夏の夜、夢

友達が口をそろえて「お前らしいな」と言いました。
多分そうなんだと思います。

 テトラポットの上に立ち、目の前に広がる海を仰ぐ。生ぬるい潮風が身体をなぞり、その感覚に心をくすぐられる。青白い月の光はまるでスポットライトのように辺りを照らし、焦燥感と高まる恐怖、そして妙な安心感が同時に私をがぶりと飲み込み、この海へと誘った。
「すぅ……」
 目を閉じ潮風のにおいで身体中を満たした私は、限界まで息を吸い、静かに波打つ黒くて広大な海へと両手を広げ飛び込む。
 …………想像していたよりかは暖かい海水。とても、とても心地の良い水の音。何も見えるはずのない暗闇の中を私はただひたすら泳いで、潜る。水面から顔を出しては真上の月に見下ろされ、また潜って今度は海草に身体を絡ませる。魚も何にも見えないの、私しか存在していないなんてすごく素敵なこと。
 ずっとこのまま海中で漂い続けることが出来たら、どんなに幸せだろう。気持ちの良い私だけのこの空間、世界。誰にも邪魔なんてされたくない、誰にも知られたくない触れられたくない心の中に隠れている小さな子どもの私。臆病で可愛い、小さな子どもの私。深い深い海の底で波に身を任せるがまま、泳ぐ。私なんてもの、本当は存在してないんじゃないかって思えてくる。

 さて、今日こんな真夜中の時間帯になぜ僕が原付を走らせているのかというと、喉が渇いて仕方がなかったからだ。実際の喉がそこまで渇いているという訳ではない。何だろう。満たしきれていない、何かが欠如している、そんな曖昧な感覚にとらわれてしまい、誰もいない海沿いの国道をひたすら無心で走りたい衝動に駆られてここまで来た。目を開けられないほどのスピードが作る風を全身で受け止め、息すら吸えなくなるこの感覚が僕は結構好きなんだ。
 ただ単に海に入りたかったからってのも理由の一つで、不快な暑さで湿ったシャツがさっきから気持ち悪くて仕方がない。真夜中の海を一人で泳ぐという、日常では到底やろうなんて考え付かない端から見たら怪しまれてしまうような行動、こんなのもたまにはいいんじゃないか、って。その喉の渇きや満たされない空虚感を吹き飛ばすためなら、それくらいしてもいいんじゃないか、って。もしそこに誰かが居て怪しまれるのも面倒だから、いつもはこんな時間に出歩くなんてことはしなんだけどね。

 誰も居なそうな静かな場所を探していた僕は、小さな崖の近くにある防波堤のそばに原付を停める。ヘルメットでくしゃくしゃになった髪をばらすように首を振り、鍵を閉め周辺を見渡す。風を一切無くした身体にまとわりついてくる夏の不快感、それでもやっぱり真夜中の雰囲気は僕を変に躍動させてしまう。適当な歌を口ずさみながら防波堤に登り、運転で固まった身体をほぐす様に大きく背伸びをし、潮のにおいを全身で感じ取った、その瞬間。
「……あ、飛び込んだ」
 思わず声に出してしまうほど奇妙な、しかしとても綺麗な光景。白い肌着のみををまとい長い髪を持つ女の子が、両手を広げてテトラポットからダイブするのを僕は見てしまった。羽ばたく髪が白い水しぶきの中心に消え、しばらくは海の中を漂い続けた彼女はゆっくりと水面に浮かび、再度潜っていった。
彼女の自由気ままな動作がそう思わせるのか僕にはわからないが、あそこ一帯だけがこの世界から切り取られたようで、どこか異質な空気を孕んでいる。浮いたり沈んだり潜ったりするその様を座って見つめながら、僕はズボンの後ろポケットから一本の煙草を取り出し、マッチで静かに火を着ける。彼女は気ままにふわふわ泳ぎ続けていて、まるで人魚みたいだ。僕がここで見ていることに気付いてるのだろうか? 彼女はいったい何を思いながら、あんな風に泳ぎ続けているのだろうか? 時折黒い闇から這い出て少し笑っているような彼女のその表情は、僕に少し、似ている気がする。

