夢見た憧れの潤う砂漠

午後三時の空は薄曇りで先ほどまで霧雨が降っていた。アパートの室内は少し蒸していたけど、心地よい暖かさで、額と首筋と脇に汗がにじんでいた。
デスクの上にはパソコンが鎮座していてその床下には文庫本が沢山、置かれていた。もうここのアパートに引っ越してきて一週間が経つのだけれど、職安に雇用保険の申請を出して、仕事には就かずに半年間は気楽に過ごそうと決めていた。
部屋は二階で壁は薄くて、隣の部屋に住んでいる人の話声が聞こえる。
僕は三十歳で人材派遣の会社で期間工をしていたのだけど、ここの人材派遣の社員たちから悪質ないじめにあって辞めてしまったのだ。自分が住んでいた寮には隠しカメラが据え付けられていて、自分の行動を逐一監視されていたのだ。何故そのことが分かったかというと、僕が寮で行っていたことを、僕に聞こえるように暗に話していたからだ。それで僕は人材派遣の社員から監視されていることに気付いたのだ。それで僕が部屋の中で行っていた事柄、それはとても恥ずかしくて言えないことなのだけど、そのことも知られてしまって、どうにも行動をおこすことができなくなって、最終的には警察に相談に行こうと決めたのだった。
休日に警察署に行って、僕が人材派遣の社員から、盗撮をされているということを話すと、警官は真剣には受け取ってくれなかった。それでがっかりして寮に帰ってきて仕事を辞めることに決めたのだ。
それで仕事を辞めて、新たなアパートに移転して、自分の人生を見つめなおすことに決めたのだけど、そこで人生設計を構築するべく自分を見つめなおすことにした。まず最初にしたことはインターネット回線を部屋にひくことだった。それは簡単に行うことができた。
次にアパートの部屋の六畳ほどの床に寝そべって体を大の字に広げて、自由を満喫したのだった。これで僕は繋がっていられるのだと。
四時頃にNHKの人が来て、受信料を徴取しようとしたけど、あいにく僕の部屋にはテレビがない。それでそのことをはっきりと言うと、簡単に帰ってくれた。僕は外に出て、自転車に乗って近くにあるスーパーに行って買い物をした。コンビニに行き、タバコも買った。銘柄はケントの5ミリ。ネットで葉巻を買うことにしよう。
僕が住んでいるのは石神井の近くなのだけど、自転車で池袋に行ってサンシャインにある職安に行って仕事を探した。いや、探すふりをした。そしてブックオフに入って100円コーナーの小説を選んだ。そこにちいちゃな可愛い少女が並んでいた本に手を触れながら歩いてきて僕のところで立ち止まった。僕は心の中にその少女に対する愛情が増してきて、抱きしめたくなった。その頬にキスをしたかった。しかし、たぶん、そんなことをすれば、犯罪になるのだろう。それで僕は空想の中で、少女を抱きしめて、頬にキスをした。たぶん、少女にはもう二度と会うことはないだろう。少女が大人になってにこやかに笑う姿を想像して僕も現実の世界で微笑んだ。さようなら、愛しい少女よ。
すると少女は突然僕に話しかけてきた。
「おにいちゃん、今読んでいる本、面白いの?」
僕はキョドって彼女の頭髪を見つめながら、「うん、面白いというよりは感動したかな」と、言った。
「おにいちゃん、ひとりぼっちなの?」
「う、うん、そうだな、僕には友達がいない。君は?」
「わたしもひとりぼっち。おんなじだね。うんと、手をつないでくれる?」
「え、っつ、手をつなぐ?わかった」そして僕は少女の小さな手を握った。とても温かくて、湿っていた。手から腕、首筋、そして脳に穏やかなしびれるような感覚が伝わってきた。今まで生きてきた中でも最高に快感なことをしている感じだ。
「君は何歳なの?」
「わたしは五歳、名前はナナっていうの。カタカナでナナ」
「僕は武田真也、三十歳。君の六倍生きている。でもそれだけ生きていてもナナちゃんみたいな勇気は持ち合わせていないかもしれないね」
「ううん、おにいちゃん、なんか輝いているよ。わたし、わかるんだ。おにいちゃんは、いい人」そういうとナナちゃんはにっこりと笑った。なんて純粋な笑顔なのだろう。僕はその笑顔を見つめて緊張してしまった。それでも彼女は僕の発するエネルギーの影響を受けることなく、笑顔でいる。
「ナナちゃん、ありがとう。なんか救われたようなきがするよ。君の笑顔が僕を救ってくれた。本当にありがとう。そうだ、また会えるかな?僕の携帯電話の番号を教えよう」僕はリュックサックからメモ帳とボールペンを出して僕の名前と電話番号を記入して、彼女に渡した。
そして彼女の頭を撫ぜてから僕たちは別れた。
アパートに帰ってからも、ナナちゃんの手の温かみと湿りが手にこびりついていた。なんとも豊かな情景だった。部屋に入って手を洗っても、その名残りがあるのだ。僕は思わず目をつぶって脳が快楽物質を発して、安堵のため息をついた。僕は五歳の少女に恋をしている。これは大問題だ。そこで僕は彼女の、ナナの両親のことを想像した。たぶん、僕と同じくらいの歳なのではないか。なんてことだ。ナナちゃんは僕が渡した、電話番号を書いたメモを両親に見せるだろうか?ひょっとしたら用心して、警察に連絡をするかもしれない。これでジ・エンドだ。でも僕の携帯電話には今のところ、警察からもナナちゃんからも連絡は来てなかった。と、いうことはナナちゃんはきっと両親には知らせていないということなのだろうか‥。僕は冷凍庫から業務用サイズのバニラアイスクリーム取り出して食べながらソファーに座って彼女のことを思った。
それから一週間が過ぎた。ナナからの連絡はなかった。僕は不安になって彼女の手を握った感触を思いだした。彼女の温かくて湿った感触、それを再び、呼び覚ました。それは戻ってきた。
それから一か月が経った。僕は彼女の、ナナの細長い首と、細長い腕を思い浮かべた。彼女の笑顔を思い出した。僕の心は火照っていた。
それから一年が経った。彼女の、ナナの唇から出る言葉の感触を思い出した。彼女は鈴の鳴るような、快い声音が僕の心を慰撫してくれた。
それから‥‥‥‥。
それから‥‥‥‥。

夢見た憧れの潤う砂漠

夢見た憧れの潤う砂漠

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-10

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