戸田恵梨香の歯ぐき

戸田恵梨香の歯ぐき

※この作品は当然フィクションです。

 戸田恵梨香の歯ぐきが気になって夜も眠れない。 
 気になりだしたのは数日前、彼女がバラエティー番組に出ているときだった。
 海パン姿の芸人が持ちギャグを披露してスタジオは笑いに包まれた。
 恐ろしく低俗なギャグだったが彼女も笑った。周りの空気を柔らかくするような笑顔、日頃の嫌なことを忘れさせてくれる癒しだ。
 カメラが戸田恵梨香にズームインした瞬間、口元からにゅっと〝あいつ〟が現れ、ぼくは目を疑った。な、なんだあの赤いのは。CGか? いや、違う。それはまぎれもなく戸田恵梨香の一部(歯ぐき)だった。
 考えだしたらどうも気になり、今日で丸二日寝ていない。零時前に床につくが、あの歯ぐきがまぶたの裏にちらついてひどく息苦しい。
 たまらず布団を跳ねのけ、台所へ歩いた。冷蔵庫を開けて牛乳を飲む。リラックスするには昔からミルクがいいと聞く。創業百八年。安心安全の老舗、平成乳業の濃厚牛乳。うん、確かに濃厚だ。飲みなれた味にほっと息を吐いた。
 ふと、彼女も眠れずに牛乳を飲んでいるのかもしれないと思った。
 眠れずに飲む、眠れずに飲む、眠れずに飲む……。
 自身演じるデスノートのミサミサを観ながら「やっぱあたしってイケてるわー(勝手な想像)」と言いながら飲む。
「佐野なんちゃらには百年はええよこの芋ブスがよー(同じく勝手な想像)」と言いながら飲む。飲みまくる。結果、歯ぐきが伸びる。伸びてしまう。
 牛乳好き(おそらく)の奥菜恵も最近顔が長くなってきたし、大林素子に至ってはなんかもう全身伸びちゃってるし、きっと牛乳の飲みすぎだろう。間違いない。
 ひとり納得して寝室に戻った。灯りをつけ、壁に貼ってある戸田恵梨香のポスターを見つめる。つややかな髪に愛くるしい瞳、整った鼻梁に透き通るような白い肌、そして熟した果実みたいにみずみずしい唇。どれをとっても完璧だ。それなのに……それなのに歯ぐきがあんなにも長いなんて。ああ神様。思わず天井を見あげた。
 いまからでも遅くない。牛乳を、いやカルシウムを摂取するのをやめさせなければ。
 いてもたってもいられず携帯電話で戸田恵梨香の事務所を調べる。住所をメモするとパジャマから外出着に着替えた。
「ぼくがとめてみせるよ」
 語りかけるとポスターの中の彼女は歯ぐきを見せ、嬉しそうに微笑んだ。

 晩秋の夜風が火照った体に心地よい。だいぶ興奮しているのかもしれない。
 夜空を見上げると北東にひときわ輝く星があった。きっと願いが叶う希望の星だ。エリカ星と名づけ、期待を胸に抱きつつ、大通りに出るとタクシーがくるのを待った。目指すは港区、南青山だ。
 五分ほどしてようやくタクシーの灯りが見えてきた。乗り込み、運転手に行き先を告げる。すぐに車が動き出し、安堵してシートに背中をあずけた。タクシー特有の、あの匂いを含んだ空気を肺いっぱいに吸い込みながらぼくは戸田恵梨香を夢想する。
「ちょっと、ラジオつけますねェ」
 運転手がこちらに断りを入れると、すぐにアイドルの軽薄な歌が流れてきた。上手いのか下手なのかよくわからん歌い方だ。
 コイツらの存在など彼女の足元にも及ばない。ていうかコイツらの歯ぐきが伸びればよかったのに。もともとブサイクの集まりなのだ、いまさら歯ぐきが伸びたところでなにも変わりはしないだろう。むしろ歯ぐきが伸びれば他のブサイクな部分とバランスが取れるってもんだ。未来のアイドル界を憂い、ひとつ息を吐いた。
「運転手さん、牛乳はお好きですか」
「はい?」
「牛乳ですよ、牛乳。白くて給食によく出る」
 初老の運転手はこちらを一瞥し、「ええ」と短く答えた。
「牛乳おいしいですねェ、寮の冷蔵庫に切らさないようストックしてありますよ。わたしらの子どものころはいまみたいに味が良くなくて脱脂粉乳でしたから。もう臭くてね、みんな鼻つまみながら飲んでましたよ」
「へえ、それは大変だ。罰ゲームみたいですね」
「そうですねェ。でも、あの時代はほかに栄養のあるものが少なかったですから脱脂粉乳のおかげで骨太な体になりましたよ」
 運転手は小さな声で笑う。口元に目をやると歯ぐきは出ていない。横顔のEラインは美しく、ぼくよりも整っているくらいだ。
「お客さんもよく飲まれるんですか」
「は?」
「牛乳ですよ。見たところ上背もあるし、小さいころからよくお飲みになったんじゃないですか?」
「ええ、まあ」
 視線を下ろした。百八十の一部である手足が見える。この体を作ってくれた牛乳に感謝すべきなのだろうが、それでも戸田恵梨香の歯ぐきを伸ばしたという罪は許しがたい。くそ、牛め。
「お客さん、明石家さんまって知ってます?」運転手がどこか得意げに言った。
「ええ、お笑いのですよね」
「わたしねェ、何回か乗せたことあるんですよ。新宿で」
「へえ、そうなんですか。すごいじゃないですか」
「もう三十年近く前の話ですけどね、ちょうど彼が笑っていいともに出だしたころだったなァ」
 赤信号で車が停まった。料金メーターがカチリ、と動いた。
「やっぱり売れっ子は大変みたいでね、よく後ろで食事してましたよ。一緒に乗り込んだマネージャーがおにぎり渡したり、バナナ渡したり。売れて人気者になるのはいいけど、あんな生活わたしには無理だなァ」
「牛乳は飲んでなかったんですか」
「え?」
「牛乳ですよ。そのときさんまは牛乳を飲んでなかったんですか?」
「ああ。そういえば飲んでましたね、ほら紙パックの小さいやつ。動く車内でストローさすの大変だとか言ってましたよ」
