忘れ草ー蒼き月の花霞ー
序章「結婚話は突然に」
それは、暗く鬱蒼とした、しんと静まり返る夏の夜のことだった。
ふわりふわりと淡い光を放ちながら舞うのは、夏の風物詩である蛍。
無数の蛍火の真ん中で、噎せかえるような強い青草の匂いを舞上げる風が、ふいに吹いた。
「おい、章親よ」
しんと静まり返る、少し不気味な真夜中の平安の都。
蛍の光で夜空に輝く月も霞んで見える空間に、甲高い声が異様なほど大きく響いた。
「なぁに、琥珀?
用事なら、出来れば手短にお願いね」
「お前、慎重さと計画性という大事なものを知ってるか?」
「そんなの、知ってるに決まってるでしょ」
二人がいるのは、舞う蛍の足下。
ぼんやりと視界に映る五条大橋の袂の草の上だ。
黒の髪をうなじで結い、前髪に見え隠れする同色の丸い瞳。
背丈は低く、ほっそりとした体には、淡い色の狩衣と紺の狩袴を身に纏う。
十五歳の章親は心地いい川のせせらぎを聞きながら、どかりと地面に腰を据えていた。
頷いた顔は、真剣そのものである。
『慎重さと計画性』
えぇ、知っているとも。
知らなければ、人として恥というものだ。
「そんな当たり前のことを今さら聞かないでよ、琥珀」
章親は隣に身を寄せるように立っているのは、座った章親の胸の辺りくらいの身長の子猿。
薄茶色のふわふわと柔らかそうな毛並みと、小さく愛らしい尻尾をしたその子猿を上からじっとみつめた。
この子猿は、ただの猿ではない。
こんななりをしていても、立派な妖で、一応陰陽師に使役される式だ。
「なら、この状況を今すぐ一言一句逃さず事細かに説明しやがれ、章親」
じとっと琥珀色の澄んだ瞳が眇られ、章親を睨んだ。
しかし、恐ろしさはまったくない。
むしろ、愛らしいともいえる。
もちろん、琥珀本人は複雑であろうが、そう見えてしまうのは仕方ない。
「何の説明?」
「とぼけんな。
今、このオレ達の緊迫した状況の説明に決まってんだろ!」
「緊迫、してるかなぁ……?」
「してるに決まってんだろ!
こんな簡単な状況判断も出来ないとはお前、それでも安倍の血族かよ!?」
肩をわなわなと震わせながら声を荒げる琥珀は、行きどころのない怒りを章親にぶつける。
しかし、そんな琥珀の怒りをいとも簡単にあっさりと聞き流した章親は、自慢げに腰に手を当てて胸を反らした。
「そうだよ?
僕はあの稀代の大陰陽師・安倍晴明を父に持つ、安倍吉平の四男・安倍章親。
一応、立派な陰陽師希望の齢十五の少年」
「踏ん反り返って自分のことを細かに説明すんじゃねぇ!」
いっそ清々しいほどはきはきとした口調で述べた章親に、琥珀の怒号が叩きつけられる。
しかし、章親にとってはこれもまたいつも通りのため、痛くも痒くもない。
「ね、琥珀」
ぜいぜいと叫び疲れて肩で息をする琥珀を抱え、膝の上に乗せながら頭を撫でた。
「何だよ」
「説明は直接本人に聞いてほしいなぁ……」
呟いて目の前を見据えた瞬間、ねっとりとした熱を孕む妖しい瞳と視線が重なった。
「あぁ、愛らしい少年だこと……」
ふわりと時折吹く風を纏い、濡れたように艶めく漆黒の長い髪が靡く。
目は切れ長で、少しも曇らないそれは不気味なほど美しい。
真っ白で滑らかな肌をした上半身は剥き出しで、風に舞う髪がさらりと表面を撫でている。
下半身には白の単衣を纏っているが、それは生々しいほど真っ赤な血で染まっているようだ。
章親と琥珀の目の前にいる二十代後半辺りだろうこの女は、産女。
妊娠中、または出産時に亡くなってしまった女性の妖だ。
「さすがは安倍の血族。
私を目の前にしても、恐れもしない」
するりと耳に滑り込む産女の声は、とても甘く艶かしくて。
恐ろしいほどの色香に、章親は思わず体をぎゅっと小さく丸めながら琥珀を強く抱きしめた。
あの産女の存在自体は、恐ろしくはない。
というのも、章親の生まれである安倍一族というと。
異形の一族として都に知れ渡り、大黒柱たる安倍晴明は母を狐、父を人に持つ半妖なのだ。
そして、土御門大路と西洞院大路の辻にある安倍邸は、不思議なことがよく起こる。
たまに通る、百鬼夜行の行列。
黄泉より出てきた鬼や物の怪が、安倍邸をごく当然であるかのように我が物顔で徘徊。
さらには、 天から落ちる神鳴りと一晩で枯れてしまう池の水などの天変地異。
不思議なことなど、珍しくない。
だから安倍の子は皆、恐ろしさなど幼少期にきれいさっぱりと、どこぞへと投げ捨てる。
