私の先生
彼と初めて会ったのは四十年前の若いころで、職場では碁がさかんだった。私も碁の魅力にとりつかれて手当たり次第に相手を探していた。
そこに彼が仕事でやって来た。私より少し若い。碁を打つと聞いて、早速申し込んだ。そしたらなんと、県代表クラスの腕前というではないか。相手にして貰えないだろうと諦めていたら、「では、打ちましょうか」と声をかけてくれた。超高段者と打てるなんて、と胸が高鳴った。自分は覚えたばかり、星目に風鈴を付けても勝てなかったが、これほどの人と対局したことが嬉しかった。幸運にも、その後も時々打って貰った。彼が嫌な顔をしたことはない。声をかけると、「いいですよ」と、いつも言ってくれた。
同僚の碁敵にぼちぼち勝てるようになった頃、彼が東京に転勤して行く事を知った。非常に残念だった。
私には、大学のクラスメートだった友人がいる。お金や出世に関心がない碁キチ、釣りキチだ。碁の集中力を持って、学問一筋なら必ず教授になっていたろう。惜しい男だとみていた。その友人も彼を知っていた。
三人で送別会をしよう、このまま、彼と別れてしまうのは何とも寂しいではないか、ということで一泊二日の温泉宿で最後の碁を打った。打ちながら、今後も年一回集まろうと提案してみた。
彼は快く承諾し、友人は大賛成。酒を酌み交わしながら、ルールも決めた。彼に三連勝したら置石を一つ減らすも、彼が勝ち続けても置石は増やさない、という勝手なものだ。そうでもしなければ、すぐ引き戻されて一歩も前に進めないかも。彼は、ずるいとも言わず、ニコニコしていた。
この時から、彼は我々のお師匠様になった。あまり期待できない弟子ふたりの囲碁教室だ。私は星目つまり九子置いて、友人は四子置いてスタートすることになった。
門下生たちは励ましあいながら楽しい難行苦行を続け、毎年温泉宿で検定試験を受けた。大抵は不合格だったが、それでも一歩一歩階段を登って行った。ついに登頂に成功したと言いたいところだが、まだまだ頂上は見えない。置石が二子になってから、道は更に嶮しく断崖絶壁だ。
ある日のことだった。「もう一局いいですか」、「いいですよ」を何回も繰り返していた。夜中になり、もう一人の弟子は呆れて先に寝てしまった。先生も時々あくびをするようになった。私は碁になれば、疲れを感じない。一晩ぐらい寝なくたって平気だ。それに今回はまだ一度も勝っていない。もう一度だけ石を置いてみよう。ソッと。そしたら正座していた先生も目を開けて、ソッと置いた。
もういい加減にやめよう、と言われるかと思っていた。さらに二,三局続いたが、先生が怒ることは無かった。
私は、この人は大人物だと思った。同時に、自分の心の様を省みて恥ずかしくなった。
先生は音楽も読書も運動も好む。昨年は一人で奥の細道を、その前は中仙道を自転車旅行しながら、温泉やうまい物を楽しんだ。一流の人ばかりでなく私のような凡人とも付き合い、人望があるから大会社の重役にも推された。全体のバランスがとれているのだ。
それに比べると私の碁は性格や思考過程と同じにバランスが悪い。欲張るな、攻めだけでなく守りも大事、勝つことは考えないでよい碁を、と指摘される。これらを忠実に守って、年に一、二度まぐれで勝つことはあったが、三連勝は難しい。昇進がかかると悪癖が丸出しだ。ゲームが終わると「いつもの癖がでてしまいましたね。惜しかったですね、わたしもあぶなかった」と必ず慰めてくれる。弟子達に対して碁は厳しく、心は優しく接する。
ある時、腕試しに町の碁会所に行ったことがある。ついでに、そこのX氏に指導碁を受けた。プロ出身だった。二面打ちしながら、いらいらしたのか、「そんなところでいつまでも考えるな、さっさと打て」と私に言った。皆の居るところで恥をかいた。私はカネを払って来ているのだ、カッとなって反発した。「打ち方がわかったら、ここに来る必要はないですよ。それに、碁の楽しさは考えることに有るのではないですか。私はXさんのように頭はよくない、少し我慢して下さい」と。周りの目がX氏と一緒に笑っていた。それからも不愉快な事を言われたので、石を崩して帰った。その碁会所には二度と行っていない。
私のお師匠はX氏とは違う。碁ばかりではない。人格形成には、思いやり、忍耐、教養が大切だという事を教えてもらっているようだ。私に欠けている物を持っている。私が歩けない病気になり、三人集まれなくなってからは専らインターネットで合っている。今は碁だけが唯一の楽しみだと言う私のために回数を週一回から週二回に増やしてくれた。私は人生投了の日まで、いつものように、三人で碁を打ちたいと思っている。この先生とこの友人ならにっこりしながら付き合ってくれるだろう。
2016年6月5日
私の先生