 やはり彼も牛乳好きなのだ。忙しい日でも飲んでいるのだから休日はもっと飲んでいるに違いない。ガバガバゴクゴクプハー。口元はもう伸び放題だ。
 どうしたら歯ぐきの成長を止めることができるのか。無い知恵を絞り思案していると、車が再び動き出した。
「そういえばお客さん、こんな話知ってます?」
「は?」
「いまねェ、タクシー業界でちょっとした噂になってるんですが、最近ここらへん出るんですよ」
「出るって?」
「幽霊」
「うそだァ」
「いやそれがね、どうも本当らしいんですよ。わたしの会社に万城目っていうそりゃあもう生真面目がハンドル握ったようなやつがいるんですがね、そいつがこの前真っ青な顔して帰ってきたんでどうしたんだって訊いたら幽霊を乗せちまったって震えながら言うんです。始めのうちはみんな〝見間違い〟だの〝下手な冗談〟だの言ってたんですがね。ところがほかの会社でも万城目と同じように幽霊を見た、乗せたってやつが現れて。もうここら一帯じゃ出るっていうのが定説になりつつありますよ」
「はあ」
「あれ? お客さん、そっちの方はあまりお好きじゃないですか」
「非科学的ですからね。そういうのを声高に言うと怪訝な顔されますよ」
 興味なさそうに返事をすると、運転手は困惑気味な顔をしてそれきりしゃべらなくなった。まるで年頃の娘に話しかけて無視された父親みたいに口を閉ざしている。
 申し訳ないがと心で呟き、車窓を眺めた。点在する街燈の()が糸を引き、後方へ流れていく。
 目に見えない幽霊よりも目に見える歯ぐきだ。可愛い笑顔を台無しにしてしまうあの長い歯ぐきだ。そっちのほうがよっぽど重大だろう。――なあクラリス、そう思わないかい?
 金曜の夜のわりに道はすいており、車は順調に突き進んだ。しばらくいくと青山通りに入り、そこから外苑東通りに右折する。あと数百メートルで彼女の事務所が見えてくるはずだ。鼓動が高鳴り、体が強ばる。もし戸田恵梨香に会えたらなんていおう?
「歯ぐきの伸びる人生に終止符を打ちませんか?」
「youカルシウム摂るのやめちゃいなよ」
「歯ぐきが好き勝手する時代はもう終わったんだ。さあ、ぼくと一緒に新時代の幕を開けよう」
「あなたの歯ぐきが短ければこの世から戦争がなくなりますよ」
 どれも彼女のことを想った素晴らしい言葉だ。きっと彼女は感激して咽び泣くに違いない。ずっとこんな人を待っていた、と。
 車が減速して路肩に停まった。提示された金額を支払い、タクシーを降りる。
 地上十二階建、グレーの洗練されたビルがぼくの目に映った。素晴らしい。思わず言葉が漏れた。この無駄のない都会感こそ彼女が所属する事務所にふさわしい。
 天井から白い光が降り、エントランスはそこだけ別の空間のように浮かび上がっている。ふらふらと吸い寄せられるように中へ入った。正面の壁に金属製の案内板がかかっており、事務所はこのビルの最上階らしい。ひんやりとした案内板を指先でなぞったあとエレベーターを探す。向かって右の奥に大型の観葉植物があり、その隣がエレベーターホールになっているようだった。
「ちょっとあなた、何か御用?」
 足を踏み出そうとしたとき、後ろから声をかけられた。振り向くと中年の警備員が値踏みするようにぼくをにらんでいる。救世主に向かってなんて失礼なやつなんだ。
「は?」
「は、じゃなくてここは関係者以外立ち入り禁止だよ。あなた関係者? 違うよね。こんな遅くに人がくるなんて連絡受けてないし」
「ぼくは戸田恵梨香の救世主です」
「戸田恵梨香? ああ、ファンの方? こんな時間にきてもいるわけないでしょうに。しょうがないなァ、ちょっと失礼するよ」言い終わらないうちに男が体をまさぐってきた。
「ちょっと」
「ボディーチェックです。わたしもね、これが仕事なんでスミマセンがご協力願います。結構ねェあるんですよ、いきなり夜中の二時にきてお弁当作ったんで食べてくださいとか、これ○○さんに飲んで欲しいんですけどってペットボトル持ってきて中身調べたら尿だったりとかね。本当おかしな世の中になってしまったみたいで。ちょっと万歳してもらえます? そうそうまっすぐ腕を伸ばして。はい、じゃあ調べますよォ――――うん、特に危険なものは持ってなさそうだ」
「当たり前じゃないですか、ぼくは彼女の救世主ですよ」
「身分証とかお持ちじゃないですかァ? 免許証でも保険証でもいいんで」
 どこまで疑えば気がすむんだ。ムッとしながらも財布から保険証を取り出して男に渡した。
「城石さんね、城石誠さん。歳は昭和六十三年生まれの二十七歳、と」
「そうです。戸田恵梨香と同じ、辰年生まれの二十七です」返された保険証を財布にしまいながら答えた。
「で、今日はどんなご用件で」
「彼女を救いにきたんです」
「彼女?」
「戸田恵梨香です」
「その戸田さんとはどういうご関係?」
「ですから救いにきたんです」
「救いにって、具体的にどういうことですか?」
「彼女を歯ぐきの魔の手から救いにきたんです」
「あんたさっきから何言ってるの」
「おかしいですか」
「ええ、ひどくおかしいです。言ってることが支離滅裂だ」
 男はため息をつきながら困ったように肩をすくめた。
「彼女はいつごろこちらに出向きますか」
「わたしは知りませんよ。まあ仮に知っていたとしても誰にもお教えできない規則になってますけどね」
「それは守秘義務というやつですか」
「平たく言えばそうなりますね。警備員も楽な仕事じゃないんですよ」
「それならいますぐ辞めたらいいじゃないですか」
「なにを?」
「警備員の仕事」
「どうして?」
「そうすればここを通れますから」
「いや通しませんよ」
「ちょっと誰かーッ!」
「お兄さん大きな声出すのやめましょう」
