メランコリック・ガールの徒然な日々
ふと、たまに思うことがある。
あの時――進路希望調査と印字されたぺらぺらの薄い紙に、別の高校名を書いていたら、あたしは今どんな学校生活を送っていただろう、とか。そうしていたら、こんな風にひとりでご飯を食べるなんてことはなかったんじゃないかとか。
屋上から飛び降りたら楽になれるかな、とか。
ぶわっ、と夏の気配を含んだ風が吹き抜けていく。
髪や制服や、開いていた英単語帳のページをめちゃくちゃにしていったものだから、あたしは、購買で買ったパンをくわえたまま、手櫛で身だしなみを整えた。それから単語帳を元のページに戻し、内容を無理やり叩き込もうと試みる。だけど集中力皆無な脳みそは一つも覚えようとしてくれなくて、結局、数分も経たずにぱたんと閉じた。
ふと見上げると、すっきりした青空の中、三匹の鳥が楽しそうに飛んでいた。
「……羨ましい」
気付けばぽつりと吐き出していたそれを、味気ないコッペパンと一緒に体内に流し込む。
後ろから誰かに首を絞められているような、あるいは、見えない足枷の先に日を追うごとにおもりが追加されていくような。たとえるならそんな鬱屈さを感じ始めたのはいつ頃からだったろう。息を吸うことが、今まで当たり前にできていたはずの通学が、教室にある自分の席に座ることが、いやになったのはいつから?
はぁ、と大きなため息をつく。
この学校へは、強い思い入れがあって志望したわけでも、自分の学力以上のレベルだから必死になって勉強したわけでも、逆にランクを下げた安全圏として受験したわけでもなかった。当時の担任に「雲珠にちょうどいい」とすすめられ、他に特別行きたい高校もなかったから。ただそれだけ。実際、高校入試の点数としてはそれなりにいい位置で合格したし、入学当初は学年平均より上のあたりにいた。――だが、一年たった今。気付けば最下層であっぷあっぷしている。
小学校のときも、中学校のときも、教壇に立つ先生の話を聞きながら板書し、宿題をして、そうやっていれば解らないことなんて何もなかった。問題を前に頭を抱える友人たちが何故解けないのかが逆に分からなかった。でも今では、教科書に載っている文章も、先生の話の内容も、何もかもがちんぷんかんぷん。ここでは授業中右手が休まらないあたしよりも、ほぼ居眠りをしている隣の席の男子や、スマートフォンの液晶画面ばかり見ている斜め前の女子のほうが、たぶんずっと、頭がいい。
だからと言って、クラスメイト達が嫌いかと問われたらそうでもない。
あたしは誰かにいじめられてはいないし、例えば○人組を作りなさいと言われたら出来るし、馬鹿話したり、お互いのテストの点数を見せあって笑い合えるような人がいないわけじゃない。だけど、彼女らと一緒に過ごしていても、無意識にあたしが一線を引いているのか、あるいは彼女らから一歩距離を置かれているのかわからないけど、常に窮屈さを感じている。うわべだけの会話。相手やその場の雰囲気に合わせて相槌を打ち、自分を取り繕うのは正直堪える。
何で中学校のときはあんなに楽しかったんだろう。
あたしはコッペパンを齧りながらぼんやりと思った。
退屈で面倒臭い授業を受けて、休憩中は友達と会話(先生の愚痴やウワサ話、テレビに映った芸能人についてとかエトセトラ)をして、帰路につく。一日を振り返って文字化すれば大して変わらないはずなのに、どうしてこうも、違うんだろう。
と、スカートのポケットに隠し持っていたスマートフォンがぶるぶる震えた。別の高校に行った友人からの連絡だった。
仲睦まじげな様子で笑っている、同じ制服を着た友人二人。きっと、先日あたしが補修で遊ぶ約束をドタキャンした時のものだろう。添えられた文章には、元々三人で見る予定だった映画の感想とか、あたしが食べたいと密かに思っていた新発売のアイスはまずいからやめた方がいいという忠告とかで。「今度こそ佐保子も一緒に遊ぼうね」と締めくくられたそれに返信しようと思った指が、ふと止まる。
久しぶりに三人で遊ぼうという話が誰からともなく上がったのは、これがはじめてじゃなかった。そしてそれをあたしだけがキャンセルしたのもはじめてじゃなかった。
確かこのあいだは部活の予定が合わなくて、その前は大して縁もない親戚の法事に参加することになったからで、そのさらに前は……――こうして振り返ってみると、あたしだけがおいてけぼりを食らったような錯覚にとらわれる。
