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アマゾンの奥深く、謎に包まれたキリイドマ洞窟からN博士が帰国したのは、出発してから二年後だった。博士は洞窟の謎は全て解決したと、一言告げると、発表の場を設けた。
数十人の記者の視線がテーブル越しにN博士へと集まっている。テーブルには白いシーツが掛けられ、その中心、博士の直下にマイクが置かれていた。
遠くアマゾンの洞窟についての発表に、記者がこんなに注目しているのは珍しいことだが、キリイドマ洞窟は日本人にとって、少し特別だった。この洞窟は数十年前、日本人のとある研究者が偶然に発見したものだった。その時には科学書の小さな記事にしかならなかったのだが、TV番組で取り上げられて以来、ある種伝説のような扱いを受けていた。謎の洞窟、それをさも深遠な秘密が隠されているとでも言うようにメディアが扱うものだから、視聴者の期待は高まりに高まった。そして、現在。その謎が解き明かされようというのであるから、こうして多くの記者が集まるのは当然だった。
「それでは、N博士。よろしくお願いします」
「はい」
博士は無精ひげをさすりながら頷くと、ゆっくりとしゃべり始めた。誰もが黙り、言葉の行く末を見守っていた。記者にも、この洞窟について関心が強い者も居た。博士の正面、一番前に立っているSもそうだった。会場の中で最も洞窟の謎が解かれる瞬間を待っていると言っても過言ではなかった。なにせ、彼が記者としてここに居るのはTV番組で見たキリイドマ洞窟特集がきっかけだったからだ。古代の様相を未だに残す密林の奥の、誰も知らない秘密の洞窟。探求心豊かな少年であったSは、その番組にたいそう刺激されて、科学者を未来の自分に決めていた。しかし、夢破れ。そして、彼は自分の探求心を活かせる仕事として、記者を選んだ。
Sは期待に満ちた瞳を輝かせながらN博士を見ていた。その姿は、リビングでTV番組を見ていたあの少年となんら変わりないようだった。
N博士はこの国の人間ならば誰もが知っている洞窟についての基礎知識を並べ立てた後、言葉を切った。一瞬、会場の皆が息を呑む。
「会場にお集まりの皆さまがご期待されているであろうことを今から述べようと思います。
あの洞窟の先には、実は特別な……」
ここで、また博士は言葉を切った。焦らすなぁ、とSは思った。だが、すぐにそういうわけではなかったと気が付いた。テーブルに敷かれた白のシーツに、赤い斑点が降り始めの雨のように現れると同時、博士が血を吐いてゆらりと体勢を崩した。
「わっ、博士!」
テーブルの脇に控えていたN博士の助手が慌てて駆け寄る。会場は、静寂から一転して大騒ぎになった。あちこちで、悲鳴が飛び交っている。先程までは自分の呼吸音もうるさく感じていたのに。
Sもその騒乱の中に居たが、悲鳴も上げず、茫然としていた。頭の中で、博士の言葉が何度も繰り返されていた。
あの洞窟の先には、実は特別な……
N博士は元から肺を病んでいた。彼の手術を担当した主治医は博士と何年も付き合いがあり、体に負担を掛けるアマゾンへの実地調査も反対していた。しかし、博士は主治医に黙って、アマゾンへ出発してしまったと語った。博士の妻は、マイクを向けられるとこう言った。
「主人はきっと満足して逝ったのでしょう。
あんなに気になっていた洞窟のことを知れたのですから。
知りたかったことを知れたのですから、さぞ満足でしょう」
N博士はそうかもしれない。しかし、殆どの人は不満だった。洞窟のことを知りたがっていた。博士は洞窟についての調査記録を一切残していなかった。いつも携帯していたメモ帳に意図の取れない走り書きのようなものはあったが、博士以外には読めないようだった。会見の後に正式な記録を作るつもりだったらしい。博士としては、一刻も早く洞窟について知りたいであろう人々のために、記録よりも発表を急いだのかもしれない。けれど、今となっては完全に裏目に出ていた。
再調査も計画されたが、出発がいつになるのか、そもそも誰が行くのかも決まっていない。そうなったのも、博士の死が古代アマゾンの呪いであると噂されてからだ。一笑に伏する程度の与太話なのだが、なぜか科学の徒である研究者が、キリイドマ洞窟へ向かうに際して二の足を踏むようになった。