「なんで?」
「なんでって、いま夜中ですよ」
「近所迷惑ですね」
「わかってるならやめましょうよ」
「ええ」
「とにかくお引き取り願います。いくら待ってもここにはきませんよ」
「戸田恵梨香ですか」
「そうです、戸田恵梨香さんはきません」
「可愛いと思いませんか」
「戸田さんですか?」
「そうです、戸田恵梨香です」
「とても美人だと思いますよ。中年のわたしからみても魅力的だと思いますが」
「そうでしょう」
「ええ」
「どこかおかしいと思いませんか」
「あなたがですか?」
「ぼくじゃありませんよ、戸田恵梨香です」
 男はまゆを寄せ、考える仕草をしたあと、「いえ、特に思いませんが」と答えた。
「歯ぐきが長いと思いませんか」
「歯ぐき?」
「そうです、歯ぐきです。とっても長いでしょう」
「いやァどうだろう。それも彼女の魅力のひとつなんじゃないですか?」
「そうですか」
「と、思いますよォ」
「彼女って言わないでもらえますか」
「はい?」
「いま言ったでしょう、戸田恵梨香のこと彼女って」
「ええ」
「やめてください」
「どうして」
「だってあなたの彼女みたいに聞こえるじゃないですか」
「そう――ですか?」
「聞こえますよ。ていうか彼氏じゃないですよね、ただの中年警備員ですもんね」
「警備員馬鹿にしないでもらえます? わたしはこれでもこの仕事に命かけてるんですから」
「へえ」
「あ、その顔は馬鹿にしてるな。いいですか、うちの家系は先祖代々警備員をやってるんです」
「そんな昔からあるんですか」
「ええもちろん。古くは江戸中期、地元を統治する蘇我恒之が――」
「その話長くなりますか」
「ええ」
「でしたら結構です」
「あんた自分の話はするくせに人の話は聞かないんだな」
 カチンときたのか警備員がこちらをにらむ。ぼくも負けじとにらみ返す。少し肌寒い深夜、にらみ合う救世主のぼくと代々続く警備員のおっさん。
 遠くで犬の鳴き声がする。わおーん、わおーん、わおーん。WAONはイオンのカードだよーん。そんなどうでもいいことを思っていると男が諦めたように息を吐いた。
「ここにいてもカノ――戸田さんはいらっしゃいませんよ」
「じゃあどこに行けば会えるんですか」
「そんなことわたしは知りません」
「そんなことってなんだよッ!」
「いきなり大声出さないでくださいよ、びっくりするじゃないですか」
「あなたが他人事のようにいうからでしょ」
「だって他人事だもの」
「あなただって好きなアイドルが危機的状況に置かれていたらいてもたってもいられなくなるでしょう」
「まあそうですが」
「当ててあげましょうか、あなたのアイドルは天地真理だ」
「古すぎでしょ、わたしまだ四十三ですよ。キムタクと同い年」
「嘘をつくなッ、貴様ァそれでも軍人かッ」
「いや嘘をついてもいないし、軍人でもありません。わたし警備員です」
「ああ、そうでしたね」
「大丈夫ですか?」
「なにが」
「いや、頭のほうがちょっと」
「ああ? マジふざけんな、ぼくは戸田恵梨香の――」
「救世主ですね。ええ、何回も聞きました」
「そうですよ、彼女を救いにやってきたんです」
「歯ぐきを治しに、ですか?」
「そう、彼女の美しい笑顔に似合わないあの憎き歯ぐきを治しにね」
「へえ、歯科医師かなにかですか」
「いや」
「じゃあ整形外科医かなにか?」
「それも違います」
「え? 歯科医師でもなければ整形外科医でもない? じゃあどうやって憎き歯ぐきを治すんです? 無理じゃないですか」
「そ、それは」
 警備員の男がニヤリと笑んだ。どこか勝ち誇ったような笑みだ。虫歯なのか前歯の下半分が黒く汚れている。なんだその歯は。なめてるのか。
「結局口だけじゃないか。よくいるんだよなァ最近の若者に。講釈は立派だけど実が伴わないというかなんというか。そういうやつに限って投票にも行かないくせにいまの政治家はなってないとか平気で文句言うんだ」
「うるせえッ! 黙って聞いてりゃなんだその言い草は! ええ、おいコラ。おっさんはあれだろ、ベッドの下に隠してたエロ本を母親に見つかって、なぜかそろえられて机の上に置かれてたクチだろ」
「は?」
「デラべっぴんなのにブスが載っててふざけんなって言ってたクチだろ」
「なんですかそれ」
「そういう顔だその顔は。この北京原人めが」
「はいはい、もうね何とでも言ってください。とにかくここに戸田さんはおりませんからお引き取り願います。わたしだって暇じゃないんだから」
 男は言いながらぼくの腰をつかみ、エントランスの外に押し出そうとしてくる。さすが北京原人、すごい力だ。
「わかりました、じゃあ取引しましょう」
「取引?」
「警備員のあなたにとって有益な情報をぼくが提供します。それで戸田恵梨香がくるまでここにいさせてください」
「いや、そういうわけには」
「まだマスコミでさえも把握していない、ものすごく重要なことですよ。テレビ局や出版社に持ち込めば一生遊んで暮らせるだけの金が手に入るかもしれない」
「本当に?」
「本当です」
 男はまた考える仕草をする。もうひと押しだ。
「じゃあこうしましょう。もしも提供した情報が大したことなかった場合、ぼくはこのまま引き下がります。あなたはそれを聞いたあとに判断すればいい。どちらにしても損はないはずだ」
 男の目の色が変わった。ぼくは辺りを見回して、「込み入った話になるのでここではちょっと。警備員室とかありませんか? そこでゆっくりお話します」と告げた。
 男はうなずき、エレベーターホールとは反対側に歩き出した。ついていくと安普請の扉の横、ガラス窓から蛍光灯の鈍い光が漏れ、床を寂しく照らしている。ここです、と男が言い、鍵を開けて中に入った。
