可か、不可か

息子たちのはてしない物語

 モンデンキント――かつての幼ごころの君である――は、はてしない物語が永遠に続くとてっきり思いこんでいた。ファンタ―ジェンが「虚無」に飲み込まれることはもうないと、信じていた。

 実際の話はこうだ――そもそもはてしない物語などこの世に存在せず、バスチアン・バルタザール・ブックスが妄想した世界に過ぎない。すべて物語など妄想に過ぎないと言ったら、それまでだが。
 そして奇妙なことに、その名前が示す通り、BBBもまた一冊の本に過ぎなかった――一人の歯科技工士の書いた一冊の書物に。歯科技工士には子供がいなかった(妻もいたことがなかった)。だから彼は現実に息子を想像し、彼の活躍する物語を書いた。残念なことに、彼にはこの長大な、膨大な物語を描ききる才能も時間もなかった。だから彼は次のような発明をした――物語の端々に、まるでほかの物語が隠されているかのように記述したのである。しかしその物語はすべて息子に対して捧げられたものだった――存在しないはずの息子に。歯科技工士が死んだら、だれもこの物語を語ることのできるものはいなくなるだろう――まるで「虚無」がファンタージェンを覆い隠すかのように。だが事実としては全くの反対である――「虚無」がファンタージェンを終わらせるのではなく、ファンタ―ジェンが「虚無」から想像されたものに過ぎないから、その作者の死によって(あるいは、彼の場合、在り得ないことだが、忘却によって)はてしない物語が終焉を迎えるのである。

 たった一人の歯科技工士の抱える虚無を母胎に、BBBは、ファンタージェンは、そしてモンデンキントは生まれた。これが実際のところだ――しかしここで一つ問題がある。カール・コンラート・コレアンダー 、つまりあの不思議な古本屋の店主、彼は実在するのだ。私も一度だけ、会ったことがある――そして彼のイニシャルはKKK、つまりあの有名なチェコの作家の作品に登場する男のイニシャルと共通する――私はこう考える、KKKこそはすべての黒幕であると。つまり孤独な歯科技工士に物語の魅力を教えたのも――歯科技工士はKKKの店から大量の書物を購入している――そして男の中の「虚無」を見抜き、それに言葉で形を与えるように焚きつけたのも、彼の仕業だと。 ではKKKの目的はいったい何なのか? それは彼の出自に関係がある。秘密を明かそう。KKKこそあの有名なチェコの作家、KAFKAの実の息子に他ならない。これは文学的修辞ではなく、事実である。彼から直接聞いた話だ――つまりKAFKAは己の息子が登場する小説を書いていたというわけだ――KKKの目的はもうおわかりだろう。彼はKAFKAの「虚無」から生み出された存在である。つまり彼が生きていくためには「虚無」が必要なのだ――ちょうど、灰色の男たちが「時間」を必要としたように。彼は古本を集める(なぜならそれが虚無の産物だから)。そして「虚無」を抱えた人々にそれを与え、その人の「虚無」に言葉を、力を持たせる。人々は新たな「虚無」の物語を紡いでゆく――こうしてKKK――またの名をミヒャエル・エンデ――は永遠に生き続ける。KAFKAも永遠に生き続ける。虚無が存在する限り、その息子たちも永遠に生き続ける。息子たちのはてしない物語は20世紀初頭に始まり、21世紀の現在、まだ終わりを見ない。

 もっとも、このような論評には本質的に意味がない。エンデがこう書いている――『小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか? 』

 ともあれ、全ての小説家は(あるいは全ての妄想者は)胸に「虚無」を抱えている。いや、我々はみな「虚無」を抱えて生きているともいえる。そして「虚無」からの創造を続ける限り、物語は続いてゆく。たとえ死が私達を親しげに待ち構えているとしても。

 では本当の「死」とは何か? それもまた自ずから答えの出てくることである。けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。

可か、不可か

可か、不可か

20世紀チェコの作家、カフカに関係のあるようなないような文章を載せていきます。大体フィクションです。

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更新日
登録日
2016-07-13

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