ゴールデン・ブラッド

序章

ゴールデン・ブラッド~黄金の血~とも呼ばれる、貴重な血液型「Rh null型」
抗原を一切持たないその血は、誰にでも輸血可能だという『魔法の血』。
一説によると、世界総人口に対し、0.01%未満の人間しか持ち合わせないという、超希少な血である、とされる。
世界総人口の0.01%と聞き、単純に計算される方もおられよう。
西暦2016年現在70億人ほどの世界総人口から単純計算すれば、現在の抗原持ち主である人数が大凡特定できることになるが、西暦2014年末時点において、世界で43人しか保有が確認されていない、という噂もある。

単純に保有者の多少で噂し合う世間の人々に、然程、希望や絶望といった両極端なイメージが湧きかねるのも無理はない。
殆どの人々は一番親しみの高いABO式血液型であり、日本人に限って言えば「抗原Rh+型」が99.5%を占めたと言われているのだから。

希望、絶望、可能性、期待、祈り、渇求。
いずれもが、問題が単純に解決しないことを如実に示すモチーフであり、主として医療の現場で使用される機会が多い単語の羅列だ。

一般に、血液型は4種類のみ、と思われがちである。過去には「O型の血液は他のA・B・ABすべてに輸血可能」と言われた時代もあった。
現在は血液型にかかる解明も進み、4種類以外に、実に様々な分類方法に区別されることが判明した。ABO式の血液型は、赤血球を基にした、その一例に過ぎない。他にもRh式血液型と呼ばれる赤血球膜の抗原による分類法が有名だろうか。Rh+、Rh-という言葉を耳にされた方も多かろう。
一卵性双生児でもない限り、自分と完全に同じ血液型をしている人はいないとすら言われるほど、血液型の分類は多岐に亘る。一卵性双生児でやっと、輸血が可能になる場合もある。まして、心臓移植など高度な医療になればなるほど、患者の致死率は予断を許さない。免疫不全を引き起こすが故に免疫抑制剤が手放せない患者が、どれだけいることだろう。

一般人の数字的興味だけでなく、予断を許さない疾病を持つ患者から見てこその、真の「ゴールデン・ブラッド」なのである。
O型にも「ボンベイ型(Oh型)」と言われる亜種が存在し、O型同士でも輸血できない場合があり、こちらも「ボンベイ・ブラッド」と呼ばれており、輸血者を探すのは非常に困難を極めているが、血液検査等で判明した場合、血液を採取し冷凍保存しておくことで輸血に備えていると言われている。

第1章  世界地図

西暦2050年。
突如として地球を襲った地殻変動。
山は崩れ、海は隆起し、各所で大地が揺れて地割れが起きた。ドミノを倒すかのように地上の火山も次々と唸りをあげて噴火した。殆どの大陸が押し潰され、大地は埋まり、漂流した。海底火山の噴火は続き、やがて、海から黒々とした島が顔を出し始めた。地殻変動は200年に及んだ。人類は、滅亡寸前だった。いや、滅亡したといっても過言ではなかった。

西暦2250年。
地殻変動の際、人類の一部は宇宙ステーションに移動した。最初に移動を命ぜられたのは科学者たちだった。科学者たちは個別の用途用宇宙ステーション建設を急ぎ、宇宙に滞在できる人数を増やすべく寝る間も惜しんで働いたという。

自前で宇宙ロケットを打ち上げる国もあったが、総て成功したわけではない。大気圏脱出の際、圧力に耐え兼ね、塵となったものが殆どだった。
技術の進んだ国では、王族及び国家首相或いは大統領ランクを宇宙ロケットに乗せようとした。当時の王族及び国家主席の多くは辞退したと聞くが、中には自分の命を一番にした人間もいたらしい。その人が乗ったかどうかは、データベースに載っていないので今となっては、判別の術がなかった。
宇宙ステーションA・B・C・D・Eスペースには、受精卵を凍結させた容器が次々と運び込まれ、医療分野のチームが乗り込んだ。人類の存亡に拘った世界各国の熱意が感じられた。

宇宙ステーションF・G・H・I・J・K・Lスペースには、疑似空間とでもいうべき空間の中で、世界各国の民族が交流を図るスペースが設けられ、子孫を残すために個別の居住空間を与えられたという。
宇宙ステーションM・N・O・P・Q・R・S・T・Uスペースでは、科学分野・土木及び建築分野等、地球環境や地球生活に関わる各分野の専門家が集い、日々変わりゆく地球環境の予見と、その対処法が論議されていた。
約2世紀半に及ぶ、かつてない事象に誰もが希望を失わずにはいられなかった。世界はこれまで国という単位で生活し、稀に国単位や宗教単位で衝突を繰り返してきた。それすらも、現状を目の当たりにした人類にとって諍いの材料となるものは少なかった。

宇宙ステーションしか、生活しうる場所が無かったからこそ、人類は過去を振り返り、諍いの材料を少しでも減らし、大地に降り立つ未来を願った。

過去に何度もあった地球の危機。その度に乗り越えた人類。今は宇宙ステーションの中で2万人ほどが暮らしている。
科学者たちは、この人たちを地球に連れて帰りたいと切に願った。宇宙ステーション内で産まれた子供は、皆、医療、科学や土木・建築などを勉強し大人の手伝いをして育った。連綿と糸を紡ぐように、科学の種を撒き続けたのである。
西暦2200年頃になると、地球の地殻変動は殆ど収まりを見せていた。海底火山噴火の兆しも無く、地球全体の揺らぎも減っていた。
宇宙ステーションC・D・E・Fスペースの科学分野・土木及び建築分野専門家チームは、まず何人かが地球に降り立ち、現状調査を行うことにした。

まず、地球を覆っていた空気の変化、地上の物質の変化。昔と同じなら心配いらないが、違っていれば、地上に降り立つ夢は遠のく。宇宙ステーションから計算する限りでは、どちらも問題なかったが、実際の現場を視察しないとわからない。
第一陣が、視察のため地上に向け出発した。21世紀のような立派な施設はない。命がけの着陸だ。着陸に適した位置を宇宙ステーションから拡大して何度も確認しシミュレーションし、位置を定め、地球への帰着ロケットが出発した。
2万人分の期待と希望を乗せて。

天候の関係もあり、三日後、ロケットは着陸設定位置に概ね近い場所に着陸出来た。観測装置を手に、空気中の酸素量や二酸化炭素量、その他空気を構成する物質を特定し、ステーションに送る。また、地上の構造物についても、放射線などの量やその他健康を害すると思しき構造物などを測定し、最後に表面土と土中の構造物をステーションに知らせた。あとは、自分たちが降り立っている座標の確認。緯度・経度・外気温・太陽の高さである。
科学者たちが測定した限りでは、3世紀前、丁度地球温暖化に拍車が掛かる前の地球と同じ温度である。空気の構造物からはP.M2・5などの公害物質が消え、表面土及び土中からも放射線を含む構造物は発見されなかった。現在降り立った地点に限っては、という講釈が付くことは付いたが。

宇宙ステーションは、地上でも宿泊用施設として使用され、その他に積載されていた機材でトレーラー形式或いはトラック、乗用タイプの車として使えるよう太陽光にて動けるよう設計した走行車両を完備していた。この場所が宇宙空間から地上に降り立つのに一番都合が良かったため、最初のステーションは移動を迫られるからだ。
宇宙ステーションC・D・Eの3基は次々と地上を目指し、降り立つとステーションから確認していた地表のとおりかどうかを確認する作業に入った。21世紀、少なくとも大きくは2つ、細々混ぜると5~6ほどあった大陸や島国は、総て姿を消していた。北半球から赤道の手前まで大陸が長く菱形状に形成されていた。
空から見た南半球には、小さな大陸が2つ確認できていた。

南半球は後回しにされ、北半球の復旧から手が付けられた。国土はある程度、緑の色味を帯び回復して来ていたが、緑化を加速させるため様々な植林が行われた。スギだけは後々アレルギーを引き起こすというアジア系住民の希望から、最北端の人が立ち入らない場所に植樹された。
家は、樹かコンクリートを使う予定だったが、宇宙ステーション全員分は到底間に合わない。となれば、現状のステーションのまま、生活してもらうことになるだろう。
生態系を壊さない。それが生活の基本とされた。魚を獲って食べてもいいが、小さな魚は放す。動物を狩りの末に倒してもいいが、子供は放す、或いは餌付けして大きくする。

先人との生活の違いは、最初から火を持ち、生活のイメージが出来上がっていたことだろう。
如何にして公害を出さず環境を破壊せずに生活していけるか。
生態系を乱さず生活していけるか。
21世紀以前の過ちを繰り返さずに、人間としてどのようにすれば快適に生きることができるか。それが、地球に降り立った科学者をはじめとした学者チームの総意だった。

第2章  新しい地球

西暦2500年。
地球上では、宇宙ステーションから紡いできた糸が、2世紀半をかけて花開いていた。
全人口は2億人余り。面積は5千万キロ平方メートル、21世紀ごろのユーラシア大陸と同じくらいの面積を持つ。21世紀まで乱立していたような独立した国々は、無い。
宇宙ステーションに居住した人々は、国の区切りを失くしたいと奔走した。それでも、人類の欲は根が深いものである。宇宙ステーション時代には協力し合った人類が、いざ地球に帰還して何年か後には諍いが起きるだろうと予測した科学者たちは、地球星府を発足させ、全世界憲章並びに全世界条約を定めた。
まず、如何なる理由があろうとも、政治勢力による国の独立は認めない。自治領までを許容範囲とした。その上で、全世界中立宣言を課し、事由の如何を問わず自治領同士の戦闘行為を厳しく罰し、戦闘行為を行った自治領は即時自治権剥奪、全世界暫定領に組み込んだ上で、当該地域には二度と自治権を与えない仕組みを採っている。

 全世界条約で枯渇性エネルギーの乱獲をストップしたため、困ったのが鉄骨鉄筋コンクリートなどを原材料とするビルの建築だった。ランジュベーヌの超高層ホテルや医療施設、アンデシス領の医薬品及び医療機器、車両製造工場などの精密機器を扱う工場のみ、ビル建設が許された。

発電や車両燃料に関しては、循環型エネルギー、或いは再生可能エネルギーといった方法が採られたため、爆発的に人口が増えない限り、比較的問題は少ない。
車両は台数規制が掛かり、自家用タイプのオデッセは地区で台数が割り振られ、領府で認めない限り、乗り合いカーとして使用するに留まった。
太陽光を利用する地上ルートの電車タイプであるイージニス、またはトロッコタイプのトロッコ。これらは主として、バイオマスエネルギーなどを活用している。
それら2つの移動手段が用いられたほか、枯渇エネルギーを使用しない、クワッドスケートやインラインスケートと呼ばれるローラースケートや、スケートボードなどは認められており、交通法等の規制の下、主として若者が使用した。
自転車は、すべての年代、老若男女を問わず使用頻度が高い。自家用タイプのオデッセを除くこれらはすべて、木製であった。
大金持ちが一家に一台、オデッセを持ち合わせている事例も散見したが、基本的に自家用車を所有することは禁止された。自前で自家用タイプの車を所有するには、領府の許可を必要としたのだった。

観光施設にある通常のホテルなどは、宇宙ステーションから降り立った際に植樹した樹を特殊加工して綺麗に仕上げた材質の樹木を使用したので、趣きがあり、観光地としての価値は充分だった。
 通常の家屋は、木造4階建て・木造3階建てのアパルトモン形式とされ、戸建て住宅は認められていない。21世紀よりも強度を増した設計技術を開発し、災害に備えたと言われている。
 徹底したエネルギー政策により、環境保全に努める世界が広がっている。


 ランジュベーヌ領。
人口は1億人余り。北半球菱形、ノア大陸の中央に位置する大国にして、再興した地球の中では一番歴史の古い自治領となる。250年前、人類が再び地球に降り立った場所であり、此処から復活への総てが始まった土地。

前述のとおり、ランジュベーヌでも中立自治領宣言に法り、戦闘行為を放棄している。その代償として、核のバリアを保有しているとも、星外エネルギーを保有しているとも言われているが、その真偽は定かではない。
宇宙ステーションの降り立った土地がゆえに、星外エネルギーの噂は実しやかに語り継がれていた。核のバリアについては、21世紀以前の過ちを繰り返さないという全世界条約があることから、半信半疑の人々が多いと言われている。

 ランジュベーヌは、世界医療の技術分野で群を抜くと言われている。世界各領から医師や患者が集まり、それに伴う商業、製薬など、あらゆる産業が活発である。高度な医療技術を求め世界中から訪れるVIPも多い。
そのため、ホテル業界などもランジュベーヌ領なしには成り立たないと言われるほどだ。領中が潤い、賑やかな街並みが続く。
 一方で、命に関わる産業立国であるが故に、スパイ活動が横行している領でもある。
ノア大陸の中では唯一、海と接していない領であり、海資源を持たない領としては、各領との友好関係が必須であるという。


クリムソン領。
人口は1千人弱。ランジュベーヌよりも北に位置するこの自治領では、北方に山が聳え立ち、年中雪が大地を覆う。基幹産業が無いように見られがちだが、雪の結晶に、薬剤として貴重な材料があることから、珍重されている。
雪は毎年降るので、枯渇資源と見做されない。そういった意味では、自然の恩恵を一番受けている領かもしれない。
また、スノースポーツの世界大会が通年行われるため、観光立領としての需要も計り知れない。


ロールライト領。
人口は4千万人余り。ランジュベーヌの東に位置するこの自治領は、商業が盛んである。
ロールライトは、漁船、商船などの港町で構成され、海岸線に沿った市場が延々と続く、ほぼ二等辺三角形の地形。自治領境は、一部がクリムソンとエクリュースに、大部分はランジュベーヌと接している。
各処の港町には、ランジュベーヌを通したくない物資が集まると言われている。必然的に、人目を避けたい商売を生業とする輩が集まる自治領でもある。
ただし、全世界条約において、暴力的行為やマフィア等の薬草及び薬物、医療機器の設計図売買行為は禁止されており、違反すればその罰は途轍もなく重い。
所謂宇宙刑という罰で、宇宙に放り出される。死刑ではないが、生きて帰れる保証は、殆どゼロパーセントに近い。このように、違反するには、それ相当の覚悟が必要である。


アンデシス領。
人口は3千万人弱。ランジュベーヌの西に位置する自治領。
主として工業が領の主力産業だ。薬草などの資源は豊富で、栽培から薬物精製に至るまで、医療関係の産業も他の自治領と比べ盛んだ。
ランジュベーヌにおける医療機器の製造などもアンデシスがほぼ独占している状態にある。
そういう繋がりからも、ランジュベーヌとは友好関係が深い。とはいえ、その経緯から、マフィアや裏組織の潜入者=スパイが多数存在している。
21世紀と違い、薬草や野生の石に関しては採取して終わり、採掘して終わり、という概念は認められていない。採取すれば採取した分の栽培を求められる。
もちろん石は採掘できない。栽培できないなら採掘は認めない、という方針を採っている。


エクリュース領。
人口は2千万人弱。ランジュベーヌの南に位置する自治領。主として観光が盛んだ。
最南端はコバルトブルーのグラデーションをなした海岸線が広がり、一大観光資源として名高い。
その気候は年中通して温暖である。ランジュベーヌで治療した患者の保養地も兼ねる。故に、ホテル業が盛んな地でもある。
その他、内部では、温暖な気候を利用して大規模農業が営まれている。ワインなどの生産地としても有名である。


 南半球。
人類が住んでいるのは、マカル大陸、ヤヌス大陸の二つ。
人口は50万人にも満たない。
マカル大陸は800万平方キロメートル、ヤヌス大陸は750万平方キロメートル。どちらも、21世紀にあったオーストラリアと同じくらいの面積である。
こちらは比較的緩やかな気候で、ノア大陸から開拓民としてそれぞれの大陸に渡った人々であり、主に農業や漁業、林業などで生計を立て、ノア大陸に輸出している。
二大陸とも、21世紀以前の文明が垣間見える形跡があり、ノア大陸から船で1週間、飛行船で3日ほど。これらの文明見学が観光資源にもなっている。
南極大陸は、昔と然程変わらない状態で保存されているが、人間の立ち入りは固く禁じられている。

第3章  魔法の血

医療の発達しているランジュベーヌで、20年ほど前、ある噂が医学界を駆け巡った。それは、「魔法の血」。
 輸血時、様々な型に対応するのだという、魔法さながらの話であった。

 殆どの医学者は信じなかった。科学者ですら、見向きもしなかった。
ところが、である。
21世紀の書物として新聞掲載記事写真が見つかった、という。皆驚き、その掲載写真を凝視した。宇宙ステーション時代、総ての記事が保存されたわけではないが、血液型に関する記事は、見た者の興味を引いたらしい。

その後のことだ。
ランジュベーヌの研究施設で奇妙な発見がなされた。
今までにない血液型。

通常、血液型はA・B・O・ABの4つに大きく分類される。他にも抗原別に様々な区分法があるが、一番身近なのがABO式血液型とRh式血液型だろう。
Rh式血液型は、40ほどの抗原に区分されるが、ある抗原の有無でRh+、あるいはRh-といった区分に大別される。
Rh-も比較的少ないと言われるが、今回発見された血液型は「Rh null型」
抗原を一切持たないという特異性があり、簡単にいえば誰にでも輸血可能という。

「魔法の血は実在した」
其処に来て、この発見を目の当たりにした医学者たちは、この事実を大々的に発表することを差し控えた。
何故か。面白半分に研究の成果としたかった訳ではない。
医学界の研究成果ではなく、自然に発見された産物ではあったが、自然という言葉が独り歩きするのを恐れたのである。
というのも、これまで免疫抑制剤なしには生活が大変だった心移植者にとっては、朗報中の朗報である。血液の争奪戦になるのは必至であり、一歩間違えば殺人も厭わないような事態になりかねなかった。
それゆえに医学界の中では密かに「ゴールデン・ブラッド」と呼ばれたのであった。
 
全世界的な共通問題を決定する条約会議-保健機構-では、秘密裏に医学者や科学者に対し、即座に保有者の割合を計算する作業に入った。
しかし、全人口を調べること叶わず、人口割合から「2015年同様、この血液型を持った人間は、世界人口の0.01%未満」という理論に至った。
実際には、0.01%未満どころではなかっただろう。西暦2015年の記事での割合だ。今は人口数が圧倒的に少ない。
ノア、マカル、ヤヌスの人口を合わせても2億人ほどの現状を考えると、保有者を探すのは非常に困難を極めることは想像に難くない非常に困難な作業だったのだ。
稀少な血液型であることから、当然、遺伝などの要素も検討されたが、裏付ける資料はなく、総論は見送られることとなった。

善意、金銭、出し惜しみ。場合によっては戦闘行為に発展する可能性すら秘めた、幻の血(ブラッド)。
金と命を取引する、ゴールデン・ブラッド。

 当然の如く、3大陸にも通達や情報が拡散することは無かった。
文明の栄えた時代なら、宇宙の衛星などを使った携帯電話などを使用し、全世界に情報がばら撒かれたことだろう。
 無駄な枯渇エネルギー採掘を認めなかった条約により、21世紀まで使われた携帯電話などの通信機は、然程発達していない。その代用機として、太陽エネルギーを使用した携帯無線電話やトランシーバーの開発に着手した。

曇りでもある程度は充電できるし、晴れていればフル充電状態。電池交換の心配もない。ただ、デザインだけはどうしようもない。木質材料を主に天然樹脂を用いた研磨剤や接着剤、結合剤、滑り止め、塗料といった工法を組み合わせ、どちらかといえば機器的というよりも工芸品的な要素の電話だった。
それでも、従前の携帯電話デザインをデータベースで保管していた科学関連の開発者たちは日夜、従前のデザインに近づけつつ、枯渇エネルギーを消費しないデザインベースの開発に力を注いでいるという。

 問題は、無線通信では不特定多数の悪者からの通信傍受、あるいはジャミングを受けやすいことである。ジャミングに関しては天体などが通信妨害事由であることから研究対象のハードルを固定しやすかったが、通信傍受に関するイレギュラーなハードルは固定しにくく、1900年代に使用されたと言われる暗号などの方法が用いられた。
これからの成長産業であることは確実だった。

枯渇エネルギーとの闘いと並行するように、医療業界では、今もゴールデン・ブラッドの持ち主を秘密裏に探し続けていた。

表立って行動こそしなかったが、マフィア組織ルイスゴール、系列の密売組織ドラップ、それら大組織から商品を掠め取って売り捌く裏組織シェイラ及びその傘下まで、ランジュベーヌには総てが存在していた。捕まれば、宇宙刑。売り捌ければ、大金持ち。
彼等も密かにスパイを雇い、情報を入手しようと躍起になっていた。スパイ志願者は、一旦アンデシス領などに入り、薬草を採って株分けしてからランジュベーヌに入領する者が殆どだった。

何もなく、漫然と「就職したい」という理由ではランジュベーヌへの入領を許可されない。
医療的知識或いは薬物学の知識などを持ち合わせれば、就職理由として認められたが、医療的試験や薬物学試験はハードルがとても高く、余程の金持ちでなければ試験勉強など出来ない。自ずと、ランジュベールにその身を置くことこそが、人々のステイタスになりつつあった。

第4章  リヤンの家

 アンデシスの中核都市、グール。
 工業関係のビルが犇く中、木造ながら太い梁と厚く頑丈な扉で覆われたアパルトモンの表札には、『リヤンの家』と大きく書かれてあった。
 ビルとビルの間に建てられた木造4階建てのアパルトモンに、連れ立って二人の少年が入っていく。一人、また一人と『リヤンの家』周辺に姿を見せる。

『リヤンの家』は、里親施設だった。
 里親施設とは、何らかの事情で親と別れた子供たちが、アパルトモンをルームシェアして、共同生活をする場所だ。一方で、子供のいない夫婦が此処を訪れて、気に入った子供を引き取るためのマッチングをする施設でもある。
 現在は、8人の入所者が、里親を待っている状況だ。
 
 スライとネリィ、19歳。二人は昔からの幼馴染みだ。
 二人とも、ほぼ同時期に『リヤンの家』に預けられた。もう、此処に入所して17年になる。
 スライの両親は、アンデシス化学工場の事故で大火災に巻き込まれ、二人とも一瞬にして亡くなった。スライはアンデシスに親戚もおらず、身元の怪しい者として処理されたため、直ぐにリヤンの家に放り込まれた。
 ネリィの両親は、ネリィが2歳の時に離婚し、ネリィは母親に引き取られたが、その母は、ネリィを連れてアンデシス領に来ると、初めこそ工場で真面目に働いていたものの、そのうちに若い男を作り、ネリィを置き去りにして男と逃げてしまった。
 親がいなくなったことを知った工場の人間が、お役所に届けて、ネリィもまたリヤンの家に放り込まれたというわけだ。

 スライは身長179cm、体重が52kg。
 ひょろりとした体型で、肌の色は白い。運動が苦手なので、肌の白さは段々青みを増して、透き通るような青白さへと変貌する。
 髪の毛は青みがかった金髪で、目は蒼い。遠くからでもその容姿は目立つものがある。
 腕や脚は長いが、青白いことに変わりは無く、筋肉が付いていないのは一目瞭然だった。その代わり、運動を除いた料理や裁縫など手先を使う仕事は、女子に負けないぐらい上手なスライ。

 片やネリィは、身長170cm、体重は60kgほど。
 グレーの髪に黒い瞳。浅黒い肌に髪の毛をつんつん立たせて、見るからに体力持て余し気味の体つきをしている。腕や脚は筋肉が隆々としていて、如何にも運動するために生まれてきたと思えるような姿態だ。
 一見、腕っぷしの強さが目立つように見えるが、以外にも魚を捌いたりするのがとても上手なネリィ。

 その理由を暴露しよう。

 リヤンの家を訪れる大人たちは多数いた。その中には、里親とは名ばかりで、農作業や漁業などの重労働に従事させるため、子供を引き取る人も多数存在したのも事実である。
 子供たちには里親を選ぶ権利もなく、泣く泣く施設を出る子供もいたのが実態だった。
 そのようなわけで、幾分男子の方が退所する年齢は早い。女子は、重労働に従事させても使い物にならないためだ。

 スライは賢い子供だったが、病弱でひょろりとした体型だったため、重労働に従事させる輩から声が掛かるはずもない。病弱という体質は、子供が欲しい夫婦からしてみてもマイナス要素とされ、里親施設のコーディネーターがスライの良い点を引き出し説明してくれるが、どの夫婦も眉間に皺を寄せ、首を横に振った。

 ネリィは10歳の頃に一度、近海で漁業を営む夫婦に引き取られたことがある。
 学校に通わせてくれるという約束だったにも関わらず、学校さえ通わせてもらえなかったばかりか、あまりに過酷な重労働を強いられた。漁に出て、ネリィ自身の手で魚が取れないと、ご飯も与えられなかったほどである。
 そういった現状を踏まえ、引き取られた時から胡散臭い里親を好きになれなかったネリィは、引網で失敗した際に船の上で体罰を与えられ憤慨し、そのまま自分から海に落ちた。
 里親の男性は、なんとネリィを探すわけでもなく、そのまま船で陸に向かってしまった。
 そう、彼らにしてみれば、重労働に従事させる男子は人間として扱う必要がない、牛馬にも劣る命だった。養い子=働き手など、他の里親施設でまた見つければ良かったのである。

 海に落ちたネリィは、と言えば、水泳が得意だった。溺れるでもなく、船から離れるまで潜水しながら海中を移動し、船が陸に向かったのを確認して、海の上に顔を出し自分も陸に向かって泳ぎだした。疲れると、その辺に浮かんでいる木端に身を寄せて海水を飲み、疲れや飢えを凌いだ。
 サメが出没するという海域で、一晩を海の上で過ごしたが、運の良いことに近海で漁をしていた漁船に助けられ陸に上がることができたネリィ。本当に運の強い少年だ。
 ネリィは助けてくれた漁船の船長に礼を言うと、そのまま、里親の下には帰らず『リヤンの家』に駆け込んだ。
『リヤンの家』では、何人か出戻りがいる。
 里親が里子に教育を受けさせず、労働に駆り出すことは全世界共通事項として、禁じられていたが、実際には何処の自治領でも多発しており、若者を大事にする地球星府とのいたちごっこを続けていた。里親の下で教育を受ける自由を奪われたネリィもまた同様に扱われ、再びスライとともに施設で過ごすことになったのだった。

『リヤンの家』を出る前と再び戻った時に決定的に違ったのは、魚に触れるようになっていたこと。昔取った杵柄というやつか。
 里親の下で習った、生の魚を捌く術。故に、ネリィはいつでも魚を捌くことができるというわけだ。
 そのくせ、魚を捌ける事実を、余り人前では披露しない。ネリィ自身、周囲に頼りにされるのは全くもって御免だった。

『リヤンの家』は、20歳まで入所が認められている。2人は、そこから学校に通っていた。20歳になると、順次施設から退所しなくてはならない。20歳までに仕事を見つけなさい、という暗黙の通告。

 アンデシス領の子どもたちは、8歳から16歳までの9年間、小中一貫学校に通う。
 その後は、工場に働きに出るなど労働者として働き出す者、返す必要のない奨学金をもらい19歳までアンデシス国立高等専門校に在籍する者、自費でアンデシス領内の国立高等学校や私立高等学校に通う者の3者に分かれる。
 小中一貫学校と言えば聞こえがいいが、里親施設など、底辺に生きる子供たちには、学校を選ぶ余裕などないのが実情。
 小中一貫学校を、領民はエクス学校と呼んでいた。
 アンデシス領では住居区画ごとに小中一貫学校があり、14歳以上になると、成績別にクラス分けする程度で、受験戦争とは一線を画した教育が行われている。
 小中一貫学校から、アンデシス国立高等学校を経由しアンデシス大学に進む者もいるが、高等学校及び大学の授業料を払うためには、何がしかの収入、学生でいえば奨学金を貸与されるか、アルバイトをしなければ、即、退学の憂き目に遭う。こちらの奨学金は、高校あるいは大学卒業後の取り立ても厳しい。
 金持ち以外は食うに困った生活を強いられる、それがアンデシスの若者たちに課せられた青春像だった。

 その証拠に、一握りの金持ちの子どもたちだけが、食べる物にも困らず、受験戦争に忙しい。
 皆、将来は国の中心、ランジュベーヌ領で過ごしたいから、高等学校及び国立大学の受験を勝ち抜けと言う親のエゴ、もとい、両親の願いに応えようと必死なのであった。

 エクス学校を卒業し、高等専門校男子3年次に在籍するスライとネリィ。
 クラスはS・A・B・Cと成績順に区分される。
 二人とも、将来はランジュベーヌに渡りたいと夢をみてはいるものの、高等専門校は、どちらかといえば工場勤務を想定して、工業的な技術を教える学校だ。
 医学や薬学の知識を学ぶ場もなく、唯一最短で行けるとすれば、国立のアンデシス大学に入学し、医学や薬学を勉強、そしてランジュベーヌでの就職先を見つけ、自治領境を渡る方法しかない。
 アンデシスにある医療関連の仕事は、その殆どがランジュベーヌに本拠地を置く会社の系列だ。一流大学卒業後、ランジュベーヌにて面接試験を潜り抜けないと入社は難しい。

 高等専門校での成績は、勿論スライはSクラス。ネリィはBクラス。
 ちなみに、ネリィはBクラスでも微妙な序列にいる。Cクラスに入れば、大学と名のつく場所には足を踏み入れることすら叶わない。
 ランジュベーヌでの生活など、夢のまた夢なのである。

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 秋も深まったある日の放課後。学校から施設に戻ったスライは、ネリィが帰ってくるのを心待ちにしていた。なぜなら、学校から進路相談のペーパーを受け取っていたから。
 二人とも、ランジュベーヌという国に興味はあったが、今の環境では、就職はおろか、大学進学さえおぼつかないかもしれない。

 どこに寄り道していたのか、帰りが遅いネリィの姿がリヤンの家の窓から見えると、スライは窓を開けて、珍しく大きな声で叫ぶ。
「ネリィ!早く早く!家の中に入って!」
 いつもと違うスライの口調に、ネリィは何がしか気付いたように見えた。
「わかったよ、今入るから、そんなに叫ばないでくれ」
 ネリィは、ゆっくりとリヤンの家の固い門を開けて、玄関のドアに手を掛ける。玄関ドアを開けようとした瞬間、ドアの方が勝手に開いた。
 其処からスライが顔を出した。
「遅かったじゃない。どこをほっつき歩いていたの?」
 スライは、進路相談のペーパーをひらひらと翳し、ネリィに手渡した。すぐにペーパーを取り上げると、スライはペーパーを皆が集まり食事を摂るリビングのテーブルに置く。

 そして、必死にネリィを説得し始めた。
「ネリィ。どうする?キミなら、勉強すればアンデシス大学の薬物学コース、受かるかも」
 ネリィは、スライの話に耳を傾けてはいるが、その目は虚ろで、どこかひとごとだ。
「スライならアンデシス大学の医学コースでも大丈夫さ。受けて見ろよ。試験、冬だろう?」
 スライも、ネリィの話に引き込まれ、ついつい自分のことに話が向く。
「うん。先生が本を譲ってくれた。だから、一回だけでもアンデシス大学の医学コース試験を受けたい」
「俺も太鼓判推すぜ」

 ここで、スライは今日の目的をはたと思い出した。ネリィと一緒にアンデシス大学への進学を果たしたい、それがスライの願いでもあった。
「ネリィは薬物学なら大丈夫だろう?薬草に関する知識は誰より豊富だ」
 ネリィは肩を竦め、手を振っておどけて見せる。
「俺の場合、薬草持ち込む方が将来的にランジュベールに入り易いと思うけど」

 スライはネリィの口を塞ぎながら、周りをキョロキョロと見て、ほっとした。
 よかった、誰もいない、といった表情で。
「そりゃスパイだろう。スパイは捕まったら即斬首刑になるよ。この辺りでも見知らぬ人が株分けしているようだし、危ないから止めてくれ」
 それでも、ネリィは意に介さない。
「ランジュベールに入りさえすれば、バイヤーがたくさんいるからな」

 このままでは、ネリィの将来が黒い霧で包まれるような危機を感じたスライは、もう一度ネリィを説得してみる。
「ネリィ。二人で受けてみようよ、大学の試験。施設出て何処に行くかは別にしても、受けて見なきゃわからないよ。先生、こんなことも言ってた。成績優秀だと、奨学金が出る、って。返す必要のない奨学金だよ。な、お金、欲しいだろ?」
「スライ、俺の弱点をよーく知ってるな。でもな、大学はお前に譲るよ」

「スライ、スパイって何?ネリィがスパイになるの?」
 突然後ろで声がしたものだから、スライは心臓が飛び出るくらい驚いた。急いで後ろを振り向いて、相手が誰だか確認する。
 相手は、7歳のルツだった。

『リヤンの家』には、スライやネリィの他にも、6名ほどが入所していた。
 
 その中で、一番小さいルツは7歳。
 来年からエクス学校に通う、悪戯好きな男の子。

 くりくりとした黒い瞳に、つんつんと立てた黒い髪。今日はネリィの悪戯返しにあったらしく、いつにも増してつんつん度合いが際立っている。でも、ルツはこの髪型が気に入っているから、さほど気にしていない様子だ。
 リヤンの家には、定期的に衣服を提供してくれる人物がいるが、ルツの場合、成長が早すぎて直ぐに洋服が小さくなっていく。
 そんなこともあってか、ルツは、ネリィやクロームに、と届けられた洋服を、ダボダボさせて着るのがお気に召している。
 今日も、ベージュのコットンシャツに裾が長い黒のコットンパンツを合わせて若草色のセーターを着ている。
 先月、ネリィたち高等専門校組に届いた洋服だ。
 あまりのダボダボ具合を見て、ネリィが溜息を吐く。
「ルツ、それ、大きいじゃないか。それは俺達の服だぞ」
「ネリィ?いいじゃない。僕が気に入ってさえいればいいんだよ」
「その服じゃ、いざって時にダッシュして走れないぞ」
「大丈夫。僕は隠れるのが上手いから」
「そうだった、ルツは隠れん坊遊びの名人だもんな」
「そうだよ、今迄僕を捕まえられた子は、いないでしょ」

