を伺う能力が、フル稼動している。そしてなにより、そんなバカなことを考えなければ、圧し潰される気がした。
「でも、あたしのオモイチガイだったみたいですね。なので今日はこのヘンでお暇させていただきます。」
 さっそうとその場を去ろうとしたあたしは、桜の樹の下に幻を見て息を呑んだ。ピンク色に咲き乱れる桜の花びらに霞んだ無数の人影、そしていつぞやの公会議で見かけた男性の影。
「あれ? ペシタ…?」
 神殿のほうから聞きなれた声がした。あたしはそっちに目を向けることができなかった。

 ベイビーピンクの景色が霞みにぼやけて、サーモンピンクへと色相をかえていった。

五月

  ヘシアン・ヴィクセンの物語
  大学一年・五月 

 僕は大学内で、シータとコナ以外とつるむことは少なかった。
 もちろん、愛想良く他の学生と絡むことはあったし、クラスの飲み会も適度に参加した。無難に、流行の話題や現代社会について話をすることもあったし、神について、王国について熱く語ることもあった。
 しかし、そんな友達の輪を離れると、たいてい二人にグチをこぼすのが、習慣となっていた。
 シータは昔からそんな自分のことを理解してくれていたので、気にしなかったのだが、コナには少し罪悪感みたいなのを感じていたことは確かだ。

「なんか弱っちい自分を押しつけてるみたいで。シータ、どう思う?」
 見上げた頭上の桜はとっくに盛りを越えていた。散った桜の花びらも一枚も残ってはいなかった。かわりにシバザクラが薄い赤紫のジュウタンのように広がっている。
 ジュウタンの端っこに体育座りする僕の手には、売店で買ったサンドイッチとコーヒー。いつもの昼食だ。毎度のことだが、学食は混んでるから行かない。そのへんの感覚はシータも同じだ。
「あいかわらずメンドくさい性格ね。考えすぎよ。みんながみんな、ヘスに媚び売りたくて近寄ってきてるわけじゃないし、コナだってそうでしょ?」
「わかってる。コナはそんなヤツじゃない。だからこそ、甘えてるようで自分がイヤになる。」
 直接聞いてみたら? なんて言われ、何度も首を横にふった。
「はぁ…他人を拒絶するときは自信満々なくせに、いざ他人を頼るときはいつもソレだもんな。」
 大きな溜息。
「もう少し気楽にいこうよ。でないと、これから訪れるはずの楽しいキャンパスライフが真っ暗闇よ。」
 シータがあくびまじりに伸びをした。ピンク色の頭を小さく揺らし、銀細工がジャラジャラと巻きつけられた首をコキコキと鳴らして立ちあがった。フリルだらけの真っ黒なスカートが春風に翻る。

「さて、私、教職の授業あるから行くね。ヘスは終わりでしょ? 先に帰ってていいわよ。」
 そう言って校舎に歩きだした。
 途中、クラスの女子になにか話しかけていた。ケラケラと笑いあう様子を見て、苦笑する。比べてもしょうがないのはわかってる。でも、彼女が羨ましくなる。
 そろそろコナが授業終わって出てくるころかな、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「あの…」
 予想外に声をかけられた。さっきシータが立ち話していた女子だ。
 一人はパーマをかけたようにクリクリとしたクセっ毛で僕と同じような眼鏡をかけていた。小さくてコロコロした体にオーバーオールを着ていた。ところどころに油汚れみたいなのがあるから、本当に作業着なのかもしれない。
 もう一人は、いかにも女子大生風で、アイライナーとエクステでやたら目が大きく見えた。ストレートロングの髪を軽くかき上げ、パッチリした蒼い瞳でじっと見つめている。白ベースの花柄ワンピにデニムジャケットってのは今年の流行だっただろうか。
「授業終わったの?」
 ひととおりニンゲン観察を済ませてから、にこやかに笑みを浮かべつつ、僕は彼女らとの会話をつなげた。はい、と元気いっぱいに答える。
「隣座っていいスか?」
 二人組みの一人がそう言ってきたから、どうぞ、と少し横に腰をずらした。何の用かな、と警戒する。べつに用事がなくても声かけるだろうに。クラスメイトなんだから。
「ヘシアンくんってさ…」
 ときどき僕を交えながら、街の店の話で盛りあがっていた。今通ったネコかわいい、とか。こないだプリンを作った、とか。いつも帽子かぶった教授って髪薄いのかな、とか。
 途中、コナの姿を見つけたが、僕を一瞥して学食のある建物へと消えた。やたらガタイのいい後姿に人垣がいちいち彼をふりかえっていた。
「なんかおなかすいたね。」
「そろそろ学食、ヒト減ったんじゃないですか?」
「場所を移動しますか。ヘスくんは?」
 一瞬迷った。コナが待ってるかもしれない。いや、べつに待ってる義理はない。なので、
「あ、午後は授業ないから帰ろうかな、と思ってた。」
「あ、ごめんなさい。引きとめちゃいましたか?」
「いいよ。サークルに行こうか迷ってたとこだったから。」
 じゃあ、また明日。元気に手を振って、彼女らは学食へと去っていった。

「あー疲れた。」
 後姿が見えなくなるのを待って、僕はタバコに火をつけた。考えすぎ。わかってんだけど、距離感が測れない関係は、やはり緊張する。
「お、まだいた。」
 そこにコナが現れた。少し息が上がっている。直立不動で見下ろすのはクセなのだろうか。真っ赤なスタジャンとジーンズでキチっと固めたデカブツはけっこう威圧感がある。
「さっき女の子としゃべってただろ? ちょっと訊いたら、間に合うかもよ、なんて言ってたから、追っかけてみた。」
 それを聞いて満面の笑みを浮かべてしまう。
「いいな。お前といると、堂々と女子に話しかけれるわ。」
「コナ、お前が僕に近寄った理由はそれが目的だったのか!」
 あからさまに慌てるコナをジト目でねめあげるように見て、二人思いっきり笑い転げた。ひととおり笑って、彼を連れだってその場を離れた。

「ブラスバンドのほうは?」
「今日はない。」
 この恵まれた肉体に似合わず、中高時代のコナは吹奏楽一辺倒だったらしい。しかもフルート。指が太すぎないか? なんてからかったら、本気で怒られた。
 とはいえ、僕も同じように文化部が似合わないなんてからかわれているから、おあいこ。それなりに運動神経はあるつもりだけど、運動部のノリについていけないのだ。だから、文化部。
 とはいえ、僕の所属する文芸サークルも今日は行く気がおきず、ぼんやりと時間つぶしていたんだけど。

 どちらのサークルも休みということで、二人でもう一つの共通して所属しているサークルのほうに行くことにした。
「ところで、真面目な話、なんで俺に声をかけた?」
 質問の意図をつかみきれず、きょとんと彼を見た。
 狭いサークルの部屋。神学についてディベートをするマイナーサークルだから、もとより所属メンバー自体が少ない。さらにカケモチが多いから参加者も少ない。だから、僕らしかここにはいない。

 傾いた太陽の光が窓から差しこんでいた。陽光を背にするコナの表情がよく見えなかった。カラスとスズメがケンカでもするように何度も鳴いて、遠くに去っていった。
「いや、初日。入学説明会の日さ。俺が迷ってるみたいだったから、とは聞いたけど。」
 唐突に何を言い出すのだろう。
「基本、自分から話しかけないだろ? クラスメイトにも一定の距離を保ってる感じだし。いや、俺は元から人付き合いが苦手だから、お前の存在は本当に助かってるんだ。」
「ダレがそんなコト言ってたの?」
 笑顔という防具を外されると、途端分厚い殻に閉じこもるのも僕は小さい頃から変わっていない。自分を解って欲しいと思っていながら、解られるのが怖くなる。
「意外だった。人付き合いが得意なわけじゃないんだな。見てて気づいた。」
「得意だよ。嫌いなだけ。」
 そうか。コナが薄く笑う。
「友達やめたくなった?」
 幻だろうか。否、当然幻だ。
 窓の外には満開の桜。ぎっしりと花を詰めこんだ桜の樹は、隙間なく二人だけの部屋に影を映しこむ。桜の影になった床の外側はオレンジ色に輝いていた。コナの姿が闇に消えていく錯覚に陥る。

「友達ってそう簡単にやめたりできるものなのか?」
 皮肉か? 僕は搾り出すように話しはじめる。
「最初の質問の答え。」
 あぁ、ダメだ。またヒトを拒絶しようとしている。またヒトを傷つけようとしている。
「コナが死神にとり憑かれているように見えた。」
 気色ばむのを感じる。やっぱり陰になった表情は伺えない。なにも答えてはくれなかった。黙って、僕のほうへと歩み寄った。
「あの日、独りでいるコナを見つけて、かわいそうに思ったんだ。不安そうだったから。それに、隣に男が立ってた。学生じゃないし、教授にも見えなかった。なんだか怖くなった。
 いや、コナのことは知ってたよ。中学のときに僕を手伝ってくれたよね。首都で僕が中学校をのっとったとき。カラトンの中学校からわざわざ来てくれたって言ってたから、すごく覚えてる。嬉しかったんだ。僕の意見を受け入れてくれて、一緒に闘ってくれたから。
 だからほっとけなかった。
 コナの不安そうな顔見てたら、隣の男に食われそうで。だから、声をかけた。」
 僕は一気にまくしたてた。沈黙を恐れるように。いや、恐れていた。コナが自分のことを拒絶すると想像しただけで、この場から逃げ出したくなる。
「わかった。ありがとう。」
 なのに返ってきたのはそんな一言だった。
 僕は驚いて、彼を見つめた。縮こまる肩にコナの腕が回された。僕より太いごつごつした腕。背の高さも頭半分上にある。こっそりと見上げた顔が薄く笑んでいた。いや、微笑んでいた。目線は窓の外に向いていた。剃り残されたヒゲを一本だけ見つけて、ついふきだしてしまった。
「なんだ?」
「いや…」
 なんでだろう。涙ぐみそうで、必死にこらえた。
「何、笑ってんだ。」
 肩が小刻みに揺れるのを笑ってると見てくれた。僕はゲシっと肘で小突き、コナから体を離す。

「絵になるわねぇ。」
 その瞬間を待っていたかのように、背後から急に女の子の声がした。
「シータ…いつから見てたの?」
 恥ずかしさに顔が熱くなる。
「えっと、ヘスの長い独白から?」
「盗み聞きなんて趣味が悪いぞ。」
 コナが、いつも持ち歩いているフレーバーつきのウォーターで唇を潤してから、幾分怒ったようにシータを責めた。
 シータはまったく意に介す様子も見せずにニヤついている。
「男の友情の誓いってヤツ? 青春だねぇ。」
「うるさいわ。」
 今度は三人で笑った。つられたかのように外でネコの泣き声がする。

 その後、シータが売店で買ってきた大学生活協同組合特製スイーツを食べながら、のんびりダベった。
「さっき女の子二人組いたさ? あたしが話しかけてた。」
「そのあと僕にも話しかけてきたよ。」
「あの二人の髪の長いほう。その娘が企画販売してる商品らしいの。」
 そういえばそんな話もあった。あまり集中して聞いていなかったから、どこで売ってるとか覚えていなかった。
 同じことをコナも言った。
「サクラプリンか。結構旨いな。」
 僕は感心して、一気食いした器を眺める。
「次はナノハナのアイスに挑戦だってさ。」
「みんないろいろなもんに挑戦してるんだな。びっくりだ。」
「それが大学ってものよ。あんたらも一つのモノに縛られてないで、外側に目を向けなさいよ。」
 どんだけ上から目線だよ。苦笑まじりにコナと顔を見合わせた。そこにさらにおやつが追加される。
「私のおごりだ。たんと食え。」
「いや、たしかに旨かったけど、さすがに多くないか?」
「大丈夫。もうそろそろ欠食児童が現れるはずだから。」
 そうケラケラと笑う。

「あー! こんなトコにいたぁ。捜したんだよ。」
 唐突に扉が開いて、女の子がとびこんできた。聞き慣れた声だ。
「ディル? なんでいるの?」
 すっとんきょうな声が出た。首都ロムールにいるはずの僕の妹。
 ずいっと、右手をつきだされた。
 赤青黄、銀金キラキラした色砂でデコられた四角く薄い板状のモノ。首を傾げてしまう。
「やっぱり忘れてたな。アパート行ったらまだ帰ってないし。
 シータにテルったら、まだ学校いるだろうっていうから、ヘスにもテルったのに出ないし。」
 言われて僕は慌てて、かばんからテレパスを取り出した。哲学書を真似た見開きケースを開いて画面を見ると、着信ランプとカレンダーの予定表が点滅していた。
「しかも、場所わかんないし。大学のキャンパス広いし。
 アウェーで知らないヒトに案内してもらうの、けっこう緊張するんだからね。」
 ディルはそう言って、背後をふりかえった。後ろには噂のスイーツの二人。その髪が長いほうがこれを作ったのか。
「すごくおいしかった。これ。」
 僕は空の器を見せて、女の子に言った。
「ホント? うれしい、です。」
 なぜか、満面の笑みで、でも恥ずかしそうに隣の娘の陰に隠れた。
 ベシン!
 いきなり後ろ頭を殴られる。文句を言おうとしたら、ディルが睨んでいた。
「ヘス…その前に言うことがあるでしょうが。」
「あ、ディル。ごめん。でさ…」
 おざなりに謝って、スイーツの話を続けようとしたら、また殴られた。

「あれ、この団体さん何?」
 神学サークルの部長が来て、二年、三年の先輩も何人か現れて、気がついたらあれだけ薄暗かった部屋の中が急に活気づいていた。
 実際はコナと二人きりのときの方が部屋の中は明るかった。もう陽は地平の向こうへと半分くらいその姿を隠しはじめている。

「望まなくても、そこに理由や意図がなくてもヒトは集まるものなのよ。」

 シータが僕にだけ聞こえる声で言った。僕は小さく肯いた。

 落ちかけの陽光に伸びる何本もの長い影。
 影は真っ黒だけど、ちょっと頭を上げたら、いろんな顔をしたヒトたちがいた。

六月

  コーノス・ウェイテラの物語
  大学一年・六月

 自分が一目ぼれをするニンゲンだとは思いもしなかった。
 友人として数ヶ月お互いを知って、あらためて愛を告白して、付き合い始める。もちろん結婚が前提で。そういった過程を経て、カレシカノジョという立場になるものだと思っていた。

「それじゃ、友達以上になることないですよ。若いオンナの子の恋愛は、ノリが全てなんだから。」
 と俺より若い女の子に諭された。
「ルビだって、一目ぼれは信じないって言ってたじゃないか。」
「ん~。まぁね。」
 歯切れが悪い。
 学食の外に立つ深緑の桜の樹の下で、男女が入り乱れてはしゃいでいた。花壇の彩り豊かなポピーやパンジーを連想させる。
 俺には縁のない世界だ。

 ルビ。ルービス・テナは生命神テナ神殿の神殿長の娘で、俺の高校のときの吹奏楽部の一つ下の後輩だ。来年、俺らの通う神大学に入学してくるだろう。ウチらの高校は神大学付属高校だから、ある程度の成績を維持できれば、ほぼ持ち上がりで入学できる。
 話が続く。
「で?
 四月に一度逢ったきりの、その一目ぼれした娘を忘れられないと?」
 俺は恥ずかしさを我慢しながらも、素直に頷いた。
「わたしなんかを呼び出してるヒマあったら、その娘を呼び出しましょうよ。」
 白枠に何も映していない黒い画面。テーブルに置かれた長方形の物体を凝視し、ぶんぶんと頭を激しく横にふる。
 それを見たルビが大きな溜息をついた。
「それは理解できました。でも、なんでそれをわたしに相談するのですか?
 わたしだって恋愛初心者なのは先輩だって知ってるでしょう?」
 再び大きく嘆息されて、俺は一層恥ずかしくなる。
「他に、相談できる異性がいない。」
 それでも素直に言った。藁にもすがる思いってのはこういうのを言うのだろう。
「その様子じゃ、大学の一年間をこれまでどおりムダに過ごしちゃいそうですね。
 ってか、妹さんに相談すればいいんでないですか? 恋愛プロフェッショナルって名乗ってましたよ。」
「アイツは規格外。」
「そうですか。大学で女友達ができたってはしゃいでませんでした?」
 あぁ、ムリなんですね。そう言いたげだ。
 正しい。

 高校時代に毎日のように会っていたときは、絵の中のオトコに憧れていたような女子だったのだが、ずいぶんと変わったものだ。
 相手が俺だということを差し引いても、堂々と異性と話ができている。
 真っ白な肌にうっすら化粧をしているのが、鈍感な俺でもわかった。墨を落としたような長い黒髪が軽く見えるのは、おそらく表情の変化のせいだ。それと、草色のワンピースに白いカーディガンという私服が、重たい制服しか見たことない彼女を別人に仕立てているからだろう。
 受験のプレッシャーを少しでも和らげようと、大学見学を兼ねて誘ってみたら、この数ヶ月で大人になっていた。

 俺も何か変わっただろうか。
「なぁ。女の立場から見て、俺はどんな男だ?」
「うわ。答えずらい質問。」
「そ、そうなのか?」
「アタリマエじゃないですか。
 わたしの後輩って立場もあるし、オンナの子が正直にその質問に答えたら、よほど嫌われてるって思ったほうがいいですよ。」
 呆れ口調でそう言われ、俺はさらに落ち込んでしまう。その落胆ぶりが憐れに思ったか、ルビは目線をそらしながら続けた。
「でも、まぁ、一途で正直な男性に惹かれる女性っているはずだから、そのままがんばれ、とだけ言っておきます。」
「わかった。ありがとう。」
 俺は曖昧な笑みを浮かべつつ窓の外を眺めた。

 ふと、教授らしき男性と窓越しに目が合った。どうもウチらの方を見ているような気がした。
 俺の視線を追ったルビがガタリと椅子を倒して、立ち上がった。
「どうした?」
「え? あ、ごめん。なんでもない。多分ヒト違い。」
 彼女のその言葉に違和感を覚えた。彼女が垣間見せた瞳をどこかで見たような気がする。いつ、どこでだ?
 あの教授はこの大学で西部王国史を担当している客人教授だ。
 付属高校でも教鞭をふるっている可能性もないことはないが、基礎授業向きの、いわゆる先生というより研究者だった。
 なぜだろう。講義をとっているはずなのだが記憶が曖昧だ。

 と、うちらの真横で声がした。
「お、コナじゃん。めずらしいな、女連れか。」
 俺の思考はクラスの友人たちの声に遮られた。条件反射のように縮こまったルビを横目に、笑い飛ばす。
「おう。女連れだ。わかってんなら、無粋なマネをするなよ。」
「くくく。ずいぶんと強気だな。」
 そう言って、俺の頭を小突くとそのまま去っていく。俺は苦笑交じりにその後姿を見送った。

「先輩、変わりましたね。」
「そうか?」
「高校時代より堂々としてます。」

 あの手のやり取りは、二ヶ月で慣れた。
 高校時代だったら、俺が本気で怒るか、相手がイジメのネタを見つけたとばかりに俺を攻め立てきたと思う。
 最初の一ヶ月はその思考回路を改められずにさんざんヘスに迷惑をかけたな、そういえば。
「集団に迎合するからだろ。」
 ヘスがそう言って笑い飛ばされたとき、俺の中で何かが変わった。小中高の世界の狭さは、今思えばくだらないものだった。
 小さな家と、それより少しだけ大きいだけの校舎。アレが俺の世界のすべてだった。
「ルビも大学に入れば、きっとわかるよ。世界は自分の周囲にあるだけじゃない。
 それに気づけば、ルビを苦しめている何かもきっと変わる。」
「そんな簡単にいかないと思いますけどね。」
 自嘲気味に笑むルビ。俺が変わったのと同様に彼女も変わった。
 ひどい男性恐怖症だったのに、ある男が去年の冬から生命神殿に居候するようになってからというもの外部への接し方が愛想良くなったのだ。
 それ自体は好ましい変化だ。
 しかし、俺にはそれが仮面に見えた。

 奥底に何かを抱えている。

 昔から彼女を知る俺だからこそ、そう思えるのだ。彼女が何に悩んでいるのか教えて欲しい。
 そこに踏み込む権利は俺にはない。権利があったとしても、どうする事もできないかも知れない。
「それでも…」
 言いかけてやめた。
「それにわたし、別に苦しんでないです。勝手にカワイソウな娘にしないでください。」
「…そうか。俺の思い違いか。だったらいい。」
 確かに俺は変わったのかもしれないな。ここでも思った。
 おそらく高校時代の俺ならしつこいくらいに問い詰めただろう。それがヒトに気を使うことだと信じ込んでいたから。

「なぁ。」
「何ですか?」
 いまだ怒り口調だ。いや、かたくなに自分を守っているようだ。
「甘いもの好きか?」
「え? あ、はい。太るからあまり食べないようにしてますけど。」
 唐突な話題をふられて、あからさまに反応に困っていた。
「ルビはもう少し太ってもいいんじゃないのか?」
「先輩…セクハラ。失礼です。」
「そうか。そんなものか。」
「変わったって言ったの、撤回します。女性に対して失礼なのは全く変化ナシです。
 でも、とつぜんどうしたんですか?」
 俺は苦笑しつつ鞄からサンドイッチを取り出し彼女の前に差し出した。
 目の前に置かれた三角サンドと俺の顔を何度も視線が行き来する。
「ブルーベリーと生クリームのサンドイッチだそうだ。俺も一つ食ったけど、結構うまかったぞ。」
「組み合わせがよくわかんないんですけど…」
「サンドイッチの具材がか?」
 もちろんわざとだ。からかわれたのに気づいたルビが少しむくれている。つくづくヘスの話術に似てきた。
「俺の鞄から、スイーツサンドが出てくるのが意外だろ?」
 予想通り大きく肯かれた。
「クラスの女子だよ。スイーツ作りが趣味なんだと。今日ももらったから、客観的な意見をもらいたいんだと。」
「え? 先輩女の子とおしゃべりできるんですか?」
「驚く箇所はそこか?」
 また大きく肯かれた。大学の女友達に相談しろ、と助言したのはお前だろうが、と心の中だけで文句をつける。
「ホントはペシタに持って帰ろうと思ってたんだけど、ちょうど思い出したからな。
 どうせならルビの意見を聞いて、今日中に伝えてやろうかと思った。」
「うわー、メチャ違和感です。」
 神官たるもの言葉は正しく。なんてツッコんでやろうかと思ったが、一心にかぶりつく様子に黙った。
 メチャ、はペシタ言葉。つまり妹はきちんとルビに関わってくれているのだ。

 食べ終わるのをのんびり待った。
「どうだった?」
「おいしいです。正直、たいして真新しいものでないのにお店で売ってんのより、かなりおいしかったです。
 なんででしょう?」
「作った本人に訊いてみろ。」
 俺の背後のテーブルに座っていた製作者を手招いた。いつもの二人組み。戸惑うルビにニコリと笑いかける。
 今度は俺とその娘を見比べていた。
「あ、とてもおいしかったです。」
 ペコリと頭を下げたルビの両手を取り、スイーツ女子はぶんぶんと上下に振り、
「ありがとー! うれしい!」
 と満面の笑みで今にも抱きつこうかとの勢いで喜びを爆発させていた。
 ますます戸惑うルビを笑うと、彼女もようやく笑った。愛想笑いしかできないルビが心から笑っているように見えた。
「また、迎えに来るよ。こいつ、スイーツの話になると長いから。」
 俺はそう言って、一度席を立つ。

 行き先はダークグレーのストライプスーツのメガネ男と真っ黒なニットワンピースのピンク頭のところ。つまりは、ヘスとシータのいるテーブル。
「グッドジョブ!」
 ヘスが親指を立ててその手を突き出した。シータもそれに習う。
 つられて俺まで、小さい動作ながらも習った。
「すまん。あまり父親のことを訊ける雰囲気ではなかった。」
「んー、まだ半年も経ってないもんね。しかたない。」
 ついでに、と言われたから訊こうとは思ったのだが。
 にしても、この二人はなぜテナ神殿の話に首を突っ込んだんだろう。疑念が浮かぶ。

 ヘスは神官だ。次期神官長。
 光明神の場合は大司教というらしいが、ゆくゆくは六神殿を集める公会議で、他神の神官長と関わることもあるだろう。
 しかし、シータは一般入試で入ってきたと話していた。
 モヤモヤしたものが胸の辺りを陣取っている。
「お前らの暗黙の了解ってやつがあるのは理解しているつもりだ。それを承知で訊くが、なぜルビに関わる?」
 二人が顔を見合わせた。困ったようにヘスが腕組みする。
「やっぱ、気になるよなぁ。」
「正確に言えば、ルービス神官長に用事はないのよ。神殿に住み着いているオトコの情報が欲しいの。」
 言い淀むヘスを差し置いて、シータが小声で言った。
 それにも違和感を感じる。メインで動いているのはヘスではない。やはりシータだ。
「ルビは俺に親戚だと言っていた。
 きちんとした過程を経て公会議に報告をしていないからだが、ゆくゆくは神官長の地位を受け渡したいとも。」
「そうなんだ…それ、いつの話?」
 俺は一瞬答えを躊躇った。
 シータが悪人ではないことは、ここ何ヶ月の付き合いでしかないが納得している。
 ただ、どこまでルビのプライベートを晒していいか迷った。

「シータ。やめておこう。コナが困ってる。」
 ヘスが助け舟を出してくれた。だから、悪い、と素直に謝罪した。
「いいよ。僕らがムリに頼んだことだし。一番近くにいるコナが彼女のことを心配するのわかるから。」
「決してお前らを信用してないわけではないのだが…」
 不満げなシータをなだめるヘスを見て、やはりルビの件も話したほうがいいのかと考える。
 しかし、父親の死というナイーブな話題をほじくり返すのは気が進まない。
「シータ。コナから根掘り葉掘り訊き出したいんなら、ウチらの話も全部しないと、コナだって納得しないよ。」
 シータが黙ってそっぽ向いた。
「シータ、すまない。俺はルビが傷つくようなことはできない。」
「わかってるよ。感情がついていかないだけ。ルービスさんを傷つけたいわけでも、コナを困らせたいわけでもない。」
 不機嫌そうな口調にますますどうしていいか戸惑う。しかたがない。ヘスに任せるか。

 そっちはさておいて俺はひとつ疑問を呈した。もうひとつルビについての話を躊躇った理由だった。
 こっちは確認したほうがいいのかもしれない。
「ヘスは西部王国史の講義とってたよな?」
「いっしょに講義でてんじゃん。コナ、講義中寝てたの?」
「それはお前のほう。
 そうだ、テスト直前にノート借りにくるなよ。せめて一週間前にしろ。
 じゃなく、その教授の話なんだが…」
「あぁ、あのエセ教授ね。」
 答えたのはシータ。俺は驚愕に口をパクつかせてしまった。
「あ、私にも貸してね。二週間前でいいわ。
 で、あの教授のことなんだけど、エセというより、私とヘスが見ている教授とコナが見てる教授は別物よ。」
 言っている意味がわからない。というより、シータがあの講義をとっていたことも知らない。
「あの講義、出席重視だろ? だいじょうぶなのか?」
「だいじょうぶ。出席先取りタイプだから、出席確認後にドロンしてるだけ。」
「だったらいいか。
 いいのか? 
 いや、で、どういう意味だ?」
 質問が滅茶苦茶だ。支離滅裂な会話を必死に頭の中で整理する。

