『ある少女の回想(仮)』

 ひとを好きになったことはありますか。そのひとのことを思うだけで涙が止まらなくなったことはありますか。

「おはよう、雪ちゃん」
 親友のつぐみちゃんの挨拶に応えながら、わたしはつぐみちゃんの背中を見つめながら心に呟く。
「つぐみちゃん、わたしは親友のあなたを裏切った恩知らずです。本当にごめんなさい」
 繰り返し唱えてみたところで、許される訳でもないけれど。
 口に出して言ってしまえたら、心の中の重苦しい何かは、きっと消えてなくなって楽になるんだろうな、と思う。
 そう思う反面、言ってしまったら、一生後悔するだろうってこともわかってる。
 わたしが、心の底から、本当に友だちだと思っているのはつぐみちゃんだけなのに、わたしはつぐみちゃんを裏切っていると思う。

 わたしがつぐみちゃんと知り合ったのは、わたしたちがまだ小学校の2年生のとき。
 その頃わたしは同じクラスの男の子たちにいじめられていて、誰も助けてくれる人もいないし、味方になってくれる人もいなかった。
 そもそもいじめられたきっかけというのが、わたしのお父さんが浮気相手の女のひとと行方不明になってしまって、どうしてだか、そのことを知った男の子たちが、わたしのことを、「お父さんに捨てられた、捨てられっ子」と言い始めたから。
 けっしてわたしに触れたりはしないけれど、言葉の暴力でわたしを傷つけ、追い詰めていた男の子たちから、わたしを助け出してくれたのがつぐみちゃんだった。
 とは言っても、つぐみちゃんが自分で男の子たちの前に立ちはだかっていじめをやめさせてくれた訳じゃなかったんだけど。
「やめろ、お前ら!」
そう言って男の子たちを一喝して追い払ってくれたのが、つぐみちゃんのお兄さんで、わたしがいじめられているのに気がついたつぐみちゃんが呼んできてくれたんだった。
 それからつぐみちゃんはいつもわたしのことを気にかけてくれて、例の男の子たちがわたしに近づいてこようとすると、
「お兄ちゃん呼んでくるから!」
と言ってくれた。それでわたしはいじめられなくて済むようになったんだった。

 お父さんがいなくなっちゃったわたしは、お母さんと二人暮らしで、しかもお母さんは看護士の仕事が忙しくてなかなか家にいられなかった。家って言っても1DKの古いアパートだったんだけど。
 わたしが家に帰ってもひとりぼっちでいるしかないことに気がついたつぐみちゃんは、よくつぐみちゃんの家に寄るように誘ってくれた。
 つぐみちゃんのお母さんも優しいひとで、突然学校帰りにお邪魔して、つぐみちゃんが、「雪ちゃんの分も晩ごはん作ってね」と言っても全然いやな顔をしないでご馳走してくれた。
 初めてつぐみちゃんのお母さんに会った時は、くちびるがへの字になってて怖そうなひとだな、と思っちゃったけど、お母さんが自分から、お父さんのタバコが臭いせいよ、と笑ってみせてくれたので、すごく安心したっけ。
 わたしのお母さんも小田切さん(つぐみちゃんの家)にわたしがさんざんお世話になっていることはよくわかっていて、何度もお礼に行ったけど、つぐみちゃんのお母さんはけっして贈り物を受け取ろうとしなかった。
「雪ちゃんがつぐみのお友だちでいてくれるお礼を、こちらがしているだけですからね」つぐみちゃんのお母さんは、いつもそう言って、贈り物を受け取らずに、かえって逆にもらいものが食べきれないから、なんて言っていろんなものをお母さんに持たせてくれてた。