 ルツは生まれて間もなく、施設の前に捨てられていた。
 親と暮らした記憶が無いからか、両親を思って泣くこともない。7歳にして、結構クールな面を持つルツ。
 その代り、悪戯が大好き。耳年増的なスピーカー根性で、噂をリヤンの家全体、職員にまで吹き込むものだから、ネリィはいつも職員のイワンに怒られる。

 誰かが玄関扉を開けて部屋に入る音がした。
「ネリィがスパイになったって、直ぐ捕まりそう。スライがいるならまだしも」
 部屋に入るや否や、ルツの傍らに寄り、そう呟くマリエルは19歳の女子。スライやネリィと同い年。高等専門校では、女子3年次に在籍している。
 マリエルを遮るように、同じ顔、同じ声のアリエスが前に出る。
「姉さん。またネリィと喧嘩になるわよ。こないだもドレスだめにしたでしょう。気を付けないと、またイワンに怒られちゃう」

 アリエスとマリエルは双子の姉妹。マリエルが姉、アリエスが妹だ。
 双子ということは、当然ながら、彼女たちは似ている。
 身長と体重も殆ど同じ。160cm余りで頬が少しだけふくよかな二人は、体重を聞かれると怒る。
 マリエルは、茶系のゆるふわ髪に、前髪をぱっつんと切っていて、木製の可愛らしい花模様のピンをさしている。邪魔になるときは、当然髪を結んで事を起こす準備をする。片時も離さないのが花模様のピンだ。
 それに比べアリエスは、行動が鈍い。の割に、皆が気付くと、マリエルと同じ恰好をしている。
 どうやら、マリエルの喋りに気を取られているうちに、アリエスが同じ格好をしているらしい。一見して彼女たちが違うのは、花模様のピンだけだ。
 二人に言わせると、声のトーンも違いのひとつらしい。一緒に話していると、若干アリエスの方が声のトーンが低い。マリエルは勝気故に、声のトーンもさることながら話す内容がキツイ物言いなのだ。
 
 マリエル、アリエス姉妹の両親は貧乏だった。
 そこにもって双子が生まれたため、両親は育てきれずにアンデシスの領府に事情を話した。これでは他の子どもまで死の憂き目に遭うと。領府では、『リヤンの家』を紹介した。
 お金が出来たら必ず迎えに来るからね、と言って、2歳にもならない双子を施設に預け、両親は姿を消した。勿論、迎えになど来るわけもない。
 マリエル、アリエス姉妹もご他聞に漏れず迎えに来ない両親を恨んでいるかといえば、決してそうではない。捨てられた頃は、どちらかが泣くともう一人も泣き出していたものだが、年を取るということは忘れるということに繋がるのか。
 19歳になって、薄らと事の成り行きは覚えているけれど、今や両親に何の恨みも無く、その仕打ちに一定の理解を示しているという。

 嘘か真か、誰も虎穴に入ったことは無い。


『リヤンの家』職員のイワン。
 25年前に創設されたリヤンの家で、創設時からコーディネーターとして関わり続けてきた。
 190cm余り、筋骨隆々で足のサイズは規格外。黒く太い眉に、黒く長い髪を後ろで結い、これまた黒い顎髭を蓄えたその姿は、一見、コーディネーターというよりも誘拐犯に近い。
 イワン曰く、創設時は夫婦住込みで、家事一般を熟しながら子どもたちの面倒を見てコーディネートの仕事を熟してきたが、妻は10年前に病気で亡くなった。
 どの領においても、里親施設のコーディネーターは夫婦住込みがお約束だったため、イワン自身は職を辞する覚悟でいたが、当時のリヤンの家に住む子どもたちが、イワンの仕事を手伝うからイワンを辞めさせないでほしい、と領府宛に嘆願書を認めたのだという。
 
 では、家事は誰がやるのか。イワンだけで全てを賄うには荷が重い。というわけで、家事は子供たちが引き受けることとされ今に至っている。当番制の掃除や食事係がリヤンの家には存在するというわけだ。

 これまでにリヤンの家を退所=卒業した少年たちは、100名を超える。領府からの通達で、30年くらい前に、『リヤンの家』のような里親施設が30カ所ほど創設されたが、段々とその機能を果たさなくなり、今では5カ所くらいがきちんと機能しているのみだ。親がいない少年たちを放っておくと、十中八九、マフィアの下働きとして闇に手を染めてしまうから、お役所では必ず里親施設に放り込みたいのが本音ではあったが、コーディネーターが激減し子供たちの面倒を見る人間がいなくなったこと、また、里親施設を運営する費用もばかにならないのが実情だった。
 

 職員のイワンはリヤンの家創設時から、ここでコーディネーターの業務に就いているが、マリエル、アリエス姉妹のように、迎えに来るからね、と置いて行かれた子どもは、マッチングに向かないのを知っていた。理由は、単純。子どもが親を信じているからだ。
 マリエル、アリエス姉妹が両親のことを思い出せるかどうかはわからない。
 イワンは聞かないことにしている。聞いたとしても、何が出来るわけでもない。マッチングの邪魔になるだけだ。

 双子を一度に引き取ってくれるという里親は少ない。双子のどちらか片方だけ引き取りたい、と言われると、双子は決まって何処かに逃げる。
 里親が諦めたことを知ると、漸く施設に戻ってくるのだった。
 そういった流れで、双子はいつもイワンを困らせている。


 施設の中で一番の情報通、クローム。18歳、高等専門校2年次だ。
 赤茶けた髪とそばかすのある顔。一度見たら忘れられない系統のイケメンと言うべきか。
 身長も180cm弱で均整のとれたしなやかな身体。
 クロームは常に町を飛び回り、色々な情報を掴んでくる。変装も得意分野。赤茶けた髪にかつらを被り、そばかすは化粧品で丁寧に消す。
 マリエル・アリエス姉妹の片方を望む里親に対し、マリエルたちが逃げる場所を用意し、里親が諦めたことを伝えるのもクロームの役目だ。
 クローム自身、13歳の時に農家の息子として引き取られたが、その性格上、農作業に身が入るわけも無く、早々に逃げ出してきた過去を持つ。クロームの両親も離婚し、クローム自身は母親に引き取られたが、離婚直後に母は男と駆け落ちした。父も、離婚直後に女と再婚しており、クロームの行き場は何処にもなかった。そんなわけで、リヤンの家に来たのだった。


 女子のサーシャ。18歳、高等専門校女子2年次。13歳でリヤンの家に入所した。
 155cm弱という小柄な体に、綺麗な蒼い眼と金髪が人目を引く。
 過去には、お金持ちの家で可愛がられ育ったという噂のサーシャ。
 目鼻立ちも良く、人形のように可愛い顔をしていたらしいのだが、あるとき家が火事になり、両親は亡くなったという。
 サーシャだけが生き残るとともに、顔の左半分に火傷の跡が残ってしまい、引き取る親戚もおらず、その後『リヤンの家』に入所した。

 ネリィは、乙女心が分らない朴念仁だ。
「おい、サーシャ。昨夜寝言で、苦しげに何かぼやいてたぞ」
 マリエルの口撃、開始。
「うっさい、ネリィ。サーシャはね、疲れてるの。声かけないで」
 アリエスもマリエルに加勢する。
「そうよ、あんたってば、ほんと、乙女心がわからない脳ミソなんだから」
 サーシャは低い声で、双子姉妹に礼を言う。
「ありがとう。マリエル、アリエス。大丈夫よ、夢を見ただけだから」

 ネリィが、それみたことかと双子姉妹の前でふふん、と鼻を鳴らす。
「ほら、たぶん怖い夢でも見たんだろう?昔の夢でもみたんだろうが」
 双子姉妹は、こめかみに青筋をたてて、ネリィを左右から一発口撃、拳骨をかました。
「黙れ!このスカポンタン!」
 左右の耳上にたんこぶを作るネリィ。
「いってえ。なんだよ、ホントの事いっただけだろうに」
 スライが、真面目な顔でネリィに近づくと、優しげな表情と語り口でを諭す。
「例えネリィがサーシャを心配に思っていても、女子には気を遣ってあげなきゃ」

 ネリィは、反省したのかどうか、サーシャの目の前に陣取り大声を出す。
「ごめんな、サーシャ。俺が悪かった」
 サーシャは声を出さずに右手を振って、許したことをネリィに伝える。
 火事で家が焼け落ちた時、何かがあったのだろう。サーシャは昔の両親や家のこと、火事のことを、一切話さない。
 お金持ちらしく育ちが良かったサーシャは、習い事の類いはとても上手で、ピアノやバイオリン、フルートなど音楽に造詣が深い。
 しかし、里親候補として施設に訪れる人々は、サーシャの顔だけを見て眉を顰める。
 リヤンの家にいる子供たちは、それがとても不満だった。

 最後の一人は、ロッシ。21歳。
 アンデシス国立大学に通う秀才だ。
 20歳になった際、リヤンの家を出るようにとイワンから申し渡されていたが、その約束は反故にしている。大学の学費は奨学金で賄っているが、自分は住むところがないという理由だけで、まだリヤンの家に居続けている変わり種だ。シルバーの髪に黒い瞳、黒縁のメガネは地味以外の何物でもない。
 イワンと同じくらい背が高いが、スライ以上にひょろりとしていて、とてもではないが作業向きの体つきではない。これが、ロッシが今迄リヤンの家を出たことのない理由だと、皆は思っている。

 ネリィは、ロッシが苦手だ。苦手というより、嫌いに近い。
 こんな会話がしょっちゅうあるからだ。
「ロッシ。スライが医学コース受けるんだ。勉強教えてくれよ」
「嫌だね。僕だって独学で医学コースの試験をパスしたんだ。誰かに教わらないと受からないくらいなら、最初から諦めた方がいい」
「ゲス」
「ゲスで結構」
 確かにロッシは医学の方面で学んでいるはずなのだが、スライには冷たい。勉強を見てやるでもなく、声を掛けることすらしない。
 ネリィがそのことを問いただそうとすると、スライは首を振ってネリィを止める。
「ネリィ。ロッシに聞いても良い返事は返ってこないよ。諦めよう」
「まったくのゲス野郎だよ、ロッシは。早く出て行けばいいのに」
 スライとネリィの間では、こんな会話が日常となっている。


「ネリィ!ネリィ!今日こそは逃がさないからねっ」
 マリエルがネリィを探している。1階から4階まで、全速力で探し回る。
 イワンの代わりに家事をこなす子供たちは、当番制で料理を作ったり家の中の掃除をしたりなのだが、ネリィは当番をパスして遊び歩いてばかりいる。
 4階にマリエルが行ってしまうと、クロームが窓に向かって目くばせをした。アパルトモンに入ろうとしていたネリィが気付き、そそくさと道路を渡り、向かい側の建物の陰に身を隠す。

 マリエルは、またもやネリィに逃げられた、と、ぷんぷん怒りながら1階に下りてくる。
「今日はシチューだから!」
 マリエルとアリエスは、連れ立って夕食の買い出しに出た。
 双子姉妹がアパルトモンから遠ざかるのを見届けて、ネリィは向かいの建物から姿を現した。
 またもやクロームが、窓に向かってウィンクする。
 ネリィはそっと、アパルトモンの前に立ったが、リヤンの家の門は頑丈で、ガガガ、と音を鳴らさないと入れない。
 室内にいるクローム目掛けて小石を窓にぶつけるネリィ。コン、コンという音に、気付いたのはスライだった。
 スライが、出窓を開けてネリィを迎え入れる。
「ネリィ、また当番から逃げた。僕も手伝うから、たまには当番やりなよ」
 ネリィは、料理が下手なわけではない。ただ単に、10人分の料理を作るのが面倒なだけだ。
「今度な、スライ。今日は、どうせシチューとサラダだろ?」
「またマリエルに怒られるよ、ネリィ」
 笑いながら、ネリィは自分の部屋に隠れようと歩き出す。
「今日は学校でお菓子貰ったから、腹は減ってないんだ」


 スライは料理の腕も抜群だが、ネリィはいつも逃げてばかり。ネリィの当番の日は、マリエルが仕方なく料理を作る。そういう日は必ずホワイトシチューにサラダと決まっている。そして、ネリィの分だけ少なめに分けるという仕打ちが待ち受けている。

 料理をしないといえば、ロッシも学業が忙しいという理由で当番制から抜けている。帰りが遅い日も多い。
 
 そんなことがありながらも、施設に入所している子供たちは、いつもお互いを思いやり、リスペクトしあいながら生活していた。たぶん、きっと。
ロッシだけが、一人浮いた存在になっているけれど。

 アリエスとマリエルは、サーシャを間に入れて、3人でいつも一緒に居る。誰かがサーシャに対して狼藉を働かぬよう、アリエスとマリエルはナイトのような役割も果たしている。
 高等専門校に入学したころ、男子がサーシャに対し、石を投げて火傷痕を馬鹿にしたことがあった。
「お前の顔、左側だけ変だぞ。気味悪い奴だな」
 途端に、アリエスとマリエルは口撃で相手を懲らしめる。
「黙れ!人に言えた顔か、お前!」
「クローム、よろしく!」
「アイアイサー」
 マリエルから依頼を受けたクロームは、そこらにいる生徒から相手の名前を聞き出す作戦に入る。 

「ほら、スライ!一緒に石投げるの手伝ってよ!こいつ、許さないんだから!」
「待って、アリエス。僕は無理だって」
 投石部隊になりきれないスライは、高等専門校の方角に走り出す。一応、先生に報告するためだ。
 
 数日経った頃、真打ネリィが最後に登場する。
「おや、こないだうちのサーシャに暴言吐いたジョニーとやらは、あんたか」
「なんだ、お前。僕は本当のことをあのブスに言っただけだ」
「ブス、ねえ。あの暴言、いいのかなあ。謝らなくて」
「謝る必要なんてない!」
「あ、そう。なら、力づくで謝ってもらおうか」

 ネリィは漁師にと見込まれた少年だ。身長が170cmと小柄な割に腕っぷしは強く、喧嘩慣れしている。
 相手の脇腹にボディブローをお見舞いし、最後の仕上げに顎へのアッパーカット。顔は真直ぐ相手に向けたまま、ひざを若干曲げ右足に重心を移しながら、同時に体を時計回りに回転させる。
 腕を若干下げて手のひらが上を向いた状態にし、曲げたひざのバネを使って伸び上がると同時に腕を下から上へ突き上げる。この時、腰と右足のつま先も連動させて反時計回りに回転させれば、成功。
「ごめーん。あ、俺が謝っても仕方ないか。砕けてはいないはずだから安心しな」
「痛い、痛いよお」
「サーシャだって、心の中で痛いって叫んでる。今、サーシャに謝るなら許してやる。嫌なら、もう1、2発お見舞いするぞ」
「ごめんなさい。僕が悪かったです。もう、あんなこと言いません」
「分かればよろしい。親に言っても無駄だからな。先生からお前の親にクレーム入れたから」

 素手で打ち込んでも、拳が擦れても、痛みを感じないネリィ。アッパーカットは左でも撃てるという器用な男子。
 殆どの相手は、この一撃で尻尾を巻いて逃げてしまうし、親からクレームが来たところで、サーシャにした暴言、暴行等、狼藉の数々を逆に晒してしまえば、親が恥を掻くという算段だ。
 
 リヤンの家の仲間たちは、ネリィは、喧嘩することを運動と考えているとしか思っていない。ネリィに言わせればもっともっと深い意味があるそうだが、そんな話は誰も信じはしない。

 ジョニーのような一件があるから、サーシャは常日頃朴念仁なネリィを前にしても、怖気づく気配はない。それほどネリィを信頼しているのだと、マリエルやアリエスも解っている。ネリィは、決して、サーシャを見下したりしているわけではない、と。
 リヤンの家に来て、物静かに暮らしているサーシャだが、もしかしたら、此処が一番、サーシャにとって居心地がいい場所なのかもしれない。
 親の居ない者同士、互いの心は知れている。
 かといって、自分たちを己で蔑み、不幸合戦を繰り広げるでもない。皆、明るくその日その日を生きている。
 里親が現れる確率は低いものの、明日はどんな出来事があるか、わからないのだから。

 今日は、月に一度の大掃除。
 またしても、ネリィとロッシは姿を晦ました。
 マリエルの、地の底から響くような声が、リヤンの家に広がる。
「またいないの?ロッシはまだしも、ネリィは?」
 ルツが剽軽な顔をしておどける。
「無理だよ、マリエル。ネリィが何回サボったか、僕知ってる。先月も、先々月もそうだった」
 アリエスも諦め顔でマリエルを宥める。
「そうよ、マリエル。ネリィに期待しちゃいけないわ」

 マリエルは、ぐるりと周囲を見渡し、スライとクロームだけは残っていることを確認し、掃除の準備にと、各々に箒を渡す。
「みてらっしゃい、ネリィ。帰ってきたら、箒で叩きまくってやる」

 その頃ネリィは、グールから20km離れた港町のヨークにいた。
 ヨーク行のトロッコに乗って、今日の夕食にと、新鮮な魚を買いに市場へ来たのである。
 以前里親に引き取られたとき、魚を捌く方法を聞いた。漁師なら、船の上でも釣ったばかりの魚を捌く。ネリィの里親は小さい魚でも釣って捌いた。
 本来、海に返すべきと世界的に決まっている条項を、平気で破る人間に、ネリィは嫌悪感を抱いた。
 そんなこともあって、ネリィは里親の下から逃げ出したのだ。
 今ここで、あの里親に遇っても、向こうは顔も覚えていないだろう。ただ単に重労働を熟す若者が欲しかっただけのゲス野郎だ。

 嫌な記憶が蘇る。今日はのんびりせずに魚を見繕って帰ろうと思った矢先、ネリィは、一瞬、あのゲス野郎を見つけた。
 ネリィは千里眼的な目を持つ。ゲス野郎は、昼間から酒を飲み市場を物色していた。隣には、ネリィと同じくらいの年と思われる少年。さぞや、あんな里親の所へ養子に入りがっかりしていることだろう。少年の目には覇気が感じられなかった。

 ネリィは、ゲス野郎を見たくないとの一心で、帽子で顔を隠しながら、魚を見繕っていく。深海魚は見栄えが悪いから料理するマリエルが嫌がる。ネリィが捌いた後、生でも煮ても美味しく食べられる魚が良い。
 21世紀に食べられていた魚は全滅したが、宇宙ステーションに持ち込まれた魚の遺伝子が魚類の生態系を蘇らせ、地球星府による生態系の保守活動が行われている。
 そういった取り組みから、今は深海魚も含め、様々な魚が市場に並ぶ。

 白身のサイという魚を5匹買って、帰ろうとトロッコの方に向かった時、誰かがネリィを呼びとめた。
「ネリィ?ネリィじゃないか」
 振り返ると、そこにはルルフェが立っていた。
 ルルフェは薬草のバイヤーである。
 深いグリーンの髪に同じ深いグリーンの瞳を持つイケメンバイヤーとして有名なルルフェ。その眼は見る者を引き込んで、目を離さずにはいられない。
 ネリィと同じくらいの身長だが、ネリィよりも筋肉の付きが良いくらい、肉体派の体つきをしている。
 ルルフェがヨークにいるとは思わず、首を傾げたネリィ。
「ルルフェ、こんな雑踏で取引か?」
 笑いながら、ネリィの肩をバンバンと叩くルルフェ。
「まさか。正真正銘、市場に買い出しだよ。いくら僕でも、この雑踏でスリの餌食になりながら取引する気にはなれないね」
 スリが闊歩する市場は、古今東西変わらないものだ。
 ルルフェがネリィの左側により、耳元で囁く。
「なあに、そのうち居なくなるさ。ドラップの奴らがこのシマに上陸した。今後はドラップが取引相手になるかもしれないぞ」
 バイヤーがドラップに従属するということか。
 ドラップとは、西のロールライト領を拠点とする、マフィア組織ルイスゴールの下部組織に当たる。いよいよもって、マフィアのお出ましというわけか。薬草を採って、ある程度のお金を溜めているネリィにとって、この話題は笑えるものではない。ルイスゴール系列の組織がアンデシスに上陸したとなれば、どのような取引形態になるのか想像もつかなかいのが本音だった。
 
 一方で、ネリィはどうしてもお金が欲しかった。
 スライが通うであろう、大学の学費に充てるためである。

第5章  若者たち

 クリムソン自治領。
 北の大地は、まだ、雪に閉ざされていた。クリムソンは、1年の殆どを雪に閉ざされた自治領でもある。雪の結晶から採取される薬物が無かったなら、この領は餓死者が其処彼処に散らばるかもしれない。
 幸いにして、雪の結晶からなる薬物と、スノースポーツの世界大会で各自治領から人々が集まりお金を落していく。
 スポーツ世界大会のために、クリムソンで練習する選手たちも多い。そういった選手に見初められ、クリムソンを出る男性や女性も多いのが実情だ。
 
 
 クリムソン西部にある町、トトノ。
 クリムソンでは、朝起きると、日課が待っている。
 玄関と屋根、そして道路の雪かきだ。

「フェイル、早く早く」
 そういって男子を起こす女子、1名。
 ジェシカ。18歳。
 身長165cm余り。綺麗な茶髪と猫の眼のように変わる茶色の瞳。朝の運動には必ず髪を束ねて現れるジェシカ。
 ダイナマイト・ボディの持ち主にして、雪から出来る薬物の女バイヤー。どの裏組織にも加盟していない一匹狼だ。

 クリムソンは、最南端が漸く雪解けの地であり、それ以外の領地は、雪が大地を覆っている。雪の結晶からなる薬物もそうだが、雪解けの地を生え抜いた薬草はこれまた珍重とされる。
 その薬草を栽培し、ランジュベーヌと売買するのがジェシカの仕事だ。
 薬草栽培のついでに、少しだけ、密売用の合法ドラッグも精製している。そのことを知るのは、幼馴染のフェイルだけ。
 フェイルも同じ18歳。フェイルは、猫のロシアンブルーのように、薄いグレーの髪と青い瞳を持つ。
 180cmを超す身長と、日課の雪かきによる撓った筋肉の持ち主だが、少々猫背気味だ。本人は雪かきで下ばかり向いているからだと主張するが、その真偽は定かではない。

 ジェシカも、2歳くらいの時に両親を事故で失った。
 事故で失ったのかどうかさえ、記憶が定かではない。
 当時のことは、全く覚えていない。
 記憶に残るフェイルだけは、何とか視認できたから、フェイルの言うことだけを信じている。
 ジェシカは、両親を亡くしてからずっと、フェイルの自宅に厄介になっていた。
 フェイルの母は、とてもいい人だが、ジェシカに花嫁修業をさせて嫁にだし、早くフェイルの嫁を見つけたいらしい。
 常々ジェシカの薬草売買などという危険な行動を注意しているのだが、あまつさえ反省の色もなく、フェイルを仲間に引き込むのでは、と心配しているフェイルの母。

 玄関先の雪かきをしながら、ジェシカがフェイルに向かって叫ぶ。
「ここと道路が終わったら、あたし出掛ける。屋根はお願い、フェイル」
 溜息を吐きながら、頷くフェイル。
「いいけど・・・またかよ。あの場所にいくんだろ。危ないから気を付けろよ」
 あの場所とは、ジェシカが合法ドラッグを精製している山小屋だ。
「ごめん。でもね、今回のやつは高く売れそうなの。稼ぐだけ稼がないと」

 フェイルは、雪かきで紅潮した顔に加え、少し頬を赤らめながらジェシカに問う。
「どうしてそんなにお金に拘るのさ。ずっとここにいればいいじゃないか」
 ジェシカはフェイルの方を見向きもせず、スコップを足で蹴っては雪を入れ、道路と歩道の間にある溝に落としていく作業に没頭する。
「おばさまに、見合いしろしろって口酸っぱくいわれるもの。早く自分で生活できるだけのお金を溜めないと」
 あはは、とジェシカは大口を開けて笑う。
 フェイルは、ジェシカがクリムソンから出ていくのでは、と気が気でない。
「お金溜まったら、何処かに行くのか?」

 ジェシカが、作業を止めてキョロキョロと周りを見渡す。誰もいないのを確かめてからフェイルの前に立ちはだかった。
「ランジュベーヌに行きたいの」
 その言葉に驚いたフェイルも作業の手を休めた。
「無理だよ。大学出てないと南には行けないぞ」
「だから、行ける方法探してるのよ」
「どうしてランジュベーヌに拘る。北国の暮らしが嫌なのは解るとして、アンデシスでもロールライトでもエクリュースでもいいだろう。ランジュベーヌ以外なら行き来は難しくないんだから」
「まあね。フェイルは、ここで暮したい?」
「わからない。父さんはアンデシスの工場に出稼ぎにいってるし。僕もそっちに出てもいいかな、って思う」
「アンデシスか。あそこもスパイが多いことで有名よね」
「おいおい。女スパイにでもなる気じゃないだろうな。よしてくれよ、ジェシカ」
 ジェシカが、今度は小声ですくすくと笑いながら、向かい合っているフェイルの左耳を掴んだ。そして左耳元で囁く。
「あたしの正体知ってるのは、フェイル、あんただけだもの。黙っていてちょうだいね」
「ダメダメ。スパイだけは許さない。母さんに告げ口してやる」

 ジェシカが、諦めたように首を振りながら、立てたスコップに凭れ掛かった。
「ちぇっ、ダメかあ。それよかさ、来週、アイススケートの世界大会あるじゃない。二人で見に行かない?」
「いいよ。時間あるし」
「じゃ、約束よ」


◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇


 ロールライト自治領の領府、マドラス。華やかなりし、商業の街。
 港には、領外から荷を積んだ船がひっきりなしに行き交う。

 簡単な許可を得れば、ランジュベーヌに出入りできる自治領として、弥が上にも、ロールライト領には多種多様な人々が集まってくる。
 ある者は善き商人として、ある者は野心を抱いた悪しき者として。それらすべてが、ランジュベーヌを目指す。
 
 賑やかな街のひとつ、ポルスカ。
 ここには、世界でも名の知れたマフィア組織、ルイスゴールが拠点を置いている。
 全世界条約で禁止されているマフィア組織だが、商業地においては喧嘩の火種を消す役割を担っており、ロールライト自治領では、ルイスゴールの台頭に目を瞑っているのが実情だ。

 ポルスカで薬草のバイヤー兼、ランジュベーヌへの違法出入領書類を作成する仕事をしているリーマスとヒジェ。
 ヒジェは21歳、アンデシスにある『リヤンの家』の卒業生だ。
『リヤンの家』時代、ヒジェは、イワン同様のその体格に物言わせ、あまりにやんちゃな行動をとるため、とうとう里親は現れなかった。荷役に駆り出されるくらいなら、自分一人で生きてやる、と豪語したヒジェ。20歳まで『リヤンの家』にいたが、追い出された格好で今に至る。
 イワンと似た体格もさることながら、黒く太い眉と顎髭はイワンに通じるものがある。イワンと違うのは、ヒジェの髪は短髪だということくらい。
 リヤンの家ではイワンと喧嘩ばかりしていたが、それでも、ヒジェは『リヤンの家』に感謝していた。
 なんといっても、日々、きちんと3食、食うことができる。今では、仕事が日照りになり金が無くなると、日に1度の飯になることもあるくらいだ。
 幸い、ロールライトでは、ルイスゴールにさえ目を付けられなければ、薬草の売り捌きも、他の自治領より遥かに手間が掛からない。

 そんなヒジェは今、ロールライト出身のリーマスと、つるんで行動している。
 リーマスは、とても賢い。
 綺麗なシルバーの長髪を束ね、濃いグレーの瞳は未来をも見透かすようにキラリと光る。
 身長こそヒジェと同じくらいあるが、筋肉の塊は身体の何処にもない。
 リーマスは24歳。
 ランジュベーヌの大学を卒業したはずだが、定職にはついていない。
「僕のアイデンティティーは、ランジュベーヌの領府と相性が悪くてね」
 意味の解らないことを口にするリーマス。
「要は、就職できなかった、ってことだろ」
「今の仕事が楽しいだけさ」
「金がなけりゃ、飯も食えねえだろうが」
「それもまた、僕のアイデンティティーを刺激する。定まりの多い世の中では、僕はアイデンティティークライシスなるものに陥ってしまうのだよ」
「アイデ、なんだ、そりゃ」
「自己の喪失」
「俺には難しすぎてわからん」

 リーマスが、右側の口端をあげてニヤリと笑う。
「さあて。次の取引をどうするか、考えないと」
 ヒジェは、眉間に皺を寄せながらリーマスの肩を突く。
「取引も大事だけど、俺は腹が減った。何かないか」
「僕の家に居候した挙句、食物を全部食べたのは、ヒジェ、キミだぜ」

 
◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇


 時を同じくして、こちらエクリュース自治領。
 
 旅行の準備をする一人の女性がいた。
 『リヤンの家』で育ったオードリー、24歳。
 
 何故荷物を纏めているかと言えば、エクリュースにある老舗ホテル、ホテル・ラマンのホテルマン、ルミクスと結婚することが決まり、イワンに報告に行く所だった。オードリーは、ホテル・ラマン専属の看護師として働いている。
 身長が160cm弱、薄い赤毛に茶の瞳を持つオードリーだが、看護師として働くようになってから筋肉が付き出したのが目下の悩みだ。見た目は変わらないのに、体重計の針だけが、みるみると変わっていく。
 困った顔をするオードリーをいつもからかっていたルミクス。好きな女をからかう少年のような仕草。いつしかオードリーもルミクスを男性として意識し、このたび結婚を決めたのだった。
 ルミクスは薄い茶髪に薄い茶の瞳。ホテルマンらしく短髪にしている。180cm余りでしなやかな体つきだが、顧客の要望により荷を持ったりするので、制服の下は、傍から見るよりも筋肉がついている。
 顧客がホテルを出ると、凝り固まった筋肉をオードリーに解してもらうのが心地よくて、ルミクスはホテルから顧客がいなくなる日を楽しみにしている。

 本来、ホテルマンは長い休みを取れないものだが、結婚の報告という節目もあって、オードリーとルミクスは同時に休みをもらうことができた。
 大きく重い白樺素材のスーツケースを3つ、目の前にしたオードリーは、後ろを振り返る。
「ルミクス、準備できた?」
 そこには、同じく大きな欅素材のスーツケースを手にしたルミクスがいた。
「僕はできたよ。キミの荷物がいくつになるのか、それだけが心配さ」
 オードリーの頬が膨らむ。
「あら、随分な言い方じゃない。これでも減らしてるのよ」
 3つのスーツケースを指さすルミクス。
「看護師道具やらリヤンの家に持って行くお土産やら。自分自身の荷造りはこれからなんだろう」
 つぶさにルミクスを見た後、右人差し指を顎に付け、困った顔をするオードリー。
「そうよ、看護師道具は外せないわ。あとは、今いる子たちに洋服も持って行きたいし。自分の分がスーツケースに入りきらないの。どうしよう」
 ルミクスは、あはは、と大きな声で笑う。
「僕が一番丈夫で大きな欅素材のスーツケースを持ちだしてきた理由がわかるかい。キミの洋服を入れる為さ」
 途端に、困った顔はどこへやら。
 オードリーはルミクスに抱き着き、その口元にキスをする。走ってしまったために、スーツケースのひとつが床に倒れた。
「ありがとう、ルミクス。貴方ってば、本当に頼りになるわ」
 ルミクスも、走ってきたオードリーを両腕で受け止めながら、もう一度笑う。
「なんのこれしき。いつもお客様の荷造りを手伝っているからね」

 スーツケースが4つとあっては、安価なトロッコやイージニスに乗ることができない。ワンランク上で値段も張るオデッセの予約も間に合わず、ホテルで所有するオデッセを急遽借用することと相成った。
 顧客が急に現れたら、オデッセともども即座に戻ることが条件である。


◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇


 アンデシス領、グール。
 ノア大陸のアンデシスとランジュベーヌ、ロールライトには四季があった。
 秋は駆け足でグールの街から遠ざかっていく。
 冬は、高校や大学の入学試験が行われる。
 梅春は、高等専門校卒業の季節でもあり、就職の季節でもある。
『リヤンの家』では、スライとネリィ、マリエルとアリエスが高等専門校卒業の時期を迎えつつあった。
 ところが、事件が勃発した。
 ネリィがまさかの留年組と相成ったので/ある。
 専門校で取るべき単位を2つ落としてしまい、このまま辞めるか、春から始まる授業で単位を埋め合わせるかの2択を迫られた。
 ネリィは学校を辞めてもよかったが、クロームが同じ学年になるということで、心機一転、留年からの卒業を目指すことになった。
 
 スライは、アンデシス大学に入学を許された。

 領府から奨学金を貸与されることとなったことで、当面の資金繰りは問題ないと皆が胸を撫で下ろした。
『リヤンの家』を退所したとしても、生活に与えるダメージは少ないはず、と思っていたスライだったが、3年間の医学コースに係る授業料と生活費は、奨学金だけでは賄いきれない。
 まして、20歳になり『リヤンの家』をも退所しアパルトモン生活を始めるとなれば、食費や光熱費、家賃も掛かる。

 今迄、自分は恵まれていたのだと気付いたスライ。ベッドルームから出てきたネリィに告げた。
「大学に入っても、学費やら生活費やらで、続けていけるか心配だよ」
 ネリィは、弱腰になっているスライの肩をポンポンと叩いて、ニヤリと笑う。
「大丈夫さ。俺は2つだけ単位を取れば、は自由だ。アルバイトする時間が増えるから、学費程度なら稼げるさ。奨学金は銀行に預けるといい」
「危ない仕事はしないでくれよ」
「お前に心配かけないようにするさ」
 そこに、外出していたクロームが戻ってきた。
「スライ、大学合格、おめでとう。今度皆で合格祝いをしようって話してたんだ」
 スライは顔を赤らめる。
「僕のことで皆に迷惑が掛かるのじゃないかと思うと、少し憂鬱になる」
 クロームは、笑いながらスライにジャブをかます。
「ネリィが大丈夫、っていっただろう。心配するなよ」

 ネリィが思い出したように、トントンとスライの肩を叩く。
「アリエスとマリエルは、何処かの就職試験、受けたのか?それとも、工場で働くのか?」
 スライは事前に、マリエルから進路を聞いていたらしい。
「二人とも、エクリュースのホテル・ラマンで働くそうだよ」
 クロームが肩を竦めて、驚くような仕草を見せる。
「へえ、すごいじゃないか。あのホテルは、エクリュースでも有名な老舗ホテルだ」
「こないだオードリーが来た時に頼みこんでた。履歴証明も渡していたし」
 ネリィは、本気で驚いている。
「まずもって、フロントはダメだな。マリエルは怒りっぽい。下働きなら丁度似合ってるだろうけど」