 授業内容や声は教授本人のものである。教授の顔が曖昧なのは〈貼付け〉の魔法で記憶が改ざんされているから。
〈貼付け〉の魔法はたとえば、他人の顔に自分の顔を貼り付けることで、見たヒトの記憶を改ざんするための魔法である。
 魔法を使っているのは、テナ神殿に住むオトコの仕業だと考えられる。理由はこの大学で不審者扱いされないためだろう。

 要約するとそういうことらしい。
「魔法自体はよくわからないが、さっき俺が見たのは顔を〈貼付け〉られた本当の教授か、その魔法をつかったオトコ本人か、どちらかだってことだな。」
「そうね。」
「だとしたら、ルビがそれを見て驚いた理由もわかる。俺が見た顔とルビが見た顔が違う可能性もあるということだ。
 で、驚いたってことは、教授の顔ではなく自分の神殿に住むオトコの顔だった可能性が強いってことか。」

 とそこにタイミングよくかわるくか、スイーツ女子が寄ってきた。
「おわったよー」
「カノジョ、待ってるよ。あれれ、シータ、なに話してたの?」
 と間延びした問いかけに、くるりと席を回して満面の笑顔で彼女らを迎えた。
 変わり身、早いな。感心する俺をヘスが促した。
「じゃあ、またな。俺はルビ送って帰るわ。」
 ピラピラと四人が手のひらを振っていた。俺もそれに習いながら、ルビのところに戻った。
「どうした?」
「やっぱり、先輩変わった。」
「そうか? まぁ、いいさ。あと見たいところあるか?」
 無言で首を横に振った。こっちはなんで不機嫌なのだろう。一人放置したからだろうか。
「あいつらの話、退屈だったか?」
 また、無言で首を振った。さっさと立ち上がり、ペコリと向こうのテーブルに会釈して、俺の手を引っつかみ校舎の外へと出た。

「先輩。ありがとうございました。」
「あ、あぁ…」
 やたら早足だ。
「ねぇ、街のおいしいケーキ屋さんおしえてもらったんです。そこでデザートしませんか?」
「いいけど、まだ食うのか?」
「先輩、失礼です。」
 ぶーたれた顔は見慣れたルビのものだった。安堵した。
 小洒落たケーキ屋で瞳をキラキラさせて今日のことをマシンガントークをするルビに相槌をうちながら、ヘスとシータのことを思い出していた。
 そして、いつか…ムリかな…

七月

  ルービスの物語
  高校三年・七月

 世の中はどんどん進歩していく。
 わたしはストラップをつまんで、プラプラと手のひらより少し大きいくらいの薄い長方形を眺めた。

 テレパスと呼ばれる長距離伝達器具。
 クラスの大半が持っているからとわたしも持たされた。
 その初期費用や月額料金がどこから捻出されているのかは問わなかった。

 テレパスとは〈伝心〉の魔法を応用し汎用化された道具で、言語内容を声の届かない場所にいるヒトへ直接に伝達できる魔道具だ。
 同時に〈翻訳〉の魔法も付加されている上位機種なら、王国の外でもそれぞれの種族語で翻訳なしに会話ができる。
 ちなみに王国内においては、王国全域に同魔法がかかっているから、その機能は必要ない。
 もちろん相手方も同様のテレパスツールを持っているのが前提ではあるが、世の中のヒトビトの通信時間と方法がそれによって画期的な進歩を遂げた。

 その分、淋しくなる。
 わたしのアドレス帳に登録されている名前があまりに少数だからなのだが、これが機能を発揮することはほとんどない。
 履歴をしめるのは、これを用意してくれた居候が送ってくる居場所確認と公会議の定期連絡。
 たまにウェイテラ兄の近況報告と妹の部活の報告。
 ごく稀に、信者さんがお祈りの日の確認とか、相談事をしてくる程度だ。

「とは言え、勉強中のわたしには迷惑でしかないんだけどね。」
 悔し紛れに呟いた。

 毎日、着信画面を確認してしまう自分がすごく嫌いだ。
 勉強に集中しようとテレパスをベッドに放り投げ、再度机に向かった。

 青空に白い雲。
 空を見上げる小さなウサギ。
 そんな絵が描かれた薄い直方体。

 裏側を向いてたから、画面を表にして置きなおす。
 待ち受け画面は先月撮ったアジサイのままだ。そろそろ、外は色あせてきたから、変えようかな。

「あれ?」
 窓の外、なぜか今でも咲き続ける桜の樹の下で、ウチの居候がなにか話していた。
 ヒトリ言か周囲にダレかいるのか、と身を隠しながら確認してみたら、テレパスでしゃべっているようだ。
 あいつにもダレかからテルが来るのかと思ったら、悔しいやら腹ただしいやら、やけにイラついた。

「んー。でも、あまりいい雰囲気ではなさそうだな。」
 ムダに好奇心がわき上がる。

 テルの相手は神殿の正門前にいるヒトじゃないだろうか。
 あの距離なら直接話せばいいのに。
 遠くてよく見えないが、おそらく女性。この暑い日に頭をすっぽり帽子で覆っている。襟元にピンク色が見えたから、髪色を隠したいのかもしれない。

 案の定、ウチの居候が門を出て、その人影と立ち話をはじめた。
 その背の大小から判断するに、アレはやっぱり女性だ。
「逢引かよ。ホントむかつく。」
 わたしは悪態をついて、二人の後姿を見送った。

 生命神は金のない弱小神だから、神殿の規模自体は小さい。
 ただ、わたしの生活する部屋が神殿に併設する鐘楼の途中という高いトコにあるから、彼らの姿はずいぶん先に行っても見つけることができた。
「嫌がらせでもしてやろうか。」
 鏡で見たら我ながらうんざりするだろう笑みを浮かべつつ、わたしはテレパスを手に取った。

 とたん、コールが鳴った。この着信メロディはコナ先輩だ。
 いつぞや二人っきりで音楽室で練習したときに、こっそり録音した先輩のフルート独奏。

「もしもし。」
「いきなりすまん。今、ヒマか?」
「受験生にヒマあるわけないじゃん。」
 不機嫌にわたしは即答する。
 しばし沈黙。コナ先輩とのテルはだいたいこのパターンだ。
 慣れてるはずなんだけど、今日はダメだった。
「ヒマじゃないけど、ヒマです。」
「なんだ、それ?」
「勉強しようと思ったんですけど、集中できなくて。」
 テル越しに届く「そっか」と短く低音。少しだけ安心する。「で?」と一言で尋ねる。
「街に出てこれないか?」
「なんでまた。っていうかコナ先輩が街ってめずらしくないですか?」
 きっと仏頂面してるか、泡食った顔をしているに違いない。

 コナ先輩は、自分で処理できないことがあると必ず、わたしのとこに現れる。
 お互いがテレパスを持っていなかったころは、わたしの都合お構いナシに、直接神殿に現れるからすごく迷惑だったな。

 再び沈黙。
「行ってもいいですけど、今から準備したらけっこうかかりますよ。」
 まだ、昼まで一時間以上ある。シャワー浴びてからでもじゅうぶん間に合うだろう。
「了解だ。もう一つお願いがあるんだが、いいか?」
「ダメって言っても、怒るくせに。」
 やっぱり苦手だ。テレパスは表情が見えないから。沈黙がたまに怖くなる。小さく溜息をついた。
「で、なんですか。お願いって。」
「ハープを持ってきて欲しいんだ。」
「うわ! メンドくさ。あれ、けっこう重いんですよ。知ってます?」
 すまん。頼む。と再度低音。やっぱり強引だ。あたしはしぶしぶながら、了承してテレパスを切った。急いで準備を始める。

 女の準備って長いよな。
 いつぞや先輩にぼやかれた。
 わたしは全速力でシャワーを浴びて、ドライヤーをかけて、服を選んで、鏡の前で髪と服を整えた。あわせ部分にフリルのついた白のブラウスに赤紺チェックのフレアスカート。同系色のキャスケット。
 薄化粧してみたけど、どうせあの朴念仁には伝わらないのだろうが。

 ちょうど乗合馬車が来た。間に合った。木製のイスに腰掛け、ほぅと大きく吐息をついた。馬車の窓から一組の男女が見えた。北のほうからふらふらと歩いていた。
 あの女のヒト、どっかで見たな。
 パッチリした瞳。
 どこでだっけ?
 にしても、なんでだろう。遠目には仲良く肩を組んでいるように見えたのだが、近づくにつれ、すごい真剣な顔でカレシの体を支えているみたいだった。

 そんな疑問も、ぼんやりと眺める窓の外を通りすぎていく景色といっしょに消えていく。
 街に近づくにつれて徐々に景色が変わっていく。
 あの樹は桜、林檎。今は花を落とした菜の花や蕎麦の花。カキツバタも終わった。アジサイは薄紫にしおれてきていた。
 それから、ただの草原だったり、果樹園だったり、田畑だったりがパノラマのように移り変わり、農地管理の家がだんだんと増えていった。
 西の入場門で形ばかりのチェックを受けたあと、荘厳な光明神ラ・ザ・フォー神殿を右手に街の大通りを馬車は駆けていった。

 家を出て十五分で街の中心部のターミナルに到着する。
「腰イタ…メチャ暑い…楽器が重い。」
 降りるなりわたしはぼやく。月に数度来るか来ないかの街中心部は、つくづくわたしと不似合いだと思う。すれ違うヒトが無遠慮にわたしを見る。反射的にうつむいてしまう。

 わたしは足早に約束の場所へと向かった。
「コナ先輩ですか? 街に着きました。
 どこ行けばいいですか?」
 途中、テルして場所を確認する。
 指定場所はメインストリートが交差する角のファーストフード店。
 よりによって街の真っ只中かい。高校のヒトに会わなきゃいいなと神様に祈る。

「ルビ、こっち!」
 二階の一番奥にコナ先輩がいた。わたしは半分まで近づいたところで、足を止めた。
 こっち向いて座っているコナ先輩が、首をかしげながらわたしを手招く。心臓が高鳴る。
 ずり落ちかけたメガネを直して、もう一度確認した。
「受験生を呼び出してすまん。」
 頭を下げるコナ先輩。

 向かいの女のヒトはダレだ?

 テーブルの直前で再度立ち止まったわたしを女のヒトが見上げた。口にストローをくわえたまま。
「あ、こんにちわー」
 変にもごもごした甲高い声が気に障る。
 コナ先輩が腰をずらして、隣を指差す。わたしは相好を崩さぬまま、腰を下ろした。
「ルビ、こちらの女性がディルサさんだ。で、こっちがさっき話してたルービス。吹奏楽部の後輩。」
「よろしくー」
 ピラピラと手のひらを振られた。
 わたしは無言で小さく会釈した。なんとなく頭上にコナ先輩の咎める目線を感じて、余計に縮こまった。
「ムリ言って、ごめんね。あ、あたし、なんか買ってくるわ。ルービスさん、なにがいい?」
 わたしは慌てて首を振り、立ち上がろうとした。なのに、なんとも俊敏にそれを制された。
「いーの。あたしが呼び出してもらったんだから、オゴリ。コナは?」
「悪いな。俺はアイスコーヒー。
 それから、ルビはいつものキャラメルマキアートでいいのか?
 冷たいのでいいんだよな?」
 わたしはまたうつむいて、小さく肯いた。
「了解。じゃ、ちと待っててね。」

 軽快な動作でディルサさんは階下に駆け降りていった。
 それを上目遣いで見送り、隣のオトコを睨んだ。しょざいなさげに真っ赤なポロシャツの襟を正していた。
 しかもホワイトジーンズなんて、わたしと逢うときにはいたことないだろ。
「…聞いてない…」
「そりゃまぁ、言ってないから。」
 いつから先輩はイジワルくなった? 大学の友人どもか?
「こないだ話した俺の想いビトだ。」
 さらに追い討ちをかける。

「わたしに関係ないし。」
「え? あぁ、関係ないな。
 もっともその話はどうでもいい。今日来てもらったのは、楽器の話なんだよ。」
 コナ先輩はそう言って、重い思いして持ってきたハープを箱から取り出した。
「別に変哲もない竪琴だよな。」
「アタリマエです。これは…」
 ふと、わたしはそこで話を止めた。不思議そうに竪琴を眺めている先輩は、わたしの変化に気づいていない。

 わたしはとんでもなく重大なことに気づいた。なぜ、いまさら?

「お待たせ。あ、それが例のハープ?」
 コナ先輩の前にアイスコーヒー、わたしの前にアイスキャラメルマキアートを置いて、ハープを覗きこんだ。
 すごくやせっぽちな体がわたしに迫る。
 メガネの上縁ぎりぎりに見えた顔は、切れ長の目をばっちりメイクされていて、しゅんと伸びた鼻筋の下の薄く小さな唇は桜色だった。
「わーぁ! ごめんルビ!」
 ダレがそう呼んでいいと言った、と皮肉の一つでも言えればすっきりするのかもしれない。現実のわたしは、愛想笑いを浮かべてドリンクのお礼を口にするのがやっとだった。
「どうぞ。外、暑かったもんねぇ。おなか空いたら言ってね。あたし、買ってくるわ。」
 そう元気に言っているディルサさんは、ホットコーヒーだった。湯気が暑苦しいなと、ストローで勢いよくドリンクを飲みながら、思う。

「あの…このハープがどうかしたのですか?」
 持ってきた以上訊かないわけにはいかない。例え過去を晒すことになっても。
 わたしは、だから動揺したのだ。

「吹奏楽部って、ハープって使うものなの?」
 ディルサさんの問いに、フルフルと首を横に振った。
「だよねぇ。あまり聞かないもん。」
「普段は木琴、鉄琴とか、鍵盤を担当してるんだ。ピアノはプロ並だ。」
 先輩がいらぬフォローを入れてくれた。必死に否定するわたしに、まぁまぁとディルサさんがなだめる仕草をした。
「じゃあ、ハープっていつからやってんの?」
 ドキリ!
「えっと…その…えっと…」
 言葉に詰まる。顔を見合わせる二人の視線が怪訝そうに集まる。何も答えられなかった。

 わたしはこれをいつどこで手に入れたか覚えていない… 

「ごめん、ごめん。覚えてないならいいよ。
 べつに取調べじゃないんだから、そんなコマった顔されたら、あたしがイジめてるみたいだわ。」
 ほっと安堵した反面、猛烈な不安に襲われた。

「写真とってもいい?」
 わたしが無言で肯くと、かばんからテレパスを取り出して、数枚写真を撮った。ずいぶんと高機能なテレパスを持ってるな、と動揺を抑えこむように、別なことを考えてみる。
〈転写〉魔法付のテレパスなんて、かなりの贅沢品だ。
 しかも、キラキラした色砂を固めたデコなんて、すごくおしゃれ。ヘン顔の犬がドカンとついた長袖Tシャツとやたらギャップがあるけど。
 あらためて見ると細いヒトだ。たぶんこのヒトのはいてるスキニージーンズは、わたしにははけない。

 画像をダレかに送ったようだ。わたしはわけもなく、また不安に襲われた。
「ごめんね。ありがとう。」
 気を使ってくれたわけではないと思うのだが、そのあとは、ホントに世間話だった。

 吹奏楽部のことを訊かれて一言二言答えてみたり、受験がどうとか、コナ先輩の大学生活とか。だんだんとわたしの口数も増えてきた。
 カノジョできたの、なんて訊かれて泡食ってる様子を見ると、先輩はまだコクってないらしい。

「ルビ、ようやく笑った。」
「へ?」
 突然そんなコト言われて、間抜けな返事を返してしまった。
「ヒト見知りって聞いてたから、どうにかして笑わせようとがんばったのよ、あたし。それなのに途中で泣かせちゃうし、もうどうしようかとあせったぁ。」
「泣いてないです!」
 ヤバ、ペースに巻き込まれた。きっと顔が赤い。咄嗟に窓に視線をそらす。横目に見えたニヤニヤ笑いが悔しい。でも、イヤな気はしない。視線の先には、ケーキ屋さん。

「あーっ!」
 ひらめいた。突然叫びだしたものだから、コナ先輩がびっくりしてわたしを見た。
 わたしは馬車で見た二人の話を身振り手振りで話す。
 二人は笑顔でわたしの話を聞いていた。ナニやってるヒトたちなんだろう、なんて話から、ディルサさんの勤める雑貨屋さんの話や独占販売している絵描きさんの話に話題が変わっていく。
 さらに、画材の薀蓄とか販売のプロになるための資格の話とか。
 わたしの興味が尽きない。ほとんど、ディルサさんの話で時が過ぎていく。
 一年しか歳が違わないのに、わたしがどれだけ狭い世界にいるかを思い知らされる。

「くそー。
 なごりオシいけど、時間ギレだわ。」
 気がついたら、窓の外は暗くなっていた。
 わたしもディルサさんとの話に夢中になって気づかなかった。がっかりしている自分自身に苦笑した。

 店を出たわたしたちを男性が見つけ歩み寄ってきた。
 長髪のメガネ男子。Vネックの白シャツに濃紺のチノパン。無造作に羽織った同色のカーディガンが初夏の風に揺らめいていた。
 どっかで見かけたな、このイケメン。
「おう、ヘス。」
 右手に挟んでいたタバコをくわえ、ポンとコナ先輩とハイタッチする。
 あぁ、大学の友人どもの一人か。
 また、モヤモヤした。苛立ちはないけど。
「終わった?」
「うん。出迎えご苦労。」
 ディルサさんもタバコに火をつけた。
 あそこ、禁煙席じゃなかった。でも、わたしが来てからは一本も吸ってない。

「さようなら。今日は楽しかったです。」
「うん。あたしも。
 また、そのうちお茶のみしよ。ほんじゃ、またね。」 
 わたしが頭を下げると、ひらひらと手のひらをふって、ヘスと呼ばれたメガネ男子と大通りの並木道を歩いていってしまった。
 くわえタバコで何事か話しながら。

「絵になるなぁ。」
 タバコがカッコいいオトナ。って憬れてしまうほどコドモではないつもりだが、あんなカッコいいオトナになりたいとは思う。

「今日はありがとうな。」
 帰りの馬車の中、コナ先輩が言った。
 わたしは今日何度目かの否定の仕草を見せる。呼び出されたときは、そして待ち合わせ場所でディルサさんに会ったときは、本気で帰ろうと思ったけど。
「最後に会ったメガネ男子がディルサさんのカレシ?」
 一瞬コナ先輩が慌てた。しかし、わたしのいじわるな微笑みに苦笑して答えた。
「兄だ。ルビの言うメガネ男子が、妹だ、ってやたら強調してたよ。」

「そうなんですね。よかった。
 今日はホントに楽しかったです。
 いいヒトですね、ディルサさん。わたし、応援します。」
 びっくりしたように見つめられた。わたしは満面の笑みでその視線を受け止めた。
「わたしも大学受かったら、好きなヒト探そうっと。」
 最後の最後で気づいたのだ。このモヤモヤした気持ちが何なのか。

 わたしはコナ先輩に、自分勝手なお仲間意識を持っていた。
 先輩はわたしをオイテケボリにして変化していった。
 ヒトの変化なんてアタリマエのことなのに、わたしはそれが許せなかっただけなのだ。と。

 十把一絡げに見えるアジサイですら、咲き時も枯れ時も花一つ一つ違うというのに。
 似たもの同士のカレに自分を写すのはもうやめだ。
 わたしは戒めとしてアジサイを待ち受け画面に残した。

八月

  ピェシータ・ウェイテラの物語
  高校二年・八月 

 あたしはときどき、お墓にこもる。音がないから。
 木々のざわめきも鳥の鳴き声も、はるか遠くに聞こえる。
 この静寂を求める。

 たいていは英雄墓地。
 王国建国の立役者や文化功労者、平和に貢献したヒトや他国では悪鬼とおびえられたような軍人たち、国境を越えて奉仕活動をしてきたヒト。
 べつに英霊に触れてジブンを奮立たせようとか、そんなことを考えているわけではないんだけど。
 あたしの住む和神フィース・ラホブの神殿からもっとも近い墓地が、英雄墓地と呼ばれる広大な敷地をもつココだからだ。

 あたしは、とにかく歩くのが好きだ。
 というより、他にやりたいことがないから、歩いているとも言えるけど。
 まぁ、プラプラしながら、いろんな景色を観て、いろんな言葉を想像するのも好き。

 今日も英雄墓地に行こうか。
 それとも昨日も行ったから今日は別のトコにしようか。
 墓地から南に広がる彼岸花の群生地は、ホントに見事なんだけど、さすがにまだ開花には早すぎるし。

 あたしは真っ白なTシャツと膝丈のハーフパンツをはいただけのラフな格好で表に出た。
 平日は高校の制服をきっちり着込み、少しスカートのコシをたぐり上げて、ヒザ頭が見えるように長さを調整して、先生にバレないていどに薄く化粧して、片道一時間弱の路を歩く。
 休日は、トモダチとの約束があれば、ハヤリの服で着飾ってばっちり化粧をして、アセかくのがイヤだから乗合馬車を待って、片道二十分で街に向かう。
 で、今日みたいに約束がない休日は、暑かろうが雨に濡れようがおかまいなしに普段着で散歩に出る。

「ホントに乗合馬車なくなっちゃうのかな。」
 テレパスで見た今日のトップページの記事。
 タイムリーに目の前を駆けすぎる。

 「馬を馬車馬のように走らせるのは動物虐待だ」

 なんじゃ、その表現は。
 動物愛護団体が言うに、これだけ魔法技術が整った王国で動物を移動手段に使うのはけしからん、ということらしい。
 安くて学生には助かるが、たしかに非効率だし〈空間転移〉やら〈疾走〉といった魔法を無機物のハコにぶち込む技術が開発されたのだから、当然の主張なのかもしれない。
 学校怪談レベルのネタでは、乗合馬車の馬は〈支配〉〈疾走〉〈回復〉といった薬剤魔法がふんだんに練りこまれたエサを喰わせられている、といった話も聞かれるけど。実際のところは不明。

「でも、一瞬で街までついちゃったら、とちゅうのキレイをぜんぶ見逃すじゃないか。
 あの絶妙な速さですぎてく景色が楽しいってのに。」
 夏は暑いし、冬は寒い。馬の調子しだいで到着時間もずれるし、天候によってはドタキャンされる。それでも馬車が好きなニンゲンだっているのにさ。

「あっついなぁ。」
 左右を見て前を見た。神殿正門前の路は東西と南に伸びていた。
 南の道は英雄墓地へと向かい、西は王国管理の大平原へと向かう道。東は生命神テナの神殿前を通って、街へと続くいつもの通学路。
 どっちを見ても、逃げ水が地面に浮かび上がっていた。
 うんざりするような暑さが、あたしをムシヤキにしそうだ。
 それでもあたしは歩きだした。少し迷って、東へ。
 理由はヒマワリが一本あたしを手招きしていたから。

 ちょっと歩いたら、真正面にテナ神殿が見えてきた。
 テナ神殿の桜は数こそ減ったが、いまだに花をつけていた。
 あまりに季節ハズレの景色にうすらザムさを覚える。

「やっぱ、あっちいこ…」
 独り呟いて、あたしは左に折れた。
 北はあまり行かない。
 ほとんど歩かぬうちになにもない草っぱらにいきあたるような退屈な路で、途中から山道になって、終着地は北の隣国だという。
 しかも、山のてっぺんには竜が住むという伝説がある。
 真実は知らない。知ろうとも思わない。

 あえて北の理由はここらでなかなか見ることのできない花が見られるから。
 今ならヒメサユリ、ユウスゲあたりかな。で、ササユリ、スズランは終わったころかな。
 だから、月に一度くらいは、と強行するのだ。
 山の麓まで一時間弱のけっこうな距離だが、今日は時間も早いし充分行き来できるはず。

 とちゅう、剣と軽めの鎧で武装した男女とすれ違う。
「あいつ、ニンゲンか?」
「どうだろ。私も変な感じがした。」
 ちょっとうつむいて、二人をやり過ごしたとき、そんな会話が聞こえてきた。すぐ横で会話がとつぜん途切れたから、あたしの存在を認めたのだろう。
 とくに話しかけられることはなかったが、通り過ぎたあとにまた気になる会話が続く。
「教えてあげたほうがいいんじゃないかな?」
「いや、逆に怪しまれるだけだろ。この辺のヒトだろうよ。」
 そんな会話。
 この周辺に不審者が出たという話は聞いていない。あれば、緊急の公会議が開かれるため、両親がまっさきに教えてくれるはずだ。

 あたしは、あの家が嫌いではない。
 王国の主教会ではないにせよ、それなりの地位で、上の下ていどの暮らしをしている。父母の中もリョウコウ。ユウシュウな兄がいるから、あたしの立場もプレッシャーがない。
 この歳にしては、やや過保護なところがあるが、自由がないわけでもない。

「やっぱりダレか呼び出せばよかったかなぁ。」
 独りぼやく。
 トモダチもいる。テキドな距離のおつきあい。カレシもいるし。
 年がら年中、ダレかがいるから、サビシくない。

 だからか…

 いまさら気づいた。一人散歩の理由。
 今日は疲れたからのんびり散歩と思っていたのだが、いまいちノリきれそうになかった。
 熱せられた地面はあいかわらずゆらゆらと蜃気楼のように揺れていた。

 遠くに十字路が見えた。あたしはこめかみを流れ落ちた汗を拭きながら、また思案する。
 どっちに向かおうか。

「お嬢さんどちらへ?」
 十字路にはいつの間にやら、オトコが独り立っていた。
 腰くらいの杖に両手を重ね、背筋を伸ばして直立不動で。この暑い夏の昼下がりに、真っ黒なスーツと真っ黒なシルクハットをかぶっていた。真夏の太陽に熱せられた地面を踏みしめてる足元が、蜃気楼のように揺らめいていた。
 曖昧にゆらゆらと消えていく気がする。
 まるで幽霊のように。

「また、あんたか。」
 あたしは思いっきりイヤな顔をした。
 生命神殿に住み憑く悪霊。ホントの悪霊かどうかは知らないけど。
 さっきすれ違った二人に教えてあげれば、退治してくれんじゃないだろうか。

 春のテナ神殿。そのときのキョウフがぶり返してきた。
 悪魔と向き合うには精神力がタイセツだ。そう授業で習った。
「それは『四辻の悪魔』のマネ?」
「なんだ、それは。」
 ダレもいない、ナニもない十字路にイツのまにやら現れて、
  「超絶ギターテクいりませんか」
 と尋ねてくる悪魔。もちろん契約すれば魂を奪われる。
「だったら、そこ通して。」
「どこに行く?」
「あんたに関係ないでしょうが。」
 背筋を幾多もの芋虫が這いまわる悪寒に必死に耐えながら、あたしはオトコと対峙した。
 沈黙が空間を満たした。

 ふと気づく。音がない。

 ヒバリもセミも鳴いていない。葉ずれの音も草のそよぐ音もしない。ヒマワリがゆらゆらと重そうに頭を揺らしていた。
「そうですね。私には確かに関係がない。
 しかし、あなたはルービスの知り合いだ。あなたにとっては関係なくとも、私はそれだけで関わる必要がある。」
「ルビ先輩? なんで?」
 確かにテナ神殿に居ついている以上、ルビ先輩と関わることはあるだろう。でも、なぜあたしも?

