摂氏99℃に熱したトマト
摂氏99℃に熱したトマト
鴨のくしゃみは眠っていた僕を静かに目覚めさせた。そうだ今は春だったものな。その声をハッキリと聴き取ったがあれは、湖の水面で安らかに立つ鴨の声だ。いや?待てよ?違う、このくしゃみは僕が一目惚れをした女の子の鳴き声だった様にも思える。そうだ。そうに違いない。僕は息を吹き返して机から顔を離し、教壇に立つ教師を見る、虫が食った様な天井を見る、クラスメイトの後頭部を見る、黒板に書かれた数式を見る、そして鴨のくしゃみをした天野の横顔を見た。
シルクに似た白い首筋に対比して艶のある黒い髪は窓から入って来る風を優しくなびかせた。それに僕は知っていた。天野は少し風邪気味で鼻をズルズルと鳴かせている事、その所為で鴨の様にくしゃみをしたのだ。
ドクん、ドクん、ドクん。
僕は再びまぶたを閉じた。実は授業が始まった時から聞こえているのだ。 決して無音ではないこの教室にはもちろん、教師の声と生徒が動かすペンの音はさざ波であって響いて来るが、僕の耳にはその鈍い声は止まなく語りかけて来る。
ドクん、ドクん、ドクん、ードクん。
これは僕の怖じ気付いた寂しい心。嗚呼、知っているともこの平常ではいられない異様な濁音。
ドクん、ドクん。
額には汗が浮き出て微熱が蒸気を出す。身体中が熱い。僕は決心した、この火照った体温はもう下がらない。そんな事を知らず、天野は鴨のくしゃみをカァーンと鳴いて筆箱を落とした。
天野は放課後、グラウンドの見える高台で僕には分からないピカピカと銀に光る楽器を吹いていた。僕は彼女に近づき、彼女に向かって身体をかがめた後に摂氏99℃に熱したトマトを僕の胸からえぐり出し両手で渡す。ジュージューと音を立て赤い湯気をモクモクとあげる。そして甘く熟した所為かドロリと溶けようとしている。
それを見て天野は恥ずかしそうに頷いて、その僕の手から熱したトマトを受け取り飲み込んだ。熱い所為か少しコホコホとむせて咳をするがゆっくりと舌を動かし堪能していて僕も何だか恥ずかしかった。
そうして彼女は顔を赤らめて笑い、彼女も胸をえぐり出して摂氏99℃に熱したトマトを僕に両手で差し出した。
トクん、トくん、トくん。
天野の濁音は僕と違って可愛い声だった。そしてその、とろけた熱いトマトは非常に愛おしく永久に忘れられない彼女の返答であった。
すると天野はカァーンとくしゃみをして隣の山まで聞こえる程に大きく鳴いた。
摂氏99℃に熱したトマト