 そのとき、ネリィの後ろから、また、地獄の底から這い上がるような声が聞こえる。
「誰が怒りっぽいですって?」
 ネリィは、くるりと向き直り、首を傾げる。
「誰も言ってないぜ、マリエル。二人がホテル勤めだと聞いたから、周囲は間違えるだろうな、って言っただけさ」
 マリエルの後ろからアリエスが姿を見せた。マリエルはネリィを指差し、説教モードに入る。
「まさか。あんたたちだって直ぐに覚えたんですもの。向こうに行っても直ぐに覚えてもらえるわ。ね、アリエス」

 アリエスとマリエルは、ネリィの心配をよそに、オードリーやルミクスの口利きで、エクリュースにあるホテル・ラマンのフロント係として勤めることが本決まりになった。

 双子の気がかりは、サーシャである。クロームとネリィがリヤンの家に残るとはいえ、果たして今までどおりサーシャを守ってくれるかどうか、それが気がかりでならない。
 サーシャのベッドルームを訪ねるマリエルとアリエス。
「サーシャ、大丈夫?」
「大丈夫。先生に申し出て、スカーフで顔を隠せばいいし」
「何かあったら、すぐに連絡してね」
「ありがとう」
「ネリィやクロームじゃ心配だけど、いないよりはマシだわ」

 梅春の間に、マリエルとアリエスはエクリュースのアパルトモンに引っ越し、フロント嬢としての研修を受けていた。
 困ったのは、ホテルの関係者。
 二人があまりに似ていたために、ホテルのオーナー、仲間の従業員や客までもが混乱してしまうのである。
 ちょっとした違いで見分ける方法があるといっても、誰も聞く耳を持たない。客などは一瞬でしか彼女らを見ないのだから。

 仕方なく、マリエルは度無しのメガネをかける必要性に迫られた。
 マリエルは、オードリーに愚痴をこぼしている。
「ねえ、オードリー。あなたなら私とアリエスの見分けがつくでしょう。みんな見分けがつかないって。このメガネ、重くて頭が痛くなる」
 オードリーがマリエルのメガネを持って、自分でもかけてみる。
「細いとはいえ、木材を削って作られたメガネですものね。これにレンズがはめ込まれたら、もっと重いわ」
「どうしよう。頭が痛いままでは、仕事にもなりゃしない」
「その時は頭痛薬をあげるから、ナースステーションにいらっしゃいな」
「わかった」
「お化粧して、左側の目尻にでもホクロ描いてみたら?そうすれば解り易いと思うけど」
「その手もあるわね、アリエスに相談してみる」

 マリエルは、フロントにいるはずのアリエスのところに駈けていった。
 客がロビーにいないのを見計らい、オードリーは、ささっとロビーに立っているルミクスに近づいた。
「どうしたものかしら。二人を離してしまえば済むことなのだけれど、オーナーがそうしないの」
 ルミクスも溜息を吐く。
「さて、オーナーの考えは、僕らには計りようも無い」
「あ、お客様が。私、行くわね」
「ああ、またあとで」
 
 こちら、フロントのマリエルとアリエス。お客がいないのをいいことに、前を向きながら二人で会話している。同じ声が独り言をいっているかように、ロビーに響く。
「ねえ、アリエス。さっきオードリーからアドバイスされたの。お化粧して左側の目尻にでもホクロを描けば、って」
「それはいい考えね、マリエル。明日から、そうしましょう。あなたが顔に黒子を描けば解り易くていいじゃない」
「あーあ。結局、私が変わらないと駄目ってことなのね、アリエス。あなたと私は、目の落ち具合と耳の付け根付近が違うのに」
「みんな、どうして気が付かないのかしら。リヤンの家で間違われたことは無かったのに。ねえ、マリエル」
 
 アリエスとマリエルを比べると、アリエスの方が少しだけ垂れ目だ。また、マリエルの右側の耳輪付け根付近には、針でつついたような穴がある。生まれながらにして穴があったらしい。
 不思議なことに、リヤンの家では誰一人として双子を見分け間違いしたことが無かった。
 見分けやすいように、耳輪付け根付近の穴がある側の髪を耳に掛けて、木製の可愛らしいピンで留めていたせいもあるが。
 ホテルのフロントとして職務を遂行するにあたっては、一切の装飾品を身に付けないように、とのお達しがあり、髪を結ったとしてもピンは身に付けられない。耳を凝視しない限り、つついたような穴を見つけるのは難しいだろう。

 そんな矢先のこと。
「これは、これは、ポージュ様」
 ホテルのオーナーが直々に出迎える顧客がいた。
 余程の常連客であり、VIPなのだろう。車寄せに自家用車が見えた。
 マリエルは緊張し、耳をピクリと動かした。アリエスはそれを見て、自分も耳を動かしてみるが動かない。ここにも違いがあるじゃない、とのんびり構えるアリエス。
 こうみると、アリエスの方が太っ腹なのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
 双子の寸分違わぬ声がロビーに響く。
 オーナーが双子に向かって早口で話す。
「ポージュ様だ。いつも最上階の南側にお泊りになる。ポージュ様、このたびはいかほどのご予定で」
 ポージュと呼ばれたグレーの髪に少し白い筋が入った初老とみられる男性が、オーナーの言葉に反応する。
「娘のイサラが療養する。1ケ月ほど頼みたい」
「かしこまりました。キミ、1ケ月間、南の306号室をお取りして」

 1ケ月もホテルに泊まれるなど、よほどの金持ちだなと思いつつ、マリエルが宿泊名簿を取り出し、アリエスは鍵を探す。
 二人の顔を見たナイスミドルは驚いたように呟いた。
「これは、これは。コケティッシュなお嬢さんたちだ。イサラと同じ年ぐらいかな」
「先ごろ入社しましたニューフェイスです。お前たち、ポージュ様にご挨拶を」

 二人で示し合わせたように頭を下げ、マリエルが先に口を開く。
「マリエルと申します。19になります」
 次に、アリエスがにっこりと笑いながらポージュを見た。
「妹のアリエスと申します。姉共々お見知りおきを」
 満足したように微笑むナイスミドル。
「イサラよりも一つ上だね。どうだい、此処にいる間、イサラの世話をしてはくれないか。イサラは病弱で外に出たことがないから友達ができにくくてね」
 そういうと、オーナーを見た。
「オーナー。折角フロントに慣れて来る頃で済まないが、1ケ月だけこの二人を世話係にお願いできないだろうか」
「ポージュ様の御意向とあれば、何なりとお申し付けください。おい、二人とも、これからお嬢様にお仕えしなさい。わかったね」

 オーナーに言われては仕方がない。
 マリエルもアリエスも、イサラという娘を見たわけではなかったので世話係という言葉に違和感を抱いたのが本音だったが、ここで顔色を変えてはいけない。
「畏まりました」
 シンクロした言葉がロビーに響く中、主役が登場してきたのがわかる。
 ホテル玄関の車寄せに到着した2台目の自家用車から、若い女性がルミクスに抱っこされて車椅子に移っているのが見えた。
 ところが、双子はびっくりした。
 若い女性は、何やらルミクスに怒っていたようなのだが、次の瞬間、ルミクスに向かい唾を吐き捨てたのである。それを見た周囲の者が凍り付いたのは言うまでもない。

 ルミクスは、客に失礼なことをするようなヘボなホテルマンではないはず。
 何が気に入らなかったのか知らないが、常連であればあるほど、何をしてもいいとは限らないではないか。

 車椅子をルミクスに押させてフロントに近づいてきた娘に、父が問うた。
「イサラ、機嫌が悪いね」
「お父様。ルミクスを首にして。だって、他の女と結婚するっていうじゃない」

 マリエルはその言葉を聞いて拳骨を準備し始めた。アリエスが止める。そんな二人に背を向け、ポージュは膝を折ってイサラという娘の額にキスする。
「喜んであげないと。ルミクス、結婚おめでとう。幸せなお相手はどなたなのかな」
「ありがとうございます。専属看護師のオードリーと結婚します」
 イサラがヒステリックな声を上げる。
「いやだ、施設出身の?どこの馬の骨か分らない女よ、やめればいいのに」
 流石にポージュも困った声を出した。
「イサラ。そういうことを言うものじゃない。人と人の縁(えにし)は、我々が勝手に作れるものではないのだから」
「だってお父様。目を掛けてやっていたからこそ頭に来るの。オーナー、このひと月、オードリーは担当から外してくれる?顔も見たくないわ」

 波乱に満ちそうな今回の療養。その展開と構成にオーナーはついていけない。
「は、はい、畏まりました。イサラ様の専属看護師はオードリー以外の者をお付けいたします。先程、ポージュ様からお話のあった、お世話係は如何いたしましょう」
「世話係?誰?」
 ポージュが双子に手招きした。
「二人とも、こちらに来てくれないか。イサラ、彼女たちと仲良くするといい」
 オーナーが双子を急かす。
「お前たち、ほら、出てきなさい。イサラ様にご挨拶して」
 マリエルは、この1ケ月が地獄に変わるのではないかと懸念していた。アリエスを見る。アリエスはポーカーフェイスに見えるが、内心はショックを隠せないといった表情である。
 マリエルが代表して挨拶した。
「マリエルとアリエスです。どうぞよろしくお願いします」
「双子?あたしと同年代くらいなのに仕事してるなんて貧乏なのね。でも、お恵みは期待しないでね」

 マリエルは反射的に俯いた。直視すれば手をあげそうだったのだ。
 代わりにアリエスが答えた。
「お困りのことなどあれば、わたくしどもにお申し付けくださいませ」
 
 こんな我儘娘。先程のルミクスへの仕打ちとオードリーへの非礼、絶対に許さない。マリエルは、そう思うと自然と笑顔が消えていく。
 そんなマリエルを、ルミクスが目で応援するのがわかった。マリエルは、精一杯の作り笑いを口元に浮かべた。
 
 ポージュはイサラの部屋には入らず、ロビーでイサラを見送るらしい。親子のくせして部屋にもいかんのかい、とマリエルは内心訝った。
 どこかの金持ちが、娘に金と物だけをふんだんに与えた結果がこれか。
 マリエルは、自分は結構沸騰しやすい性格なのだと、今あらためて認識した。

 アリエスの方が、冷静沈着なのかもしれない。
 今迄、こんなに我儘な人間が周囲にいなかったからかもしれない。
 仕事なのだから、表面的な仮面を被ればいいだけのことかもしれない。

 ああ。ばからしい。

 マリエルは、あとひと月が自分にとって長く長く感じることだろうと思うと、深く長い溜息を吐きたくなる。手洗いに行くふりをして、背伸びをしながらルミクスの目くばせを思い出す。
 そうだ、仕事だと割り切って過ごすのだ。自分はホテルの使用人なのだから。


◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇


 アンデシス領、グール。
 春、スライは晴れてアンデシス大学の学生となった。医学コースに在籍し、3年間の勉強に励めばランジュベーヌでの就職も夢ではない。医学関係に就職さえ叶えば、ネリィやクローム、サーシャの面倒を見るくらいの給料が出るはずだ。ルツだってリヤンの家から引き取ることが可能だろう。
 3年間の学費や生活費を、奨学金で賄いきれればの話だが。
 イワンに頼んで、皆とリヤンの家にあと3年置いてもらうことが出来ないだろうかと本気で考えるスライ。

 最初は心配ばかりだったが、いざ授業が始まってみると、スライには学ぶべきことが山積みだった。最低限の医学知識、医師としての在り方、医学研究の最前線。

 そんな中、スライは興味深い授業を受けた。
 21世紀のゴールデン・ブラッドの研究である。
 世界人口の0.01%未満。
 今なら一桁もいないはずだが、実際にそんな血があるのだとしたら、何がしかの方法で血だけを培養出来ないかとスライは考えた。
 スライは、3年間の勉強後、大学を卒業したら、ランジュベーヌに渡り医学研究者としてゴールデン・ブラッドの研究をしてみたいと思うようになった。スライの耳に入ったように、ゴールデン・ブラッドの事は、もう公然の秘密と化していた。研究者たちがいくら口を割らなくても、昔の資料を読んでパーセンテージを求めれば、自ずと数字は出てくる。
 かつての宇宙ステーションに、ゴールデン・ブラッドの持ち主が集められたという、実しやかな噂まで立っていた。

 しかし、医学研究だけでは給料も安い。
 夢を見たり、現実に引き戻されたりと、その日によって進路の方向性が変わるスライ。
 スライは目の前のことで精一杯だったから気付いていなかったが、不思議なことに、ロッシを大学で見かけることは一度も無かった。

 スライ自身、勉強に忙しくリヤンの家に帰れない日もあったが、サーシャが食事当番を代わってくれた。掃除は、ネリィやクロームが代わってくれている。スライは、自身が恵まれた環境にいることをこの上なく喜び、医学の勉強に邁進していた。

 そんなある日のこと。
 スライは3日間徹夜したため体調を崩し、リヤンの家に戻り自分のベッドに伏せっていた。
 ネリィが氷を割って氷嚢を拵え、スライの額に当てる。
「そんなに根を詰めないといけないのか、医学コースは」
 熱が出ているのだろう、赤い顔をしながら、枯れた声でスライが答える。
「内緒の話、聞いてくれるかい」
 ネリィは顎を親指と人差し指で支え、スライの近くに顔を寄せる。
「なんだ、内緒って」
「この世界には、マルチな血液型があるんだそうだ」
「マルチ?」
「ネリィはO型だろう?一般にはA,B、AB型に輸血できると思ってる人が多いよね」
「そうだな」
「でも、違うんだ」
「何が違う」
「同じA型でも、プラスとかマイナスとかあって、中にはすごく珍しい血液型もあるんだ」

 スライはうわごとのように語り続ける。
「うん。これは噂の域を出ないんだけど、誰にでも合う血液型があって、誰にでも輸血可能みたい」
「でも、そんな話は薬草バイヤーからも聞いたこと無いぞ」
「世界人口の0.01%未満しかいないって。この世界でそういった血液型の人間を探すのは難しい、ってことが判るよね」
「なるほどな。万が一そういう血液型の人間がいたら、争いが勃発、ってやつだな」
「そうだね。僕、争い事は御免だけど、その血を培養できないか研究してみたい」
「医学コースの卒業論文に書けるのか」
「わからない。21世紀の研究結果だし。ただ、宇宙ステーションにそういった血液型の人たちが集められた、って噂が実しやかに流れてるくらいだ」
「へえ。そういう人の護衛でもすれば金になりそうだな」
「でも、争いごとに巻き込まれかねないよ。お願いだ、危ないことはしないで」
 ネリィがスライの額を触って、熱の具合を見る。
「まだ平熱まで戻ってないから、今日はこのまま寝てろ。無理するな」
「うん、ありがとう」

 ネリィはスライのベッドを離れると、クロームが高等専門校から帰ってくるのを待った。クロームはサーシャの護衛を務めている。

 クロームを待つ間、ネリィの口元は緩み、思わず笑みが零れそうになっている。ネリィにしては珍しく独り言が口を衝いて出た。
「面白そうな展開だ。マルチな血、か」

第6章  ニアミス

 イサラがエクリュースのホテル・ラマンで療養生活を送ってから1ケ月が過ぎようとしていた。
 マリエルもアリエスも、気を遣い過ぎてPTSDでも引き起こしそうなくらいだ。ここまで理不尽な人間を見たことが無い!とマリエルはオードリーに泣きつく。
 友を作れると父親のポージュは本気で考えていたのか、単に娘の身の回りを世話する下女が欲しかったのか、それはわからない。
 地獄の1ケ月、双子が関わらないといえば、下の世話とベッドから車椅子に移るとき、車椅子からベッドに移るときに介護職員の手を借りるだけ。

 食べたいものを朝昼晩と三食尋ねて厨房に報告、厨房で用意できない食材の場合、306号室に逆戻りして調整し直す作業が朝の日課となった。
 昼食や夕餉に至っては、直前にコールを鳴らされて料理を変更するなど日常茶飯事。
 
 1日1回の散歩も、朝が良いという割に、早めに起こすと怒鳴られる。遅く起こせば、美容に悪いと、これまた雷を喰らう。

 それよりなにより、毎日のようにオードリーがリヤンの家=里親施設出身だということを会う者会う者に触れ込んで回る性格の悪さ。
 察するに、余程ルミクスのことを気に入っていたに違いない。気に入っていた男性が結婚すると聞き、相手の女性を否定する。典型的な我儘女のやることだ、とマリエルは心中穏やかでない。

 オードリーは、前回まで、毎回イサラの専任看護師を務めたという。よくぞ毎回1ケ月間持ちこたえるものだと、マリエルは尊敬の眼差しをオードリーに向けるのだった。
「オードリー。どうしたら貴女のように平静でいられるの?」
「大切なお客様ですもの。皆に平等。これが私のモットーかな」
「あたしは、イサラが我儘娘だと思うから疲れるのかしら」
「そうね、マリエル。お客様はコワレモノ注意。丁寧に扱えば割れたりしないわよ」
「オードリーはラマンに就職して4年?流石のベテランだわね」
「イサラはお母さんがいないの。だからポージュ様はイサラに余計優しいのかもね。わかってあげて」
「あら、あたしたちだって母親はいないけど、あんな我儘に育ってないわ。昨日なんて何て言われたと思う?出身は何処か聞かれたの。アンデシスです、って返した時のあの目。あれは絶対軽蔑するような目だったわ。アンデシスは里親施設が多いから」
「そういえば、昔から里親施設の出身者は目の敵にされていたみたい」
「どうしてかしら。点と点が繋がらないわよね」
「わからない。わからないことを考えても疲れるだけ。さ、忘れて業務に戻りましょう」

 オードリーに押されながら休憩部屋を出るマリエル。普段ならアリエスと交代の時間だが、今日はポージュが来る約束の日、らしい。
 イサラは、父親の前でお洒落をしたいという。ドレスを何着も持ち込み、これでもない、あれでもないと大騒ぎしている。
「あんたたちはドレスに触らないで。メリッサ、ドレスをちょうだい」
 オードリーの代わりにイサラの専属看護を仰せつかったメリッサにしか、大事な物は触らせない。
 何とも性格の悪い考え方や行動に苛立ちを覚えつつ、マリエルは部屋を出てロビーに向かった。
 
 ロビーには、ネリィとクロームが訪ねてきていた。
「やあ、マリエル。久しぶりだな」
「あらネリィ、違った。いらっしゃいませ」
「仕事をすると変わるもんだな、マリエル」
「お客様、どういったご用向きでいらっしゃいますか」
 そういって、洗面所の方にネリィとクロームを追いやるマリエル。
「まあ、怒るなって」
「何よ、今、あんた達の相手してる暇ないんだけど」
 ネリィもわかったというように頷き、小さな声になる。
「そうだな、忙しそうだから手短にいこう。ゴールデン・ブラッドという言葉を聞いたら、直ぐに連絡してくれないか」
「ゴールデン・ブラッド?何それ」
「おいおい、大きな声を出さないでくれよ。マリエルは初耳だろうな。スライの研究対象だ。噂を聞いたら、俺かクロームに連絡してくれ」
「大学の研究ね、分ったわ。ネリィ、あんたじゃなくて、スライに連絡しなくてもいいの?」
「いや、俺にくれ」

 益々不可思議な態度を取るネリィに、マリエルの直球が飛んでくる。
「不信だこと。スライには心配かけたくない、って、まさかバイヤーの危険ルートじゃないでしょうね」
 ネリィはへらへら笑いながらマリエルを見た。
「まさか。危ない橋は渡らないさ」
「そう?ならいいけど」
「噂も入るかどうかさえわからないしな」
「直訳で金色の血、ですものね。余程珍しいんでしょう。オードリーとか他の看護師にも聞いてみるわ」
「余り噂を広めないでくれ」
「どうして?」
「いや、スライの研究対象だからさ」
「やっぱり危ないルートなんだ」
 マリエルが口元をへの字にして困った顔をする。いや、少々怒っているようにも見える。
「危ない橋は渡らないでよ、皆心配するから」
 飄々とした表情のネリィ。
「大丈夫さ。今回だけはクロームの情報網をしても引っ掛からなかったからな」
「兎に角、その言葉を聞いたら、あんたたちに連絡すればいいのね、わかった」

 連絡は、太陽光仕様の携帯電話で行うことになろう。
 ホテル・ラマンは、アンデシスのリヤンの家から一番の近道で60km。海沿いをトロッコだけですれば80kmの距離になるが、二人のことだ、トロッコに揺られながらのんびりと此処に来たのだろう。
 危ないことはしないでほしいと思いつつ、ゴールデン・ブラッドという言葉は、マリエルの脳裏に深く刻まれることとなる。こうして、ホテル・ラマンに属するマリエルたちとゴールデン・ブラッドの橋渡しが始まった。
「じゃ、頼んだぞ」
 掠れそうな低い声で言い残し、ネリィとクロームは、そのまま裏玄関に消えた。これからアンデシス、リヤンの家に戻るのであろう。

 ロビーでは、ちょっとした喧噪が幕を開けていた。
 どうやら、イサラを迎えに来たポージュがホテルに到着したらしい。
「お父様!」
 イサラの甲高い声がロビーに響く。
「やあ、私の天使。今回はどうだったかな」
「寂しかったわ。世話係も施設出身の卑しい身分だったし、散々よ」
 アリエスがイサラの車椅子を押していたのだが、どうして自分が卑しい身分呼ばわりされなければいけないのか、どうしてアリエスは怒らないのか、マリエルは不思議でならない。 
 マリエルが車椅子を押していたなら、即刻止めてしまうと思う。親に捨てられた過去があるとはいえ、この身を卑下される謂れはないのだから。
 
 車椅子を押す役割を終えた片割れを、マリエルが目力だけで呼ぶ。
「アリエス、アリエス」
 アリエスがマリエルの方に近づいて行った。
 ポージュとイサラが話しているのを横目に、マリエルはアリエスにだけ、小声で先程のネリィからの伝言を耳打ちする。
「ネリィとクロームがね。ゴールデン・ブラッドという言葉を聞いたら連絡くれって」
 アリエスは、驚いたようにマリエルを見る。
「ネリィとクローム?わざわざ此処まで来たの?」
「しっ、アリエス」

「ネリィ?クローム?」
 イサラのブーイングを聞いているはずのポージュが双子の方に向き直ると、顔色を変えた。それは狼狽したようにも見えたし、ターゲットを逃がしたかのような忸怩たる思いにも見て取れた。
 イサラには顔を向けなかった瞬時のことで、その表情を垣間見たものは誰もいなかった。
マリエルとアリエスの二人を除いては。
 
 顔色を変えたのには、何かしら理由があるに違いないと思うマリエルとアリエスの二人だったが、ポージュが口を開こうとしない今、周囲にその理由を問うわけにはいかない。
 イサラが苛立った様子でポージュを呼ぶ。
 ポージュは、漸く狼狽した表情からいつもの顔に戻り、イサラの方に向き直った。
「お父様、またあの人の話?もう諦めてちょうだい」
「あ、ああ。済まなかった、イサラ。そうだね、あれからもう15年以上経つ」
「そうよ、お父様を捨てて逃げた人なんて忘れて。あの人だってもう生きてるかどうかわからないじゃない」
「そうかな」
「お父様があんなに一生懸命探してもわからなかったのよ。生きてる確率なんて本当に微々たるものだわ」
「イサラは、そう思うかい」
「そうよ、生きていたとしても、どうせあの人は新しい生活を始めていると思うわ。どんな暮らしかは知らないけど」
「そうだね、幸せに暮らしていればいいが」
「どちらでも構わないわ。お父様には私だけいればいいの。ね、そうでしょう」
「イサラ。お前にとっても大事な人じゃないか。そんな風に言わないでおくれ」

 驚いたのはマリエルとアリエスである。
 ネリィとクロームと聞いて狼狽した父を、我儘娘イサラは、さらに追い打ちをかけて凹ませている。
 そして、イサラの話を纏めてみるとするならば、ネリィかクロームのどちらかが、ポージュの追い求めている『あの人』ということになる。
 いや、追い求めているのは母親の方か。
 確か二人とも、母親に捨てられリヤンの家に着たはずだ。
 マリエルたちは、ポージュが探しているのが妻か息子か、どちらかわからない以上、想像で言葉を発するのは躊躇われた。

 もしかしたら、イサラが施設出身者を嫌う理由は、ポージュが別れた妻か息子を探しているため、父親の愛がそちらに向いていると思っているのかもしれない。
 100%以上の父からの愛を受けないと気の済まない我儘娘イサラは、他の家族など、この世から抹殺したいと考えているに違いない。
 どこまでも強欲な娘である。
 しかし、父親の愛は、イサラの考えたとおり他の誰かにも向けられているらしい。
 それを感じたのはマリエルとアリエスだけだったが。

 ポージュが膝を折り、イサラに話しかける。
「イサラ、帰ろうか」
「ええ、お父様。次の療養は、別のホテルにしてね」
「こら、そんなことを言わないでおくれ」
「だって」
「イサラはラマンのビーチが一番好きなのだろう?」
「そうだけど」
「それなら、また此処にこよう」

 イサラがホテルを離れると、マリエルとアリエスは再びホテルフロントに立つことになった。これほどの開放感を味わうなど、終ぞなかった感覚である。
 そんな二人を尻目に、オーナーがフロント前に顔を出した。こつこつと、ゆっくりフロントの方に歩み始めた。
「お前たち、世話係も出来ないのか」
 言い訳しようとするマリエルの右手を握り、アリエスが答える。
「申し訳ありませんでした」
 オーナーは、マリエルの方には見向きもせず、舐め回す様な目つきでアリエスを見た。
「お前は・・・アリエスか?お前、イサラ様に認められたようだな」
 アリエスは飄々とした言葉つきでオーナーに言葉を返す。
「いえ、ご覧のとおりの有様です」
 オーナーは、自慢にしているのであろう顎鬚を上下にさすりながらアリエスに向かって小首をかしげるような素振りを見せた。
「イサラ様は、気に入った者にしか車椅子を押させない。ルミクスが良い例だ。マリエル、お前はどうやらイサラ様の御眼鏡に適わなかったようだ。次の御来訪のときは、マリエルは厨房で皿洗いだ」

 カチンときたのがマリエルである。
 我儘し放題の相手をするのは御免被る。イサラの相手もしたくないのが本音だ。だが、来訪時の1ケ月余りを、厨房で皿洗いしろと?
 皿洗いが嫌なわけではないし、目下に見ているわけでもない。超絶我儘な客の理不尽なクレームで配置転換されることに対しての、抗議の意味合いだ。
 それでも、客は客。客あってこそのサービス業。オーナーの言うことは本当であり、絶対だ。
アリエスが、Yesと答えなさいと言う目で、マリエルをちらちら見ている。マリエルは、憮然とした表情で答えた。
「承知しました」
 すると、オーナーの怒鳴る声がロビーに大きく響き渡る。
「そんな顔しか出来ないなら、いますぐ厨房に行け。少し頭を冷やせ」
 
 マリエルの眼に涙が溜まる。でも泣かない、泣いてたまるかと幾度となく瞬きをして涙が零れないように踏ん張った。
「はい」
 低い声でそれだけ返事をして、マリエルはフロントから離れた。
 
 ポージュやイサラと入れ替わりに、ホテルのロビーに現れた者がいた。
 クリムソンにいるはずの女バイヤー、ジェシカである。クリムソンからロールライトを抜け、エクリュースに入ったのだ。
 主たる目的は勿論、薬草の闇ルートを開拓すること。あとは、エクリュースの地理を確かめ目立つホテルやビーチの場所を記憶に留める為であった。
「1週間のご滞在でございますね」
「ええ。ビーチの見える部屋を用意してもらえるかしら」
「畏まりました」
 
 ジェシカは、いつも一緒のフェイルとは別行動だった。フェイルには内緒でエクリュースに来ていた。フェイルがお供していると、何かと五月蝿い。まるで保護者のように。これから1週間は、のんびり、かつ行動を制限されずに羽を伸ばせるというものだ。
 
 ジェシカがこのホテルを選んだのにも理由がある。ここはエクリュースの中でも一、二を争う有名処。各領の有名人がバカンスと称して軒並み顔を連ねる場所だった。そういった輩を記憶し、万が一にでもお知り合いになれれば薬のルートが広がるかもしれない。 
 そんな夢物語を信じるあたり、まだまだ田舎娘のジェシカだった。
 
 

 こちら、厨房でのマリエル。

 リヤンの家にいるときは、超絶機嫌が悪いと皿を一枚だけ叩き割っていた。今日も皿を床に投げつけたい気分だったが、そうはいかない。樹製の皿とはいえ、少しの欠けや歪みも許されないのがホテルだ。
 厨房にいたエルは、人手が増えたと喜んでいる。背が高く、長い金色の髪を後ろで纏めている。青の眼をくるくると動かすひょうきんな顔をしたエル。年頃はマリエルやネリィたちと同じだろうか。
 エルは皿を洗いながらマリエルの顔を覗き込む。
「何、オーナーに怒られたんだって?」
「そうよ、機嫌が悪いみたい。あたしも機嫌が悪いから話しかけないで」
「気にするなよ、オーナーはいつもそうなんだ。あ、俺はエル。このホテルの何でも屋さ」
「何でも屋?」
「そう、人手が足りなきゃホテルマンにも変装するし、暇なときは、此処で皿を洗ってる」
「そうなんだ。あたしもそうしようかな。忙しい時だけフロントに行けばいいのかも」
「そうそう。此処なら別に客の悪口や噂をしてもおおっぴらにはならないからね」
「噂、か。ねえ、エル。ゴールデン・ブラッドって知ってる?」
「勿論」
「何なの、ゴールデン・ブラッドって」
「その名のとおり、金色の血。この手に繁栄をもたらす財宝だよ」
「財宝?どうりで」
 マリエルは、深く長く溜息を吐く。ネリィが興味を示すわけだ。マリエルの表情に隠れた秘密を見透かすかのように、くるくると回るエルの眼。
「ゴールデン・ブラッドがどうしたんだい」
「何でもないの。知り合いがね、意味を知りたいって」
「さっきの二人組の男かい?」
 マリエルの顔が赤くなる。ネリィとクロームがいたのを見られてしまったと、マリエルはエルを少し警戒した。
「ううん、違うわ。さっきのは幼馴染よ。たまたまエクリュースに来たから寄ってくれたの」
「ふうん。僕はまた、ゴールデン・ブラッドの噂を聞いたら教えてくれって頼まれていたのかと思った」
 マリエルはアリエスと違って嘘が下手だ。マリエルの顔を覗きこむエルの目を見られずに、其処彼処に視線を投げる。
 エルはマリエルの顔を覗き込むのを止めて、洗い終えた皿を拭きはじめる。
「ゴールデン・ブラッドってのはね、財宝であり諍いの元凶でもあるんだ」
 マリエルは、やはり、といった表情でエルを見やった。
「諍いの元凶か。ゴールデン・ブラッドは赤い血をも流すってことなのね」
「お察しのとおり。今は詳しく言えないけど、キミが情報を欲しいのならあげる。その代り」
「その代り?」
「さっきの二人組を紹介して。僕も一緒に行動しようじゃないか。僕と共にいれば、危険な事件に巻き込まれることもない」
 マリエルは驚いて、皿洗いを忘れ、目線を上げてエルの顔を見る。
「貴方、いったい何者なの」
「何でも屋だよ」
「ホテルマンは昼の顔ってわけね。本業はそっちなんだ」
「そういうところかな。僕は情報の取り纏めが主だから、行動部隊が必要でね。だから、幼馴染とやらを紹介してくれないか」
 マリエルはエルから目を逸らして考えた。自分やアリエスのところに情報が入ってくることは、まずないに等しい。エルがいれば、正しい情報を得ることができるだろう。エルがネリィたちを守ってくれる確証はないが、少なくとも敵対することは無いはず。
 アリエスがいれば意見を聞きたいところだが、生憎アリエスはフロントにいる。ホテル内で使える無線はあるものの、接客中だと、またオーナーからのお小言がマリエルを待っている。
 ネリィたちには十分気を付けるように言い含め、エルを紹介してもいいのではないか。
 でも、万が一、目の前にいる彼が大嘘つきだったとしたら、ネリィたちに危険が及ぶだけでは済まされない。やはりアリエスの意見が聞きたかった。 マリエルは、仕方なく無線でアリエスに連絡を取った。
「アリエス、マリエルだけど。今、少し時間ある?」
「いいわよ、今日のチェック・アウトはもう終わったし、チェック・インまであと1時間あるから」
「厨房に来てくれない。オーナーに見つからないようにね」
「わかった」

 アリエスが厨房に姿を見せた。マリエルは、エルにアリエスを紹介すると、そこを離れて厨房の隅にアリエスを連れていき、先程エルから持ちかけられた提案を話した。
「ね、アリエスはどう思う」
「ネリィたちがOKするならいいと思う」
「じゃあ、一度会わせてみようか。ネリィにはあたしが連絡しておくから」
「ただ、あのエルって人、只者じゃないよ、きっと。単独じゃなく何処かに属してると思う。それだけは聞いておきたいかな」
「流石アリエス。あたしはそこまで気が回らなくて」
「マリエルはいつでも直球しか投げないから。直情体質なのよ」
「そうかも。あとね、あたし暫く皿洗いでいいわ。フロントは合わないみたいだし」
「今度オーナーの機嫌損ねたらクビになるわよ」

 アリエスが去った後、エルの傍に歩み寄って、また皿洗いを始めたマリエル。
「ねえ、聞きたいことが一つだけあるの」
「なんだい」
「貴方、何処の組織に属してるのかしら」
「こりゃまた藪から棒に。内緒。でもキミのいうとおり、組織に属してるのは本当さ」
「随分素直なのね」
「取引するに当たって嘘は吐いちゃいけない。ただ組織名は、今は言えない。それを聞けば、さっきの幼馴染たちは組織に取り込まれてしまうから」
「そう、わかった。会えるように伝えてみるわ」

 マリエルは漸く全ての皿を洗い拭き終え、従業員控室に向かった。これから夕餉までは時間がある。夕餉が始まったらまた大量の皿が厨房に運ばれてくるから、夜半まで皿洗いが続くだろう。
 それまで、つかの間の休息である。