 わたしとつぐみちゃんが3年生になった春に、たまたまお呼ばれした日がつぐみちゃんの誕生日だったことがあって。
 その時のわたしの顔が、よっぽど物欲しそうか羨ましそうかだったんだよね。つぐみちゃんは、10月のわたしの誕生日に晩ごはんに呼んでくれて、わたしのために蝋燭を灯したケーキにプレゼントまで用意してくれてたんだ。
 いつもわたしのお母さんが泣いて感謝してるのはわかってた。わかってたけど、今思えば、わたしはつぐみちゃんとつぐみちゃんの家族に対する感謝が足りなかったのかもしれない。
わたしが泣き泣き、どうしてこんなに優しくしてくれるんですか?と言うと、普段は新聞ばかり読んでて、ほとんど話したこともなかったつぐみちゃんのお父さんが、雪ちゃんはつぐみの友だちだろって言ってくれて。
ハッピーバースデーを歌ってもらって、食べきれないケーキをお土産に包んでもらって、泣き止まないわたしを、つぐみちゃんとお兄さんがアパートまで送ってくれて。
わたしの誕生日を忘れてた訳じゃなく、それでもできる限り早く帰ってきてくれたお母さんに、またつぐみちゃんの家でこんなによくしてもらったって話すと、お母さんはわぁわぁ泣きながら、お父さんがいなくなっちゃってからよく飲むようになったお酒を飲み始めたの。そして、雪は小田切さんちの子に生まれてたら良かったのにね、って言ったんだ。  
あの時のわたしはお母さんと一緒に泣いてたし、小学3年生にそんな気の利いたことが言えるはずがないんだけど。
今から思うと、あの時お母さんに、
「お母さんの娘に生んでくれてありがとう」
って言えなかったから、言わなかったから、きっと罰があたって、つぐみちゃんの背中に心の中で謝らなくちゃいけないことになってるのかもしれない。

「…島森さん!」
 わたしは飛び上がるように立って返事をした。先生の顔がけっこう怒っているように見える。ずいぶん何度も呼ばれていたのかもしれない。
 先生が黒板に書かれた英文を指し示して、訳して、と言うのに、周りが驚くほどすらすらと答えてわたしは腰を下ろした。
 つぐみちゃんがちらっと振り向いて小さな声で、こないだお兄ちゃんに教えてもらったとこだね、と言った。
 自分は高校3年生になって、受験生なのに、妹と妹の友だちの分まで勉強を見てくれるなんて、なんて優しいお兄さんなんだろ。
 お兄さんはわたしがつぐみちゃんと知り合った頃から変わらず、わたしたちの勉強を見てくれたり、宿題を教えてくれたりしている。
そして、小学校の時も、中学校の時も、朝の登校の時にはつぐみちゃんと手を繋いで歩いていたっけ。
 わたしはそんな優しいお兄さんがいるつぐみちゃんが羨ましくて羨ましくて、ある日、つい、つぐみちゃんに言ってしまったの。
「わたしにもつぐみちゃんのお兄ちゃんみたいなお兄ちゃんがいたらよかったのに」
 つぐみちゃんはすごく取り乱して、
「つぐみのお兄ちゃんはつぐみのだから! 絶対あげないからね!」
 つぐみちゃんはそれから何日もわたしと口も利いてくれなくて、お兄さんが取り成してくれて、ようやく仲直りしたの。
 もちろん、この時のことを未だにつぐみちゃんの背中に謝ってるわけじゃないよ。