そして、けして挫けない巨木のようにびくともしない、不屈の精神を身につけるのだ。
それは、章親も例外ではなく、もちろん身につけている。
そうではあるのだが、目の前にいたのは妖とはいえ、女。
安倍晴明直系の一族は、男家系。
女といえば、安倍に嫁いだ妻達くらいしか見たことも接したこともない章親である。
なので、この産女のこの世のものとは思えない美しさは、見惚れるよりも破壊力満点、畏怖に近い。
章親は、色香の強い美女には、全くと断言出来るほどに免疫がないのだ。
「章親、といったな、安倍の血族よ」
真っ白な面に乗せた真っ赤な唇が、ゆっくりと章親を呼んだ。
章親はただそれをみつめ、聞いている。
そして、章親の腕に抱えられている琥珀は、警戒心を剥き出しにして唸っている。
対照的な二人の反応を楽しそうに眺めていた産女は、笑みを浮かべたままの表情ですっと目を細めた。
「章親よ。
我が娘、棗の婿になれ」
「───────はい?」
あまりにも突然すぎる産女の宣言に、章親の理解と許容範囲を遥かに越えた。
頭の中はいっそ見事なほど真っ白で、全く使いものにならない。
それは章親の腕に抱えられた琥珀も同じらしく、かぱりと顎が外れそうなほど大口全開で硬直している。
二人は仲良く硬直したまま時を数え、穏やかな川のせせらぎに耳を傾けていた。
「聞こえなかったか?」
「いえ、結構です。
ちゃんとしっかり聞こえました」
親切にも二度目の説明をしようとした産女を、章親は間髪容れずに否定した。
聞くのは、一度だけでいい。
二度目は聞きたくないという、心の底からの拒否反応だ。
そんな章親の心情を知ってか知らずか、産女は変わらず艶かしい笑みを浮かべていた。
「なに、考える猶予くらいは与えてやろう。
よき返事を待っているぞ、安倍章親よ」
そんな一方通行な猶予、いらない。
喉に詰まって言えないその一言を、章親は心の中で全力で叫んだ。
初夏とはいえ、真夜中の川縁はとても涼しいはずなのに。
それなのに、後から後から吹き出してくる冷や汗が止まらない。
「では、また次の夜にここで会おう。 必ず来い。
来なければ、お前の邸に乗り込むぞ」
「……っ」
思わず、心臓が跳ねた。
最後の一言が、まるで鋭利な刃物のように鋭く突き刺さったからだ。
やはり、相手は闇に属する妖。
人の常識の中にはいない、特殊な相手なのだ。
こめかみから顎へ、ひやりと冷たい汗が流れていく。
さらに、するりと首筋を伝う感触を感じながら、章親はごくりと息を飲む。
それをにやりと妖しい笑みでみつめた産女は、ふいにひらりと単衣の裾を翻した。
「次の夜が楽しみだ。
なぁ、安倍章親」
呆然と座ったままの章親と琥珀を肩越しに振り返り、にたりと再び笑う。
そして、蛍の中を歩き出し、やがて闇に溶けて消えてしまった。
一章ー壱「ケンカするほど仲が良い……?」
☆
少年の名は、安倍章親。
この都でもはや知らない者はいない、生きた伝説にして稀代の大陰陽師・安倍晴明の孫。
章親の父は安倍吉平。
彼の四番目の息子である。
そんな章親の傍らにいる琥珀は、吉平の式だ。
いつ吉平の式に下ったのか聞いたことはないが、章親の物心ついた頃にはすでに存在していた。
息子達のよき遊び相手で、何でも話せる相談相手でもあった琥珀は現在、成長中である章親に付き添っている。
というのも、いつまでも親が直接手出ししてやると成長の妨げになると懸念した吉平の代わりに支えてやる大役を担っているのだ。
☆
「だから言っただろうが!」
ぼんやりとした心許ない燈台の灯火の中、甲高い怒号が部屋の中に響き渡る。
それを聞いていた章親は思わず身を竦め、ぎゅっと強く目を閉じた。
「そ、そんなに怒鳴らなくたっていいじゃんかー……。
父上やじじ様達が起きちゃうよ」
「かまわん、叩き起こしてしまえ!
今はお前の失態の方が先だ!」
「えぇー……」
怒り心頭真っ只中の琥珀はかまいもせず声を張り上げている。
そんな声を聞きながら章親はそろりと閉じていた瞼を開いてみた。
すると、目の前にはまさに絵に描いたような鬼の形相で腕を組み、仁王立ちをしている琥珀の姿が目に映る。
しかし、よくよく冷静に考えてみると、琥珀の怒りはもっともである。
琥珀は完全に巻き込まれただけなのだ。
「さあ、今度こそオレが納得するまで、しっかりきっぱりはっきりと説明してもらおうか」
「えー………」
章親は身を竦めたまま、渋い顔で嫌そうに呟いた。
「ずべこべ言うんじゃねぇ!
