僕が死んだ日

「それで、なんの用ですか博士」
Tと呼ばれた青年はハンカチで汗を一拭きすると、白衣を纏った老紳士に尋ねた。
「いや、このマシーンを使ってみて欲しいのだ」
 博士はそういうと、Tにトランシーバーのような機械を手渡した。
「通信機器ですか? なるほど、それなら一人で実験できませんね」
 Tはアンテナのように伸びた一部分を認めて言った。
「いや、違う。
しかし、一人で使えないのは確かだ」
「ならなんですか?」
「うむ、これはだな」
 と、博士が話しかけたところで、部屋の隅に置いてある固定電話が鳴った。博士は待っててくれ、と一声Tに言うと、電話の方に行ってしまった。
 博士がTに背を向けて、通話を始めてしまうと、Tは手持無沙汰になった。なんともなしにもう一度、機械に目をやる。やはり、トランシーバーのような形だった。しかし、スピーカーのようなものはなく、赤いボタンが一つ付いているだけで、他には何もなかった。
「なんだろうこれ」
 Tはボタンを押してみた。小気味の良い音と共にボタンが沈み込むと、機械が音を立て始めた。大きなモーターが回るような音だった。室内に広く響いたものだから、Tは少し驚いたが、それよりももっと驚く出来事が起こった。
 突然、博士が屈みこみ、地面に顔を伏した。受話器がコードに吊られている。そして、泣きながら叫び始めた。
「ああ、T。どうして死んでしまったんだ!」
「えっ」
 唐突な話だった。Tは困惑する。だって、自分は生きてるじゃないか。そう思いながら、博士へ近づき、その両肩に手を添えた。
「どうしたんですか、博士。
僕は生きていますよ」
 しかし、博士はTの言葉を聞き入れようともせず、泣きわめくばかりだ。それどころか、まるでTのことが見えていないかのようだった。悪戯や演技のような素振りは全くなく、Tの死を本気で信じているように見えた。
「まさか」
 Tは機械のボタンをもう一度押した。重低音が止む。すると、博士が立ち上がろうとしたので、Tは慌てて離れた。
「待たせたね、ええとその機械についてどこまで話したかね?」
 何事も無かったように赤い目をした博士が喋りかけてくるので、Tの困惑は更に深まった。
「まだ、何も聞いていませんよ」
「うむ、そうか。
その機械はだな……おっと」
 博士が吊るされたままになっている受話器を電話機にはめ込む、その後Tに向き直った。 
「ん? おかしいな、いやまあいいか。
端的に言おう、その機械は君を死んだことにしてしまう装置だ」
「なんですって?」
「信じられないのも無理はないが、本当だ。
その装置が起動している間、君のことは死んだと、皆が思い込んでしまうのだ」
 ありえない、と言おうとしたが、Tは先程のことを思い出して、口をつぐむ。なるほど、そうだとするとさっきの博士の反応にも合点がいく。僕の声に反応しなかったのも、僕が死んでいると思っているからなんだろう。死人に口なしだ。僕が死んでいるという認識が前提にあるので、僕が目の前に居るという現実が脳には理解できないのだろう。だから、僕のことを認めなくなるんだな。つまり、見えなくなるんだ。Tはそう考えると、少しだけ笑みを浮かべた。
「凄い発明ですね、一体どういう理屈なんです?
僕には全く想像できませんよ」
「うむ、そのボタンを押すと、特殊な音を含んだ電波が流れ出す。
それを人が聞くと、機械に登録されている人物のことを死んだと思ってしまう、というもので、今登録されているのは君なんだ」
「どれぐらいの人が、僕を死んだと思い込むのですか?」
「初めはその機械から鳴る音が聞こえる範囲だよ。
せいぜいこの部屋ぐらいだろうな」
 博士は六畳程度の部屋を見渡す、Tは博士の顔をじっと見つめながら聞いた。
「初めは?」
「ああ、広がるんだよ。
その電波は受信機、そうだな、電話でもラジオでもいい。そいつらが受け取る電波に混ざり込み、そいつらが送信する電波にも混ざり込む。そして、その電波を受け取った機械から、ということを繰り返し広がってゆく。この個室から、世界中の人と話ができるような世の中だ。すぐに世界中に広がるだろう」
「まるでウィルスのようですね」
「ウィルスか、確かにな。
危険なものであることもそうだ」
「ええ、そのようです」
「うむ、わかったようだな。
このことは誰にも言ってはならないぞ」
「知っているのは、僕と博士だけですか?」
「ああ、そうだ。
一番信頼できる君にだけ伝えたのだ。
この装置のテストもしなければならないしな。
電波が人にどんな影響を与えるのかも知りたい。
動物では試してあるのだが人はまだなんだ」
「なるほど、博士に一番信頼されたのが僕で申し訳ないですね」
「なに?」
 Tは肩頬だけを痙攣のように釣り上げて笑うと、機械のボタンを押した。小気味よい音が鳴り、沈み込んだボタンが元の高さに戻ってくると、博士の様子が一変した。
 博士が泣き崩れたが、Tはそれを背に部屋を出た。扉を閉めると、博士の声は聞こえなくなった。
「これは凄い、凄いぞ。
つまり、これって僕のことを認識できる人が居なくなるってことじゃないか。
透明人間だ、僕は透明人間だ。
その上、装置が起動している間のことは装置を停止させると覚えていないらしい。
博士の様子からしてきっとそうだ」