 わたしがつぐみちゃんに対して裏切りだと思っていて、本当は話してしまいたいと思っているのは去年の10月のこと。わたしたちが中学3年生で、お兄さんは高校2年生。
 その日はわたしの誕生日。つぐみちゃんが例年通り晩ごはんに誘ってくれたけど、つぐみちゃんは生徒会の用事があったから、わたしだけ先につぐみちゃんの家に行ったんだ。
 つぐみちゃんの家は2階への階段を上がると、短い廊下になっていて、その廊下を挟んで向かい合わせにお兄さんの部屋とつぐみちゃんの部屋になっている。
 右と左のふたつしか無いんだから、普通、間違えないよね。
 でも、わたしはよく間違えてお兄さんの部屋に入ってた。よくって言うか、つぐみちゃんと一緒に階段を上がってきた時でもない限り、必ず間違ってた。
 もちろん、わざと。
 つぐみちゃんがお兄さんの腕に抱きつくようにして歩いてるのを見るたびに、羨ましい、羨ましいって思ってた。
 つぐみちゃんがしてるみたいに、お兄さんの腕に抱きつきたい。
 お兄さんと腕を組んでふたりきりで歩きたい。
 お兄さんに甘えさせてもらって、お兄さんに誰よりも大切にしてもらえたら。
 何度そう思って、どれだけ我慢してきたか。
 お兄さんにわたしの本当の気持ちを打ち明けたら、つぐみちゃんとは友だちではいられなくなっちゃう。
 お兄さんがわたしのことをもうひとりの妹としか見てないことぐらいわかってる。
 でも。
 その時もわざと間違えてお兄さんの部屋に入ったんだ。
 お兄さんが居たらどうしよう。お兄さんに会いたいがためにわざと間違えてるくせに、わたしはそんなことを考えて。
 なんてずるい女の子なのかと自分が嫌になる。
 障子を開けても、やっぱりお兄さんはいなかった。
 がっかりしたような。
 ほっとしたような。
「やっぱりお留守か」とひとり呟いて。
 振り向いてつぐみちゃんの部屋の障子を開けたら、明かりも点けない、薄暗い部屋の奥にお兄さんが座ってたの。
「ひっ!」
と悲鳴をあげてしまったわたしに、お兄さんが、つぐみか?と聞く。
 なぜあの時わたしは見え透いた嘘をついてしまったんだろう。
「そうだよ、お兄ちゃん」と。
 そこまで真っ暗な訳でもない部屋の中。いくらわたしとつぐみちゃんの背格好が似ているにしても、少し目が慣れれば気がつかないはずがない。
 それなのに、わたしは。
 お兄さんは、驚かしてごめん、と言ったけど、立ち上がるでもなく、明かりを点けるでもなく、部屋の奥のひときわ暗いあたりに座ったまま。
 明るい廊下を背にしたわたしの姿は、お兄さんからは逆光になってて見えづらい。
 それがわかってて、わたしは。
 椅子に座ったまま、わたしのほうを見るともなく見ているらしいお兄さんの傍に近づいて。
 わたしはお兄さんの足元に膝をついてお兄さんの引き締まった太腿に顔を埋めてしまっていたの。
 すぐに立ち上がって部屋を出ていかなくては。
 もうあと10秒でも5秒でもお兄さんの温もりに触れていたら、後戻りはできない。
 もう何年もこんな気持ちを隠して我慢してきたのに、なんで今さら我慢できないの?
 そう思って、つぐみちゃんを裏切れないと思っているわたしが居て。
 それなのに、お兄さんにわたしの本当の気持ちを伝えられる、最初で最後のチャンスかもしれないと思っているわたしも居て。
「お兄ちゃん、大好き」
言ってしまってからすぐ、わたしは泣いていることに気がついた。
 お兄さんは今のわたしをつぐみちゃんだと思っている。つぐみちゃんのことだから、しょっちゅう好き好き言っているに違いない。ということは、結局、わたしの気持ちは伝わらないままだ。
 お兄さんの優しい手がわたしの頬を撫でる。涙に触れられたら、偽者だとバレてしまう。
 つぐみちゃんのふりをして、好きだなんて言い出したわたしのことを、お兄さんは軽蔑するに決まってる。つぐみちゃんとも絶交、だよね。
 お兄さんの指先が、涙を拭う。
 わたしの恋も、友情も、これで終わり。
 儚かったなぁ、と思いながらも、お兄さんに詰られて突き飛ばされでもするまでは、お兄さんの温もりに触れていようと思った時。
「なんだよ。また泣いてるのか? 好きって言うたび泣くんだな、つぐみは」
 あのつぐみちゃんが?
 人前でお兄さんの腕に抱きついて、お兄ちゃん大好きと公言していた、あのつぐみちゃんが?
 お兄さんの手が頬から顎にかけてを優しく撫で上げる。初恋のひとに、こんなことしてもらって、うっとりしないでいられる女の子がいる? でも、このまま顔を上げたら、お兄さんにわたしだって気づかれちゃう。
 お兄さんに軽蔑され、怒られ、二度と俺たち兄妹の前にその顔見せるな、そのぐらいのことは言われちゃうんじゃないだろうか。
 溢れる涙を止めることもできないまま顔を上げると、お兄さんの顔が近づいてくるところだった。目を閉じたまま。
 これは、いったい何?
 何が起ころうとしてるの?
 目を閉じてるお兄さんの頬が涙で濡れているのは何故なの?
 お兄さんの唇がわたしの唇に重なる。
 それだけでも気が遠くなりそうなのに、お兄さんの唇はすぐに離れていったりはしなかった。
 優しく、それでいて淫らにわたしの唇をついばむようにしながら、わたしの口の中へ舌を滑り込ませてくる。
 淫ら、って単語自体は知ってはいても、どういうことかなんて知ってはいなかった。簡単に、「エッチなこと」ぐらいにしか思ってはいなかった。その時までは。
 きっと、こういうことなんだね。
 嬉しいような、恐ろしいような、複雑な気持ちのなかでも心臓の鼓動が激しさを増していくのがわかる。
 どんな口付けが優しくて、どんな口付けが乱暴なそれなのか、経験の無いわたしには区別なんかつかなかった。
 けれど、無理やりではないことははっきりしている。
 日ごろから大切にしているひとにするこの行為が、涙を流しながらする行為が、乱暴だなんて、思う筈もない。
 いとおしい。
 彼の気持ちが伝わってくるように思える。
 たとえわたしが、彼が大切に思っているひとの偽者だとしても。
 わたしは陶然とする意識のなか、お兄さんとつぐみちゃんは、兄妹じゃなかったっけ? と当たり前なことを考えていた。
 ふたりは兄妹なのに、どうしてこんなキスをするの?
 どうしてお兄さんはキスしようとする時に泣いているの?
 どうしてつぐみちゃんは、好きって言うたびに泣いているの?
 答えは簡単なのに。
 知らなければよかったのに、どうして知ってしまったんだろう。
 兄妹の仲の良さをやっかむひとは以前からいたし、正直言ってわたしもそのひとり。
 でも、ふたりの仲の良さは、こういうことだったんだね。
 いつの頃からそうだったのかなんて、本人たちにだってわからないのかもしれない。
 お兄さんにとって、つぐみちゃんは、妹以上の女性だったんだね。
 つぐみちゃんにとってのお兄さんが、お兄さん以上の男性なのと同じように。
 気持ち悪いなんて思わない。ふたりの気持ちが表沙汰になってしまったら、当然、誹るひとはいるだろう。
 でも、お互いのことを大切に思い、いとおしく思うふたりが流す涙を、不潔だなんて言えるひとがいるんだろうか。
 少なくとも、わたしには言えない。
 このことは、わたしの胸の奥の小箱にしまって鍵をかけよう。鍵にするのにうってつけの想いがある。
 わたしの、彼に対する恋心。
 わたしは、彼の唇が離れていき、彼がまぶたを開けてしまう前に立ち上がると、薄暗いままの部屋を走り出た。背後に彼が、大切なひとの名前を呼ぶ声を聞きながら。