オレを巻き込んだんだから当然のことだろうが」
「うう……はい……」
反論など出来るはずもない。
ぐうの音も出ないとは、まさにこのことだ。
章親はしょんぼりと項垂れて、ようやく静かに言葉を紡ぎ始めた。
「えっと……始まりは二刻くらい前だよ」
今から二刻ほど前、夜も更けた亥の刻のことだ。
幼き頃より、無類の読書好きな章親は燈台の灯りをたよりに陰陽書を広げていた。
その隣で琥珀は両腕両脚を大の字に広げ、大きないびきをかいて心地よさげに眠っていたのだ。
開けた蔀から吹いてくる風と、それによりぱらぱらと捲れる紙の音以外聞こえない静かで穏やかな時間。
書を捲ることに夢中になっていた章親はふいにその手を止めた。
声が、聞こえたのだ。
おいで、おいでと。
呼ばれたのだ。
人ではない、不気味な声に。
章親は手に持っていた書を置いて、代わりに隣で眠っていた琥珀を無造作に掴んで声に導かれるように外へ出た。
ふらりふらりと夜の都でさ迷って辿り着いたのは、五条大橋。
そこで産女と出会ったのだ。
「ほう、それで?」
不機嫌そうに少し眉を吊り上げながら、琥珀が続きを促す。
しかし、ひとしきり話し終えた章親は一息ついて、首を傾げた。
「それでって?
それだけだよ?」
それ以上それ以下でもない。
今し方話したことが真実である。
不思議そうにしている章親を睨みつけていた琥珀は、突然牙を剥いて額に青筋を浮かべた。
「全然説明になっとらんわ!!」
「ちゃんと説明したよ、琥珀しっかり聞いたでしょ!?」
「聞いた、聞いたさ!
けどな、オレが巻き込まれた理由がまったく含まれてなかったぞ!!」
だんっ、と地団駄を踏んで琥珀が章親に詰め寄る。
章親もそれに負けじと精一杯睨みつけた。
しかし、睨みあったその瞬間、僅かな物音をたてて妻戸が開かれた。
「………こんな真夜中に何をしてるんだお前達は………」
一章ー弐「父は安倍吉平」
呆れ返った低い男の声が、妻戸に背を向けていた少年と猿に投げ掛けられる。
その声に言い争いを忘れ、慌てて振り返った。
月明かりに照らされてそこにいたのは、中年の男。
いつもは結っている長い髪は背中に流し、白の単衣を羽織っている体は存外たくましい。
真夜中に叩き起こされたにも関わらず昼間のように冴えた面は、呆れた色を乗せている。
「父上!」
「吉平!」
「いいから、静かにしなさい。 皆が起きるだろう」
叫んだ章親と琥珀を男はたしなめて、開いていた妻戸をそっと閉めて中に入ってきた。
彼は、安倍吉平。
安倍晴明の長男である。
吉平は、星宿・式占・暦を管理し、学生や陰陽師を多数抱える技術専門機関、陰陽寮の上位職である陰陽助の任を賜る。
そして、晴明の後を継ぐ安倍家次期当主だ。
吉平は息子と自身の式を交互に見比べてため息を一つ溢す。
そして、彼らの目の前に腰を据えた。
「まったくお前達は……」
やや頭を抱え気味に、吉平はぼそりと呟く。
琥珀は目尻を涙で濡らしながら、どうしたものかと思案する吉平の膝に縋るように泣きついた。
「聞いてくれよ、吉平! 章親が、章親が酷いんだ……っ!」
そんな姿を、吉平はただ何一つ感情の込められていない静かな眼差しでみつめていた。
「ちょっと待ってよ、琥珀! 確かに僕にも非はあるけれど………っ!」
「最初から最後まで間違いだらけじゃ、阿呆!!」
「あーもう……、静かにしなさい」
くわっと牙を剥いて息を荒立てる琥珀と、納得のいかない風情の章親を吉平が再びたしなめた。
「何があったんだ?」
咎めるわけでも、責めるわけでもない静かで優しい声音が問い掛ける。
しばらく琥珀と睨みあっていた章親はなおも納得のいかない色を面に乗せたまま、ゆっくりと父を見上げた。
「僕はただ、導かれるように外へ出ただけだったんですよ」
章親は吉平に説明しながら、もう一度数刻前を振り返る。
呼ばれたあの時、普通ならば出なかったはずだった。
しかし、まるで呼ぶ声に引き寄せられるかのように、自然と体が動いたのである。
自分の意思は、そこにまったく含まれてなかったのだ。
「僕だって、こんな時に外へ出たら、問い掛けに答えたらだめだってことくらい、わかってます」
陰陽師として、基本中の基本。
ただびとに見えぬ姿が発する聞こえぬ声は確実に闇に属する。
陰陽師には見鬼という、闇に属するものに触れる特別な力がある。
むろん、持っている者と持たぬ者と分かれてしまうが、安倍に生まれた定めなのだろう、章親も当然の如く持って生まれたのだ。
忘れ草ー蒼き月の花霞ー