「まあ何もないところだけど座って」
 窓に正対するようにグレーのスチール机が置かれ、周りに小さな丸椅子が二つあった。奥に書類ケースを並べたような本棚があり、その前に単身者用の冷蔵庫とテレビが置かれてこちらを向いている。返事をしながら椅子に腰掛けた。
「それで?」
 男の双眸がぼくを捉える。その目を見ながらまゆを寄せると彼はやきもきしたように口を開いた。
「先ほどの話ですよォ、警備員のわたしにとても有益な」
 ああ、と声を出して椅子に座り直した。
「警備員さんはニュースをご覧になられますか?」
「ニュース、ですか?」
「ええ、ニュースです」
「もちろん見ますよ。職業柄、世の中のことを知っておく必要がありますからね」
「印象に残った事件はありますか」
 男が考えるように首をかしげた。
「そうですねェ、もう数年前になりますが秋葉原の事件ですかねェ。当時わたしは隣区にあるビルの警備を任されていたんですがあれは衝撃的でした。それまで簡易な警棒すら持たされていなかったのですが、事件以降カーボンスチール製の特殊警棒を携帯するようになりましたから」
「へえ」
「いつ何時暴漢に襲われるとも限りませんからねェ、ほらいまもこうしてここにありますよ」
 そう言うと男は右腰をこちらに見せる素振りをする。警棒の黒いグリップがてらてらと光った。
「ほかに印象に残っている事件はありますか」
「ほかにですか」
「ええ」
「そうだなァ――、そう言われると特にこれといったものは」
「振り込め詐欺は気になりませんか」
「振り込め詐欺って息子や孫を騙ってお年寄りを騙す、アレですか?」
「そうです。お年寄りを騙す、アレです」
「ああいうのはいやだねェ。弱い年寄りを騙すのもそうだけど、楽して金を儲けようなんていう考えが一番ね。金は労働の対価としてもらうべきなんだ」
「昨日も板橋区のほうでお年寄りが騙されたらしいじゃないですか」
「そういえば同僚が言ってました。まったく、ひどいことを考える連中だ」
「三百万も渡してしまったようです」
「ひゃあ、すごい額だ。わたしの年収とあまり変わらないな」
「黒幕は誰だかご存知ですか」
「黒幕?」男は少しだけ目を開いた。
「ええ、振り込め詐欺の黒幕です」
「そりゃあ暴力団とか、そういう反社会的な組織じゃないのかい?」
 ぼくは首を横に振る。男が口を尖らした。
「もし暴力団が黒幕なら警察はすぐに捕まえてますよ。叩けばいくらでもホコリが出る組織ですから無理にでもガサ入れすればいいだけです。でもしない。なぜかわかりますか?」
 今度は男が首を横に振った。早く答えを教えろ。濁った両目がそう言っている。
「黒幕は〝日本政府〟なんですよ」
「政府だってェ?」
「ええ」
「本当ですか」
 男が信じられないという顔をする。つばを飲み込んだのか、隆起した喉仏が大きく上下した。
「でも、なぜ政府がそんなことを」
「景気を回復させるためです」
「景気回復?」男の薄い唇が小さく動いた。
「国民の蓄え、いわゆるタンス預金は百兆円に上るといわれています。しかしほとんどの国民は先行き不透明な景気のせいでそれらを使おうとしない。当然といえば当然です、いつ仕事を解雇されるかわからない時代ですから。結果、経済の循環が悪くなり、さらに不景気になる。そこで考え出されたのが振り込め詐欺です」
「無理にでもその金を引っ張り出して循環させようということか」
「政府と警察、それに一部のマスコミも共犯になり、国民を騙しているというわけです。不思議に思いませんか? これだけテレビや新聞で騒がれているのに被害が減るどころかむしろ増えている」
「もう十年以上前からある事件なのに撲滅できないのはたしかに変だ」
 ぼくはゆっくりとうなずいた。
「サブリミナル効果ですよ」
「サブリミナル?」
「ええ」
「サブリミナルって観ている者にはわからないようにこっそり仕組む、アレかい?」
「報道するほど被害が拡大するのはニュース映像に〝年寄りは騙されろ、金を振り込め〟とメッセージが忍ばせてあるからなんです」
「まさか」
「だっておかしいじゃないですか、電話がかかってきただけで簡単に何百万も振り込んだり渡したりしてしまうっていうのは。老人もそこまで馬鹿じゃない、普通は疑いますよ」
「確かに言われてみればそうかもしれないな。長く生きている人たちだ、きっとわたしたちよりも多く知恵を持っているはずだからね」
「暇な年寄りほどよくテレビを観ている。政府はそこに目をつけたんです。四六時中サブリミナルが流され、知らないうちに洗脳が進んで金を騙し取られるという寸法です」
 男が悔しそうに顔を歪めた。警備員としての使命だろうか。ずいぶん正義感の強いおっさんだ。
「そう考えるとすべてが合致するんです。年寄りは貯め込むばかりで金を使いませんからね。景気回復を図る政府からすれば悪といえるかもしれない。現に振り込め詐欺が問題になる前と比べるとわずかづつではあるが景気は良くなってきている」
 男はまた首をかしげ、短く息を吐いた。
「あなたの憶測じゃないんですか」
「事実です。だからいまも騙され搾取される老人があとを絶たない」
「でも」
「今度ニュース番組を録画してコマ送りしてみてください。はっきりと出ますよ。政府が仕組んだメッセージが、ね」
 じっとぼくを見つめていた男はこんを詰めたように息を漏らした。どこか落ち着かない感じで顔を左右に動かしたあと、納得したのかうんうんとうなずいた。
「なにかお飲みになりますか」
「は?」
「飲み物ですよ。もうすこしお話を聞きたくなったので」
「ああ、では冷たいものを」