 独り言というには余りにも大きな声で、Tは喋る。その最中に、一人の研究生が通り過ぎたが、Tの方へは一瞥もしなかった。
「なんでもできる、なにをしようか。
まずは、金だ。
どんな大胆な盗みでもできるぞ。
しかし、その前に一応試しておこう」
 Tは博士の部屋があった棟を出ると、近くの喫茶店に向かった。この時間なら友人たちが集まっているはずだ。道すがら、装置を切っておいたので、今会えば普通に接してくれるはずだった。
 自動扉を抜け、迎えた店員の笑顔は歯牙にもかけずに、知った顔を探す。彼らは奥の席がお気に入りで、すぐに見つかった。
「やあ」
 Tは足早に近づくと、右手を上げた。
「おお、Tか。
博士のとこ居たんだろう、なんだったんだ?」
 友人がいつも通りに接してくることを確認すると、Tがボタンを押した。すると、友人は目尻を下げた沈鬱な表情になると、他の友人と小声で話し出した。内容はこうだ。
「T、死んじまったな」
「ああ、いいやつだったのに。
どうして……」
 それを見たTは確信する。この装置は本物だ。博士が僕を騙しているわけじゃなかった。信じられない機械だが、本当に自分が死んだことになるのだ、と。
 Tは更に奥の席に顔を伏せて泣いている人が居るのに気が付いた。その明るいブラウンのストレートヘアに見覚えがあり、Tは装置のボタンに指を触れさせた。泣いているのは、Tが憧れているSだった。
 彼女の方へ足を進めると、Tはボタンを押した。何事もなかったようにSが顔を上げる。
「あら、こんにちは」
 頬に伝う涙を見ると、Tは自分がとんでもないことをしているのではないかと思った。そこへ、電話の着信音が鳴るものだから、飛びあがるように驚いた。ポケットから携帯を取り出す、ディスプレイは発信者が博士であることを伝えている。
「出ないの?」
 携帯を取り出したままの姿勢で固まっていると、Sが聞いてくるので、反射的に出てしまった。
携帯を耳に当てると、すぐに博士の声がした。
「まさか君、あの装置を持ち出したのか!」
 耳朶を付いたのは、怒声だった。博士のこんな声を聞くのは初めてで、Tは自分のしていることがどんな事なのか気が付いたような気がした。
「ひっ」
 Tはその声をもう聞きたくなくなって、装置のボタンを押した。すると、すぐに電話からは泣き声が聞こえてきたので、通話を終了した。その後、Sや友人たちを見ないようにしながら店を出た。
「そうだ、もう後戻りはできないんだ。
なに、一生暮らせるような金でも盗んだら装置はすぐに博士へ返すよ。
そしたら、Sを迎えにこよう。
僕が死んであんなに悲しむ子なんだ、僕のことが好きに違いない」
 呟きながら、次に彼が向かったのは人々や車の行き交う交差点だった。
「もう一つ試さなきゃ。
僕が僕のことを知らない人に、どう思われているのか」
 Tは適当に歩いている人を選び、馴れ馴れしく肩を組んだり、肩に掛かったバックをずらしてみたりした。反応は全くなく、バックを元の位置に直すと、どこかへ歩いて行ってしまった。
「なるほど、やっぱり僕を知らない人からも僕は透明だ。
と、なると後は金を作るだけだな」
 Tは考えた。銀行から金を盗む、宝石店から盗むにしても、監視カメラがあるはずだ。僕は人からは認識されない、しかしカメラは別だ。盗みを働く僕の姿が写り込むだろう。いつまでもこの装置を起動しているわけにもいかないし、装置を切れば、カメラを証拠に僕が盗んだことがバレてしまう。
 どうしようかと、唸りながら悩んでいるTの背中に通りすがりの人がぶつかった。体格の良い人で、Tは前につんのめってしまう。
「いてて……ああ、そうか。
僕は見えないんだから、こんなところに立ってたら危ないな」
 そう思いながら、立ち上がろうとすると、手に持っていたはずの機械がないことに気が付いた。Tは焦りながら周りを見渡す。すると、ちょうど車道の方へ機械が転がり出る所を見た。
 直後、横からきた車が機械の上を通っていく。車が行ってしまうと、Tは信号も待たずに機械を拾い上げた。それから歩道に戻って、機械の状態を確かめた。
「そんな」
 ボタンの所が潰れてしまっていた。沈んだままになっていて、押すことはもうできなかった。
しかし、機械自体は動作しているようで、あの重低音が鳴り続けている。
「う、うあああああ!」
 恐ろしい想像をしてしまったTは走り出した。誰も彼を認識できないので、誰も彼を避けるものは居なく、何度も人にぶつかっては倒れた。
 その想像とはこうだ、この装置が壊れてしまったら、自分は一生このままではないか。皆に死んだものと思われたままなのではないか。そういうものだった。
「嫌だああ!」
 Tが向かったのは、博士の部屋だった。博士は自分の椅子に腰かけていた。腕をだらりと伸ばして天上を見つめていた。装置がしっかりと作動していた。博士は一番信頼できる助手を失った悲しみの中に居る。
「助けてください! これを直してください!」
 Tが博士の目の前に機械を出しながら詰め寄る。しかし、Tに対してなんの反応もなかった。目の端から零れおちた涙が顎を通り、首を伝ってシャツの奥へ消えていく。その間もTは何度も博士へ話しかけた。
「僕の死で悲しむなら、この機械を直してくださいよ!