「あなたは頭がいい。 気づいてるのでしょう?」
「なにを、ですか? あたま、がいい、って…」
 ヤバい泣きそうだ。
 コワイ。
 このオトコはコワイ。
 得意のマシンガントークも愛想笑いも通じそうにない。きっと全部あばかれる。あたしは不安定なココロで、ユラユラと視線をめぐらす。
 少し遠くにテナ神殿が見えた。
「桜がきれいですね。」
 えぇ、不可解なほど。
「でも、今は、ヒマワリが、満開です。」
 かろうじてそれだけ言い返した。
 夏に狂い咲きする桜を不可解に感じるのが、頭のよさだというのなら、みんな天才だ。だから、あたしは天才なんかじゃない。天才なんかじゃないから、ホントにおねがいだから、ココから解放してください。
 あたしは必死に神に祈った。

 祈り通じず。

 ノドが渇く。
 ギラギラと照りつける太陽のせいなのか、オトコが醸しだすサムさのせいなのか、ぜんぜんわかんない。

「あなた、ダレ、なの?」
 祈りは通じそうにないので、現実へと戻ってきた。

 しかし、搾り出すように口にしたあたしのギモンに、オトコが答えることはなかった。
 十字路の北からまたダレかが歩いてきたから。カタに大鎌を担いだ女、いやまだ女の子と呼んでもいいだろう背格好だった。
 ピンクの髪と漆黒のゴシックドレス。それから、本人より長く大きな、死神を連想させる鎌。バルーンスリーブにかたどられたブラウスのそで口からのぞく腕なんて、細く真っ白で凶悪な鎌をぶん回す筋力があるのかと疑ってしまうほど。
「なんだ。ずいぶんと今日は客が多いな。」
「ずいぶんと私らにちょっかい出してくるのね。今日の目的は何?」
 その女性はツメたい、無感情な口調でオトコに言った。
 あたしを見つめ、一瞬フシギそうな顔をした。
 しかし、
「そっちこそ何用だ。貴様を招いた覚えはないぞ。どうやってここに入ってきたんだ?」
 と問われたから、興味は向こうに移った。ハッと鼻で笑う。
「こんな路の途中に魔法空間があったら、とうぜん立ち寄らせてもらうわよ。
 で、こっちの質問に答えてないわよ。」
 オトコの表情は変わらない。しかし、動揺しているようにも見えなくもない。
 オトコのほうを向いたまま、大鎌を担いだ女性がなにか放った。
 あたしがアワててそれを受けとると、それはオレンジジジュース。許可を得る前に一気飲みする。

 あたしを差し置いて、この二人はなにを言ってるんだ。

「いいわ。きちんと名乗ってあげる。
 そちらのお嬢さんは聞き流してね。ホントはここから脱出したあとに名乗るつもりだったんだけど、このおっさんがそれを許してくんないみたいだから。」
 一触即発。
 二人の空気がピリピリと痛い。
「私はシータス・ミアロート。死霊術師ミアロート家の直系よ。
 あんたがいつからこの世界にいるのか知らないけど、私だって千年単位でこの世界にいるの。
 ちなみに、カラトン神大学一年生の女子でもあるわ。そういえば、大学でもお遭いしたわね。
 しかも、大学の教員に化けて、何のつもり? こないだは逃げられたけど、今日こそ話してもらうわよ。」
「カラトン神大学一年って、あたしのお兄ちゃんといっしょ?」
 ようやくマトモに声が出た。
 シータスと名乗った女性が驚いたように、そして納得したようにあたしに言った。
「どおりで見たことあるような気がしたのよね。もしかして、フィース・ラホブ神殿のウェイテラさん?」
 あたしはコクコクと何度も肯いた。

 にしても兄のトモダチにゴスっ娘?
 想像できん。

ツバの直径が彼女の肩幅ほどもある丸高帽の下に浮かんだ笑みは、角度のせいか、言葉と同等の余裕は感じられなかった。
 そんな少女を見つめながら謝礼と問いかけを試みた。
「あの、このオトコのヒトってダレなんですか?
 あ、ジュースありがとうございました。」
「だってよ。きちんと名乗ったら?
 あ、いえ、どういたしまして。」
 ヒニクじみた笑みを浮かべながら、少女は横目にオトコを睨んだ。
 オトコの貼りついた笑みが崩れることはない。ただ、声質が変わった。
「ごちゃごちゃと五月蝿いオンナどもだ。ここで殺してやろうか…」
 声を発したとたん、周囲の空気が凍った。

 まただ。
 外部的な寒さじゃなく、内臓から凍るようなサムさ。

 あたしの膝がカクンと崩れ落ちた。体がガタガタと震えだす。体内の水分をすべて垂れ流すのではないかと思えるくらいに、筋肉が弛緩していた。
「はい! 自分を保つ!」
 パンっとかしわ手をうたれた。そして、力強い声に我に返った。
 あと少しで、漏らすトコだった。かろうじて涙が垂れただけ。
「ふーん。よく耐えたわね。」
 ピンク頭の女性が感心したようにあたしを見下ろしていた。
 涙目で彼女を見上げる。ニコリと微笑まれた。
 あたしがブジなのを確認したのだろう。再度オトコをにらみつけた。
 毅然とした立ち振る舞いがカッコいい。
 涙をぬぐった。

「パパ。やるよ。」
「いいのか? ヤツの…」
「余裕がない。」
「了解。」
 ダレと会話してんだ? ともう一度見上げた。
 ペシンと頭を叩かれた。弛緩したままの体が地面に這いつくばる。
 あたしの視界には膝丈の黒革編み上げブーツ。ちっこい足。サイズいくつだろう。

 直後、あたしの頭上でブンと何かがうなった。それが横なぎに振られた大鎌だと気づいて、また冷や汗が垂れる。それいじょうに動揺するオトコ。
「まさか…」
「なぁに? 自分の結界が壊されるとは夢にも思わなかったって?
 もう少し見る目つけたら。」
 再びヒニクたっぷりにシータスさんは笑んでいた。その悪魔じみた笑みを見ると、自分に向けられていたのが微笑だったんだと思い知らされた。

 むわりと湿った風がまとわりついた。
 せみの声がうるさい。
 元の居場所にもどった…らしい。

「ペシタ! どうした?」
 西の道から突如兄が登場した。
「あれ? シータと教授…なんで二人がこんなトコに…」
 あたしを守るように二人との間に立った。
 なんで追ってきたのかは問わない。おそらくあたしが外出したのを見て、両親が派遣したのだろう。

 さらに、
「どこで油売ってんのよ!」
 東のテナ神殿からルビ先輩が現れた。おかしな組み合わせに、首をかしげていた。
「コナ先輩? ペシタ? と知らないヒト。
 どういうこと?」
 困ってあたしは全員を順繰りに見渡した。
 テキカクな表現が思いつかない。

「コレってあなたのトコで飼ってんの?」
 と親指でオトコを指し示しルビ先輩を問い詰める。
 シータスさんの悪魔の笑み。ルビ先輩の怯えきった表情。
 正直ダレがあたしの味方で、ダレが良いヒトで、ダレが悪いヒトなのか混乱してきた。
 強いて言うなら、悪魔に囚われてたのが、ほかの悪魔に奪いとられた感じだ。
 それくらい、ワルモノな笑みだった。

「本当に今日は客の多い日だ。」
 オトコはとってつけたような笑顔をはりつかせたままルビ先輩のほうへと歩いていった。
 そしてそのまま、テナ神殿のほうへと去っていく。

「あら、また自己紹介ナシに去ってったわね。」
 シータスさんのつぶやきにわずかに違和感を感じた。
 ジブンで結界破ったんじゃなかったっけ?
 しゃべらせるならあの状態のほうがよっぽどツゴウがよかったんじゃないだろうか。
 しかし、口には出せなかった。

「よくわかんないけど、明日きちんと話してもらっていい?」
 あたしにそう言うとルビ先輩もオトコを追っていった。
 桜の下のイメージがわきあがってくる。
 今さらながらアレがダレだか再認識した。
 あたしがルビ先輩にカレシってからかったオトコだけど、アレをカレシ扱いしたのはホント失礼だった。
 日常のまま関わっていいオトコではなかったという後悔が押し寄せる。

 で、もうひとつ後悔。ってか、グチ。
「あたしのヒメサユリ…」
 つぶやいて、ようやく日常を実感する。

 兄が訝しげにあたしを見た。ムシした。
「シータ。説明してもらっていいか?」
 あまり気にもとめずに質問はゴスっ娘へ。
 キビシイ表情で彼女は肯いた。
 ツヨくにらむ視線の先には、ヒマワリ畑と季節はずれの夏桜。

 アレはナニを吸って生きているんだ。

 そんな目だった。

九月

  シータス・ミアロートの物語
  大学一年・九月

 初めて転生したとき、つまり二回目の生を受けたときだが、そのときの記憶すら曖昧だ。
 父と母は生きていたのだろうか? 叔母は四十歳前後で時を止めていたが。
 そうだ、生きているわけはない。
 一度目の生は五十年。
 そのときには、父母とも戦乱の中でその命を散らしている。
 では、私が二度目の生を受けたとき、父母も転生していたのか? そもそも転生していたとして、それを両親と呼ぶべきなのだろうか。
 転生するたびに残る記憶。転生先で何度も繰り返し視てきた化け物に怯える両親と兄弟姉妹と友人たち。何故か隣にある木製の箱。巨大な鎌に変化するカリンバという民族楽器。それを父親と呼ぶ私。
 コレは本当に私のものなのか。
 私の記憶は本物か。
 それとも気が狂っているだけなのか。
 私が父親と言って語りかけるこの箱は、実は、ただの変哲もない箱なのではないだろうか。転生の記憶も父親と呼ぶこの箱も、すべては現実世界に適合できない私の妄想でしかないのではないだろうか。
 答えはきっと導き出されることはないのだろう。

「ということで悩んでんの。」
 重たい告白、

 のつもりだったのに。
「え? べつにどっちだっていいんじゃないですか?」
 私は二つ年下の少女の言葉にあっけに取られた。
 ポカーン。
 擬音にしたらそんな音が聞こえるのだと思う。
「悩んでるシータさんにはツラいかも知んないけど、その友達のヘスさんは今のシータさんを信じてんでしょ?
 あたしも、モノ識りなヒトだなとか、オトナっぽいヒトだなとかしか思いませんよ。」

 あっけらかんと季節限定のラ・フランスソフトクリームにかぶり付く少女は、こないだ知り合ったばかりの和神フィース・ラホブ神殿の神官ピェシータ・ウェイテラ。大学の友人コーノスの妹だ。

「いや、まぁ、そうなんだけどさぁ…」
 相手のプライベートを引き出すには、自分の過去をそれなりに晒さなければならない。何かしらの傷をもっているニンゲンには、自分の傷も晒そうという気になる。
 もちろん、お互いの信頼は必須だ。
 だからこその、私なりの話術のつもりだったのに。
「もしもシータさんがバケモノで、あたしのことを頭からかぶりつくためにここにいるんだとしても、あたしの命の恩人には違わないでしょ?
 あたしはそれで一日生き延びたんだもん。
 で、こうやって今もおしゃべりできてるじゃないですか。それって、スゴいことだと思いませんか?
 あたし、あれだけコワイ目にあっても、まだ生きてるんですよ。」
 マシンガントークとはこういうのを表現する単語だ。いろんな意味で、この娘はすごい。
「それに、正直、あたしの想像の域を越えちゃってます。
 前世のキオク? じゃないや、転生前のキオクが残ってるなんて、どう想像すりゃいいんスか。あたしなんて昨日の晩ゴハンすら覚えてないですよ。
 ついでに訊いてもいいですか?
 ダレかムカシのヒトに話して転生一つ前のキオクをすり合わせたり、パパさんの声をどうにかダレかに聞かせたりしたんですか? そうすれば、シータさんの話のウラ取れません?
 あ、べつに疑ってるわけじゃないんです。ただ、そんなにフアンなら、証明しちゃえばいいのかな、なんて考えちゃっただけで。
 ゴメンなさい。いらぬお世話ですよね。」
 そうね、窓の外の並木道を眺めながら、そう呟くのがやっと。
 完全に相手のペース。正直私は悔しさで歯噛みした。

 ホントは自分の話をエサに、和神殿と生命神殿のかかわりやら過去やらの情報を引き出そうと目論んでいたのだが、相手のほうが上手だった。
 お手上げ。この娘には小細工は効かない。
 と、勝手に駆け引き相手に仕立て上げ、勝手に負けを認めてしまった。
 もちろん、彼女はそんなことおかまいなしだけど。
「で、あたしはナニをお話しましょうか?
 なんか一気にしゃべったらノド渇いたです。なんか頼みましょ。」
 ペシタはそう言ってカモミールティを注文した。私もアイスミルクティを頼んだ。
 いや、まだまだ、先は長い。落ち着かなければ。
「あたしはその辺にいる女子高生だから、なんにもネタがないし…お兄ちゃんのこと?
 あ、もしかしてお兄ちゃんのコトがスキとか。
 だったらダメですよ。お兄ちゃんには意中のヒトがいるんですから。あのヒト、一途だからシータさんにはなびきません。
 時間をかけてでもオトしたいって言うなら…でも、やっぱりダメです。あたし、お兄ちゃんに応援するってセンゲンしちゃったんで。」
「その話にも興味あるけど、今日は違うこと訊いておくわ。
 あのね、ペシタかコナって、何か楽器できないかしら?」
 マシンガントークを無理やりさえぎって、あたしは問うた。

 コナが好きなヒトってダレだろ?

 ダメだ! それよりも目的を果たさなければ。
「楽器ですか?
 だったら、あたしたち、二人とも吹奏楽部ですよ。あたしは打楽器と鍵盤類。
 お兄ちゃんは、なんとフルート。」
「げ…マジ…似合わな…」
 思わず本音が出てしまった。やるなら逆じゃないの、と心中ツッコんでしまった。
 口には出さなかったが、表情には出てたらしい。ペシタがしたり顔であたしを見ていた。
「やっぱ、そう思いますよね。
 でも、うまいんですよ。ウチの神殿でも定期的に演奏会が開かれちゃうんですから。しかも、ソロで。
 ときどきあたしと隣のテナ神殿のルビ先輩が混ざるときもありますけど。
 あ、ルビ先輩は夏に会いましたよね。あの悪魔男爵と一緒に暮らしている変わり者です。」
 悪魔男爵とか変わり者とか言いたい放題だなこの娘は。
 とは言え、その評価はやっぱり正しいし、矢継ぎ早にしゃべり続ける割に会話の内容にムリやムダがない。
 ホントすごいな。

「あのさ。だったら神殿に変な楽器ってないかしら。吹奏楽では絶対使わなそうな民族楽器の類なんだけど。
 例えばこんなのとか。」
 カリンバをテーブルに置いて、私は彼女をじっと見つめた。
 首をかしげて、しばし黙り込む。
 やっと弾雨がやんだ。
 私は一息つくように、ストローでミルクティをすすった。氷がとけて薄くなっていた。
「んと…
 だったら太鼓。二つつながったコレくらいの大きさのヤツ。」
 ペシタが手で示したのは、彼女の肩幅くらいでテーブルからアゴ下くらいの高さのものだった。
「ボンゴかな、多分。」
 名称が出てこないらしい。
 私が言っても首を傾げるばかりだった。
「あと、お兄ちゃんはオカリナ持ってる。
 そういえば、ルビ先輩も竪琴をもってたなぁ。
 なんで?
 偶然にしては妙に集まってません?」
 勘も鋭い。
 カリンバはさておき、ボンゴもオカリナも街の大衆向け楽器店では売っていない。
 どこかで情報を得て、目的買いしない限りは手元に届くことはないのだ。

「ルビ先輩の竪琴も結構めずらしいですよ。
 吟遊詩人がカッコよく爪弾く、ポロロンってのじゃなく、鹿の頭に弦が張ってあるみたいなヤツなんです。
 あ、角は枝分かれしてませんけどね。
 みんな、名前がわかんないから、とりあえずハープって言ってましたけど、正式名称は違いますよね。」
「おそらくリラって楽器だと思う。
 ホントにマイナー楽器ばかり集まってるわね。ねぇ、どこで買ったか知ってる?」
「お兄ちゃんなら知ってるかもしれませんけど、あたしは気がついたらそれらが部屋に転がってた覚えしかないんですよね。
 ごめんなさい。」
 ペコリ。頭を下げられた。

「あ、ちょっとだけいいですか?」
 そう言って、彼女はテレパスを弄りだす。
 群青の空に横向きのヒト。小さな色砂がちりばめられているのは星をあらわしているのかな。白いヒトは地に跪き、空に祈りをささげていた。
 吊り下げベルトのついたホットパンツにダボついたカラフルな長T、ムラサキノキャミ、指ごとに色の違うドハデな爪のマニキュア、厚底サンダル。
 それらに比べると、あまりにギャップのある神秘的な絵柄だ。
 私は漠然とテレパスが、この少女のホントの自分ってのを映しているような気がした。
「すみませんでした。で、あとはなんでしたっけ?」
 まったく隙のない笑み。
 なんとなく、この辺で切り上げたほうが賢明だろう、と思う。
「じゃあ、最後にもう一つ。」
「なんですかぁ?」
「コナの好きなヒトってダレ? どんなヒト?」
 あくびをかみ殺して涙がにじんでいた目が何度も激しく瞬いた。
 私はちょっとだけ後悔したが、たぶん訊かないと今晩気になって眠れないから訊いてみたのだ。
「そんな顔しないでよ。狙ってないってば。」
 ニヤつくペシタに肩をすくめて溜息をついて見せた。
「教えてあげません。」
 彼女はそう告げて、楽しげに去っていった。


 その後姿を横目に見ながら、再度大きく溜息をついた。
 背後の席からクスクスとこらえた笑いが聞こえる。
 ペシン!
 振りかえりもせず、肩越しに笑い声の張本人を叩いてやる。
「いやぁ。すごかったねぇ。」
 私の後ろに座っていたのはヘスだ。
 ウチらの会話を盗み聞きさせていたのだ。
 そんな指令を私が出したからなのか、濃紺のスーツにワイシャツを着て、斜めストライプのネクタイまでしめて、しかもメガネもいつものモスグリーンじゃなく、黒ぶちメガネだ。黒の革靴できっちりと固められた足を組んで、難しい顔して新聞呼んでる。ふだん読まないくせに。
 あまりのわざとらしさに思わず笑ってしまった。
「あの娘、計算づくかな?」
 笑いの原因を問い詰められることもなく、ヘスが訊いてきた。
「どうだろうね。
 でも、頭がいいことは確かね。むしろ、全部話して協力してもらったほうが有利かも。」
 彼ら兄妹を巻き込みたくないヘスの気持ちもわからないわけではない。
 でも、実際のところ、ウチらが何をしているのか黙ったままで聞き取り調査をするのは心苦しい。
「悪党とかどっかコワれたウチらの家族を相手してるほうが楽だわ。」
 私がぼやくと、同感、とヘスが苦笑した。

 ヘスが飲みかけのコーヒーを片手にこっちのテーブルへと移動してくる。
「先々月だっけ? ルービスさんの竪琴の写真をディルが送ってきたのって。」
「たしか、そう。これだろ?」
 ヘスがテレパスの画像を表示して渡してきた。
 一つ一つ詳細に見ていくほど違和感を覚える。
 ルビはコレをいつから持っているか記憶がない様子だった。今日のペシタも同様だ。
 コナにはまだ確認していないが、答えは予測できた。
「この手の楽器を持っていないの、ヘスだけなのよね?」
 彼が肯定した。
 ルビのリラ、ペシタのボンゴ、二人とはるか昔から持っている私のカリンバ。さらに、ディルサの部屋から買った覚えも、貰った覚えもないマラカスが出てきた。
 共通しているのは、楽器を所持したときの記憶がない。
 となれば、コナの持っているというオカリナも同様だろう。
「マラカスはもしかしたら僕、所有なのかもしれないけどね。」
 そう。ディルが以前住んでいたアパートはある災害で住めなくなった。
 今住んでいるところは、ヘスとその父親が住んでいた場所だ。ヘスがこの街へ、父親は王国の辺境にある仕事場へと住まいを移している。
 となれば、その可能性は高い。
「もし、私たちとあの兄妹との出会いが必然だとしたら…」
「ダレかが意図的に僕らに楽器を配ったことになるってことになるね。生命神殿の神官長を渦中として。」
 二人で考え込んでしまう。
 もし、それが真実だとしたら、ダレの何の意図があったんだろう?

「どっかの金持ちの吹奏楽部や音楽志望者への寄付。」
「あんたらみたいな金持ちヴィクセン兄妹へ渡す理由と、使い道に戸惑うようなマイナー楽器を寄付する理由がない。」
「マイナー楽器の普及活動。」
「だったら、広報活動が必要。記憶を弄ってまで所有させる理由がない。」
「本当は親かダレかに買ってもらったのを皆して忘れている。」
「可能性がないこともないけど、そろいにそろって忘れたこと自体を忘れていることに説明がつかなくなる。」
「そろってウソをついてる。本当はどこで買ったのかを知っている。」
「全員がウソをついていることは、多分ないと思う。
 ルビとペシタはあっても、私とディル、もしくはヘスが記憶がないことをごまかしても意味がないもの。」
 私たちは、可能性を検証して一つずつ潰していった。その結果、何かしらの意図は感じるものの、それが何なのかがわからない。
「そもそもシータの持っているカリンバと、他の四つは同じ類のものとみなしていいのか?」
「そこなのよねぇ。」
 私の記憶では、いつからコレを持っているかはわからないけど、転生するたびに持っていた記憶だけはあるのだ。つまり、それだけの過去から存在している代物だ。
 対して、残る四つは、少なくとも私の周囲にはなかった。
「過去からあるとすれば、たまたまこの時代に、この街に集まったってことになるよね。」
「でなければ、コレがオリジナルであれらはコピーである。」
「そうなるね。」
 ピン、とヘスがカリンバの鉄ベラを弾いた。
 変な音、とどっかのテーブルから聞こえてきた。

「シータのパパは? 何も教えてくれないの?」
「それも疑惑の一つ。鎌に変化はするくせに、呼びかけには応じないの。」
 私のカリンバには転生する前の一番最初の父親が封じられていた。大鎌はその父が使っていた武器だ。
 だから、私は父の記憶と能力を自分に憑依させることによって、自分の倍はあろう大鎌を振るうことができるのだ。
「私は自力では武器を振るうことはできないわ。変化させることすらできない。
 だから、パパがこの中にいることは確かなの。」
「でも、会話はできない、と。」
 私は黙って肯いた。
 それが、父の意図なのか、それとも外部から力を制限されているのかすら、私には判断できなかった。
「私がどれだけパパに依存していたかを思い知ったわ。」
 リアルに私の身を守っていた事実だけではない。
 パパがこの中にいることが、私の記憶と存在を肯定してくれていたのだ。
 その意味では、ペシタへの独白は真実だ。

 私は今、揺らいでいた。

「ペシタが、今の私を肯定してくれたからね。本人にその意図があったのかは知らないけど。」
「何千年生きても、自己肯定できないのかぁ。
 だとしたら、僕が自分を肯定できるのはいつなんだろうね。」
 ヘスの苦笑とぼやきで、私たちは一息ついた。
 考えても答えが出そうになかった。トイレに立ったついでに、レジ脇の新聞を持って戻った。
「あいかわらず、テレパスでなく新聞の情報なんだな。」
 テレパスでも最近のニュースを知ることはできる。
 でも、私はあまりテレパスをそういった使い方をしていない。苦手なのだ。
 反対に、普段文字ばっかり見てるヘスは紙媒体のニュースを読むことがない。
 ムダにヘスに新聞を手渡した。
 やっぱり今日の格好にお似合いのアイテムだな。
 それだけ確認して、ポカーンとした顔をしてるヘスから新聞を奪い去った。
「情報は早いけど、信頼性がねぇ。やっぱりプロの言葉じゃないと、私はダメだわ。
 プロだから信頼性があるわけじゃないけど、少なくとも自分の言葉に責任はもってるから。」
 そういった意味では古いニンゲンなんだと思う。

 一面記事をぼんやりと眺めながら、情報を詰め込んだ。
「また、北の山地に竜が出たのか。」
 私に話しかけたのだろうか。上目遣いに彼を見ると、視線はテレパスのまま。
「みたいね。
 コナに言っておかなきゃ。ペシタがあまり北の山に行かないようにって。
 でも、あそこってオミナエシとかリンドウとかけっこう群生しててすごくキレイなのよねぇ。」
 あのシスコン兄貴は、私がペシタと知り合ったのを、これ幸いと監視を命じてきた。
 それはうすうすペシタも気づいているらしく、言葉の端々に兄に対する拒否が垣間見えた。今日はめずらしく兄のフォローに回っていたが。

「家族っていいわよね。」
 私の独り言にヘスが反応する。
「せっかく普通の家族なんだから巻き込みたくないよな。」
 同感。
 私もヘスも、ディルもあまり家族には恵まれていないから。
「ヘスはディルがいるからいいわよ。
 父親は、まぁ、残念なオトナだけどね。」
 苦笑するヘス。
 彼とディルの母親が違う段階で、コドモには残念なオトナに見えただろう。
「かなぁ?
 ディルを家族とは思えないから…なんとも…」
 コヤツはいまだ諦めてないのか。
 私は心の中でツッコんだ。
「最近さぁ、ディルにテルするとダレかと通話中なんだよなぁ。
 さっきメール送ったのに返ってこないし。」
「バァカ。ナニサマのつもりだ。
 ったく、あんたのシスコンぶりは、兄の域を越えてるよね。コナを見習え。」
 照れるなよぉ。
 ぜんぜんいいこと言ってないし。
 でも、正直ダレかをそんなに想うことができることは、羨ましい。私にもいつかそういうヒトが出てくるのだろうか。

 千年の時を経て、桜が咲かん。

「思い出し笑いは気持ち悪いぞ。」
 マジ顔でとがめるヘスに、カリンバを投げつけた。 

十月

コーノス・ウェイテラの物語
大学一年・十月 

 今日はヘスと一緒じゃないの?