 私が一通り満足して大人しく海の世界から砂浜へと歩き始めたとき、彼は浜辺にある大きな岩の上に体育座りをしたまま煙草をふかしていた。所々海水の溜まったくぼみの有る、ごつごつした座り心地の悪そうな大きな岩。
いつからそこに居たのか、どのタイミングで私を見つけたのか、それ以前に彼は一体なぜここに座っているのか。たくさんの疑問が頭をよぎり、私は少し混乱する。しかし彼の浮かべているそのゆったりとした表情は、どことなく私の心を理解し表してくれているような気がして、恐怖や警戒心と云った感情は不思議と湧いてこない。むしろ懐かしさや親近感や安堵と云った感情がきりりと胸を締め付け、私はずぶ濡れの姿で崖に脱ぎ散らかしたカーディガンへと近付き、一本の煙草を取り出してみせる。

「火を、もらってもいいかな」
「マッチで良ければ、と言いたいところなんだけどあいにく切らしてしまったんだ。このままで構わない?」
「じゅうぶん。小さい頃花火をしていて、もらい火で花火をつけ合ったりしなかった?」
 煙草の先と先とが触れ合い、暗闇に二つの火が灯る。煙が白く流れては消え、真夏の真夜中だけが持つ独特な気だるさをよりいっそう濃くしていき、辺りをやんわり取り囲む。
「僕も同じことを思い出したよ。線香花火は五本まとめて、だよね?」
「あったあった。元気玉―って笑った瞬間にボタッて落ちてしまう切なさったら」
「ロケット花火を水の中に打ち込むと、すごい音がするんだ。魚雷みたいに光って鳴って、すぐ消えてしまうんだけど儚げで僕は好き」
「そこまでやんちゃはしてないかも。けどそれ、面白そう」
 刹那途切れた会話の間に、穏やかな波の音が入り込む。
「…………」
「いつから、見ていたの?」
「キミがテトラポットから飛び込んだ時かな。髪が羽のようで、すごく綺麗だなと思った。本当は僕もそのつもりでここに来たんだけど、なんか見てる方が楽しくなっちゃって」
「そんな前から居たの!私全然気付かないで泳いでた」
「潜ったり浮かんだり、面白かったよ。最初は上の防波堤に座ってたんだけど、話してみたくなってさ。降りてきた」
「海から上がったとき、正直ちょっとびっくりしちゃった。でも、なんだろ。表情に負けちゃったのかな。私も少し話してみようかなって思って、こっちに来たんだ。ごめん、寒くなってきたからカーディガン取ってくるね」

 夏の夜とはいえ、濡れた彼女の肌は少しずつ冷えていく。静寂に響く波の音が崖に反響し、風で揺れる草の音とその反響音とが綺麗にそよそよと混ざり合う。暗がりの崖に脱ぎっぱなしの黒いカーディガンを手に取り、ミネラルウォーター片手に煙草に火を着け、彼の元へと小走りで戻っていく。