 男は棚からコップをふたつ取り出すと机の上に置き、後ろにある冷蔵庫の扉を開けた。
「こんなものしかありませんが」
 男が持ってきたのは平成乳業の濃厚牛乳だった。思わず心のなかで舌打ちを鳴らした。
「牛乳、ですか」
「ええ、好きでよく飲むんです。小腹がすいたときにも使えますから。あ、お嫌いでしたかな?」
「いえ、そういうわけじゃ」
 じゃあいいですね。呟くと男はふたつのコップを白い液体で満たした。
「どうぞ」
 こちらに勧めるなり彼は右手に持ったコップに口をつける。喉を鳴らし、あっという間に飲み干した。
「やはり牛乳は冷たいうちに一気飲みするのが一番だなァ」
 男は満足げに微笑む。牛乳。戸田恵梨香の歯ぐきを伸ばす憎き飲み物。見つめているとだんだん腹が立ってきた。察したのか、どうかしましたか? と男が声を出した。
「こんな下品な飲み物をよく飲めるな……」
「はい?」
「牛の乳ですよ? 現代人が飲むべきものではない」
「いやおいしいですよ」
「うまいわけないじゃないかッ、これは悪魔の飲み物だ」
「いきなりどうしたんですか、すこし落ち着いてください」
 男が肩をすくめる。その滑稽なポーズに思わずかっとなり、牛乳がなみなみと注がれたグラスを手で払いのけた。机の上は白く染まり、グラスは床に落ちて割れた。
「ちょっとあんた、なにすんの」
「うるせえッ牛乳なんて出すほうが悪いんだ!」
「はあ? もうなんだよ。あーあ、ひどいなァ。なにか拭くもの持ってこないと」
 男が席を立つ。黒光りする警棒が目に入り、咄嗟につかむとホルダーから引き抜いた。「あっ」と男が声を上げてこっちに振り向く。ぼくは素早く警棒を伸ばすと男の脳天に振りおろした。ゴツっという鈍い音と感触が手を伝わり、短い悲鳴が部屋に響いた。
「牛乳なんかなァ、牛乳なんかこの世からなくなっちまえばいいんだよ。そうすりゃ戸田恵梨香の歯ぐきだって伸びることなかったんだからよォ」
 牛乳牛乳と叫びながら男の体に警棒を振りおろした。十分ほど殴り続けただろうか、気がつくと男は泥人形のように固まっている。息を吐いて警棒を床に放ると急いで窓のカーテンを閉め、そのあとドアの鍵をかけた。男の生死を確認して警備服を脱がせる。すべては彼女を魔の手から救うためだ。これは救世主であるぼくの使命なんだ。呪文のように唱え、上着を脱ぐと警備服を羽織った。ズボンを穿き、警棒を拾って腰に装着する。制帽をかぶって灯りを消すと廊下に出た。目指すは最上階、戸田恵梨香の事務所だ。はやる気持ちを抑えながらエレベーターホールに急いだ。下降ボタンを押し、待ってるあいだに制帽を深くかぶり直す。もうすぐだ、もうすぐ彼女に会える。ゆっくりとランプが下がってくる。息を整えながらオレンジ色のランプをじっと見つめた。
「あ、おはようございます」
 後ろから挨拶を受け、反射的に振り向いた。廊下の角から同じように警備服を着た少年が笑顔で歩いてくる。十代後半くらいだろうか、頬にいくつかニキビが浮かんでいる。
「おはよう、ございます」
 おそるおそる挨拶を返す。逃げるべきかどうか脳みそをフル回転させた。男はこちらの神経を逆なでするように屈託なく微笑んだ。
「おれ、今日から配備された吉見と申します。えーと、佐藤さんですよね?」
 佐藤? 中年警備員の名前だろうか。パンツ一丁で床に倒れている男の姿が脳裏に浮かぶ。動揺を悟られないよう、静かに「ええ」と答えた。すると、
「まだ十八の若輩者ですがよろしくお願いします」
 彼が右手を伸ばしてくる。しかたなく作り笑いをして指先で軽くにぎった。
「これから巡回っすか?」吉見と名乗った彼が興味深く訊いてくる。
「ああ、とりあえず最上階から下に向かって見てこようかと」
 もっともらしいことを言い、なるだけ目を合わせないよう正面にあるパネルの光を見つめた。
「おれもご一緒していいですか? ひとりだと何していいかわからないんで」
 ドアが開いた。乗り込んで最上階のボタンを押す。扉が閉まり、ゆっくりと鉄の箱が上昇していく。
「佐藤さんはもう長いんですか」
「は?」
「警備の仕事ですよ、長い感じなんすか?」
「まあ、ね」
「へえ。道理で制服が似合ってるわけだ」
 少年に言われて視線を落とした。先ほどまで男が着用していた警備服、そんなに似合っているのだろうか。
「佐藤さんって四十代には見えないっすよね」
 どきり、とした。少年が続ける。
「入社した時に部長から佐藤さんは四十三だと聞いたもんで」
「……若いってよく言われる。あまり日に当たらないからかも」適当に嘘をついた。
「やっぱり紫外線って良くないんすかねェ、おれの兄貴もサーフィンが好きで暇さえあれば海行くんですけど皺とか多いですもん」
 へえ、と気のない返事をして早く目的の階につくことを願った。
「初めて見る友達とかにお前の兄貴って松尾伴内かよってツッコまれますよ」
 そう言って少年はけらけらと笑う。いったい何が面白いのだろう。箱が止まり、電子音がして扉が開いた。
「じゃあぼくはこっちを巡回するから、君は向こうを見てもらえるかな」
「了解っす」
 少年はおどけながら敬礼すると左手に伸びる廊下を歩いていく。姿が見えなくなったのを確認して彼女の事務所を探す。薄暗い廊下を右に歩くとすぐに部屋が見えてきた。頑丈そうなドアに事務所の名前が書かれたプレートが貼り付けられている。左右を確認し、ドアノブに手を伸ばした。当然のように鍵がかかっている。ドア横のインターホンを押してみたが誰かが出てくる様子はない。短い時間考え、関係者が出勤してくるまで巡回するふりをしようと歩き出した。
「見ましたよォ」
 暗がりから声がして、先ほどの少年がニヤニヤとした顔で歩いてくる。