 会うヒト会うヒトにそんなことを聞かれる。男女、学生も教授も。
 おかげで俺の会話量は以前に比べれば、格段に増えた。交友関係も、ペシタが羨むくらいに広がった。
 テストが近くなると、必ずといっていいほど俺のところにクラスメイトが集まってきた。

「それは友達って言わない!」
 ペシタにはそう呆れられたが、俺は正直嬉しかった。ヒトに頼られるということがこれまでなかったからだ。
 それに俺にとって試験は、他人を蹴落とす作業で、一緒に助け合いながら行う作業ではなかった。いろいろなヒトと話し合いながら、お互いを補い合いながら、難問を解いていくということがこんなに楽しいものだとは。

「そりゃ、ペシタも心配しますよ。どんだけの人生だったんですか。」
 呆れるようにルビが溜息をついた。

 夏の事件から二ヶ月が過ぎた頃、突然ルビから相談事を受けた。大学の図書館を使いたいから、口利きして欲しいとの事だった。
 大学図書館は一般にも開放している。
 とはいえ、大学関係者の人物証明が必要だったり、教会関係の聴講生としての身分証だったりが必要とされる。
 面倒な手続きは必要だが、神学教育の一環として王国が推奨しているのだ。
「助かりました。」
 大学図書館の玄関をくぐり、受付を済ませて終わり次第声をかけてもらえるよう、ルビに言った。こっちはこっちで定期試験も近かったこともあり、図書館内で自由にしてもらうことにしたのだ。

「おぉ、コナ来たか。おや? カノジョと待ち合わせじゃなかったのか?」
 一緒に試験勉強をする予定だった男友達が、きょろきょろと周辺を見回していた。
「あぁ、さっそく目的の書架へ行ってもらった。俺が試験だからと気を使ってくれたらしい。」
「はぁ? なんでだよ。女子高生だろ? 俺らに紹介しろよ。」
 どいつもこいつもカレシカノジョと頭の中ピンク色だな。
 なんて思いながら、俺は彼らを勉強のテーブルに促した。
「終わればそのうち来るから。まず、こっち終わらせよう。」
 それに男に対しての愛想は多分ないぞ。
 心の中で続けた。

「さて、では早速…」
 と教科書とノートを広げた矢先、コツコツとヒールが床を叩く音が図書館に反響する。
 どこのヒステリーだ?
 と横目にした俺の脇にルビが立っていた。
 予定より早い、どころかさっき別行動し始めたばかりだ。
 男どもが今にも歓声をあげようとするのを片手で制し、尋ねた。
「ルビ、どうした?」
 なぜか涙ぐんでいた。
「閉架に入れてくんなかった。」
「はぁ?」
 ルビの言ったことが最初理解できなかった。
「閉架って閉架図書のことか?」
 黙って肯く。
 そりゃ、無理だ。
 俺はさも当然のこととばかりに彼女を諭す。

 大学図書館には一般人が自由に閲覧できる開架図書と、許可申請が受理されたヒトしか閲覧が許されない閉架図書とがある。
 正直俺ら一学年の学生が閉架図書閲覧が許可されることすら、ほぼないのだ。

「閉架図書って、一体何を調べたくて来たんだよ。」
 俺は呆れ口調で言った。
 その開架閉架のシステムは、市立図書館や王立図書館だって同じ。学問を志すことのないヒトビトならまだしも、仮にも神官職を目指すルビが知らなかったわけでもあるまい。
「もしかして、お前わかってて忍び込もうとしたんじゃないのか。」
 だから格好もそんななのか。
 黒のパンツスーツに白のブラウスなんて、就職活動じゃないんだから、おかしい気がしてたんだ。
 許可も得ずもぐりこもうとして、当然叱責され。だから泣いている。
「場所を変えよう。」
 周囲が興味津々といった目線を俺らに向けていた。

 俺は慌てて彼女をつれ、図書館の二階に登る。
 一角に休憩スペースがあるからだ。それに二階は神学以外の、神大学とはあまり関係ない教科の書籍が並んでいるから、ヒトが少ない。
「ルビ。閉架図書が見たいなんて一度も言わなかったよな。」
 詰問する気はない。確認しただけだ。
 なのに、彼女は首をすくめて、俺のほうを見ようともしない。
「ふぅ…俺は役に立ってやれないよ、それじゃ。正直、俺自身に許可が下りないからという理由もある。
 だけど、それ以上にお前の目的がわからない。」

 閉架に入れない理由は多々ある。
 一般市民が使える王国各市の図書館の閉架図書であれば、単純に貴重本の保護のために許可制にせざる得ない。それだけだ。
 しかし、大学図書館と王立図書館の閉架図書はそれだけが理由ではない。確かに親子三代金を稼がずとも暮らしていけるくらいの価値がある高級本も存在するらしい。
 それ以上に、王国関連本が多いというのが理由だ。秘密保持のため。王国の暗部が書き連ねられた書籍が数多く存在するのだ。
 当然、何かしらの情報を得たことが知られれば、どこぞやの組織から追われる可能性だってある。
 たとえ、見ていないと言い訳したところで、許されることはないだろう。過去に頭の中だけを抜かれた連続殺人だって起こっているのだ。
 また、閉架図書の空間があまりに広く、過去に智に魅せられた行方不明者が続出したから。
 そんな真偽が怪しまれるような話もある。

 俺の説得が通じているのか、不安になる。
 泣いているような、怒っているような表情のままうつむくルビから、納得といった様子は見られない。
「どうしたの?」
「ヘスか。」
 おそらく下の友人に聞いたのだろう。
 特に突っ返すことはせず、一緒に話を続ける。
「だいたい事情はわかった。僕が何とかするよ。」
 ルビが「本当?」と表情を変えた。文句を言おうとした俺を無言で制した。
「ただ僕でも許可は出ないと思うから、先生に頼むことになるけど大丈夫?」
 不安げに肯くルビをその場に残し、俺についてくるように言った。素直に従い、一度中庭に出る。
「どうすんだ?」
「多分だけど、生命神殿に住み着いているアレの話だろうと思うんだ。」
「俺もそれは考えた。」
 だからこそ下手なニンゲンに頼めないんじゃないのか?
 俺の疑問をさとったのだろう。ヘスはポケットからテレパスを出して、誰かと話していた。テルが終わるのを待って、俺はヘスに尋ねた。
「シータか?」
「いや、彼女でも閉架に入るのはムリ。身内に王立図書館のコネがある。」
 確かに光明神殿の大司教だ。だったら、許可は出るだろう。

 テルから十分そこらでそのヒトは現れた。
 まるでキャンパス内に待機していたかのようなスピードじゃないか?
「ヘスゥ…父親をパシリに使うとはいいご身分じゃないか。」
 眠そうな顔で現れたのは光明神大司教ではなかった。なんかの薬品で薄汚れた白衣を着た男性。銀縁のメガネをとっかえれば、ヘスとおんなじ顔だ。
「さすがに孫の私用に顔出せるほど、大司教様は暇じゃないよ。」
「僕だってそんなに暇じゃないんだけどなぁ。」
 あからさまに不満げな顔をしているこの男性は…
「ヘス、どちら様?」
「あぁ、僕の父親。光明神殿からは破門されているし、祖父からは親子の縁を切られているけど、王国にはコネがある。そんなヒト。」
 仲がいいのかわからない紹介をされて、さらにいっそう不満げだ。俺は曖昧に笑みながら、その男性に頭を下げた。
「父さんは今からここの教授ね。その娘はここの学生じゃないから、顔知らないだろうし。うまくだまして、その娘から情報も引き出して欲しい。」
「ムチャぶり。」
「そんなの承知の上。」
 そんな会話の後、少しだけ大学教授っぽく体裁を整えた。とはいえ、白衣を脱いでもらい、ヘスのスレートグレーのジャケットを着せなおしただけだが。かすりの入った石版みたいな灰色がマッドサイエンティストにしか見えなかった男性を、驚くくらい立派な大学教授に仕立て上げた。
 マッドサイエンティストは失礼か。あ、ツッカケとローファー取り替えろ。
 戸惑う図書館司書からお偉いさんに連絡をつけてもらい、訝しげに出てきたお偉いさんにこっそり名前を告げるとあっさり許可が出た。
「あとその娘、ルービスさんに危害が及ばないように細心の注意を払うこと。」
 どっちが父親かわからなくなるような会話を済ませて、ルビと一緒に閉架に消えた。

 閉架図書は時空を越えた迷路だ。なんてウワサもあるが。
「大丈夫なのか?」
「何が?」
 父ならだいじょうぶ、とこともなげにタバコをふかすヘスが知らないニンゲンに見えた。
「なぁ、どうしてこんなリスクを犯す? できなければ断ればいいじゃないか。」
「そうなんだけど…」
 言い淀む。
 とりあえず別方向から話を引き出すか。
「ヘスの父はいったいどこから登場した?」
「ん?
 あぁ、父さんの職場って、王国各市のどこかには通じてるから。カラトンだったら、光明神殿と大学図書館。それから、どこだっけかな。
 とにかくそんな理由で即召喚できる都合のいい使い魔なの。」
 なるほど。〈空間転移〉の魔法システムか。金持ち神殿はやることが違う。
「だからといって、ホイホイ息子の呼びかけに応じるものなのか?」
「今回はネタでつった…あ…」
 人を散々素直で真面目で、なんて言ってくれたけど、ヘスも似たり寄ったりだな。
 観念したようにうつむいた。
「隠し事はするなよ。」

「あのさ。俺って善人だと思う?」
「唐突に何を?」
 真面目な顔して俺をまっすぐに見た。
 父親の白衣を羽織った男はやっぱり狂者に見えた。薄青のギンガムチェックシャツとチャコールグレーのスラックスというキレイめな服が白衣からのぞいているから、かろうじてヘスであることを認識できる。
 そんな感じでしかない。
「そうだな…善人だと思っていた。ただ、今日のお前は腹黒い気がする。」
 正直だね、とヘスが苦笑した。

「夏の事件は妹さんから説明受けたか?
 アレと、それから去年の冬の事件知ってるだろ?」
「ルビのいる生命神殿の失踪事件だよな。父親の自殺ということで、ルビからは聞いているが。」
「それに疑惑が浮上している。」
 俺は驚きで大声を上げそうになった。
 喫煙所は分煙のため隔離されているから、外に話し声が漏れることはない。それでも俺は周囲を確認してしまう。
「そんな…誰がそんなことを…」
「僕。」
 言葉を失う。
「はぁ?」
「正確に言えば、僕と父とシータ。
 だからわざわざ呼んだの。」
 なんと言っていいのか、わからずにパクパクと口元だけが動いた。
 ヘスの苦笑いが悪人の嘲笑に見えた。
「お前らに何の権限があるんだ。」
「ないよ。そんなもの。」
「だったらなぜ!」
 ルビはようやく父親の死というショックから立ち直ったんだ。それをなぜ、公的機関でもなし、本人からの依頼でもなし、そんな奴らが蒸し返すんだ。
「理解に苦しむ。」
「理解しろなんて言わないよ。コナを巻き込むつもりはないから。たまたまコナがルービスの知り合いだって知ったから、利用しただけ。」
 なんだよ、それ…
「悪い。俺は冷静に考えられない。」
「だろうね。ただ、ルービスには俺らのことを言わないで欲しいんだけど、それもムリか?」
 ヘスを信じられない、のか?
 いや、何か事情があるはずだ。中学生のときの記憶を呼び戻す。

 王国を敵に回してでもヘスは自分の正義で動いていた。
 初めてその話をしたとき、ヘスには興味本位で手伝ったと話した。しかし、半分ウソだ。俺はヘスの正義を信じて、いても立ってもいられずこの街から首都まで走ったのだ。
 そんな自分と再会したとき彼は「嬉しかった」と言ってくれた。

「俺はお前の正義を信じていいのか?」
「正義かぁ…正義かどうかは結果と他人の評価だからなんとも…」
「…わかった。好きにしろ。俺は俺の正義でお前らのやることを見守ろう。
 ただしこれだけは言っておく。」
 ヘスを見下ろすように睨みつけた。拳をその胸元に突きつけた。
 ヘスはたじろぐことも、目をそらすこともなかった。
「ルビを守る。あれが傷つくようなことはしない。
 夏の事件も、と言ったな。だったら、ペシタもだ。」
「了解。」
 少し淋しげに見えたのは、俺が自意識過剰なだけだろうか。
 だからというわけではないが、言葉を付け加えた。
「それと、お前とも今までどおりの付き合いを続けたい。
 この二つの両立は可能だと思うか?」
 驚いた表情を見せた。そして、崩れた苦笑を浮かべた。
 その顔を見て、ようやく気づいた。こいつなりに覚悟を持って俺に話したのだ、ということ。
「わから…いや、ありがとう。」
 小声でヘスは言ってうつむいた。頭を下げたのか、顔を見られたくなかったのか。
 俺は多少なりとも理解した。理解する努力をしようと思えた。
「いつでもいい。話せるところまでは、話せ。
 俺はルビが不利になる話はお前にしないと思う。
 だが、抱え込むなよ。」
「了解。」
 そこまで話したところで、ルビとヘスの父親が一緒に歩いてくるのが見えた。

 それで、ふと思い出した。
「なぁ、ヘス。」
「ん、どうした?
 って、なんで顔赤らめてんだ。」
 これまでの自分なら慌てふためいて黙り込んだことだろう。

「お前の妹にもう一度逢えないか?」

「はぁ?」
 意味が通じないのか?
 二人が到着する前にきちんと伝えなければ。
「ディルサと言ったよな。彼女に逢いたいんだ。」
「へ? えっと…それって…」
 ヘスの動揺する姿を初めて見た。
 俺が言葉にする前に二人が到着してしまう。

 仕方なく俺はヘスの父親にお礼を言って、ルビを連れ立って図書館を出た。
「あのヒトと何を話してたの?」
「ヘスか? たいした話はしていないよ。
 試験のこととか、友人たちの愚痴とかだ。
 で、そっちの方は調べ物は無事済んだのか?」
 ルビは曖昧に肯いた。
「もし、必要だったら、またあいつに頼んでやるよ。
 受験勉強も大変だろうし、お前も抱え込むなよ。」
「も?」
「あぁ、お前は、というべきか…やっぱり、お前も、だな。」
 不思議そうに横目に俺を見上げていた。
「コナ先輩、なんだかずいぶんハレバレした顔してますね。めずらし。」
「そうか?」

 誰もが何かしら心に抱えながら生きてるんだ。

 そう思うと、今までの俺が小さく思えた。
 別段、傷をなめ合うつもりはない。悩みを抱えた存在を知って、安堵するつもりはない。

「一つ訊いていいか?」
「何?」
「ルビの神殿に住み着いてる男はいつからいるんだ?」
 ルビの全身が固まるのがわかった。
「言えない。言いたくないです。
 ごめんなさい。ペシタの件もあるから気になるんですよね。
 でも、ごめんなさい。言いたくない。」
「そっか。わかった。言いたくないならそれでいい。
 ただ、言えるときがきたら言って欲しい。
 俺はルビの味方になる。ペシタのことも守りたいと思っている。」
 いいの?
 怯えた瞳が俺を見つめた。
「妹には毛嫌いされてるみたいだがな。それでも妹だ。」
 フルフルと頭を振っているのは、一応俺に気を使ってのことだろう。
 そこからは無言だった。

 両脇に咲いた秋桜が涼やかな秋風に揺れていた。
 俺は立ち止まり、しばしその景色を眺めた。
「誰もがこんな風に揺れてんだろうな。頼りなく。
 でも、周りの花が少しでも風を和らげているから、立っていられる。こんなにきれいに咲いていられる。」
「コナ先輩って、そんな詩人でしたっけ?」
 馬鹿にするな。
 つい口に出してしまった。苦笑する。
「ヘスの影響かな。」
「あのヒトの? なんで?」
「あいつ、文芸サークルにも入ってるんだ。たまに背筋が寒くなるような詩を聞かされるから。」
 ようやくルビが笑った。秋桜のように肩を揺らして。

「わたし、受験がんばるね。
 コナ先輩の後を追っかけて、ヘスさんの詩をコナ先輩と一緒に聞くわ。」
「そういえば、お前も物書きを夢見てんだよな。
 よし。よろしく頼む。
 少なくとも俺みたいなムサイ男が、ヘスみたいなヤサ男にサムい詩を聞かされている構図より、お前が聞いてくれたほうがよっぽど絵になるしな。」
 目を潤ませてまで爆笑するルビが、このままでいてくれればと心から願った。
 その気持ちを忘れないように、この景色をきちんと覚えておこう。

 秋桜の花を一つ一つ。
 それぞれが違うものを見て、違うことを思っていたとしても、隣に寄り添っている限りは倒れることはない。
 そう祈って。

十一月

シータス・ミアロートの物語
大学一年・十一月

「発表会をしよう。」

 文化祭も終わってひと月。天高く馬肥ゆる秋。
 突然、ヘスが提案してきた。
 私の所属する音楽サークルの文化祭ライブも盛況のうちに終え、次のライブは来月末の年忘れライブを計画していた。
 ちょうど今月は歌うテンションがアガらない月ではある。
 グダグダとギターを弄くっていた私を見るに見かねてなのか?
 とも最初考えたが、そんな気遣いじゃないのは、ヘスの無遠慮な所作で理解した。
「ヘス、楽器できないでしょうが。」
「今から練習する。だって、シータは今月以外ヒマないでしょ?」
 文化祭ライブでヘスとディルが、やたらキラキラした瞳で私を出迎えていたのを思いだす。
 それに感化されたわけでもなさそうだけど。
「それに年末ライブはべつに練習しないさ? それとも新曲できたの?」
「わるかったわね。できてないわよ。」

 学生バンドがオリジナルをやるのは勇気がいる。
 だから、たいていのバンドは有名アーティストのカバーだったり、歌ナシのブラスバンドだったりがほとんどだ。
 私は路上でやってたこともあるから、正直ノリだのなんだのはフッきれている。
 今まで組むメンバーを強引に説得し、ほぼオリジナルを突き通した。
 ということは、曲も私が書かないと新しくならないのだ。

「ソロはもう飽きたでしょ?
 だからといって、ユニット組んでは、また解散じゃあねぇ。
 どうせだ。このままウチらと組もうよ。」
「それ、どこかのカッコつけ男子と同じ誘いかただよ。」
 私はヘスの提案に皮肉で返した。
 まぁ、こやつもナルシストギリギリのカッコつけ男子だけど。

 ちなみに今日の格好は、薄いクリーム色のジャケットとそれより少し濃いくらいのドレスシャツ。本人いわくペールクリームと言うらしいが、そんなのはどうでもいい。あとブラックジーンズに黒革のエンジニアブーツ。
 毎日、異なったスーツやらジャケットやらを着回しできるヤツには、皮肉のひとつでも言っておかないと気がすまない。

「でも、そのカッコつけ男子もフッたんでしょ?」
「ヒトが聞いたら勘違いするような、絶妙な言い回しすんな。」
 暖簾に腕押し。
 手入れのされたローファーが太陽を鈍く照り返していた。
 皮肉が通じないのもわかってる。長い付き合いだ。

 音楽に対する理想が高すぎる、とバンドメンバーに毎度まいど酷評される。
 どこかのカッコつけ男子の誘いにのったこともあるけど、一日中ギターをかき鳴らすばかりの私に、愛想をつかして去っていくのがこの半年の常だった。

「なんかツッコミどころ満載だから、聞き流しちゃったけど、発表会って言い方どうよ、それ。」
 ヘスの最初の誘い文句をふりかえった。
 ワカモノたるもの、バンド組もうぜ、じゃないの?
 なのにヘスはこともなげに
「シータこそなに言ってんのさ。僕はあえて発表会って言ったんだよ。
 僕が誘ってんのは、シータが想像してるようなバンド活動じゃないもの。」
 と言い放った。
 私の思考と動作が停止した。口だけが声を発せずパクパクと動いた。
「カリンバとリラ、ボンゴ、オカリナ、それからマラカス。それで楽隊を作るの。で、それの発表会をする。」
「はぁぁぁぁ?」
 半ば絶叫だった。イヤとか評価を下す前に想定外の彼の提案にあっけにとられた。
「って、ディルに言われた。」
「発案者はあやつかっ!」
 ゲラゲラとヘスが笑い転げる。
 私の反応も予測できていたのだろう。
 二人がほくそ笑んでる光景が目に浮かぶ。悔しいからそれ以上ツッコむのはやめた。
「つまりコナとペシタもまきこんでってこと?」
「そうだよ。もちろんルビも。」
 そういえば、先月ルービスとも仲良くなったなんて話をしてたっけ。
 案の定、コナも楽器の出所を知らなかった。むしろ、ペシタがどっかから手に入れたと思いこんでたらしい。
「でも、あれらの楽器の正体を探るって意味では、確かに発表会ってのは妙案ではあるわね。
 とっても合理的かつ合法的。」
 そうなのだ。
 結局あれから楽器を調べたのだがたいした進展がなかった。
 私が売りました、と名乗り出たヒトもいなかったし、所持者が記憶を取り戻すこともなかった。
 強いて言うなら、たいして練習した覚えがないのに音の出し方を知っていたということは確認できた。

「奏者がうまく扱うというより、楽器に演奏させられている感があるもんね。」
 ペシタが和神殿で、そんなことを言っていたことを思いだす。

 あの後、和神フィース・ラホブの神殿で行われたコナとペシタの定期演奏会を聴きに行ったのだ。
 ひさしぶりに音楽でトリハダがたった。
 セイダカアワダチソウが群生していた。
 ちょっとだけ濃い目のレモンイエローを背景にして、明るく、でも切なく、楽しく、でも淋しげに音を奏でていた。
 和神フィース・ラホブの濃緑の神官着。秋空の透明な水色。蒼穹から注ぐ陽光にキラキラと煌くフルートの銀。
 絵に描いたようなあの美しい風景を私はけっして忘れることはないだろう。

 私はテレパスに保存されたその風景画のような写真をじっと見つめた。
「楽器に演奏させられてた。そう言ってたよね。」
「コナのフルートとペシタのティンパニは実力だけど、オカリナとボンゴはそうだったみたいだね。」
 演目のほとんどはコナのフルートの独奏だった。
 しかし、途中何回かペシタのボンゴをバックにオカリナも吹いていた。
 教会音楽を今風にアレンジした、少しだけ切なくなるようなメロディと音だった。
 光明神殿だったら神に対する冒涜だのと批判されそうなものだが、和神にとっては神の楽曲はヒトの絆をつなぐものである。
 そういった意味では、あの曲に対して聴衆が感じた切なさは大事なダレかを思い描かせるものだった。
「あの兄妹も参加ってことかぁ…」
「うん。まだ企画段階だからだけど、全員の許可が取れれば決行したい。
 それに、シータも感心してたさ?
 あんときのシータ、僕ですら見たことない顔してたんだけどな。」
「よく見てんのね。演奏聴いてないんじゃないの。」
「聴いてました。」
 憮然とヘスが言う。

 やってみる価値はあるかもしれない。あれらの楽器が何かしらの意味がなかったとしても。
 ウチらの出会いが必然でなく偶然だとしても、この偶然を利用しない手はない。
「やる。うん。やろう。」
 ヘスらの前で口にすることはないだろうが私は今の自分が好きだ。
 たとえばウチらの出会いが神のきまぐれだとしたら、私は神様にいつか「ありがとう」と伝えることだろう。
「やった!
 あ、ディル?
 うん。シータもオーケーだってさ。
 え? コナ?
 そっちはこれから誘ってみるけど…うん。わかった。」

 さっそく妹さんに連絡ですか。
 私はぼんやりと山を眺めていた。
 山を彩る鮮やかな紅葉と手前に見える終わりかけのコスモス。いつのまにかこんなに時がすぎていた。
 葉を落とした桜の樹が出逢ったばかりの私達を想いださせる。
 秋風が私とヘスの間を吹き抜けていった。寒くなる前に終わるだろうか。
「今度六人で集まろうってさ。
 予定調整しないとな。」
 嬉々としてヘスはテレパスでたて続けにテルしだした。
「あ、ルビ?
 あのさ…」
 あれ?
 コナに連絡したんだと思った。コナは学校で話すのかな。
 そんなことを思っていたら、私のテレパスが着信を告げる。
 ペシタ?
 夏の事件のあと、テル番の交換はしてその月は数回連絡をとりあったけど、最近はご無沙汰だった。
 あのオトコもおとなしくしてるみたいだし。
「めずらしいね。
 どうしたの?」
「いま、兄から聞いたんですけど、発表会…?
 するとかって…どういうことですか?
 兄の説明、よくわかんないんです。
 とりあえずシータさんも参加することは理解できたので、テルしてみたんですけど…」
 明らかな戸惑い。

 ということは、ディルがコナに連絡したということか。
「あ、そういうことか!」
 私は思わずテレパスに叫んでしまった。
 ウキャっとかわいい声が聞こえ、
「ゴメン!
 びっくりしたよね。
 で、発表会の話ね。」
 と慌てて会話をつないだ。
 つないではみたものの、私もニブイな、とペシタとの会話に集中できない。
 それでも、なんとかさっきのヘスとの会話を何とかかいつまんで説明できた。
 それよりも理解しづらい説明って、コナは一体何を話したのだろう。

 ディルと会話するコナの精神状態と、その二人の会話を想像してしまった私の精神状態。
 別に彼らがどんな関係であろうが私の生活に影響はないのだけれど、気を使うべきなのだろうか。
 また、距離感が測れなくなるな、とちょっとだけ淋しく思ってしまう。

「そうみたいね。
 私もホント、今聞いたの。」
「マジですか。
 ビックリですね。」
「あ、でも、こないだ二人でペシタとコナの演奏聴いたからだよ。
 コレならできるかもって思ったみたい。」
 渋ってる。
 そりゃそうだよな。
「でも、やってみたくない?」
「やってみたいです…ね。
 でも、あたし、足ひっぱりそうですけど…」
「そんなことないよ。
 ペシタのリズム感は感動もんでした。」
 向こうで無言なのはテレなのか?
 不信感なのか?
 ダメだ。もう一押ししておこう。
「このテルのついでにさ、コマいトコつめとく?
 ペシタはティンパニ準備できんのよね。
 さすがにあのマイナー楽器だけで作品つくりはキツイわ。
 だから、ギター、フルート、オルガン、ティンパニで何曲か演奏した上で、そっちに持っていこうかと思うの。」
 そんな感情をおくびにも見せず、私は淡々とコトを進めることにした。

 どうせ、ディルとヘスは発想のみで計画なんてないはずだ。
 コナにあの個性集団をまとめるのはムリがあるし、ルビとペシタは年下という遠慮がある。
「シータさんもノリノリですね。」
 ペシタのテンションはテルでは測りづらい。
 ただ、本音はさておき計画の不参加を考えているわけではないようだ。
「まぁ、せっかくだもの。
 やるからにはきちんとした形で済ませたいでしょ。」
 必要以上にオトナぶる私。感情なんかに流されるものか。
「わかりました。
 あたしも企画作成おてつだいしますから、詳細詰める段階になったらなんでも言いつけてください。
 たぶんルビ先輩は受験があるから、企画段階から呼びだすのはかわいそうなので。」
「あー、追い込みか。
 っていうか、あいつらそのことわかってんのかな?」
 持ち上がり受験だから一般受験よりは楽だと思うけど、それでも音楽にかまけている余裕はないかもしれない。
「いいんですよ。
 ルビ先輩はすぐ抱えこむから。
 いいガス抜きです。」
 向こうも思うところがあるってことか。だったら、遠慮しなくていいかな。
 そんな事を考えていたら、テル越しの笑い声が急に変わった。
「やっぱりあの民族楽器は魔道具かなんかなんですか?」
 小声で、でもズバリ訊いてきた。
 私は一瞬躊躇うも、正直に話す。
「わからない。
 でも、なんかありそうだからヘスとディルが提案して、私ものっかったことは確か。
 とりあえずオフレコにして欲しいけど、コナとルービスにもし訊かれるようなことがあったら、二人にだけはそういう風に言って欲しいかな。
 公会議のネタにだけはならないようにしたいわね。」
「神殿でのゲリラライブ。
 なんかカッコいいですね。
 わかりました。
 ライブ終了まで六人だけの秘密になるようにってコトで。」
 やはりこの娘は頭がいいなと思う。勘がいいし、理解力もある。
 兄のぼやきによく出てくる恋愛ジャンキーな性格も、きっと彼女なりの自己防衛なのでは、なんて勘ぐってしまった。

