レタス畑の真ん中で
とある復讐。
風で息が凍る。これが俺の喧嘩だと、僕は畑に倒れ込んだ。
姉が、中学時代にいじめられていた。
定時制高校を経て、今は社会人として働いている。
姉はメンタルクリニックに通っている。
職場でもいじめを受けているようだ。
しかし、めげずにやっている。「もう慣れた」と相変わらず無表情でそう言って、「行ってきます」と律儀に頭を下げて家を出る。
僕は、今年から地元で知られた進学校に通っている。
僕もどちらかと言うと無口な方で、愛想をむやみに振りまける方ではない。
身長が高いということと身体能力が高いということに自信があって、高校からは好きに動きたくて帰宅部に入った。
陸上部やバスケ部の奴にも声をかけられたが、「いや僕は、運動神経ないから」と言って断っていた。
体育の授業でも、本気は出さず、そこそこに。
わざと目立たないように走っては、ボールが回ってきたときだけ素早く仲間にパスをする。
「君は絶対才能あるよ」とバスケ部の人に言われるが、「いやいや、いいよ」と言って、謙遜する。
授業中は大学に行く気もないので、そこそこに真面目にして、後半上の空。隣の子が委員長だから、当てられても教えてくれる。
「ありがと」
そこそこの人間関係は守っておく。どっち着かずの蝙蝠野郎。自分で言ってるだけだが。
クラスの陰湿な一部の人間が好き放題言ってるらしいが、名前も知らないのでほっといた。
ある日、その陰湿な奴の一人が席まで来て、「良治君のお姉さん、メンヘラなんだって?」と聞いた。
「は?」と言うと、「いやあ、メンヘラって、遺伝性らしいじゃん。君もそうなのかなーって、みんなで喋ってたとこ」とそいつはにやにや気持ち悪い顔に笑みを浮かべていった。やけに大きな前歯が目立つ。
切れるか?
そう思ったが、ここは、と思い、
「いやー、俺は君みたいなのこそメンヘラだと思ってたけど、違うんだー。萌え系アニオタの気持ち悪い顔して暗い話ばっかしてるからメンヘラかと思ってたー!あっそうなの?君メンヘラじゃないの?じゃあメールの文面マジきめえって女子たちが言ってたのって、あれって勘違いだったんだー、いやー失敬失敬、間違えちゃってごめんねー」
「あと、俺はストレートで百合とか興味ないからね」
ぽんと肩に手を置いてその場を去った。そいつはぶるぶる振えてたけど、「マジ殺す」とか仲間たちが立ち上がったが、目の前まで歩いて行っても誰も殴る姿勢すら取らない、取り方を彼らは知らない。一人ずつ目を合わせて睨みつけたら、全員下を向いた。
「喧嘩の作法も知らねえのか」
僕はそう言って、教室を出た。そのままジュースを買って教室に戻ると、今まで話したことのない子たちが、「高橋君、ケー番教えて」と集まってきた。
奴らの陰険な目は、忘れがたいほど気持ち悪かった。
それから、予想していた通り、裏掲示板で僕は叩かれていたらしい。
女の子たちが心配して教えてくれたが、別にどうでもいい。喧嘩の仕方は、姉から学んでいる。
「良治女の子孕ませまくりだってー」
知らない奴がきひひ、と笑って言うが、全部無視した。どうだっていい。
その内、クラスから必然と浮き始めた。
頃合いを見て、「そろそろか」と僕はランニングウェアを買った。
陸上部が走るのに合わせて、その横を黄緑のアディダスのジャージを着た僕も走る。長距離走にも、全力疾走にも、見よう見まねで着いていく。
「おい、邪魔すんなよ!」
このスケコマシが、と怒鳴られたが、音楽を聴いて知らんふりで走り続けた。担当の先生は、ぜーぜーと息をする僕に向かって、親指を「アイルビーバック」とでも言うようにぐっと立て、ぽんと肩を叩いて労ってくれた。
お前の喧嘩だ、お前がやれよ。
そう無言で告げられた。
イエッサー、僕はつぶやいた。
その内、僕に挑もうという者が増えた。女子がキャーキャー言って僕の写真を撮る。何人もの男子と陸上部に挑みながら、僕は走り続けた。僕の得意分野は、ただしつこいということだけ。実にシンプルな競技なので、頭を使わなくていい。
