作家の本懐

 明け方まで原稿を清書していたため、笹崎が起きたのは昼過ぎだった。水でも飲もうとリビングに行くと、テーブルの上に置いていた原稿の前に、妻が座っていた。
「あなた、どうしてこんなに原稿の量が減ってるの?」
 怒りと悲しみが入り混じった表情で責める妻に、笹崎はつぶやくように「推敲した」と言った。
「だって、一枚に付きいくらという契約でしょう。どうして、ワザワザ枚数を減らしちゃうのよ!」
 何か言いかけた笹崎は、しかし、その言葉を飲み込んだ。代わりに「ちょっと出かける」と言い捨て、妻の顔も見ずにアパートを出た。
 妻と文学論をたたかわせてもしょうがない。それより、早くタバコが吸いたかった。子供が生まれてからというもの、妻は断固として家の中で吸わせてくれないのだ。
 笹崎はいつも行く近所の喫茶店に入った。年配のマスターが一人でやっている、テーブルが二つとカウンター席だけのこじんまりした店だ。たまたま客が途切れた時間らしく、カウンターの中で新聞を読んでいたマスターが、笹崎の顔を見てニッコリ笑った。
「いらっしゃい。いつものブレンドコーヒーかね?」
 笹崎は黙ってうなずくと、カウンターの隅に座り、タバコに火を点けた。
 マスターは、一人分のコーヒー豆をカリカリとミルで挽いた。それをネルのフィルターに入れ、口の細いポットでゆっくり熱湯を注いだ。コーヒーのいい香りが漂ってくる。
「どうぞ」
 出されたコーヒーを一口飲んだところで、誰かが店に入って来る気配がした。
「よう、笹崎」
 自分の名が呼ばれるとは予期しておらず、笹崎は驚いて振り返った。
「安村か」
 高校で同級生だった安村だ。当然のように笹崎の隣の席に座った。
「安村か、は、ないだろう。久しぶりだな」
「ああ。去年の同窓会以来か」
「今年はキミちゃんしか来なかったもんな」
 キミちゃんとは、笹崎の妻の貴美子のことである。三人とも同じ高校の出身だった。笹崎は新作短編の締め切りが迫っていたため、今年の同窓会は欠席した。その際、妻が安村と会ったと話していたのを思い出した。
 安村はマスターに「おれもコーヒーを」と頼んでから、笹崎に向き直った。
「正直に言おう。実は、キミちゃんから頼まれた。おまえと話してくれって、さっきメールが来たんだ」
「話すって、何を」
「おれも得意先回りの途中で、あまりゆっくりしていられないから、単刀直入に言うぞ。実際のところ、今のおまえの稼ぎで、この先、親子三人食って行けるのか?」
 笹崎は答えなかった。いや、答えられなかった。

 笹崎が『小説ぱずる』の新人賞をとったときは、まだ学生だった。とんとん拍子で処女作の出版が決まり、そこそこに売れた。そのため、友人たちが就職活動にシノギを削る中、笹崎は迷わず専業作家の道を目指した。
 ちょうどその頃、貴美子と再会して付き合い始め、すぐに、周囲の猛反対を押し切って籍を入れた。その時点では貴美子も働いていたため、何とかなるつもりであったのだ。だが、二冊目以降、思うように本が売れず、長編の依頼もいつしか途絶えた。
 そのうち子供ができ、貴美子が仕事を辞めると、とたんに生活が苦しくなった。多少はあった貯金もほとんど取り崩した。今では、『小説ぱずる』に不定期に掲載している短編の原稿料で、かろうじて糊口をしのいでいる状態である。

 笹崎が何も言わないのに焦れて、安村は話を続けた。
「悪いことは言わん。作家はあきらめて就職しろ。今ならまだ間に合う。このままジリ貧になるより、その方がいい。キミちゃんや子供のことを考えてやれ」
 笹崎は、ふーっと長いため息をつくと、内ポケットから愛用の万年筆を出し、安村に見せた。
「これは、『小説ぱずる』新人賞の副賞としてもらったものだ。今でも使っている。これをもらうとき、担当の編集者から言われたことがある。何年も何年も新人賞に応募し続け、それでも賞がとれずにあきらめる人が大勢いる。その中で賞をとったぼくには、責任があるんだって。小説を書き続ける責任がね」
「そんなこと言ったって、おまえ、現実に」
「わかってる。今のままでは、家族を不幸にする。それはぼくだってわかってるさ。だから、決心したよ。就職する」
「そうか。じゃあ、作家はあきらめるんだな」
 だが、笹崎はゆっくり首を振った。
「言っただろ。ぼくには責任がある。明日からでもハローワークにかよって職探しをするけど、小説も書く。ただし、締め切りに追われちゃ、仕事に差し支えるだろうから、雑誌に掲載はしない。少しずつでも書き溜めて、いずれ長編として出す。まあ、何年先になるかわからないけどね」
「まあ、ちゃんと働くんだったら、それでもいいが」
 笹崎は苦笑した。
「信用してないね」
 笹崎は胸のポケットから、タバコとライターを取り出し、カウンター越しにマスターに差し出した。
「すみませんが、これを捨ててもらえませんか。それから、当分の間、ここには来れなくなると思います。いつも、おいしいコーヒーをありがとうございました」
 マスターは笑顔でうなずき、タバコとライターを受け取った。
 笹崎は、安村に向き直り、頭を下げた。
「安村、すまなかった。言いにくいことを言わせてしまって」
「いや、おれの方こそ、ズケズケ言って悪かったな」
 顔を上げた笹崎は、少し恥ずかしそうに、安村に頼んだ。
「今度ヒマがあったら、ぼくにパソコンの操作を教えてくれないか。さすがに、手書きは疲れたよ」
(おわり)

作家の本懐

作家の本懐

明け方まで原稿を清書していたため、笹崎が起きたのは昼過ぎだった。水でも飲もうとリビングに行くと、テーブルの上に置いていた原稿の前に、妻が座っていた。「あなた、どうしてこんなに原稿の量が減ってるの?」怒りと悲しみが入り混じった表情で責める妻に......

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-09

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