「いいんですかァそんなことしてェ」
 見られた。まずい。咄嗟に腰の警棒に手を伸ばした。グリップを握り引き抜こうとした瞬間、少年がまた口を開いた。
「佐藤さんも芸能人好きなんすねェ」
「……」
「やっぱあれっすか? 広末っすか」
 広末? 広末涼子も同じ事務所なのだろうか。
「いや、戸田恵梨香」
「ああ、そういえば戸田恵梨香も同じ事務所でしたね。デスノートのとき、めっちゃ可愛かったですよね」
 〝可愛かった〟。なんで過去形なんだと心の中で文句を言いつつも「可愛いよね」と相槌を打ち、ぼくはこの少年を利用しようと思い立った。
「会ってみたくない?」
「え、戸田恵梨香ですか?」
「そう。それに広末と、えーとあとは」古畑任三郎よろしく、眉間にしわを寄せて考えるふりをする。
「もしかして有村架純っすか?」彼が食いついた。
「そう。その有村にも会いたいだろ?」
 彼は満面の笑みで、「マジっすか」と答える。
「事務所に知り合いとかいるんですか?」
「まあ、ね。警備の仕事を長くやってるとそっち関係の人たちとも仲良くなれるんだ」
「へえ、なんかスゲーすね。アイドルの警備頼まれてそのまま恋に落ちちゃうとかもありそうっすね」
「そうだね」ぼくは頭の中で〝戸田恵梨香との幸せな新婚生活〟を思い浮かべながらうなずいた。
「合コンとかやるんすか?」
「合コン?」
「芸能人とですよ。やべえ、なんかスゲー楽しそうっすね」
 いやらしいことでも想像しているのだろう、少年の口元がにわかに崩れる。
「いつやるんすかァ? マジで参加したいんですけど」
「一応、今度の日曜に予定してるよ。でも参加人数は決まってるからなァ」
「えー、マジっすか。なんとかなりませんか?」
「んーそうだな、ぼくの言うことを聞いてくれたら考えてあげてもいいけど」
「聞きます聞きます。なんですか?」
 ぼくは左右を見回す振りをして、
「泥棒のふりをしてくれないか?」
 と告げた。彼の目が丸くなる。
「泥棒、ですか?」
「そう、泥棒」
 え、と彼が狼狽える。目が泳ぎ、心なしか頬がヒクついている。所詮はまだ十代のガキだ。
 キョドっている彼の肩に手を回し、
「なあにそんなビビることじゃない。事務所の鍵を壊してくれるだけでいい、簡単だろ?」
「いや、でも」
「合コン、したいんだろ? 楽しいぞォ、彼女らは頭もいいから会話がめちゃくちゃ弾む」
 少年の視線が揺れた気がした。ぼくは彼の肩を強くつかみ、
「彼女らは忙しいしマスコミにも追われてる。だから普段はデートなんてしたくてもできないんだ。フライデーされるとファンが減るし、事務所にとってもマイナスだ。でも彼女らも俺達と同じ人間なんだよ。言ってる意味わかるだろ?」
「欲求不満ってことっすか?」彼の目が輝いた。
 口元だけで笑いながらうなずくと彼も同じように微笑んだ。
「男に飢えてるんだよ。特に君みたいな若い子にさ」もちろん大嘘だ。
「やります、やらせていただきます」
「そうだその調子だ。その調子で有村架純もお持ち帰りだァ」
 そうたきつけると少年がうおおおお、と叫んで腰を振り始めた。馬鹿野郎、声がでかいよ。そしてなんだその動きは。周囲を見回し、誰も来ないことを確認して胸を撫で下ろした。
「警棒は持ってる?」
 少年はうなずき、「これっすね」と腰のホルダーを触る。
「グリップでドアノブを叩き壊してくれ」 
了解(ラジャー)
 彼はふんふん歌いながらドアに近づき、なめらかな動作で警棒を引き抜いた。
「おれ、調布駅前にあるゲーセンのワニワニぱにっく、歴代一位なんすよ」
 少年は言いながら警棒をドアノブめがけて鋭角に振り落とした。すぐに甲高い金属音が狭い廊下に響く。何度か繰り返すと突然、ガコンと何かが外れる鈍い音がした。仁王立ちしている彼の肩ごしから覗くとドアノブは無残に壊れ、だらんとコウベを垂れている。なんとも情けないその姿は使い物にならなくなったおっさんのポコチンみたいだ。
「楽勝っすね、これで架純ちゃんお持ち帰りできるなんておれってめっちゃラッキーボーイ」
 ラッキーボーイ、ラッキーボーイと連呼している少年をどかして扉を開けた。キイィという音の先、夢にまで見た戸田恵梨香の事務所が現れた。
「へえ、売れっ子抱えてる割には意外と狭いもんすね」
「ああ」
 鼓動が高鳴った。ここを彼女が出入りしているのかと思うと興奮して股間が熱くなってくる。震える指先で蛍光灯のスイッチを押した。このスイッチももしかしたら彼女が触ったものかもしれない。よし、舐めてしまおう。スイッチをペロペロし、気持ちを落ち着かせてから足を踏み入れた。
 床は大理石調で狭いながらも金がかかっているように見えた。さすがは一流事務所だ。靴底をすべらせながら奥に進むと部屋がふたつあり、右が事務室、左がベッドルームになっている。
「うほほォー」
 少年が獣じみた雄叫びをあげてベッドに飛び込んだ。
「すげえフカフカっすよ。やっべ、チョー気持ちいい」
 戸田恵梨香も体を横たわらせたかもしれないベッドを先に触られ、無性に腹が立った、がそんなことよりも彼女を憎き魔の手(歯ぐき)から救うほうが先決だ。どうすれば戸田恵梨香と連絡を取れるか考えた。
「佐藤さんも寝転がってみないすか。めっちゃいい匂いしますよ」
 少年が枕に顔を埋める。バカ野郎、心が揺れるだろ。いまはそんなことをしている場合じゃないんだ。いい匂いなんて……いい匂いなんて……。ぎゅっと目をつむると、全裸で笑顔の戸田恵梨香がぼくに手招きをした。
「恵梨香ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!」