それだけで、僕の死はなくなるんです!
お願いします、お願いします!
ああ、僕が悪かったんです。
魔が差したんだ、お願いですよ……」
 最後には博士の胸に縋るようになっていたが、やはり博士はTのことが認識できないようだった。
 Tは機械を投げ捨てると、部屋を飛び出した。とにかく、機械から離れるべきだと考えた。
「そうだ、遠くへ行こう」
 機械の電波は携帯電話等を中継して、色んな所へ広がってゆくと聞いていた。しかし、この都心から離れた田舎の方ならまだ電波が届いていないかもしれない。Tはそう思った。
 Tは新幹線に乗り込む。切符は必要なかった。自動改札は彼を認識しているのだが、駅員が彼を認識しないので、出てきたフラップドアを跨ぐだけでよかった。Tは自動改札が反応してくれたことに少し嬉しくなった。しかし、そのことは彼の恐怖心を更に高める結果となった。
 Tは新幹線を乗り換えて、とある駅で降りると、急いで駅を出て、迷いない足取りで歩き出した。ここは彼の故郷で、近くに彼の実家があるのだった。数分も歩くと、すぐに道の両側には田んぼが広がり、空は広々として、遠くの山まで見渡せた。新幹線に乗る前より、陽が陰っていた。
 一つの古びた民家で立ち止まると、引き戸を開けた。一度、途中で引っかかったものの、それからは滑らかにもう一枚の扉と重なった。
「ただいま!」
 Tは玄関で声を上げると、靴も脱がずに廊下を歩き、居間へ続く障子を引いて、部屋へ入る。畳の上に座して、母親の胸に顔を埋める妹を見たとき、彼は全てを察した。ここにも電波は届いていた。
 玄関から廊下へ、廊下からこちらへ近づいてくる慌ただしげな足音が響いてくる。Tは逃げ出したい気持ちで、後ろを向いた。そして、ちょうど居間へ辿り着いた人物と目があった。かに思えたが、相手はTを認識していないので錯覚でしかない。その人物はTの父親だった。白髪交じりの髪の下で、いつもは厳しく固まっていた表情が、今は崩れていた。
 父親が帰って来たことに気が付いた母と妹が、父親に抱き着いた。
「Tが……Tが……!
ようやく、あの子が一人立ちできたのばかりなのに!」
 母親の嗚咽が我慢できず、Tは耳を塞ぎながら家を飛び出した。熱い夕日に照らされながら、目的もなく、来た道を戻っている途中にふと思いついた。
「そうか、機械を壊してしまえばいいんだ」
 電波を発しているのはあの機械なので、あれさえ完全に壊れてしまえば、誰もがTのことを認識するはず。その通りだった。どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのだろうと、悔しがりながらまた博士の部屋に戻った。機械はそこにあるはずだった。
 新幹線を下りた頃、すっかり辺りは暗くなっていた。Tはまた人にぶつかった。暗くて見えないと、避けられないのだ。体のいろいろな場所をすりむき、服もボロボロだったが、なんとか博士の部屋に辿り着いた。
「博士!」
 意味はないが、叫びながら部屋に入り込んだ。部屋の電気は点いていない。中心まで進み、電気のスイッチを付ける。
「あぁ……」
 部屋には誰も居なかった。宙に吊られた博士だったものだけがあった。博士の足元には一枚の紙があり、Tはそれを拾い上げて、書かれていることを読んだ。
 Tくんへ、私が作った機械が落ちているのを見て、私は全てを理解した。
 君は私の信頼を裏切ったんだね、いや、もう透明になってしまいたかったのかな。
 この機械をわざと壊したのはそういうことだろう、もう人に認識されるつもりはないんだね。
 機械は君の望み通りに、遠くへ送っておいたよ。誰にも見つからないような場所だ。
安心してくれ、太陽光発電であれの電池が切れることはまずないはずだ。
 私の期待は煩わしかったかな、私の信頼は迷惑だったのかな。
 私の妻のことは話したっけね、子供ができないで、別れてって。
 君とは大学からずっと今までやってきたよね、だから私は君が本当の息子のように、いや、やめておこう。
 君だけは、この発明の危険性と重要性が分かってくれると思った。
だから、君だけに話したのに。
 文章はそこで終わっていた。Tは首を振りながら後ずさる。まるで、子供が駄々をこねるようだった。
「は、博士、そんな……!
僕は、なんてことを!」
 またTが部屋を出て、走った。今度は行き先などなかった。ただ、どこかへ逃げたくなっていた。ここではないどこかへ逃げたい、そんな考えで走っていた。どこに居てもそう思うものだから、足が疲れて、もう走れなくなるまでそうしていた。
 Tは気が付くと、ガードレールの先へ岬が伸びる、海沿いの車道に立っていた。陽は落ちて、街頭も乏しいので、辺りは真っ暗だった。波が岩壁に砕ける音が星空に散っていた。
「博士……」
 Tはガードレールを抜けて岬を進んだ。歩けば歩くほど、道は細く狭くなっていった。
「ごめんなさい、博士。
ごめんなさい、お父さん、お母さん。
僕はとんでもない罪を犯してしまった。
人を裏切ってしまった、しかも自分の汚い欲望のために。
償いになるかは分かりませんが、今に僕の死を真実にしようと思います」
 決意するように言い放つと、彼は暗い海に向かって身を投げた。彼が着水する瞬間、大きな波がTを飲み込んだ。
 
