贖罪の少年 第8章 4部
樫之木千里
母と娘
次の日の朝、稲月は誠に協力することを約束し、川崎家を後にした。
この日は日曜日である。親子三人で過ごしてもいいものだが、昼前に誠は一人、家を出て行った。
「仕事の資料を作る為に、図書館に言って行くる」
「いってらっしゃい」
佳代子は玄関まで出て行き、誠が出て行くのを見送った。
その後、美雪と佳代子は簡単な昼食をとった。その時美雪が、母の佳代子にお願いをした。
「お母さん、クッキーの作り方教えて」
「いいわよ。材料もあるから、お昼を済ませたら教えてあげる」
微笑む母に、美雪は「ヤッター」と幼い子どもの様に喜んだ。
昼食を済ませ、クッキー作りの準備をしているとき、佳代子は感慨深くこんな言葉を口にした。
「美雪ももう、お嫁さんになる約束が出来る程、大きくなったのね」
そんな母の言葉に、美雪は無邪気にこう答えた。
「そうよ。私、稲月さんと結婚したら、お母さんが作ってくれたような、美味しいご飯を作りたいの。そして子どもが出来たら、今教えてもらっているお母さん特性のクッキーを作って、食べさせてあげたい。
だからお母さん。料理とかお洗濯とか、家の事を私に教えて。私、お母さんみたいなお母さんになりたいから」
佳代子の頬には、いつの間にか一筋の涙が伝っていた。
「お母さん?」
心配そうに彼女の顔をのぞく美雪に、佳代子は笑顔になって涙を拭いた。
「ごめんなさい、心配かけて。お母さん、美雪がそんな言葉いってくれたから感動しちゃったの。私は母として、本当に幸せ者だわ。私を幸せなお母さんにしてくれて、美雪、ありがとう」
そんな母の言葉に、美雪の心は痛くなった。でも、それを振り払う様に、目一杯の笑顔で母に答えた。
「お母さんが幸せなら、私は幸せよ」
「美雪……」
涙をぽたぽた流す母の姿を、美雪はもう見ていられなくなった。
(ごめんなさい、ご免なさいお母さん! 私、貴方が涙を流してくれるほど、いい娘じゃないの! 学校で威張り散らして、人をけなして、そしてお父さんとも、貴方を裏切ることをしているの! 最低の娘なの!)
美雪の心は懺悔で一杯になった。
(耐えられない!)
そう思い至り、美雪はふと台所の窓の外へと視線をそらした。
そのとき敷地の外の道路に、七瀬の母がいたのが見えた。
彼女は日傘をさして美雪の家の前を歩いて行った。
美雪は幼い頃、七瀬が言っていた言葉をふと思い出した。
『僕はお母さんに嫌われている。僕が悪い子だからかな』
当時の美雪から見れば、悪いのは七瀬ではなく、嫌がらせをする七瀬の母親であった。美雪は、七瀬を励ます為にこんな言葉を言ったものだ。
『七瀬は悪く無い。だって意地悪するのは七瀬のお母さんだもん』
それを思い出した美雪は、自分の罪悪感に疑問を持った。
(本当に私『だけ』が悪いの……?)
何故自分は、母にここまで罪悪感を持っているのか?
そして何故、昔は大好きだった七瀬を憎しみ、酷い扱いをしているのか。
(私の今の感情は、何でできているの?)
そう思い至ると、何もかも分からない事だらけでだった。
(私は何を守ろうとしているの?)
そう思った時、美雪はもう一度母の顔を見た。
母はハンカチで涙を拭いた後、にこりと美雪に微笑みかけた。
それを見た美雪は、一つだけ分かったことがあった。
(お母さんを守らなきゃ。虚像を守る為じゃない。
今の幸せの虚像が壊れた時、本当の意味でお母さんを守れる様に、強くならなきゃ。
たとえお母さんに嫌われても。
だって私は、それだけこの人に愛してもらったもの)
決意を固めた美雪は精一杯、母に微笑みかけた。
「ありがとうはまだ早いよ、お母さん。私がいいお嫁さんになった時に言ってね。その為にも私、今からクッキーのレシピ覚えるから、お母さんもスパルタで教えてよ」
そんな娘につられて、佳代子も笑顔で答えた。
「分かったわ。美雪にどんどんお嫁さんの極意を教えるから。世界一の花嫁になるのよ」
「うん! 自慢の花嫁になる」
こうして母子二人、一緒になってクッキー作りを楽しんだ。
不安の影
水曜日になった。
学校に行った美雪は、野球部の練習場に学校の生徒ではなさそうな少女の姿を見つけた。
(こんな朝に私服の娘が何で来てるの? それになんか変にそわそわしている。気になるわね)
美雪は一瞬彼女に堂々と声を掛けようと思ったが、少し思い直して尾行する事にした。
(これもスパイの練習よ。あの娘に怪しまれない様に正体を暴いてやる)
美雪は物陰に隠れて、じっと少女を観察した。
だがしばらくすると、少女の視線が何だか美雪に向いているように見えた。
(あれ? 私の姿は見えないはず)
美雪がそう思ったのも束の間だった。