「もう一ついいですか?」
「なに?」
「シータさんも『四辻の悪魔』と取引しちゃダメですよ。」
 クスクスと笑ってる。
 ホント、智恵が回るわ。

『四辻の悪魔』
 それは、誰もいない、何もない十字路にふと現れて、魂と引き換えに「超絶ギターテク」を与える悪魔。
 生命神殿に居つく悪魔男爵を表現した単語だ。

 ペシタは、私がヤツと逢引していることを知っているのだ。
 理由は艶事ではないんだけど。
「了解。」
 私は苦笑交じりに答えてテルを置いた。
 ちょうどヘスの会話も終わったようだ。
 ついでにヘスに作詞を依頼した。それに私が音をつけるつもりだ。
「テーマは、桜、雪、秋桜で一曲ずつ。でき次第私にちょうだい。」
 有無を言わさぬ口調で告げお互いの会話を照らし合わせていると、今度はディルからのテルが入った。
「ダレと長話してんのよ。」
 不満げな、でも楽しげな声が聞こえた。
 変わらぬ向こうの様子に、わけもなく安堵の溜息が漏れた。
「タメイキつくと幸せが逃げていくよ。」

 リア充女のご指摘ありがたく頂戴します。

 ちょっとイジワルなセリフが頭をよぎったが、口には出さなかった。
「ディル、いつこっち来るの?」
「んー、ちょっと仕事が立て込んでるから、それ済んだら連絡するよ。」
 ディルは唯一の社会人。首都で雑貨屋に勤めている。
 中学からバイトしてるから、かれこれ五年以上おなじトコで働いている計算だ。
 年月もさておき、彼女のセンスが認められて高校卒業と同時に正社員として登用され、今はいっぱしの営業部のマネージャーだ。
「了解。
 じゃあ、こっちで計画は進めておくわね。」
「ん。お願い。
 あ、あたしね。シータのマネしてギター始めたの。
 後で教えてね。
 できれば、発表会で披露したいし。」
「そうなんだ。
 いいわよ。スパルタで特訓してあげる。
 で、プログラムの前座に使ってあげるわ。」
 マジで!
 と嬉しいのか、困ってんのかわからないテンションで返事が返ってきた。

 ゆらゆらとセイタカアワダチソウが揺れていた。
 めずらしくもなんともない、名前なんてほとんどのヒトが知らないような植物。私があこがれる世界だ。
 私の日常はまだ続く。

 まだ、普通の学生生活を投げ捨てちゃダメだ。

 テーブルの下で、ぎゅっと拳を握り締めた。

十二月

ルービスの物語
高校三年・十二月

 夏にコナ先輩のクラスメイトという女性に会った。ピンク色の髪で、真っ黒なフリルだらけのドレスで身を固めた、あまりにも非日常的な女性だった。

 現実にこんなヒトがいるんだ、と呆れながらも、自分のあまりの普通さ加減に落ち込んだ。
 ウチの居候がらみで夏に二度ほど見かけた。でもマトモに話したのは秋口以降。
 あまり記憶にないけど、大学図書館での騒動のあとから、テル番にアドレスが追加された。
 居候のオトコは夏の話をしてくれなかった。それ以上関わるな、とばかりに。
 あの夏以降、オトコは神殿にいることも少なくなった。
「今日は講義があるからな。」
 そう言ってたのはウソだった。
 ゴシック娘、先輩だけど、が教えてくれた。
 確かに大学のキャンパスに現れるけど、それは講義をしにくるのではなく、彼女たちの行動を監視するためだと。

「部外者が毎日いたら怪しまれるんじゃないですか?」
「他の先生の講義のときに、みんなの頭の中のっとてるからバレないんじゃないかな。
 たとえば歴史の授業の先生が本人じゃなく、アレの姿に見えるとか。
 そうすれば、キャンパス内で不意にダレかとすれ違っても、勝手に関係者と認識してくれるでしょ。」
 魔法世界の奥深さを教授された。
「でもさ、神大学言ってるわりに結界ユルいってことださ。
 私は大学の危機管理能力を問い詰めたくなるわ。」
 ごもっとも。

 初めて面と向かって話したときはどうにか逃げ出したかったのだが、わざわざ神殿に押しかけてまでわたしとお茶呑みしていった。
 なかばキョヒってたシータさんのテンションにもようやく慣れてきた。
 おかげでその関係はいまだ続いている。

 そして、今日も。
「ルビぃ! また来たよ!」
 楽しげな声が聞こえてきた。
 神殿の正門から玄関までの雪かきをしていたわたしは、うんざり半分に腰を伸ばした。
 ゆいいつ慣れないのは、この狙い済ましたかのような間の悪さだ。
「お、ずいぶん積もったね。」

 あいかわらずのブラックゴシックなワンピース。さすがに寒いらしくダッフルコートを無造作にはおっていた。
 茶色の編み上げブーツをまっさらな雪の平原にずかずかと足跡をつけながら。
 で、大ジャンプして体の跡をつけて大笑いしている。
「コドモか!」
 コートどころかワンピまで雪だらけのゴスっ娘に思わずわたしがツッコむと無邪気に笑っていた。

 気勢をそがれてわたしは、持っていたスコップを雪に思いっきり差しこんだ。
「この周りだけでも済ませたいんですけど。」
 目いっぱい迷惑そうにシータさんに声をかけた。
 せめてあと一時間あとだったら、いっしょにはしゃぐ気にもなれたのに。
「あー大丈夫よ。そろそろ男手もくるはずだから。」
 男手? コナ先輩来るのか? めずらしいな。冬場はコタツネコだぞ、あのひと。
 眉間を寄せて、正門を見つめた。傍に来たシータ先輩がペチンとその眉間を指ではじいた。
「イタっ!」
「せっかくかわいい顔が台無しよ。」
 このヒトはホント平然とそんなセリフを吐く。
 わたしがカワイイだと?
 自分に自信があるヒトのセリフだよね。苦笑が漏れた。

「あんたも少しは手伝ったら!」
 シータ先輩は左手に植わった、今は雪の花の咲く桜の樹に怒鳴った。
 姿は消していても、いるのは知ってんだぞ、そんな挑発じみた口調だ。
 でも、その対象にはあっさりムシされた。降り積もる雪が世界中の音を吸収している。
「ホントにいないの?」
「最近、いないこと多いです。」
「ふゆごもり?」
「知らないです。そんなこと。」

 そんなやり取りをしていたら、正門の方からまた声がした。
 今度は男性の声。
 あれ?
 でも、居候のオトコでもコナ先輩でもないような気がする。雪のようなダブルボタンのピーコートに茶色のコーデュロイ。
 真冬でも半そでを着てそうなコナ先輩がそんなの着るわけがない。なんて、さすがに言い過ぎた。
「え? ヘス…さん?」
 いや、先輩?
 いや、まだ先輩じゃないから、やっぱり、ヘスさん?
 わたしの頭は一気に混乱した。
 秋のカラトン神大学図書館でお世話になって、それ以来、何度かテレパスでお話したりしてきたコナ先輩の親友だ。
 コナ先輩とタイプが正反対のヒト。どちらかと言えば、周囲には絶対存在しなかったヒト。
 だからだ。
 図書館でもそうだったが、わたしはマトモにあのヒトを見ることができなかった。

「ヘス。
 来たついでに雪かきよろしく。私たちは中でお茶飲んでるから。」
「はぁ? ふざけんなよ!」
 来て早々にけんか腰の二人にあせってしまう。
「あ、いえ、わたし、しますので…お二人こそ中で待っててください!」
 ドモりながら、でも途中から早口でそう言って、わたしはスコップを手に取った。
 テクテクとヘス先輩、いやさんでいいや。ヘスさんが歩み寄ってくる。
 茶革のアンクルブーツがボスボスと雪を踏みしめるその足音だけで、わたしは緊張して金縛りみたいに動けなくなった。
「いいよ。スコップ貸して。疲れたでしょ。」
 上目遣いに見上げると、すぐ傍にヘスさんの笑顔があった。
 細面の輪郭に丁寧に並べられた顔のパーツが、完璧な笑みを作り上げている。知的なモスグリーンのメガネも、無造作にさらさらと流れる濃茶の髪も、わたしを圧倒する。
 女装したらわたしより美人な気がする。
「あ、あの、大丈夫です。わたし、やりますので…」
 小声でぼそぼそと言ったけど、彼が手を引っこめることはなかった。
「いいから、やらせなよ。どーせ、運動不足なんだから。」
「シータ。黙れ。」
 そう言いながらも、ゆっくりとわたしからスコップを奪っていった。
 そして、手際よく道の雪を避けていく。途中、信者さんににこやかに挨拶しながら。
「なぁに見とれてんの?」
 耳元で囁かれ、ビクリと体を震わせてしまった。

 ゲラゲラと笑い転げるシータさんと顔を真っ赤にしてうつむくわたしを、不思議そうに彼は交互に見比べていた。上目に見たら、ニコリと微笑みまれてなぜか涙がこぼれた。
「あ、やりすぎた。」
 シータさんが慌てふためいてる。
 ヤバい。止まらない。
 必死に謝ってくる。いまさらだ。ヘスさんが彼女を責めている。
 違うんです。そんなんじゃないんです。シータさんが悪いんじゃないんです。
 そう喚きたかったが声が出てこなかった。
 二人は困ったように、わたしが泣き止むのを待ってくれた。
 ヘスさんのタバコの匂いは一生忘れない気がした。
「ごめんね。」
 涙は止まった。
 違うんです、と言いたかったんだけどしゃくりあげるばかりで言葉が出ない。
 わたしは失礼承知で神殿の中を指差す。
 二人の間にはさまれたまま神殿の中に入る。

「落ち着いた?」
 シータさんが入れてくれた温かいミルクティに口をつけながら、小さく肯く。
 あのとき何十分二人を寒空の下に待たせたのだろう。
 わたしは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめんね。」
 シータさんがまた謝った。わたしはまた肯くことしかできない。
「もう、シータ、無神経。」
「反省してる。」
 しゅんとしているのを横目にして、さすがに伝えなきゃと思う。

「違うんです。」

 二人の視線がイタい。
「羨ましかったり、でも疎ましかったり、よくわからなくなったんです。」
 でも、うまく伝えられない。
「わたし、初めてなんです。
 友達も両親もいないので。やさしくされるのも、あんなふうにからかわれるのも、楽しく笑うのも。
 二人を見てたら、今までのわたしがホントいやになったんです。」
 黙って聞いてくれている。
 嫌われてもいいか。
 そんな気がした。
 違うな。
 なんでだろう。
 嫌われない気がした。
「わたしは母の顔を知りません。いなくなったのか、死んだのかすら知りません。
 父はわたしを…」
「虐待してた。」
 言葉に詰まるわたしの独白をシータさんが補完してくれた。
 ヘスさんが咎める雰囲気だったので、それを制したく言葉をつなげた。
「シータさんの言うとおりです。たぶん、虐待になるんだと思います。
 わたしはこんな性格だから、友達もいませんでした。
 苛められないようにうまく距離をとりながらイイコを振舞うのがやっとです。」
 コナ先輩だったら、そんなことはないって声高に否定するところだ。
 それに救われたときもあった。

 でも、向き合ってこなかったんだ。

 そのことにいまさら気づいてしまった。
「本心をさらけ出す場所がホントは欲しかったんです。
 コナ先輩に守られて、卒業したあとは後輩のペシタが守ってくれています。
 対等の立場で言い合えるヒトがいる二人が羨ましくて。
 そんなジブンの卑屈さをえぐりだした二人が、憎らしくなったんです。」
 言ってしまった。
 シータさんとようやく仲良くなれたのに。初めて憧れの男性を見つけたのに。
 またすべてが終わった。
 でも、後悔してない。
「ごめんなさい。」
 頭を下げて、ゆっくり上げた。

 たった一つだけオトナな二人がわたしをじっと見つめていた。
 わたしは気おされるようにまたうつむきかけた。
「ミルクティ、冷めちゃったね。
 新しいの入れてくるわ。」
 シータさんが自分とわたしのカップを持って立ち上がる。
「え? 僕のは?」
「紅茶は見つけたけど、ヘス飲まないじゃん。コーヒーまでは探してませんので。
 自分で探しなよ。」
 溜息。苦笑。
「シータ、話変わるけど雪上のヒト型、ムネ小さい。」
 ヘスさんをシータさんが容赦なくけっとばした。
 わたし遠慮なく笑った。

 つくづく羨ましくなる。
 二人はわたしに気を使って遠巻きにするでもなく、自然に振舞ってくれた。
 それは、わたしの弱さを受け入れてくれたと信じていいのだと思う。
 やっぱりオトナだ。わたしの先輩なんだ。
「ヘス…先輩の分はわたし入れます。」
 先に台所に行ったシータ先輩を追っかけた。
 よろしく、彼は短く言った。その優しい口調に、また涙がにじんだ。
「あれ? ヘスは?」
 紅茶を入れながら尋ねてきた。
「たぶん、外でタバコ吸ってます。」
「そっか。っていうか、神殿敷地内禁煙ですって言ったら?」
 わたしはフルフルと首を横に振った。
「確かにタバコの匂い、嫌いなんですけど、ヘス先輩だけ特別許可します。
 お世話になりましたし。」
「あっそ…」
 聞こえてないつもりだろうか。
 そのあとに「あいつモテるな」と言ったのを、わたしは聞き逃さなかった。
 だからといって、反論する気はなかった。この感情が憧れなのか、それ以外なのかよくわからなかったし。
「シータ先輩…」
「なに?」
「ありがとうございます。」
 何が?
 と首をかしげた。
 つくづく自然だ。ウソつくのも。

「それと、シータ先輩の話、もう一回聞かせてもらっていいですか?
 先輩の過去話、全部ウソだと思って聞いてたんでマトモに覚えてないんです。」
「あら。正直者ね。」
 あなたのせいです。
 とは言えなかったので、曖昧に笑って返した。
「いいわよ。なんなら、ヘスの過去も暴露してあげるわ。」
「バカか、お前は。」
 ヘス先輩も帰ってきた。
「あ、ついでに雪も除けといたから。」
「え? あ、そんな…」
「だいじょうぶ。雪の精霊さんにお願いして、勝手に一箇所に集まってもらっただけ。
 今頃おっきなかまくらにでもなってるころじゃないかな。」
 精霊界魔法使えるんだ。神界魔法と併用ってできるんだっけか。
 驚いてそんな感じの質問をしたら、あっさり否定された。
 仲のいい雪精霊がいるから、とのこと。
 世界は広い。というより、わたしの常識が狭い。
「だったらはじめっからそうしろよぉ。
 そしたら、私がハジかく必要なかったじゃないの。」
「シータは少しハジかいて、場の空気を読む練習しなさい。」
 やっぱりヘス先輩が叩かれてる。

 それから、わたしたちはシータ先輩の持ってきたケーキを食べながら、とりとめなくおしゃべりを続けた。
 主に音楽関係の話になってしまったから、ヘス先輩は食に走っていた。
 イチゴのショートケーキをほおばるヘス先輩がかわいいななんて失礼なことを思った。
「思いだしたくなかったら答えなくてもいいんだけど…」
 日も落ちて二人が帰る。とたん淋しくなったけどしょうがない。
 見送る門の前で、シータ先輩が躊躇いがちにわたしに尋ねてきた。
「父親のことって覚えてる?」
 わたしは意図が掴めず、すぐには答えられない。
 でも、小さく肯いた。
「父親のこと、どう思ってた?」
「どう…嫌いでした。」
「そっか。」
 そこで会話が終わる。
 東に向かう道。街の光が煌々と照る道に、二人の影が伸びる。
 二人は何度もふりかえった。
 わたしはだいじょうぶだよ、と伝えたくて、その度に大きく手を振った。

「行っちゃった…」
 先輩たちはわたしのことを知っているのかな。

 父親の命日まであと数日だ。

 また、悪夢にうなされ、泣く毎日が続くのだろうか。
 一周忌なんてするつもりはない。わたしひとりで暗闇に怯える…
 パン。両ほおを勢いよく両手で挟んだ。寒いから想像以上に痛かった。

 ひとりぼっちになると、やっぱりわたしは弱いままだな。

 また、涙が出そうになった。ちらちらと雪が舞っていた。
 早く桜にならないかな。
 そうすれば、わたしはあのヒトたちと一緒のトコにいられる。
「いや、頼っちゃダメだ。
 あのヒトたちの隣に自信持って立てるジブンにならなきゃ、これまでのジブンと同じだ。」
 握りこぶしを突き上げて空を仰ぐわたし。
 今は強いフリでも、いつかホントにしてやる。
「なにやってんの? ルビ先輩。」
 見られた。恥ずかしさに身をちぢこませた。
「涙目で雪にパンチ。
 ルビ先輩はコドモですか。」
「なんでペシタがいるのよ。」
「下校途中。
 それよりさっきヘス先輩とシータ先輩を見かけましたよ。
 声かけようと思ったら、角曲がっちゃったからお話できなかったんですけどね。」
 悔しげに彼女は指を鳴らした。
「さっきまでウチにいたから、その帰り。
 でも、まっすぐ家に帰らないんだ。」
 ここから街までは一直線だ。
 南側は壁沿いだから、北にいったということになる。北は山ん中に入っていく道だけど、こんな夜にどこ行くんだろう。
「えー! 先輩たち、ルビ先輩のトコにいたんですか!
 なんでですか!
 っていうか、なんであたしを呼んでくれないんですか!」
 横で喚いているペシタをシカトして、わたしは夜闇に包まれた雪山を見つめた。
 小さく桜色と濃茶色が揺れたような気がした。

 早く春よこい。

 桜が咲き乱れるキャンパスで、わたしはあのヒトたちの隣に早く立ちたい。

一月

ピェシータ・ウェイテラの物語
高校二年・一月 

『雪がふりだした。
 あたしはこの季節が嫌いだ。寒いから。まぁ、それもある。
 でも、それ以上に過去の記憶に縛られているから。
 恐怖。ダレにも言えない恐怖の記憶を抱えていた。』

「うまく書けん。」
 ぼんやり天井をニラみつけるように凝視した。

 あたしはダレにも言えない趣味を持ってる。
 べつに悪いことはしてないんだけど、声高に宣言するにはハズかしい。両親はもちろん、兄にも話してない。友達にも言えない。

 物書きになりたい。

 すでに趣味の域を越えているんだけど、胸張って言えない。なんでだろ。

『あれは去年の冬のことだった。
 しんしんと降り積もる白雪が周囲の音を吸収していく。
 街外れから一人の男が歩いてきた。
 時折すれ違う男女が、忌むように歩く先々を避けていく。
 ぼろをまとった男は虚ろな瞳で通りを歩き続けた。
「サムインダ…」
 しわがれた声が静寂を壊した。
 しかし、その声はダレかに届く前に雪に消えていった。
「サケヲクレナイカ…」
 夜の酒場の灯りが、カレを誘っていた。
 カレは灯りに誘われるまま酒場へと入っていった。』

 えっと次はなんだっけ?
 頭の中には情景を思い浮かべてるんだけど、なかなか単語、文章になって出てきてくれない。いろいろこねくり回して、けっきょくブナンな言葉に終始した。
「まずはストーリーを作らないとね。」
 昨日、兄からもらったふわふわのパウンドケーキにかぶりつく。
 これが手作りか。すごいな。
 とスナオに感心し、どっかで嫉妬する。才能があるヒトがホントにうらやましい。

『狂騒に満ちていた酒場が思わぬ客に波を打ったように静かになる。
 オトコは空いてる席を見つけると、ふらふらと腰を下ろした。
「何にしますか?」
 ウェイターが嫌悪感もあらわに客のオトコに声をかけた。
 それを合図とするように、酒場内は再び喧騒に包まれる。
「サケヲ…」
 しわがれた声。
 干からびた指先でテーブルに置かれた銀貨をウェイターへと押しやった。
 ウェイターは奪うように銀貨をつかみ、厨房に消えた。
 しばらく後、ジョッキで酒が一杯、カレの前に運ばれてきた。
 どこにそんな力があるのだろう。
 歩く様子とは正反対にきちんとした動作でジョッキを傾けた。
「こいつ、こぼすんじゃねぇよ! それともなんだ? もらしてやがんのか!」
 酔っ払いの客の一人が、オトコに絡んでいく。
 ぼろを着ているわりに銀貨を出してきたのが、いいカモだと判断されたのだろう。
「おら。立てよ!」
 酔っ払いがオトコの胸倉をつかんですごんでいる。
 酒場の主人がグラスを拭きながら、迷惑そうにそちらに眼を向けた。
 確かに床はびしょ濡れだった。』

 窓の外も深い雪景色。
 灰色の空から落ちてくる白い牡丹は、朝に比べて量が増えた。
 雪の積もった並木道を歩くヒトたちは、みんなそろって足早だ。
 そんな冬の一幕をぼんやりと眺めつつ、あたしは次の展開を推敲する。
 とは言え、展開は決まっているのだ。あとは言い回しを考えるのみだ。

『着ていたぼろが捲れた。
「ぎゃぁっ!」
 オトコに絡んでいた酔っ払いが悲鳴を上げて、あとずさった。
 再び酒場中の視線がオトコに集まった。一瞬の沈黙。そして一気に混乱する。
 オトコは羽織っていたボロ以外何も身に着けていなかった。
 しかし、酒場の客たちを恐怖に陥れたのは、そのことに対してではなかった。
 オトコの腹は空洞だった。
 ボロを床に落としたまま、男は立ち上がった。
 真正面に立つ客から、腹の穴を通して向こうの客が見えた。
「化け物だぁ!」
 ダレかが叫んだ。
 客の混乱を意に介さず、ボロを拾いなおすオトコ。
 その身体を他のダレかが蹴り飛ばした。
 床にはいつくばったオトコにもう一発。
「ナンデダ…カネハアルゾ…」
 オトコは感情のこもらぬ口調で、夜の路にひざまずいていた。
 雪がカレに降り積もっていく。
 ピタリと閉め切られた酒場の扉が再び開くことはなかった。
「サムインダ…」
 緩慢に立ち上がったオトコはあきらめて再び雪の夜を歩き出した。』

 休憩。

 ここまではできている。
 問題はこの後なのだ。うすらぼんやりと浮かぶ風景があるんだけど。どうにも霧に包まれてるように先が見えない。
 ぼんやりと窓ごしの雪を眺めた。真っ白な雪の花があちらこちらに咲いていた。

「あれ? ペシタ…?」
 ふと女のヒトの声がした。
 はじめ、あたしだと思わなかったから、シカトしていた。
 今あたしがいるところは、駅前の喫茶店。ダレか来てもおかしくはないけど。
「ピェシータ・ウェイテラさん…だよね?」
 いきなりあたしの前に座ってきた。
「そうですけど。」
 あたしはじっとその女のヒトを見つめた。
 雪の積もったニット帽の下にはピンク色のショートボム。脱いだロングコートの下にはフリルだらけのゴシックファッション。
 背中のギターケースをイスに降ろして、ごくアタリマエのようにギターのトナリに、あたしの向かいに腰を下ろすと、その女のヒトはニコリと笑んだ。
「よかった。ヒト違いだったらどうしようかと思ったわぁ。」
 寒そうに両手をすり合わせている。
 いまだあたしはこのヒトを思いだせないでいた。見たことはある気がするけど。
 って居座るんかい…
「あ、覚えてないか。ほら、夏に一回道端で会って、その後サテンで楽器のこと話して。」
「大きな鎌を担いでたヒト!」
 声が裏返った。ついでに音量が大きすぎたから、ハズかしくて縮こまった。
「そうそう。こんなトコで会うなんて、ビックリだわ。」
 あたしのほうがビックリだわ。
 あれから、テレパスで演奏会を開くだの言ってはいたものの実際会うことがなかったし、その後連絡がとぎれたから計画倒れに終わったんだと思っていた。
 だからといって、すっぱり顔まで忘れているとは、自分自身それもビックリだ。

 あぁ、でも、タイミング悪いな。

 口には出さない。
「お久しぶりです。今日はどうしたんですか?」
 小首をかしげながら笑顔でそのヒトに話しかけた。
 用事があるなら早急に済ませてほしいのですが。
 とも言わない。
「さっきまで駅前で歌ってたんだけどね。
 さすがに寒さに負けました。」
 だからギターか。
 いいね。堂々と趣味をさらけ出せて。ウタうたいはカッコいいもんね。
 思いだした。
 シータ。シータス・ミアロートさん。そういえば、兄の友達だ。
 あたしはなぜこんなに目立つピンク頭の記憶を失っていたのだろう。

「ウェイテラさんは?」
「え?」
「ここで何してたの?」
 ふと、ペンをはさんで閉じてたノートに気づかれた。
「勉強? 高校生だっけか。」
「そんなトコです。」
 フーン。邪魔しちゃったかな。
 そう言っといて、ウェイターにホットチョコを頼んでるし。
「ウェイテラさんもなんか飲む?」
「えっと…ペシタでいいです。」
 また微笑んだ。
 テレパスごしのときはさんざん、ペシタペシタ言ってたのに。
 悪いヒトじゃないのはわかってんだけど、今はジャマなのだ。
 このタイミングじゃなければ、お相手しますがね。
 なんて上から目線でけなしてみる。

 待てよ…

「あの…シータさんって、本読むヒトですか?」
 思いきって訊いてみた。
「ん。あなたのお兄さんに比べたら、かぎりなく少ないけど、読むよ。
 なんで?
 なんかオススメ本でもある?」
 やっぱり一瞬躊躇う。
 でも、きっとこのヒトなら、バカにしないで読んでくれるんじゃないかな、と期待した。
「オススメはあまりできませんけど、これ読んでもらえませんか?」
 そう言ってあたしはさっきまで書きなぐっていたノートを彼女に渡した。
 きょとんと見つめられた。
 後悔と焦りが、ノートを引き戻したいという衝動を駆り立てる。
「もしかして、自作の小説?」
「迷惑ですか?」
 あたしは弱気に尋ねた。
 シータさんはこっちがビックリするくらい、あたふたと否定していた。
 あたしにわずかながら笑顔が戻った。
「失礼言ってごめんなさい。意外だったから。
 お兄さんからはあなたの恋愛ジャンキー話しか聞いてこなかったからさ。
 予想外だったの。」
「あはは。そうですよね。
 って、あの兄マジか…」
 ついホンネが出てしまった。
 アワてるあたしを楽しげに見つめていた。
「いつぞやと雰囲気違うね。」
「兄は知らないんです。あたしがこんなことしてるの。」
「ってことは、両親や友達やカレシもでしょ?」

 なぜバレた。
 いや、バレるか。

「だからか。カレシがとっかえひっかえになるの。
 あまり深入りすると、ホントの自分がバレそうで怖い。」
 びしっと指を指された。
 失礼なヒトだが、図星だ。
「コレ読むのあたしが初めて?」
「二人目です。」
 一人目は卒業したオトコ先輩。
 でも、批判も感想もなかった。なんでか空ろにノートを見つめていた覚えがある。
「そっかぁ。
 じゃあ、心して読まなきゃなんないね。」
 このヒト、いいヒトだ。
 っていうか、兄が信用したヒトは、ほぼ間違いなくいいヒト。
 これでまた一人証明されたなぁ。
「で、なに飲む? もちろんオゴるから。
 さすがにじっと見られながらはあたしも読みずらいわ。」
「あ、ぜんぜん短いんで…でも、お言葉に甘えさせてもらいます。
 オレンジジュースをお願いできますか?」
 寒いのにいいの?
 なんて笑われたけど、しょうじき、喉がカラカラだった。
 こんなに自分をサラす作業が緊張するものだとは思っても見なかった。
 オレンジジュースをすすりながら上目遣いに二人目の読者を何度もチラ見した。
 さっきまで書いていた話だけでなく、やたらテンション高いだけの恋愛小説やら、使い古された異世界ものとか、何個か書いているからどれかには品評を貰えるかもしれない。