 その頃ジェシカは、ビーチでのんびりしていた。水着にパーカーを羽織り、日焼けしないように注意していた。もしエクリュースに来たことがフェイルにばれたら何を言われるか分ったものではなかったから。
 カモになりそうな人間を見つけあぐねていたジェシカは、立ち上がり、ホテルの裏口に向かって歩いていく。
 裏口は基本従業員専用だ。とはいえ、砂塗れの足で表玄関に行くのは憚られる。ビーチにいる客たちも、半々の割合で裏口に向かっていた。
 従業員たちは、ちょうど一息ついている時間帯らしく、裏口で話し込んでいる者もいた。そんな中、隅に寄り携帯電話を取り出し、何処かに連絡している者がいる。

 マリエルだった。
 連絡先は勿論ネリィ。マリエル個人の携帯電話は無線形式で、外に出ないと電話が繋がらない。
 あの放浪野郎たち、今頃何処にいるのやらと思いながら電話が繋がるのを待つ。絶対に横道に逸れてまだリヤンの家には着いていないはずだと高を括っていたマリエル。
 思いのほか電話が早く繋がったので、マリエルは、まだ心の準備も言葉の選択も十分ではなかったらしい。
「あ、繋がった」
「なんだよ、いつもは繋がらないような言い方だな」
「あら、ごめん。今何処?」
「アンデシス。もうすぐ我が家に着くよ」
「クロームも一緒なの?」
「いや、サーシャを迎えに行った」
「そう。ね、クロームが戻ったらでいいんだけどさ、相談してからあたしに返事してもらいたいことがあるの」
「勿体ぶった言い方だな。俺の独断じゃ駄目ってことか」
「まあ、そういうことになるわね」
「相変わらず直球だな。ま、いいや。何」
「ゴールデン・ブラッドのこと」
 一瞬、両者の間に沈黙が流れる。その沈黙を破り、口を開いたのはネリィだった。
「何か情報入ったのか」
「ゴールデン・ブラッドそのものじゃないんだけどね。ホテルにいるエルって人が、どうも情報屋らしくて。あんたとクロームを紹介してくれって頼まれたのよ」
「情報屋?胡散臭せえ」
「ホテルの仕事よりそっちが本業だって」
「どっかの組織の人間なのか」
「そう。でも組織名は教えられないって。教えればあんたたちが組織に取り込まれてしまうからって言うのよ」
「ますます胡散臭せえ」
「考えてみればそうよね」
 マリエルは、自分がエルに騙されている可能性が限りなく高いのかもしれないと後悔する。でも、ネリィたちが断るのならそれに越したことは無い。危険なことに身を投じなくて済むのだから。
「兎に角さ、クロームと相談して連絡ちょうだい。あたしも夜半回った頃なら自由の身だろうから」
「なんで夜半。フロントならとっくの昔に仕事終えてる頃だろうが」
「色々あるのよ、これでも」
「わかったよ、聞かないでおく。夜半過ぎな、連絡するよ」
 電話を終えたマリエル。
 控室に戻ろうと辺りを見回したマリエルの後ろから、誰かが右肩を掴んだ。
「ゴールデン・ブラッドって何」
 飛び上がらんばかりのマリエル。
 マリエルの肩を掴んだのはジェシカだった。マリエルは180度後ろを向いて深々とお辞儀する。
「お客様。足の砂を落す井戸は右手にございます。左手がエントランスになっております」
「そうじゃなくて。ゴールデン・ブラッドのことを聞いているの」
 ジェシカはゴールデン・ブラッドの詳細は知らずとも、バイヤー仲間から言葉だけは聞いたことがある。栄光を齎す珠玉の秘宝だと。
 目の前にいるホテル従業員がゴールデン・ブラッドのことをどこまで知っているのか、それが知りたいジェシカだった。
 マリエルは下を向いてもじもじしている。
「エルって情報屋がホテルにいるって本当?会わせてくれないかしら。あたしは206号室のジェシカよ」
「は、はい。あの、その」
 マリエルは困り果てていた。エルから本業を口止めされたわけではないが、お客様に知れてしまった。これがオーナーの耳に入りでもしたら、エルはおろか自分まで解雇されるかもしれない。
 何と答えてよいか、マリエルは途方に暮れていた。

「僕がエルですが、何かお困りのことでもございましたか」
 その時、マリエルの後方からエルの声が聞こえた。マリエルは下を向いていたが、ジェシカが声主の方に顔を向けるのがジェシカの声のトーンで分った。
「貴方がエル?あとで私の部屋まで来てほしいのだけれど。目立たないようにね」
「畏まりました。なるべく目立たないよう、努力いたします。マリエル、仕事に戻ろう」
 ジェシカはそのまま井戸の方に歩いていく。
 エルはマリエルの左手を握ると、裏口から通じる従業員控室へと促した。従業員用通路を歩きながら、マリエルは下を向いたままエルに謝る。
「ごめんなさい。電話していたらお客様に聞かれてしまったみたいで」
「構わないさ。どういう素性か知らないけど、いや、あれはバイヤーだな」
「どうしてわかるの」
「勘。ゴールデン・ブラッドの存在を聞いたことがあるに違いない。こりゃあ、オーナーに告げ口されずに済みそうだ」
「あのお客様も仲間に入れるの?」
「まだ判らない。バイヤーでも関わりを持ちたくない輩もいるしね。敵対組織のバイヤーなら尚更」
 エルは皿洗いの服からホテルマンの服に着替えると、マリエルを伴って他の従業員に見つからないようジェシカの部屋、206号室に急ぐ。
 トントン、と小さくドアをノックすると、ドアは半開きになりジェシカが半分だけ顔を出す。
「入って」
「失礼します」
「時間を取れないでしょうから、単刀直入に。あたしはジェシカ。クリムソンの薬草バイヤー。単独で動いてるわ。ゴールデン・ブラッドのことを知りたいの」
「そうでしたか。単独で。それなら話が早い。一緒に行動しませんか。僕は組織の情報屋です。一緒に行動する仲間を募っているんです」
「OK。それならあたしの連絡先を渡すわ。で、具体的には何をするの」
「ゴールデン・ブラッドの持ち主を護衛するんです。ランジュベーヌの領立医療団まで。世界各地にいるはずですが、何せ人数が少ない上に、他の組織に狙われていましてね」
「ああ、それで護衛なのね。あたし力は程々だけど頭脳プレイは苦手で」
「護衛するだけですから、難しいことは必要ありません。こちらのマリエルの知り合いにも声を掛けてましてね。4~5人ほどで考えています。報酬ははずみますよ、薬草取引の100倍は軽く超える」
 エルとジェシカはポンポンと言葉のキャッチボールをしていく。マリエルは傍らで大人しく聞いていた。夜半に連絡が来るネリィに知らせるべき内容である。
「了解。じゃあ、情報が耳に入り次第、連絡ちょうだい」
「畏まりました。さ、マリエル、行こうか。お客様のご要望にお応えできたからね」

 エルとマリエルは206号室を出て、また従業員控室に戻る通路に向かう。そろそろチェック・インが始まる時間帯だ。余りフラフラと歩いているとオーナーに出くわすかもしれない。それでなくとも、同じ従業員なのに告げ口する人がいるのだとエルは笑った。
「まったく。告げ口なんて、性格悪いよねえ」
「あたしは今、すごく冷や冷やしてるわ。誰かに見られてるんじゃないかって」
「大丈夫。二人ともお客様相手の服を着てるから。これが皿洗いだったら不審だけど」
「貴方みたいに図太くならないと駄目ね」
「図太い?冷静と言って欲しいな」
「はいはい。冷静なエル様」
「さ、このまま控室で着替えたら、また厨房に戻ろう」

 夜半過ぎまで続くパーティーや個別の夕餉と、厨房に帰ってくる食器の山。
 マリエルは腕が上がらなくなるほど皿を洗った。流石、エクリュースでも一番のホテルである。その数たるや、ゆうに100や200は超えている。300枚程度まで届くかもしれない。全てのパーティーが終わり、厨房に静けさが戻るまでには何時間かかるのだろうと目眩がする。
 それでも、厨房勤務一日目にしてマリエルはコツを覚えた。隣にいるエルの見よう見真似ではあったが。
 思った通り、夜半過ぎまで皿洗いに時間を取られたマリエルは、腰を摩りながらエルと別れ、ホテル近くに借りたアパルトモンに戻っていくのだった。

 マリエルがアパルトモンに戻ると、アリエスはとうの昔に戻っていたようで、テーブルには貰ってきたマリエルの分の賄い飯が準備してあった。どうやらアリエスは食べ終えてシャワーを浴びているらしい。
 マリエルは冷たくなった賄い飯を食べながら、牛乳を飲み干す。
「ああ、牛乳がこんなに美味しいなんて。今日初めて気が付いた」
 独り言は余り言わないマリエルだが、今日はマリエルにとって天から地、地から天へと怒涛のハードワークだった。でも、オーナーの目を気にしたり、イサラのような客を相手にするよりも余程充実した一日だったような気がする。そう、リヤンの家にいるときから、自分は労働系が得意だったのだと今更ながらに思い出したマリエル。
 アリエスがタオルをすっぽりと頭から被りシャワー室から出てきた。
「お帰り、マリエル。大変だったね」
「でも楽しかったよ。明日からも厨房で下働きしたいな」
「オーナーはもう怒ってないようだったけど、厨房は人手が足りないってぼやいてたから、明日からも厨房に行けると思うよ。私が話しておくよ」
「ありがとう、アリエス。ところで今日はあの後大変だったの。ネリィに電話してたら、エルのことをお客さんに知られちゃって。部屋に呼び出されたり厨房に戻ったりで、もうホントに大変だった」
「エルが情報屋ってことを?何号室のお客さん?」
「206号室のジェシカって、記憶にある?」
「1週間くらい宿泊予約したお客さんだね。ふうん、彼女もバイヤーなの?」
「クリムソンにいる単独バイヤーだって。エルは彼女を仲間にする気みたい」
「そもそも、ゴールデン・ブラッドって何なの。危ない橋をネリィたちに渡らせるのは気が進まない」
「ネリィも胡散臭いって言ってた。エルの話だと、珍しい血を持ってる人をランジュベーヌまで護衛するんだって。エルの組織とは別の組織にも狙われる可能性あるとかで。でも、報酬はすごくいいみたい。薬草取引の100倍はゆうに超えるって」
「金を取るか安全を取るかの両極端だね。ネリィなら飛びつくかも。スライの生活費、ネリィが稼ぐんでしょう」
「そうだね、そろそろネリィから連絡来ると思う。話すだけ話してみるから」

 約束の夜半過ぎ、マリエルの電話にコールがあった。
 眠そうな声のネリィ。
「おう。仕事終わったのか、ご苦労さんだな」
「まあね。それよかさ、昼間の話、もう少し詳しく教えてあげる」

 エルとジェシカが話していた内容を掻い摘んでネリィに知らせるマリエル。段々と、ネリィの声が覚醒してくるのが電話越しに分かる。
「薬草取引の100倍越え?ホントかよ、持ち主を護衛するだけなんだろ」
「とっても珍しい血だって。世界中でもほんの一握りしかいないみたい。で、お定まりの組織対組織で取り合いしてるらしくて。安全面は保障できないかも」
「ふん、ホントなら乗ってやるよ、その話。4~5人で護衛なら仲間として適した当てもあるし」
「誰誘うのよ、サーシャやルツは止めてよ」
「バーカ。あんなお子様に務まる仕事じゃねえよ。ルルフェってバイヤーがいるんだ。ありゃ単独だと思う。今度カマ掛けてみるさ」
「あんまり危ない真似はしないでね」
「まあな。ひとつだけ、スライには口が裂けても言うなよ、護衛のこと」
「わかってる。スライが知ったら大学諦めかねない」
「ああ。あいつだけは真っ当な道に進んで欲しいからな」
「時間があるときクロームたちとこちらに来てちょうだい。お昼前後の時間帯なら、ちょうどあたしたちの身体も空いてるだろうから」
「わかった、クロームとルルフェと、なるべく3人でいく。エルとやらに伝えておいてくれ」
「了解、じゃ、ネリィ。お休み」
「おう、マリエル。明日寝坊すんなよ」

 マリエルとの電話を切るや否や、ネリィは小走りになってクロームの部屋を目指す。マリエルから聞いたゴールデン・ブラッドの情報をクロームと共有するためである。
 ルルフェに会うのはどうしたものか。普段住んでいるのはネリィの住むグールより北にあるアガシという街のはずだ。明日早起きしてアガシに行ってみるより他はない。クロームがルルフェの居所をリサーチしてくれるだろう。
 トントン、と小さく部屋をノックしてみるが、反応がない。眠っている可能性大だが、この美味しい話を明日まで引き伸ばすことはネリィには出来なかった。もう一度、今度は大きくドンドンとクロームの部屋をノックする。すると、中からズリズリとスリッパの音が聞こえてきた。
 ドアが開く。クロームは眠気眼で髪もぼさぼさに、パジャマをだらしなく着ていた。
「悪いな、クローム。良い知らせが入ったんだ」
「何」
「ゴールデン・ブラッド」
 その言葉を聞いたクロームは、先程のネリィと同じように段々と覚醒していく。
「情報が入ったのか、早いな」
「ホテル・ラマンに情報屋がいるらしい。そいつが俺達と一緒に行動したいそうだ。で、ゴールデン・ブラッドの持ち主をランジュベーヌまで護衛する仕事がある」
「報酬は」
「薬草売りの100倍は軽く手に入るらしい。ただ」
「ただ?」
「別の組織に掠め取られないようにしないといけないんだと。左うちわで護衛できる代物じゃなさそうだ」
「ネリィは単位全部取り終えたんだろう。俺、まだ残ってる単位があるんだ。サーシャの送り迎えもあるしな」
「頻繁に依頼があるモンでもないはずだ。だいぶ珍しい血のようだからな」
「急いで取れる単位は取っておくよ。サーシャの送り迎え出来ない日もあるだろうから、サーシャには気を付けるよう言い含めておく」
「ああ。あとさ、ルルフェってバイヤー知ってるか」
「名前だけは」
「明日奴の本拠地に出向いて、組織のバイヤーなのか確かめたい。俺がルルフェに会うから、お前は周辺で聞き込みしてくれないか」
「わかった。ルルフェとやらが組織に属していたらどうなる」
「仲間にしない。単独バイヤーの場合のみ、仲間になってもらう」
「OK、任せてくれ」
「明日早朝にこちらを出るから、それまでガッツリ寝てくれよ」
「こんな時間に起こしておいて、そりゃないだろう」

 ネリィもクロームも、頬が緩んでいる。今迄地道に薬草を捌いて来たが、1回の護衛でその100倍が手に入るとは。どれだけ珍重な血なのかがわかる。薬草にも極めて珍重とされるものはあったが、ゴールデン・ブラッドのそれ、輝きに比べれば色褪せてしまうことだろう。
 二人は、冴えた頭で護衛の真似事を右脳で想像しながら床に就く。
 まずは、明日、ルルフェに会うことから始めなければ。
 寝ようとしても目が冴えて眠れない。特にネリィはそうだった。その報酬でスライの生活費全般を賄うことになるのだから。
 
 あっという間に空は白み、朝のひんやりした空気が街を包む。季節は夏に差し掛かっていた。初夏とはいえ、朝の空気はまだ冷え冷えする日も多かった。
 ネリィは着替えると、クロームの部屋に急ぐ。他の連中が起きないように、そっとドアをノックする。夜半過ぎと違い、クロームは既に着替えを済ませ準備万端だった。
 二人はほとんど声を出すことなく階下に降り、ギギ、ギギギと玄関の重いドアを開ける。
 グールの工場地帯は、朝から晩まで休むことなく稼働している。3交代制を採り早番の工員たちが出勤する時間帯に差し掛かっていた。当然、交通機関も動き出す。
 ネリィとクロームはトロッコに乗り、アガシの町を目指していた。ルルフェが出かけていないことを祈りながら。

 トロッコで20分、ネリィたちはアガシの町に着いた。クロームはおろか、ネリィもルルフェの棲家は知らない。街中で情報を集める以外に出会う方法は無かった。
 早速、町の至る所にダンボールを敷いて寝泊まりしている放浪者たちにクロームが話しかけて情報収集した。どうやら、町の西側、スラム街と工場地帯の境目にルルフェが居を構えていることだけは分った。
 スラム街目指して二人は歩いていく。スラム街に近づくにつれ、段ボールの住まいや目つきの悪い少年たちが増えてきた。こういう少年たちは、情報を持っていてもタダでは教えない。クロームは、ポケットの中に手を突っ込むと1ペイ紙幣を探り当て、壁に寄りかかっている少年に話しかけ1ペイ紙幣をチラつかせた。
 少年は最初に金を寄越せと譲らなかったが、クローム直伝の話術で、ルルフェの居所と交換することで交渉は決着を見た。少年によれば、今ネリィたちが立っている場所から100m歩き、角を左に曲がった先に質素なアパルトモンがあるという。そこの2階にルルフェの棲家があるということだった。
 少年に金を渡すと、ネリィたちはルルフェの棲家に向かって歩き出す。

「おい、ホントにこっちでいいのか。やばい連中が増えて来たぞ」
 ネリィがクロームの右耳に手を当て囁く。
「騙されたか。金を巻き上げようって魂胆らしいな」
 ネリィのいうとおり、スラム街に入ってしまった二人に向かって何人かの大男が近づいてくる。二人は走って逃げようと膝に力を込めた。
 その時だった。
 大男をかき分けるように、ルルフェらしき声が聞こえる。
「おいおい、こんなところまで来るとは大したもんだ」
 そういうと、ルルフェが大男の間から顔を出した。ネリィもクロームも安心してちょっぴり腰が抜けそうになる。ネリィは喧嘩が強いとはいえ、一度に何人も相手に出来る程器用ではない。クロームは、喧嘩に至ってはからきしだった。
「あんたに会いに来たんだ。静かなところで話がしたい」
「OK、僕のアパルトモンに来るといい」
 クロームは周辺で情報収集する予定だったが、あまりに危険な街だった。ネリィは離れようとするクロームの首根っこを掴み、ルルフェのアパルトモンへと引き摺って行く。直ぐにアパルトモンは見つかった。少年の言うとおり、角を曲がった先にあった。

「で、何か用かい。ネリィ」
「こないだ、ドラップがアンデシスに入ってくるような話をしてただろ。ドラップだけなのか」
「というと」
「確か敵対組織としてシェイラがあったと記憶しているんだけど。そっちは来ないのか」
「シェイラは地下組織に近くてね。ドラップの獲物を掠め取る方法で売り捌くのがシェイラの方策なんだ」
「こうなったら単刀直入に聞くよ。ルルフェ、あんたは単独バイヤーなのか。それとも組織の潜入バイヤーか」
「こりゃまた単刀直入だねえ。結論から言えば、僕は単独バイヤーだよ。ドラップやシェイラに属したら上納金が必要になるんだぜ。それだけ実入りのいい仕事とは思えなくてね」
 なおもネリィはルルフェを詰問する。
「町にドラップなりが上陸したとして、単独で居られる方法はあるのか」
「危険なブツに手を出さなければ」
「というと」
「大麻、ヘロイン、コカイン、その他ドラック類かな。あとは、ゴールデン・ブラッド」
「ゴールデン・ブラッドのことを知ってるのか」
「名前だけはね。実物を見たことは無いけど、秘宝にも等しいって言われてる」
「ルルフェ。これからエクリュースに行かないか。いや、一緒に来てほしい」
「なんだい、急に」
「ホテル・ラマンに行くんだ。そこに、何処かの組織に属した情報屋がいるらしい」
「いいよ、今日は特に取引もないし。ゴールデン・ブラッドのことで何かあるんだろう?」
「そう。だから今直ぐに発とう、な。クロームも一緒に行くぞ」

 3人はスラム街を抜けると、トロッコで一路エクリュースを目指した。小雨がぱらついて来た。あまりいい天気とは言えない。
 だが、ゴールデン・ブラッドのことを話しあうには、実際、エルという人物に会ってみなければ。
 
 昼過ぎに、ネリィたち3人はエクリュースに到着し、ホテル・ラマンへと足を向けていた。雨はすっかり上がっていた。ホテルに着くと、ルミクスがドアマンとして客の荷物を持って中に入る所だった。ルミクスは、ネリィたちを見とめるとフロントのアリエスに一言声を掛け、アリエスは無線電話を使い、何処かに電話した。
 3分も待たなかっただろう。ホテルマンの格好をした長い髪の青年とマリエルが姿を現した。
「ようこそホテル・ラマンへ。206号室にご宿泊のお客様が御呼びでございます」
 長い髪のホテルマンがエルだろうと、ネリィは当たりを付ける。ただ、206号室の客には面識もなければ誰だか見当もつかない。
「206?」
「はい、お客様にお会いしたいとの仰せで、お待ちでございます」
 質問を遮るかのように手招きするホテルマン。
 ネリィは敢えて206号室にいる相手の素性を聞くことはせず、目の前のホテルマンに従って紅い絨毯の敷かれた廊下を206号室へと歩きはじめる。ホテルマンの背中を見ながら、彼より一歩遅れで歩き大人しくしているマリエルを、左の肘で小突くネリィ。
「おい」
 小声でマリエルに話しかけ、目の前の彼を指差す。
「これか?」
 目の前にいるホテルマンがエルか、という問いだったが、マリエルは何を緊張しているのかとんちんかんな返事をする。
「いえ、お部屋は2階でございます」
「そうじゃなくて」
「お待ちのお客様は、女性です」
「何緊張してんだ、お前は」
「お客様、お静かに」
「はいはい、わかったよ」
 
 絨毯の階段を上がり、ホテルマンとマリエルが206号室のドア前に着いたらしい。急に立ち止ったマリエルに、クロームがぶつかりそうになっている。
 ホテルマンは、コンコン、と優しく206号室のドアをノックする。
 どんな人物が出てくるのだろう。
 ネリィとクロームは一瞬緊張した。ルルフェは百戦錬磨の顔つきで、動じた様子が見られない。
「はい」
 女性の声とともに、ドアが開いた。
 ホテルマンは、辺りを見回すと、するりとドアの向こうに身体を滑らせる。それに続き、ネリィたち3人も部屋の中に入った。マリエルは廊下で見張り番なのだろうか、部屋には入ってこなかった。
 206号室の客とやらは、ネリィたちと同じくらいの齢のように見えた。ホテルマンの彼が、早口で皆を纏める。
「では、最初に自己紹介を。仕事内容は皆さんお聞きのことと思いますので省きます。ジェシカ様からどうぞ」
「クリムソンのバイヤー、ジェシカよ」
「俺はアンデシスのバイヤー、ネリィ。左隣がアンデシスのバイヤーでルルフェ。右隣が俺の後輩、クロームだ」
 ホテルマンの彼は、にっこりとほほ笑んだ。
「わたくし、当ホテルにて何でも屋をしているエルと申します」
「人の護衛をするって話だが、どうやって集まるんだ」
 ネリィの質問にエルは早口で答える。
「連絡先を頂戴できれば、わたくしから随時連絡を差し上げ、ここ、ホテル・ラマンに集っていただくことといたします」
「あたしはクリムソンから入るから少し遅れそうね」
「構いません、ロールライトで落ち合うこともできますし」
「了解。場合によっては、そうしてもらえるかしら」

 今迄ずっと口を開かなかったルルフェが、皆を見回し低く太い声で言い放つ。
「護衛はブラッドのみか?それとも人間の護衛をするのか?」
 エルはくるくると眼を動かし、ルルフェが気に入ったという顔をする。
「基本は人間です」
「なぜ今、新規に人を集める」
「答えにくい質問ですね。いいでしょう、本当のことを言います。前回の護衛で僕を除いた全ての人間が殺されました」
「命懸けの護衛というわけか」
「ですから報酬を弾むんですよ」
「その報酬は組織から?」
「いえ、ランジュベーヌの医療団です。珍しい血ですからね、研究対象にもなっていますし、輸血を望まれる方も多いと聞きます」
 ルルフェは声に出さず首を縦に振ることで了解の意思を示した。
 そこに、廊下のマリエルがドアをノックする。
「エル、オーナーの声がするわ。非常口に回らないと見つかりそう」
「マリエル、ありがとう。それでは皆様、しばしこちらでお寛ぎ下さいませ。わたくしの連絡先は、ジェシカさまがお持ちです」
 ネリィが右手を上げてエルを引き留める。エルは早くしてほしいと言わんばかりにドアノブに手を掛けた。
「マリエルも知っているのか」
「勿論。マリエルに聞いていただいても結構です。反対に、マリエルからお客様の連絡先を頂戴してもよろしいでしょうか」
「ああ、構わない。ルルフェはどうする?」
「今は彼を解放してあげよう。ホテル業務に差し支えるだろうから」
 ルルフェの声と共に、再びにっこりと笑ったエルは、素早く廊下に姿を消した。

 206号室に残った4人は、あらためて自己紹介するとともに、仕事内容を共有していた。
 ジェシカは、献血されたブラッドを運ぶと思っていたらしい。人間と聞き、また新規の募集理由を知って不機嫌になっていた。真正面にいたネリィに向かって話しかける。
「クリムソンで厄介になってる家があるの。今のを話したが最後、強制見合いの末、結婚させられそう。色々な薬草を培養しているからクリムソンを出るわけにもいかないし」
「アパルトモン住まいじゃないのか」
「雪が多いからね、木造たる4階建てアパルトモンは少ないのよ」
「俺はもうどこに出てもいいけど、クロームは学生なんだ」
「僕も今年だけ我慢すれば卒業できる。ネリィだってまだ卒業してないだろう」
「まあ、そりゃ。留年したからな。俺とクロームはリヤンの家に住んでる。卒業したら何処に住んでもいい」
「僕は基本、今の棲家にいるよ」
 ルルフェの声は、先程と違い快活な印象を与えている。
「それなら連絡先を教えてくれ。毎度毎度あのスラム街に行くのは腰が引ける」
「了解。あと、質問は?」
 ルルフェ以外の皆が、顔を見合わせる。ルルフェは言葉が発せられない状況を見て、客室の椅子に座る。
「ないなら、僕から一言。たぶん、これはすごく危険なヤマになると思う。物見遊山で旅行気分なら止めた方が無難だ」
 元々強気なジェシカが、むっとしたように返事をした。
「危険ってどうしてわかるの」
「護衛の対象は世界でも超稀少な血の持ち主。前回のメンバーは皆殺し。危険でないわけがないだろう」
「それはそうだけど」
「僕はね、エルの属してる組織がドラップじゃないかと思ってる。シェイラはいつもブツを掠め取る方法で稼いでるから、ロールライトからランジュベーヌに入るか入らないかの辺りで小勢り合いがあると思うんだ。派手にドンパチやらかせば領府に突き出されるから、どちらもそんなことはしない」
 そこまで考えていなかったネリィは、思わず感嘆の溜息を洩らす。ジェシカとルルフェの間に入り込むネリィ。
「じゃ、反対に其処まではある程度安全ということか」
「護衛対象がどこに降って湧くか分らないけど、ロールライトからランジュベーヌに入るルートが一番簡単で、尚且つ危険というわけだ。他の領府からは、まずもって入ることは難しいだろうから」
 今度はジェシカがネリィの前に立ち塞がる。
「ロールライトにはルイスゴールが幅利かせているわよね、ドラップとシェイラ、どちらがルイスゴール系列なの?」
「ドラップだよ。でもシェイラの潜入バイヤーは優秀でね、堂々と掠め取る場合もあるようだ」
「そうなんだ」
 
 ネリィは、ルルフェがここまで組織の内情に詳しいことに驚いた。まさか、ドラップ或いはシェイラと通じているのではと勘繰りたくなってくる。
 そんなネリィの表情を捉えてなのか、ルルフェはこうも続けた。
「ネリィ、僕は決して潜入者ではないよ。以前、稀少な薬草をバイヤーに売った時に聞いた話さ」
 ジェシカがルルフェに後方からパンチを食らわせる真似をする。
「貴方がシェイラの潜入者でない証拠もないわ」
「さて、それを証明する方法はないね」

 4人は一頻り、秘宝とも呼ばれるゴールデン・ブラッドについて噂に噂を重ねていた。いずれ、エルから声が掛かるまでは、その秘宝に逢うこともままならない。お互いの連絡先を交換したのち、ジェシカは予定を切り上げクリムソンに戻るということだった。もう、ゴールデン・ブラッド以上の上客はここにいても現れないと踏んだのだろう。
 ネリィたち3人は、トロッコでアンデシスの町に戻ることにしていた。
 フロントを見ると、アリエスが客捌きの最中だった。マリエルも下働きしているのだろう。ネリィとクロームは、今日のところは声を掛けず、リヤンの家に戻ることにした。
 ネリィがルルフェに声を掛ける。今日のスラム街が以外にもネリィの泣き所だったらしい。
「ルルフェ。金云々じゃないなら、グールに引っ越さないか。俺達20歳まではリヤンの家に居られるし、アパルトモンに出た後も後輩の面倒を見なくちゃいけない。ルルフェが近くに居てくれると助かるんだけど」
「もう少し様子を見てからね。エルの出方次第でもある。エルがまさかのシェイラ潜入者だったら、何処の町に潜んでもドラップに捕まるよ、僕たちのような平凡な人間は」
「随分ややこしい関係性なんだな、その二つは」
「ああ、ルイスゴールの最大拠点があるロールライトではシェイラを見つけると処刑しているようだけど」
「あの領府だけは比較的ランジュベーヌに入り易いんだろ」
「金で動く輩がいるからね。昔リヤンの家にいたヒジェがそうだ」
「そういう人がいるのか」
「ああ、今は二人組でロールライトからランジュベーヌに入る準備を全て整えてくれる」
「上手い商売だな」
「とはいえ、微妙な綱渡りを要求されるから、請け負うのは相当のヤマだけだそうだ」
「ホントにルルフェは詳しいな」
「どういたしまして」

 ルルフェと別れ、リヤンの家に向かうネリィとクローム。
 ネリィは、どこか疲れたように感じた。肩をいからせて話を聞いていたからだろうか。肩甲骨の辺りに痛みが走る。それでも、割のいい仕事が見つかったので当面はお金に困らないだろうと思うと、顔がほころぶ。
 ネリィは、留年時に落とした単位を2つ取り終えていたことから、高等専門校に頼みこんで卒業の手続きをしてもらうことにした。
「悪い、クローム」
「僕も出来るだけ留年を避けるようにする、留年はきついからな」
「サーシャは万全の態勢で卒業できるだろうなあ。勉強教えてもらえば?」
「来年以降、サーシャはどうするのかな。20歳過ぎて此処を出たら働き口もそうそうないだろう?」
「スライの面倒見終えたら、サーシャの面倒を見ればいいさ。なあに、薬草プラスゴールデン・ブラッドともなれば、だいぶ貯金が増えそうだ」

第7章  運び屋

 エルからの連絡は、時期を待たず直ぐに来た。
 クロームは高等専門校の授業があるので、今回はネリィとルルフェだけがエクリュース、ホテル・ラマンを目指す。
 いつもどおり、朝早く起きてトロッコを待つネリィ。ルルフェからは、薬草取引を一件終えてからホテルに向かうという連絡が来た。
 ホテル・ラマンでは、エルが私服に着替えてネリィたちを待っていた。今日は非番らしい。一人で現れたネリィを見て、目をくるくると回すエル。
「今日は一人だけかい」
「違うよ。今日はクロームが授業なんだ、ルルフェが到着するまで少し待ってくれないか」
「了解。それなら、ビーチで寛いでいるといい。ルルフェが来たら教えるから」
「マリエルは?」
「護衛対象の部屋に詰めてる。ここで敵対勢力が来ないとも限らないから」
「マリエルに危険はないのか」
「大丈夫。今日はジェシカもこちらに来ている」
 ネリィは、怖さが半分自分の心を包み込んでいることを思い知った。両足が震えていたのだ。エルはそんなネリィに気付いたのだろう。頑丈な牛革の靴のまま、ネリィは海岸線を見渡せるビーチに出た。
 ビーチに準備してある椅子に座る。大きく息を吸う。心臓が音を立てているのが分る。その音は、次第に大きくなるように感じられた。暫く息を止めて心臓の鼓動を止めようとするが、なかなか止まってくれない。仕方なく、息を少しずつ吐き出す。
 喧嘩していても、こんなにドキドキすることはなかった。漁師の腐れ親父に殴られた時だって、むかつくことはあっても心臓が音を立てることはなかった。
 自分が珍しく緊張していることを思い知ったネリィだった。

 目を瞑り、緊張を解そうとしていたネリィは、いつしか夢の中にいた。
 自分を捨てた母と、隣にいる男性。男性は母の駆け落ち相手ではなさそうだ。誰だろうと顔を見ようとするが、肩までしかみることができない。顔はもやもやとした霧の中のように思えた。小さなネリィを抱き寄せて頬にキスする男性。ああ、自分の父なのかもしれない。その顔に手を伸ばそうとした瞬間、目が覚めた。
 今迄に何回、同じ夢を見ただろう。駆け落ちした母を恨む気は毛頭ないが、父が何処の誰なのか、幼い自分を前に、母はついぞ口にすることが無かった。だからこそ、夢に見るのが、父への哀愁なのか。父がどんな人間だったのか、自分と母を捨てたのか、それだけでも知りたいと思い続けてきた自分を、一人で生きる強い自分が押さえつけてきた。父も母も必要ないと。
 思えば、緊張しそうな場面を前にすると、必ずこの夢を見たような気がする。今回も緊張が先立ちこの夢を見たのかもしれない。今更父を探す気はない。父にも母にも自分にも、新しい生活が始まっているのだろうから。

「ネリィ、ネリィ」
 はっとして、目を覚ます。
 エルが目の前にいた。
「悪い、寝ちゃったようだ」
「いいんだよ、ルルフェが着いた。ホテルを出よう」
 エルの後ろにつき、ネリィはエントランスに回り込む。オデッセが一台、車寄せに停まっていた。その後部座席には、護衛対象を挟むようにルルフェとジェシカが乗っていた。助手席に乗るよう指示するエル。エルが運転手となり、1時間ほどかかるランジュベーヌまでの危険な旅が始まろうとしていた。