こういうすれ違いが、もし、これからも続いたら。
あたしはぐっと唇をきつく結んだ。
彼女らの友達枠からひっそり外されてしまうんじゃないか、雲珠佐保子という存在が忘れられてしまうんじゃないか、――二人だけで遊んでいるところを見かけたら、なんてことが頭をよぎる。そしたら文字が一つも打てなくなってしまった。
もしかしたら、既に、都合がつかなくて疎まれているかもしれない。あのメッセージはただの社交辞令で、今頃二人は仲良くご飯を食べながら次の予定を決めているんじゃ……。そんな卑屈なことを呟く自分に気付いて、あたしは、スマートフォンをポケットにしまった。
今日は快晴。雲一つない、すっきりとした青空が広がるでしょうという今朝のお天気お姉さんの言った通り。
でも、対照的に、私の心に重く広がる陰鬱さは増していくばかりだ。気付けばまたため息が出ていた。
「ため息ついたら幸せが逃げていくんだぜ」
ふと、掛けられた声にはっと顔をあげる。
立っていたのは見知らぬ男子生徒だ。同じ学年じゃないだろう、ということは上か下だ。
はぁ、とあたしは返した。見ず知らずの人にそんなこと言われても、っていうかそれ、迷信じゃ……。
と、突然。彼が辺りの空気を勢いよく吸い込んだ、まるで修学旅行先の水族館にいたジンベイザメが辺りの海水を飲み込むように。いきなり何をしているんだ、とあっけにとられたあたしを見て一言。「あんたが逃がした幸せ、俺がもらったから」そう言って二カッと笑ってみせる。
「なにそれ」
「あ、今ちょっと笑った」
そう指摘され、強張った表情筋がいつもより緩んでいるのが分かった。
「今からそんな眉間に皺寄せてると、年取ってからヒドイことになるぞ」彼が少しだけ距離を開け、コンクリートの手すりに背中を預けて言う。初対面の相手に大して大層失礼な台詞だが、ジョークめかした言い方は不思議とムカつきはしなかった。
穏やかな数分の沈黙のあと、彼が、まるで明日の天気を尋ねるような口調で問うてくる。
「逃げてきた?」
「……うん、まぁ。そんな感じ」
あたしはそう返した。
手すり越しに教室が見える。
彼の言った通りだと思った。逃げてきたのだ、あたしは。今にも窒息しそうなあそこから。
別に特に大きな問題や、理由があるわけじゃなく、ただどうしても居たくなくなって、誰とも会わないだろう屋上へにきたのだ。
「俺たちがさ。一日何時間、学校っつー狭い社会に生きてるか考えたことある?」
唐突に投げられた質問に、あたしは首を横に振る。考えたこともなかった。
「八時に登校してさ、五時に下校するとして、……約九時間。九時間もさ、俺たちは七メートル×九メートルの空間に缶詰め状態なわけ。酸素も薄くなるし、そりゃ開放的な屋上に来たくもなるってもんだ」んんっ、とストレッチでもするように背筋を伸ばしながら彼が言う。「いいんじゃねーの、ここ、気持ちいいし。ユウキアルテッタイ、的な」
「お互いに?」
一拍間をおいて、彼が笑った。「そーだな」
あたしは心の中だけで彼の言葉を復唱した。勇気ある撤退。単に逃げるのではなく、万全のコンディションで臨むために、今、あえて身を引くこと。
すると、今までずっとあった重たいものが空気中に霧散していったような気がした。
予鈴が鳴る。
昼休みの終わりの合図。十分後にはもう一回鳴って、そしたら英語の授業だ。そう言えば単語テストがあったんだっけ、全然予習してないや。でも、言うほど焦っていない自分がいることに驚いた。
何の気なしに教室に帰ろうとして、ふと、屋上のドアノブを捻ったまま立ち止まる。振り返ると、彼は手すりにもたれかかるようにしてまだ立っていた。
「……授業、出ないの?」
「出ないんじゃない、ジシュキューコーってやつ」
「それって出ないってことじゃん」
「教室で窒息死するよりマシじゃね?」
彼はあっけらかんと言った。だろ、と同意を求めるようにあたしを見ている。
ドアノブを握っていた手が、しばらくして、自然に離れた。
「そうだね」
あたしはそう笑いながら返した。初めて授業をサボった。
………………。
…………。
……。
学校は行かなきゃいけないもので、学校に行ったら教室に居なきゃいけないもので、授業は毎時間必ず出なきゃいけないもので、クラスメイトとは友達関係を築いて仲良くしなきゃいけないものだと、ずっとそう思っていた。
