ルシファーのホームページ
自分の名は伊藤淳司。厚木市の自動車部品工場で働く派遣社員である。
漫然と繰り返される日々の中、味気ない工場作業を終えて家路に着く。真夏の夕陽を背に自転車で十五分、途中のスーパーで見切り品の弁当と発泡酒を買って、シェアハウスの自室へ帰り着いた。
簡素な部屋にはフローリングの床にパイプベッド、黒い座卓テーブルとノートパソコン、みかん箱ほどの小型冷蔵庫とその上に載せた小型テレビがあるだけで、いつものように座卓テーブルで弁当を肴に発泡酒を飲みながらインターネットを見る。故郷の新潟から上京して十二年、三十歳を迎えてなお派遣社員に甘んじる境遇にあって、ささやかながらも心癒されるひと時であった。
と、そんな矢先、何気に見ていたインターネットで妙なホームページに出くわした。
それはルシファーと名乗る者が、自ら処刑する対象者を指定すると、その処刑に対して賛成か反対かの投票を募っており、処刑対象を次のように示していた。
『ハッハッハ。他人の不幸は蜜の味~。では最初の処刑対象だが、腐敗した国会議員とする。要するに金と権力に溺れて正義を見失っている国会議員がアウトってことだ。惚けても無駄だぞ、我輩は人の心を手に取るように読めるからな、一度でもうしろめたく思ったことのあるような奴は、アウトだ。さあ、諸君も昨今の政治家にはうんざりだろう。奮って賛成票を入れてくれたまえ。締め切りは金曜日の二十四時。賛成が上回っていたら即座に処刑してやるからな』
黒一色の画面に白文字で記されており、そのメッセージの下には四角く白抜きされた投票キーが二つ並んでいて、左から黒文字でYES、右にNОと記されてあり、真下の票数カウンターを見ると、YESである賛成票が十万に達し、NОの反対は百票足らずとなっていた。
――もちろん単なる悪ふざけだと思った。
だが、自分を派遣社員に追い遣った社会への腹癒せに賛成のキーをクリックすると、目の前の賛成票が一票増えて愉快になれた。
それにしても不運な境遇である。努力して東京の工業大学に進学し、大手企業から内定を得るまでに漕ぎ着けていたのに、突然の経済ショックにより内定を取り消されて就職浪人に転落。その後も続いたデフレ経済に翻弄されながら派遣社員として渡り歩くうちに、人並みの人生は夢のまた夢と化してしまった。
そしてホームページには、そんな鬱憤の堪った心境に共鳴するかのような読者コメントが次々と書き込まれていた。
『景気が回復したとはいっても、企業が儲かっているだけで庶民の暮らしは苦しくなるばかりだ』
『その通り、企業に有利な雇用政策により貧困層は増えている。大企業や資本家の手先に成り下がった政治家には消えていただきましょう』
『原発推進派の族議員もアウトですよね。安全性よりも利権優先。本音が丸見えなのに建前論で押し切ろうとする厚顔無恥さにはうんざりです』
『最大多数の最大幸福を大義名分にしながら、実は最大多数の国民を欺いている。政治家にとっての最大多数って誰のことなんだ』
『そんなことより政策も節操も無い野党同士の合従連合が多すぎる。人気取りばかりで追い風を待ってるだけの軽薄な政治家もアウトじゃないでしょうか』
『あなたの党の代表、工藤善雄。八億もの闇献金が明るみなっても白を切って居座っている。まさに腐敗した政治家の代表格だろう』
『それなら工藤から分け前を貰いながら知らない顔をしている子分達も腐ってますよね、党ぐるみでアウトじゃないですか』
『そうだ。悪いのは有力者に媚び諂う小物共だ。昨今の政治家は信念も度胸もない中途半端な奴等が多過ぎる。もっと本気で働いてくれる政治家と総入れ替えしなきゃ駄目だな』
『地方にも活動費をくすねてるような下らない議員が居ますが、処刑対象は国会議員だけで良いのか』
どのコメントも小気味良く、読み耽ってしまった。
と、そんな最中、携帯電話に母からのメールが着信した。見ると、遠回しながら正社員としての就職が叶わないなら実家に戻ったらどうかと促すものだったが、三十にもなって鳴かず飛ばずのまま帰れないのが正直なところで、返事はせずにシャワーを浴びることにした。
翌朝。土曜日で休日だったので十時過ぎまで惰眠に浸ると、自室を出て一階の共同洗面所へ向かった。
このシェアハウスには二階に二十の個室があり、一階がキッチンや浴室、サロンなどの共有スペースになっていて、何気に階段を下りて行くと、正面のサロンが異様な雰囲気に包まれていた。
サロンにはフローリングの床に八人掛けの対面ソファーと大型テレビが置かれていて、詰め掛けた十数人の住人が神妙にテレビに見入っており、何事かと近寄ってみると、隣室の白川秋穂がソファーの傍らに立っていたので小声で尋ねてみた。
「何かあったの」
「あ、淳司さん大変よ。昨日の夜、大勢の国会議員が亡くなったんですって」
秋穂の説明によると、昨夜の十二時、多数の国会議員が一斉に突然死してしまい、その安否をニュース特番が報じている最中であった。
『次です。新たな死亡者が確認されました。市民党です。市民党の今永源二郎衆議院議員が視察先のホテルで死亡していました。他の死亡者と同様で外傷はなく、死因は不明です。これで市民党衆議院議員の死者は百二十人に達しました』
緊張した面持ちのキャスターが速報を伝える最中、画面の下方には政治家の名前や所属政党を示すテロップが流れていて、さながら選挙速報のようだったけれども、伝えられているのは当選者ではなく、死亡者であった。
――ルシファーのホームページ。
すっかり忘れていたが、まさかである。
「ちょ、ちょっと、ごめん」
秋穂にそう言い残すと、自室へ駈け戻ってルシファーのホームページにアクセスした。
『ハッハッハ。どうかな諸君。圧倒的な賛成多数により張り切って処刑してやったぞ。期待に応えられたかな。さて、他人の不幸は蜜の味~。続いて第二弾の処刑対象を発表しよう。次なる処刑対象は堕落した官僚である。そうだな、自分達の既得権益に固執して公僕たる使命を忘れた役人共がアウト! って感じかな。改めていうが我輩は人の心を読み取れるからな、心当たりのある奴は覚悟しておけ。さあ諸君も、政治家と同様、昨今の官僚にはうんざりだろう。遠慮なく賛成に投票してくれたまえ。例によって投票期間は一週間、締め切りは金曜日の二十四時である』
ホームページは更新されていた。
そして、話しのつじつまも合っている。
が、だからと言って、俄かには信じられない。そもそもルシファーとは誰なのか。何処かで聞いた気がしてネットで検索してみると、悪魔、サタンの別称と分かった。
だが、ならば不可解である。腐敗した政治家や堕落した官僚を処刑するなんて、まるで世直しのようだが、悪魔が世直しなんて聞いたことがない。
しかし、その疑問は、ホームページに書き込まれたコメントを読むと直ぐに解けた。
『ルシファー、あなたの党の工藤が生きているぞ。あんな腐った奴をどうして処刑しなかったんだ』
『はっはっは、勘違いするな。工藤は筋金入りの悪党だぞ、あんな可愛い奴を我輩が処刑するはずないだろう。我輩が処刑したのは、保身のためにはこれぐらい仕方がないとか、背信行為だと知りながら金欲しさに目を瞑っていたような中途半端な奴等だ。目障りなんだな、損得勘定で善人になったり悪人になったり。そんな半端者が多いから生煮えで退屈な世の中になるんだ。だからもっと減り張りの利いた世の中に変えてやろうと思い、中途半端な奴等だけを始末してやったのだ』
と、やはり純粋な世直しではなかったようだが、死亡した国会議員は五百人、ルシファーの言葉通りであれば、国会議員の七割が半端者だったことになる。
そして続けて、処刑を称賛する読者コメントも書き込まれていた。
『いや~痛快です。歯痒いほど真実が見えない世の中にあって、こんなにスッキリしたことはない。ルシファー様。有難う御座います』
『いいね。腐った奴ばかりだと思ってましたが、やっぱりその通りでしたね。ルシファー最高!』
『国会議員の七割がうしろめたく思っていたと証明されたわけですが、残りの三割はどうなってるの。立派な政治家なのか筋金入りの悪党、どっち?』
『どっちにしても、これで風通しが良くなるんじゃないですかね』
などなど、尽きることがない。
そして自分も心のどこかで、好い気味だと思った。
とはいえ、これほどの大事件を引き起こした犯人が、この軽薄なルシファーとは信じ難いのだけれども、その日の夕方、テレビのニュースが取り上げたことにより、一気に真実味を増すことになった。
そのニュースとは、ルシファーが政治家の処刑を予告していたことに加え、そのホームページにはURLアドレスが存在しないと報じていて、アドレスの無い幽霊ホームページに誰もがアクセスしている自体が超常現象だというものだったが、実際に確かめてみると、やはりURLアドレスが表示されるべきスペースは空白だった。
そして他のテレビ局も続々と取り上げるに至り、インターネットでも話題になると、その不気味な存在感は増していった。
となれば、次の堕落した官僚の処刑も現実味を帯びてくるのだが、その日の夜にホームページを見ると、賛成票が五十万を超えていた。朝に見た時は五千票だったので、ニュースにより注目されてから激増したに違いない。いわばそれだけ官僚が嫌われていたか、悪乗りした者が多かったのかだが、自分にしても、冷や飯しか食べさせてくれない世の中への腹癒せと、五十万票もの尻馬に乗っての賛成であれば罪の意識も感じられず、官僚の処刑にも賛成票を投じたい衝動に駆られてしまった。
そしてホームページには、そんな心の魔を擽るかのような読者コメントが続々と書き込まれていた。
『国の前に省あり、省の前に局あり。総論賛成各論反対の官僚には辟易だ。これを機に総入れ替えしてしまいましょう』
『千兆円を超える国債を貯めておきながら、尚も税収を上回る国家予算を要求するとは、東大出てるのに算数ができないのか』
『天下りの為にどれほどの税金が無駄遣いされてきたか。自分たちは改めず、税金を取る事ばかり画策している。頭は良くても人として最低だな』