やがて、僕の知らないところで「ランナウェイ」というサークルが作られ、僕を負かせることが主な目標と言うランニング主体の団体であることが分かった。
大人げなく、社会人も参加している。何気に頭が輝いている中年のサラリーマンが最強で、手強かった。
「清っさん、マジ強いよね」
はい、と自然にポカリを女性に差し出され、あ、どうも、と僕は若干驚きに思って受け取った。自分に友好関係が築けるとは思っていなかった。僕は案外、人間不信だ。
その内、地元でランニングが大々的に流行り出した。老人会や市の団体もたくさんできて、大会にも出場するようになった。
僕は相変わらず、一人で黙々と走っている。
「一回お前、大会出ないか」
シュワちゃんの先生がそう言って、無骨にチラシを手渡してくれたが、僕は「いえ、人の多いところ苦手なんで」と断った。先生は「そういうのも、良いと思うぞ」と、笑わずに答えた。ぐっと来るものがあった。朝出かけていくときの、姉の無感情な、「行ってきます」。
僕は、静かに決意した。
決着を着けなければ。
早朝、4時ごろに外に出ていく姉に、僕は「姉さん」と声をかけた。
「着いてっても、良いかな」
姉は、人嫌いが過ぎて、この時間帯に田舎の方のダムまで車を走らせ、その周辺を一人黙々と走っている。
誰にも気づかれずに、褒められもせずに。
僕は、誰よりも、姉と走りたかった。姉と言葉を交わしたかった。
姉に人の中へ、戻ってほしかった。
「姉さん、あのさ」
僕は一つ前を走る姉に向かって、息を切らしながら言った。
「一緒に大会、出てみない?」
人と競った方が、楽しいよ。
そう言ったら、姉は無言でペースをどんどん上げ、僕を置いて行ってしまった。
はあはあと僕は息が切れ、やがて歩き出した。
グラウンド一周って範囲じゃないぞ、これ。
僕は、小さなころの姉を覚えている。僕にお菓子を譲らなかった姉。おもちゃを取り合って、僕を泣かして自分も泣いた姉。
お祭りのとき、僕の手を嫌々引いてくれていた姉。
山の冷気で、息が凍る。
僕はレタス畑の真ん中で、静かに立ち止まった。
鳶が飛んでいる。山が薄紫で、空が青と黒の真ん中に、月が消えかかって美しい。虫が静かに鳴いている。
新鮮な空気に、ダムから流れる川。中で魚か何か、泳いでいる。
あ、鴨の親子!
僕は背伸びしてそれを見てから、ああ、ここは姉だけの場所だ。姉の辿り着いた結果だ。姉はいつだって、一人がいいんだ。それは僕も同じだ。
そう思った。
姉も僕も、群衆の中には戻らない。
それでも、確かに血は繋がっていて、それがある限り、僕らは一人じゃない。
むしろ、一人になったって、この世界があるなら良い。
僕は、誰も見ていないことを良いことに、レタス畑の乾いた土の上に腰かけた。土を感じたくなったのだ。
幼いころは、姉と一緒に、山を駆け回っていたっけ。
そんなことを思い出しながら、僕は横たわった。
モンキチョウの眠っているのが目に入る。
僕はしばらく、動かなかった。
やがて姉が戻ってきて、「まだまだね」とクールに笑った。「何、そんなとこで寝て、野人?」と言われ、僕は立ち上がって、ぱんぱんと土を払った。
「・・・帰ろっか」
姉が言った。僕は「うん」と頷き、「ねーちゃん、すげーね」と昔のように言って、笑った。姉は自信たっぷりに親指をぐっと立てた。
「アイルビーバック」
あれ?なんかデジャブ。
そう思いながら、姉に続いて、車に乗った。
ダムを出て、山が遠のく。町に戻る。
僕たちの戦場に、戻っていく。
「負けんなよ」
姉が前を見たままそう言った。
「いや、もう余裕」
僕が言うと、姉が油断は命取り、とつぶやいた。
やがて朝日が昇る。
僕らは静かに、誰にも知られずに、帰ってきた。
「今日も締まって行こう」
姉がいつになくひとこと言った。行ってきます、と家を出る。
「ねーちゃん待って」
僕はパンを咥えたまま、母が驚き、父が笑う中姉を追いかけた。
今日も締まって行こう。
人って一生舞台から降りられないんだな。
僕が今までの人生で学んだこと、それだけ。
レタス畑の真ん中で
誰にも知られなかった。