金魚の鉢

くらげみん

家に帰ると、彼女が泣いていた。彼女は少しうつむきながら、その手のうちに収めてあるものを眺めているようだった。その手の中にある、空になった金魚鉢は綺麗に水滴をつけて、上の方の少し青い透明なガラスには、彼女の涙の雫をぽたりぽたりと染み込ませているようだった。彼女は未だ、僕の帰りに気がつかない。

彼女はたまに、僕にはわからない感性を発揮することがある。例えば水族館のイルカショーを見ながら、彼女は涙を流している事があった。どうしたのかと問うと、この子達がここで、どんな思いで、どれだけ練習したんだろうと思うと、胸が痛くなるん、その終わりは何処かも、わからんのに…、とただそれだけ答えた。僕にはよくわからなかった。イルカはイルカだ、餌を貰って芸をする。そして僕等は人間だ。それなのに、ただそんな妄想で君は泣くの?と聞くと、黙ってうつむいてから、イルカにだって気持ちがあるやないのと、また僕には考えもつかなかった回答が返ってきた。それ以外にも、散歩をしていれば、道端の花を見ては泣くし、飛ぶ鳥を見ては泣くし、やってるかやってないかわからない駄菓子屋を見ては泣いた。それは全て悲しい涙という訳ではなかった。ただ、そのもの達の様々な感情が、自然に、彼女の中から涙の雫として溢れ出ることで、表現されるというのが正しいようだった。

今日だって、僕が一人暮らしの時から飼っていて、同棲を始めてからもどんどん大きくなっていった金魚の家である鉢を手にして泣いている。そこにいたはずの金魚は、彼女と夏祭りに行った時に自慢の腕を見せてやろうと、欲しくもないのにすくい上げた奴だった。彼女はそれを見てまた感動し、次の日の朝にはそいつのための金魚鉢を持ってきた。同棲を始めてからも、僕より大切に育てていたのは確かだ。

「そいつ、どうしたん?」

彼女は未だ僕の方を見ない。

「…水に、かえった。」

ほど小さな声で話す彼女の肩は震えている。この涙は、なんの涙なのだろうか。彼女自身のものなのか、それとも金魚が最期に何かを訴えてきた、その涙なのか。僕は今の状況から、それをうかがい知ることができない。

「生き物やし、仕方ないやろ。生きてりゃいつか死ぬ、みんなそう。」

彼女は手にしている金魚鉢を未だ眺めながら、ポタポタと先ほどよりも多くの涙を流した。しかしこちらから見る限り、表情は無いようだ。

「わたしは…。」

僕は立ったまま、彼女を見つめ続ける。その雫で鉢がいっぱいにならないか、少し心配になった。

「わたしは、何処かへかえれるんやろか。かえるところが、あるんやろか。」

今にも消えんばかりの声で呟く彼女をみて、僕は何とも言葉にしがたい感情を抱いた。この子はいつか、僕と生きていくよりも、ひとりで何処かへかえることを望むのだろうか。それとも、僕と何処かへかえることを、望むのだろうか。金魚鉢を映す彼女の瞳は今、何を思っているのだろうか。

彼女は鉢を持って立ち上がった。水滴が付いているそれは、窓から差し込む夕日の光を浴びてキラキラと輝いている。瞬間、彼女がそれから手を離した。大きな音とともに、ガラスの破片が砕け散る。彼女の涙を染み込ませた青色も、哀しいくらい小さくなって、床と共に溶けていった。

金魚の鉢

金魚の鉢

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-05

Copyrighted
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