『官僚になってる人は学校でトップクラスだった秀才ばかりですからね。国民なんか馬鹿ばっかりだと見下してるんでしょう』
『自分達の高等な思想を理解できない愚民は黙って働いてろって感じですかね』
『それ言えてる。国民の為の国家ではなく、国家の為に国民をどう扱うかだよね』
この時、ホームページへのコメントは賛成意見が大勢を占めていた。もちろん処刑行為を否定する人々も大勢いたであろうが、そのような良識を持つ者はルシファーのホームページそのものを相手にしない風潮にあるとテレビが報じていた。
その後、夜には賛成が百万票を超え、そのこと自体がニュースになると、マスコミは建前上こそ賛成への投票行為を非難しながらも、一方では官僚の堕落振りを暴き立てて世論を煽っていた。
そして遂に自分も、百万票の勢いに乗り、賛成票を投じてしまった。
ただそれは、単なる腹癒せや悪乗りだけではなく、まさに落ちこぼれてしまった今、もしかしたら日本が大混乱に陥り、何もかもがリセットされてしまわないかという願望が後押ししたからであった。
翌日の夕方、近所のスーパーに買い物に行くと、秋穂に出会った。
「驚いたわ、私達の地元の国会議員まで亡くなってたじゃない」
「うん、ニュースで見たよ。原発推進派の有力議員だった人だよね」
買い物をしながらの話題は当然、ルシファーの処刑である。
秋穂とはシェアハウスで知り合ったのだが、偶然にも新潟の同じ町の出身だったことから親しくなった。四歳年下の彼女は小柄で愛らしく、今は見習いだがイラストレーターを目指していた。正直なところ、淡い恋愛感情を抱いていたけれども、三十歳にして未だ派遣社員であることが思いを挫き、告白できないでいた。
「それにしても官僚の処刑でまで賛成が上回ってるなんて信じられないわ。大勢の人が処刑されることになるのに、賛成した人は何を考えているのかしら。ね、淳司さん。私達だけでも反対票を入れませんか」
「う、うん。そうだね。でも、あんな気味の悪いホームページには拘らない方が良いよ。それにどう見たって、反対票が逆転する可能性は無さそうだし」
咄嗟に言い繕ってしまった。凜とした秋穂を前にして、既に賛成票を投じたとは言えなかったのである。
そして話を逸らすように棚から弁当を取ろうとしたところ、
「あら。そのお弁当なら、そっちに二割引の見切り品があるわよ」
と、秋穂が指差した先に、二割引のシールが張られた同じ弁当が残っていた。
「あ、ほんとだ。じゃあこっちにするよ」
そう言って見切り品の方に持ち替えたけれども、実は最初から判っていた。せこい男と思われたくなくて、気付いてない振りをしただけのことだ。
けれど秋穂は、頷きながら微笑んでいた。
良い奥さんになるだろうなぁ。そう思った。
そしてもっと一緒に居たい。いっそ告白したい。そんな思いが込み上げてきたけれども、中学生で苛めに遭い、対人関係にトラウマを背負ったまま女性にも無縁だった自分には自然に秋穂を口説けるような要領はなく、ためらっている中に買い物は終わり、シェアハウスに帰り着いてしまった。
一階のサロンを通り過ぎ、二人揃って二階へと階段を登る。何か声を掛けようと焦るものの、言葉が出ない。どうしよう。サロンでお茶でも誘ってみようか。しかしサロンはルシファーの処刑で盛り上がっている住人で満員だし、かといって部屋に誘うのは唐突過ぎるし……。
と、無言のまま階段を昇り切る寸前、階下から男の声がした。
「淳司君。よかったら僕の部屋でゲームでもしないか。秋穂ちゃんも一緒にどうだい」
振り返ると、このシェアハウスに住む榎木俊夫が此方を見上げていた。自分とは同い年で、彼もまた学生時代に苛めに遭っていたことから、なんとなくだけれども、親近感を持っていた。
「それじゃ、私はこれで。書きたいイラストがあるの」
「え、秋穂ちゃんは帰るの。今週発売されたばかりのサプライズハルマゲドンを手に入れたんだけどな」
「大丈夫です」
間髪入れずに俊夫の誘いを断ると、秋穂は立ち去ってしまった。以前から感じていたが、秋穂は俊夫が嫌いなようであった。
「大丈夫って、どういう意味なんだろうね……」
そう呟きながら、野暮ったさ丸出しの俊夫が愛想笑いを浮かべているが、今に限ってはただの邪魔者に過ぎず、「僕も部屋で遣ることがあるから」と言って部屋に戻ることにした。
だが、本当は部屋で遣ることなど何もなく、暇潰しにテレビを見ていると、ニュース番組が政治家の大量死による影響を報じていて、悪魔に呪われた日本は世界中から危険視されてしまい、その信用度が低下したことによる経済的な混乱を危ぶんでいた。
月曜日の朝、何時も通り出勤すると、工場の空気が一変していた。幹部は会議室に集り、管理部門の社員が慌しく走り回る中、現場の作業者は噂話しに持ち切りで浮き足立っていた。
そして九時になって株式市場が始まるやいなや、株価は暴落した。マスコミが危惧した通り、投資家による日本市場からの資金回収が一斉に始まったのである。
経済恐慌の到来を不安がる正社員を尻目に、派遣社員達は素知らぬ顔で作業を続けていたが、日頃の妬みからか、心の何処かでは好い気味だと思っているように感じられた。
だが夕方、その正社員から言い渡される羽目になった。
終業時間とともに工場前に集合させられると、総務部の平社員から、
「本社より大幅な減産指示が出ましたので、派遣社員の皆さんは明日から自宅待機して下さい」
とだけ通告され、一切の説明は無かった。
その場に居合わせた派遣社員は三十五人。慌てて説明を求める者もいたが、自分も含めて殆どの者は立ち尽くすのみで、その傍らを正社員達が素知らぬ顔で帰って行く。そして派遣会社からの連絡を待つようにと言い残すと、総務部の平社員も立ち去ってしまった。
憂鬱な帰り道だった。
恐らく工場側は、派遣契約を打ち切る積もりであろう。ただ、突然の契約解除は違法行為になるため、方便で自宅待機と説明したに違いない。
これでまた、新たな派遣先を探さねばならなくなるが、経済状況が悪化してからだと容易に次の派遣先は決まらないだろうし、時給の相場も安くなる。というよりも、そもそも派遣社員の賃金に昇給はない。したがって定期昇給を重ねる正社員との賃金格差は年齢とともに拡がっていくのだ。今更ながら、低所得者層へと沈み行く派遣社員の悲哀を噛み締めることになった。
ただ、だからといって、このような事態を招いたルシファーの処刑に賛成したことへの後悔はなかった。どうせ数年で使い捨てられる派遣社員ならば、遅かれ早かれこうなる運命だったからだ。
スーパーに寄って見切り品の弁当と発泡酒を買ってシェアハウスに帰ると、実家の母からの宅配荷物が預かりボックスに届いていて、部屋に戻って荷物を開けると、缶詰などの食料品の他に、髭剃りセットや下着類、それに真新しいハンカチが入っていた。派遣社員の暮らしを辞めて実家に戻るように促しながらも、身嗜みには困らぬように気遣ってくれているのだろう。
にもかかわらず、またしても失業する自分が情けなく、荷造りをしていた母の姿を想うと切なくなった。
そして水曜日、派遣会社から連絡が入った。
――やはり派遣契約は、打ち切られたのである。
もちろんこのような突然の派遣切りは違法だが、派遣会社の説明では大手企業が一斉に派遣切りに踏み切っており、どさくさに紛れて押し切ろうとする企業側の思惑が丸見えだった。しかし、派遣会社に派遣社員を擁護する動きはなく、企業を行政指導すべき官僚はルシファーの処刑対象にされてそれどころではないようで、泣き寝入りするしかなさそうであった。
実際にこの頃の官僚は、総力を挙げてルシファーのホームページを消し去ろうとする一方、監督下の業界や団体を巻き込んだ処刑反対キャンペーンに躍起だった。
しかし、官僚が足掻けば足掻くほど、それを嘲笑うかのように賛成票は増え続け、水曜日の夜には反対票の三倍を超える一千万票に達すると、ルシファーのホームページには官僚の処刑に賛成するコメントが氾濫していた。
『外郭団体へ天下りしていた高級官僚が続々と退職しているそうだ。辞めてしまえば処刑対象ではなくなると考えたんだろうが、自ら堕落していたと証明しているようなもんだな』
『人の心を見抜けるルシファー様には惚けも言い訳も通用しないからね。国会議員の処刑を見て震え上がってるんじゃないか』
『まったくです。天下りこそ無駄遣いの象徴ですからね。独立行政法人に居座ってる天下り官僚なんて典型的な処刑対象でしょう』
『おめでたいよね役人は、採算なんて何処吹く風、予算さえ分捕っていれば食って行けるんだからな』
『エリート面しやがって、組織の屁理屈を鵜呑みにして悦に入ってるだけの世間知らずが、自分で自分が偉いと思ったら終わりの見本だな』
『警察や自衛隊のサイバー部門がルシファーを潰そうと必死らしいが正体すら掴めない。本当にルシファー様の力は超越していますね』
『プロバイダー各社にルシファーのホームページを検索出来ないようにしろと監督官庁が命令してるそうだ』
『ルシファーのホームページを駆逐するプログラムを開発するようにソフト業界に大号令を掛けたとも聞いたぞ。費用は必要なだけ支払われるらしい』
『必要なだけ支払うって、それ税金じゃないの』
『噂じゃアメリカ政府にも応援を要請したらしいぞ』
などなど、尽きることが無い。そして皮肉なことに、官僚が総力を挙げてもそのホームページを潰せないことで、却ってルシファーの凄さを証明する結果を招いていた。
さぞや官僚達は怯えているに違いない。政治家五百人の突然死、それは圧倒的な恐怖となって迫っているはずだ。そして不安を募らせるほど、うしろめたさを覚えるほど、その心中が処刑対象者であることの証しになるのだから、生きた心地はしないだろう。
負け組の自分には、雲の上の存在である官僚に降りかかった災いはまさに、他人の不幸は蜜の味であった。
そしてテレビでは、ルシファーの処刑に関する街頭アンケートの結果を放送していて、三百人の回答者から官僚の処刑に賛成したと答えた者が皆無だったことを捉え、確率的に不自然だと討論していた。というのもこの時点での賛成は一千二百万票、およそ日本の十人に一人が賛成票を投じていたからである。
