ししむら
仕事の所用で外へ出たあるときのことである。
帰りに通りかかった路上で、大きな柘榴が潰れていた。
…と、一目見て何ともなくそう思っただけで、実際はただ頭を車に轢き割られた猫の死骸である。
僕はその、生理的に痛ましい姿にしばしのこと逡巡しつつも、このあわれな可愛らしい肉から目が離せない。脳天からこの狭い額に走り眉間を裂いた傷は、ぱっくりと、赤というより薄桃色に近い中身を垂らし、舗装の未完全な、田舎の道の土さらしの真ん中で、そこだけ蚯蚓のように湿り気を帯びている。猫は、猫から肉へ成り果てたばかりと見えて、まださほどの虫もついていないらしい。少なくとも僕の目には映らなかった。
さいわいとすべきかこの猫は野良のようであった。薄汚れて赤くも濡れた毛皮の中に、首輪らしきものを僕は見なかった。背のあたりの堅そうな毛が土埃の中に乾きかかって置いてある。白黒のぶちらしいけれど、色さえあまり明瞭ではなく、血液の暴力的色彩にかなしくも埋没した小動物は、この世で最も惨たらしい形で衆目のまえに身を投げ出しているのである。
このずぶ濡れたあわれなる死骸に、ああ喉が渇いた、と僕は思った。それで猫の背の、首のもとをしずかに引き上げると、力無いがただ軽い肉の質量が、この首の厚くぬめる皮越しに、手首に指にやわらかくかかってくる。新鮮で、赤くて水気の多い血液は、まだ汚れのない死んだ毛皮に糸を引き、垂れ下がった腕脚からじっとりと路面に粘り落つ。猫の頭は僕の目よりも少し下で項垂れて、その頭蓋骨は器となって、僕の前に脳を呈する。器と胴さえなければやはり柘榴だと思った。
そういえばとおくむかしの幼い頃にも一度、僕は家の裏山で死にたての猫を見たことがある。その時思いだしたことだ。そいつはただ自然死だったはずなのだけど、そのまさに新鮮な血肉を烏が啄みに来ていたのだ。日陰で遊んでいた僕は偶然茂みから発見したのだろう。烏は僕の目に気付いてはいたはずだが、取り立てて気にするでもなく己の食欲を満たそうとしていた。猫は烏に搾取されながらその肉を取り留めることができない。烏が啄む猫の肉の、軟らかく固そうに伸びて、ぶつと千切れて呑まれていくさまを眺めて、僕はわずかな空腹をおぼえたのだ。それで家に戻ってから、その日の分はもう食べていたのだけど、当時いた女中に菓子をせがんで少し困らせた記憶もある。
そして今はただ喉が渇いている。しかしわずかなこころである。猫は頭から溢れる血を取り留めることができずに、その肉は少しずつ乾いていく。僕は今しばしそのまま猫を眺めた。何か名状しがたき感覚がどこかから泡のように浮かんできた。
この場で烏は僕なのだ、とふと思った。しかし同時に猫なのだ、とも考えた。
僕はこの死骸、すでにたましひ無き肉のうちに、終わってしまった残滓を見つけることができない。しかし何かが同じだと思った。猫の死骸をつまみ上げている僕は、死骸への欲を持つ段階で烏である。けれども無感動な側面において、どこかでやはり猫である。たましひ無きししむらである。…そしてどちらなのだろう。猫は既に二つに分かたれ、頭を割って手の元にあるけれど、どちらなのだろう。けれど自然と僕が脱殻のほうだと思った。僕は脱殻の猫であるから脱けたものを求める烏だ。もう一方のあれは形無きものである。
僕が脱殻であるのなら、そのたましひは誰に搾取されたのだろう。
僕は山犬をふと思い出す。
そのとき後ろにだれかの気配をおぼろかに感じた。
「おい」その山犬であった。傾きかかった陽射しを半身に受けて、紙のように白い肌がわずかに朱い。「…遅いと思ったら、何をしている」彼はこころもちいつも以上に不機嫌な目で、手元の猫を一瞥した。
猫の血はすでにあまり滴るほど水っぽくはなかった。凝固がずいぶんと進んでいるらしく思われた。
「……ああ。見てわかるだろう。猫が死んでいて」
「だからってつまみ上げてまじまじ見るのか。喰うわけでもあるまいに」
喉が渇いたとは、思ったのだけど。だからと言って何を呑む。このすでに何かの湧きながら乾きつつある血をか。
「…それもそうだね」
「言われて初めて気付くのか」
「うん。…少し、ぼうっとしていた」
僕は猫の首から手を放した。足のあたりで、どしゃっと肉の崩れる音がしたとき、見えた指には血がへばって乾いている。黒ずんで、わずかにも腐敗した鉄のかおりが手に残った。
山犬の爪先のもとに、傷みはじめた猫の肉が、脳を投げ出してくたびれている。頭蓋がこの衝撃でわずかに罅を深くして欠けたようである。山犬はそれを、僕と同じくらいの無感動さでしばしの間じっと眺めた。
「猫か」おそらく彼はそれが他の獣でも、烏でも、同じような調子で言うのだろう。「無惨な」
「…ひと昔前は電車に轢かれる野良が多かったっていうけどね。今は自動車も増えたから、街まで行くとたまにあるよ」
「その肉はどうするんだ」
「さあ…放っておかれるんじゃないか。そのうち肉も骨も分からなくなって風化するよ」
山犬は少し黙した。昏い睫毛が髪の隙間に重くある。濁り澱む目のなかに翳が渦をなしながら静かである。
「可哀想とでも思うのか」
訊くと彼は「いいや」と平坦に答える。
「ただ冒涜だと思う」
「冒涜?」
「肉の流れの寸断だ」
見ると山犬は己の腕の中ほどを、糸のように細く解いて空中に投げ出している。柔らかに滴りそうな翳の流れは猫の躰をこわれもののように持ち上げた。山犬の目はその中に薄くひかる脳を、形容しがたく捉えている。
「どうするつもり」
「おれがどうしたところでどうなるわけでもない。でもそこにある肉が朽ちるのは勿体ない」
「食うのか」
「まあ」
腕は肉をそのまま包んでしまう。そこは口ではないはずだけれど翳は一瞬のふくらみを見せてすぐ、ぱきぱきと軽い音を内側から響かせながら山犬の肘にかえってきた。山犬は、猫を食らって己とした。
ああずるい。取られてしまった、と僕は思った。
ししむら