「呪いを信じているわけではない。ただ、例えば危険な毒草や獰猛な生物が居る可能性は否定できない。火のないところに煙は立たない、ということです。その上、アマゾンについては分かっていることの方が少ない。つまり、慎重になるべき、そう判断した結果なのです」
Sは読み上げた雑誌をアクリルテーブルへ叩きつけた。ここは喫茶店。同僚のTと座っていた。窓越しに日が二人の顔に差すが、店内の冷房でほどよい温かみに感じられた。
「怯えてるだけじゃねぇか」
Sは眉間に皺を寄せながら腕を組んだ。腕時計が反射で光る。Tは目を細めながら言った。
「なにをそんなに怒ってるんだ? お前らしくない」
「らしくない? 俺はいつもこうだ」
ますます額に皺を重ねると、Sは横を向いた。しばらく、そのまま黙っていたが、Tへ向きなおると、真剣な面持ちになって言う。
「なにかうまい方法はないだろうか?」
「なにの?」
「洞窟の謎を知る方法だよ」
「謎ねぇ」
顎に手をやりながら、思案気に天井を向くT。視線の先には音もなく冷風を送り続けるエアコンがあった。
「一つだけ、あるかも」
「本当か!?」
ぽつりと、独り言のような言葉だったが、Sは聞き逃さなかった。食らいつくような勢いで、上半身をT側へ乗り出す。
「わわ、慌てるなよ」
「慌てちゃいない。けど、早く話してくれよ」
Sが体を引っ込める。Tは尻を上げて、姿勢を正すとSの目を見た。突拍子もない方法なので、冗談と思われるのが嫌だったからだ。
「イタコを使うのはどうだろう。イタコって分かるよな」
「霊媒師ってやつか」
「そうそれ」
「まさか、N博士の霊を呼び出して話を聞くとかじゃないよな?」
Sが鋭い口調でそう言うと、Tは黙り込んでしまった。Sは大きくため息を吐くと、呆れたように続けた。
「お前ね、いくらなんでもそれはなぁ。
うさんくさすぎだろ」
「けど、俺の知ってる人は凄いらしいんだ。
本物の霊能力者なんだってよ」
懐疑的なままのSとTのやりとりがしばらく続いたが、Tがまたぽつりと一言。
「でも、ほかに方法があるか? 思いつくか?」
今度はSが黙り込んだ。諦めたように首を振ると、Tの方に目線をやる。
「教えてくれ、その人のこと」
「わかったよ。
でも、こんなに否定されるなんて意外だったよ、こういうの信じるクチかと。オカルト好きみたいだし」
「俺が博士の死が呪いのせいだって信じてると思うか?」
「思ってたよ」
霊媒師が住むという山は、会社から新幹線で一時間程度の場所にあった。ほとんどの店にシャッターが下りたままの商店街を通り、人通りのない民家の側を抜けると、その山へ辿り着いた。
しばらくは登山コースを進み、中腹からコースを逸れて、木々の奥にぽつんと立った社を目指した。
近くで見る社は歴史を感じさせる作りだったが、扉だけが妙に新しい赤色をしている。扉の前に赤い袴を着た女性が立っていたので、Sは声をかけた。
「Zの紹介で来たものですが」
ZというのはTが教えてくれた人物で、彼の紹介がなければ、この霊媒師に依頼することはできないらしい。一見様はお断りの上級な商売だった。
「お待ちしておりました、S様ですね」
女性は両開きの扉を開くと、Sを中に案内した。十畳ほどの部屋にSが足を踏み入れると木張りの床が音をたてた。中は外に比べて不思議と涼しいので、Sは自分の首筋の汗が冷えていくのを感じた。
「こちらへどうぞ」
霊媒師の人はどこにいるのだろうと、周りを見渡していたSを女性が座るように促した。部屋の中心に一対の座布団が敷いてあり、Sは手前に座った。すると、女性が正面に座った。
「それで、なんのご用でしょうか」
「あなたがその、Zの言っていた霊媒師の方ですか?」
「ええ」
「その、降ろしていただきたい人が居るのです」
そう言うとSはN博士に関する資料を取り出して、女性に渡した。しばらく資料に目線を落としていたが、Sへ目を戻すとわかりました、と微笑んだ。
「何も聞かないんですね」
「興味がありませんから」
突き放したような言い方だったので、Sは何も言えなかった。
女性が降霊の準備を始める。お香を焚き、はふりを持ってきた女性が目を閉じると、降霊が始まった。
「私が経を止めたら、降霊が出来たしるしですので、お聞きになりたいことをどうぞ。
時間はあまりありませんので、なるべくお急ぎください」
女性が経を唱えだす。Sには何を言っているのかさっぱりだったが、緊張感は嫌が応にも高まっていた。止まったはずの汗が手の内から滲み始めている。経が止まり、女性の体が小さく跳ねる。恐る恐るといった様子で、Sは尋ねた。