『考えられることは二つ。賛成票を投じたことを隠している。或いはルシファーのホームページの投票数が偽りで、実際はもっと少なかったと考えられませんか』
『そうですね。私は正直に答えていないのだと推測しますが……』
そうキャスターとコメンテーターがいぶかしんでいると、更には心理学者まで登場し、
『賛成票を投じた人々の心理は未必の故意といってよろしいでしょう。自分がルシファーのホームページに投票したからといって、処刑が実行されるかも知れないしされないかも知れない。そもそも誰が処刑されるかも判らない。だが、誰かが処刑されても構わない。そんな曖昧で無責任な意識で投票しておりますので、人前で毅然とした態度はとらないでしょう』
と、続いた。
確かに、思い返せば自分が賛成票を投じた時の心理は未必の故意だったかも知れない。
しかし、それならば腐敗した政治家も堕落した官僚も同じではないかと思った。このままでは財政や年金制度が破綻するかも知れない。いつか原発が大事故を起こすかも知れない。このまま経済を最優先した政策を続ければ取り返しの着かない格差社会に陥ってしまうかも知れない。そんな憶測を抱きながらも、決して政治家も官僚も我が身から改めようとはしない。国の将来よりも、庶民の暮らしよりも、自分達の保身と既得権益を最優先する。そんな心理もまた、未必の故意といえよう。
ならばそのように、無責任な打算を繰り返してきた政治家や官僚が、一般庶民の未必の故意によって死に追い遣られたとしても自業自得ではないか。
自身が賛成票を投じたことへの罪の意識など微塵も顧みず、益々もって社会が混乱することを期待しながらニュースを追うと、企業間取引は停滞し、円安を危惧した資源物資の買い占めや銀行への取り付け騒ぎが起こるなど、日本は典型的な経済恐慌の様相を呈していた。
早く破綻してしまえば良いのに。
そう思った。もはや落ちこぼれてしまった自分にとって、世の中が崩壊すれば再びスタートラインに立てるであろうし、誰もが落ちぶれてしまえば、少なくとも負け組の屈辱からは解放されよう。
それからしばらくして、十一時のニュースが始まった直後、男の濁声とともにドアが乱雑にノックされた。不快に思いながらドアを開けると、そこに立っていたのはしたたかに酔っ払った俊夫と牧野浩介だった。
「……どうしたの」
困惑気味に問い掛けると、
「どうもこうも○×▽□?#!。世の中*+?%#!じゃないか。僕が&”*{=~ってか。だからってCKB47!」
そう俊夫が喚き出し、続けて牧野が、俊夫と共に派遣契約を打ち切られたことに落胆し、駅前の立ち飲み屋で自棄酒を飲んでいたのだと説明してきた。
そして牧野が話し終えるやいなや、
「飲もう。ね、淳司君。僕はもう×@*?$#%」
と、俊夫が部屋の中へと雪崩れ込んできた。
「すいません淳司さん。迷惑だから止めようと言ったんですが。実は俊夫さん、後三ヶ月で派遣契約が満了したら正社員にして貰えることに成っていたそうなんです。それが突然の契約打ち切りですからね、ショックだったんだと思います。すいませんが少し付き合ってあげて下さい」
そう言うと、牧野が缶チューハイが入ったスーパーの袋を差し出してきたので、仕方なく付き合って遣ることにした。
牧野は二十七歳で、俊夫と同じ工場の派遣社員だったが、俊夫に誘われてこのシェアハウスに住んでいた。
酩酊して横たわる俊夫を横目にしながら座卓テーブルを囲むと、牧野が話し出した。
「俊夫さん、正社員になったら意中の女性に告白するつもりだと言ってたのに……僕も派遣切りに遭ったのは二度目ですけど、今回は問答無用ですもんね。情けなくて泣きたくなりますよ」
「そうだったのか……牧野君、実はね、僕も今日、契約を切られたんだよ」
「え。そうだったんですか」
「ああ、派遣会社から聞いたんだけど、大手企業が一斉に派遣切りを開始したそうだ。きっと財界で申し合わせでもしたんだろう、足並みを揃えて遣ればマスコミに狙い撃ちされることもないと」
「それって損得だけの話しじゃないっすか。切り捨てられる人間のことなんかどうでも良いんですね。くそ! 悔しいっすね」
牧野が気色ばんでいると、
「う、い~。淳司君、秋穂ちゃんも呼ぼうよ。良いだろ。ヒっ。牧野君、ちょっと行って秋穂ちゃんを誘ってきてくれよ」
と、四つん這いになった俊夫が会話に入ってきた。
「無茶言わないで下さいよ。もう十一時ですから、一人暮らしの女性を誘うなんて非常識ですよ」
牧野が露骨に嫌がり、本当に呼びにでも行かれたら自分まで悪く思われるので、「その通りだ。止めた方が良い」と、念を押してやった。
「なんだよ二人して。ちょっとぐらい良いじゃ、ない、か。う、うえ」
ふてくされた俊夫の様子が変になり、吐きそうになっていることが一目瞭然だった。
「おい牧野君、ま、まずいぞ。早くトイレに連れて行くんだ」
「でもトイレは一階ですから、間に合いませんよ」
「んじゃどうするんだ。人の部屋だと思って落ち着いてるんじゃないよ」
「う、うっ、おぷ」
「だ、駄目だ。そこまで出てる」
「こ、これでなんとか……」
間一髪、牧野がスーパーの袋をバケツ代わりにして間に合わせたけれども、たちまち鼻を突く汚臭が部屋中に漂い、その後一晩中、この汚臭に纏わり付かれる羽目になった。
そして賛成票が優勢のまま、金曜日の夜がきた。
住人の大半はサロンに集っていたが、大勢で集うのが苦手な自分は自室でその時を迎えたけれども、テレビは特別番組を流し、ネットへの書き込みもヒートアップすると、さながら大晦日のカウントダウンのように盛り上がっていた。
投票数は賛成票千五百万、反対票五百万。
――二十四時。日本中が固唾を呑んでその瞬間を迎えた。
『ハッハッハ。諸君! 盛り上がってるかい。賛成多数により張り切って処刑してやったからますます盛り上げってくれよ。さて、他人の不幸は蜜の味~。では次の処刑だが、政治家、官僚ときたので次は民間企業だな。キーワードはブラック企業だ。要するにブラック企業の狡猾な企みに加担した者達を処刑対象とする。率先して企んだ者はいうに及ばず、保身の為に加担した奴もアウトだぞ。改めて言うが我輩は人の心が読める。もしかして自分の事かな~、なんて思ってるお前、アウトだぞ。また、何がブラックなのかはこのホームページで多いに議論してくれたまえ。例によって投票期限は金曜日の二十四時である』
ルシファーのホームページが更新された。
未だに信じ難い感覚が残るものの、えもいわれぬ高揚感が込み上げてきた。
程なくして、テレビが騒ぎ出した。
『え、はい、たった今、霞ヶ関一帯に異変があったようです。厚労省前の大田アナ。状況を伝えて下さいますか』
『はい。厚労省前から大田が中継します。十二時を過ぎてから霞ヶ関一帯に多数の救急車が現れ、厚労省前にも三台が停車し、省内で異変が起きたことを物語っています』
『すいません太田アナ。一旦カメラを切り替えます。練馬区の経産省官舎前から中継です。設楽アナ。御願いします』
『はい設楽です。経産省の官舎前におります。警備員が配備されていて中には入れませんが、十二時を過ぎてから廊下を行き交う人々が現れ、女性の泣き声が聞こえてまいります。どうやら何軒かのお宅で異変が起きたものと思われます。そしてたった今、救急車が到着し、警備員によって駐車場内に誘導されております』
テレビが争うように中継を始めたが、土壇場までルシファーへの抵抗を試みていたのだろう、霞ヶ関の各省庁に留まっていた官僚から多くの死者が出たようで、その後も随所からの中継が続く最中、このシェアハウスのある街にも救急車のサイレンが共鳴していた。
きっと途方もない人数が処刑されたに違いない。
底知れないルシファーの魔力に、鳥肌が立った。
また同時に、次なる処刑対象がブラック企業であったことにも惹かれてしまった。
末端社員を消耗品のように遣い潰すブラック企業にどれほど多くの労働者が踏み躙られてきたことか。
それが今、その生殺与奪権が逆転したのである。
思い起こせば、以前の派遣先に極めてブラックな人事部長がいたが、姑息な脱法行為を次々と繰り出してくる様を見て、この男が死にかけていたとしても絶対に助けてやらないと思ったことがあったが、まさに今、そうなったのだ。
だが、賛成票を入れることに対する殺意は曖昧だった。賛成に投票しても、あの人事部長が処刑されるとは限らないし、数百万分の一、数千万分の一票に過ぎなければ、罪の意識など何ほども感じなかったからだ。
とはいえ、恐らく処刑は行われるだろうし、誰かが死ぬだろうという予感も過っていて、それはまさに、未必の故意の心境だった。
しかし、そもそもブラック企業の連中も、未必の故意的な感覚で派遣社員を扱っていたのではないだろうか。出来るだけ安い賃金で働かせ、不要になれば切り捨てる。そんな扱いを受けた派遣社員がどれほど惨めな生活を強いられるか想像できるはずなのに、何処の企業も遣っていることだから構わないと思っていれば、それもまた未必の故意といえよう。
さてさて、どうしてやろうか――。
舌なめずりをしながら賛成の投票キーにカーソルを合わせてみる。
――いやいや、こうもあっさり投票してしまったのでは面白く無い。もう少し様子を見よう。どうせならブラック企業の連中に絶望という止めを刺すようなタイミングにしたい。そう思ったのでここでの投票は止めることにした。
そしてルシファーのホームページを読み進むと、新たなコメントが続々と書き込まれていた。
『ブラック企業と言えば居酒屋チェーンの大黒屋でしょう。なにせ三百六五日死ぬまで働けが社訓ですからね。実際に社員が死んでますし』
『しかし大黒屋の社長は筋金入りのブラックだぞ。きっとルシファーに気に入られて処刑されないだろう。あの社長のことだ、生き残ったら益々調子に乗って悪名を馳せるんだろうな』
『悪いのはブラック企業だけか。デフレ悪乗り政策を支援しているのは財界で、本音は何処の企業も同じじゃないか』