 今回の護衛対象は、物静かな老齢の御婦人だった。誰も何も話さない。エルは御婦人に了解を得ると、車のラジオを付ける。
 ラジオからは、郷愁を誘う音楽が流れていた。御婦人は音楽が気に入った様で、この曲はこの時代に作られた、誰が歌っていた、とルルフェやジェシカに話しかけてきた。ジェシカはこういった会話が苦手らしい。主にルルフェがお相手をしながら、ロールライトの賑わいを見せる町、ポルスカに入った頃だった。
 エルは速度を緩め、給油スタンドに入っていく。水素を充電しながら、エルは何処かに電話していた。すると、スタンドの中から二人の人物がオデッセに向かって歩いてくる。
 ネリィには、彼等が敵か味方かわからなかった。思わず握り拳を作り、応戦体勢に入った。
 すると、後ろのルルフェがネリィの右肩をトントン叩く。
「ネリィ、あれがヒジェだ。もう一人はリーマス。入領書類を持って来たに違いない」
 ヒジェとリーマスと呼ばれた青年たちが、エルを見ると、小走りに近づいてくる。そして白い封筒を手渡すと、エルから金を受け取っているのが見えた。給油スタンドの店員は見て見ぬふりをしている。こうして給油スタンドで取引する例は多いのだろう。エルはヒジェたちに別れの仕草をすると、くるりと車の方に向き直り、店員に札を一枚握らせた。
 
「さあ、これでランジュベーヌに入れる」
「書類はあの二人が準備したのか」
 ネリィの質問に、微かに頷いただけで、エルは車を発進させた。御婦人に聞かれたくない会話だったのかもしれない。
 ポルスカを出ると、ランジュベーヌまではあと一つ、町を通り過ぎるだけらしい。クイールという農村部だった。高い建物は殆どなく、見事なまでに緑に溢れた土地なのだという。グールとは正反対の町だなとネリィは心の中で呟いた。

 そんな時だった。
 ドンッ!と凄い音が2回、ネリィたちの車を襲った。エルは速度を上げ、クイールの町を抜けようとハンドルを右に切る。
「何の音だ?」
 驚いたネリィに、エルは何も答えようとしない。代わりにルルフェが口を挟む。
「心配は要らないさ。もうすぐランジュベーヌだ。ネリィ、音楽をもう少し大きな音にしてくれないか」
 頼まれた通り、ラジオのボリュームを上げるネリィ。今の爆音は何だったのだろうと不思議に思いながら、エルの顔を見る。エルはにこやかな顔こそすれど、目は逐次周囲を警戒していた。

 クイールの農村部を駆け抜けて10分も経っただろうか、ランジュベーヌ領府へと通じるドミニク検問署が見えてきた。エルは後ろに注意を払いながら、最後の一歩だとばかりにスピードを上げる。そしてオデッセは検問署に滑り込んだ。
「どこにいく」
「私立医療団から依頼されております。こちらが書類です」
「そうか、通って良し」
 検問署の署員は、書類を受け取ると中を確かめた。そして札束を確認すると、通行の許可を出した。
 ネリィは知らなかった。先程ヒジェたちからもらった書類には、ランジュベーヌで通用する札束が入っていたのだ。
 ここドミニクでは、ロールライトの街中よろしく金さえ払えば通行の許可が下りるのだった。アンデシスやクリムソンからではそうはいかない。エクリュースの場合、ランジュベーヌ領立医療団が要療養と認定すれば、患者は書類無しで往来が可能なのだと聞く 
 ということは、御婦人は領立医療団が正式にドナーと認めた人間ではないということだ。何故、研究用のブラッドを患者なり必要物資と認めないのか不思議に思うネリィだった。
 エルが音楽を消した。
「もうすぐ着きますので、ラジオを消しますね」
 エルは、それだけ言うと、ビルの立ち並ぶ街中を右へ左へとハンドルを切りオデッセを進めて行く。
 中でも高く聳え立つ煌びやかなビルの前に着くと、エルは車を止めた。警備員が近づいてくる。警備員にも札束を握らせ、エルは駐車場へと車を移動させた。
「サマンサ様、こちらランジュベーヌ私立医療団でございます」
 そういうと、エルは運転席を降り、辺りをもう一度見回し、後部座席のドアを慎重に開けた。最初にルルフェが車から降り、サマンサと呼ばれた御婦人が次に降りる。ジェシカは反対側のドアから降りて、急ぎ御婦人の隣に駆け寄った。
 身体を張って護衛対象を守るのだと気付いたネリィも、慌てて助手席から降り御婦人の後ろに回り込む。
 そのまま5人で私立医療団のビルに入っていく。ビルの中は一見静かなようでいて、どこか喧噪を感じさせた。廊下は静かなのだが、ドアの向こうでは会議室やオペ室があるようで、議論やオペが行われているのだと、ネリィは初めて知った。
 
 その一瞬間。
 ネリィは廊下の向こう側にロッシに良く似た姿を見つけた。ひょろひょろとした体格。シルバーの髪に黒い瞳。いつも掛けている黒縁のメガネだけが違っているようだが、ロッシに違いない。クロームがいればロッシかどうか正確に分かったはずなのに。
 でも、どうしてアンデシス大学で学んでいるはずのロッシが此処にいるのか。それがネリィには分らなかった。
 ああ、もうロッシはインターンとしてここで働いているのかもしれない。スライよりも学年は上のはずだから。
 そんなことを考えながらもう一度ロッシのいた辺りを見ると、ロッシは消えていた。周辺を見回しても陰も形もない。
 勘違いだったのか、そんなことを思いながらエルたちの方を振り向くと、皆は階段を上がっていた。ネリィは、またも慌てて皆の方に走りついていく。
 ゆっくりと階段を上がる御婦人。合わせるように歩を進めるエルたち。5人は3階に着くと、とある会議室の前に立った。
 エルが一呼吸おいて、静かに3回、ドアをノックする。部屋の中から姿を見せたメガネに白衣姿の医者と思しき男性は、御婦人を見るとにっこりと笑った。手招きする医者に、御婦人はついていく。エルたちは其処から動かない。医者らしき男性がエルに分厚い封筒を渡すのを見た。
 ここで任務終了なのだ、とネリィは悟った。
 御婦人が会議室の中に消え、残された4人は安堵の溜息を吐く。
 エルが先陣を切って口を開いた。
「ここまでが僕たちの仕事だ。今日は大成功というわけだ。さて、帰りはのんびりといきたいところだけれど、報酬を組織に届けないことには本当の任務終了とは言えない。ここで報酬を盗られたら何もかもが水の泡だからね」
 ネリィは首を傾げながらエルに問うた。
「組織には俺達も行くのか」
「いや、僕がポルスカの町で会った二人組に、もう一度コンタクトを取るから。各自の分け前はあの二人から振り込まれる寸法だ。組織から直接の形は取れないから」

 駐車場に止めたオデッセに近づくと、車の脇腹に2つの大きな凹みがあるのに気が付いたネリィ。
「エル、こりゃなんだ。行くときから凹んでいたっけ」
「途中で物凄い音がしただろう。あれだよ」
 ルルフェが理解に苦しんでいるネリィに教えた。
「あの場では護衛対象がいたから話せなかったけど、今日のオデッセはかなり頑丈な作りなんだ。普通なら弾が貫通して後部座席は漏れなくご臨終だったはずだ」
 ジェシカも流石に驚いたようだった。
「何か打ち込まれたとは思っていたけど。ライフルか何か?」
「さてね、大砲かもしれない。エル、どこから調達したんだい、この車」
「組織から借りている。さ、ここも安全とは言えない。早くロールライトに戻ろう」
 4人の帰路は、音楽を付けながらも、皆口々に今日の初仕事に対する反省の弁や疑問を投げかけるなど、車の中は騒々しい。
 ポルスカに着くと、給油スタンドではなく銀行に車を停めたエルは、先程顔を見せたヒジェとリーマスに封筒を渡した。ヒジェたちがすぐに銀行内に入っていったのを確認し、エルは車に戻ってきた。
「もう大丈夫だろう。此処は組織関連の銀行だから、敵対勢力が攻勢を掛けられるはずもない。報酬は安全にお支払いできそうだ。ありがとう、みんな」
 ルルフェとジェシカが礼を言う。
「どういたしまして。こちらこそ、安全な車で運んでもらって助かったよ」
「ありがとう。あたしはここでサヨナラするわ。クリムソンに戻らないと」
 ジェシカがそこで車を降りた。
 ネリィは、またしても皆から一歩遅れてしまう。
「あ。あの、俺、何か役に立たなかったみたいで申し訳ない」
 エルが、あははと腹の底から笑うような声を出す。
「最初は皆あんなものだよ。ルルフェはこういった仕事も請け負ったことがあるんだろう?」
「まあね。若い頃に少し」
 ネリィは初耳だった。
「そうなのか、ルルフェ」
「元は領府でお偉いさんの護衛の仕事をしていたから」
「どうして薬草バイヤーになったんだよ」
「護衛しきれなくて。お偉いさんが怪我をしたら、クビになった」
 エルが肩を竦めルルフェを慰める。
「それは難儀だったね。だから領府なんざ嫌いなんだ」
「まあ、仕方ないさ」
「ルルフェ、キミ、ホテル・ラマンで働かないか。キミの物腰はオーナーの御眼鏡に適うと思うんだが」
「考えてみるよ、でもなあ、なんだかんだで今の生活も気に入ってるし」
「是非。懇意の客に推薦状を書いてもらうこともできる」
 ネリィが素直な気持ちでエルに聞く。
「エル、俺はどう?」
「キミは下働きなら」
「ちぇっ」
「怒るな、ネリィ。マリエルとそっくりなんだから、キミは」

 そのまま車はホテル・ラマンへと急行する。もうすぐ日が落ちる。ホテルに着いてネリィとルルフェを降ろすと、エルはそのまま何処かに走り去った。車を戻してくるのだろう。ネリィはルルフェに伝える。
「アリエスに一言伝えて、俺達も家に戻ろう」
 
 ホテルフロントにいたアリエスに、もう家に帰ること、マリエルによろしく伝えて欲しい旨を告げると、ネリィとルルフェはトロッコ乗り場に急いだ。終電に近い時間帯になっていた。
「あの車の凹みを見たら、ああ、仕事してるんだ、って気になったよ。ただのドライブじゃないんだって」
「ネリィは初めてああいう車に乗っただろう。僕は慣れてるから。あの車、装甲車並みの頑丈さだった。やはり組織の車なんだろうな」
「普通のオデッセなら危なかったんだろ?」
「ああ。前回もあのオデッセなら皆殺しにならなかったと思うんだが。シェイラの潜入者あたりが仲間に交じったふりをして護衛を殺したのかもしれないな」
「エルが潜入者という可能性はないのか」
「うーん。エルはドラップの中でも高い地位にいると思うんだ。ルイスゴールとやり取りできるくらいの」
「ドラップの親玉の?」
「そう。確か、ポージュ、だったかな。ルイスゴールのボス」
「ルルフェはやっぱりホテルマンの方が似合ってると思うよ。何かと覚えも早いし。人の顔を覚えるのも早いんだろう」
「僕の特技だからね、相手の顔を覚えるのは」
 ネリィはポージュとニアミスしたため、ポージュが自分の名を知っているという事実をマリエルたちから知らされていなかった。

「ところで、いつ頃報酬が手元に入るんだ?」
「エルに聞かないとわからないな。ヒジェかリーマスの名で振り込みになるんだろう」
「早く欲しいなあ。スライの生活費が底をつきそうなんだ」
「マリエルを通じて、エルに話してみるといい」

 グールの町に着いた。ネリィは手を振ってトロッコに乗っているルルフェと別れる。空は赤く染まり、綺麗な夕焼けが広がっていた。明日も天気がいいのかもしれない。
「さて、と。腹へったな。今日の夕食、何かな」
 リヤンの家では、クロームがネリィの帰りを待っていた。
「ネリィ、遅かったな」
「クローム。初日だったからか、緊張しっ放しだったよ」
「無事に護衛できたのか」
「車に2発ほどぶち込まれたけど、頑丈な作りの車で助かった」
「まさに、危険と隣り合わせってわけだ」
「でも報酬はそれなりに入ると思う。早くしてくれないかな、生活費が底をついちまう」
「スライの?こないだ入れたばかりじゃないか」
「医学コースはかなり金がかかるらしいんだ。我慢させたくないからな」
 翌日、ネリィは振込のあるはずの銀行口座を確かめに行く。窓口で記帳してもらい、目が飛び出んばかりに驚くネリィ。薬草売りでひと月稼ぐよりも200%増しの報酬が口座に入金されていた。早速、スライ専用口座にお金を移す。これで当面の生活費に心配は要らないだろう。
 その後、暫くはエルからの誘いも無く、薬草の売り上げをスライ専用口座に入金し、たまに市場に顔を出すくらい平穏な生活をしていたネリィだったが、護衛時のあの緊張とある種の興奮を、早く味わいたい自分がいることに気が付いた。渓谷で行われるバンジージャンプと同等の、いや、それ以上の緊張と興奮が身体を痺れさせ、頭すら麻痺させる。
 しかし、珍重なブラッドの持ち主が見つからなければ、仕事にはありつけない。自分で探すのは無理に等しい。緊張と興奮を味わえないまま、もどかしい思いだけがネリィの頭の中を空回りしていた。

 一方のスライは、大学の医学コースで必要なお金は、自分が思った以上に要することに頭を悩ませていた。必要最低限の出費だけネリィにお願いしていたが、月に何度もお願いするのは気が引ける。何かアルバイトが無いか、それとも積み立てていた奨学金を取り崩して使ってしまおうかとさえ考えていた。
家庭教師のアルバイトをする同級生もいたが、スライはオンオフの切り替えが上手くできない。大学のレポートを纏めるだけで1日が終わることもしばしばだ。この生活ではアルバイトは難しい。となれば、奨学金を溜めている専用の口座からお金を用立てよう。
 スライは、授業の無い日に銀行へと足を向けた。
 専用口座の残高は、奨学金20ペイ×振り込まれた回数。年に6回振り込まれるはずの奨学金は、確か今迄に3回、振り込まれていたはずだ。60ペイあれば、当座のお金には困らない。
 そう思っていたスライだったが、銀行で記帳した際、驚きの数字が目に入ってきた。1万ペイものお金が奨学金とは別に振り込まれていたのである。それは、ネリィがつい最近、振り込んだお金のようだった。
 何故これほどの金額を手にしたのか、どこから手に入れたのか。
 その夜、スライは薬草取引に出掛けたネリィが帰るのを待った。
 ネリィは、まだ夕方だというのに、酒でも飲んだのかほろ酔い加減でリヤンの家に戻ってきた。
「スライ、どうした。勉強忙しくないのか」
「そんな事より、ネリィ、どうして1万ペイものお金が僕の口座に入金されているの」
「お前は何も心配しなくていい」
「何か危険なことに足を突っ込んでいるわけじゃないよね」
「大丈夫だ、心配いらないって」
「でも」
「スライは心配性だからな。勉強どうなんだ」
「実際、お金がかかるよ。奨学金を取り崩そうと思ったくらい」
「そうか。振り込んだのは別に汚い金じゃない。成功報酬さ、安心して使えよ」
「成功報酬って?」
「まだスライは知らなくていい」
 ネリィはそういうとスライを半ば押しのけるようにしてシャワー室に向かった。スライは成功報酬の意味がはっきり掴めずに悶々としたが、ネリィが話したくないというスタンスをとったので、それ以上突っ込んで聞くことができなかった。
 誰かその意味を知っている人がいないだろうかと、スライは考える。
 クロームなら知っているかもしれない。スライは2階に上がり、クロームの部屋のドアをノックする。クロームは何処に出掛けたものやら、中から返事は無かった。
 マリエルたちが何か知らないだろうか。先日も、ネリィとクロームはエクリュースに行ったと聞く。マリエルとアリエスはホテルのフロント係として働いているはずだが、夕刻を指す今の時間帯なら、フロント業務も一段落したかもしれない。アリエスは必要以上のことを話さないが、マリエルはたまに話さなくていいことまで話してしまう性格だ。
 スライは携帯電話を取り出すと、アリエスではなく、マリエルの電話番号を押した。
 呼び出し音が鳴るが、マリエルが出る気配はない。一度電話を切って2回繰り返したが、マリエルは電話に出なかった。仕方なく、アリエスに電話する。今度は、呼び出し音が鳴るとともにアリエスの声が聞こえた。
「アリエス、今忙しい?」
「ちょうど一段落したところ。スライ?久しぶりね、どうしたの」
「ネリィが僕の口座に1万ペイ振り込んだんだよ。何か危ないことに手を出しているんじゃないかと心配で」
「そういえば昨日、こちらに来ていたみたい」
「エクリュースで何かしてるの?」
「さあ、どうかしら。マリエルの方が知っているわよ、電話させる?」
「マリエルは電話に出ないんだ、どうしてだろう」
「知らなかったのね、マリエルったらオーナー怒らせて下働きになったの。今は皿洗いに没頭してるはずよ」
「そうだったんだ。じゃあ、マリエルの仕事が終わったら電話くれるように頼んで」
「了解。でも夜半過ぎになるわよ、大丈夫?」
「うん、電話くるまで待ってるから」
「なるべく早く電話させるわ」
「うん、宜しく頼むよ」
 やはりアリエスから情報を得ることは叶わなかった。アリエスも事情を知らないのかもしれない。
 スライは心が急いていたが、こればかりはどうしようもない。自分の部屋に戻り、医学コースのテキストを開きながらマリエルからの電話を待つ。
 だが、連日の夜通し勉強がスライの身体を疲れさせていた。スライは机に突っ伏すと、そのまま寝息を立てるのだった。

 そうしてどのくらいの時が経ったのだろうか。
 スライの電話が鳴った。吃驚して目覚めるスライ。ああ、マリエルからの電話だと眠い目をこすりながら電話に出る。
「やあ、久しぶり、マリエル」
「元気?スライ。眠そうな声ね、起こしちゃってごめんね」
「いいんだ。ね、マリエル。ネリィが何の仕事してるかわかる?僕の口座に1万ペイの振り込みがあった。危ないことしてるんじゃないだろうね。確か、成功報酬とか言ってた」
「大丈夫よ、その話なら」
「どういう仕事?」
「ゴールデン・ブラッドの持ち主をランジュベーヌ医療団まで護衛するみたい」
「護衛?」
「付き添いみたいなものよ。ゴールデン・ブラッドって珍しいんでしょう、事故に遭わないように付き添うだけらしいわ」
「それであんなに高額な報酬が手に入るの?」
「金額までは知らなかったけど、心配いらないって。マズイ組織とかの話じゃないから」
「誰が紹介した仕事なのさ」
「ここのホテルマンよ。ほら、ここって静養地だったりするじゃない。だからそういう話題も耳にするわけ。ネリィにも頼まれていたしね」
「何を頼まれたの」
「ゴールデン・ブラッドの噂を聞いたら教えて欲しいって」
「マリエルが教えたんだ」
「うん。たまたまホテルマンと話していたらその話になったのよ」
「教えなきゃよかった」
「どうしたの、スライ」
「僕なんだ、ネリィにゴールデン・ブラッドの話を教えたの。まさか今の時代にそんな仕事があるとは思ってもいなくて」
「そうだったの。でも大丈夫だから。ホントに心配しないで」
 スライは何も答えることができずに、マリエルたちの近況を聞いた後、電話を切った。自分のせいで、ネリィが危ない仕事に手を出しているのではないか。そのことだけがぐるぐると頭の片隅で蠢く。


 大丈夫、簡単な仕事なんだ、大丈夫。
 でも。僕があんな話さえ持ちださなければ、ネリィはゴールデン・ブラッドのことを知り得たわけがない。全部僕のせいだ、ネリィに何かあったらどうしよう。
 あんな大金が一度に入るなんて、ネリィもマリエルも大丈夫っていうけど、そんな簡単な仕事であれだけの大金が動くはずがない。
 研究できるかも、なんて浮かれてネリィに話した僕が悪い。
 どうしよう、何ていえばネリィは仕事を諦めてくれるだろう。
 ゴールデン・ブラッドの持ち主は世界中を探してもほんの一握り。そう易々と仕事が舞い込むわけでもないだろう。年に一人いればいい方に違いない。
 でもでも。今度いつそんな仕事が舞い込んで、ネリィが危険な目に遭うかもしれない。


 スライの疑念は払拭されない。眠ろうにも目は冴え、明け方まで寝返りをうつだけで、とうとう寝ることの出来なかったスライだった。

第8章  心の拠所

 ゴールデン・ブラッドの持ち主は、そうそう現れるものではない。エルからの連絡は半年以上なかった。
 その間、薬草取引で生計を立てるネリィだったが、クロームが晴れて念願の高等専門校卒業にこぎつけた。サーシャも同様である。
 二人の卒業は、めでたいことでもあったが、逆に、困ったことでもあった。
 クロームは時間が自由になった分、薬草取引やエルからの情報が齎された時に自由に行動できるが、サーシャはリヤンの家から出ることも無く、掃除洗濯と毎日一人で家事を行っていた。文句ひとつ言わずに。

 ネリィとクロームは、何とかサーシャが外に出そうと誘ってみるが、一向にイエスの返事はない。
 そんなある日のこと。
 クロームが朝早くにリヤンの家に走って戻ってきた。ネリィは朝から高いびきである。クロームがドンドンと荒っぽくネリィの部屋をノックする。仕舞いには、鍵のかかっていないネリィの部屋にクロームが入り込み、ネリィの鼻を親指と人差し指で塞ぐ。
「うっ、ごえっ、げほっ」
「ネリィ、起きろ、ネリィ」
「なんだよ、クロームか。何が起きたかと思った」
「おい、大事な話だ。声を低くして」
「また大袈裟な」
「ホントだって。実はな、近頃この辺でサーシャらしき女子を訪ね歩いてる中年親父がいるらしいんだ」
「何だ、それ」
「誰なのかはわからない。でも身なりは結構良くて、どうも雇われ探偵といった風情なんだとさ」
「誰かがサーシャの居所を知るために探偵雇ったと?」
「そう。サーシャにはまだ内緒にしてくれよ。相手の素性も分らないし」

そんなことが続き、ネリィもクロームも、サーシャの買い物にはどちらかが付き添い安全に注意を払っていた。
ある晩、また、サーシャの部屋から夢で叫ぶ声が聞こえた。サーシャはリヤンの家に来てからしょっちゅう夢でうなされ叫び声を上げていた。
マリエルたちがいた頃は、マリエルかアリエスがサーシャを宥めに部屋に入ったのだが、今、女子はサーシャしかいない。誰も部屋に入れずに、夢でうなされるサーシャの叫びは続く。
その晩に限っては、ネリィが眠れずにまだ起きていた。ネリィは意を決してサーシャの部屋をノックした。一旦目を覚ませば悪夢に追いかけられることもあるまいと。
すると、サーシャが起きて部屋から出てきた。
さて、困ったのはネリィである。いつもなら「五月蝿い、五月蝿い」と憎まれ口を叩いたものだが、涙を流すサーシャが目の前にいては、そんな言葉を投げつけるわけにもいかない。

 サーシャは、いつもと違っていた。しばらく考えていたが、ついに、一言ネリィに申し出た。
「話を聞いてくれる?ネリィ」
「ああ。いいよ。寝なくていいのか」
「寝てもまた悪夢が襲ってくるもの」
「わかった、それなら下に降りよう。寒いからひざ掛け持てよ」

 階下、リビングルームに相当するテーブルに、ネリィたちは移動した。サーシャが温かいココアを二人分作ってテーブルに置いた。
 どちらからともなく、ココアを飲み始める。
 ココアをテーブルに置いたサーシャは、一呼吸おいて、小さな声で話し出した。
「私ね、此処に来る前はランジュベーヌで暮していたの」
「そうだったのか」
「父は医者、母は看護師。たぶん、お金持ちだったんだと思う。習い事は毎日していたし、家には車もあったし、ハウスキーパーさんや警備員さんもいたから」
「そうか、此処とはえらい違いだ」
「でもね、あの日、父と母は喧嘩してた。私のことで」
「サーシャのこと?」
「そう、私、父の子じゃなかったって。母が別の医者と懇意になり孕んだ子だって」
「不倫相手の子どもってことか」
「はっきり言うのね」
「自分から言いたくないだろ」
「そうね、そんな事、つゆにも思わなかった。相手の男には家庭があったみたい。父は真実を知って、自ら家に火を放ったの」
「お父さんが?」
「うん。みんなで死のうって。母を詰り、私に憎々しげな目線を送って、直後に自らに火を放った。母にも同様に火を放ったの」
「壮絶だな」
「燃えていく家の中で、私思った。私は生き延びても幸せになれない、死んだ方がいいんだって」
「悲しいこと言うな」
「でも死ななかった。消防団の人が助けてくれたの。辛かった。顔はこんなになるし、両親は居なくなるし、生活していく術もないし」
「で、すぐリヤンの家に来たのか」
「ううん。親戚を頼りアンデシスに来たの。母の姉がいたから。面倒を見てくれるはずだった母の姉が急死しちゃって、行くあてが無くなって」
「それで此処に来たのか」
「うん」
「もう、悪夢を見なくて済むぞ。俺達みんな、お前のこと大事に思ってるから」
「ありがとう。学生で無くなったら、また一人になるから誰かに話したかったのかも」
「俺達、みんな色々あるから。泣きたいときは泣けばいいし、我慢するな」
「ありがとう。みんなが此処を出る時まで家事するからね、安心して」
「マリエルは五月蝿かったからなあ」
「でも、楽しかった」
「そうだな、またみんなで広いアパルトモン借りて住むのもいいな。エクリュースにさ」
「うん。ルツを引き取って、みんなで住みたい」
「いいな、気候もいいし、向こうは。ここは工場の煙臭くてかなわん」
「そうだね。エクリュースで、何処かのホテルの下働きしようかな」
「下働きはマリエルに任せとけ。さ、今日は寝るか」

 ネリィは、本気でエクリュースにアパルトモンを借りようかとも思った。ただ、大学に通うスライの卒業を待たなくてはならない。また、薬草取引もエクリュースでは無理かもしれない。
 だが、気になるのは探偵紛いの人物だ。サーシャの過去に関係があるのだろうか。サーシャが過去を思い出す様な人物なら、会わせない方がいいような気がした。
 
 翌朝、またしてもクロームが明け方にリヤンの家に戻ってきた。寒い時期、厚手のコートを着込んで何を知りたいのか。ネリィが思うに、サーシャの身辺を洗い出している探偵とやらを反対に探っているに違いない。
 クロームは、部屋に入るとシャワーも浴びず寝てしまったようで、そのうちにイビキが聞こえてきた。サーシャの過去を話す気にはなれなかったが、現在サーシャの周囲に起きている異変を察知したいのはネリィも一緒だった。

 ネリィが次に目覚めたときは、太陽は高く上がっていた。クロームとサーシャしかいなかった。スライやロッシは大学に行っていたし、ルツはエクス学校だ。イワンも何処かに出掛けていた。
 サーシャは屋外に洗濯物を干す仕事を終え、エプロンを外して夕食の買い出しに出かけるところだった。リビングの椅子に畳んだエプロンを置く。そこに、クロームが起きて部屋から出てくる。ネリィも階段の辺りまで歩いていた。
「買い物に行ってくるね」
 サーシャは一人で出かけようとしていた。クロームが歯を磨きながら叫ぶ。
「待った!一緒に行くから」
 サーシャは、にこりと笑うとクロームが着替え終えるまでリビング椅子に座って待っていた。
「行ってくる。ネリィ、何かあったら宜しくな」
「了解」
 ネリィは階下に降りて、自分で湯を沸かし珈琲を入れる。砂糖もミルクも入れない。ブラック珈琲が好きなのではなく、砂糖やミルクを入れかきまぜるのが面倒なだけだ。
 サーシャが座っていた椅子に座りぼんやりとしていると、門がギギギ、と音を立てるのが聞こえた。さて、二人が帰ってくる時間ではない。忘れ物でもしたのだろうか。
 玄関に向かうネリィ。すると、ドアをドンドンと叩く音が聞こえた。リヤンの家の者なら、基本、昼間は玄関の鍵を掛けないことを知っている。ということは、リヤンの家に慣れていない人間の登場、ということだ。
 ネリィも負けずに大声を出す。
「どなた?」
「ランジュベーヌから来たラッセルといいます。サーシャさんのことで、お話伺えますか」
「サーシャは今、いないよ」
「構いません、こちらにお住まいと聞いて伺いましたので」
 仕方なく玄関を開けるネリィだった。
 ラッセルと名乗る男性は、玄関先で早口で捲し立てる。
「サーシャさんはいつ頃こちらに?」
「13歳からかな」
「顔の左半分に火傷を負っていますよね」
「それが何か」
「サーシャさんを探しておられる方がいらっしゃるのです。サーシャさんの火傷を治療することを希望していらっしゃいます」
「サーシャはランジュベーヌに入れないだろう?」
「いえ、もう手続きは済んでおりますので、今すぐにでもランジュベーヌで受け入れ可能な状態です」
「サーシャが帰ったら話すから、連絡先を教えてくれ」
「ありがとうございます。それでは、サーシャさんによろしくお伝えください」
 ラッセルは、コートの右ポケットからメモ用紙と左胸からペンを取り出し連絡先を書きこむ。
 メモをネリィに渡すと、ラッセルは深くお辞儀をしてリヤンの家を後にした。口笛を吹きながら遠ざかるラッセルを見て、ネリィはほっとしたのが半分、疑わしいと思ったのが半分だった。
 近頃この辺でサーシャのことを聞きまわっていた探偵モドキは、ラッセルに違いない。サーシャの火傷を治すために、サーシャを探している人物がいるという。その人物は、ランジュベーヌで治療すると明言していた。すぐにでも治療できそうな言い分だった。それが本当なら、サーシャのためになるだろう。サーシャにとっての苦しみが一つ減るのだから。
 
 あとは、いつこの話をサーシャにするべきか、だった。クロームの情報を待って、クロームから話してもらおうかとも考えた。ネリィに過去の苦しみを吐露したサーシャ。今更都合の良い話をしても、サーシャは固辞するのではないかと思えた。

 クロームたちが買い物から帰ってきた。
 サーシャは昼の支度をするために台所に消えた。
「クローム、2階へ行こう」
 ネリィはクロームに声を掛けた。クロームも何か話があるようだった。
 クロームの話を先に聞くことにした。
 そこで、驚くべき内容が明かされた。
「探偵らしき男は、ラッセルという。ランジュベーヌにいるサーシャの実父から頼まれたという情報だ。今すぐランジュベーヌに連れ帰り、共に暮らしたい、その中で火傷の治療も進めていく、という流れらしい。ただ、継母がいるし、その子供たちもいる。サーシャにとってそれが吉と出るか凶と出るかはわからない」
 ネリィは小さく何度も頷く。
「そのラッセルが此処に来た。今すぐ治療できる体制にあるそうだ。向こうでは、サーシャからの連絡を待っている」
「一人で行かせるのは忍びないな。付いていけないのかな」
「サーシャ次第だろ。片道だけでも付いていければ安心なんだが」
 二人は考えた末に、サーシャがラッセルに連絡する際、付添=護衛役としてネリィ及びクロームを指名させることで、意見の一致を見た。サーシャにはクロームから話しを振ることも確認した。ネリィは、サーシャの過去については、自分だけが墓場の底まで持っていく覚悟でいた。

 昼食の準備ができたらしく、サーシャが皿とフォークを持ってリビングに戻ってきた。ネリィは一旦席を外し、クロームがサーシャを待ち受ける。
「サーシャ。とある人物が、キミの火傷痕を治療したいと望んでいるそうだ」
「あら、そんな篤志家がこの世にいるの?」
「よく聞いてくれ、どうやら、キミのお父さんだという話なんだ」
「父?私の父は・・・」
 言いかけて、サーシャは黙りこんだ。実の父だと理解したらしい。
「条件でもあるのかしら。何年も経って今更そんなことを言い出すなんて」
「いや、キミが此処に来た頃からずっと探していたそうだよ」
「まさか。でも、資金提供と思って治療するのもいいかもしれない」
「ランジュベーヌで治療するそうだ。今の医学は発達しているから、きっと成功するよ。それでさ、僕たちが付き添いで一緒に行きたいと思ってる」
 サーシャは暫く考え込んでいたが、火傷痕をクロームに見せないように頷いた。
「わかった。それで、私はどうすればいいの」
「仲介役をしているラッセルという人物に連絡して欲しい。その時、付添を2名連れて行く、と申し出て欲しいんだ」
「貴方とネリィね」
「そう。万が一、偽の情報だとサーシャの身に危険が及びかねないから」
「クローム、ありがとう。ネリィにも伝えておいて」

 昼食後、サーシャは自室に引き籠り、夕餉の支度まで出てこなかった。実父からの資金提供と割り切ってオペを受けるといったものの、心では葛藤が渦巻いていたのだろう。会ったこともない実父だ。
 事情を知っているネリィもまた、複雑な心境で事の成り行きを傍らから見ていることしかできなかった。自分だったらどうするか。今更実父など出てきたところで、苦労した時間は、針を逆に戻せはしない。
 それでも、サーシャの場合、引き取ってもらえればまた裕福な家庭で暮せる。サーシャのためには、これが一番良い方法なのかもしれない。
 夕餉のあと、ネリィの代わりにクロームがラッセルの連絡先をサーシャに渡した。サーシャは自室に篭り、ラッセルに電話しているようだった。
 願わくば、往路の付き添いが認められますように。ネリィとクロームは、そう願った。
「ネリィ、クローム。付き添ってもらえるかな、相手からはOKが出たわ」
「了解。いつ発つんだ」
「明日だって」
「早いな、みなに挨拶もできやしない」
「大丈夫よ、ここに戻るもの。皆を吃驚させなくちゃ」
 ネリィたちは返事が出来なかった。
 サーシャはオペ後の生活について、ラッセルから聞いていないのだろう。リヤンの家に戻れると思っているのだ。
 精一杯の笑顔を作ったネリィとクロームは、心なしか嬉しそうなサーシャにシャワーを浴びるよう言い含め、自分たちは2階のクロームの部屋に入った。二人とも無言のまま、時間だけが過ぎる。これがサーシャとの別離になるかもしれないと思うと、寂しかった。
 それでも、サーシャが幸せに暮らせる日が来たのなら、自分たちは彼女の背中を押して幸せの輪の中に後押ししなくては。それが自分たち二人に出来る最後のプレゼントだった。