「うん。」
 パタリとノートを閉じて、あたしのほうへと滑らせる。
 キンチョウで目の前がよく見えない。
「おもしろかった。
 さっきも言ったけど、私はそんな読書量が多くないから的確な批評は期待して欲しくないけど、もっと書いたのを読みたいと思う。」
 あたしをキズつけないブナンな批評だ。
「世界観は好きよ。
 一般ウケするかといわれると、一大ヒットって内容ではない気がする。
 あとは文章の選び方かな。
 文語体でいきたいのか、会話文を使って進めたいのか、曖昧だったりするから統一したほうがいいかな、とは思ったよ。」

 パチクリ。
 あたしは驚きになにも言えなくなる。
 書いたものに反応が返ってくるってこんなにウレシいことだったんだ。
 ほおが緩むのがガマンできなくなる。
「ありがとうございます!」
 あたしは精一杯感謝した。
 オレンジジュースを一気飲みして、笑われた。もう一杯温かいミルクティを頼んでくれた。
「よし!
 今から時間の許す限り書こう。ペシタは続き仕上げて。
 私も曲、作りたくなった。」
「スゴっ。
 曲も自分で作るんですか?」
 もちろん。
 シータさんがそう言って、かばんから五線譜ノートを取り出す。
 あたしのノートよりごちゃごちゃと書かれたノート。余白にまで音符が書かれていた。
 テレパスにヘッドフォンをさしこんで、五線譜ノートの上において。
 作曲用の画面が映っていた。

 霧が晴れた。
 まるで呪いから解かれたかのようにストーリーが浮かんできた。

『オトコは街を彷徨い続けた。
 当てもなくいつまでも。その足が街外れで止まる。
 両のまなこに映し出されたのは、雪の中にうずくまる女の子だった。
 空虚な二つの深遠に灯りがともった。
「ドウシタ…」
 少女は驚いて、カレを見上げた。
 さすがに幼子を怯えさせるつもりはない。
 ボロの前をしっかり閉めて、フードを目深にかぶりなおした。
「おじさん、ダレ?」
 オトコには自分の名前がない。
 しかし、少女は涙を両瞳にたたえたまま、オトコを見つめ続けた。
「ケガヲシテイルノカ…」
 オトコは手を伸ばしかけてやめた。少女に怯えを見たから。
 しかし、オトコの失いかけた五感は、少女の死を予見していなかった。
「おとうさんをさしたの。」
 虚ろに少女は言った。
「おとうさんがおそってきたから、びっくりしたから、あたし…あたし…」
 泣き崩れる少女をオトコは抱きしめることはできない。
 オトコはカレのできる範囲の優しい声で、
 でも、しゃがれきった聞き苦しい声で、少女に語りかけた。
「ココハサムイ。イエニカエロウ…」
「でも、おとうさんが!」
 恐怖と後悔でパニックを起こす少女をオトコは魔法で眠らせた。
 クタンと力なく膝を落とした少女の体を宙に浮かせ、歩き出す。
 雪につくはずの足跡がなかった。
「カミノミコカ…」
 少女の記憶の断片をオトコがまとめあげ、家を探る。
 たどりついた場所は深雪に埋もれた神殿だった。
 真っ白い景色から冷たい石壁に囲まれた神殿の中へ。
 静かに並ぶ長椅子の間を抜けて神像の前へ。
「コレガチチオヤ…」
 仄かな光の中、赤黒い血の海の中で眠るように横たわっていた。
「ツラカッタノダナ…」
 少女を奥の部屋に横たえ、再度死体の前に戻った。
 オトコは軽々とその死体を持ち上げると、神殿の外に出た。
 その二つの暗渠とした瞳には、桜の巨木が立っていた。
「カコハボウキャクノカナタヘ…」
 オトコがそう呟くと、少女の父親の体を桜の樹の下、雪の上へ落とした。
 それはずぶずぶと雪にめり込み、姿を消した。
 雪面は何事もなかったかのようにまっさらな白へと戻る。
 少女の記憶とともに。
 枝につけた雪が桜色を帯びて、また白を積み上げる。』

「どうだ!」
 あたしは思わず声を上げてしまう。
 アワてて周囲を確認してハズかしさにうつむいた。
「お、できたのね。
 見たい、見たい!」
 シータさんはヘッドフォンを耳からはずすと、全く周囲を気にするそぶりもなくはしゃいだ。
 周囲の視線が再びあたしたちに向けられる。
 でも、奪いとったノートをダイジそうに胸に抱えたシータさんを見たら、そんなのどうでもよくなった。
「あらー悲劇ねぇ。」
「ダメですかね?」
 弱気に訊くあたしを「なんで」みたいに見つめ、再びノートに視線を落とした。

 その表情がクルクルと変わっていく様は、ドキドキするやらホッとするやら。
「うん。よくできました。
 私、このラストシーン好きだわ。」
「どこ直せばいいですか?」
 勝手にシータさんを評論家ならぬ、先生に仕立て上げてた。
「私に文章添削はムリだよ。
 それはお兄さんか、ヘスのほうが得意だよ。」
 苦笑いされ、照れ笑いで返す。
「ヘス…さん?」
「あー、お兄さんと私の友達の文学バカ。
 光明神殿のヴィクセンって知ってるでしょ?
 あそこの後継者。」
「知ってます。
 すごい有名人じゃないですか!」
 思わず声が上ずった。

 そうか。

 アタリマエのことだけど、カラトン神大学に行かないわけがない。
「なの?」
「お兄ちゃん、そんな有名人と友達なんですか?」
 しっくりこないらしい。
 眉間にしわを寄せて天井をしばし凝視し、首を傾けた。
「まぁ、いいや。
 ねぇ、その有名人に読ませてもいい?」
「そんな駄文、読ませられないです!」
 半ば悲鳴だ。
「自分の子供を駄文言わないの。
 言葉は生き物だよ。どう育つかは、どう関わるかなんだから。」
 うわ。名言だ。
「歌だっておんなじ。絵だって、音だってそう。
 だから、私はへたくそでも歌い続けんだしね。」
 そういえば兄も吹奏楽でそんなコト言ってたな。音を大事に育てろ、って感じのこと。

「あ、そうそう、秋くらいに発表会やろうって話しあったさ。
 覚えてる?」
 あたしはこくりと肯いた。
「ごめんね。企画作りが伸びちゃってんのよ。
 コナ経由で話聞いてないよね。」
「あ、立ち消え話じゃなかったんだ。」
 言ってしまってから、アワてて口をつぐむ。
 シータさんはシカタないと笑ってくれたけど。
「もう少し、話詰めたらまた誘うからね。でさ、一つ確認していい?」
 ふと思い出したようにシータさんが訊いてきた。
 あたしはふわふわした頭で肯いた。
「これってオリジナルよね?」
「盗作って言うんですか!」
 現実に戻されるどころか、一気に血の気が引いた。
「違う!
 ごめん。勘違いさせちゃった。
 いえね、実体験みたいに読んでしまったから。」
 平謝りに謝られた。
 早とちりに顔が赤らんだ。

 でも、実体験?

「それだけ文章力があるってことなのよね、きっと。」
 ヤサしいフォロー。
 とはいえ、心の片隅にもやっとするものが残ったことは否めない。
「実体験…」
「そんなわけないよね。
 こんな体験したら、ペシタみたいな性格にならないよね。
 そうね。
 重ね重ねごめん。」
 ヒッシに弁解するシータさんと広げられたノートを交互に見比べた。
 すごくイヤなフアンが沸いてきた。
「ねぇ、でもさ。おとうさんがその娘に殺されたって設定でしょ?
 何があったかは語らないの?
 それとさ、少女の筋力で大の大人を失血死させられるかな?
 その辺りは気になったかなぁ。」
 シータさんの話し声がはるか遠くに聞こえていた。

 雪をまとった桜の巨木。
 朝陽に照らされて、オレンジを照り返した樹が桜色だった。
 ウチの神殿の庭には桜の樹がない。オリーブやら梅やら桃やらは雑多に植わってるけど。

 だったら…

 その記憶はいつのどこ?

二月

コーノス・ウェイテラの物語
大学一年・二月 

 ボクの大好きな、ワタシの大好きな
 カレらもカノジョらも、
 キミも笑ってられますように
 その気持ちを忘れないように
 この景色をきちんと覚えておこう。
 コスモスの花を一つ一つ
 秋のサクラが淋しく散らないように
 それぞれが違うものを見て
 違うことを思っていたとしても
 トナリに寄り添っているかぎりは
 倒れることはないから
 そう祈って

「ボクじゃないよ。この部分の歌詞はコナが作ったんだ。」
 ヘスがシータにやたら熱く話していた。
 俺のことをよく知っているルビとペシタは、俺のドッペルゲンガーにでも遭遇したときのような表情で凝視していた。
 俺をよく知らないディルは、すごいよね、とヘスとシータとはしゃいでいた。
「ヘスがさんざん俺にヘタクソな詩を聞かせるからだろうが。お前好みだと思って書いてみたんだ。
 というか、なんでお前の手柄にしないんだよ。
 俺はオマエがスランプだってイジケてたから、ためしにこんなのはどうだって例を出したまでだろうが。
 そのままみんなに見せるなんて言ってなかったぞ。」
 結局秋に企画した発表会とやらは、年が明けてもまだ実施できずにいた。

 さらに一ヶ月。
 それぞれが妥協できない結果だ。
 ヘスの作詞は、何度も何度も推敲され、詩的表現力のあるルビとペシタとそれ以上に議論された。
 ホントは歌詞にメロディをつける形で進めようと思っていたが、なかなか歌詞が出てこないから業を煮やしたシータと俺でイメージをつめることにした。
 テーマは決まっているから、その擦りあわせで行こうということになったのだ。
「よし。コナが曲を作ろう。」
 さらに、シータが無茶振りしてきた。
「私はディルの特訓があるから。」
 教会音楽をアレンジしたバラード。
 シータの指定はそれだ。そこまでならまだ、経験済みだからやれないことはない。

 問題はもう一つのほうだ。
「他のメンバーにもオフレコ。
 別ネタで、レクイエムをレクイエムとばれないように、かつ鎮魂歌としての意味を失わないような曲を作って欲しいの。」
「理由は話せるのか?」
 あいかわらず暗躍ってコトが好きなヤツだな。いい加減慣れたけど。
 下手すれば、総スカン食らいそうな危うさを平気で相談してくる。
 多分、シータがメンバー五人に話しいるネタは微妙に違うのだと思う。
「聴かせたいヤツがいるんだけど、なるたけそのときまで知られたくない。」
「レクイエムってのは誰かの魂を鎮めて天国へ送る歌だよな。
 それを聴かせたいってコトは、対象は霊体ってコトなのか?」
 曖昧に肯くのを見て納得した。
「使う楽器は?」
「理解が早くて助かるわ。」
 はたしてそれは五つの民族楽器のほうの曲を作って欲しいということだった。
「つまり、その用途で配られた可能性があるということだな。」
「そうね。
 少数民族の神楽に使われるのが混ざってるから、そうかもと思ってるのよ。」
「カグラ?」
「神に奉げる音楽のこと。こっちのほうでは使わない表現だけど。
 聖歌とはちと意味合いが違う気がするので、コードネームとして使おうかなと。」
 ペシタからシータが過去に迷っているという話を聞いたことがある。
 しかしこの辺りの博学ぶりは、たかだか二十年では得られないものだ。
 千年単位で転生しているかどうかはさておき、二度三度は転生している証拠ではないだろうか。
 俺の日常にはありえない話だから、本来ならぜったいにそんなことは考えない。

 シータだから、言葉を信じる。

「コナ?」
「いや、別になんでもない。
 とりあえず、レクイエムの、あぁ、カグラの話は了解した。
 皆にもわからないように作ってみる。」
「ありがと。」
 シータは常にみんなのために一生懸命考えてくれている。それが理解できているから信じることができる。
 正しい、間違っている、そんな評価は下す必要はない
 。結果、もしかしたら彼女に対峙する日があるかもしれないが、そのときは自らの信念を曲げずに彼女の前に立とうと思う。
「信念を曲げずに付き合える友…か。
 青臭いな。重たいし。きっとウザいだのいわれそうだし。
 でも、いつか友達をテーマにこんな歌も歌ってみたいな。」
 ボソリと俺が呟くと、
「ゆるす。いいと思うよ。
 今すぐ作れ。」
 とシータが微笑んだ。
「命令かよ。」
「はい。命令ですけど、なにか?」
 その達観した笑みに俺は自信に満ちた笑顔で返す。
 そいつの訴えに対峙することも友情だ。馴れ合うだけなら、その辺のニンゲンともできるだろう。
 しかし、自分を主張しつつ友達でいられるニンゲンは数少ない。
「人生かけていいと想えるダレか。それを音にするのもありかな。」
 長調か短調か。
 メロディを高めに設定しようか、低いところからの階段にしようか。
 普段使ってる楽器だったら、何とかできそうだ。
 となると、やはり問題は民族楽器のほうだな。
「音を全部重ねると雑多になるし、メロディパートが音の弱い楽器だからバランス取れなくなるんじゃないのか?」
「それは私も考えた。
 ただ、どれが何の能力を持っているかわからない以上、全部を一斉にやるしかないのよね。」
「そうか…だったら、音の強いリズムパートの一音ずつを間を空けるか。」
 俺は頭の中で音をめぐらせた。
 こんなに音符が脳裡を占めたのははじめてのことではないだろうか。
 シータのようにテレパスを使いこなせれば、少しは楽なのだろうけど。

「ダレかを想うヒトって強いねぇ…」
 微笑の片ほほが歪む。気のせいだろうか。
「悪いんだけど、あとはディルの相手でもしてて。
 私、ペシタに話しておかなきゃならないことがあるから。」
 そう言って、シータが席を外した。
 平静を装うも、変に気を回されたコトに戸惑う。
 朴念仁と妹にバカにされる俺ですら、周囲の微妙な空気に気づいた。

 照れ笑いだか、苦笑いだか、曖昧な笑みを残しつつも、ありがたくその気遣いに甘えることにする。
「ディル。少し外でないか?
 そろそろニコチンぎれだろ?」
「おぉ。
 さすがコナ。わかってらっしゃる。」

 知らぬは本人ばかりか。

 俺は苦笑まじりにディルを中庭に誘う。
 兄のヘスが俺を一瞥したが、そこはムシ。
 本人はあくびまじりに、でも無邪気に俺の後ろをついてくる。
 高鳴る心臓。こんなにカラカラの喉で何を話せるのだろうと不安になる。
「ディル…あのな…」
「うん。なに?」
 中庭のベンチに二人並んで座った。肩と肩が触れそうだ。
 俺の微熱だけが、彼女に伝わりそうだった。
 沈黙が二人に流れる。
 ディルはタバコをくわえてるから、対して気にしてなさそうだ。
「ギター弾けるようになったのか?」
 声は震えていない。いつもの自分だ。
 で、ディルもいつものディルだった。
「ムリ!
 シータ、教え方ヘタなんだもの。」
「ヒトのせいにするなよ…」
 シータがかわいそうに思えた。
 って、あいつ教職受講してなかったか?
 だいじょうぶなのか、あいつ。
「いやいや、教え方ならやっぱりヘスとコナには敵わないね。」
「ご誉めに預かりましてありがとうよ。
 というコトは発表会はまだまだ先だな。
 へたすれば、春かな。」
「かもね。
 いいんじゃない?
 ルビもそのほうが安心して音楽に集中できるだろうし。」
 とことん無邪気に笑う。

 ヘスにもシータにも「扱い大変だよ」と半分脅しのように言われたのを思い出した。
 性格なのか、自分自身にも周囲にも無頓着な印象を、出会ったときから持っている。
 自分のことは後回し。
 その気持ちを持っていながら、周囲が振り回される。ヒトのために、と行った行動が実は周囲の望むものとズレている。
 そんな感じ。
 実害があるほどズレないと周囲もいちいち指摘しないからそのまま彼女の想うとおりに進めてしまう。
 ちょっとした違和感にムズムズしているのをガマンしてしまう感じだ。
「どうしたの?」

 俺はディルのことが好きだ。

 自信持って宣言できる。
 しかし、彼女はこう答えるのではないだろうか。
「キライじゃないけど、あたしじゃないほうがいいと思うよ。」
 理由を明確に述べることはできない。
 しかし、彼女と話せば話すほどそう思ってしまうのだ。
 俺のことを毛嫌いしているわけではないだろう。
 それとも、女性にとって友達から恋人になることは、難しい。そう言っていたルビの説通りだろうか。
 音符が全体を占めていた脳が、今度は彼女への言葉でいっぱいになる。
 しかし、それが声として発せられることはなかった。その前にディルが動き出してしまったから。
「よし。ニコチン補充完了。」
 手を伸ばしかけて、ポケットにつっこんだ。
「にしても寒くない?
 カゼひくから中入ろうよ。そろそろ各担当の話合いもすんでるって。
 あれ?
 そういえば、あたしたちは何の話合いするんだっけか?」
「…少し風に当たろうと思っただけだ。
 みんなのところに戻ろうか。」
 さっさと立ち上がって、建物の中へと歩き出す。

 結局、今日も諦めた。

 なぜ、きちんと伝えられないのだろう。
 勇気の問題なのか?
 俺はディルの後姿を見つめながら、頭を抱えた。
「その顔は撃沈した顔じゃないな。告白すらできなかった顔だ。」
 遅れて戻ってきた俺にニヤニヤとヘスが耳打ちした。
 力なく肯いた。
「少なくともディルは空気を読む能力は低いよ。
 ムードを作って、なんて計画練ってると一生コクれない。」
「なんで自信満々に言い切るんだよ。」
 ポンポンと慰めるように肩を叩かれた。偉そうにふんぞり返りながら。
 八つ当たりしそうになったから、話題を変えた。
「で、歌詞はできたのか?」
「いや、できん。」
「じゃあ、今日も時間切れだな。
 個人練習を続けるか。」
 俺はだらだらと楽器を片付け始めた。

 とそのとき
「なによ。別にあなたには関係ないでしょうが。」
 シータの怒鳴り声が聞こえてきた。
 扉をはさんで立っていたのは、スーツとシルクハットの生命神殿のオトコだった。
「たしかにキャンパス内は出入り自由ですがね。
 部室や教室使用の際はきちんとした提出書類が必要なんですよ。」
 片頬をニタリと歪めていた。
「あんただけよ。そんなの気にしてるの。
 他の部室だってそうじゃない。
 どこぞやのスポーツ愛好会の方が、よっぽど女子大の娘、ひきづり込んでんじゃない。
 そっちのほうは見て見ぬ振りしてピンポイントでここに来るのは、それこそ不自然だわ。」
「たまたまだ。
 そっち三人、出入り制限かけるから身分証を出しなさい。」
「ルビが目的でしょ!」
 男はいやらしく口元を歪ませていた。
 そう来たか。

 まぁ、想定内だが。
「先生、すみません。
 そろそろ終わらそうと思ってましたので、今回は見逃してもらえませんか?」
 いち早く帰り準備を終わらせていたから、荷物を持ってシータの前に割り込んだ。
 怒り心頭のシータを目線で制する。
「ダメだ。今までいたのは事実だ。」
「そうですか。
 じゃあ、遅くなりましたが、これ提出します。」
 と俺は教授の前に三枚紙を突き出した。
 訝しげに俺を睨む男の手首を
「失礼します。」
 と掴んで、その手のひらにそれを載せた。
「部室使用許可の教務課提出用紙と三人の一時入校願い、それと部長からの許可証明書です。」
 俺はニコリともせず淡々と教授に告げた。
「何をいまさら…」
「だったら昼食時間に教務課閉めないように提案してもらえませんか?
 ウチら学生も困ってるんです。
 なんでしたら今回のトラブルを例に挙げて、大学運営改善委員会に持って行きますけど。」
 多少強引な手法ではあるが、教授側も大事にできない事情があるのはヘスから聞いていた。
 だから、話を大きくすれば相手が引くことを予測できた。
「帰りに寄るか、それとも今から教務課に提出してきたほうがいいですか?」
「貴様…」
「仮にも神学科の先生なんですから、学生を虐げるような呼び方はやめてください。
 私もそれなりに理不尽に対する怒りはあるのですから。」
 男は黙り込んだ。
 手のひらに乗せられた用紙をぐちゃぐちゃに丸めて床に叩きつける。
 で、何も言わずウチらに背を向けて廊下を去っていった。

「コナ、やるねぇ…」
 とヘスが呆然と俺を見つめていた。残る三人の女の子たちも。
「よく準備してたな。」
「使うあてがあるとは思っていなかったけどな。
 シータが考えなしに授業サボるから出席用紙も何枚も持ってるし、この手の提出用紙も大体の種類を用意してあるんだ。
 学内発表に関する準備書類も一応全部あるぞ。」
 真実である。
 シータが怒ってんだか、ありがたがってんだか、わからない表情をしていようが、実際そうなのだ。
「さて。
 そろそろ帰るって宣言してしまったから、おしゃべりなしにしてさっさと帰りの準備してもらえるか。
 あと、俺が部室の鍵は教務課に戻しておくから。」
 教務課が昼にいないことは真実。
 ただ、その前に俺が鍵を借りてきているから、用紙を提出しなかったのはわざと。というか面倒だったから。
 その辺を目ざとくツッコんでこれないのは、あの教授が教務課に行かないからだろう。
 そこも想定内。
「俺は悪魔と戦う能力は持っていないからな。戦わず、追い返すすべくらいは考えてるさ。」
 手放しに誉めてくる友人たちに、俺はちょっとだけ自信もって答えた。

 外は雪がちらついていた。
 うっすらと地面に積もりだした雪を踏むと。きしきしと音をたてた。
 ヘスとディルが光明神殿のほうへと帰っていく。
 残された俺と女の子三人は寒空の下、各神殿前経由の馬車を待った。
「いや、マジ、最後のお兄ちゃん、エラかったわ。」
 まだ、ペシタが繰り返していた。
「あのお兄ちゃん見たら、ディルさんもきっとホレるよ。」
「なに言ってんだよ…」
 苦笑する俺を、突然他の二人も取り囲んできた。
「な、なんだ?」
「コクったの?」
 とシータ。
 俺は動揺をひた隠しにしながら包囲網を逃れようとした。
「お前にそのことを話した覚えはないぞ。
 ダレから訊いた?」
「ダレからも聞いてない。」
 ますます包囲網が縮まった。
「お兄ちゃん、諦めなよ。バレバレなんだから。」

 黙れ、妹。

 と強気に出られない。
「…言えなかった…」
 途端、三人の溜息が重なった。
「ヘタレ。」とシータ。
「枕抱いて、寝悶えろ。」とルビ。
「それは妹として気持ち悪いから却下します。」とペシタ。
 俺は一気に憂鬱のどん底に突き落とされた。
 さっきまで誉めまくってたやつらが、手のひらを返したように俺を見下していた。
「えぇ、その通り。俺には勇気が足りませんよ。」
「デカイ図体で泣きごと言うな。キモイわ!」
 クソ。容赦ないな。
「お兄ちゃん…さっきあんなにカッコよかったのにな…」
 悪かったな。自慢できない兄ですまんね。
「コナ先輩、絶対あと三十年独り身ですね、きっと。」
 いらん予言すんな。
 でも、彼女らの言うことは真実だ。
 俺はみすみすチャンスを棒に振った。しかもディルのせいにして。
 彼女の答えはまず別の問題のはず。俺が想いを伝えることに、彼女は関係ないじゃないか。
「なんでだろうな。自分のことになると、冷静に計画立てらんなくなる。」
「そんなことグダグダ考えてるから、失敗するんじゃ。
 もっと気持ちで行動しなさいよ。」
「わかった、わかった。」

 女の子三人の恋バナは馬車の中でも延々と続く。当事者を完全に蚊帳の外にしてだ。
 ホントに一生分聞かされたのではないだろうか。
 唯一意外だったのは、ヘスと比べるような言葉が出てこなかったことだ。

 馬車が生命神でルビを降ろし、和神殿で俺とペシタが降りた。
 シータはそのまま馬車に乗って去っていった。
「今更だけど、シータさんってどこに住んでんの?」
 ペシタが尋ねてきた。
 言われてみれば、俺も知らない。

 雪のカーテンに消えていく馬車のホロが弱々しく風にはためいていた。

三月

五人の春の物語・桜の蕾の下で

ヘシアン・ヴィクセン
大学一年・三月 

 僕は一年自分に偽らずに、他人に偽らずに生きてこれたのだろうか。

 大学のキャンパスにもまた春が訪れる。
 まだ、月も明けていないというのに、つまりは年度もあけてないというのに、気の早いサークル案内が張られていた。
 春休み前の授業の休講の連絡や、晒し者にされた卒論未提出者の一覧やらも雑多と張られていた。
 桜の樹の下にある掲示板の前。
 もう幾日かすれば、新入生の希望に満ちた笑い声で満たされるだろう。
 が、今は閑散としている。
「去年より、花が咲くの早いかもな。」
 見上げた桜の樹。
 蕾がほころんでいる。

 日当たりのいいここの桜は咲き始めが一番早い。
 そして、儚い桜のイメージと異なり、かなり長く花をつける。
 萌黄の葉とややのっぺりした薄茶の樹にピンクにほころぶ蕾を認めて、自然と笑みを浮かべた。
 風が優しく枝葉を撫ぜるたび、桜色の唇がくすくすと笑っているように見えた。
 それは、過去に囚われるニンゲンにうら寂しい喜びを連れてきた。

「またお悩み事ですかねl」
 気配を察すことができなかった。
 桜の樹から目線を隣に移した。やたらと派手な女の子が、俺と同じ姿勢で桜を眺めていた。
「久しぶり。
 って言っても、三週間くらいだけどね。」
 桜色の口元がわずかに緩んだ。
 パッツンに切り揃えられた前髪のショートボムはどピンク。ピンクマッシュルームはおいしくなさそうだ。ライナーで縁取りされた目元も桜色。
 格好はあまり昔と変わっていない。サイズの合っていない長袖Tシャツから覗く黒のタンクトップとホットパンツが彼女のお気に入りらしい。今日はホットパンツの中に黒薔薇のレギンス、ツッカケサンダルをはいていた。
「春休み中は? いつもみたいにどっかで歌ってたの?」
「まぁね。本職も趣味も満喫させてもらってたわ。」

 シータは子供のころから、二種類の歌を続けている。
 一つは路上ライブを主とした歌。
 もう一つは語り部としての詩。
 前者はギターをかき鳴らす喜劇じみた抒情詩。
 後者はカリンバという民族楽器を爪弾く悲劇を語る叙事詩。
「本職が吟遊詩人のほうだっけか?」
「いまさらそんなたわごと言うのはこの口かぁ!」
 ほっぺたを思いっきりひっぱられ、僕は悲鳴を上げる。
 正直、彼女自身は趣味と言い切る前者のほうが似合うと思う。
 しかし、後者の語り部、もしくは吟遊詩人と呼ばれる職業を本職と宣言するには、その外見を見るに違和感を感じ得ない。
 ギターをかき鳴らす姿は想像できても、朗々と悲劇を歌い上げる吟遊詩人の姿はいまだ想像できないのだ。
 とかく派手だから。