『その通り。社会貢献よりも利益を優先するのが企業の本音だからな。この際、厳しくチェックしないとね』
『今週、大手企業が一斉に派遣切りを敢行したが、突然の雇い止めは違法だろう。日頃からも派遣社員に対する脱法行為を繰り返していたようだし、ついに本性をあらわしやがったな』
『いやいや、大企業なんてまだましだ。それより労働者の大半を抱えている中小零細企業、これらのオーナーである資本家こそが従業員を食い物にしているんだ。生かさず殺さず。ファミリー企業の独裁経営こそブラックじゃないか』
『悪徳商法もブラック企業ってこと? 』
『犯罪か合法なのかよりも、モラルの問題でしょう。そこに狡猾な打算が潜んでいるなら、ブラックじゃない』
うんうんと頷きながら、読み続けてしまった。
そして見る見るうちに賛成票は増え、十万票に達していた。
長引くデフレ経済の中、数多の労働者がブラック企業の餌食になった。二千万人に及ぶ非正規雇用者や、サービス残業などのハラスメントに虐げられた正社員、それらの者たちが賛成に回ったとすれば、官僚の処刑を遥かに凌ぐ賛成票が入るに違いない。
その後、処刑された官僚の全容を知り得るには水曜日まで時間を要した。それは死者の数が余りにも多かった上に、その実態を各省庁が一切公表しなかったからである。
だがそれも当然だった、処刑されたということは、本人が堕落していると自覚していたことの証明であり、その人数を公表することは、官僚の堕落振りを公表するに等しいからだ。よって結局のところ、マスコミやネットからの情報が出揃うまで推計できなかったのである。
そしてホームページには、
『十万人ぐらい処刑されたそうだけど、官僚の総勢が三十万人だとすると、処刑された政治家が七割だったのに比べて随分と少ない割合ですね。総入れ替えを期待してたんですがね~』
『ルシファーは心を見抜き、自分が処刑対象ではないかとうしろめたく思っていた者を処刑したんですよね。ということは堕落したと自覚していた官僚が少なかったってことでしょうか』
『そうだな。エリート意識が服を着ているような連中だからな、うしろめたさなんか感じてなかったんじゃないか』
『推測だけど、筋金入りの野心をもった奴はルシファーに認められ、それに続く中途半端な十万人が処刑されたものの、その他は中途半端以下の下っ端だったんで相手にされなかったんじゃないでしょうか。政治家と違って大組織ですからね、指図されたことだけ遣ってる下っ端に自覚なんて芽生えないんでしょう』
『各省庁のトップである事務次官は全員生きてるってさ。さすがだな』
『独立行政法人の理事や幹部に天下りした高級官僚は半分ぐらい死んだそうだ。特に処刑を免れようと駆け込み退職した連中は全滅だってさ』
『駆け込みで辞めたってことは自覚していたからこそだからな。やはり本線から外れて天下ったような奴は中途半端だったってことか』
と、処刑された官僚の遺族感情などお構いなく、その死を甚振るコメントが溢れていた。
またテレビでは、更なる社会的な混乱を危惧していた。投資市場の崩壊に続き、海外取引の打ち切りや日本製品の買い控え、日本への渡航自粛など、ルシファーに呪われた日本は世界中から忌み嫌われていたのである。
が、日本を護りたいと願う者が少ないのか、依然として良識ある者はルシファーに拘らないのか、この危機を回避すべき反対票は少なく、水曜日の午後において賛成が一千二百万票だったのに対し、反対は五百万票に止まっていた。
そこで思った。ここで賛成に投票しても、感じる罪悪感は一千二百万分の一。もはや勝負は付いているし、絶望の淵に立つブラック企業関係者に止めの一票を贈ろう。
――賛成票を投じてやった。
もとよりその積もりだったけれども、改めて憂さが晴れた気がする。また、新たな処刑によって混乱が拡大し、いよいよもって日本に革命的なリセットが到来することを期待した。
その日の夜、秋穂が突然尋ねてきた。父親が入院したので、直ぐに新潟へ帰るというのだ。そして留守が長引くと不安なので、連絡が取り合えるように携帯電話の番号を教えて欲しいと頼まれた。
もちろん快諾した。
そして駅まで送ってあげることにし、自転車でシェアハウスを出発した。
自転車の荷台に横乗りした秋穂が腕を回して背中に寄り添っている。今からなら九時頃の新幹線に乗れそうだが、それでは新潟に着いてからの在来線に間に合うかどうかの瀬戸際であった。何の甲斐性もない自分にできることは、一刻も早く秋穂を駅に送り届けることだけだ。安全に注意しながら、渾身の力を込めてペダルを踏む。駅まではおよそ五キロ、途中に百メートルは続く登り坂が立ちはだかっていたけれども、秋穂への思いがそうさせたのか、信じ難い脚力を発揮することができて登り切った。
「淳司さん有難う。落ち着いたら連絡するね」
そう言うと秋穂は改札を抜けた。そしてエスカレーターに乗る寸前で振り返ると笑顔を見せてくれて、自分も改札口から小さく手を振り返したけれども、その時、何かが通じ合ったように感じられた。
が、次の瞬間、脚が攣った。自転車を漕ぐのに力み過ぎたのだろう。あまりの激痛に座り込み、ふくらはぎに手を当てると、子持ちししゃもの腹のようになって硬直していた。
シェアハウスへの帰り道、『送ってくれてありがとう。おかげで一本早い新幹線に乗れそうです』と、秋穂からメールが届いた。
『此方で何かあれば直ぐに連絡するので、安心してお父さんに付き添ってあげて下さい』
そう返信したけれども、それが二人で交わした初めてのメールだった。
そして二日後、金曜日の夜が来た。
夕食と入浴を済ませ、座卓テーブルのノートパソコンでルシファーのホームページにアクセスすると、賛成は二千二百万票、反対が九百万票。
読者コメントへ読み進むと、
『結構多くの反対票が入ってるな、どうなってるんだ』
『経営者だけじゃなく、加担していた社員も大勢いたってことでしょう』
『それにしても反対が九百万票なんて。幾らなんでも多過ぎませんかね』
『中小零細事業者は四百万人を超えるそうだからな、家族ぐるみで反対票を入れたんだろう』
『ということは家族揃ってブラックの自覚があったってこと?』
『そりゃそうだろう。ファミリー企業の役員欄を見てみろ、一日も出勤したことのないオーナー一族が勢揃いなんて当たり前だぞ。自覚も何も、立派な当事者じゃないか』
『いや~社長がびびりまくっててさ。やつれ果ててますよ。従業員のボーナスをカットしておきながら、自分の娘には海外留学させてやがったからな。やっぱりうしろめたく思ってたんだろう。好い気味だな』
『パワハラ店長が昨日から休んでしましまいた。怒鳴る、脅す、気が弱いと見たらとことん遣いまくる。何人のバイトが潰されたことか。ただ調子に乗ってるだけの軽い奴だったからな。今頃は処刑されるのが恐くて震え上がってるじゃないか』
というように、反対票を快く思わないコメントやブラック企業関係者の怯え振りを嘲笑うコメントが目立った。
また、『このファストフードチェーンは入社二年目までの離職率が80%だそうです。ここまで高いと悪意すら感じますね』
『この樹脂成形品メーカーは工場作業者の85%が非正規雇用だぞ、いくらデフレ経済だからって、労働者の足下を見るにも程があるな』
『効果の無いダイエットサプリを販売しているビーナスアシスト社はブラックですよね』
『アルカイック健康食品の会員紹介制度は悪徳商法だし、そのCMに加担しているマスメディアも共犯だ。まとめてアウトでしょう』
『私の派遣先の工場は廃液を垂れ流し、土壌汚染も目に余ります。また、従業員の安全衛生も軽視しています』
『僕は食品会社の派遣社員ですが、同世代の正社員に比べて三割も年収が少ないです。ちょっと結婚は厳しいですね。しかし、それよりも派遣は使い捨てとばかりに扱われるのが一番悔しいです。これは社会が生み出した新たな人種差別だと思います』
『私はファスフードチェーンの名ばかり店長です。無休で毎日十三時間勤務しているのに何一つ手当てが出ません。大卒入社なのに、ただひたすらアルバイトと同じ作業を続けるだけ。本部に待遇改善を求めましたが、”嫌なら辞めろ”と怒鳴らました。これじゃあ就職詐欺ですよ。努力した学生時代を踏み躙られてる気がして、悔しくてなりません』
などなど、ブラック企業の狡猾な所業を暴くコメントも多く見られた。
そしてマスコミも、様々な違法行為や脱法行為を暴いてはブラック企業の烙印を押して回っていて、そのような行為は処刑対象を増やすという悪質な殺人行為だと非難されながらも、視聴率が稼げて販売部数が伸びるからであろう、マスコミは執拗に報じ続けて止めなかった。
それにしても、世の中には如何に多くの狡猾な者が蔓延っているのかと思った。無理が通れば道理が引っ込むというけれども、まさしく法律に裁かれない限り、儲けた者が勝ちなのだ。
そして二十四時。
『ハッハッハ。今回も賛成票が上回ったので処刑してやったぞ。それにしても随分と反対票が多かったが、それだけ心当たりのある奴が多かったってことかな。では、他人の不幸は蜜の味~。次の処刑に行ってみよう。次は卑怯者であ~る。わかり易く言って、弱いもの苛めをした卑怯者とする。率先して苛めた奴。それを見て笑った奴。素知らぬ顔で村八分に加担した奴もアウトだぞ。我輩は人の心が読めるからな。答えはそれぞれの心の中にある。締め切りは金曜日の二十四時だ』
ルシファーのホームページが更新された。
もう驚きはなかったが、官僚を凌ぐ人数のブラック企業関係者が処刑された予感がする。そして何より、弱者の上で胡坐をかいていたブラック企業の加担者に天罰が下ったと思うと、心にくぐもっていた憂さが晴れた気がした。
その上更に、次なる処刑対象が弱いもの苛めをした卑怯者とは。またしても賛成に投票しなければなるまい。自分を苛めたあいつも、保身の為に裏切った幼馴染も、自分を村八分にしたクラスの連中も――。
諦めていた恨みが鎌首をもたげてきた。