 翌日、早々にラッセルがリヤンの家を訪れた。
 イワンに何か報告しているようだった。サーシャのことを事細かに話しているように見える。ラッセルが外に出た後、イワンは、ネリィとクロームを呼んだ。
「お前たち、事情は聞いているな」
「ああ、聞いてる」
「じゃあ、サーシャを無事送り届けてくれ」
「了解」
 ラッセルが準備したオデッセに乗り、4人はランジュベーヌを目指す。検問署では、ラッセルが通行許可証を出すとすんなり入ることができた。ロールライトから入るのとはわけが違うな、とネリィは思う。こちらは正式な許可証なのだろう。
 リヤンの家から1時間走ると、ランジュベーヌ最大の都市、ロコモアに着いた。医療団のある町ではない。
 とある豪邸に車を寄せ、ラッセルは車を降り門の隣にあるインターホンを押す。中から、上品そうな中年男性が出てきた。手招きされ、車は家の敷地内に入った。

 他の家族の姿は見えない。もしかしたらサーシャを歓迎していないのかもしれない。そう思うと、ネリィもクロームも胸が痛んだ。
「サーシャ。オペして笑顔になるんだぞ」
「うん、ありがとう」
「俺達、一旦リヤンの家に戻るよ、元気で」

 サーシャとの会話は少なめにした。本当のことを言ってしまいそうだったから。
 上品な男性は、サーシャを連れて家の中に入っていった。
 ネリィとクロームは、復路の通行許可証を貰って、そこを離れたのだった。

 サーシャからは、オペする前の緊張やオペ後の痛みなど、ほぼ毎日ネリィにメールが届いた。簡単な言葉で返事をするネリィ。

 そしてひと月が流れた。
 サーシャからリヤンの家に手紙が届いた。オペが成功し、元の顔を取り戻したサーシャの喜びが綴られていた。オペの次にはリハビリテーションも必要ということで、落ち着くまで、実父のところで世話になると。写真も同封されていた。写真には、畏まったサーシャが写っていた。まだ、笑顔ではない様子から、サーシャが家族に気を遣っているのがわかった。

 二人の心配は当たってしまった。サーシャは心から笑えない場所に身を置いていた。
 実父のピュータはとても優しい人だったが、家族に自分を「昔の同僚の娘」と紹介した。それは、火事で亡くなった育ての父のことを指していた。
 継母や兄弟姉妹も表立って苛めることは無かったが、上辺だけの笑顔。心の底から優しい言葉を掛けてくれることは殆どなかった。サーシャは、まるで自分が機械であるような錯覚に捉われた。


 サーシャは、実父の優しさに感謝しつつも、実の娘と認められないことにがっかりしていた。此処では自分自身、笑顔が作れないことに気が付いた。
 考えた末に、サーシャは実父にアンデシス大学医学コース付属の看護師コースで看護の勉強をしたい、と申し出た。実父はランジュベーヌではいけないのかと引き止めつつも、アンデシスに戻ることを特段止めはしなかった。実の家族に対する贖罪の意味もあったのだろう。

 そうして、サーシャは再びリヤンの家に戻ることになった。
 イワンから、サーシャが戻ると聞いたネリィとクロームは、喜びよりも悲しみが勝っていた。結局サーシャは父親に受け入れてもらえなかったのでは、と。
 リヤンの家の門が、ギギギ、と音を立てる。誰かが入ってきた。たぶん、サーシャなのだろう。
 
 ネリィたちは努めて明るい笑顔を作り、サーシャを出迎えた。
 一番喜んでいたのは、ルツだった。
「サーシャ、ホントにサーシャなの?」
 サーシャの顔は、昔と違って晴々としていた。
「そうよ、ルツ。リハビリ、ようやく終わったから」
 ネリィが茶化す。
「そうか、お前がいなくてこの家は崩壊寸前だったぞ」
「誰が家事をしたの?」
「俺とクローム。飯は不味いし、掃除は一切してないし。洗濯物も溜まり放題だ」
 あはは、とサーシャが笑った。昔は前髪で顔の左半分を隠していたが、今は前髪を切りお人形のような可愛らしい顔立ちが明瞭になっている。
「これからどうするんだ、エクリュースに行ってホテルで働くのか」
「ううん、此処に残る。大学に行きたいの」
 サーシャが、アンデシス大学医学コース付属の看護師コースで看護の勉強をする、と聞いてネリィたちも喜んだ。スライと一緒に学ぶ機会も増えるだろう。
 ネリィは一瞬、授業料の心配をしたが、サーシャはその表情を見逃さなかった。サーシャの実父のピュータから資金提供を受けることを話したところ、ネリィは肩の力が抜けた。

 看護師コースの入学試験は目前だったが、サーシャは持ち前の粘りで寝ずに勉強し、見事合格した。2年間の勉強である。スライと一緒に卒業するコースを選んだのだった。

第9章  深まる謎

 それから1年が過ぎた。
 スライは、サーシャがアンデシス大学看護師コースに合格したのをきっかけに、一緒に仕事をすべく、ランジュベーヌでインターンとして働く最後の授業に取り組んでいた。
 忙しさのあまり、ネリィたちがゴールデン・ブラッドの持ち主の護衛をしていることも忘れている時があった。
 実際、ネリィたちが護衛をした仕事は、今迄1回のみだったが、運が悪く、スライがランジュベーヌに移動した直後、またエルから御呼びが掛かった。今度は、クロームも入れて総勢5人でゴールデン・ブラッドの持ち主の護衛をすることになった。ジェシカは、ロールライトのポルスカで待っていたが、エルはオデッセよりも大きいオデッセルと呼ばれる大型の車を用意した。
 今度も頑丈な車らしく、途中で弾丸を受けても車体が凹むだけで、窓ガラスにはヒビも入らない仕様だった。今回の護衛対象は、30代の男性だった。病院で献血をしたところ、ゴールデン・ブラッドの持ち主と判明したという。
 献血された血だけを運ぶ予定だったが、急に大量の輸血が必要になり、ランジュベーヌに向かうとのことだった。
 ネリィは、スライと鉢合わせるのではないかと冷や冷やしたが、途中、ライフル襲撃を受けた時点でスライの事は頭から抜け落ちていた。
 ポルスカでジェシカを拾い、給油スタンドでヒジェ及びリーマスからいつもの書類を受け取り、ランジュベーヌに向かおうかというとき、エルがポルスカで降りた。所属組織の会合で抜けられないという。結局、運転ができるルルフェとクローム、ジェシカと4人が護衛役となり、医療団を目指す。
 今回も途中での襲撃は目に見えている。ルルフェは裏道も熟知しているようで、追撃の手をかわしクイールの町に入った時だった。
「後ろから車が付けている。あれをまくから、少し運転が荒くなりそうだ」
 ルルフェがいう後ろの車を見て、ジェシカが素っ頓狂な声をあげた。
「フェイル!フェイルだわ。何故こんなところに」
「知り合いか」
「お世話になってる家の人なの」
 その時だった。また、ドン!という襲撃音がする。車の横っ腹から聞こえてきた。ジェシカは気が気でないようで、後ろの車を気にしている。と、急に後ろの車がスピンして電柱にぶつかった。ジェシカは危険を承知で時速80キロは出ている車から飛び出し道路に転がった。
 フェイルの乗った車は炎上し、ジェシカだけを取り残したが、ルルフェはスピードを緩めようとはしなかった。
 シェイラのライフル銃から放たれた弾がフェイルの乗った車に当たり、然程頑丈でないフェイルの車は壊れ人体にも影響があった可能性は否めない。
 ただ、それを気にしている暇はない。それでなければ、こちらが捕まってしまう。皆はジェシカとフェイルとやらを心配しつつも、ランジュベーヌに向かい全速力で車を走らせる以外に方法は無かったのである。ドミニク検問署で早々に札束を署員に握らせ、ランジュベーヌの街中をこれまた裏道を通ってルルフェは私立医療団へと急ぐ。
 ネリィは車の中からジェシカに電話したが、呼び出し音が空しくなるばかりだった。
 私立医療団に着いて、警備員が近づいてくるのを確認する。警備員にも札束を握らせ、ルルフェは駐車場へと車を移動させた。裏口から私立医療団内部に護衛対象を道案内する。
 ネリィは、ルルフェが私立医療団の内部さえも知り尽くしているのだと知り、ルルフェの過去に興味を持った。やはり、ただのバイヤーではないし、領府の使い走りでもなかったのだろう。
 そのとき、ネリィの電話が鳴った。ジェシカからだった。
「無事だったか、知り合いの男性は」
「今、ロールライトの医療施設に運ばれて手術してる。ライフルには当たらなかったみたいだけど、炎上した車から出られなくて。火傷を負ったの」
「心配だな。今日はそのままそちらについていると良いよ」
「あたしの行動が怪しかったから、クリムソンから付いて来てたのね、知らなかった」
 
 エルは最初に私立医療団に着いていた。
 ジェシカからエル宛に電話がきたという。フェイルという男性は体中に火傷を負い、これから先も何度か手術を要する、とのことだった。
 エルが皆を見回して、残念そうに言葉を選んでいるのがわかった。ジェシカは自分からこの仕事に飛び込んできただけで、エルが見初めたわけではない。
「ジェシカのことだ、彼を見捨てられないだろう。ジェシカの協力は今回限りだ。もうジェシカの協力は仰がない方向で進めたい」

 ジェシカは、護衛から抜ける決断をした。フェイルの親が怒り心頭に発しジェシカを追い出そうとしたところ、逆にフェイルからプロポーズを受けたのだという。ジェシカは護衛の仕事を辞め、クリムソンでフェイルとともに生きていく覚悟を決めたのだった。
「おめでとうと言っていいのかわからないけど、これで良かったのだと思う。今回の報酬は要らないというんだが、半分だけは出そうと決めた。皆、了解してくれ」
「俺達は構わないよな、クローム」
 
 ネリィは私立医療団の建物の中で、前回ロッシらしき人物を見かけたが、今日は影も形もない。その代り、今回はスライとばったり鉢合わせしてしまった。
「ネリィ、こんなところで何を?」
「スライこそ。領立医療団にいるんじゃないのか」
「たまたまこちらに用があっただけさ。それよりネリィ、誰もが入れるところじゃないよ、ここは。また護衛?」
「そんなところだ」
 スライはネリィの耳元で低く囁く。
「いい加減、手を引きなよ」
「大丈夫だって。ルルフェもいるし」
「護衛して怪我する割合は凄く高いそうだよ」
「何人かで動いてるから、心配いらないさ」

 エルがスライの顔を見て近づいてきた。
「ネリィ、こちらは?」
「アンデシスで一緒に住んでいるスライです」
「スライ。ネリィとクロームは僕が誘ったんだ。申し訳ない」
 スライは途端に顔を赤らめる。
「いえ、安全でさえあればいいのですが、ネリィはすぐ無茶をするので」
「僕とルルフェがいるから大丈夫」
「それならいいんですが。あ、呼ばれてる、僕、行かなくちゃ」
「おう、インターン頑張れよ」
「ときにエルさん、前回のターゲットは老齢の御婦人でしたか」
「そう」
「今回はあちらの30代男性ですね」
「そう」
「承知しました。ここまで送り届けていただき感謝します」

 そういうと、スライは走って奥に消えていく。お小言を聞かなくて済んだ、とは、ネリィとクロームの二人である。
 エルを加えた4人は、その足でポルスカを経由し、ヒジェとリーマスに会ったのち、行動を別にするのだった。
 
 
 こちらはスライ。
 1年前に御婦人がゴールデン・ブラッドの持ち主として研究書類にサインがあったが、今はもう御婦人の姿は見えなかった。献血をして、家に戻ったものと思っていたスライ。
 今日来た30代男性も、先程献血室に入っていったきり、戻ってこない。どこか別の通用口でもあるのだろうか。
 スライは気付いていなかった。血の提供者が、いつの間にか姿を消している。献血を終えれば家に帰るため、ネリィたちが帰路も送り届けるわけではないのか。先輩医師に聞いたところ、ランジュベーヌ内で居住許可が下りて棲家も用意されるのだという。それでスライは納得した。お宝とも呼ぶべきこの血を持っている人は、今後の生活も保障されるのか、と。
 先輩の医師は嘘をついていた。インターンのスライには教えていないだけで、ブラッドの持ち主は、オペ室に連れて行かれ、麻酔をしたのちに全身の血液を抜かれていた。勿論、他の血液を補充するわけもない。
 そう、持ち主は故意に死亡させられていたのである。
 忙しく働いているインターンのスライは、そのような非道を事実として知らされていないのだった。

 私立医療団のオペ室はいつも予約で満杯だった。
 派手に着飾った女性や、ギラギラとした宝飾品を身に付けた男性、金持ちそうなご老体、色々な人が手術=輸血のために私立医療団を訪れる。
 それらの人々は、いつも諍いの渦中にいた。自分が先だと喧嘩腰に言いあうのである。スライにしてみれば、緊急を要する案件に対して序列が高いのであって、金持ちだから順番が早いという考えは間違いだと思っていた。
 ところが、私立医療団という施設は、スライのような一般人の考えが及ぶような場所ではなかった。
 金を潤沢に所持している人、領府の偉い人、身分の高い人々が犇き合い、諍いながらオペの順番を待っていた。それにしても、この人数に、ブラッドの血液量が間に合うのか、そんな心配がスライにはあった。一人のブラッド持ち主が現れると、その10倍は人が集まるのである。
 ブラッド500ccの献血量にしては割に合わない数なのだが、なぜかオペ室は全て満杯であった。
 金持ちたちが諍いを起こしている時、最後尾でも争いが勃発していた。庶民層、或いは低所得者層の人間たちもまた、我先にと順番を争っていた。ランジュベーヌでは、症状の重い患者から輸血を行い、オペを執行するのが規則となっていたが、今やもう、形骸化していた。
 中には、金目当てに自分がゴールデン・ブラッドの持ち主だと公言する者もいた。無論、採血をすれば嘘がばれる。それでも、わずか400ccの血で大金を貰えると知った者たちは、何とかその恩恵に預かろうとしたのであった。

 スライは私立医療団の中でそういった光景を見るにつけ、将来自分がゴールデン・ブラッドを入手してもオペする気になれないと思っていた。
 自分は医療畑には向いていないのかもしれないとさえ考える。
 ゴールデン・ブラッドの先進医療研究所のある領立医療団なら、このような人々の浅ましさを垣間見る機会も少なくなるだろうか。いや、そうではあるまい。ゴールデン・ブラッドに関わる限り、このもやもやとした心の中を整理することは難しいだろう。
 ネリィに愚痴りたかったが、今は愚痴っている場合ではない。
 スライは目の前にある医療の授業に専念しようと、右手をぎゅっと握りしめた。

 
 半年後、サーシャが看護師インターンとしてランジュベーヌ領立医療団に派遣されてきた。その頃スライは、漸く私立医療団から領立医療団に移っていた。同じアンデシス大学在学ということで、スライとサーシャはペアになり、医療最前線の授業を受けていた。
 そんな中、たまにネリィたちは私立医療団を訪れていた。ゴールデン・ブラッド絡みの仕事である。血の持ち主を護衛することもあれば、献血されたブラッド入りの箱だけを運ぶ時もあった。エルがどこから情報を得てくるのか分らないが、このところ、ネリィたちの仕事は至って順調に進んでいた。
 しかし、毎度毎度上手くいったわけではない。時には前後左右を取り囲まれ、正面突破する手立てとして献血用の箱を放り投げてその場を立ち去ったこともある。だからこそ、護衛の度に経路を変えてドミニクに入るまで、一瞬の油断も許されなかったのである。

第10章  親子の絆

 ネリィたちがゴールデン・ブラッドの護衛を始めてから2年が経った。ネリィとスライは21歳。規則から言えば、リヤンの家を卒業しなければならなかった。
 だがネリィはイワンに交渉し、スライとサーシャが大学を卒業するまでのあと1年、協力を懇願した。
 イワンは、目上のロッシが未だに出ていかない負い目もあるのか、ネリィたちにはアパルトモンの部屋代と、食費を賄うことで簡単に許してくれた。ネリィは、スライの分はおろかサーシャの分まで負担する気でいたが、サーシャはどこ吹く風。
 実父のピュータから、授業料と生活費の資金提供を受けていたのである。返さずともよい奨学金のようなものだと笑った。

 リヤンの家に戻った初日、サーシャは、部屋で独り俯きながら、実父ピュータの事を思い出していた。
 実際のところ、サーシャはピュータが嫌いではなかった。何処か自分と似ているところがあったから。事実、右頬にできる笑窪は、実父のピュータと同じ。性格もどちらかといえば母よりもピュータに似ていた。近くに居すぎるとお互いに距離を置いてしまい、相手の粗探しをするような気がして、サーシャはリヤンの家に帰る決心をしたのだった。
 サーシャがリヤンの家に戻る前夜、ピュータはサーシャの部屋を訪れた。
「サーシャ。本当に戻ってしまうのかい」
「はい、それが一番良いかと」
「済まないね、私が不甲斐ないばかりに」
「いいえ、ピュータさまには色々とお世話になりました。こちらこそ、何のご恩返しもできず恐縮です」
「本当に、済まない。これからは、いつでも遊びに来ていいんだよ。此処は君の家だ」
「ありがとうございます。そのお気持ちだけで私は幸せです」
「君が生きていくに困らないよう、精一杯のことをさせてもらうよ」
「ありがとうございます」
「君は、顔こそお母さんに似ているが、性格は私に似ている」
「そのお言葉だけで」
 サーシャの目から、一滴の涙が零れ落ちた。
 
 そしてサーシャはピュータの家を出た。
 リヤンの家で待っていた皆は、以前と変わらず優しかった。
 

 ネリィは、サーシャの講義が無い日曜日に、エクリュースに行くつもりでいた。サーシャを誘うと、二つ返事でOKしてくれた。
 朝早く、二人はトロッコに乗り、ホテル・ラマンに向かっていた。オードリーやマリエル、アリエスにサーシャを見せてあげたかったのが第1目的。
 第2の目的は、エルから今後の活動情報を得るためだった。

 その頃、ポージュもホテル・ラマンに向かっていた。イサラを連れて。
 ポルスカの入院施設を嫌うイサラは、エクリュースのホテル・ラマンがお気に入りだった。単純な理由。父といられる時間が長いからである。
 ポージュは忙しい身だった。
 何故かといえば、ポージュはロールライトに本拠地を置くマフィア「ルイスゴール」のボスだった。
 若き日にルイスゴールを立ち上げ、今や世界中に拠点を置くマフィアのボスである。
 ルイスゴールを立ち上げた頃、正妻はポージュの下を逃げ出した。男遊びの絶えない妻だった。一人息子のネリィをポージュは可愛がっていたが、正妻は当てつけるかのようにその息子を連れて逃げ出した。単に、ポージュが愛人を作った腹いせだった。
 イサラは愛人の子だったが、息子がいなくなったポージュにとって、大切な子どもになった。その愛人は、敵対組織シェイラに殺された。今、妻や愛人と呼べる女性はポージュの下にはいない。

 ネリィとポージュは、ほぼ同時刻にホテル・ラマンに到着した。珍しく、ポージュ自身が車椅子を押してくる。エントランスにいたのがルミクスだったからだろう。
「これは、これは、ポージュ様。今回もご静養でいらっしゃいますか」
 オーナーの甲高い声がロビー中に木霊する。
「ああ、今回は2週間ほど、お願いしたい」
「畏まりました。お部屋はいつもご使用の306号室で」
「それで構わない、ね、イサラ」
「いいわ。でも、今回はまともな世話係を付けてちょうだい」
「承知しております、イサラ様」
 イサラは前回の静養時、マリエル・アリエス姉妹に世話されたのが余程記憶に残ったのだろう。

 そこに、サーシャを伴ったネリィが現れた。
 お人形のような顔立ちのサーシャに、ホテル内の従業員や他の客からも感嘆の溜息が漏れる。
 オーナーがやや怖い顔をしてネリィたちに近寄ってきた。
「なんだ、キミたちは。フロント係の面接でも受けに来たのか」
 フロントから、普段聞くことのないアリエスの大きな声が聞こえる。
「ネリィ!」
それを見咎めるように、オーナーがネリィとサーシャの前に立つ。
「アリエスの知り合いか。今は忙しいんだ。ほら、出ていけ」
 その瞬間。
「ネリィ?」
 ポージュが、イサラが乗った車椅子から手を離し、小走りでネリィたちの方に駆け寄った。

「これは失礼いたしました。ポージュ様のお知り合いでございましたか」
「あ、ああ。ここは外してくれ」
「畏まりました」

 オーナーは、何か裏があるぞといった顔つきで、2階のオーナー室に行くため階段を上がる。階段を上がりながらも、ポージュから目を離すことは無かった。
 
 ネリィの前に立ったポージュ。ネリィは何が起こったのか分らないという顔をして、その場に立ち尽くす。
「君はネリィというのか」
「はい、そうですが」
「なんということだ。君はいくつになる」
「21歳ですが」
「年齢も同じだ、おお、神よ」

 途端に、イサラの叫び声がロビーに響く。
「ルミクス!もう誰でもいいわ。私をお父様の下へ。早く車椅子を押しなさい!早く!」
 近くにいる従業員を顎で使うイサラ。
 イサラはポージュとネリィの間に入ると、ネリィを睨み上げた。
「あなたはお父様に捨てられたの。お父様はあなたなんて探してやしないわ。この意味がわかるでしょう」
 ポージュが車椅子に手を掛け、優しくイサラを宥める。
「イサラ、なんてことをいうんだ」
 ネリィは何を言われているか、およそ見当もつかなかった。
「何言ってんだ。捨てるも何も、俺はあんたたちの家族じゃねえよ」
「なんて汚い言葉遣いなの、あなた、何処の人?」
「アンデシスのリヤンの家だ」
「あの小汚い家?ふん、あなたにはお似合いね」

「イサラ!」
 ポージュが珍しく声を荒げた。その声にイサラも驚いたようで、後ろを振り向きポージュの顔を見つめると、その目には涙が溜まり、次々と頬へ滴り落ちる。
「人違いだったらどうするんだ。初めて会った方に失礼を働くイサラなど、私は嫌いだよ」
「だって、お父様が余りにご執心なんだもの」
 涙声でポージュに反発するイサラだが、頑としてネリィに謝ろうとはしない。
「ネリィくんとやら。本当に済まないね、娘が失礼を働いて」
「いえ、別に。人違いと判ってもらえればそれでいいです」
「ときに、キミの左の脇腹に、蝶の模様をした痣などないかい」

 ネリィは驚いた。
 言われたとおり、ネリィの左わき腹には痣があった。蝶のようなはっきりした模様ではなかったが、イワンが、ネリィが小さな頃は蝶の模様だと話しているのを聞いたことがある。

 しかし、ネリィはそれをひた隠しにした。一瞬の判断だった。
「有りません。火傷のあとならありますが。何故ですか」
「私は20年近く蝶の痣を持った少年を探していてね。名前はネリィというんだ」
「同じ名前で珍しいからお間違えになったのでしょう。俺は貴方が探している少年ではありません」
「ご両親は?」
「両親はいません。俺が2歳の時に交通事故で死んだそうです。それでリヤンの家に放り込まれました」
「そうか、大変だったね」
 
 ポージュは優しく微笑むと、イサラの方に向き直る。
「イサラ、人違いだったようだ」
「ほら、お父様。だから、あの人のことなんてもう忘れてちょうだい」

 ポージュは、ロビーの中をきょろきょろと誰か探しているようだった。そこに運よく、といっていいのかどうか、エルが現れた。エルはまっしぐらにポージュの方に進んで行く。
「失礼ながら、夕刻までわたくしがお嬢様のお世話をさせていただきます」
 その言葉を聞き、ポージュは背広の左ポケットから何やら取り出した。メモ用紙とペン。何かを殴り書きしてエルに渡す。
 ネリィは内容など気にしていなかったが、それは、エルにネリィの身辺調査を依頼するメモだった。

 ネリィはポージュとイサラをやり過ごし、アリエスの下に向かった。
 アリエスが今度は低い声でネリィに聞く。
「こちらの可愛らしい女性は?もしかしたら、サーシャ?」
「当たり」
 アリエスは満面の笑みになる。
「久しぶりね、サーシャ。オペを受けたことは聞いていたけど、こんなに可愛いらしくなって。看護師コースに進んだことも聞いたわ。ネリィたちが勉強の邪魔してない?」
「大丈夫よ、アリエス」
「此処じゃなんだわ、階下に行きましょう。マリエルもいるし。オードリーにも声を掛けるわ」
 フロントの仕事を仲間に任せると、アリエスは二人を先導して階下に降りた。
「まあ、サーシャ。本当に貴女なの?ほら、笑ったら領府一番、とびきりの美人さんだわ」
「マリエルがいうと、何となく白々しいな」
「五月蝿い、ネリィ」
「今オードリーとルミクスを呼ぶわね」
 片手に個人用の電話を持ち、片手には皿を持ち、器用に電話するマリエル。

 オードリーとルミクスも階下に降りてきた。
「あら、サーシャなの?まあ、こんなに可愛らしくなって。笑顔がとても素敵だわ」
「笑顔はオードリーに敵わないけど、本当にお人形のようだ」
 マリエルが二人を茶化す。
「ルミクスったら、オードリーにベタ惚れなの。いつも一緒なのよ」
「オードリーを超える女性はこの世にいないからね」
「ルミクス、それは褒め過ぎじゃない?」
「いや、僕の目に間違いはない」

 サーシャが笑う。
「ご馳走様。当てられちゃうわ」
 
 オードリーは顔を赤らめてルミクスの頬を抓った。
「私たち、もう戻らないと。ほら、ルミクス、行きましょう。サーシャ、時間のあるときにまた逢いましょう」
「ええ、オードリー」
 
 階下でのひとときの団欒。皆はリヤンの家にいるかのようだった。


 2週間後。ポージュがイサラを迎えに来た。
 ポージュはイサラの顔を見ていつものように手を振ったが、その目は心なしか虚ろで、イサラを見ていないことは確かだった。
「お父様、どうしたの」
「いや、何でもないよ」
「いつもと違うわ」
「そんなことはない。さあイサラ、先に車に乗っていてくれないか」

 イサラをホテルから出し車に乗せると、ポージュは急ぎ足でフロントへ向かう。フロントにはアリエスがいた。
「君は確かリヤンの家出身といったね、アリエス、だったかな」
「はい、そうです」
「同じリヤンの家出身のネリィという少年は今もリヤンの家に?」
「はい、まだリヤンの家にいるはずです」
「仕事をしているのかな」
「それは・・・わかりません」

 翌日、ポージュがリヤンの家を訪問し、イワンに痣のことを尋ねた、とネリィはイワンから知らされた。
 イワンが笑顔でネリィに報告する。
「もしかしたら、お前の父親が生きているのかもしれないな」
「関係ないね。俺と母親を捨てた奴のことなんて」
「ネリィ。誰にだって事情はある。父親だって何か相当の理由があったに違いない。小さな頃のお前の痣を覚えていたんだ」
「だからって、今頃のこのこ出てくるなんて。俺はリヤンの家にいる皆が家族さ。それだけだ」
「いや、お前の父親は昔からお前を探していたはずだ」
 ネリィはそれでもポージュを父とは認めなかった。自分と母を捨てた非情な男だと思っていた。
 本当は母が勝手にネリィを連れて家を飛び出しただけなのに。
 ドアを開け放したリヤンの家の陰でイワンとネリィの会話を聞いていたポージュは、何も言い訳せず、静かにその場を立ち去った。

 ネリィは、イサラの「お前は捨てられた、誰も探していない」という言葉に縛られ、一種のマインドコントロールに嵌り、ポージュを許せなかったのである。


 ところでイサラは、医者からサラセミアという珍しい病気と診断されていた。遺伝性の病気と呼ばれるが、母方の遺伝なのであろう。重症のβサラセミア・メジャーなどは血液を定期的に輸血しないと助からないと言われる。イサラの場合、重症というよりは中度型ではあったが、本人が強く治療を望んでいた。主に保存的治療として輸血と鉄キレート療法を行うことになるが、骨髄移植を必要とするところまでは至っていない。
 ただ、自分はすぐ貧血になると言って本人が歩こうとしないので、年中車椅子生活なのであった。
 そこにもって、イサラは珍しい血液型だった。「ボンベイ・ブラッド」である。O型亜種の稀少な血で、単純にO型から輸血の出来ない血。ポージュは、最悪の場合イサラにゴールデン・ブラッドを輸血することを考えていたようだが、本人にはその話をしていなかったらしい。事実を言えば、どれだけの人間が犠牲になるか分っていたのかもしれない。
 寸でのところで、南半球の大陸にボンベイ・ブラッドが冷凍保存されているという噂を聞き及び、ポージュはゴールデン・ブラッドに手を出さずに済んだのだった。
 ゴールデン・ブラッドは、マフィア組織ルイスゴールの資金源でもあったのだから。
 
 父と息子、そして父と娘。
 複雑な人間模様の中で3人は、まるで引いては返す波打ち際に取り残された海鳥のようだった。

第11章  箝口令

 ルツはエクス学校4年生、11歳に成長した。
 マリエル、アリエスが3年前にリヤンの家を出ると、今年はスライ、サーシャが大学を卒業してランジュベーヌ領立医療団に就職し、リヤンの家を離れた。
 兄や姉と慕った皆がリヤンの家から去るのを、一番悲しんでいたのはルツだった。
 相変わらずネリィとクロームはいたけれど、自分が学校に行くまで二人は高いびき。学校から帰ると二人の部屋は蛻の殻。仕方なく、エクス学校の遊具で同級生と遊んだり、図書室で読書したり。ルツは寂しさを紛らわすため、放課後はエクス学校にいることが多かった。
 朝夕、ロッシと会うことはあれど、ロッシはルツに興味を示さないばかりか、事ある毎に邪魔者扱いする。自分だって20歳を過ぎて金も出さずに居候してる身のくせに、とルツはルツなりに周囲を観察している。

 そんなある日の放課後、いつものようにエクス学校の校庭で背の高い鉄棒で遊んでいたルツは、勢い余って鉄棒から地上に落ちてしまった。普段なら照れくさそうに直ぐ起き上がるルツだったが、その日は、誰かが悪戯で置いたのであろう、鉄棒の周辺に散らばったガラス片の上に落ちてしまい手首や顔を切る不運に見舞われた。知らせを受けた学校の教師が急いで校庭に向かう。
 ルツは自分の左手首から血が流れていることに気付いたが、近くにいた女子が大声で泣き出したため、自分が泣く機会を失ってしまった。血は皮膚を赤く染めながら滴り落ちる。止血をするため教師が包帯できつく左の上腕二頭筋を縛った。顔にも包帯を当て、黴菌が入らないようにと応急処置を施した。
 応急処置が終わるころ、リヤンの家からイワンが駆け付けた。教師はイワンにルツを引き渡すと、病院で然るべき治療を行うよう進言した。

 もうルツの血は止まっていたが、黴菌による二次被害を防止するため、イワンはルツを連れアンデシス内の小さな病院を訪れた。
 医師が診察椅子に座ったルツを見ながら、イワンに尋ねる。
「どうしましたか」
「学校の遊具で怪我をしまして」
「どれ、もう血は止まっているようですね。念のため、患部を消毒して抗生剤をお出ししましょう」
 病院の医師は、輸血が必要になる場合を念頭に置き、一応血液検査をした方がいいという。子どもたちはいつ大怪我をするかわからない。
 ルツは1本注射をして、イワンとともにリヤンの家に帰ったのだった。

 二日後、血液検査の結果が出た。病院から早急にと呼び出しを受けたイワンがリヤンの家を出た。
 歩いてリヤンの家を出たイワンが病院に着くと、イワンはすぐに診察室に呼ばれた。病院の医師が右手を口に当て、声を潜めながらイワンを引き寄せる。
「知っていましたか?ルツ君は非常に稀な血の持ち主です。Rh null型と言われる血です」
 イワンは何を言われているのか凡そ見当もつかず、首を傾げた。
「いいえ、知りませんでした。そんなに珍しいのですか」
「全世界の0.01%と言われています。私も持ち主に会ったのは初めてだ。いいですか、よく聞いて下さい。ルツ君のことを誰彼に話してはなりません」
「どうしてでしょう」
「噂に過ぎませんが、稀な血ゆえに、誘拐されることもままあるそうなのです」

 イワンは言葉を失った。驚き、どうすればいいのか見当もつかなかったのである。

 イワンは直ぐに病院を離れると、走るようにしてリヤンの家に戻った。息が上がっている。
 そんなイワンを、包帯を巻いたルツが出迎えた。
「お帰りなさい、イワン」
「ただいま、ルツ。ネリィたちは?」
「何処かに出掛けてるよ。もうすぐ戻るんじゃないかな」
「そうか。怪我したところは痛くないか」
「大丈夫だよ、包帯が仰々しいだけ」
「どこでそんな言葉を覚えた」
「ネリィが僕を見てそういうんだ」
「あいつのいうことは聞き流せ」
「聞き流す?どうやって?」
「右の耳から入れて左の耳から出せばいい」

 毎度どこで油を売っているやら、その日の夕刻にネリィとクロームが戻ってきた。
 イワンは、ルツに知られないよう、ルツが寝てからネリィたちをイワンの部屋に呼んだ。
「ルツは非常に稀な血の持ち主なんだそうだ。Rh null型、といったかな」
「ふうん。検査でわかったのか」
「ああ。それで、医者に言われたんだが、この話は決して口外しないでほしい」
「どうして」
「珍しいがゆえに、誘拐される危険性があるそうだ」
「そりゃまた物騒だな」
 ネリィもクロームも、ゴールデン・ブラッドとは点と点で繋がる術もない。ネリィたちはゴールデン・ブラッドの血液型を知らされていなかった。スライからも、マルチな血、としか聞いていないネリィは、Rh null型と聞いてもピンとこないのだった。
 ただ、イワンの命令で、ルツの血液型については箝口令が敷かれた。
「スライには話して構わないか」
「いいだろう。ただし、他の者に話してはならない、と念を押してくれ」