でも、そんなものはただの思い込み。
休みたいときは不調を理由に休めばいい、クラスメイトが一人いないところで誰も不審がらない。友達ごっこせずとも、無難にやり過ごすことが出来るならそうすればいい、人間関係を円滑にする方法なんていくらでもある。
無理をしてまで頑張る必要はない。出来るときに出来ることをすればいい。
それが彼に教わったことだった。
名前も、学年も知らない――彼。彼について知っている事と言えば、よく屋上にいるとか、音楽が好きとか、きっと片手で数えられるくらいだろう。
傍から見たら少し不気味かもしれない。でも、あたしは別段気にならなかったし、それでいいと思った。名前なんて知らなくてもそこに相手がいれば話し掛けられるし、学年を知らなくても会話はできる。
そんな些末なことより、あたしと彼との間にある距離感。それがたまらなく心地よかったから。
屋上の錆び付いたドアノブを捻ると、案の定彼がいた。
彼はあたしが毎日ではないにしろ扉を開けるとき、大抵いる。いないと思っても、ふと気付けばあたしの右隣に何でもない顔をして座っていたり、立っていたりする。今日はどうやら前者だったらしい。
「今日も勇気ある撤退か、中将」
「イエス、サー」
軍人のように敬礼しながらかしこまった言い方でのやり取り、そのあと、顔を見合わせて忍び笑う。これが最近のあたしたちの日課だった。
あたしは笑いながら彼の横に少し間をあけて腰を下ろす。背中で隠し持つようにしていたそれを、彼に自慢げに突き出した。
「ジャーン。見て見て、購買に売ってる幻のチョコパン」
「うわ、それあれだろ? 不定期入荷な上に即完売、っていうヤツだろ? どうやって買ったんだよ」
「そりゃあ、おばちゃん口説き落として次に入るときにコッソリ……ね」
「お主、見かけによらずなかなかやりますなァ」
「半分いる?」
「や、いいわ。お前が買ったんだし、お前が食えよ。どう? ウマい?」
「んー……別に、ただのふつーのチョコパンって感じだけど。……あ!っ ていうかチョコ少なっ! もうないんだけど! どういうこと!」
「ハハッ、何それ。ウケる」
話す内容なんて至極くだらないことだ。きっと、あたしは、あの屋上のドアを抜けたらどんな話をしていたかなんてもう思いだせないだろうし、明日になればこの何十分かの記憶なんて海馬の隅に追いやられるに違いない。でも、あたしは確かにこの瞬間彼といて楽しいと感じているし、いつか大人になったときに高校時代に思いを馳せたなら、この屋上でのひと時を、楽しかった思い出として懐かしく回想するだろうという漠然とした断定は確かにあった。
じゃれあいながらあたしがチョコパンを食べ終えると、しばらくの間、沈黙が流れる。
次の話題を焦って探さなくてもいい、話したいことがぽんと口をついで出てくるまで待っているような時間は、静かで、穏やかだ。
あたしはちらりと彼を盗み見た。
彼は背中を手すりに預けるようにして座っている。黒くてさらさらした髪の毛が、夕暮れ色をした風に弄ばれていた。ぼんやりと遠いどこかを見ているような目つき、表情。こういうとき、いつも悩みなどなさそうな顔でけらけらと笑っている彼が、ふと、別人のように見える。きっと、彼も彼なりの息苦しさがあって屋上に来ているんだろう、ただの憶測でしかないんだけど。
あたしは彼のパーソナルなことについて何も知らない。だから、彼が抱えているしんどさをどうにもしてあげられない。でも、あたしと同じように――ここでこうして話していて、少しでも気が紛れるんだったらいいなと思った。
と、彼がポケットから銀色のハーモニカを取り出した。そして静かに吹きだしたメロディーラインは、テンポは遅いがどこか聞き覚えがあって。でも曲名がなかなか思い出せない。こういうのは、一度気になり出すと答えが出るまで躍起になってしまうものだが、あたしは早々に放棄し、多分サビであろうそれが終わるまで聴いていた。
彼の薄い唇がハーモニカから離れる。
あたしが拍手すると、彼は、照れくさそうに笑った。
「それ、なんて曲?」
「<アンギフテッド>の<あした、この場所で>ってやつ」
「あー、それか」知ってんの?と、彼が少し驚いたように言った。