「……ただいまかえりました」
「おかえりなさいませ。ごめん、ライター持ってる?」
「あるある、さっきはありがとう」
「ん、こちらこそありがとう。時間はまだ大丈夫?もう結構、経っちゃったけど」
「私は大丈夫、もともと気が済むまで泳ぐつもりだったから。アナタこそ時間、大丈夫なの?」
「うん、僕も時間は気にしない。唐突に原付走らせたくなって、飛び出してしまった」
「あー……なんかわかるな。プチ逃避行、ではないんだけど何か逃げ出したくなっちゃって。ああもういいやーって適当な電車に乗ったらここに着いたんだ。初めて来た場所だったけど、私、ここ好きになっちゃった」
「お褒めに頂き光栄です……って僕がいばるとこじゃないけど。何もないように見えて、実は良いことなんて見えてないだけで沢山落ちてるんだなってさっき気付いたよ」
「五本まとめた線香花火とか?」
「テトラポットから見える景色とか?」
「んー、煙草をくゆらす一瞬とか?」
「じゃあ、この岩場の座り心地とか?」
「それは良いことじゃない気もするけど!ああ、夜中と夜明けのバトンタッチの時間とか?」
「黒が青になってオレンジに変わり白になる、あの時間は本当に不思議だよね」
「うん、わかるな。どんどんバトン渡されてる感じ。そんなに焦らなくてもいいのに、綺麗に変わっていっちゃうんだよね」
「落としそうで落とさないバトン。時々落とさないかなって思ったりもするんだけど、叶ったためしがないや」
「そこは落とされても困るけどね!」

 乾きかけた髪の毛が束になり、彼女の背に張り付く。ミネラルウォーターを飲み干す彼の音と、ふふっと笑う彼女の声とが波に吸収され、ゆっくりとした静かな時間がまた訪れる。

「私……の話をしてもいいかな?なんでだろ、アナタに聞いて欲しくなってきちゃって」
「もちろん。キミとの話は楽しいし、僕も僕の話がしたくなってきたよ。だから少し、話そうよ」
「うん、ありがとう……私、海に入る瞬間ね、すごく怖かった。それなりのドキドキも感じていたんだけどさ。きっと足なんてつかないだろうし、真っ暗だろうし。それでも飛び込んでしまえば楽しくてすごく自由で、ずうっと泳いでいたかった」
「その気持ち……分かるな。入る瞬間は本当に怖いよね。もう戻って来れないんじゃないかとか、思ってしまう。全くそんなことはないのに、海の中に吸い込まれそうで怖くなる」
「吸い込まれる、か。吸い込まれるって表現しっくりくるね、気に入ったかも」
「でしょ」
「……長くなるかもしれないけど、聞いてくれる?」
「いいよ、何でも話して、僕は聞くよ」
「ん……とね。さっき逃避行って言ったのは、憶えている?」
「うん、憶えてるよ」
「別になにか理由があった訳ではなくて、ただどこかに逃げ出したくなってしまって」
「それは、何でかな?」
「なんだろ。今わたしが生きているこの世界にね、世界っていうのもアレなんだけど、大人と子どもの違い……のような。その子どもの世界にずっと居続けることは出来ないって、少しずつだけど分かってはきているの」
「ん」
「ここではない場所に行かなきゃいけないって、大人の人たちがいる場所に行かなきゃいけないんだって。境目なんて多分ないんだろうけど、その場所がどこかなんてはっきり分からなくてどこに行けばいいんだろうって、それでも今いるところに立ち止まってるのは駄目なことで」
「ん」
「学校とか、がね。お前たちはここから早く、出て行かなければならないよ。そのままの姿では、生きてはいけないんだよ。ほら君も、そこの君も、ここをこうやって歩いていけばきっと上手くいくからって、段取りを組んでくれて」
「ん」
「追い出されるってわけじゃないんだけど背中をとんっと後押しされて、ほらもう大丈夫いってらっしゃいって」
「うん」
「その先が見えなくてとても不安で、もし外れたら?駄目だったらどうなるの?私は、居なくなってしまうの?どこに行けばいいのか分からない。自分の中に隠れている本当の私はまだまだとても小さな子どもで、空っぽなんだって気付いたときにはもう、電車に乗ってここに行き着いていたの」

 真夜中過ぎのふと感じる肌寒さ。冷えた身体が震えているのか、彼女の心が震えているのか。小さく足を抱え全身を震わせる彼女は、どこへ打ち明けたらよいのか分からずにいた不安を隣に座る彼にさらけ出し、少し濡れかけた目で彼の方を見る。彼は細めた目で真っ直ぐと海を見つめ、口を開く。