「お父さんはどうなったの?」
「パパねぇ…」
 歯切れが悪い。
 答えが想像できた。
 シータの傍らには、いつもギターと木製の箱が置いてあった。
 木箱がカリンバ。
 縦20cm、横10c、厚さ5cmの直方体の箱に上に向かって緩やかに反り返った長さの違う鉄ベラが五本留めてある。
 吟遊詩人モードの彼女は、そのカリンバを弾くことで微妙な音色を奏でるのだ。
 カリンバにはもう一つ秘密があるのだが、この平和な時代には無用なので、友人や後輩にも説明していない。
 彼女はそう言っていた。
 だから、僕もダレにも話していない。唯一の親友にも。

「平和な日常をちゃんと送れてんのか?」
「って思ってたんだけどね。」
 平和な時代は、平和なりに事件が起こるのだ。表面化していないだけ。
 シータはそう淋しげに笑んだ。
 一緒に闘ってやりたい。
 それ以上にホントは、彼女が大鎌ををふるわずにすむ社会になるようになってほしい。
 でも、いくら神に祈っても、そんな社会は訪れないのだろう。
「正直ダレを信じていいのか、私にはわからないわ。」
「だから、僕らを信じればいいんでしょ。」
 言ってあげられるのはせいぜいそんな気休めくらいだ。

 僕の知らないところで彼女も自分を取り巻く世界と戦ってきているのだろう。
 根掘り葉掘り訊くわけにもいかないから、せめてグチりたいようにグチらせることしかできないのがもどかしい。
「まぁ、愚痴る場所があるだけ私は幸せなんだと思うよ。」
 去り行く友人の荷物を少しでも多く、少しでも長く持ってあげられれば、ともう一度桜を仰いだ。

シータス・ミアロート
大学一年・三月 

 私は幾度も転生を繰り返している。

 もうすでに正確な回数は忘れた。
 いつ生まれたのかも忘れた。
 いつ両親が死んだのかも忘れた。

 それなのに語るべき歌を忘却することはなかった。きちんとしたメロディを奏でることができないカリンバの微妙な爪弾きの方法も惑うことはない。
 私の歌う昔語りははるか昔に実際に起こった悲劇の歴史だ。
 かたや、心のバランスをとるかのように今と未来を奏でるギターは、思い描く歌を歌えているとは言えない。
 だから、私自身を救ってはくれない。

 仰ぎ見る桜の蕾は、そんな私自身だ。
 美しく咲けるはずの自分自身を夢見て、いや心待ちにして、今か今かと力をためていた。
「珍しいな。
 花の下で泣いてるお前を見るのは初めてだ。」
 無遠慮に声をかけられた。
 言葉の通り確かに私は泣いていた。
 隣を見て、涙が頬を伝うのを感じて、初めて気づいた。
「一応さ、見て見ぬフリをするのも優しさじゃないの?」
 心にもない皮肉を返す。
 涙目で、頭一つ分以上も上にある男の顔を睨みつけた。
「それは悪かったな。
 感傷に浸ってたのか?
 それとも淋しかったのか?」
「コナのバカ。鈍感。朴念仁。」
 コーノス・ウェイテラ、コナは私の悪口攻撃を黙って受け止めていた。
 彼が正直な分、私も彼には本音で話す。悪口が先にでてしまう私のことを、彼は理解してくれている。
 理解は自分勝手な言い草だ。
 諦めか我慢のはずだ。

「髪切ったの?」
「少しでも伸びると気になってしょうがない。クセっ毛だからな。」
 固めの黒灰の髪はいつも、ハリネズミのようにツンツンしている。
 ハリネズミよりも短いな。頭の両脇も短く刈上げている。
 大きな足に無骨なエンジニアブーツを履いてしっかり地面を踏みしめて。背が大きくて、体つきもがっちりしてて。色も浅黒くて。ホント、男らしい男だ。
 こげ茶色のライダースジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
 もう片方の手で、適度に穿きこんだジーンズから、似合わないキャラもののハンカチを差し出された。
「ありがと。コナは紳士だね。」
「それは得意の皮肉か?」
「本音。」
 ごつごつした手が私の頬に触れた。ハンカチでそっとぬぐわれた。
「化粧落ちる。」
「泣いた段階でアウトだろ。」
 二人で笑った。
 一ヶ月ぶりに会ったけど、とても自然だ。

 笑いながらふと思った。
 ほぼ一年友人として過ごしてきたが、こんな傍で彼を見上げたのは初めてのことかもしれない。
 にしても、いいヒトだな、とつくづく思う。

「ブラスバンドのほうはどうなの?」
「ぼちぼち。今は新入生の勧誘のために必死に練習中だ。」
 それこそ武道でもしてそうな体格なのに、小中高そして大学までずっと吹奏楽部だ。
 しかもフルート。腕前はおりがみ付き。
 なにせ、彼の実家である和神フィース・ラホブ神殿でソロの定期演奏会が開かれるほどなのだから。
 数度、その演奏会を見学に行ったことがある。
 無骨に見えるコナの指先が金属製の横笛の上を滑らかに動くたびに、儚い高音の旋律が奏でられる。
 同じ音楽を生業とする私が、鳥肌の立つ思いをしたのは彼のフルートだけだ。
「定期演奏会では、今もオカリナもやってんの?」
「もちろん。」
 コナはそう言って、ライダースジャケットのジッパーを半分ぐらいおろした。
 胸元にぶら下がっている陶器笛。首を切られた小鳥みたいなの。
 表現としてどうかと思うが、一番シックリくるのでついそのように説明してしまう。
 当然コナはいやな顔をする。すぐに苦笑いになるけど。
 ガタイのいいコナがオカリナをくわえるとホントに小さく見える。
「やっぱ、小鳥食べてるみたい。」
 ゲシリとグーで殴られた。
「今度、俺のトコでセッションしような。約束だぞ。」
 笑顔で片手を挙げた。
 私もそれに習って小さく片手を挙げた。

 桜色の景色に大きな体が消え行く幻。
 私は彼の幸せを祈る。
 正直で真直ぐなヒトが本当の幸せを手に入れて欲しいから。

コーノス・ウェイテラ
大学一年・三月

 大学の最初の一年間で学んだこと。それは自分自身に自信を持つこと。

 それがたとえ、メッキだとしてもハッタリだとしても、だ。
 理想の自分にはまだまだはるか遠いとしても、自分自身の成長を信じる術を友人たちは教えてくれた。
 真面目という評価も、無神経という評価も、バカ正直という評価も、おそらくただしいのだと思う。
 あくまで評価は他人が下すものだ。
 自己評価とのギャップに悩むこともあった。昔の自分なら、自他のギャップに苛立つだけだっただろう。

 しかし、この一年でギャップを埋める努力と方法があることを学んだ。
「やっぱり先輩変わりました。」
 ルビが言った。
 顔がずいぶんと近い位置にあったから背が伸びたのかと思ったら、やたらヒールの高いブーツを履いていた。
 去年だったら無神経にからかって怒られただろうとそんな苦笑い。

 二人並んで今にも咲かんとする桜を見上げていた。
 受験のプレッシャーから開放されたからなのか、逢うたび笑顔が増えていた。

 ルビ、ルービスは生命神テナの神殿長だ。
 去年の冬、彼女は唯一の肉親である父親を亡くした。自殺とも他殺とも言われている。
 その精神的な負担から立ち上がる気力も戻らないまま、彼女は神殿長の地位につかざる得なかった。
 俺より一つ下という年齢で神殿一つを回すということが、どれだけ大変なことか俺には想像できない。

「信じられる友人がいるからな。」
「そういうセリフなんかを照れナシで言い切れる辺りは、ぜんぜん変わりませんけどね。」
 そう言って、またクスクス笑う。

 本当によく笑うようになった。

 コンプレックスだと言ってた黒ぶち眼鏡も、脱色も染色も意味を成さない頑固で真直ぐな黒髪も、自信を取り戻したかのように元気に揺れる。
 いつもなら伏し目がちの視線も真直ぐ桜の蕾と青空を見つめていた。
 すらりとした鼻梁の下にある小さな唇が吐息を漏らす。
「急に大人っぽくなったな。」
「はぁ?
 先輩の口からそんなセリフ聞けるとは思いませんでした。」
「ったく…ルビの中の俺は一体どんな男なんだよ。」
 言ってる傍からいちいち過去と比べる幼馴染にうんざりする。

 いや、俺も似たり寄ったりか。
 さすがに声には出さないが、正直きれいになったなと彼女の変化に戸惑っているのだから。
「微妙にゴスが入ってるのは、シータの影響なのか?」
「うわ。先輩それなしでしょ。」
 赤面症は変化ナシ。少しだけ安堵する。
「でも、それは半分当たりです。」
「半分?」
「フリルつきの黒ワンピは結構昔から持ってたんですけど、なかなか着る勇気がなくて。」
 膝丈のワンピースが春風に揺らめいた。
 一緒に、シルクハットの形をしたアクセサリーを乗せた長い黒髪もふわりと揺れていた。
「その格好でオルガン弾いたらかっこいいな。」
「でしょ!
 それシータ先輩にも言われたんですよ。」

 ルビは俺の高校のときの部活の後輩だ。で、今はヘスやシータのことも先輩と呼ぶ。
 おそらく大学でも楽団サークルに所属するのだろう。オルガンだけでなく、ハープもできるから、宗教音楽の講義も履修するのかな。
「もう少し小悪魔ファッションもできるんですよ。
 それにあの竪琴持ったら、ホントに地獄からの使者でした。」
「ハープを爪弾く小悪魔か。すでにコスプレの域だな。」
「あ、コスプレもありですね。
 ヘス先輩もコナ先輩もブラックスーツにシルクハットで行きません?」
 と自分で言っておいて表情を曇らせた。
 俺らのコスプレを想像して、ではないようだ。おそらく生命神殿に住みつく悪霊と同じ格好だからだ。
「そういえば、あの竪琴ってリラって言うらしいですよ。」
 自分から話題を変えた。
 だから、それ以上問い詰めも、フォローもするのをやめた。
「あの動物の顔に見える竪琴か?」
 そういえば、全員集合したときそんなこと言っていたな。
 俺は別ネタに頭がパンク寸前だったから、あまり聞いてなかったが。

「よし。あいつら誘って新歓やるか。
 そういえば去年オープンキャンパスの時にあったやつらも、ルビの歓迎会したいだの言ってたぞ。」
「マジっすか!
 嬉しいです。喜んで歓迎されます。」
 満面の笑み。
 しかし、どこか翳のあるその笑みに胸を痛める。いつかルビが心の奥底から笑って欲しいと思う。

 サクラ咲く。心の奥底から言葉にできるように。


ルービス
高校三年・三月 

 大学一年生。その言葉は、わたしを自由にしてくれる気がしていた。

 先に入学したコナ先輩とその友達みんなが自由で、オトナで、でもどこかコドモで、ダレかの上でも下でもなく、争うのではなく助け合っていて。
 私の十八年にはついぞ存在しなかったすべてがあると信じてた。

 変わろう。

 外見はこのままで、でも内面は違うニンゲンになろう。
 いや、今まで心の奥底に住み続けていた自分を解放するんだ。
 生命神の神官であるであることを捨てるつもりはない。
 ただ、生命神官だからこういうニンゲンでなければならない、ではなく、ルービスというニンゲンだからこういうニンゲンでなければならない。
 そう信じて生きてみよう。
 そのために、まず頭を上げよう。
 きちんと空を見て、前を見て、周りを見て歩こう。
 好きな服を着て、好きな音楽をやって、好きな本を読んで、好きなお話を書いていこう。

「ずいぶん気合入ってますね。」
 見られた。顔が一気にほてった。
 桜の蕾を眺めつつ、コブシを握り締めた格好のまま、目線だけ横に向けた。
 そうだよね。
 わたしが誘ったんだもの。
「そのゲンコツはダレかを殴るためなんですか?」
「うん。わたしの人生最大の秘密を覗き見たペシタを殴って、記憶を飛ばそうかと思ってるの。」
「公共の場で堂々とやっておいて、それはないですよ。」
 ケラケラと笑う少女にわたしも微笑みかけた。

 高校のラスト一年を支えてくれたのは、この少女だ。
 ピェシータ・ウェイテラ。愛称ペシタ。
 小動物のように小さな体とくりくりした瞳。鼻も口も耳もすべて円で描けそうな女の子らしい女の子。
 デニムのミニスカにピンクのレギンス。薄桃のモヘアコートなんて着てるから、ぎゅっと抱きしめてモフモフしたくなる。
 ダレにでも愛される容姿と性格は、わたしの憧れだった。
 そのわりに警戒心が強いあたりも小動物だ。

「またカレシと別れたんだって?」
「ありゃ。情報早いですね。」
「あなたの情報をリークするのは、常に身内よ。」
 あのバカ兄、と唇をかわいくとんがらす。
 ちょうど真上で咲きかけてる桜の蕾みたいだ。
 その唇が発するマシンガントークが得意技。
 攻撃と防御が一体化したトークは、これまたわたしの憧れだった。
 高校の吹奏楽部では常に、口下手なわたしのフォローをしてくれていた。

「にしても、こないだ久しぶりにコナ先輩に会ったけど、ホント変わったなと思った。」
「そうですか?
 あんま変わんないですよ。」
 ズバリと切り捨てるペシタに苦笑してしまう。
「あれぇ?
 もしかしたらルビ先輩、ウチの兄に惚れちゃいました?」
「ないない。好きだけど、惚れたはれたの対象外です。」
 これはホントの事。
 さすがに距離が近すぎて、恋愛対象になりえない。
 でも、きっとコナ先輩がダレかと付き合うことになったら、嫉妬すんだろうなということは自覚している。
 ペシタに言うとめんどくさいから言わない。

「で、新部長、調子はどう?」
「まだ、学校始まってないんで、何とも言えません。
 でも、まぁ、前二年間の部長様の神通力がありますので、不安はありません。」
「コナ先輩はさておき、わたしはそんなに偉い部長じゃなかったわよ。」
 そんなご謙遜を、なんてチャカすペシタの後ろ頭を叩く。
 半ば金髪に近い茶色頭を大げさに抱えたから、さらに追い討ちをかけた。
 緩やかにウェーブのかかったミディアムロングの髪をぐしゃぐしゃとかき回して、幾分肉付きのいいちっちゃな肢体をホントに抱きしめた。
 二人とも背の高いミュールだから思いっきりバランスを崩して、その場にしりもちをついてしまう。
「あたしはそんな趣味ないです。」
「わたしもないです。」

 わたしの腕を引き剥がそうとするペシタの腕はたくましい。
 何ビートだろうが、お構いなくドラムを叩き続けることができる筋肉が、わたしの腕をこじ開けた。
「ボンゴのほうもやってるの?」
「やってますよ。
 秋に誘われた発表会、あたし諦めてませんからね。」
 そうね。と答えておきながら、少しだけ気が重くなった。
 原因は決して、彼女らとのセッション自体ではない。絶対に絡んでくるだろうウチの神殿に住み着くオトコが原因だ。
「そんな暗い顔しない!」
 わたしは弾かれるように頭を上げた。
 ペシタと目が合うと、ニコリと微笑んだ。

 この娘はホント強いなと思う。

「今日は大学キャンパスまで付き合ってくれてありがとね。」
「いえいえ。
 来年はあたしもここに立ってるはずですから。
 下見です。」
 二人でもう一度、今にも咲かんとする桜の蕾を見上げた。
 いつもわたしを励ましてくれる少女を、今度はわたしが支えてあげられるようになろう。

 わたしはいまだ蕾だ。でも、いつか咲こう。彼女を励ませるようになろう。

ピェシータ・ウェイテラ
高校二年・三月 

 兄や隣の神殿の先輩と比較したら明らかに見劣りする。

 勉強の成績は中の上。
 この二年間、一般受験にならないぎりぎりのラインを綱渡りしている。
 先生も親も周りの友達も部活のメンバーも、みんな優等生二人とあたしのことを比較する。
 そんなのはあたし自身が一番知っている。

 あたしはあたし。

 そう自分に言い聞かせるけど、やっぱりふと自信を喪失することがある。
 そして、あたしのどす黒いナニカが心を支配するのだ。
「兄や先輩が、あたしの前から消えてしまえばいいのに…」
 邪魔くさい。
 恨めしい。
 憎い。
 なのに、生真面目すぎておもしろくなくて、融通も気も利かない兄も、根暗で、自意識過剰で、被害妄想的なルビ先輩も、そんな二人を崇め奉るウチの両親も部活やクラスの友達も、あたしは嫌いになれない。
 羨ましい。
 あたしは兄もルビ先輩も大好きなのだ。

「だから、笑顔と愛想の防護服で固めてると。」
 あたしはビクリと体を震わせた。
 二人が今日、ここにいないことは確認済みだ。
 だからこそ、兄が一年過ごした、そしてルビ先輩がこれから過ごす大学のキャンパスをこっそりと訪れたんだ。
「ヘスさん…」
「ごめんね。
 声かけづらいな、とは思ったんだけど、つい。」
 あたしの横には数少ない兄の親友というヘシアン・ヴィクセンさんが立っていた。
 ずっと一緒に立っていたかのように、自然に。

 あたしとおんなじように、桜の蕾を眺めていた。
「ごぶさたしてます。」
「うん。ごぶさた。」
「あ、えっと…」
 言葉が出ない。
 突然話しかけられて動揺してるのかな。
 それとも、見てからにカッコいいメガネ男子に緊張しているのかな。

 ヘスさんは、兄以上に完璧超人だ。
 成績もさておき、家柄もすごい。
 王国主神である光明神ラ・ザ・フォーの神官で、しかも現神官長、いや光明神殿では大司教、のお孫さんで、つまりは次期大司教様。
 大学でもみんなの人気者で、中学の頃に体制の腐敗を正そうとクーデターを起こしたくらい正義の心を持っていて、統率力に優れてて。
 いつもお高そうなスーツを着てるオシャレさん。今日はルリ色のジャケットにエンジ色のタートルネック、ブルーデニムのブーツカット、スエード着荷ブーツですか。
 いやはやさわやかっすね。
 ヤバイ。表現が陳腐だ。

「えっと、ヘスさん…」
 無言で桜の樹を見つめる横顔を目の端っこに捉えながら、しどろもどろに声を発する。
 耳が隠れるくらいの髪の色は、優しい茶色。色が抜けて軽いのじゃなく、土や幹を思わせる複雑で生命力に満ち溢れた色だ。
 風になびくたびに髪の毛と、鈍いモスグリーンのメガネが昼下がりの陽光にキラキラと輝いてる。少し切れ長の目も、すっと伸びた鼻筋も、しっとりした唇も、その辺をすれ違う女性よりきれいだ。
「あの…」
「んー、沈黙苦手?」
 ヘスさんはそう言ってあたしを向いた。
 ちっちゃなあたしは彼を見上げるようになる。
 苦笑いがこのヒトの通常の顔だと兄が言っていたことを思い出した。
 穏やかな微笑のときは警戒されてると思わなければならない。
 めんどくさいヤツだ。
 そんなことをぼやいてた。

「ご迷惑でなければ。」
 ポンと何か放られた。
 慌てて両手でキャッチしたそれは、オレンジ味の缶ジュース。
「ナイスキャッチ。」
「ありがとうございます。
 あの、これいただいていいんですか?」
「キャッチボールするために投げたわけじゃないからね。
 どうぞ。」
 軽く会釈していただいた。
 思った以上に喉が渇いていたみたい。
 半分くらい一気飲みするあたしを、ヘスさんは楽しそうに見ていた。
 左手にブラックの缶コーヒー、右手にメンソールのタバコを気だるげにぶら下げて。
「ここで遭えたのは偶然ですか?」
 ようやくまともなセリフが話せた。
「いや、コナから聞いた。
 あいつ、ホント過保護だよな。妹の行き先、全部把握してんのかよ。」
「マジですか! あのバカ兄!」
 あたしは恥ずかしくなって、毎度ながら悪口が先に出た。
 また、ヘスさんが苦笑した。

「秋の約束覚えてる?」
「発表会の話ですか?
 あの約束ってまだ有効なんですか?
 あたし、楽しみにしてんです。
 ティンパニもボンゴもすごく練習してますよ。兄も、ルビ先輩もシータさんも演奏の腕はプロ級ですもんね。置いてかれないようにしなきゃ。
 そういえば、ディルさん元気ですか?
 マラカスって結構振るタイミング難しいんですよ。
 ヘスさん、歌詞ってできあがったんですか?」
 よし。いつもの調子を取り戻した。

 あれ?

 なのに会話が続かない。
 コーヒーを一口、タバコを二吸い。
 ようやく、答える。
「マジメだねぇ。
 ディルも僕ものんびり屋だから、まだやってないよ。」
「え? だったら…」
「うん。
 でも、月明けたら計画実行するよ。
 ディルはどうせ感性でしか音楽しないし、僕は追い詰めらんないと仕上げないし。」
 うわ。完璧超人はさすが違うな。
「こんなだから、コナとシータに、コトあるごとに叱られるんだよな。」
 兄がヘスさんを叱る情景なんて想像できない。
 でも、そうか。才能で生きてるヒトに、努力のヒトがイラつく構図かな。
「コナには毎度フォロー入れてもらってんだ。
 今度妹さんから伝えてよ。僕がどんなに感謝の言葉を述べても信じてくんないからさ。」
「フォローって…あの兄が?
 ヘスさんに?」
 思わず口にしてしまった疑問に先輩の表情がわずかに曇った。

 苦笑というか、自嘲気味の笑みに変わった。
 気のせいだろうか。

「僕はウソツキだからね。
 あ、約束を破るとかじゃないよ。感情がその場しのぎなんだって。
 その場に適した感情を表現するのが上手いらしい。」
「そんなのフツウじゃないですか?」
「ある距離まではね。
 でも、それ以上は他人を受け付けないんだと。」

 あたしとおんなじだ。
 あたしと一緒でこのヒトも孤独なんだ。

「淋しいですね、それ。
 部屋で独りっきりでいるより、大勢の中の孤独ってすごくツライですよね。」
「だね。」
 記憶が蘇る。
 去年の春。
 この桜の樹の下で、淋しそうに立ち尽くす男のヒトがいた。
 あれはやっぱりヘスさんだったんだ。

「そうそう。ペシタが書いたの読んだよ。
 おもしろかった。ホントのキミがそこにいる気がした。」
 顔が赤らんだ。何も言えずにうつむいた。
「来年楽しみだよ。一緒に夢見よう。
 で、その前に僕の仲間たちと発表会を成功させよう。
 ダメ?」
 あたしは全力でダメじゃないと首をふった。

 あたしは初めてヒトを好きになった。

 恋愛ってカテゴリじゃなくニンゲンってカテゴリで。
 その後姿は、あたしのコンプレックスの裏返しであり、でも憧れ目指す夢の裏返しにもなった。
「がんばろうね。」

 蕾は鎧じゃない。いつか美しく咲くための糧だ。
 あたしもヘスさんも、兄も、ルビ先輩、シータさん、ディルさんも。
 みんな美しく咲くために力をためている。

 できれば、みんなでいっせいに咲き誇りたい。


桜の精の物語
三月 

 この物語の主人公は五人。
 まず、光明神神官ヘスとその友達のシータ。そして、和神神官コナとペシタ。最後に生命神神官ルビ。

 舞台は王国カラトン神大学。宗教都市カラトンは多神教である王国で信仰される全ての神殿が立ち並んでいる。その神官らを育成する場がカラトン神大学である。キャンパスの大聖堂前に学生に対する連絡事項が張り出された掲示板がある。

 その裏から枝葉を繁らす桜の樹が、私だ。

 もう一つの舞台は同カラトン市西部郊外にある生命神テナ神殿。英雄墓地の一角に建立された神殿にも大きな桜の樹がある。

 それも私だ。そして、大学付属高校、市内大通りの桜並木。精霊である私は、個を持たない。故に、あらゆる桜は同一だ。

 その二つの舞台で、彼らは時に笑い、時に泣き、時に怒り、疑い、信じ、頼り、依存され、惑い、お互いの関係をよりよいものにしようと努力を続けていた。

 しかし、時代や環境や社会というものは、一人ひとりのニンゲンの想いや努力を時に無にする。残酷なまでに。ナニかに、ダレかに関わることは傷つくことで、傷つけるものなのだ。

 独り涙を零すニンゲンを見ると、感情が希薄な我々精霊でも、憐れに思うこともある。しかし、どんなに傷ついたとしても、結果悪い思いにとらわれたとしても、私は彼らが愛おしい。そして、羨ましいのだ。怒りに私の幹に拳を叩きつけたとしても、泣きながら何度も何度も殴りつけたとしても、私は愛おしく、羨ましいのだ。

 私には見守ることしかできない。成長、変化、関係性、彼らに関わるヒトビトも含めて。彼らを慰めることも、一緒に笑い泣くことも、怒りを共有することもできない。

 だから、せめて私を見上げ癒されて欲しい。どんなに傷ついても、私は変わらず見守っているから。
 時代も社会もヒトビトも変わっていく。それは真実だ。しかし、私は変わらない。種が長い年月をかけて樹となり、蕾をつけ花を咲かせ、散ってもいずれまた花を咲かせる。それも真実であることを信じて欲しい。

 だから、私は咲き続ける。彼らに変わらぬ真実があることを伝えるため。桜色の永遠を信じて欲しい。

 傷ついた彼らがまた次の一歩踏み出せるように、私は咲き続けるから。

 物語は結末へ。
 ヘシアン・ヴィクセン、シータス・ミアロート、コーノス・ウェイテラの三人がカラトン神大学二年。ピェシータ・ウェイテラが付属高校三年。物語の中心となるルービスが大学の一年生となった。
 では、最後の物語を語ろう。

桜の舞い散る下で

五人の物語

ディルサ・ライネージ
社会人?年生・四月 

 桜が開花した。
 カラトン神大学は、あと五日で入学式をむかえようとしており、カラトン市立神大学付属高校はその二日前に始業式となる。

 四月四日。
 カラトン市の五人は首都ロムールから来たもう一人のメンバー、つまりあたしと駅で合流して生命神テナ神殿へと歩いた。
 仄かに熱を帯びた春風が、ちらほらと花咲く草原をやさしく撫ぜていく。
 それぞれ緊張の面持ちで、でも青空のように晴れやかな笑みを浮かべて。

 ロムールから一人遠征してきた能天気、いくら否定してもそう言われ続けるあたし。
 カラトンで学生生活を送る苦笑いばかりのヘス。
 困ったみたいなコナ。
 愛想振りまくペシタ。
 冷めてオトナじみたシータ。
 そして、自嘲がくせのルビ。

 それぞれの笑みが、それぞれの本音を偽るものだとお互い知っているから、それぞれ安心できた。
 高ぶる気持ちを抑えているのも、足が崩れそうになる不安があるのも、よくわかっている。

「あ、シータ! 開始何時だっけ?」
 駅から出たとき、知らないヒトが次々と声をかけてきた。
 ダレ?
 と訊いたら、駅前で流しをやってるときによく聴きに来てくれるヒトたちだ、と彼女は自信満々に答えた。

「ペシタ、何よぉ。そのヴィジュアル系みたいなメンバー。」
 高校のクラスメイトや吹奏楽部の部員たちが遠巻きにあたしらを見てた。
 あはは。
 おんなじ制服に身を包んだ高校生にメンバーが愛想を振りまく。
 まるでマスコットのように彼女に絡む。
 肩を組まれながら、彼女は友人たちにピースサインを送った。