「…雪ちゃん?」
目の前で手を振られ、名前を呼ばれて気がついた。
「ぼーっとしちゃってどうしたの?」
つぐみちゃんが、珍しくニヤニヤ笑っている。
「あたしのお兄ちゃんのことでも考えてたのかな?」
「ち、違うよ!」
 思わず声が大きくなってしまった。つぐみちゃんにはわたしの恋心は悟られてしまっている。それだけに、彼女のふりをして彼と交わしてしまった口付けは、裏切り以外の何物でもないと思う。
 心の中の秘密をさらけ出してしまえば、彼と彼女を引き離すことができる。そんなことをしても、彼に振り向いてもらえる訳でもないのに。できる、と思ってしまうこと自体も酷い裏切りだ。
 嫉妬という名の毒が、小箱にかけた鍵を蝕んで、秘密を漏らしてしまわないだろうか。
 常にわたしの心の中には、そのことに対する恐れがある。
 だからわたしは、つぐみちゃんの背中に向かって唱え続ける。
「つぐみちゃん、わたしは親友のあなたを裏切った恩知らずです。本当にごめんなさい」
 そして、つぐみちゃんのお兄さんに会うたびに、本当の裏切り者、本当の恩知らずにならないために心に呟く。
「あなたと、あなたの大切なひとが、いつも笑顔でいられますように。あなたたちを大切に思う、それがわたしの幸せです」と。

『ある少女の回想(仮)』

 元々、別の作品の中で断片的に使用するつもりでいた回想シーンを繋ぎ合わせて内容を修正した作品になります。その分、場面の切り替わりが唐突だったりして読みづらい部分があるかとは思いますが、大目に見てやってください。

『ある少女の回想(仮)』

16歳、高校一年生の少女、島森 雪。恩人でもある親友と、初恋のひとである、親友の兄。罪悪感と恋心の間で揺れ動く少女の想い…。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-06-11

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