25時の秘密
昼間の熱気が残る、蒸し暑い夜だった。自転車を漕ぎながら受ける風が心地良い。大通り沿いの道とはいえ、深夜1時にもなると車通りはほとんどなかった。信号機だけが淡々と、誰に伝えるでもなく赤青黄を規則的に繰り返している。早寝早起きが習慣の両親は、日付が変わる前にいつも寝てしまう。今日だって、私が家を抜け出したことにも気づかないのだろう。
目の前の信号機が黄色に変わりブレーキをかける。車も人も、来る気配すらない。こんな時でさえ律儀に交通ルールを守っている自分がおかしくて、一人で笑った。
私は、自分で言うのもおかしいけれど優等生だと思う。勉強も学校生活も特に問題なく過ごしてきて、親からも教師からもそこそこ信用されている。そしてそれは同時に、自分がつまらない人間であると日々感じる原因にもなっている。
一度しかない十代。高校生。このまま模範的な学生として終えてしまうのは、なんだかもったいない気がした。かといって率先して校則を破る勇気もなければ、そもそも問題行動を起こして目立ちたいという欲求もない。そんな時、テレビで放送されたある映画を観た。田舎の高校を舞台にした、あまり有名ではない作品。高校生の少女が夜のプールに飛び込むシーンが幻想的で、一目で魅了された。自分が生まれるより前に公開された作品らしく、アナログ放送の映像は全体的に荒く、薄暗かった。それがかえって非現実的な空気を感じさせたのだ。
学校に到着したものの、プールの入り口には鍵がかかっていた。もしかしたら今日に限ってかけ忘れているかも、とわずかに期待していたけれど、そんな都合の良い話はないようだ。どこかに入れるところはないか、フェンスの外側を歩きまわる。
「誰かいる?」
突然の声に身体がこわばる。見つかった。心臓が過去最高の速さで打つ。頭の中を様々な言い訳が駆け巡る。ああ、やっぱり柄にないことなんかするんじゃなかった。静かに優等生であることに満足していればよかったんだ。
暗闇の中、ぼんやりした人影が歩いてくる。聞き覚えのある声だけど、あいにく私からは影になって誰だかわからない。ただ、さっきの声を思い出すと先生にしては若すぎる気がした。
「えっ、汐見さん?」
電灯に照らされたのは、ぽかんと口を開けたクラスメイトの吉本くんだった。クラスメイトと言ってもまともに話したことなんて数えるほどしかない。それだって、すれ違いざまにぶつかったときの「ごめん」くらいの、必要最低限のものだ。
「なにしてるの、こんな時間に」
どうしよう、どうしよう。なんて説明したらいいんだ。
「……忘れ物、取りに」
結局嘘をついた。もちろんそんなものはないし、あったとしてもわざわざこんな時間に取りに来るなんて相当な変わり者だ。かなり無理のある嘘だと思ったけれど、彼は納得したようで、
「そうなんだ。大変だね」
と同情してくれた。良心が痛む。
「吉本くんは?」
「僕も忘れ物してさ。でも部室に取りに行こうとしたら、プールの方に誰かいるのが見えて」
それが私だった、と。思わず羞恥心で頭を抱えた。今までにないくらい顔が熱を持っているのが自分でもわかる。
「なんだか変な感じだな。汐見さんとこうやって話すの、はじめてじゃない?」
「う、うん。そうだと思う」
吉本くんはいつものように穏やかに、のんびりした口調で話す。まるで教室で雑談でもするように。
「もしかして、忘れ物ってプールの中だった?」
思い出したように尋ねられて、心臓が飛び跳ねる。
「反対側のフェンスなら少し低くなってるから、頑張れば超えられるかも」
こっち、と歩き出す彼のうしろをついていく。どうしてここまで協力的なんだろう。困っている人を放っておけないタイプなのだろうか。
吉本くんが言ったとおり、少し低いつくりのフェンスは足をかけながら乗り越えることができた。スカートを気にしながら登る私を見て、
「わざわざ制服で来たんだ」
と吉本くんは言った。そういえば彼は涼しそうなTシャツ姿だ。学校に行くイコール制服と無条件に考えていた自分に、抜けきれない「優等生」を感じて、私はこっそりとため息をついた。
「プール、入ってみてもいい?」
私の発言に、吉本くんはしばし沈黙した。表情は見えないけれど、驚いているのが雰囲気で伝わった。ありもしない忘れ物を探すふりなんて、する気が起きなかった。
プールのふちに腰を下ろし、水の中に足を投げ出す。吉本くんもその隣に、人一人分くらいの距離を空けて座る。足先を水の中で揺らすと、静かに波紋が広がった。会話の代わりに二人でちゃぷちゃぷと軽い音を鳴らす。
「……ごめん、さっきの嘘」
ふいに、吉本くんが口を開いた。
「忘れ物取りにきたってこと。ここ、よく来てるんだ」
それからまたしばらく黙って、何事もなかったかのように世間話を始めた。私は聞き返すタイミングも、私も嘘だよ、と告白するタイミングも失って、そのまま彼の話を聞いていた。
まるで私たちだけを置いてけぼりにして、世界が時間を止めたようだった。電灯の光が波打つ水面に反射してきらきらと揺れる。真っ暗な闇の中でそれだけが輝いていた。海の底のようで、宇宙のようで、このまま体ごとゆるやかに溶けてしまいそうだ。
吉本くんは話をするのが上手だった。最初はぎこちなかった私も、気づいたら何年も友達だったみたいに自然と言葉が出てくるようになった。お互いに遠慮がちだったのが、くだけた口調になっていった。それでも、こんな風に彼と話ができるのは、お互いの顔もよく見えないような暗い夜だからなのだろう。明日教室に行ったら、また「ごめん」のやりとりだけの、もとの距離に戻るのはわかっている。わかっているからこそ、この時間が過ぎていってしまうのが惜しくてたまらない。
「天気が良かったら、星がよく見えたんだけど。この辺りは街灯も少なくて穴場なんだ」
「へえ、見たかったな」
たしかに今日はあいにくの曇り空だった。月も雲がかかっておぼろげに姿を隠している。
「じゃあまた来なよ」
吉本くんは拍子抜けするくらい、いとも簡単に言ってのけた。冗談かと思ったけれど、いくら待っても「なんてね」と笑いそうにはない。
今度があるということ。それだけのことが嬉しくて、口元がゆるんだ。
「わかった。今度は晴れた日に」
いつにするか決めることはしなかった。決めなくてもまた会える気がした。
「そういえば、汐見さんの忘れ物って見つかったの?」
「ううん、でももういいんだ」
ふうん、と吉本くんはさして興味なさげに水を撫でた。彼のこんな表情を、昨日までの私は知らない。
25時の秘密