「N博士ですか?」
「はい、そうです」
Sは喜んだ。最初は否定していた降霊だったが、いざやると決まって、この社に向かうまでで、すっかり降霊師に期待していた。
「聞きたいことがあります、N博士はキリイドマ洞窟を調査されましたよね?」
「はい」
「洞窟には一体なにがあるのですか? 古代文明の遺産ですか? それとも、外界から隔絶された特殊な生態系ですか? それともそれとも……」
Sは体を乗り出して、思いつく限りのことを喋った。博士が憑依している女性はそれを黙って聞いていた。
「教えてください博士、あの洞窟になにがあったのか」
「わかりました、教えましょう。しかし、ショックを受けないで、冷静に聞いてほしい」
「何を言いますか、例え宇宙人たちの着陸ステーションになっていたと言われても驚きませんよ」
「いや、そうではなく」
流石に現実味の無さすぎる想像だとSは自嘲気味に笑った。今、積年の謎が明かされようとしている、その事実にSは興奮していた。
「あの洞窟の先には、実は特別な……」
会場でも聞いた同じ言葉が繰り返される。ああ、Sはこの言葉の続きを聞くのをどれほど待ち望んでいたか。Sの瞳にはまた、少年の頃と同じ輝きが宿っていた。
「あの洞窟の先には、実は特別なものは、なにもありません。
ただの行き止まりです」
「えっ」
Sは自分の聞いたことが信じられなかった。困ったように頬を撫でながら言う。
「どういうことですか?」
「なにもないんですよ、行き止まりです。
洞窟の謎なんてものは幻想なんです、TVが作り出した演出です」
なにか叫んだかと思うと、Sは女性に掴みかかった。すると、奥の衝立の向こうから屈強な男達が飛び出して来て、Sはすぐに取り押さえられた。
「なにやったんだよ。俺、すっごいZに怒られたぞ、せっかく作ったコネを台無しにしたとかなんとかで。ていうか、今どこ? 会社に居ないのか?」
「悪いな、飛行機だから電話切るよ」
Sは携帯電話をポケットにしまうと、ビジネスクラスの席に体を沈めた。もうすぐ、飛行機が飛び立つところだった。
洞窟の先には隠されたなにかがある、Sはそう確信している。降霊師の言ったことは信じていなかった。しかし、もう日本に居るだけではそのことを確かめる術がない、そう思ったので、会社を辞めて、アマゾンへ直接行くことにしたのだ。もちろん、洞窟の謎を自分の目で確かめるためである。
飛行機から降りた彼が最初に出くわしたアクシデントは、通訳が雇えなかったことだ。日本に居た頃から話を通していた通訳に詳しい行き先を告げると、突然辞めると言い出した。仕方ないので、他の通訳を探したが、誰も彼も行き先を聞くと、話に乗らないのだ。場末の酒場で見つけた男が通訳を買って出たので、怪しいと思いつつも雇ったがその男にまんまと騙されて財布を盗まれて、一晩を路上で過ごした。
金をなんとか工面したSが、身振り手振りでジャングルの案内役を雇うと、ようやく森へ足を踏み入れることができた。しかし、当然一度の探索で見つかるはずもなく、現地人たちの集落で寝泊まりして、Sは洞窟の捜索を続ける。ジャングルの旅路は厳しく、命の危険は日常茶飯事だった。なにせ、洞窟は原住民も恐れる禁断の森の奥にあったのだから。泥水で飢えを凌ぐこともあったし、息を殺して猛獣が通り過ぎるのを待ったこともある。夜は最悪だった、闇を蓄えた木々に囲まれて、小さく燃える薪を頼りに眠った。奇妙な鳥の声、風か獣か草木が騒ぐ音、全てが自分を害するものに感じた。
だが、彼は諦めず、ついにキリイドマ洞窟に辿り着いた。彼が日本を出発して、二年は経っていた。
日に焼けたSがロビーに見えると、Tはそちらへ手を振りながら近づいてゆく。Tは彼の変化に驚いていた。肌の色だけではない。
「久しぶり」
「おう」
「で、分かったの? 洞窟の先に何があるのか」
聞く前から答えは分かっていたTだったが、一応聞くことにした。Sから予想通りの返事がくる。
「もちろん」
Sは語り始めた、悪い夢から覚めた春の朝のように晴れやかな気持ちだった。優しい目差しで、落ち着いたにこやかな表情、謎を追っていた頃の激しさは微塵も感じなかった。
「あの洞窟の先には、実は特別な……」
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