「何か私に様なの?」
怪訝そうに美雪に問いかける少女に、美雪は度肝を抜いて大声で叫んだ。
「なんで分かったのよ!」
「あそこにいる貴女のファンが、貴女がいることを教えてくれたのよ。川崎美雪さん」
彼女の説明する方角を目にすると、美雪の熱烈なファンである男子達が
「今日の美雪様も美しい」だの
「一度、川崎先輩と話してみたい」
だのと夢見心地で言葉をもらしていた。
美雪は彼らに「貴方達、邪魔よ!」と罵声を浴びせると、彼らは蜘蛛の子を散らした様に、慌てて去って行った。
「ああっもう! 隠れるなんて私のガラじゃない。貴女、一体何処の誰よ! 私の名前を知ったのだから、貴女だって答えてもらう義理はあるわよ。さあ、答えなさい!」
高圧的ではあるが、美雪のいい分はもっともだった。少女は美雪をはぐらかすことを断念し、正直に答えた。
「私は中村那奈。フリーターで、この学校の野球部主将の三島萩彦君の彼女よ」
「! はぎっ……三島先輩、の彼女?」
美雪は三島の名前を聞いてどぎまぎした。恋愛とかそういう意味ではなく、後ろめたさで避けていた人物が、ふと話題にあがったような、そんないたたまれない感情に心が支配された。
そんな事で美雪の目は不自然に泳いでいたが、それを那奈は変に解釈したらしい。
「貴女、もしかして三島君に変なちょっかい出してないでしょうね」
「はあっ?! なんで私が萩彦にそんな感情抱かないといけないのよ! 心外なんだけど」
それを聞いた那奈は逆に美雪に詰め寄った。
「貴女、三島君の何なのよ! 親しそうに下の名前で呼んだりして!」
「うるさいわね、只の幼なじみよ! 家が近いだけ!」
「何をしているんだ」
いきなり男に声をかけられた美雪と那奈は、その声の方へと振り返った。
そこには唖然としながら、二人を見つめる三島の姿があった。どうやら朝練が終わり、丁度教室に行く所に出くわしたようだ。
それを見た美雪はギクリとなった。
「あ……どうも。ってか彼女来てくれたんだから、ちゃんと相手してやんなさいよ!」
美雪はそう言って那奈を三島の方に突き飛ばすと、すたこらとその場を走って離れていった。
そんな美雪を、那奈は唖然としてみていた。
「何だったの、あの娘」
「美雪のことか。あつは昔から相変わらずだな。それよりも二人とも何を話していたんだ」
そう問う三島の目は、真っ直ぐと那奈の方を見ていた。
そんな三島の態度を見て、美雪の証言は本当だったと確信した。
「うん、私が私服でここをうろついていたから、彼女に何処の誰って問いただされていたのよ。私も彼女が三島君のこと『萩彦』って呼んだから、彼女の事を勘違いしただけ」
「ハハハ、美雪とはただの幼なじみだ。あいつは他に好きな人がいるんだよ。それにしても何で、今頃学校に来たんだ」
「三島君に聞きたい事があるの。マネージャーの娘と関係を持っているって本当?」
小声で尋ねた那奈に、三島は質問の事がことだけに血相を変えた。
「那奈、ここでは何だし向こうで話そう」
「そんなことしなくていいよ」
その声に三島と那奈は振り返った。
「こうやって改めて話すのは初めてだね。中村那奈さん。野球部のマネージャー桜庭千恵子です。貴女、私と三島君の事、何か勘違いをしていない」
桜庭はニコッと愛嬌のある笑顔を、那奈に振りまいた。
「三島君みたいなイケメンの彼氏持っちゃうと、浮気しないか心配するのは分かるよ。でも私の顔、見てみなよ。自慢じゃないけど男受けしない顔だから。三島君は可愛い彼女がいるのに、私なんか相手にするわけ無いじゃん」
そういう桜庭をまだ不安そうに見つめる那奈に、桜庭は大笑いをして言葉を並べた。
「貴女、見かけによらず心配性ね。そんな不安そうな顔しないで、『三島君の彼女です』って胸はって威張んなさいよ」
そして三島も桜庭に並ぶ様に
「こういう訳だから、那奈、お前の考え過ぎだ」
と那奈の頭をなでながら答えた。
那奈が何かを言おうとしたとき
“キーンコーン、カンコーン”
と授業開始の呼び鈴が鳴った。
「もう授業が始まるから。じゃあね、中村さん」
「那奈、また放課後な」
二人は那奈を置いて校舎の方へ走って行った。
残された那奈は呆然と、二人が去るのを見つめていた。
(様子がおかしい康平を問いつめて、吐き出させた情報なのに。康平がガセネタを掴んだの? それともあの二人が嘘を?)
思い悩む那奈の頭は、とても混乱していた。
「もう……わけが分かんないっ……」
那奈は一人、野球部の練習場前でめそめそ泣く事しか出来なかった。
贖罪の少年 第8章 4部
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