「名前と曲を幾つか知ってる程度」あたしは答えた。「前さ、友達が『ボーカルの子がメッチャ好きなの』って言って、CDを何枚か貸してくれたの。それでかな。そういや解散したんだっけ?」
「解散、したんだ」知らなかった、と独り言のように続く。
「いや、あたしも詳しくは知らないから」見るからに落ち込んだ雰囲気の彼を見て、慌てて付け加える。「そんな話を人から聞いた程度」
「……へぇ。あんたの周り、アンギフ知ってるやつ結構いるんだ。俺の周りいなくてさ」
「話してみる?紹介するけど」
ぽんと口をついで出た言葉だった。自分を介して同じ話題を持った同士がいるなら、引き合わせてあげようぐらい誰でもちょっとは思うはずだ。
彼はあたしの顔を見つめ、目をぱちくりとさせた。
何か言いたそうな唇が開いたり閉まったりを繰り返す。しかし、彼は結局出かかった言葉を飲み込んだようだった。数秒置いて静かに笑う。「いや、いいよ。気ィ遣ってくれてありがと」
そしてまた、彼は同じ曲をハーモニカで吹き始めた。
音色に合わせて、あたしは、歌詞をなぞるように口遊む。
<アンギフテッド>の作詞作曲をほとんど手掛けているのがボーカルの男の子、というのは友達が黄色い声で聞いてもないのに教えてくれた。人生の酸いも甘いも経験してきた大人が知ったような顔で書いただろう歌詞より、あたしは、彼が書いた歌の方が好きだと思った。どこがどう好きなのかはちょっと説明しづらいけど。
ずいぶん前に聞いた、イヤホンから流れてきた声を思い出す。声変りを済ませた同い年の男子たちと比べたら、やや少年っぽさがまだ残る声。紡がれる歌はまるで祈りのようだった。
神様にでも祈っているのだろうか。だとしたら何を祈ってるんだろう、不平等で依怙贔屓しかしない神様に。
目を閉じる。
でも、とあたしは思った。そうだと分かっていても祈らずにはいられない時があるんだろうし、たぶん、今がそうなんだろう。あたし達はあくまでユウキアルテッタイとして屋上に居るわけで、だから「また明日」なんて言葉は交わせられないし、約束もできないし、そんな間柄じゃない。でも、またここで会えたらいいとは思っている。願わくば彼も同じ気持ちであればとも。
チャイムが鳴る。
下校を知らせるチャイム。あたしたちの別れの合図。
ちょうど曲も終わったところだ。あたしは立ち上がり、スカートを手でぱんぱんと掃った。
「帰宅部生がだらだら残ってたらまた生活指導のセンセーにドヤされるからさ。あたし、そろそろ帰るね」
「おう、気を付けてな」
そんな、一昨日や、その前と何ら変わない別れ方をしてあたしは屋上のドアを閉めた。そして、いつものように階段を降りようした時だった。
そうだ、一緒に帰ろう。
それはあたしの突発的な思いつきで――特に深い意味とか、これといった理由はなかった。強いてあげるとするならさっき笑った顔がどことなく寂しそうに見えたから。
とにもかくにもあたしは一度閉めた錆び付いたドアノブを捻り、再度開ける。
彼の姿はどこにもなかった。
*
それ以来、彼はぱたりと姿を見せなくなった。
彼がもう来ることはないんだと思うようになってからも、あたしは、息苦しくなるとふらりと独りで屋上に来た。そしてパンを食べながら、彼が好きだといった曲を繰り返し聴いていた。
*
あたしは、久しぶりに屋上のドアを開けた。ここ数日雨続きだったが、今日はすっきりとした青空が広がっている。まるで、彼と初めて会った時の空の色のようだと思った。
コンクリートの手すりの前に立つと、眼下で、同じ学生服を着たクラスメイト達が思い思いに写真を撮っているのが見える。
今日で、ここから見る景色ともさよならだ。
屋上を吹き抜ける風はまだ冷たいが、ほのかに桜の匂いがした。
彼にはきっと、もう会えないだろう。だから直接サヨナラが言えないのは分かっている。だから屋上に、別れの挨拶を言おうと思ったのだ。クラスメイト達は教室を名残惜しんでいたが、あたしにとってはここがそうだから。
でも、いざするとなると何と言えばいいのかわからなくて。あたしは散々迷った挙句、「ばいばい」と小さな声で――けれど明確に言ってからドアを閉めた。
階段を下りる際中、どこからかハーモニカの音色が聞こえて、ふと立ち止まる。
彼だ、と思った。
彼があの曲を吹いている。
あたしはかつてそうしたように、歌詞を口遊みながら、ゆっくりと下りることにした。
メランコリック・ガールの徒然な日々