だが、自分を苛めた者達から処刑される者が出るだろうか? そもそも奴等はうしろめたさを感じていたのだろうか? 何とも思ってなかったのなら、もう覚えてすらいないかも知れない。
――なのに自分は、あの屈辱と喪失感を死ぬまで引きずっていくのだ。
まさに自分にとってのツボであり、今度は即座に賛成票を投じてやった。
裁けるのは、心の中の真実を見抜けるルシファーだけだ。
やがて五分もすると、救急車のサイレンが夜空に共鳴し始め、その中から抜け出した一台のサイレンがひと際大きくなると、シェアハウスの間近に迫って止んだ。
見ると窓に赤色灯の光が映え、外の気配が慌しくなったので立ち上がって窓を開けると、向いの住宅前に救急車が停車していた。
その家は平凡なサラリーマン家庭で、五十歳くらいの主人が背広姿で出勤するところを見かけたことがあるが、まさかあの大人しそうな主人がブラック企業の関係者だったのだろうか。
だが、本人がうしろめたく思っていたからこそ、ルシファーにその心を見抜かれたのである。
「お父さん!」
家族の泣き叫ぶ声を残し、救急隊員だけが玄関から出てくると、救急車はそのまま走り去ってしまった。
搬送されなかったということは、死亡していたのであろう。
そして静かになった路上には野次馬が集まっていて、ひそひそと陰口を交わしながら処刑された者の家を疎外視する気配を漂わせていた。
人なんてそんなものだ、何一つ事実を知らなくても、その場の雰囲気で簡単に他人を爪弾きにしてしまう。
そんな苛めにも似た空気に嫌気が差してテレビの前に戻ると、処刑されたブラック企業関係者への直撃取材が始まっていた。
『こちら銀座の小林です。付近には高級クラブが密集しておりますが、経済恐慌の影響で閑散としております。あ、此方のビルのエレベーターホールに人だかりが見えます。あ、人が倒れています。エレベーター前で背広姿の男性が倒れています。時刻は零時五分、これは恐らく、ルシファーに処刑されたブラック企業の関係者ではないでしょうか。すいません、お店の方ですか、お話を伺いたいのですが』
『ちょっと止めて下さい。こんな時に不謹慎じゃないの』
高級クラブが入居するビルのエレベーター前で、レポーターがホステスにマイクを向けて迫っていく。
『この男性は二十四時ちょうどに倒れられたのですか。ご存知ですよね、ルシファーの処刑を、あなたはどう思われますか』
『止めて下さいと言ってるじゃないですか。ちょっと勝手に映さないで下さい』
『それで、この男性はお客ですか、どのような仕事をされているのかお聞かせ下さい』
『人が死んでるんですよ。目の前でよく取材なんかできますね』
『いい加減にしろよ。無礼にも程があるぞ』
ついには仲間の男性客も怒鳴りだしての揉み合いになってしまったが、ホステスが庇うところを見ると、常連客なのであろう。
『以上、銀座の零時直後の様子でした。改めてスタジオからお送りします。ではここで、居酒屋チェーン大黒屋の岡田社長と電話が繋がっております。岡田社長、夜分遅くに申し訳ありません、キャスターの大和田です。早速ですが、現在ご無事であることをどう思われますか』
『……おっしゃってる意味が分かりませんが』
『え。そうですか。では単刀直入に伺います。ルシファーに筋金入りのブラック経営者だと認められた感想をお聞かせ下さい』
『いい加減にして下さい。我が社はブラック企業ではないのですから、感想も何も、申し上げることは御座いません』
『岡田社長。たった今入った情報ですが、大黒屋のエリアマネージャーが先ほど亡くなられてますよ』
『……いえ、知りません。どうしてそれをご存知なのですか』
『当局のレポーターが取材していたからです。先ほどエリアマネージャーの自宅を訪問し、ルシファーに処刑されたことを確認いたしました』
『……いずれにしても、私は承知しておりませんので何も申し上げられません』
『そうですか、わかりました。しかし、これで岡田社長はルシファーに認められた筋金入りのブラック経営者だと証明されたわけですが、今後も改心されるお積もりはないのですか』
『だから関係ないんですって。我が社は一丸となって未来へ邁進しているだけで、私に賛同してくれる有志の社員達が寝る間も惜しんで支えてくれているに過ぎないんです。思い違いしないで下さい』
『では中継に戻りましょう。浦和の麻生アナ。そちらの状況は如何でしょうか』
『はい、こちら麻生です。私は今、埼玉県浦和市の高級住宅街にいますが、先ほどから救急車が走り回っており、明らかにこの街でも異変が起きたことを物語っています。そして今しがたまで此方の家に救急車が停まっておりましたが、そのまま走り去ってしまいました。実は此方のお宅は社員へのモラルハラスメントで裁判沙汰になっている通販会社の社長宅となっております。では早速、お話しを聞いてみましょう……。ん、インターホンの応答がありませんね。もう一度……おかしいですね、いらっしゃる筈なんですが、何故か応答がありません。それではお隣の方にお話しを聞いてみましょう。少し移動します』
各テレビ局が、ブラック企業関係者の処刑を実況中継し始めた。予め処刑されそうな者に網を張っていたのであろうが、随所からの中継が矢継ぎ早に続き、いたるところで処刑が行われたことを知らしめていた。
そして水曜日まで進むと、処刑されたブラック企業の関係者は百万人に達したと噂されたが、余りにも人数が多く、また、その死が秘匿されることもあり実態は不明だった。
だが、午後になって、以前の派遣先だった工場の人事部長も処刑されたとツイッターで知った。
忘れもしない、死にそうになっていても助けてやらないと思っていたあの人事部長だが、筋金入りの悪党と認められて処刑されない可能性があると思っていただけに、溜飲を下げるとはまさにこのことだった。
だが同時に気付いた、あれほど狡猾を極めた人事部長も、結局は保身の為に必死に働いていたサラリーマンに過ぎなかったのだと。
しかし、予想外の事態も起こっていた。今週の卑怯者の処刑に対する投票状況なのだが、賛成の四百二十万票に対し、反対が三千五百万票と圧倒していたのである。が、考えて見れば、大勢で少数の者を甚振るのが苛めであり、加害者側が挙って反対票を投じたならばこうなるのも当然だった。
それにしても三千五百万もの反対票が入るとは、これほど多くの者が苛めに加担していたとなれば、もはや苛めは社会問題などというレベルではなく、人の性ゆえの文化なのであろう。
きっとこれからも、人の世から苛めが無くなることはないと思い知った。
そしてホームページには、苛めに苦しむ者達の怨嗟の声が満ちていた。
『これでやっと地獄の日々が終わる思っていたのに。いったいなんなんだ。これじゃあ苛められる方が悪いってことか』
『こんなに悔しいことはありません。ルシファー様ならあいつらの卑劣な心を見抜いてくれると期待していたのに。反対票が上回るとは……』
『反対票を入れたってことは苛めに加担していた証拠じゃないですか。ルシファー様、どうか反対票を入れた者を処刑して下さい』
『……悔しい。誰かを踏み躙って自分の立場を保とうとする。そんな卑怯者が助かるなんて我慢できない。もし処刑されなかったなら、私が裁きを下す』
――自分も同じ悔しさを噛み締めていた。
ここで賛成票が上回るなんて――。
改めて世の中の無慈悲さ、理不尽さ、身勝手さを思い知った。
と、そんな最中、俊夫が部屋を訪ねてきた。
「大変だよ。さっきサロンに案内が張り出されたんだけど、このシェアハウスが来月で閉鎖されることになった」
「え。閉鎖……」
「ああ、きっと大家が僕らのようなプータローは早く追い出した方が無難だと考えたんだろう。さっきのニュースでもいってたじゃやないか、会社の寮を追い出された派遣社員で大量のホームレスが発生してるって、既に日比谷公園の派遣村には一万人も集ってるらしいよ」
「明日は我が身ってことだね……」
「そうさ。此処を追い出されたら僕達もホームレスになるしかない。そしてますますまともな仕事に就けなくなって、ゴミのような人生から抜け出せなくなるんだ」
俊夫は戸惑いを顕にしながら帰っていった。
だが自分には、決意を固くさせる知らせでもあった。
世の中が乱れれば、弱者から犠牲になるのが常であろう。恐らく今、派遣社員だった殆どの者が失業しているに違いない。そして次こそ、正社員にもリストラの嵐が襲い掛かり、企業も軒並に倒産するであろう。
いよいよだ。全てをリセットさせる時がそこまで来ている。
そしてその時こそ東京で迎えたい。もしそのリセットされた世の中でも落ちこぼれたのなら諦めもつく、負け犬として潔く故郷に帰ろう。
それから直ぐに、シェアハウスの閉鎖を伝えるメールを秋穂に送った。
すると、『何も連絡しないで御免なさい。実は昨日、父が肺炎で亡くなりました。シェアハウスが閉鎖になることを知らせてくれてありがとう。父の葬儀が済んだら改めて連絡します』
という返信があった。
秋穂の悲しみを思うと心が痛み、お悔やみのメールを返信したが、父親の葬儀を出すにしても、この時期ではルシファーに処刑された者と混同されて気苦労の多いことだろうと案じられた。
それから二日が経ち、圧倒的な反対多数のまま迎えた金曜日の朝、実家から宅配便が届いた。
例によって中身は食料品の詰め合わせだったけれども、一度は実家に帰って来るようにと切符代まで入っていて、自分が失業したことを母に知られているのではないかと思えたが、それもそのはずで、マスコミは企業の大半が休業状態に陥っていると報じており、非正規雇用者が安穏としていられる状況でないことは一目瞭然だった。
そして秋穂からのメールも届いた。木曜日に家族葬を行ったとのことだったが、今の時期に葬儀を出せばルシファーに処刑された者だと誤解されてしまうし、しなければ後々にルシファーに処刑されたのだろうとの疑いを招くことになる。結局のところ、親しい知人と親戚だけでささやかに執り行ったと伝えてきた。
しかし続けて、
『シェアハウスを立ち退いてからどうするの。よければ家の旅館に泊まりに来ませんか。旅館の仕事がどんな感じか見に来て下さい。』