「ヘスもディルもカッコいいじゃないか。よく似合ってるぞ。」
 あたしとヘスを足して二で割ったような男性が、穏やかに声をかけてきた。
 父さん来たの?
 とヘスは驚いていた。
 祖父さんも来てるぞ、と父は遠くを指差した。
 その先には普段見ることはない私服、チャコールグレーのスーツの大司教。
 難しい顔して腕組みしている初老の男性にメンバーが慌てて頭を下げた。

「コナぁ、がんばってね。しっかり応援してるよ。」
 失敗すんなよとか、似合わねぇとか、その声にかぶった。
 大学の仲間たちに取り囲まれている彼を見て、両親がビックリするやら、嬉しいやらな複雑な笑顔で見ていた。
 ポスン!
 メンバー全員でいっせいに、彼の大きな体を叩いてみせる。彼が困ったように笑った。

「ルービス。お前はわかっていない。」
 テナ神殿に到着した六人を出迎えたのは、一人の男性だった。
 葬式にでも参加するような真っ黒なスーツを皮膚のように身に着けて、春一番に吹かれても揺らぎもしない同色のシルクハットをかぶって、まるで掌から生えてきたのではと錯覚するような腰高くらいの杖を地面に突き立てて、微動だにせず神殿の正門に屹立していた。
 ルビの出迎えはヤツだけか。
 あたしは思わず舌打ちしてしまった。

「避けてよ。」
 シータがずいっと前に出る。
 オトコはじろりと彼女を一瞥し、すぐにルビに目線を戻した。
 うつむいて怯えるルビを守ろうとコナが間に入り、震える肩をペシタがぎゅっと抱いた。

 きっと独りだったら、ヤツのかもし出すプレッシャーに耐えられない。

 全員そう感じていた。
「ルービス。お前がこれからしようとしていることの意味を理解しているのか。
 断言しよう。お前にとって、それは利益のあることではない。」
 地獄の底から響いてくる。
 このオトコは腹に地獄を抱えている。マグマのように沸き立つ負の感情が圧し潰そうとしていた。
「結局、あんたはダレなんだよ。」
 細かく震える声で訊くコナ以下、転生者であるシータですら、オトコの正体を突き止めることはできなかったらしい。
「名乗ってやる気はない。
 黙ってお前らはルービスを置いて、この場を去れ。
 シータスだって理解しているだろう。お前の父親を口だけでなく、力すべてを封じてもいいんだぞ。」
 嘲笑するオトコをシータは悔しげに睨みつけた。

 この発表会を開くにあたり、シータとヘスは、カラトンにすむ三人に話をした。
 今までも個別には話をしてきたから、それの整理の意味合いがある。
 今回は街のみんなに音楽を聴いてもらうのが、最大の目的であること。
 ただ、その際に妨害しようとするモノが現れるかもしれないこと。
 それが、テナ神殿の悪魔である可能性があること。
 結局、悪魔がナニモノなのか知りえなかったこと。
 そのためにできるかぎりの警備体制をとったこと。
 先手を打たれたシータが対抗手段としていたカリンバに憑依した父親と話ができないこと。
「パパの口を封じられる前にきちんと訊いておけばよかったって、ホント後悔してるわ。ごめんね。」
 シータはそう謝罪していた。
 このオトコの力が計り知れない。今でもその不安が全員の行動を制限している。

 しかたないな。
 と、そのときつかつかと列の後ろから歩み出る人物がいた。

「デッドモアだよ。このヒト。大陸の西のほうで死者の王国が復活したってニュース知らない?」
 突然、真実が告げられた。
 一触即発の状況を打開したのは、初見のはずのあたし。

「えぇぇぇぇ!」
 五人のメンバーと一人のオトコの声がハモった。
 シータやヘスの苦労も、コナやペシタの疑念も、ルビの恐怖も、デッドモアという名前をヒタ隠しにしていたオトコの思惑も、全部シカトして、あっけらかんと言い放ってやる。
「久しぶりですね。みんな元気ですか?
 あ、父も今日来ますよ。もしかしたら、その友達も。
 今日は神殿の敷地をお借りします。
 なので、デッドモアさんも楽しんでくださいね。」
 彼らの一年のモヤモヤをあっさりと吹き払う。
「そっか。
 ヘスは会えなかったんだっけ。シータもいなかったか。」 
 戸惑うヘスを全員が睨む。なにか言いたげだけど、そこはシカト。

 何事もなかったかのようにあたしは神殿の正門へと歩き出した。
「何やってんの?
 行こう。
 はやく準備しようよ。間に合わなくなるよ。」
 で、あえてオトコの目の前で、満面の笑みを浮かべつつ五人をふりかえる。
 そして、あっけにとられるブラックスーツのオトコにだけ聞こえる声で告げた。
「あなたは父の友達で、あたしがお世話になったヒトだけど、彼らの邪魔するなら、あたしも黙ってないよ。」
 無言で睨むオトコの前を、びくびくと五人が通り過ぎていく。

 最後のルビが彼の前で立ち止まった。
「一年間、わたしを守ってくれて、ありがとうございました。
 真実はまだ知りません。
 でも、覚悟はできてます。わたしの想像が真実ならば、どこかでその罪を償わなければならないのだと思います。」
 淋しげな、しかし決意に満ちた笑みでルビはオトコに会釈して、みんなの下へ駆け寄った。

「ディルサ、お前は知っているのか?」
「何を?」
「ルービスの罪をだ。」
「知らない。
 でも、そのあとにあんたがやったことと、ルビが決意したことは知ってる。」
 罪?
 だから償うって言ってんじゃんか。
「私はあいつらを殺すぞ。」
 ブワリと殺意に満ちた冷気がオトコの周囲から吹き上げた。
「それがあなたの存在理由ならやれば。
 でもね…」
 今にも切り裂かれそうな殺意を背後に感じながらも、それを意に介すつもりはない。
 無防備にオトコに背を向けた。
「生きてるニンゲンは強いよ。想いに執着する死人よりね。」

 桜の花びらがひらひらと舞った。

 うららかな春の昼下がり。
 生命神テナの神殿は、老若男女種族も身分もごったにした観客に埋め尽くされた。
 舞台脇にはテナ神殿自慢の桜の巨木が満開に花開き、その下には墓標のように木の十字架が立ち並ぶ。
 反対側には桃の花。
 桃源郷のようにスイーツメインの食べ物屋台が数件。
 はしゃぎまわる子供を叱りつける母親をなだめ、いいんですよと子供らに飴を配っていた。
 文句があるなら来なければいいのに、生真面目な顔した教授や上位神官が今回のイベントに対し議論を繰り広げていた。

「いくらなんでもヒト多すぎません?」
 怖気づいたようにペシタがバックヤードから会場を覗いていた。
「確かに。
 先輩、ホントに大丈夫なんですか?
 下手な演奏できませんよ。」
 ルビも一時とはいえ、デッドモアの存在を忘れ去ったみたいだ。
 それ以上に目の前の観客に圧倒されていた。
 不安げにあたしらを見た。
 ピンク頭とメガネ男子とあたしはヨユウシャクシャクとばかりに楽器の手入れをしている。

 それぞれ視線に気づき顔を上げた。
「私、下手じゃないし。」
「公会議でプレゼンするより楽。」
「客はかぼちゃと思え。」
 三人のセリフにコナがくくっと笑った。
「あー! コナ先輩、笑うなんて失礼です!」
「くそっ! あたしの兄の分際で!」
 二人の八つ当たりに、困ったように慌てふためいた。
 全員で笑った。

「さて、時間よ。」
 シータの言葉に全員が表情を締めた。
「ルビ。
 あなたにはつらいものになるかもしれないわ。
 覚悟決めてね。」
 ルビは緊張の面持ちで肯いた。

 今日を迎えるにあたって、ヘスとシータから告げられたこと。

 今回の発表会の裏の目的は、生命神殿に住み着いた悪霊を払うことだ。
 それは同時にルビの過去を世間に曝すことになることだ。
「ルビはもしかしたら何もかもを失うかもしれない。」
 そう告げたヘスをコナは本気で殴り飛ばした。シータをペシタが泣きながら非難した。
 甘んじて叱責を受け止める彼ら二人を見て、
「コナ先輩、ペシタ、ありがとう。
 二人がわたしのことを守ってくれたのには、すごく感謝してる。」
 二対二の間に割って入ると、ルビは頭を深々と下げた。
「ペシタがこないだ書いてた小説があるでしょ?
 あの子は多分わたしなんだ。
 で、死霊があのオトコ。」
 戸惑うコナと歯噛みするペシタ。

 ペシタはうすうす勘付いていた。
 ただ、信じたくなかった。
 淡々と自分の罪を告白するルビを呆然とコナが見つめる。
 彼女の翳が、肉親を失った孤独にあったわけではないことを知ったコナの歯がゆさも、見てしまった秘密を隠し続けたペシタの苦しみも、ルビには痛いほど理解できた。
「そして、わたしに懺悔の機会を与えてくださったヘシアンさんとシータスさんにも感謝します。
 もちろん、ディルサさんにも。」
 もう一度、深く頭を下げた。

 それはちょうど前日。今みたいな春うららかな昼下がりのことだった。
 のんびりとした太陽が幻影に思えた。

 それでも、六人は今を迎えた。
「安心しろ。俺はルビの味方だ。」
「あたしもルビ先輩のこと大好きですよ。
 大丈夫です。みんな強いから。」
 ウェイテラ兄妹が肩を叩いた。
 あたしはその一部始終に泣きそうになる。

 ルビが舞台裏から駆け出した。
「みなさん、集まっていただきありがとうございます!」
 十数年生きてきて、初めてこんな大声を聞いた。とコナが呟く。
「正直、こんなにたくさんのヒトに集まってもらえるとは思いませんでした。
 観客がネコ二匹だけなんじゃないかと、昨日は不安で眠れなかったんですよ。」
 笑いに包まれる会場を見渡したルビの目に涙が浮かぶ。声が出せるうちに皆を呼ばなければ、とルビがさらに大きく叫んだ。
「今日がわたしたちのデビューです。
 では、メンバーを紹介します!」
 名前と担当楽器が叫ばれるたび、一人一人と舞台へと現れた。
 あがる歓声に微妙な差があることに、また驚く。すでに個人個人にファンがついている証拠だ。

「うわぁ! かわいい!」
 黒ゴスのシータと白ロリのあたしが背中合わせにダブルギターをかき鳴らしていた。
 あたしはまだヘタクソだから、シータのフォローつき。

「あの二人、カッコいいね。」
 全身真っ白なコナのフルートに合わせて全身真っ黒なヘスが踵で小刻みにタップを刻んでいた。

「楽器めちゃくちゃだな。」
 白ロリのペシタが首からぶら下げたティンパニを叩いて、ピアニカを吹いて歩き回る黒ゴスのルビの後を追う。

「でも、きちんと曲になってる。」
 真っ白ペシタがずらりと並べたシンバルを次々叩くと、真っ白コナが吹くピッコロの軽快な音が重なった。

「素人丸出し。」
 真っ白妹のソプラノと真っ黒兄のアルトが鬼ごっこするようにハモった。
 あたしらがまさか音楽で競演するなんてね。
 二人、こっそり笑いあった。

「楽しいからいいんじゃない。」
 真っ黒ルビのオルガンの連弾と真っ黒シータのギター速弾きが争いあった。

「いや、上手いよ。」
 ルビのオルガンとコナのフルートが宗教音楽を奏で、残りがコーラス隊。

「ソロ部分ヤバイって。」
 シータのギターソロ。コナのフルートソロ。ルビのオルガンソロ。

 いろんな声が聞こえてきた。
 賛否両論。
 悲喜こもごも。

 前半はテンション上がりきったまま、一気に駆け抜けた。
「いったんきゅうけーい!」
 幕が引かれた。
 中断中は大学の友人や高校の吹奏楽部がつないでくれている。
「ヤバイ! 楽しい!」
 息も絶え絶えに大の字になって、みんなで笑った。

「さて、着替えるぞ。」
 コナとシータが、慣れないことにぐったりする四人を促す。
 二人のゴシックの少女と二人のロリータ少女。
 白スーツと黒スーツの男二人組。
 それが、それぞれの神官着に身を包んだ四人と小悪魔二人に姿を変えた。

「お、着替え終わった?」
「一気に雰囲気変わるね。」
「あれ? コレって除霊シリーズじゃないですか?」
「水分とった? トイレは?」
「もう行けるの?」
 中座をやってくれた友人たちが、同じように息を切らせてあたしらに呼びかけた。
 小悪魔シータが、メンバーを見渡してOKサインを出した。

 片手にはカリンバ。
 手を取り合って先に舞台に出た小悪魔なあたしはマラカスを腰に挿してた。
 続いて和神フィース・ラホブの二人。
 コナがオカリナを首にぶら下げて、ペシタがボンゴを胸に抱えて。
 そして、ルビがリラを小脇にして舞台に出た。
「え? ダレか、とっても重大なコト、言ってなかった?」
 とシータ。
 でも、みんなすでに舞台の上。
「気にしない。あとでヘスに訊こ。」
 あたしも気づいてたんだけど、今さらだから問い直さなかったのだ。
 どうせ、裏に残ったヘスがあとで教えてくれるだろうから。
 動揺するかな。
 と思ったんだけど、あたしの想定以上にヘスの名前は信用されているらしい。

 ルビが一音リラを爪弾く。
 ざわめく会場がルビが奏でるリラの音色に沈黙した。
 リズムを刻むボンゴをかき乱すように、カリンバがシンコペーションして、そこに物憂げなオカリナのメロディが流れ出すと、会場から嗚咽のようなものが聞こえだした。
 さびしいけど、やさしい音。
 たよりないけど、たちあがろうとはげますような旋律。

 グゴゴゴゴゴゴゴゴ…

 聴衆はそれぞれの想いに浸りきって、気づかなかった。
 桜の花吹雪の下、土が蠢いた。
 地面に刺された十字架が小刻みに揺れた。
「やめろぉ!」
 絶叫が会場に響き渡った。
 静まり返った聴衆の中から、トコが舞台に飛び込もうとしていた。
 いつものブラックスーツとシルクハット。
 アイツだ。
「来たか!」
 シータがカリンバの演奏を中断しようとした。
「シータ! 続けろ!」
 コナが制止する。

 同時に舞台裏からヘスが駆け出した。
 一番手もとの十字架を地面から引き抜いて、勢いそのまま横薙ぎする。
 うなりをあげた十字架、彼の扱う武器トネリコの十字架が、オトコの体を舞台の反対側まで吹き飛ばした。
 桃の樹に叩きつけられたオトコは怒りに顔を歪ませ、何かしら魔法を唱えようと掌を突き出した。
「こんなトコでそんな魔法使ったら危ないよ。デッドモアさん。」
 その先にはヘスとディルの父親の姿があった。
 屋台は片付けられていたから、そっちには彼一人だった。
 その手にはヘスの持つものと同じ十字架。
「少し黙ってみててね。」
 デッドモアの頭上に掲げられた十字架が地面に影を落としていた。
 本来ならヘスがヤツを抑える役目だったが大丈夫そうだ。
 舞台裏に戻り、友人たちを裏口から神殿の外へと促した。

「きゃあぁ!」
 ようやく会場から悲鳴が上がった。
 パニックを起こす観客のところどころに、体が崩れだしたヒトがいた。
 と同時に観客として見学に来ていた光明神殿の神官たちが一般人を神殿の外へと誘導する。
「焦らないで!
 走らないで!
 落ち着いてください!
 私たちがきちんとお守りいたします!」
 手際よく観客を守りながら、観客席にまぎれていた冥界のやからを捌く。
 もとより冥界のやからの狙いは舞台のメンバーだったから、観客のパニックが一番の懸念事項だった。

 会場が静まり返る。
 会場のパニックは光明神殿護衛団が迅速に収めてくれたから、幸い怪我人は出なかったようだ。
 舞台裏の友人らも無事逃げたらしい。
 ヘスが表に戻ってきた。
 同時に、桜の樹の下の地面から灰褐色の骨が何体も姿を現し、緩慢に舞台へと向かってきた。
「みんな、楽譜をもう一枚めくってくれ。」
 コナの指揮に奏者全員が戸惑う。
 後何小節かで曲は終わりだ。そして、そこまでしか練習していないはずだ。
「もう一枚めくって。最後の最後の曲行くよ。」
 シータも彼の意図に気づき、その指揮に従った。

 五人がそろってみたのは、真っ白の五線譜。
 当たり前だ。何も書いているわけがない。
 なのに、
「勝手に指が動く…」
 マリオネットのように、楽器に弾かされた。
 コナの仕込んだカグラ。
 半ば魔法のように発動した対死人用の楽曲が会場に響き渡った。
 会場の死人が砂と化した。
 桜の下から蘇った骨も崩れ落ちた。

 デッドモアが怨めしげに彼らを凝視してた。
「貴様ら…やってくれたな…」
 最後に残されたのはデッドモアという名の冥界の不死者。
「あんたがおとなしくテナ神殿に居ついてるだけなら、ここまでやるつもりはなかったよ。」
 ヘスが苦々しげに呟いた。
「あんたがルビにしてくれたことには、話を聞かされた僕らも感謝してる。
 でも、今年一年であんたがやってきたことは、光明神殿の神官としても僕個人としてもけっして許すわけにいかない。」
「そうか…そうだな。」
 感情がわからない。
「デッドモア。
 ホントはこの場でどうにかしてやりたいんだけど、今のあたしたちじゃムリ。
 それにあんたの今の立場がわからないから、できれば穏便に立ち去ってほしいんだけど。」
 とシータが言った。
「わかった。
 私の負けだ。ここからは立ち去ろう。
 もちろんこの街に災いは持ち込まない。約束しよう。」
 デッドモアがユラユラと歩き出した。ルビのもとへ。
「大丈夫。何もしない。
 私が封じたルービスの記憶を解いた方がいいんだろ?」
 ルビが怯えながらも力強く肯いた。
「さようならだ。
 ルービス・……。
 元気で過ごすんだぞ。」
 皮肉めいた笑みを浮かべながらルビに呼びかけた。

 桜の花びらが春嵐に舞い散った。

 刹那、オトコは消えた。
 静寂がうららかな春の庭園を支配する。
 オトコがいつも立っていた桜の樹は、枯れ木のように生命力を失っていた。

 テナ神殿にいるのは、あたしら六人だけだ。
「終わった…のかな…」
 ペシタが小さく呟いた。
 強い春風に大量の桜の花びらが舞台に舞い落ちた。
 まるで桜色の舞台幕だ。
 ヘスが十字架を地面についた。
 シータがクタリとその場にしゃがみこんだ。
 あたしも大きく溜息をついた。

 安堵。

 ルビが焦点の定まらぬ瞳でコナを見つめた。
 コナが真直ぐにその視線を受け止めた。
 そういえば、最後のデッドモアの言葉。
 ルービスのファミリーネームを言ってなかっただろうか。
 ダレもが、まるで禁忌の言葉であるように失念していたことに愕然とする。
「ルビ…わかったんだな…」
 ゆっくりとコナがルビに歩み寄った。困ったような笑顔で。

 ルビの顔が歪んだ。
 涙が溢れ出した。
「えっ! なんで!」
 叫んだのはダレだったのだろう。
 コナの大きな体がスローモーションのように舞台の上に倒れていった。
 涙を湛えたルビの瞳は花を失った枯れた桜の巨木をぼんやりと映していた。
 その手には血のついたナイフ。

「おとうさんのかたき…」

 ルービスの発した最後の言葉。
 折り重なるように彼女の体も舞台に倒れていく。

 桜の花びらが彼らにやさしく降り積もる。


桜の樹の物語
年齢不詳 

 真実はときに残酷だ。
 一年前テナ神殿で起こったのは、父殺しだ。
 父娘二人暮しのテナ神殿では、日常的に父親による娘への虐待が行われていた。
 父親に怯え、憎み、恨みながらも唯一の肉親への思慕だけで、娘は生きていた。

 しかし、あの冬の日、娘はナイフで父親を刺した。
 流れ出る真っ赤な血に怯えた娘は、神殿を飛び出した。
 途方にくれて、泣きくれて彷徨う街の中。雪が降り積もる夜を歩くヒトは皆無だった。

 そこで出会ったのは死人の男。
 腐りかけた彼の脳は存在理由をその少女に依存した。

 連れて帰った神殿には血溜りの中に横たわる彼女の父親と、血にまみれたナイフを握りしめる少年がいた。
 怒りと悲しみをたたえる瞳が少女を抱いた死人の男を見つめた。

 男は知る。
 少女の刺した傷は致命傷に至っていなかった事実を。

 気を失っていた彼女の父親を絶命させたのは少年だ。
 テナ神殿の隣のフィース・ラホブ神殿の幼馴染の少年であり、そして、少女の実兄だった。

 テナ神殿の少女が、身寄りのない少女ではなく、養子として出された妹である事実。
 そして、唯一と信じる少女の父親が虐待している事実を知っていた少年は、怒り狂って少女の名を叫ぶ父親をめった刺しにした。それが彼女を救う最後の手段と信じていた。

 男は少女と少年の記憶を封じ、父親の遺体を桜の樹の下に埋めた。
 その日から少女の家には死人の男が住み着いた。

 血を吸って生きる桜は、季節外れの花をつけていた。
 だが、バケモノだ。
 血を求め、いつ魍魎と化すかは時間の問題だった。
 死人の男は、エサを与えるように桜の樹の下に死体を埋めた。対象は生命神殿の事件を疑うものたち。

 だが、やはり死人の男も魍魎の類には違いなかったのだ。
 次第に消えていく男の記憶に残されたものは、少女への執着と自分を蔑む生者への怨み。
 男は街のいたる場所で仲間を求め始めた。
 生きることを恨み、絶望する仲間たち。
 たとえば、学校で、工場で、墓場で、荒涼とした草原で、四辻で。
 生者の生活領域に死者を住まわせた。
 死者がいつか脳を腐らせ、生者に叛乱を起こすことを夢見ていた。

 それから季節は巡り、春が来た。
 少女の仲間たちが集い発表会を行った日。
 いつ破綻するか知れないテナ神殿の日常はとうとう壊された。
 突然、家族が冥界のやからに変わりゆく恐怖と絶望を、街の住人たちはどう思ったのだろう。
 それは、それぞれの家族がのり越えていく話なので、ここでは語らずにいよう。

 少年少女の行ったことは、善悪正邪の評価を下すべきではない。
 彼らも、比ゆではなく血反吐を吐くような気持ちで決断したのだから。
 死人の男は生命神殿を去り、少女は唯一の肉親である父親を最終的に絶命させた実の兄である少年を刺した。

 死者の男の最後の言葉。
「さようならだ。ルービス・ウェイテラ。元気で過ごすんだぞ。」

 それが結末だ。

 季節は巡り、また、春が来た。
 テナ神殿の桜は死んだ。
 その土の上には名の刻まれていない墓碑が建てられた。
 街は再び平穏を取り戻し、神殿にも春が来た。
 事件直後は忌避されていたテナ神殿にもチラホラと信者が戻り始め、死者の男の犠牲となった者たちの家族が、墓碑を参ることも増えてきた。

 街の桜並木も、付属高校の桜も咲いた。
 もちろんカラトン神大学の桜も。

 その際にも問題が生じた。
 街の大通りに店を構えるヒトビト、学校関係者が桜の伐採を主張したのだ。
 死者の男がテナ神殿だけでコトを済ませたとは考えられない。
 そう、彼らは市政に訴え出たのだ。

 市政は桜の樹の下を掘り返し、同様の被害者がいないか調査することを決定した。
 しかし、光明神殿の迅速な対応によりそれだけは阻止された。
 ことに関して、少女の仲間たちが奔走してくれたことには、私は感謝しなければならないだろう。
 ただ、テナ神殿の壁の外に小さな芽が出ていることは、ダレも知らない。

 もうひとつ、蛇足承知で説明を加えよう。
 彼らの扱った楽器は神殿に奉納されている。
 リラは生命神テナ神殿、ボンゴとオカリナは和神フィース・ラホブ神殿、マラカスは光明神ラ・ザ・フォー神殿、それぞれ聖別された宝物殿に収められた。
 なぜならば、それらが冥界の住人を使役するための魔道具だと言うことが判明したからだ。
「武器オタク」と呼ばれていた女子学生が、実はその楽器の存在と出所を知っていた。
 一年間大学生活を一緒に過ごした友達。
 そんな身近なところに答えがあったことに、五人がそろって疲れきった顔でうなだれていたのには、私もつい笑ってしまったが。

 唯一、カリンバだけはいまだ所有者の少女の手の中にある。
 彼女がパパと呼びかけると、きちんとした返答が聞かれた。
 ゆえに神殿の管理下におくことを避けたかたちだ。

 あと、数日もすれば私は花を散らすだろう。
 それまでにどれだけの笑顔を見ることができるだろう。
 そして、季節が巡った後私を見上げてくれるヒトがどれだけいるだろう。

 それを思うと少しだけ淋しくなる。

 花風よ。
 まだ吹かないでもらえぬだろうか。
 散りゆく前に、もう少しだけ彼らの想いに寄り添わせてくれないだろうか。
 せめて、私を街に残した五人の男女。
 彼らが大学のキャンパスにそろうまで。
 満開に咲き誇る私の下に集う彼らを望んでみたいのだ。

 ありがとう。

 神殿の玄関が開いた。
 黒髪の少女が墓碑に手を合わせ、門を出た。
 ピンク頭の少女が道端で木製の箱に何か怒鳴っている。
 先輩、お待たせしました、黒髪の少女がピンク頭に駆け寄った。
 歩き始めた二人の背後から、待ってください、と少女の声が聞こえてきた。
 息を切らせながら黒髪にしがみつく茶髪の少女は今年大学に入学した。
 授業のこと、本のこと、音楽のこと、恋愛のこと、
 それから隣町に暮らす親友のこと、彼女らの話は尽きない。
 大学の桜咲くキャンパス。
 掲示板のところにこげ茶色の長髪と黒の短髪の二人の少年がいた。
 茶髪の少年が三人の少女に気づき、手招いた。
 黒髪の少女が黒髪の少年を見つめた。
 少年は優しく微笑み返した。
 そして、頭上を仰ぎ見る。四人もそれに倣う。

「きれいだね。」

 桜で名の知れた大学で、ことさら美しく咲き誇る桜の樹がある。
 それが私だ。
 私には、大人になりかけた少年少女たちを見守る義務がある。

 彼らが未来を、明日を、夢を、やさしさを、見失わないように私は美しく咲き誇る。

桜の樹の物語

桜の樹の物語

舞台は、現代社会に似て否なる魔法社会です。 登場人物は、そんな世界で学生生活を送っている男女。 王国主神である光明神神官の男と転生を繰り返す女。 二人は和神神官の男と出逢います。 大学に咲いた桜の樹の下で。 話は、そんな三人が大学に入学したところから始まります。 それぞれとの係わり合いの中で、自分を認め、他人を認めるようになります。 一人ひとりの夢や目標、友情や愛情、親子や兄弟。 そして、音楽や文学。 とりとめない話をしながらお互いの関係を深めていきます。 神殿と学校を舞台にした彼らの日常と非日常。 その成長を見守る桜の樹が表題となっています。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-14

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 桜の蕾の下で
  2. 四月
  3. 五月
  4. 六月
  5. 七月
  6. 八月
  7. 九月
  8. 十月
  9. 十一月
  10. 十二月
  11. 一月
  12. 二月
  13. 三月
  14. 桜の舞い散る下で