 気がつくとぼくはベッドに飛び込んでいた。柔らかな感触に乗り、花畑のような優しい香りが鼻腔に入り込む。あっという間にぼくの股間は教師ビンビン物語になってしまった。
「さすが佐藤さん、そこにしびれるッ! あこがれるゥゥ!」
 少年が人気漫画のセリフを真似てケタケタと笑う。
 恵梨香ァァいいよいいよォォ最高だよォォ恵梨香のピンク色したピー(自主規制)も濡れそぼったピー(同じく自主規制)もぜんぶぼくのものだァァああもう我慢できないよォォいくよいくよォォぼくのすべてを受け止めてくれェェ。
 激しく腰を動かし、股間をこすりつけると少年の笑い声がひときわ強くなった。
「もう佐藤さん最高っすわ。こんなに笑ったの久しぶりっす」
「いやぁ恥ずかしいところを見せちゃったね。戸田恵梨香のことになるとちょっと普通じゃいられないんだ」
「その気持ちわかります。おれも有村架純のこと考えるともう」
 少年はくううゥゥと言いながら枕にブツを押し付ける。なかなかの変態だ。しばらく戸田恵梨香&その他のタレントの匂い(たぶん)を堪能し、ぼくはベッドから起き上がった。
 事務室にいき、ひとつずつ抽斗(ひきだし)を漁る。彼女につながる手がかりがきっとあるはずだ。
「そういうのはちょっとやばくないすか?」
「なにが」
「いや、さすがにそこまでは」
「ビビってるのか? 器物破損に不法侵入、いまさら罪が一つ増えたところで大差ないだろ」
 少年が現実を直視したのか、みるみるうちに顔が青ざめていく。やはりガキだ、肝心なところで怖気づく。ふんと鼻を鳴らし、ぼくは漁る手をさらに早めた。アパレル関係の領収書、花輪の注文票、何に使うのかわからない紙の束が入った抽斗もある。すべての抽斗をひっくり返したが彼女につながるものは発見できない。舌打ちを放ってデスクに目を落とすと白い固定電話があった。もしかしたら。登録ボタンを押すと液晶画面にタレントの名前と番号が表示された。た行まで進めると〝トダエリカ〟の文字が目に飛び込んできた。
「ビンゴォッ」
 ぼくは叫んだ。その様子に少年がおずおずと近づいてくる。なんだ、まだいたのか。無視して受話器を持ち上げ、高鳴る鼓動を抑えながら発信ボタンに手をかけた。
「やっぱまずいっすよ!」少年が受話器を奪おうとする。
「邪魔をするなッ!」
 少年の腹にとびっきりの蹴りを一発お見舞いすると、彼は呻きながらしゃがみこむ。相当いいところに決まったのか、ひゅーひゅーという苦しそうな呼吸音がした。さすが戸田恵梨香の救世主だ、ハンパな強さじゃない。気を良くしてもう一度ボタンに手を伸ばした。
「おい佐藤、てめえ今おれになにした?」
 殺気のこもった声に振り返った。少年が鬼のような形相でぼくをにらんでいる。
「え?」
「え、じゃねえよ。てめえおれに蹴りくれやがったな、上等だこの野郎」少年が上着を脱いで床に叩きつけた。
「ちょっと待て」
「サトウなんてよォ、甘ったるいカスみてえな名前したやつがふざけた真似してくれんじゃねえか」
 少年が唾を吐き、特殊警棒を構えた。くそったれ。予想外の展開だ。しかし、こんなガキに嘗めたクチをきかせるわけにはいかない。なぜなら、ぼくは戸田恵梨香の救世主だからだ。
「えらく威勢がいいなァくそガキ、この救世主と闘(や)りあうつもりか?」
「あ? なにが救世主だ。安月給の中年警備員がよォ」
 ぼくも上着を脱ぎ捨て、警棒を伸ばした。同時に少年が低く身構える。にらみ合いながら間合いをつめていくと緊迫した空気が肌を刺した。
 一撃だ、と思った。渾身の一撃をあの軽そうな頭に喰らわせれば勝負は決まる。短く息を吐きながらその好機(とき)を待った。
 少年が素早い動きでデスクの書類を手で払った。いくつかの書類が舞い、視界をふさいだ。
「オラァァッ!」
 少年が吼えながら警棒を振り落とす。体重を後ろにかけ、上体をスウェイさせると警棒の先が肩口をかすめただけで空を切った。少年が悔しそうに舌打ちを鳴らす。今度はぼくの番だ。じりじりと距離をつめ、攻撃可能な場所を探した。彼の身長はおよそ百七十センチ、ぼくよりもだいぶ小さい。精神的な余裕が冷静さを引き連れてくる。足を一歩踏み込んで、警棒を少年の喉元めがけて突き出した。思いがけない動作だったのだろう、彼が驚いたように仰け反る。ぼくはその隙を見逃さず踏み込むと、少年の頭に警棒を振り落とした。耳をふさぎたくなる嫌な音、手に伝わる衝撃はまぎれもなくリアルだ。一瞬の静寂のあと、力なく倒れる彼がひどく気の毒に思えた。
「許してくれ……許してくれ……」
 死にかけの毛虫みたいな声。誰かが言った。いま言ったのは誰だ? 周囲を見回していると少年が目を覚ました。
「いてて。……あれ? なんでおれ倒れてんだ?」
 きょろきょろと辺りを見、頭を押さえながら立ち上がった。どうやら先ほどの一撃で正気に戻ったようだ。
「覚えてないのか」
「何がすか?」
「いや……それより大丈夫か?」
「なんかすげえ頭痛いすわ。……うわッ、なんだよこれ。タンコブじゃん」
「奥に救急箱あるかもしれないから探してくる。ちょっとまってて」
 面倒だったがケガ人を放っておくわけにもいかず、ベッドルームへ歩いた。クローゼットを開き、見事ファンシーケースの物陰に目当ての箱を発見したぼくは事務室まで戻ると治療に使えそうなものを取り出した。
「血は出てないようだから、とりあえずこれで冷やしとけ」
 熱さまシートを渡し、上座にある革張りソファーに腰かけた。さてどうしよう。もう一度戸田恵梨香に電話をかけてもいいが、また少年が癇癪を起こさないとも限らない。正直、余計な体力は使いたくないのだ。傷口にシートをあて、唸っている彼を一瞥した。