 やけに体が熱かった。しかし、上半身だけが熱く、下半身はむしろ涼しかった。天国、いや、地獄は妙な所だな。ぼんやりと、そんなことを考えながらTは目を開けた。まず真っ先に目に入ったのは、こちらを見る焼けた子供の顔だった。驚きながら彼が体を起こすと、自分が波打ち際に寝ていたことが分かった。どうやら、どこかの砂浜に流れ着いたらしい。
 自分を覗き込んでいた子供を見る。浅黒い肌に、乾燥させた葉で作ったこしみのを巻いていた。
「ここがどこか教えてくれるかな?」
 言葉が通じるとは思えなかったが、とりあえず話しかけてみる。答えは当然帰ってこなかったが、驚くべきことをTは発見した。
「まさか、僕が分かるのか?」
 そう、この子供はTのことを認識しているようなのだ。Tはもう一度周りを見渡した、白い砂浜、流木、見たこともない種類の植物。
「そうか、ここは電気が通ってないのか!」
 Tは今まで漂流していたとは思えない元気さで立ち上がる。ここには電波を受け取るようなものが何一つないため、彼のことを認識できなくなる電波が届かなかったようだ。
「やった! やった! 分かるんだな、僕のことが分かるんだ!」
 博士のことも両親のことも友人のことも、頭をよぎった。だが、誰かに認識されるという喜びが全てに勝っていた。Tはしばらく、満面の笑みで小躍りしていたが、唐突に倒れた。しっかり、漂流で衰弱していたようで、まるで電池が切れたかのようにいびきを立てて眠ったのだった。
 その寝顔はこれ以上ない喜びの笑みを作ったままで、それを見た子供も思わず笑ってしまうほどだった。
 
 Tが辿り着いた海岸の向こうで、二人の男が話していた。二人とも高級そうなスーツを着ているが、一人は立派な髭を蓄えていた。もう一人は、その男に見えるように紙を見せている。どうやら、髭の方が立場が上らしい。
「いいじゃないか」
「ええ、計画はカンペキです。
二年もすれば、ここも立派なリゾート地になりますよ。
草木を切って、地面をならして。
水道を引いて、電気を通して……」

僕が死んだ日

僕が死んだ日

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-08

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