とも書かれていた。
秋穂の実家は旅館だった。自分の実家から車で十五分ほどの海辺にあり、小さいながらも人気の宿だと聞いたことがある。
だが、秋穂の気持ちを読みとれないまま、
『連絡有難う。大変だと思いますが頑張って下さい。それと、まだ聞いたばかりなので此処を立ち退いてからのことは何も考えてません。秋穂ちゃんの旅館に行くのは楽しみですが、お父さんが亡くなったところで大変だろうし、しばらく先にしましょう』
そんな曖昧な返信を送ってしまったところ、
『その父に頼まれたの。旅館を頼むと。こんなに早く逝ってしまうなんて、残念だけどイラストレーターを目指すのは諦めて母と旅館を遣っていくことにしました。そして淳司さんのことを母に話したところ、母も会いたいと言ってます。御免なさい、急にこんなことを言って。本当はこのまま淳司さんと離ればなれにるのが嫌なの』
と、返ってきた。
読んだ瞬間、諦めていた秋穂への想いが堰を切って溢れ出した。このシェアハウスで出会って二年。プラトニックな関係だったが、お互いを知り合うには十分な時間だったのかも知れない。
秋穂と結婚し、夫婦で旅館を営む。おぼろげながらそんな想いが過った瞬間、東京で再挑戦しようなどという思いは消え失せた。
そもそも人に疲れ果てていた、苛められたトラウマを背負いながら負け組みの日々を耐えてきたが、ようやく今、陽の当たる暖かい居場所に巡りあえた気がする。
その夜、この上なく美味い酒を飲んだ。何時も通りの発泡酒だったけれども、今までの空虚な心を紛らわせるものではなく、自身の存在感に手応えを感じながら飲む酒は格別であった。
――そしていよいよ、二十四時が目前に迫ってきた。
お気楽に酔っ払いながらルシファーのホームページを見ると、賛成は五百十万票、反対は四千五百万票であった。
投票した者は何を思っていたのだろうか。復讐や面白半分で賛成した者、うしろめたくて反対した者、いずれにしても、このような投票結果だと処刑は取り止めになる。
この世の中、こと苛めにおいては苛める側に回らねば損ということか。
そしてリセットされた世の中では旨く立ち回らねばという思いに逸るのだけれども、それは今までの自分であればの話で、秋穂とともに旅館を営んでいく人生に思いを馳せれば、どうでもよくなった。またそれよりも、苛められた辛さを知る自分だからこそ、人には誠実でありたいと思えた。
面白いものだ、立場によってこうも人の気持ちとは変わるものなのか。自分でも驚くほどの人生観の変化に、いよいよもって秋穂との結婚を望む気持ちが強くなった。
そして新潟に帰ることにすると、秋穂にメールした。
その直後、二十四時が来た。
『あ~あ、反対多数じゃ処刑してやらないぞ。それにしてもこれほど多くの卑怯者がいたなんて大笑いだな。さて、他人の不幸は蜜の味~。次の処刑企画に行ってみよう。とはいうものの、次の処刑企画で最終回とする。ま、我輩も飽きちゃったんだな。さて、その最後だが、腐敗、堕落、狡猾、卑怯ときたらもう分かるだろう、最後を飾るのは、馬鹿だ。いいか、わかり易くいうぞ、面白半分、悪ふざけ、憂さ晴らしのような軽い気持ちで今までの処刑に賛成票を投じていた馬鹿を処刑対象とする。賛成票を投じておきながら、拘ってませんなんて惚けてたような奴も、アウトだぞ。ただ、信念を以て賛成していた者、筋金入りの悪意で賛成していた者はセーフだから安心しろ。さあ諸君、次の最終回は賛成票に投じても処刑対象にはしないから気楽に投票してくれ。悪ふざけでも、面白半分でもオーケーだ。浅はかに賛成票を投じてきた馬鹿共に、自分がしてきたことの愚かさを思い知らせてやるがいい。これまでに処刑された者達の身内の諸君も、今こそ復讐の好機だぞ。いいか、わかってると思うが、我輩は人の心が読める。自分が馬鹿かどうかは自分で分かるはずだ、答えはそれぞれの心の中にある。例によって締め切りは金曜日、二十四時とする』
――――へっ!
心臓が感電したように震え、息を飲んだ。そして改めて読み返してみたが、やはりその内容は全身を凍りつかせるものであった。
腰が――抜けている――。ま、まずい、こんなに動揺したのではルシファーに見抜かれてしまう。
震える指先でカーソルを合わせると、反対の投票キーをクリックした。見ると凄まじい勢いで反対票が増えている。きっと身に覚えのある馬鹿達が慌てて投票しているのだろう。
そうだ、いいぞ、どんどん増えろ!
頭の中が真っ白になり、ただひたすらに増え続ける投票数を凝視した。
そして思わず、もう一度反対の投票キーをクリックしてみたけれども、投票キーは全く反応しなかった。
それもそのはずで、ルシファーのホームページに重複投票が出来ないことは既に証明されていた。それはテレビによる公開実験だったのだが、一度投票した者が再度投票を試みても投票キーは反応せず、パソコンを替えても結果は同じだった。そこにシステム的な識別機能は一切無く、ただ心を見抜けるルシファーの魔力により判別されているとしか考えられず、改めてルシファーの魔力を見せつける結果であった。
それから三時間、瞬く間に緊迫の時は過ぎ、反対が五百万票を超えるにいたって漸く落ち着くことができた。
賛成は僅かに二万票、ここまで大差が着けば安全圏だろう。
それにしても驚愕の事態になった。まさか自分がルシファーの処刑対象になってしまうなんて。
なんとか免れそうだが、処刑予告を受けた恐怖は尋常ではなく、まさに精魂尽き果て、そのまま眠りに墜ちてしまった。
そして本来なら小躍りして喜んだはずの秋穂からのメールに気付いたのは、翌朝だった。
『新潟に帰る決心をのしたね。嬉しい。私も来週にはシェアハウスを引き払いに戻る積りだけど、良かったら一緒に新潟に帰りませんか』
翌朝の九時、秋穂からのメールを見た。
だが、今だけは秋穂のメールよりもルシファーのホームページが気懸かりである。
直ぐさまアクセスすると、反対が九百万票で、賛成は八十万票だった。
――余裕であろう。
胸を撫で下ろし、自分も一緒にシェアハウスを引き払うと秋穂に返信した。
後は実家の両親に何と言うかであるが、決して意固地になっているのではない、仕送りを貰って大学に通わせてもらいながら、どの面を下げて無職のまま帰れば良いのか。その負い目が、素直に帰ると言わせないのである。
大望を胸に故郷を旅立った日が遠く、色褪せて感じられた。
それから秋穂と相談し、シェアハウスを引き払うのは来週の月曜、すなわち馬鹿の処刑の翌週と決めた。そもそもは秋穂の都合に合わしてのことなのだけれども、自分としても、馬鹿の処刑を脱してから晴れやかな気持ちで故郷に帰りたいと思ったので了解した。
そして遂に、実家の母にも連絡を入れた。ただし、ただ帰郷すると伝えただけで、秋穂とのことは話さずにおいた。
だが、月曜日になると不穏な気配が漂い始めた。
まず反対票が頭打ちになり、徐々にだが賛成票が勢いを増すと、火曜日には一気に伸びて八百万票を越えて、不気味な重圧となって圧し掛かってきた。そして水曜日の朝には一千六百万の反対票に対して一千二百万票となり、それを知った瞬間、再び死への恐怖が舞い上がった。
そしてテレビも、追い討ちを掛けるように馬鹿の罪を問う番組を流し始めると、これまでに百数十万もの人が処刑されたことに加え、日本経済を崩壊させたことまで、本を正せば馬鹿が調子に乗って処刑に賛成したからだと断罪していた。
また、ルシファーのホームページへの書き込みにおいても、
『ルシファーの言う通りだ。腐敗、堕落、狡猾、卑怯、世の中に害をなす奴は色々だが、浅はかな馬鹿ほど迷惑なものはない。一人残らず処刑して、日本再生に弾みを付けましょう』
『全くだ、真実を知ろうとせず、何が正しいか考えようともしない。他人に迎合しただけの馬鹿が暴走して、どれだけ多くの惨劇を引き起こしてきたことか』
『でも、自分が馬鹿だって自覚できないから馬鹿なんでしょう。ルシファーにも見分けられないんじゃないかしら』
『なるほど。思考力が欠如した筋金入りの馬鹿は助かるってことか。ある意味で最強だな』
『しかし今週の反対票は馬鹿が必死に投票してるんでしょう、投票イコール、自覚があるからじゃないの』
『少しは考える中途半端な馬鹿が大勢いるってことか』
『馬鹿息子を助けたい一心で投票した親もいるんじゃないか』
『とにかくもうひと頑張りですね。反対票は完全に伸び悩んでる。皆で呼び掛けて賛成票を集めましょう』
と、馬鹿の処刑に賛成し、更に煽ろうとするコメントが飛び交っていた。
クソ! 他人事だと思って調子に乗りやがって――。
地団駄を踏んでも後の祭りである。それに、処刑に賛成して盛り上がるのは、自分が今までに散々してきたことだ。
とはいえ、処刑対象になった馬鹿と、その馬鹿の処刑に賛同するコメントを書き込んでいる連中が同類にしか思えず、その軽薄さが腹立たしくてならなかった。
と同時に、馬鹿は幾らでも湧いて出るものなのか、そう思った。
いや、馬鹿だけではない、腐敗した者、堕落した者、狡猾な者、そして卑怯者も、その時々の打算により正体を現すのだ。
今日を善人で過ごせたからといって、明日も善人でいられる保証なんて何処にもない。日々の瞬間の中で、打算と葛藤しながらどれだけ己の意志で踏み止まれるか、それこそが人の真価であり、生き様なのであろう。
今更ながら、煩悩に塗れて不用意に賛成票を投じてしまった自分を悔やんだ。
それにしても、今の勢いで賛成票が追い上げれば、残り二日で逆転する可能性が高い。もはや引越しの準備どころではない。こうなったら自らネットに書き込んで反対を呼び掛けるしかない。ただ、賛成派の牙城であるルシファーのホームページに書き込んでも袋叩きに遭うだけなので、中立的なホームページやツイッターを狙うことにした。
そして、『完璧な善人なんてこの世に居るのでしょうか。誰もが心の何処かで腐敗し、堕落し、狡猾であり、卑怯で馬鹿なんじゃないでしょうか。なのに何故、ルシファーに指定された者だけが処刑されなければならないのでしょうか。人が死ぬんですよ。もしかしたら皆さんの身内や友人が処刑されるかも知れないんですよ』