「やっぱり悪いことすると報いがあるんすかねェ」
「鍵を壊したくらいでなに言ってんだ」
「いや違うんすよ、そのことじゃなくて」
 少年の顔に暗い陰が落ちた気がした。
「実はおれ〝出し子〟やってたんです」
 出し子。振り込め詐欺などで預金口座から金を下ろす役のことだ。大体が若い連中で、罪の意識もなくアルバイト感覚でやっているらしい。
「ダチに誘われたんす。おれんち貧乏で小遣いもくれないし、バイトやるにも高校中退だと面接ではじかれちまって。悪いことってわかってたんですけど、どうしても金が必要で」
 悔やんでいるのか少年の目に涙が浮かんだ。
「真面目に働くようになって、金を稼ぐ大変さだとかありがたみとかよくわかったんです。もうあんな馬鹿なことはしたくないっす」
「君もいろいろ大変だったんだな。いままで苦しかったな、よく話してくれた」
「さ、佐藤さん……」
 彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
                                 完

 いやいや終わらない終われない。こんなので終われるはずがない。
 振り込め詐欺に加担するクソ野郎のことなんかどうでもいい。そんなゴキブリ以下のド底辺に関わっている場合じゃあない。ぼくはなんのためにここにきた? そう、戸田恵梨香を救うためだ。彼女を歯ぐきの魔の手から救うため、わざわざタクシーに乗ってやってきたのだ。こんなションベン臭いガキが改心しようとどうしようといまのぼくには何の関係もない。戸田恵梨香を救うためにとことん利用して、最後はドブ川にでも打ち捨ててやろう。
 泣いている彼を冷たくにらみ、
「ごめん、ちょっと私用で電話してくる」
 といって事務所を出た。とっておきのいいアイデアを思いついたのだ。
 足早に一階の警備員室まで戻り、服を着替えるとぼくは警察に通報した。
「警備員の男が同僚を殴り、芸能事務所を荒らしている」
 よほど退屈していたのだろう、対応した警官は興奮気味に出動する旨をこちらに伝えてきた。
「あ、佐藤さん」
 事務所に戻ったぼくを少年が不思議そうに見た。たぶん私服だからだ。
「今日はもう上がりっすか?」
「ああ」 
「合コン、まじでやりたいっすわ」
「そのうちに、ね」
 腕時計に視線を落とした。そろそろくるはずだ。彼がもう一度口を開こうとしたとき、ドタバタ激しい靴音が聞こえた。
「お巡りさん、こいつですッ」
 タイミングよく叫ぶと、ソファーに座っていた少年がぽかんとした顔でこっちを見た。当然だ。逆の立場ならぼくだって同じような顔をする。
「早く確保してくださいッ! やつは凶器を持ってる!」 
 適当なことをいうと若い警官は慌てた様子で彼に駆け寄った。ちょっ、なんすかなんすかといいながら少年は床に転がされた。腕を後ろに回され、痛い痛いと喚いたが手錠をかけられ、少年はあっけなく連行された。
 残ったお巡りさんに事情を訊かれ、ぼくは事務所の関係者を装うと、彼が立ち去ったあと戸田恵梨香に電話をかけた。鼓動がこれ以上ないほど高鳴っている。手が震え、股間はすでに教師ビンビン物語Ⅱだ。コール音が天使の囁きのように響き、ぼくはたまらず腰を振った。
「恵梨香ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!」
 もう少しで合体♡できそうなところでコール音がやんだ。が、聞こえてきたのは留守番電話サービスの案内だった。テンションと股間は急速に萎え、教師ビンビン物語Ⅱは低視聴率により打ち切りになってしまった。
 股間とともにうなだれながらソファーに座って策を練った。事務所の人間に知られずに彼女と会い、助言する。そんな神業のような作戦を考えたが神経が高ぶっているせいなのか一向に妙案が出てこない。
 不意に喉の渇きを覚え、奥にあった小型の冷蔵庫を開けた。五百ミリリットルのコーラがあり、(おっ、いただき)と手を伸ばすと、その後ろに平成乳業の牛乳があった。途端、ぼくの中で何かが決壊した。冷蔵庫を持ち上げると、ありったけのチカラで床に叩きつけた。二階のベランダからテレビを落としたみたいな音がして飲み物が弾けるように飛び出てくる。コーラを蹴飛ばし、よくわからない部品も蹴飛ばし、最後に牛乳パックの横っ腹を思い切り踏みつけた。
 床一面に牛乳を飛び散らせてもぼくの怒りは消えなかった。むしろ中身を見たことによりさらに増幅された気がする。ああああ、なんだよこれなんだよこれ。
 意に反して股間が屹立し、体の奥からマグマのように湧きあがるリビドーを抑えることができない。
 こういうときは戸田恵梨香だ。彼女の愛くるしい笑顔をみればきっと心が落ち着くはずだ。画像を検索しようと携帯電話を取り出したそのとき、ピロリロリーンと電子音が鳴った。緊急ニュースの速報メールだ。
 〝平成乳業の製品に薬物が混入した恐れがあると企業が発表。製品をお持ちの方はすぐに破棄を。症状(誇大妄想、興奮、幻聴幻覚など)が出た場合は即病院へ〟
 遠くで犬がわおーんと鳴いたような気がした。    <了>
                         

戸田恵梨香の歯ぐき

戸田恵梨香の歯ぐき

ある日、戸田恵梨香の歯ぐきがちょっと長いことに気がついてしまった男の話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-11

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