 ネリィはスライに電話する。
「スライ。ルツのことなんだけど」
「どうしたの」
「えらく珍しい血液型なんだとさ。場合に寄ると誘拐されかねないらしい」
 スライは、即座にゴールデン・ブラッドだと気が付いた。
 だが、それが知れればランジュベーヌに強制連行される恐れがある。そして、ネリィの仕事にも結び付いてくるだろう。スライはネリィに、ルツが持つ血とゴールデン・ブラッドの関係を黙っていた。
「物騒な話だね。それは口外しない方が良さそうだ」
「ああ、頼む。イワンからも箝口令を敷くよう、きつく言われた」
「わかった。ネリィも喋っちゃいけないよ。特にマリエルには」
「マリエル?どうして」
「マリエルはお喋りだから」
「そうだな。あいつには話さないでおくか」
 スライは不味いことを言ったと後悔した。マリエルの傍にはどうやら情報屋がいるらしい。そんな人間の耳にルツの事が知れたら、強制連行されかねない。
 ルツを守らなければ。
 ネリィに全てを打ち明けたかったが、まだその時ではないと判断したスライだった。
「ネリィも、誰にも話さないで」
「了解」
「じゃ、お休み」
 
 そんな二人の会話を、ロッシがドアの陰から聞いていたことにネリィは気付かなかった。
 ロッシは何処かに電話すると、早口で何かを喋り電話を切った。

第12章  暴かれた秘密

スライが休日だと言ってリヤンの家に現れた。翌々日のことだった。
「ネリィ、クローム。早くルツを何処か遠くに匿わないと」
「ルツがどうしたって?」
 ネリィは、スライの言葉の意味を図りかねている。最初に気付いたのはクロームだった。
「スライ、まさか」
「クローム、気付いた?そう、そのまさかなんだよ」
 ネリィは二人の間に割って入る。
「まさか、って何のまさかだよ」
「ネリィ、鈍いな。スライはルツの血液型を知っているんだ。で、遠くに匿うとなれば」
「なれば?」
「もう、ネリィ、気付けよ。ルツはゴールデン・ブラッドの持ち主だってこと」

 スライは顔面蒼白になっている。真実を知ったネリィやクロームも、それ以上言葉が出なかった。
 ネリィが単純に頭を捻る。
「エクリュースに行くか?マリエルたちのアパルトモンに身を寄せるとか」
「ダメだ。マリエルたちの勤めるホテルには情報屋がいるんだろう。もし知られれば、ルツがランジュベーヌに強制連行されかねない」
「それならどうする。ルルフェのいるスラム街に行くか?」
「スラム街は貧困層が犇いてる。万が一ルツが一人になったら誘拐されるリスクもあるよ」
「そうだな、ルツが部屋の中でじっとしているとは思えない」
「こうなったら、イワンに話して何処か遠くに旅行に行くとか」
 クロームが、閃いたように両手を拳にして叩き合わせる。
「ジェシカ、ジェシカの住むクリムソンならどう?観光客も多いと聞くよ。観光客に紛れれば知らない顔がいても不思議じゃないよ」
「そうだな。ジェシカに電話して、一軒家を借りてもらうとするか。イワンが一緒に行けば大丈夫だろう」

 3人が、漸く一息吐いたときだった。

「馬鹿だな、キミたちは」
 少し甲高い声が、ネリィたち3人の後ろ、ちょうど玄関先で響く。誰が今の話を聞いていたのかと驚く3人。
 それはロッシだった。
「このノア大陸で何処に隠れようが見つからないわけがないだろう」
 ネリィはむっとしてロッシに相対した。
「なんでそんなことが言えるんだよ」
「領は違えど大陸続きなんだぜ。南半球のジャングルに行くんならまだしも」
「五月蝿いな、口を出すなよ。いつもは無視してばっかりのくせに」
「はっ、一番脳ミソの足りないネリィくん。僕の言うことをじっくり聞いてから決めるんだな」
「なんだと」
「何処に隠してもスライの両親のように惨殺されるのがオチさ」

 ロッシから視線を離し俯いていたスライが顔を上げた。
「どういうこと?」
「だから。お前の両親はゴールデン・ブラッドの持ち主を逃がした罪で処刑されたのさ」

 ロッシは声高に叫んだ。スライの両親が何故死んだかを、その真相を、笑いながら。
「レシピエントが怒り狂ってね。ドナーを逃がすなんて不届きなヤツだ、って」

 ロッシの口から語られたスライの両親の最期は壮絶だった。
 スライの両親はゴールデン・ブラッドの研究員で、ランジュベーヌ私立医療団でゴールデン・ブラッドの研究に携わっていた。二人は、血を抜くはずだったドナーをわざと逃がしたばかりに、私立医療団からその身を追われるようになり、アンデシスに逃げ込んだ。アンデシスの工場に紛れて工員として働き出したスライの両親を、私立医療団は死にもの狂いで追い続け、ついにはアンデシスの工場に爆破物を仕掛けた上で、各人に火を放った、というものだった。

 スライは膝を折り、両手を床について震えだした。顔色は真っ青を通り越して土気色になっている。
「そんな、そんな酷いことを」
「何が酷い。お前の両親のせいでレシピエントが死んだかも知れないじゃないか。ま、あの時は直ぐに代わりが見つかったけどな」
「レシピエントが助かったのなら、執拗に追いかけなくったって良かったはずなのに」
「見せしめだよ、見せしめ。何度もやられたんじゃ金にならないからなあ」
「お金のためだったっていうの?」
「当り前さ。お前の両親は金にならないが、ドナーは金になる」
「たかが500cc分の金で僕の両親は殺されたと?」

 ロッシはまた高笑いする。
「お前、あそこにいて気付かなかったのか。500ccごときの輸血で、莫大な金が動くとでも?」
「輸血に協力したドナーはランジュベーヌで暮せるようになるんじゃないの?先輩が言ってた」
 スライは、私立医療団にインターンで入った際、先輩が言っていた言葉を思い出した。
 ロッシは笑いが止まらないと言った様子でスライを指差す。
「お前は甘ちゃんだな。そんな旨い話が転がってるとでも思ったのか」
 スライの驚きは続く。あれは嘘だったのか?もう、何処からが真実で何処からが嘘なのか分らなくなった。
 
 両親の死の真相、そしてゴールデン・ブラッドのドナーが狙われているように感じたスライは、全身ガタガタと震えだした。
 ネリィとクロームも、腕に鳥肌が立った。ロッシの言うことが少なからず本当だとして、危険な状態に陥るドナーがいるということなのか、と。
 しかし3人には、どうしても解せないことがあった。
 ドナーを生かしてランジュベーヌに置いておけば、血は再生し、またレシピエントを募ることができる。万が一ドナーが死んでしまっては、助けられるレシピエントが減ることに繋がるだろう。それが最先端の医療の在り方なのか。

 それよりネリィが疑念を抱いたのは、何故ロッシがスライの両親の最期を知っていたのか、だった。

 ネリィはロッシを下から睨みつけた。
「ドナーとかレシピエントとか、医療のことは正直俺にはわからない。でも、ロッシ。お前、何でスライの両親のこと知ってるんだ」
「さあね。考えてみれば。その単純な思考回路で」
「お前、腐ってんな」

 もう、ロッシを無視してスライのショックを和らげる方が先だと判断したネリィ。クロームも同様だった。
「ロッシ、出てけ」
「おや、何も考え付かなかったようだねえ」
「五月蝿い」

 ロッシは、またも高笑いしながらリヤンの家を後にした。


 スライは床にへたり込んだまま、立ち上がれないでいる。ネリィが後ろから抱きかかえるようにしてスライを椅子に座らせた。クロームは台所に行き、イワンが皆に隠して飲んでいる酒を気付け薬として持ってきた。
 一口酒を含んだスライが激しくむせる。クロームは、慌てて台所に走ると水を汲んで持ってきた。ネリィは自分の肩に掛けていたタオルでスライの顔を拭いてやった。
 スライは、自分では何もできないようだった。
「スライ、今日は泊まっていけ」
「う、うん」
「ロッシの言うことなんざ嘘さ。気にするな」
「うん」
 何を話しても、スライの返事は「うん」だけ。もう、頭の中は混乱状態なのだろうと、ネリィはスライが可哀想になった。
 これまたイワンが隠している睡眠薬を探しだし、スライに飲ませ部屋に運んだネリィとクローム。スライの部屋から出てきた二人は、言葉を発することなく手を振ってお互いの部屋に引っ込んだ。

 ネリィにもクロームにも、スライを元気にする方法も、ルツを守る方策も今は見つからなかった。

 
 
 実を言えば、ロッシは年齢を誤魔化して、17歳でリヤンの家にわざと入所した。本当は、当時22歳だった。書類1枚の入所だったこと、ひょろひょろとした体型がイワンをも騙し遂せたのだろう。
 また、ドナーの全身から血を抜くことも伏せた。全身から血を抜くということは、イコール死を表す。レシピエントに法外な診療代を要求し、払わせることで、私立医療団は潤っていた。ルツのように小さな子供がドナーだった場合、成人するまではその身体から血を抜くことは無かったのである。
 ロッシには、ルツがゴールデン・ブラッドの持ち主であることが分っていた。ロッシが属する私立医療団で、両親から赤ん坊のルツを取り上げ隔離していたのだ。ルツの両親は、子どもは死んだと聞かされていたらしい。
 その上で、ルツをリヤンの家の前に放置し、ルツが大きくなるまでその秘密が暴露されないよう、ルツのお目付け役としてリヤンの家にいたのだった。
 ロッシは今回、スライの両親の秘密だけを暴露した。ルツの出生とリヤンの家との関係は、私立医療団最大の秘密とされていたから話そうとはしなかったようだ。
 スライもネリィもクロームも、よもやそのことを知らなかった。

 
 アンデシスに留まる時間のなかったスライは、傷心のままランジュベーヌに戻って行った。
 クロームは、20年前のアンデシスの工場火災を調べるため、工員見習いで工場に潜入した。
 教育係のキムという40代の人物に、20年前のことを聞いてみる。キムは眼光鋭く、工員にしては珍しく淀んだ雰囲気が無い。
「僕は此処に来て10年だから、昔から此処にいるパクに聞いてみるよ」
 翌日、キムは昼食時パクを連れてきた。パクは50代くらいで白髪交じり、優しげな印象の初老の男性だった。
 クロームが口に手を当て、低い声で聞く。
「パクさん、20年前の火災、知っていますか」
「ああ、何人か死者が出たねえ」
「亡くなった方の名前って覚えていますか」
「いやあ、もう20年だからね、覚えていないなあ」
「ご夫婦で亡くなった方がいませんでしたか」
「あ、いたいた。それが不思議でね。殆どの人は煙を吸い込んで一酸化炭素中毒で死んだのに、二人だけ焼死していた人がいたんだよ。男性と女性なのはわかったんだ。確か働き出したばかりだったね」
「そうでしたか」
「あとは何か知りたいことがあるかい」
「あ、いいえ。もう十分です」

 スライの両親のことだろうとクロームは当たりを付けた。焼死。本当に酷いことをする。ロッシの言葉は強ち嘘では無かったと知ったクロームだった。

「ところで」
 キムがクロームを突く。
「聞きたいことを教えたんだ。代わりに実入りの良い話はないか」
「実入りの良い話?」
「金になる話さ」
「金ですか。噂ですけど、珍しい血の持ち主をランジュベーヌまで送っていくと金になるとか」
「珍しい血?」
「詳しくは知らないんです。昔聞いたきりだから」
「そうか。是非詳しく聞きたいものだな」
「すみません、わからなくて」

 そこを離れたクロームは、キムとパクを警戒し、尾行することにした。トイレと称し、ネリィに電話すると、ネリィは工員たちの帰り時間に合わせて工場付近に近寄るという。
 パクの人相をネリィに教え、クロームは電話を切った。辺りを見回して作業に戻る。
 クロームにしては不覚だった。キムがその様子を影から見ていたのだ。

 果たして、夕刻。
 キムとパクは別々の道路に向かって歩いていく。さり気なく、クロームはキム、ネリィはパクの後を追った。
 いつしか時間が経っていく。別々の方向に行ったはずなのに、ネリィはクロームの影を見た。不思議に思っていると、パクが入ったアパルトモンにキムが近づいてくる。ネリィは後ろにクロームの姿を見つけ、反射的に自分もアパルトモンの陰に隠れた。それはクロームも同じらしい。

 キムとパクが同じアパルトモンに吸い寄せられるように消えていくと、北側の一つの部屋に灯りが付くのが見えた。
 アパルトモンの玄関前でネリィとクロームは、ばたりと顔を合わせた。
「なんで別々の道を通るんだ?」
「ネリィもそう思った?変だよね」
 二人がアパルトモン前で不思議に思っていると、直後、彼らを背中から棒で殴る輩がいた。


 アンデシスでキムとパクを尾行していた二人は、反対に何者かに尾行されていたのだ。訓練を受けた軍人でもない限り、尾行を見分けるのは難しい。気を失った二人は、車に乗せられ何処かに運ばれた。拉致され連れ去られたのであった。

 ネリィが気付いた時、二人は何処かの施設の地下と思われる場所にいた。窓は1カ所もない。
 腕は後ろ手に縛られていたが、口にはさるぐつわのためのタオルも何もない。頭が割れるように痛かった。
「おい、おい、クローム、大丈夫か」
「大丈夫、ネリィはどう」
「頭が痛いけど大丈夫だ」
「僕も痛い。それより、ここ、何処だろう」
「わからない。アパルトモンの前で殴られたんだよな、まだグールにいるのかな」

 そこに、ドアノブを回し、誰かが入ってくる音が聞こえる。
「目が覚めたか」
 二人の目の前に姿を現したのは、キムだった。
「お前たち、飛んで火に入るなんとやら、だな」
 3,4人、人相の良くない連中が一緒に部屋に入ってきた。
「2回は言わない。今度のドナー護衛はいつだ」
 ネリィもクロームも、知らないふりをする。
「何の話だ」
「僕も知らない」

 キムの顔が紅潮する。いつの間にか、パクも姿を見せていた。
「ふざけるな」
 顔を叩こうとするキムに対し、パクはにこやかにその手を押さえ付けた。それでいて、重厚感を漂わせながらナイフをちらつかせる。
「傷つきたくなかったら、ドナー護衛の予定か、分っている範囲でゴールデン・ブラッドの持ち主を言え。言えば直ぐに縄を解く」
 ネリィは反発する。
「知らないよ。それより、お前らどこかの組織に属してるのか」
「知りたいか、なら教えよう。俺達はシェイラの人間だ」
「シェイラの人間がアンデシスに?」
「ま、潜入というやつだな」
 クロームが叫ぶ。
「ネリィ。こいつら僕たちを帰す気はないらしい。わざわざシェイラの潜入者なんて教えるわけがない」
 キムがクロームの腹を蹴る。クロームは蹲った。
 ゴールデン・ブラッドの在処を知っているはずと目され、話させるために顔こそ殴らなかったが、胸や腹を蹴るのは止まらない。
 二人は、何があってもルツの事は決して言わないとアイコンタクトで確認した。
 しかし、どこまで隠し通せるかは分からなかった。

 キムが凄む。
「お前たち。シェイラに忠誠を誓えば、お前たちに関係する奴等には手を出さない。どうだ、ドナー護衛計画を話す気になったか」
 下手なカマを掛けられ、一瞬、ネリィはルツのことを考えた。ルツには手を出さないということか。ネリィはほんの一瞬間、悩んだ。
 クロームは、そんなネリィに気付いたのだろう。激しく首を横に振り、話してはダメだという仕草をする。ネリィもそれに気が付き、自らの考えを戒めた。

 そんなやりとりの最中、部屋の外で何やら爆音がした。室内にいるシェイラの人間さえ、何事かと不意にドアを開ける。

 途端に、銃を構えた5,6人が地下室になだれ込んだ。
「手を上げろ」
「何処のモンだ!」
「お前らに教える義理はねえ。早く手を上げろ!」

 銃を構えながらなだれ込んできた連中は、ナイフを上手に使いネリィとクロームの縄を解くと、じりじりと後ずさる。
「ほら、お前たちも行くぞ」
「あんたは誰だ」
「ポージュ様の命で来た」
「ポージュ?」
「ほら、早く出ろ」
 地下から出たネリィとクロームの目の前では、手榴弾で倒れた人間が何人かいた。気を失っているだけなのか、死んでいるのかはわからない。
 銃を構えている人間たちのリーダー格に促され、ネリィたちは屋外に出た。見も知らない場所だった。少なくとも、グールでは無さそうだった。
 屋外にはオデッセが2台停まっていた。
 その1台に無理矢理詰め込まれると、車は急発進し、シェイラのアジトらしき場所を離れた。30分くらい乗っていただろうか。車は回り道して敵を巻いている。そのうち、一軒の屋敷の門をくぐった。

 屋敷に入ると、執事が廊下に立っている。ネリィたちはリビングに通された。
 そこには、ポージュが一人、椅子に深々と座っていた。
「二人とも危ないところだった」
「助けていただき、ありがとうございます」
 クロームが礼をいう。ネリィはそっぽを向いてポージュの顔を見ようとしなかった。
「ここは、あんたとあの娘の家なのか」
 ぶっきらぼうにネリィがポージュに尋ねる。
「いや、ここは仕事の拠点だ」
「あんた、仕事は何なのさ。銃構えたあいつら、一体何」
「私はルイスゴールという組織を率いている。あの者たちは、私直属の部下、ルイスゴールの中でも精鋭中の精鋭だ」
 ネリィは、思わずポージュの顔を見た。
「あんた、ルイスゴールのボスなのか?」
「そうだ。君たちに一言、と思って此処に来てもらった」


 途端に、ポージュの顔から温厚さが消え、その表情と言葉尻は厳しさを増した。
「ゴールデン・ブラッドから手を引け。もうあの仕事に手を染めるな。今ならまだ遅くない」
「何言ってんだよ。おれがやる仕事をあんたにとやかく言われたくないね」
 クロームがネリィの右手を抓る。
「ネリィ、助けてもらったのにその言い草は無いだろう。お礼すらまだ言ってない」
 ネリィはクロームの手を跳ね除けた。
「ありがとよ。シェイラから助けてくれて。でも何で俺達があそこにいること分ったんだ?ルイスゴールでも尾行してたのか、俺達を」
「そうだ、リヤンの家からつけさせた」
「シェイラと変わんねえじゃねえか」
「君たち、自分たちが置かれている状況を分かっているのか。ルツ君はどうする。このままいたらシェイラに誘拐されるぞ」
 ネリィの顔色が変わる。わなわなと震えた声になるネリィ。もう頭に血が上っていた。
「どうしてルツのことを知ってる」
「この大陸内で、私の耳に入らない情報はない」
「お前たちだってルツをドナーにするつもりじゃないのか」
「シェイラに気付かれれば、ランジュベーヌに送り込むしかないだろう。ただ、私としてはそれすら避けたいが」
「ルツをドナーにはさせない」

 ポージュは暫く考え込んでいるようだった。
「それなら行方を晦ますしかあるまい。この大陸では無理だ。シェイラの手に落ちるか、何者かに誘拐されるかだ」
「シェイラの他にドナーを誘拐するやつらがいるのか」
「いる。我々も手を拱いているのが実情だ」

 ネリィは次第に、ポージュの言葉が真実であると信じるようになってきた。
「ルツ君を一旦ノア大陸から離すんだ。何もかも変えてロールライトに来れば、私が保護しよう」
「南半球に行けと?」
「そうだ。向こうには私の知り合いもいる。其処で保護してもらい、何年か後に亡くなったことにすれば、こちらの大陸に戻ってこられる」
「私立医療団に追い掛け回されることはないのか」
「南半球まで彼らの力は及ばないし、偽の書類を作成するのも容易い」
「あんたの知り合いが約束を反故にして、ルツをシェイラや私立医療団に引き渡す可能性はないのか」
「ロッシといったか。彼は非常に危ない人物だ。我々の組織が絡まないことには、ルツ君は命の危険さえある。どうだ、私に任せてはくれないか」

 ネリィはどうしても、ルツを手放すことに焦燥感を覚えていた。
「誰が向こうに連れて行くんだ」
「私の部下が連れていく。君たちの誰かがいなくなれば、私立医療団はすぐに動き出すだろう」
「イワンでも無理なのか」
「無理だ」

 ネリィの焦りは続く。
「やっぱり俺がルツを連れていく。知らない連中に任せるのは嫌だ」
 その時、クロームがネリィの頭に拳骨を食らわせた。ネリィの頭は硬い。クロームはひりひりとした右手を摩りながらネリィに向かって言い放つ。
「ネリィ、状況を弁えろよ。俺達だけでルツを守るのは無理なんだ。それくらい解るだろう。ここは双方歩み寄ってルツを守ることを考えないと。スライだってあんなに心配してるんだから」
「クロームくん、君は状況判断が正確だ」
「グールに居る間に誘拐されたりすることはないでしょうか」
「私の部下を張り込ませてある。大丈夫だ」
「それでは、ルツをよろしくお願いします」
 
 それだけ言い残すと、クロームは踵を返して玄関の方にネリィを引き摺っていく。
「石頭のネリィ」
 ポージュがリビングから出てきた。
「オデッセで送らせよう。執事に付いていきなさい」

 車寄せには、オデッセが2台停まっている。
 二人は護衛たちとともに、グールの町に戻るのだった。


 一方、両親の最期をロッシから聞いたスライは、医療の研究をするという当初の目的に立ち返った。スライは、少しずつではあるが、傷心から立ち直りつつあった。
 そこであらためて考えたのが、ルツを何処か田舎に逃がそうという計画だった。ロッシの言葉を借りれば、いくら大陸内で領を移動したとしても、いつかは医療団に見つかりドナーとなってしまう。
 そして、ルツを逃がしたスライは罰と称した処刑を受けるだろう。
 それでも構わなかった。
 両親と同じ血が僕には流れている。そう思った。

 計画をネリィたちと練らなければ。
 まだスライはネリィとポージュの計画を知らなかったから、自分を犠牲にするつもりだったのである。

第13章  三つ巴の戦い

 “この先、ゴールデン・ブラッドのドナー護衛を辞める”

 ネリィは、ポージュから言われたことを思い出し、護衛から手を引くことを本気で考えていた。ポージュがゴールデン・ブラッドから手を引けと言った理由は解らないでもない。ネリィたちだって今迄無事なのが奇跡かもしれないのだから。

 スライの生活費は、今や、充分すぎるほどに稼いでいた。これ以上纏まった金も、今のところ必要ない。ポージュがルツを保護してくれるとしたら、ルツの生活費をポージュに渡す程度で済むだろう。
 ネリィは、ポージュの計画に乗ろうと思いつつ、どうしてもルツが心配だった。ポージュはルツ1人を南半球に行かせるつもりのようだが、ネリィは、自分も南半球に渡る決意を固めた。ルツだけは自分の身を挺しても護衛したかった。それは、リヤンの家にいる誰もが思ったことだろう。

 しかし、ルツをいつまでもポージュの下に置いておくわけにはいかない。
 どの領に住むかは別として、大陸の何処かにルツと一緒に住める場所を確保し、生活していかなければ。自分一人なら、或いは同居者がクロームだけなら生活費も微々たるものだろう。だがルツはこれから高等専門校、いや、お金さえあれば高等学校や大学に行く夢だって不可能ではない。
 ルツの将来をどう考えたらいいのか。

 熟考に熟考を重ねた結果、ネリィはドナー護衛から手を引く決意を固めた。ルツの生活費が、ゴールデン・ブラッドのドナー護衛から出るなんて本末転倒な話だと、ネリィは悟ったのだった。
 リビングにいたネリィは、階段を上がり、クロームの部屋をノックする。
「クローム。今、いいか」
「いいよ。どうしたのさ、ネリィ」
「もう、ドナーの護衛を辞めようかと思う」
「そろそろ潮時かもしれないね。結構なお金になったし、スライの生活費以上のものは僕らには必要ないから」
「解ってくれるか」
「そりゃもう。ネリィの悪い癖だ。自分だけで悩むなよ」
「ありがとう、クローム」

 クロームに、ネリィ自身もルツと一緒にいくことを話そうかどうか、悩んだ。いや、今言わなければ、もう言うタイミングを逃してしまう。スライにも話すべきかどうか、判断がつきかねた。スライも、この件では心配しているだろう。ある程度の時間が経過したら、クロームから話してもらおうか。でも、ロッシにばれたら不味い。

「クローム、やっぱり俺、ルツに付いて行くよ」
「どうしたの?一緒に行けばロッシに怪しまれるって言われたじゃないか」
「でも、ルツを独りで船に乗せるのは忍びなくて」
「止めた方がいい。ロッシはネリィが思ってる以上にねちっこい、まるで蛇のようなやつだよ」
「でも。それなら、時間差で行く」
「ネリィは一回言い出したら人の言うこと聞かないんだから。悪い癖だ」
「すまんな、クローム。それはさておき、護衛を辞める件、早めにエルとルルフェに言わないといけないよな」
「ああ、そうだね。僕から連絡しようか?」
「いや、俺から電話するよ。じゃ、お休み」

 クロームの部屋を出て、その上にある自室に篭る。護衛を辞める理由をどう話そうか。言葉を選ばなければ。ルツのことが知られてしまってはいけない。
まずエルに連絡して、今後ドナー護衛から手を引くことを簡単に伝えよう。ルルフェにも同じように簡単に話せば良い。

 南半球に渡るには、ロールライトから商船に乗ることになるだろう。ロールライトから船に乗るためには、現地までいかなくてはならない。トロッコでは危険すぎる。グールから車でロールライトまでいかなければ。オデッセはポージュから借りればいいが、ネリィは車の運転免許をもっていない。運転手もポージュに頼るのは気が引けたが、ルツのためなら、なんだってやる覚悟だった。
 
 まず初めにエルに電話するために、携帯電話を手にしたネリィ。エルの番号を軽いタッチで押す。呼び出し音が鳴る。エルは電話に出られないのか。10回ほど呼び出し音がなっただろうか、ネリィは電話を切ろうとした。
「はい、エルです」
 そういって、エルは電話に出た。
「エル、俺、ネリィだ」
「ネリィ、どうしたの」
「今、時間大丈夫か」
「ああ、仕事は終わったから」
「突然で悪いけど、俺とクロームは護衛から手を引こうと思ってる」
「おや。そりゃまたどうして」
「スライの生活に必要な金が溜まったから」
 エルには嘘をついた。エルが不審がっているようにも感じられた。
「そうか、もうキミたちと組むことが無くなるのは寂しいな」
 そこでふと、ネリィは口を滑らせてしまった。
「リヤンの家にいるルツをロールライトまで連れていきたい。車と、運転してくれる人を紹介してもらえないか」
「ルツ?ああ、ゴールデン・ブラッドの彼か」
 
 ネリィは、エルがルツのことを知っているとは夢にも思わなかった。箝口令を敷いていたから、マリエルたちもルツの血液型は知らないはず。
 これが、情報屋の神髄か。
 ネリィが黙ったので、エルはそれが本当だと悟ったらしい。
「いつものメンバーで、グールからポルスカまで行こう。ポージュに会って必要書類を受け取ったら、その後皆でマドラスに行く、ってのはどう?」
「あ、ああ。それで構わない。ただ、ポージュには言わなかったんだけど、俺もルツと一緒に南半球に渡るつもりだ」
「あれ、ポージュに話したの?ルツ君の分しか用意してないと思うけど、書類」
「そうか、気付かなかった。ポージュの連絡先を知っているか」
「手元には無いけど、アパルトモンに帰れば連絡先がわかる」

 ポージュの連絡先をエルに頼み、ネリィは部屋のベッドで横になる。
 リヤンの家からポルスカまでオデッセを使い、一旦ポージュの屋敷に寄り書類を受け取る。そして次にオデッセでマドラスに向かう。マドラスで商船に乗り、南半球へ渡り、時間を稼ぐ。ルツの偽証明が出来たら、ノア大陸に戻ってくる。暫くは、ネリィもロールライトに滞在するのが得策だろう。

 もうすぐ、ルツの通うエクス学校は夏休みだった。
 学校から帰ったルツを捕まえて、聞く。
「ルツ。この夏、南半球に行ってみないか。商船で」
「うわ。そんなに遠くまで行けるの?」
「ああ、俺が付いて行くよ」
「なあんだ、ネリィの錘つきかあ」
「生意気言うな。お前だけだと何やらかすかわからんだろ」
「へへ。南半球どころか、グールからだって出たことないよ」
「エクリュースに連れていけば良かったな」
「でも、いつでも行けるでしょ」
「そうだな」

 ネリィの声は段々小さくなっていく。ルツは楽しみにしているが、もう、ルツとしてマリエルたちに会うこともないはずだ。この計画を知っているのはポージュ、クローム、そしてネリィだけなのだ。

 それ以上に、船に乗るまで、南半球に着くまでにシェイラから襲撃を受けないかどうかが、ネリィの心配の種だった。
 ネリィは不思議に思っていた。
 どこから情報が漏れるのかわからないが、ドナー護衛の日は必ずシェイラの襲撃を受けていた。
 襲撃を受けるのは、決まってロールライトに入ってから。よもやドラップにスパイでもいるのではないかと訝ったほどだ。


 それもそのはず、情報を流していたのはランジュベーヌの私立医療団に属する医師たちだった。

 私立医療団の医師たちは、ランジュベーヌの領立医療団で作成しているドナー名簿とレシピエント名簿を盗み出し、それらを、あろうことか密売人たちに転売していたのである。
 医師たちは2つの名簿を高く売るために、ドラップ、シェイラ両方に名簿の情報を見せ、名簿に法外な値を付けて売った上で、レシピエントからも法外な値段のオペ執刀料を受け取っていた。
 無論、2大組織も法外な値段を支払わずに、表立った小競り合いの末にドナーを奪取する方法を取っていた。特にシェイラはその傾向が強く見受けられた。
 ドラップのドナー護衛に対する狙撃や銃撃など、ランジュベーヌの周辺では日常的に小競り合いが続いていた。

 その上、私立医療団でも不正が行われていた。領立医療団に運ばれるはずのゴールデン・ブラッドの献血箱やドナーそのものを、金で雇った救急隊員が事故現場に現れたり、救急隊の車を襲撃して、新たに救急隊のふりをしてドナーを取り返したりと、私立医療団も、マフィアと変わらぬ血の取り合いを演じていた。
 何故か。単に、レシピエントから金を巻き上げる算段だったからだ。

 また、ドラップやシェイラではなく小さな組織と結託し、密かにドナーを誘拐するのは日常茶飯事だった。名簿に載ったドナーを小組織に誘拐させ、誘拐したドナーをドラップかシェイラに引き渡し、小規模組織と医師たちは金を得る。領立医療団から相応の金を受け取るから密売人たちは損をせず、領立医療団までドナーを護衛する。これもまた、オーソドックスな方法であった。

 密売は、ゴールデン・ブラッドの持ち主を金で探ろうとするマフィアと、名簿を高く売り少しでも儲けようとする強欲な医師たちとの駆け引きの場でもあったのだ。
 このように、世界中で、ゴールデン・ブラッドを巡り、2大組織と私立医療団の医師たちによる三つ巴の戦いが勃発しているのだった。
 
 争いの渦巻く世界を、ネリィは知りもしなかった。

 そんな最中、、夜半過ぎ、エルから電話が来た。ネリィはポージュの連絡先を教えてもらった。
「ポージュの仕事は知っているんだろうね」
「こないだシェイラから助けてもらった時に、教えられた」
「そうか。あまり関わらない方がいいぞ」
「ああ。今回はたまたま書類関係で世話になるだけだから、もう会うこともないよ」
「ネリィにご執心らしいじゃないか」
「子どもと間違えられたんだ」
「それならいいけど」

 やはり、エルには本当の事が話せない。
 何故だろうと首を傾げながら、ネリィはポージュの電話番号を押す。
「ポージュさん、俺です、ネリィです。夜半過ぎにすみません」
「どうしたね。それに、何処からこの番号を聞いた」
「エルという情報屋です。たしか、ドラップに属してると思うのですが」
「エル?ああ、あの青年か」
「ところで、俺もルツと一緒に南半球に渡ろうと思うのですが」
「止めた方がいい」
「何故ですか。ルツが心配なんです」
「君がノア大陸からいなくなれば、ルツ君の居場所が私立医療団に知れてしまう恐れがある。ルツ君だけがいなくなるからこそ、誰かが誘拐したと敵に思わせることができる」
「そうなんですか?」
「ああ、誘拐は日常的にあるからね」
「夏休みまであと少しですが、ルツは大丈夫でしょうか」
「部下をつけているからね、大丈夫だ。かくれんぼも得意だというじゃないか」

 ポージュがそこまで知っているのも意外だった。イワンから聞いたのだろうか。それとも、情報屋の力なのか。
 取り敢えず、ルツのことが心配ではあったものの、ネリィが一緒に南半球に渡れないことだけは、はっきりした。


 明日から夏休みという朝。ルツが階段を2段跳びで上がってきた。ドンドンとネリィの部屋のドアを叩く。
「ネリィ、あの約束、ホントだよね?」
「約束?なんだっけ」
「もう。南半球に遊びに行く約束」
「悪い、南半球はお前だけになった」
「そうなの?僕一人だけ?」
 ルツは心なしか嬉しそうな顔をしている。
 ネリィが、ルツのこめかみに握りしめた両手を当てる。
「なんだ、お前。俺がいないのがそんなに嬉しいか」
「そんなことないよ。一人で寂しい。向こうでは誰が面倒を見てくれるの」
「俺の知り合いの知り合い」
「なんだ、知らないの?」
「悪い、南半球なんて行ったことないからな。ペンギンに会えるかもしれないぞ」
「ペンギン?」
「ペンギンはな、飛ぶんだ」
「嘘だあ。学校で習ったよ、ペンギンは泳ぐんだよ」
「そうか?ちゃんと勉強してるんだな」
 ネリィは笑いながら、ルツを学校に送り出した。
 
 いつもなら、遅くても夕方にはリヤンの家に帰る筈のルツ。
 しかしこの日、陽が西の空に落ちてもルツの姿はリヤンの家に無かった。
 ネリィとクロームは、空の色が変わりつつある時刻から、入れ代わり立ち代わりリヤンの家の前に立っていた。ルツの姿は、終ぞ現れないのだった。
「ネリィ、おかしいよ。ルツは暗くなるまで遊んでいるような子じゃない」
「そうだな、クローム。悪いけどイワン、学校まで迎えに行ってくれないか。俺はその辺を探してくる。クロームは、此処にいて、もしルツが帰ってきたら知らせてくれ」

 ネリィが通りに飛び出した。イワンも速足でエクス学校に向かう。クロームは門を開け放し、ルツの帰りを待った。

 辺りが暗くなるまで、ネリィはエクス学校からリヤンの家に通じる通りと言う通りを探して回った。それでも、あのつんつん頭は見つからなかった。途中、学校に向かったはずのイワンから電話が入った。
「ルツは、授業が終わると直ぐに学校を出たそうだ。教員が門のところで挨拶を受けたと言っている」
「なんだって、それから随分時間が経っているじゃないか。ルツの奴、何処にいるんだ」
「ネリィ、警察に届けよう」
「わかった。俺が行ってくる」