そんなことを書き込んで回った。
もはや自分が処刑対象の馬鹿であることに間違いはない。それも最悪の、中途半端な馬鹿の典型である。だが、どの面を下げて両親や知り合いに反対への投票を頼めば良いのか。侘しさを噛み締めながら徹夜で書き込みを続けても、情け容赦なく賛成票は増え続け、翌朝には一千八百万票の反対に対し、一千七百万票にまで迫ってきた。
朦朧とする意識の中、自暴自棄になった。賛成反対を合わせれば四千万に及ぶ膨大な投票数である。たかが一人で躍起になったところで、焼け石に水だ。
なす術もなく力尽きて眠ったのは、昼前であった。
そして夕方の五時、秋穂からのメールで目を覚ました。内容は、日曜日の昼にシェアハウスに戻るので、その日は夕食を共にし、月曜の午後には一緒に新潟へ出発しようというものだった。
平静を装って了解した旨を返信したが、それは二人きりの夜を過ごすことを意味しており、女性との経験が無かった自分には天にも昇る思いでトキメクところだったけれども、ただただ、今はそれどころではない。
すかさずホームページを確認すると、反対一千九百万、賛成一千八百五十万。
――崖っぷちである。
心底から恐ろしくなり、酒にすがった。
気懸かりなのは世論の動向である。まだまだ賛成への気運が高まるのだろうか。発泡酒を煽るように飲みながら、ルシファーに関する特集番組を見た。
『昨夜より全国で殺人、強盗、放火などの凶悪事件が多発している模様です。これはルシファーの処刑を免れようとする馬鹿が自分を筋金入りの悪党だと認めて貰わんとしての凶行と考えられますが、警察は連鎖的に多発することを警戒し、全ての事件について一切の公表を控えています』
『こちら日比谷公園前です。中にはホームレスと化した派遣社員を救済する派遣村が設置されていますが、馬鹿による犯罪が横行し、極めて危険な状態に陥っております。また、日頃からホームレスの溜まり場になっている場所でも同様の事態が発生しており、全国的に治安が悪化しております』
『続いて電話アンケートの結果をお伝えします。馬鹿の処刑に賛成票を投じた2%、反対票を投じた13%、投票していない85%。残念ながら、ルシファーのホームページの投票状況と、アンケートの結果が合致しておりません。憶測で申し上げたくはありませんが、表面上は処刑に無関心を装いながら、実は賛成票を投じている人が相当数いると言わざるをえません』
『速報です。たった今、ルシファーのホームページで賛成票が上回りました。処刑された人の縁者による報復でしょうか。それとも馬鹿を許せないという気運が高まっているからでしょうか。処刑期限の金曜日を明日に控え、遂に賛成票が逆転しました!』
――予感はしていたが、テレビの速報によってその瞬間はもたらされてしまった。
全身が凍りつく。死を目前にすると頭の中は沸騰し、時間が過ぎて行くことが恐ろしくて堪らなくなった。
そして気を紛らわせていた酒が無くなると居ても立っても居られなくなり、スーパーへ買いに出た。
時刻は夜の九時。シェアハウスに隣接する緑地公園を通り抜けた先のスーパーに向かい、発泡酒や焼酎、乾物の肴を選んでレジに並ぶと、前に居た制服を着た男子学生の会話が聞こえてきた。
「聞いたか。ついに馬鹿の処刑で賛成票が上回ったらしいぜ」
「そりゃヤバイな。とんでもないことになるぞ。ところでお前はどっちに投票したんだ」
「俺は投票なんかしてないよ。お前こそどうなんだ」
「俺だって興味ないさ。それより岡田の様子がおかしくないか。あいつ、もしかして馬鹿の処刑対象なんじゃないか」
「あ、俺もそう思ってた。それに山下と佐藤もだ。二人とも昨日から学校を休んでるし、かなりのネットオタクだったからな。ルシファーに嵌ってたんじゃないか」
「それよりD組の大島直美って知ってるか」
「ああ、奴にロックオンされたら助からない。苛めの陰に大島あり。必殺苛め人の直美だろ」
「そうだ。更にあの女、今までのルシファーの処刑に全て賛成票を入れたと公言しているそうだ」
「え、マジか。じゃあ馬鹿の処刑対象じゃないか」
「だが本人は笑い飛ばしてる。卑怯者の処刑でも全然ビビッてなかったし。きっと自分が筋金入りの悪党だと確信してるんだろう」
「……とんでもない奴だな」
「そうだ。今じゃルシファーに対抗してシーデビル直美と名乗って天下統一に乗り出したそうだ」
「……意味が分からないぞ」
クラブ活動を終えた帰りだろうか、馬鹿の処刑にまつわる学校内の様子を話していたが、二人とも言葉では投票していないというものの、疑わしいものであった。
そう思って見回せば、店内の客や従業員も何らかの関わりがあるに違いない。処刑対象の馬鹿。今までに処刑された者の関係者。賛成票を投じた者。反対票を投じた者。勘繰っても切りが無いが、どう見ても自分が一番の不幸面を晒しているように思えて、ほとほと情けなくなった。
帰り道、人気のない緑地公園の遊歩道を歩いていると、雲ひとつ無い夜空に白銀の満月がぽっかりと浮かんでいた。
そういえば月の兎という童話があったな。幼い頃、祖父に絵本を買って貰った日の夜、実家の庭先で何時までも満月を見つめていたものだ。
立ち止まって眺めていると、郷愁が込み上げてきた。
そして思った。生きて故郷に帰れたなら、一から遣り直したい。たとえ秋穂との結婚が成就しなかったとしても、実家で農業の手伝いからでも構わない、もっと真剣に現実と向き合って生きてみたい。確かに就職氷河期に遭遇して歯車が狂ってしまったけれども、運の悪さを嘆くばかりで甘えていたと自戒した。
その時である。
いきなり何かが背中にぶつかってくると、腰に激痛が走った。
驚いて振り返ると、そこには両手で包丁を握り締めた男が身構えていた。
「だ、誰……と、俊夫!」
猛烈な痛みが全身に走り、腰に当てた手が血に塗れるのを見て、刺されたと分かった。
俊夫は狂気的な笑みを浮かべながら、再び襲い掛からんとにじり寄ってくる。
そして、「ルシファー様に邪悪なる者と認めて貰う為さ。誰でも良かったんだが、君が外出するのを見かけてね、多分スーパーだろうと思って待ち伏せていたのさ」と言い、その眼は完全に狂っていた。
「じゃ、じゃあ君も馬鹿の処刑対象だったのか……ア、や、止めて!」
何とか宥めようとしたけれども、俊夫は情け容赦なく突進してくると、背中に突き抜けんばかりの勢いで腹を刺した。
「……た、助けて」
致命傷になるのが何より怖く、何とか止めさせようと俊夫の腕を掴んだけれども、俊夫は息がかかるほど間近に顔を近づけてくると、
「君には悪いが、僕が生まれ変わる犠牲になってもらう……じゃあな」
そう囁き、刺した包丁を突き上げてきた。
内臓が引き摺り出されているかの如き激痛が走り、四肢の感覚が無くなっていく。
――もう、駄目だ。崩れ落ち、前のめりに突っ伏してしまうと、薄れゆく意識の中で助からないと悟った。
「秋穂のことなら安心しろ。僕がちゃんと面倒を見てやるからな」
その声が聞こえた直後、ズボンの後ろポケットから携帯を抜き取られた。土下座をしたような恰好でうつ伏せになっていて見えなかったが、暫くして、「やっぱりな」と、呟く声がした。
きっと秋穂とのメールを見たに違いない。
そして次の瞬間、背中に包丁が突き刺さった。
こんな最期とは――。
何と情けない死に様なのか。結局のところ、自ら追い求めない者には何も起こらないか、誰かに踏みつけられるかの運命しか待っていないのだろう。だから自分は、その他大勢の負け組から抜け出せなかったのだ。
ほんの僅か歯車が違っていたなら、いや、自ら懸命に追い駆けていたなら、人並みの人生を手にできたかも知れないのに。
それが今、地べたに顔を這わせて死ぬことになるとは――。
秋穂の笑顔や故郷の風景が過っていく。
――父さん、母さん、ごめん。
翌日、金曜日の二十四時。ルシファーのホームページが更新された。
『いや~。からかって悪かったね。二週続きで反対票が上回ってたんで退屈しちゃってさ、冗談でホームページの賛成票を逆転させてみました(笑)。ということで、本当は反対票が上回ってたんで馬鹿の処刑はありませんよ。ま、それでも焦った馬鹿がひと暴れしてくれたお蔭で盛り上がったから良しとしましょう。じゃあ宣言通り、これでこのホームページは終わりにする。では諸君、さらばだ』
それがルシファーによる最期の書き込みだった。
そして数分後、ルシファーのホームページそのものが消滅した。
マスコミは処刑が行われなかったことを歓迎する論調に一転した。『良識の国、日本』そんな調子で賛成票が少なかったことを美談にし、その反面では処刑対象だった馬鹿への非難を強め、特に俊夫の様に助かりたい一心で凶悪犯と化した馬鹿への糾弾は苛烈を極めた。
土曜日の朝、秋穂はメールを送った。
『ルシファーが消えてホッとしたね。家の旅館もお客様が減ってしまったし、早く日本が元通りになって欲しいですね。ところで日曜日ですが、私の大好きなレストランを予約しておきました。五時にシェアハウスを出る予定になりますので、ヨロシクです』
――だが、淳司からの返信はなかった。
鈍痛を感じながら、意識だけが彷徨っているような感覚だった。夢ではない、ただただ鬱蒼とした暗闇を浮遊している。そんな時間を延々と漂っているうちに、もしかしたら生きているのか? そう気付いてから、手繰り寄せるように意識を取り戻すことができた。
そして光を感じると、徐々に白い天井が見えて、寝かされていることが分かった。
「淳司さん」
声が聞こえた。
おぼろげに仰ぎ見ると、――秋穂だった。
人が集ってくる気配とともに誰かが自分を覗き込んでいて、看護婦と医師のようである。
懐かしい声も聞こえる。母さん。それに父さんだ。
――助かったのか?
だったらルシファーの処刑は?
「……今日は、何曜日ですか?」
そう呟くと、
「今日は月曜日です。あなたは四日間、昏睡状態でした」
医師が答えてくれた。
月曜日! ならばルシファーの処刑は終わっているはず。
助かったのか!