「ねえ」
「う……ん?」
「見てくれて、いたんだよね」
「見ていたよ。キミの、見事なまでの飛び込みっぷり。独り言呟いちゃうくらい素敵だった、綺麗だった。僕は……見ていたよ」
「うん、ありがとう」
「ちょっと僕の話をするけど、いいかな?」
「聞きたい、な」
「ありがと。僕はね、今日すごく喉が渇いていた。喉というよりは、何て言えばいいかな。心に穴が開いたような感覚。何かが足りなくて満たされない空虚感」
「ん」
「原付に乗ってスピードを出して全身で風を受け止めて呼吸が出来なくなって、海に飛び込んで何も考えずにがむしゃらに泳いで」
「ん」
「自分が今にも消えてしまいそうな、本当の自分がどこかに行ってしまったような、そんな不安がいっぱいいっぱいになってどうしようもなくなった、だから今日ここに来たんだ」
「うん」
「そしてキミが飛び込む瞬間を僕は見た。自分がしようとしていたこと、多少の躊躇はあったかわからないけど思いっきり海に吸い込まれてくキミを見て、僕の中にあるそのごちゃごちゃしたものたちが、一気に吹き飛んだんだ」
「海、気持ちよかったよ」
「見てた僕でも気持ちよかったよ」

 二人は煙草に火を着ける。

「いくら……さ」
「うん?」
「いくら吸い込まれそうで怖くたって戻れなそうで怖くたって足がつかなくて真っ暗で怖くったって、キミは飛び込んで沈んで潜って泳いで、ここの岩場まで歩いてきた」
「煙草も吸ったよ」
「吸った。そして僕に話しかけてくれた。ここの場所を好きと言ってくれて、自分のことや僕のことについてたくさん話をした」
「……海中の音や暖かい海水。飛び込んでしまえば意外と楽しくて自由に泳げること。不安はやっぱりまだ少しあるけれど、私は居なくなったりしないんだね。飛び込んでみると見えるものだって違うんだ。アナタと話をして、今日ここに場所にたどり着いて、私いろんなこと知ったよ」
「僕もそう。キミと話をして、僕自身は消えたりなんかしないし、どこにも行ったりしないってこと。時々バトンは落としてしまえって思うかもしれないけど、僕もいろんなことを知ったよ。純粋に楽しかった」
「私だって、とてもとても楽しかったよ」
「ありがとう、来てくれてありがとう」
「こちらこそ。話をしてくれて、ありがとう」

 二人は煙草の火を消す。

「……ねえ、ちゅーしない?」
「…………一回だけね!」

 いつの間にか夜明けから朝に変わり、空が白く明るむ。海の色は青く変わるも、波の音は相変わらず静かに反響している。生ぬるい潮風がゆっくりと砂浜を流れ、防波堤に立つ二人を撫でていく。彼女はそのまま防波堤に足を投げ出し、彼は原付にまたがりヘルメットをかぶる。
彼女は右手を、彼は左手を差し出し、固く手を握り合う。
「じゃあ、また会えたら」
「うん、きっとまた会えたら」
握り締められた手は、アクセルを回すと同時にするりと離れて空を切る。

彼や彼女が世界を抜け、あの夜のこと、夢のような真夏のあの夜のことを思い出してはふと笑ってしまう時が来るだろう。それでいい。二人はもう、飛び込んだのだ。

夏の夜、夢

初めて書き上げた小説です。
自分どんだけ海に行きたいんだよってくらい海のことしか頭にありません。
最大公約数の文章を書くことは、すごく体力のいることなのだと実感しました。
まだまだ未熟者ですが、感想やご意見ございましたらよろしくお願い致します。

夏の夜、夢

海と原付と煙草と少年少女のお話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-12

Copyrighted
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