 交番にルツの捜索願を出した後、ネリィはポージュに連絡を取った。
「ポージュ、俺だ、ネリィ。大変だ、ルツがいなくなった」
「なんだって?こちらには連絡が入っていない。調べて連絡する、少し時間をくれ」
「部下がルツを守ってるんじゃなかったのかよ!」
「済まない。何か齟齬が生じたようだ」
「とにかく、すぐ調べて連絡くれよ!」
 ネリィは思い切り電話を切って、道路に投げつけようとした。でも、堪えた。ポージュから連絡がくるだろうから。
 こんな時、自分の無力さが身に染みてわかる。なんて自分は無力なのだろう。
 10分もしないうちに、ポージュから電話が来た。
「学校近くで見張っていた部下が死んでいた。どこか別の組織に殺されたらしい。その組織がルツ君を誘拐したのだろう」
「ルツの血が目当てなのか」
「それはまだわからないが、ゴールデン・ブラッド絡みなのは間違いないだろう」
「ああ、なんてこった。ルツ」
「まだドナーになると決まったわけじゃない」
「どういうことだよ」
「中には、誘拐後、取引して身柄をドラップやシェイラに売り渡すケースがある」
「そうなのか?」
「ああ。シェイラとドラップで値を高くつけた方に売り渡す。今回がそうなら、何を置いてもルツ君の身柄をドラップで預かる」
「今度は信じていいのか」
「私が直々にドラップに乗り込む。ヘマはしないさ」
「宜しく頼む」

 それから3日が経った。
 ネリィのもとにポージュからの連絡はなかった。
 リヤンの家は、重い空気に包まれた。イワンとクローム、ネリィは、3人で電話がなりやしないか、ひょっこりルツが帰って来やしないかと、3人でローテーションを組み誰かが起きていた。
リヤンの家は、いつでも灯りが灯っていた。
 
 日付が変わろうかというときだった。
 ネリィの携帯電話が鳴った。相手はポージュだった。
 開口一番にネリィは叫んだ。
「ルツは無事か?」
「ああ、取引して、無事に取り戻した。今、私の屋敷で身柄を預かっている。先日君たちが来たところだ。グールにいるよりポルスカの方が安全だ。君がこちらに来て、ルツ君の見送りをしてはどうだろう」
「イワンとクロームは?」
「最後の別れは君だけでいいだろう。あまり敵を刺激したくない」
「わかった。俺が行くまでルツを宜しく頼むよ」

 ネリィは、クロームと相談した内容をイワンにも話した。南半球に渡り、名前を変え、場合によっては顔も変える。これは最大級の箝口令だった。
 イワンとクロームは、ルツの身の安全を考え、グールに残ることにした。静かに事を実行する方が良いというイワンの判断だった。
 ネリィはエルに電話し、ポルスカに行く準備を整えた。
 翌日、リヤンの家にオデッセが到着した。
 ルルフェが運転し、エルが後部座席に乗っている。
「おや?ネリィひとり?クロームは?ルツ君は?」
 後部座席の窓を開け、エルが身を乗り出してネリィを質問攻めにする。
「ルツはポージュのところだ。今回は俺だけ行く。ポルスカの、ポージュの屋敷までお願いしたい」
「そう。わかった」
 エルが返事をすると、ルルフェが徐にアクセルを踏み込んだ。急発進とともに、オデッセはリヤンの家を後にし、ポルスカへと向かった。

 1時間半、いや、2時間ほど乗っていただろうか。
 オデッセは、賑やかな町に入った。ポルスカの町だった。ネリィは1度だけ見たきりだったので、景色に見覚えはない。

 ポルスカに入って10分ほど。ネリィを乗せたオデッセは、ポルスカで唯一見覚えのある屋敷の前で停まった。ルルフェは降りて門を開け、オデッセを車寄せに停めた。
 家の中から、ルツの声が聞こえる。
「ネリィが来たの?」
「そうだ、ネリィが来たよ。玄関まで迎えに行くといい」
「うん!」
 屋敷の中を走る音がする。そしてルツが玄関に出てきたのがわかった。ネリィは、素早く、ルツが外から見えないように玄関を開け、そして中に滑り込む。
「ルツ、今日、南半球に行くぞ」
「嘘っ、今日?」
「そう、今日。なんだ、嫌なのか?」
「ううん。どんな船で行くのか楽しみだなって」
「商船だからな、豪華客船と違って普通の船だよ。大きいけど」
「アンデシスにも商船が寄るの?」
「いや、ロールライトにしか寄らないはずだ」
 
 ネリィは、至って普通に話を進める。誘拐された時のことは聞かなかった。怖がるといけないから。
 ポージュがリビングから出てきた。ネリィは素直に礼を言った。
「ありがとう、ルツを助けてくれて」
「いや、こちらのミスだったからね。ルツ君、南半球に行くんだって?帰ってきたら、向こうでの話を聞かせてくれるかな」
「いいよ、おじさん」
 ルツは嬉しそうにしていた。これがルツと呼ぶ最後か。向こうに行って暫く過ごして、ルツがもう少し大きくなったら、全てを話して名前も顔も歳さえも変えるのだろう。もう、誰もルツと判らないかもしれない。
 そう思うと、ネリィは少し感傷に浸った。ルツという少年を見るのは、今日が最後なのだと。

 楡の木で作ったルツの分のトランクを持ってくると、南半球に一緒にいくのであろう、ポージュの部下が二人、トランクを引きながら屋敷の奥から出てきた。皆、バカンスに行くようなカジュアルな格好をしている。ボディガードの役目を果たすと思われた。
 
「ポージュ様、こちらにどうぞ」
 エルがポージュに声を掛けた。部下と一緒では不味いと思ったのだろう。
 ルツもポージュと一緒に後部座席に座る。エルは一旦、車から降り助手席に座った。
「では、出発します」
 ルルフェはいつものシャープな運転ではなく、ソフトなハンドル捌きを見せていた。本当に車の運転が上手い。
 ルツは楽しそうに勉強の話などをポージュに教えていたが、ふと、くるくると回る目が泳ぎ、一人になるのが寂しいような顔をした。
「ルツ。里親が決まったらこんなもんだぞ。俺なんて大変だった。学校にも行かせてもらえず稼ぐばかりで飯もない。最悪のところだったよ。向こうでお前の世話をしてくれる人がいる。お前も、里親気分で出かけてこいよ」
「そんなことがあったの?」
「お前がリヤンの家に来る前さ。俺はこんな性格だから、小船から海に落ちて、速攻リヤンの家に戻ったけどな」
 ポージュが眉間に皺をよせ、その目には涙が浮かんでいる。
「ネリィ、苦労したんだね、君は」
「そんなことありません。リヤンの家が心地よかったし、あんな里親、こっちから願い下げだと思っただけで」
「小船というと、相手は漁師かい」
「そうですね、もう10年以上前です。ルツが来る前ですから」
「そうか。もしその名前が知れたら、私が懲らしめてやろう」
「ポージュさん、あなたがいうと洒落になりませんよ、よしてください」
 そんな会話をしているうちに、車はマドラスに着いた。
 商船が港に見える。
 ルツが商船を指差し、喜ぶようにネリィの方を向いた。
「僕、あれに乗るの?」
「そうだな、今日出る商船はあれだけなのかな」
 ポージュが、はっきり言えないネリィをフォローする。
「ルツ君、あれが君の乗る商船だよ、どうだ、大きいだろう」
「うん、船に乗るのも初めてだし、楽しみ」
「燥ぎ過ぎて海に落ちるなよ」
 そういうだけで精一杯のネリィだった。

 部下の乗った車も、港に着いていた。車から降りてルツに近づく。
 ポージュはアイコンタクトで部下に命令していた。偽の書類を商船側に出し、ルツの名を伏せたのだった。
 商船とはいえ、観光で南半球にいく連中は多いようで、見送りの人や車で港はごった返していた。
「じゃ、ネリィ、バイバイ」
「おう、行って来い」
 必死に涙を堪え、ネリィは一言だけ喉から絞り出す。
 ルツとボディガード役の2人が、船に乗るためタラップに近づいた。

 その一瞬だった。
 けたたましい音とともに、タラップが揺れる。狙撃だった。
 何発発射されたのかも、ネリィには分らなかった。

 周囲では上を下への大騒ぎで、タラップ付近から皆が逃げ出していく。ネリィは、ルツの姿が見えずに、タラップへと近づいた。
 そこには、脚を撃ち抜かれたルツが、痛みの余り、気を失っていた。
「ルツ!ルツ!大丈夫か!」
 ルツの脚から、血が地面に広がっていた。
 ネリィはルツを抱き起こし、首筋に手を当て、鼻部分に耳を押し当てた。良かった、生きてる、そう思った。
 急いで救急隊を呼ぶポージュ。

 5分もしないうちに、救急隊が到着した。周囲で、怪我をしたのはルツだけだった。
「ランジュベーヌの領立医療団に運びます」
 隊員がルツを担架に乗せ、救急車に運び入れる。
 ネリィは、隊員に迫った。
「俺も一緒に行きます」
「ランジュベーヌに入れるのは怪我人のみです。連絡先の番号をこちらに控えてください」
 ネリィがメモ用紙に番号を控えると、早々に救急隊は立ち去った。
 ポージュは何処かに電話していた。


 ランジュベーヌの領立医療団といえば、スライの就職先だった。ネリィは急ぎ電話した。
「スライ、俺だ、ネリィ。ルツが狙撃の弾に当たって脚を怪我した。救急隊が今、そっちに向かってる」
「了解。こちらに着いたら連絡するよ」
「頼む」

 ネリィがスライに電話しているうちに、ポージュが指示していたのは、リーマスにランジュベーヌ入りの偽書類を作成させることだった。
「エル、ルルフェ、ネリィ。私も一緒にランジュベーヌに入る。書類は今、リーマスに調えさせている」
「承知しました、ポージュ様」
 エルは敬礼すると、ルルフェを運転席に押し込み、自分も助手席に座る。
「急いでポルスカに戻ってくれ」
 ルルフェは、いつもどおりシャープなハンドル捌きに戻った。周囲が静かな分、怖さが倍増した。ここにドナーがいないことを知っているからだろうか。それともポージュが乗っているからだろうか。
 いずれ、シェイラは今日のところはオデッセを襲撃する気配はなかった。

 ネリィたちがポルスカに戻り、リーマスから偽書類を受け取った直後、スライから電話が入った。
「スライ、もうそっちについたのか、救急隊」
「いや、こちらに着いた中にルツはいなかったよ。もう到着しないといけない時間だ。もしかしたら、私立医療団に行ったのかも」
「確かに領立医療団って聞いたけど」
「確認してみるよ」
 ルルフェの運転する車は、ドミニクに入った。医療団は、もうすぐだ。
 と、その時、ルルフェが急ブレーキをかけた。姿勢を崩したネリィが見たのは、目の前に立ち塞がるランジュベーヌの警察隊だった。

「武器を捨てて、両手を上にあげろ」
 ポージュもネリィも、エルやルルフェでさえ、武器は持っていないはずだ。何故呼び止められたのだろうとネリィは思った。早く医療団に行きたいというのに。
「ポージュ、そしてネリィ。お前たちをゴールデン・ブラッド密売容疑で逮捕する。公文書偽造のおまけもある」
 ネリィが驚いていると、警察隊の一人が、助手席のエルに話しかける。
「エル、いや、ハンス。運転席の君はルルフェだったな、トーマス。お手柄だった。こうしてポージュを誘い出すことに成功したのだから」
 エルとルルフェは、声に従い車を降り、相手に敬礼した。
 ネリィも窓を開け、降りようとしてハンドルに手を掛けるが中からはドアが開かない仕組みになっていた。横のポージュを見ると、目を瞑り、手を上げて静かにしている。
「エル、ルルフェ、これは一体どういうことなんだ?」

 暫しの時間を置き、エルが話し出した。
「僕とトーマスはランジュベーヌ警察隊の囮捜査官だ。ネリィ、キミをドナー護衛に引き入れたのは、ポージュの息子と知っていたからだ。キミが護衛を辞める意向を知り、これが最後のチャンスと思っていた。ドナーの密売に終止符を打たなければならなくてね」
 ルルフェは何も語らなかった。
 ポージュも黙ったままだった。
 ポージュとネリィは、そのままランジュベーヌ警察内の留置場にその身を移された。
 手錠を掛けられ留置場に入る際、ルルフェが一言だけ発した。
「ネリィ。君の携帯を預かった。スライからの連絡はこちらで受ける。結果は君たちにも知らせよう」
 ネリィは、予想もしなかったことに、ただただ驚きを隠せなかった。

 スライは、数ある私立医療団に1軒1軒電話をし、救急隊で10歳くらいの少年が運ばれなかったか確認を急いでいた。サーシャと手分けをして電話していたので、どこの医療団に運ばれたかはすぐに分かるはずだった。
 何処の医療団にも救急隊は到着していなかった。
 ロッシのいる医療団は、敢えて避けていたが、残りは其処しか無くなった。
 電話をするスライ。
 やはり、救急隊はロッシのいる医療団に入っていた。
 スライとサーシャが、領立医療団からルツの下に急いだ。
 この時、ネリィは私立医療団内の不正に気付いていなかった。医師たちがオペを執刀し、ルツの命を助けるものだとばかり思っていた。それはスライも同様だった。

 オペ室の前に行き、スライとサーシャは中を覗く。
「何をしてるんだ?」
 スライたちは愕然とした。
 ルツの身体は手術台に乗せられているというのに、私立医療団の医師たちは、脚に銃弾を受けたルツのオペを開始することは無かった。
 あろうことか、ルツに全身麻酔をかけ、全身から血液を抜いていたのだった。
 笑いながら血を抜く医師たちを見て、スライは髪の毛が逆立つような感覚に襲われ全身に鳥肌が立つと同時に、胃の中まで鳥肌が広がるような感覚を覚えて、凄まじい吐き気をもよおした。サーシャは手術台を直視したためルツの顔が見えたらしく、暫くスライに掴まって立ってはいたものの、余りの惨状にただ震撼し、その場で意識を消失してしまった。

 吐く寸前のスライの後ろで、誰かの声が聞こえた。
「やあ、スライ。結局こうなっただろう」
 その陣頭指揮をとっていたのは、なんとロッシだった。
「ロッシ!なんてことをするんだ。オペすればルツは助かったはずだ!」
「もうルツは用済みなのさ。レシピエントがお待ちかねだからね」
「お前ってやつは、どこまで卑劣なんだ!」
「何が卑劣?僕がルツの血液型を最初から知っていたこと?それとも赤子のルツをリヤンの家の前に捨て置いたこと?でなきゃ、ルツが成人したら初めから全身の血を抜く気だったことかな?」
「ロッシ、お前ってやつは・・・」
「僕の名を容易く呼ぶな。僕がGODでルールだ。誰も僕に意見できない」

 スライは、漸く思い出した。ロッシが自分の両親の最期を語った時、500cc如きの輸血で莫大な金が動くと思っているのか、と甲高い声で叫んだことを。私立医療団の中には、こうして全身の血液を抜きレシピエントからそれこそ莫大な治療費をとっている所があったのだ。
 少なくとも、領立医療団ではそんなことはなかった。輸血させたとしても、ドナー当人は生きていた。ドナーが元気になった頃、また輸血に協力することを依頼していた。それこそ、死んでしまっては輸血もへったくれもないのだから。
 
 スライは心の底から怒った。そして、自分の無力さを嘆いた。
 だが、全身から血を抜かれたルツの鼓動が戻ることはなかった。
 

 ロッシが高笑いをしながらその場を去ったあと、スライは、サーシャの頬を2,3度優しく叩いた。サーシャはようやく目覚めたが、全身に残る震えをコントロールできないようだった。スライはサーシャに自分の腕を掴ませ、ゆっくりと歩き出した。スライ自身、もう、歩く気力さえ無くなっていた。
「ネリィにだけは連絡をしないと」
 私立医療団を出たスライは、呟くようにぼそぼそと独り言をいうと、白衣のポケットから携帯電話を取り出した。
 呼び出し音が鳴るものの、ネリィは出ない。いつもなら2コールで出るのに。おかしい。ネリィに何かあったのでは。スライはまた、ネリィの動向を心配した。
 電話を切ろうとしたとき、誰か他の人の声が聞こえた。訝るスライ。
「この番号、ネリィの電話ですよね」
「そうだ。私はルルフェ。ネリィは今、ランジュベーヌ警察内の留置場にいる」
「どうしてですか。ネリィが何かしたのですか」
「それより、ルツ君はどうなった。ネリィも心配している」
 ルツと聞き、スライの目には涙が溜まり、声が出せなくなった。
「おい、ルツ君はどうした」
「ルツは、死にました」
「あの程度の怪我で死んだ?ゴールデン・ブラッド絡みか?」
「はい、そうです。ネリィに伝えてください。ロッシが裏にいたと」
「わかった」

 ルルフェが、留置場に現れた。ネリィはエルやルルフェの囮捜査官という身分に驚きこそしたものの、嘘を責める気にはなれなかった。自分のしていたことは密売だったという言葉の方がショックだった。
「今、スライから電話が入った」
「ルツは?ルツは無事なのか?」
「亡くなったそうだ。ロッシが裏にいる医療団に運ばれて」
「死ぬような怪我じゃなかった!ルルフェも見ただろう?」
「ああ。あの医療団は摘発逃れをしていてね。今回のことで、メスが入れられればいいんだが」
「なんてことだ、ルツが死んだなんて信じられない。ロッシ、あいつを絶対に許さない」
「敵討ちは警察に任せろ。これ以上罪を重ねるな。君が僕を護衛メンバーに誘った時、これで君を救えると思った。そのために君の前に現れたのだからね。何度も繰り返し言うけど、これ以上罪を重ねてはいけない」
「警察なんて、信用できるか!」
 その時、同じ房に入れられていたポージュがネリィの傍に寄ってきた。
「彼の言うとおりだ。辛いだろうが、ここは警察に任せなさい」
「だって、だって・・・」
 手錠を嵌められた手首を、何度も床に叩きつけるネリィ。ルルフェはそれを見ながら冷たく言い放つ。
「ロールライトで狙撃をした犯人を捕まえた。事情聴取しているところだ」
「誰が狙撃をしようが、ルツを死なせたのはロッシだ!」
「そのロッシに辿り着くよう、今聴取をしている。少し待て」
 それだけ言うと、ルルフェはドアを開け、階段の向こうに消えた。

 ゴールデン・ブラッドの諍いを前に、スライ、サーシャは、医療団そのものに嫌気がさしていた。研究のためなら、一部のVIPのためなら、尊い命が奪われてもいいのか。今迄にどれだけの命が奪われたのか。
 スライの考えは堂々巡りになり、纏まりを見せない。
 サーシャはルツのことを考えていたのだろう。スライに涙声で小さく囁いた。
「スライ、ネリィが逮捕されたそうよ」
「何だって?まさか、密売人として逮捕されたのかい?」
「ルイスゴールのボスと一緒だったから逃れようがなかったらしいわ」
「助けたいけど、牢屋の中じゃ手を出せないな。どうしたものかな」
「兎に角、留置場に行ってみましょう」

 スライとサーシャは領立医療団から目と鼻の先にある衣料品店に駆け込むと、下着や衣類を2人分買って、歩いて10分ほどの場所にあるランジュベーヌ警察に急いだ。ネリィのいる房を確認していると、そこにルルフェが現れた。
「聞き及んでいるかい、ネリィのこと」
「今聞きました。なんとか助ける方法がありませんか」
「無いとは言わない。ただし、ネリィに父親を裏切らせることになるよ」
「父親?」
「ポージュはネリィの実父なんだ。ネリィは認めようとしなかったようだが」
「そうでしたか。僕が行って、ネリィを説得してみます」

 留置場でネリィとポージュに差し入れを渡しながら、スライはネリィの説得を試みた。
「ネリィ。ここから出る方法があるんだ」
「逮捕されたのに、そんな甘い話はないだろ」
「ルルフェさんが言ってた。キミが外に出るためには、ポージュさんを裏切らないといけないって」
「俺は誰かを犠牲にして、自分だけ助かりたいとは思わない」
 また、脇からポージュが口を出し、優しい口調でネリィを諌めた。
「私はマフィアという世界に長くいすぎた。少し長く服役することになるだろう。ネリィ、ここから出られる方法があるのなら、早く出なさい。そしてアンデシスに帰って地道に暮らすんだ」
「そんなことできるか」
「いいから。私が君を密売人に仕立てたと供述すれば、君は外に出られる」
「一人で出るのは嫌だ。俺はここにいる」
 スライが困った顔をする。
「ネリィ、ルルフェさんの厚意を無駄にしないでくれ。彼は警察官なのに、キミを助けようとしてくれてる」
 ポージュも同じことを言った。
「エルもきっと同じことを考えているだろう。私はルイスゴールを解散するよ。服役するけど、ネリィ、外に出たらまた、君に会いにいくから」
「そうだよネリィ。僕とサーシャもアンデシスに帰る」

 ネリィは驚き、スライの顔を凝視した。嘘だろう、という表情で。
「スライ、お前はここで最新の医療を研究するんじゃないのか」
「サーシャ、君にも話して無かったね。アンデシスに帰ろう。僕らのいる場所はここではないよ。こんな惨い事件を前にして、それでも医療団に残りたいとは思わない」
 サーシャは何も言わず、ただ、深く頷いた。
 ネリィは、折角引っ越したランジュベーヌの居住許可を棒に振るのかと悔し涙を流す。
「折角あんなに勉強してランジュベーヌに入ったのに」
「ネリィ、ごめん、キミには迷惑をかけた」
「俺のことはどうでもいい。お前とサーシャだけでも、いい暮らしをさせてやりたかったのに」
「皆でアンデシスで暮らす方が、僕は幸せだよ」
「私も」
 スライたち二人は、ネリィを説得できないまま留置場を後にした。

 夕闇がランジュベーヌを包みこむ。留置場にいるネリィには時間の流れが分らなくなっていた。そんな折、今度はエルが留置場に姿を見せた。本名はハンス、だったか。ネリィは、ポージュを陥れるために自分を仲間に引き寄せたエルを思わず睨みつけた。
「あんた云ったよな。俺の素性を知りながらそれを逆手に取って仲間に引き入れたんだろう」
「その通りだ。ルイスゴールを、密売組織を潰すのが僕の役目だったから」
「俺はあんたを許さない」
「許す許さないの問題ではない。それよりネリィ、キミは強情を張らずにここから出たまえ」
「あんた、どの口でそれを言う」
「僕が言える立場じゃないのは知ってる。でも、周りの言葉に耳を傾けろ。キミの悪い癖だ」
「知るか、そんなこと」

 エルが去ったのち、ポージュがネリィに話しかけた。
「やはり君はここから出なさい。皆が君を心配している」
「でも」
「私に気を遣う必要はない。君が私を思ってくれるだけで、私は嬉しいよ」
「俺は、あなたの息子なんだろう?息子なら父親を庇うものだ」
「息子だからこそ、ここから出て欲しい。そして、私を心配させない暮らしをするんだ」
 暫くふさぎ込む様に蹲り考えるネリィだった。
 翌朝、ポージュに起こされたネリィは、ポージュに告げた。
「俺、あなたの言うとおりここから出ます。でも、来られる限りあなたの様子を見に来るから。あなたも元気でいて欲しい」
「そうか、出てくれるか。わかった。私も早く出られるようにする。いいかい、出たらすぐにアンデシスに向かいなさい」

 そしてポージュは、ルルフェの作戦どおりの供述をし、ネリィは釈放されることが決まった。その代り、ポージュはランジュベーヌ内の刑務所に移送されることになった。
 スライが身元引受人となり、ネリィは晴れて留置場から出た。大空は広く、青々としていた。ネリィは、時を待たずしてアンデシスに向け出奔することにした。
 ルルフェとエル、スライとサーシャが見送りに来た。
「ルツ君の件だけど、救急隊もグルだったみたいだ」
「偽の救急隊も逮捕されてね。そこからも私立医療団を追っているところさ」
 ネリィは、空を仰いで、大きく溜息を吐いた。
「ランジュベーヌの医療は、どこか間違ってる気がしてならない」
「僕らもそう思うよ」
「そうだね。命に貴賤はないはずなのに、実際には貴賤を線引きしてレシピエントを選んでる」
「ドナーへの配慮が足りないのも変だ」
「ルツは、南半球に旅行にいくのを楽しみにしていたんだ。何処にも出かけたことが無いって。それなのに、命が潰えたのがこの領だなんて、あまりに哀しい」

 エルが、握りしめていた右手を開く。そこにはペンダントがあった。
「ルツの遺品だ。亡骸は2日後にアンデシスに着く」
 ネリィは、エルからペンダントを受け取った。ルツの亡骸はその後、領立医療団に運ばれたはずだった。
「領立医療団と話したのか」
「ピュータさんに頼んだ。有名な医者だから、領立医療団も顔がきいてね」
 サーシャが少しだけ嬉しそうに、顔を紅潮させた。
「イワン、このこと知ったら悲しむな」
「僕とサーシャは、細々した仕事を片付けたらアンデシスに戻るよ」
「おう。また、みんなで暮そう」


 現在の地球では、火葬する設備も無ければ、火葬の煙が害になるとして、原則土葬が主流だ。ネリィたちはリヤンの家に関わる全員で、青白く変色したルツの亡骸をアンデシスの丘陵地にある墓地に埋葬した。
 ルツが亡くなって、2日後のことだった。

 今迄のことを振り返るリヤンの家出身者。
 最初に口を開いたのはネリィだった。
「ルツ。痛かっただろ、怖かっただろ。ごめんな、守りきれなくて」
 クロームもルツに向かって手を合わせる。
「ルツはいつも元気でさ、皆を楽しませてくれたよなあ」
 マリエルは涙で声が出ない。それでも一言だけ、ルツに声を掛けた。
「ルツ、安らかに」
 マリエルの隣にいたアリエスは、普段飄々としているがこの時ばかりはマリエル以上にルツの死を悼んだ。
「まだこんなに小さいのに、何故ルツが苦しまなくちゃいけないの。こんなことになるなら、ゴールデン・ブラッドなんてこの世から消えてしまえばいい」
 イワンは初めこそ何も口にしなかったが、唇の震え具合や目頭を右手で押え涙を我慢していたところを見ると、ルツのことを本当の子どものように思っていたのだろう。
「俺がルツを引き取ってリヤンの家を閉鎖していればこんなことにはならずに済んだかもしれない。済まない、ルツ」

 イワンは、ネリィたちがリヤンの家を出たら、ロッシを追い出し、ルツの里親として一緒に暮らすつもりだったのだ。
 それを聞き、皆はあらためて涙した。

 暫くすると、小雨が辺り一面を覆い尽くしてきた。まるでルツの涙のように。
 スライとサーシャの姿は其処になかったが、一台のオデッセが墓地の脇に停まると、その中から二人は姿を現した。
 亡骸を前にし、サーシャは目を赤く腫らしハンカチを口元に当てたまま、何も口に出来ないようだった。あの時の光景が目に焼き付いて離れないという。目の前でルツの最期を看取ったのが、余程ショックのようだった。看取りとは名ばかりで、殺人にも等しい行為をまざまざと見せつけられたのだから。
 スライも終始伏し目がちに、言葉を発しようとはしない。
 ネリィがスライに声を掛ける。
「スライ。お前が悪いんじゃない。ルツに最後の言葉を掛けてやってくれ」
 
 小雨だった空から大粒の雨とともに、雨音が周囲にも響いてくる。
 雨音に掻き消されるような小さな声で、スライがルツに話しかけた。
亡骸を前にし、スライもサーシャも、2日前に行われた暴挙を思い出していたのだ。
「ルツ、済まない。僕があの時キミを逃がしていれば」
 ネリィはスライの肩を抱いた。
「お前のせいじゃない。この世界自体が病んでいるんだ」
「それでも、ロッシの目の届かないところに逃がせば、こんなことにはならなかった」
「お前の両親のように事故に見せかけお前を殺して、その後またルツを狙ったはずさ。世界そのものが腐りきってるのさ」
「そうかもしれない。でも、痛ましくて。一番年少のルツが最初に命を落とすなんて」

 その時遠くの空が晴れて、まるでルツの魂が天に昇るかのように一筋の光の階段が現れた。
 皆は、もう一度手を合わせ、ルツの冥福を祈った。

終章

 ルツの事件後、ネリィとクロームはゴールデン・ブラッドのドナー護衛を辞めた。
 アンデシスにて、あんなに嫌がっていた農作業を始めるクローム。ネリィも同様に農作業を手伝い、他にも薬草取りや、薬草栽培、薬物精製で生計を立てていた。額に汗しながら、二人は地道に働いていた。
 危険薬物以外なら、薬草栽培や薬草取引は簡単になった。警察に届け出て、販売ルートを一本化したのである。

 ポージュはルイスゴールを解散させ、刑務所に服役することとなった。
 とはいえ、ゴールデン・ブラッドの事件を世に知られたくなかった領立及び私立医療団が領府に圧力をかけ、宇宙刑は見送られた。

 病気が治ったはずのイサラは、自分の病気は治っていない、金の無い生活は嫌だと泣き喚いた。そしてポージュを見限り、駆け落ち同然に敵対組織シェイラの幹部たる男性の下へ、若き愛人として走ってしまった。
 父娘の愛情は、脆くも崩れ去った。
 ネリィは週に一度、ポージュの様子を見に刑務所へ面会に行っている。父を見舞う息子として、堂々と。ポージュは面会の度に、ネリィの優しさに涙を流した。ポージュが服役を終えたら、アンデシスで薬草を栽培しながら静かに暮らすのが父と息子の願いだった。

 スライは貧困層を見る医師として、アシスタントのサーシャとともにアンデシスを中心にクリムソンやロールライト、エクリュース領府にまたがり、多岐に渡る治療活動を行っていた。
 薬草取りはネリィ、薬物精製はクロームに任せて。
 スライは、金の亡者と化した医師ではなく、金のない者、時にはスラム街に出向いて治療をすることもあった。評判は頗る良く、ランジュベーヌからも診察依頼が舞い込むほどだった。

 サーシャは暫く実父ピュータと会っていない。相変わらずピュータからの金銭面の支援は続いていたけれど。
 ピュータもサーシャも、ピュータの家族への遠慮が消えなかった結果なのだろう。
 でも、サーシャ自身、もうピュータの事は許していたし、お互い幸せに生きようとピュータに伝えていた。
 スライと半ば旅しながら診療を続ける今の生活に、サーシャは心から満足していた。

 イワンはリヤンの家を畳み、アンデシスの工場で働き出した。そして、アンデシスにある他の里親施設から幼い双子の兄弟2人を引き取り、質素な生活を送っていた。

 オードリーとルミクス夫妻も、里親施設から子どもを迎え、ホテル・ラマンで仕事をしながら親子3人の生活を満喫している。

 エルは警察官だったが、ポージュが好んで足を伸ばすホテル・ラマンの中でルイスゴールに属する囮の情報屋として働いていた。ポージュがルイスゴールを解散させたことで、エルは元の警察官に戻った。
 エルが警察に戻ったころ、ロッシの属する私立医療団に、捜査のメスが入ろうとしていた。密売を影で牛耳っていた医者たちは、次々に捕まっていった。今後の捜査次第では、ロッシも無事では済まないだろう。
 エルは、密売事件の捜査が一段落したころ、ひょっこりとエクリュースに現れた。警察官を辞めたというのである。そしてホテル・ラマンでマリエルとともに下働きに専念していた。
 エルの情報屋としての能力は天下一品だったが、何よりマリエルを気に入っているエルは、いつも楽しそうに下働きを熟していた。もう、情報屋としてのエルは消えたも同然だった。

 ルルフェも一旦、ランジュベーヌの警察に戻った。階級も昇進したと聞く。
 ところが、まさかの展開があった。ルルフェもエルと同じように警察官を辞して、エクリュースに住みつき、ホテル・ラマンのフロント係として働き始めたのである。
 これまで囮警察官として自由な生活をしてきたルルフェにとって、警察組織というお堅い職場に戻っても、息が詰まったのかもしれない。
 飄々としたアリエスとの掛け合いは、今やホテルの名物となりつつあった。

 ジェシカはフェイルとともにクリムソンで観光産業に関わる事業を起こした。旅行会社に類する会社で、クリムソンを訪れる観光客に宿を紹介したり、格安チケットを販売したり。フェイルは事故の影響で身体に火傷の跡が残ったけれど、内勤で一緒に働いてくれた。
 もう、ジェシカが薬草関係に手を染めることは無かった。

 リーマスとヒジェは、相変わらずロールライトで違法越境の仕事や、薬物バイヤーを続けている。たまにヒヤリとする場面もあるし、ルイスゴールが解散したのは打撃だったが、違法にランジュベーヌを目指す人々は引きも切らない。
 警察の手が伸びそうになると隠れ家を変え、今も悠々自適の生活を送っている。

 リヤンの家に関わった皆は、ルツの命日にアンデシスの丘陵で合掌したのち、エクリュースにて静養がてら近況を話し合う。

 そして、天から授けられた命を懸命に生きようと決心するのだった。


 その後、ゴールデン・ブラッドの乱獲とも言える暴挙により、ネリィたちが知る限りでは、血液の持ち主はほぼ地球上からいなくなり、三つ巴の戦いは終焉を迎えた。
 世界にとって、先進医療がストップしたのかもしれない。
 或いは今迄何人もの重症患者が助かったのかもしれない。
 若しくは、争いのない世界平和が訪れたのかもしれない。
 それが良かったのかどうか、誰にも分らない。
 稀少な血と貴い命は、もう戻ってはこないだから。

ゴールデン・ブラッド

ゴールデン・ブラッド

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第1章  世界地図
  3. 第2章  新しい地球
  4. 第3章  魔法の血
  5. 第4章  リヤンの家
  6. 第5章  若者たち
  7. 第6章  ニアミス
  8. 第7章  運び屋
  9. 第8章  心の拠所
  10. 第9章  深まる謎
  11. 第10章  親子の絆
  12. 第11章  箝口令
  13. 第12章  暴かれた秘密
  14. 第13章  三つ巴の戦い
  15. 終章