胸のつかえがスッと消えた。
たが、身体は死の淵を漂っており、たちまち重苦しい憂鬱さが纏わりついてきた。
やがて刑事も現れ、誰に襲われたのか話すことになり、俊夫が秋穂の面倒は俺が見ると言い残したことを思い出して不安になったが、警察が逮捕に向った時には、既に俊夫は逃亡していた。というのも、自分が救急病院に搬送されたことは直ぐにシェアハウスにも知れ渡ったそうで、警察に証言されることを恐れて逃げたのであろう。
それからも秋穂は献身的に看病してくれた。また、そんな彼女を両親も気に入ったのか、すっかり意気投合した様子だった。
そして父が言ってくれた、「長い間、独りでよく頑張った。お前を誇りに思う。もう帰って来い」と。
それから数日間、穏やかに時は流れ、秋穂と両親の優しさに包まれて殺伐とした心が和らいでいった。
自分が追い求めて来たものは、正社員の身分や見栄ではなく、こんな家族の団欒だったのであろう。
それが今、稀有なる運命によって訪れたのだ。
何もかも旨く行く、そう思えた。
だが、「背中を刺されたことで神経が断裂しており、もう歩くことは出来ないでしょう」そう医師に告げられたのは、金曜日だった。
またしても運命は、目の前の幸福を奪い去るのか。歩けない男が、家族経営の旅館で何の役に立つというのだ。
だいたい、ここで歩けなくなるなんていったい何なんだ。
もう死んでしまいたい。心底から、荒んだ気持ちになった。
それに秋穂は知っているのだろうか。彼女はシェアハウスを引き払わずに看病に通ってくれている。
きっと知らないのだろう。でなければ、新潟に帰っているはずだ。
であれば秋穂には知らせなければという思いが過ったけれども、自分も傷心に暮れており、心の整理がつかない。
落胆の中、砂を噛むような時間だけが過ぎていった。
そして四日後、指名手配になっていた俊夫を逮捕したと刑事が伝えに来た。日比谷公園でホームレスに紛れて潜伏していたのだが、そこは凶悪犯と化した馬鹿の巣窟だったそうだ。
俊夫か。もうどうでもいいが、その名前を聞いて襲われた夜のことを思い出した。
それは生きて故郷に帰れたなら、一から遣り直したい。たとえ秋穂との結婚が成就しなくても、ただ独り、実家の農業の手伝いでも構わない、もっと真剣に現実と向き合って生きてみたい。そう決意した矢先だった。
だとしたら、歩けなくなったと知った時に答えは出ていたのだ。運命を受け入れ、秋穂のことは諦めるべきなのだと。
しかし未練が、それを認めさせないのである。
翌朝、目を覚ますと、秋穂が傍らに座っていた。
「おはよう。まだ九時だよ。随分早くから来てくれたんだね」
そういって微笑むと、
「今日は昼前に知り合いに会うことになったから、先に此処へ寄ってからにしようと思って」
と、秋穂も微笑みを返しながら、用意してあった濡れタオルで顔を拭いてくれた。
――込み上げる切なさに涙が溢れた。
「どうしたの……」
目尻から零れ落ちる涙に、秋穂は戸惑いを見せた。
「……黙っていてごめん。僕はもう、歩けないんだ」
そう告げた。
「そのことね、知ってたわよ。淳司さんが意識を取り戻す前に、先生が話してくれたから」
「え、じゃあ父さんも母さんも知ってたの」
「ええ、金曜日に先生が淳司さんに話したのも、皆で相談したことよ」
明るく振舞おうとする秋穂を見て、無理をしているに違いないと感じた。
「……今日まで有難う。でも僕は君の思いに応えられない身体になってしまった。だから君は遠慮しないで新潟に帰って欲しい」
唐突だが、思いを話さずにはいられなかった。
だが、秋穂は無言だった。
「無理しないで。どうしようもないことだ。これ以上、秋穂ちゃんに迷惑は掛けられないからね」
とその時、秋穂の眼に涙を見た。
「秋穂ちゃん……」
「……私も、どうして良いか分からない。でも、出来る限りのことはして上げたいの」
声を詰まらせながらそういった秋穂は俯き、肩を震わせた。
そして、「ずっと……好きだったから」と囁いた。
胸が掻きむしられるほど詫びたい気持ちで一杯になった。と同時に、ここで秋穂に正直になれなければ、これからの人生と正面から向き合えないという決意が過った。
「ごめん。秋穂ちゃん、今日まで本当に有難う。もう十分だよ……それに僕は、君にそこまで思ってもらえるような人間じゃない。僕はね、馬鹿の処刑対象だったんだ。最初の政治家から卑怯者まで、賛成に投票していたんだ。君が反対票を入れようといった時、僕は拘らない方が良いといったけれど、あれは嘘だったんだ」
秋穂は俯いたままで、ぽつりぽつりと落ちる涙が光っていた。
「……僕も、ずっと君のことが好きだった。なのにこんなことになってしまって。全て僕が悪いんだ。派遣社員から抜け出せず、挙句には馬鹿の処刑対象になってこの様だ。僕がだらしないばかりに、君にこんな思いをさせてしまった。だから遠慮はいらないよ。もう僕のことは忘れて、新潟へ帰って欲しい」
そこまで話すと、自分も嗚咽を堪え切れなくなり、情けなさもあいまって手で顔を覆って泣いた。
暫くして、無言のまま部屋を出て行く秋穂の気配がした。
終わったのだ。
この日を境に、心は抜け殻になってしまった。頭ではこの運命と向き合って生きて行くしかないと分かっていたけれども、心の底が抜けてしまって、何の気力も湧いてこない。ただ秋穂の気持ちを知ったことと、その秋穂に自分を正直に曝け出せたことで悔いだけはなかった。
数日後、病室の窓越しに綿雲を浮かべる夏空を見た。
あの長閑でありながら白銀に輝く綿雲が羨ましい。なのに自分の人生はあの綿雲が地上に落とした影のように薄く、存在感がない。
だが、誰だってそのようなものだろう。思い通りに人生を謳歌できる者なんて一握りだ。いや、そもそも居るのだろうか。
そしてこの頃、巷では馬鹿狩りが始まっていた。混乱した社会のどん底で、失望や不安に駆られた人々の鬱憤が馬鹿に向けられたからであり、経済恐慌を招いたことも、治安が悪化したことも、世論は全ての責任を馬鹿に背負わせたのである。
結果、人々は極度の相互不信に陥った。何せ処刑を免れて野放しになった馬鹿は一千万人を超えるのだ。街を行き交う人々、電車に乗り合わせた者、職場の同僚やクラスメート、知人に隣人、疑えば誰もが馬鹿に見えた。また、同様に自分が馬鹿だと疑われるのではないかと恐れ、誰もが疑心暗鬼になった。
だが、当然ながら、自分を馬鹿だと認める正直者は皆無であり、ルシファーの様にその心を見抜くことは誰にもできなかった。
故に人々は群れを成して身を守ろうとし、自警団などを組織すると魔女狩りの如く馬鹿狩りに走った。何せ文化と思われるほどに苛めが蔓延っていた国だけに、馬鹿狩りは公然化し、人々は何としても狩る側に立ち回ろうと必死になり、憶測や思惑で他人を馬鹿の標的にしては迫害すると、殺してしまうことさえあった。
だが、入院していた淳司は難を逃れ、病室のテレビで馬鹿狩りの騒動を傍観できた。
どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ。卑怯だし、狡猾だし、直ぐに堕落して腐ってしまう。
馬鹿狩りに限ったことではない。損はしたくない。これぐらいならいいだろう。人々の何気ない打算や偽りが連鎖して社会は歪、捩れていく。そして何時か限界に達して捩じ切れたとき、巷は修羅の地と化すのである。
歴史にはその様な騒乱が幾つも刻まれていて、たとえルシファーが仕組まなくても、その時がくることを物語っている。
人の世は成る様にしかならない。そう思い知った。
それから幾日も流れ、病室から見える風景が羊の群れのような秋空に遷り変った頃、退院の日が来た。
心は抜け殻のまま、脚の感覚が戻ることも無くベッドで両親の迎えを待つ。その日は朝から雨だったが、昼前に晴れ間が訪れた時、雲の切れ間から射し込む天使の梯子が幾重にも見えていた。
と、その時である。父が買ってくれたモバイルパソコンでインターネットを見ていたら、妙なホームページに出くわした。
『ホッホッホ。皆様。ご機嫌はいかがかしら。天使の身の上相談にようこそ。あなたの悩み、悲しみ、懺悔、何でも聞いて差し上げますますわよ♥♥♥。そして神様へお伝えして参ります。捨てる神あれば拾う神あり~。さあ、貴方の心にあることを書き込んで下さい。そして真剣に祈れば、きっと神様がお救い下さいます』
そのコメントは真っ白い画面にピンクの文字で記されていて、画面をスクロールすると、読者からの悲哀に満ちた身の上相談が続々と書き込まれていた。
だが、読む気にはならなかった。というのも、ルシファーのホームページ以来、その模倣がネット上に氾濫していて、ほとほと下らない人間が多いものだと呆れ果てていたからだ。
が、気が付いて見ると、そのホームページにはURLアドレスが無かった。
捨てる神あれば拾う神あり。まさかと思いつつも、歩けなくなってしまった悲しみを書き込んでみると――。
奇跡は、起きた。
「お電話有難う御座います。海風旅館で御座います。はい、かしこまりました。4月10日の土曜日、四名様。ご予約有難う御座います。ではお名前とお電話番号をを御願いします。はい、ありがとう御座います。それではお待ちしております」
はつらつと応対した淳司は電話を切ると、パソコンに予約を入力する。
そしてその背中から、
「パパ。今日は客室の畳替えだから業者さんの案内をお願いしますね」
と、秋穂の声が聞こえ、「はいよ~」と答えた淳司は小走りに帳場を出ると、玄関の掃除を始めた。
天使の身の上相談で悲運を嘆いたのは淳司だけではなかった。秋穂もまた、淳司を救って欲しいと書き込んでいたのだ。
きっと秋穂までが淳司を救って欲しいと祈ったことで、神は救いの手を差し伸べたのであろう。退院してから一ヶ月後、奇跡的に歩けるようになった淳司は秋穂の旅館を訪ねた。もちろん秋穂は驚いたけれども、徐々に二人の時間は動き出し、半年後、二人は結婚した。
それから二年、日本は落ち着きを取り戻し、二人の間には女の子が生まれた。
一方、天使のホームページは直ぐに消滅してしまい、淳司のように救われた者もいれば、救われなかったという者も多く、そもそもアクセス出来た者が少なかったこともあり、都市伝説となって風化していた。
しかし、二人には確信があった。天使のお陰だと。
人生は少なからず運で変わることがある。だが、現実と正面から向き合えない者には幸運の有り難味が見えないし、不運も乗り越えられない。それを心に刻んだ淳司には、入り婿しての旅館修行も直向にこなすことができた。
そして二人は幸福に暮らし、供に眺める日本海の風景は何時までも変わらなかった。
ルシファーのホームページ