出没注意!

 人里離れた山の中、彼らは静かに社会を形成していました。
 タケル! そろそろ目を覚ましなさい! 春の匂いがわからないのかい?
 ママの声です。
 彼らは洞穴を住処にしています。洞穴の中はとても広く、いくつもの道が別れています。それぞれが部屋へと通じています。
 みんなもう出かけているわよ! あなた今日から学校でしょ?
 その声は太く、拡がりました。
 枯れ草が敷き詰められている部屋があります。その中に、一頭のクマが横になっています。お腹から足までが、枯れ草の中に埋まっています。
 しっかりなさいよ! もう高校生なんだからね!
 その声が、吠えるように響きます。
 大柄なクマがその部屋の中に入っていきます。タケルのお腹に乗っかっている枯れ草を掃っています。タケルは目をこすりながらゆっくりとその目を開きます。
 初日から遅刻なんてしちゃダメよ!
 むーんっ… わかってるよ。後五分だけ…
 タケルは枯れ草をお腹にかき集め、開いた目を閉じます。
 いい加減にしなさい!
 大きなその声に、タケルは身体をビクッと宙に浮かせて起き上がります。枯れ草がフワッと舞い上がりました。
 わかったよ、ママ。そんなに大きな声出さないでよ。頭が痛くなるじゃないか。
 タケルは両手で頭を抱えています。
 あなたまさか、風邪でもひいているの? 春に風邪をひくのはバカな証拠なのよ? 恥ずかしいからよして頂戴ね。近所のみんなに笑われちゃうわよ。
 うるさいなぁ。ママが大声出すから頭が痛いだけだよ。それよりもう起きたからあっちに行ってくれよ。学校の準備をしないといけないからさ。
 あら、まだしていないの? そういうのは冬眠前にしなくちゃダメだって毎年いっているじゃない?
 わかったからあっちに行っててくれよ。
 タケルは立ち上がって部屋の壁に立てかけてある棚から幾つかの本を手に取り、地面に置いてある布製のカバンの中に入れていきます。そしてそのカバンを肩から斜めにかけて部屋から出ていきます。タケルは向かいの部屋に入っていきます。そこはタケルたち家族のリビングになっています。タケルのママが昼食の準備をしてテーブルに並べています。そこには彼よりも二周りは大きなクマが椅子に座っています。彼のパパだと思われます。新聞のようなものを拡げています。
 いよいよタケルも高校生だな。この一年が勝負だぞ。しっかり勉強をしないと、おじさんのようにサーカスに売り飛ばされてしまうからな。
 パパは新聞に目を向けたままタケルに声をかけています。パパが見ている新聞には、不思議な文字が並んでいます。人間の使う文字とは異なっています。どの国の文字とも一致しません。文字というよりは絵のようです。小さな綺麗な絵が、文字のようにいくつも並んでいます。
 おじさんて、あのおじさん? ママのお兄さんのこと?
 そうだよ。他に誰がいるというんだ? パパの兄弟はみんな人間に殺されたからな。ママの兄弟もそうだ。生きているのは一人だけよ。
 その話はもう聞き飽きたよ。人間は危険だっていいたいんでしょ? それよりサーカスだなんて凄いじゃないか!
 タケルはとても興奮をしています。サーカスサーカスとつぶやきながらその場で逆立ちを始めました。
 こんなところでするんじゃない! 狭いんだから、失敗したらどうするんだ。怪我でもしたら大変なんだぞ。
 わかってるよ。けれどいいなぁ。僕もおじさんみたいにサーカスで働きたいよ。
 なにをいっているんだ。サーカスといってもな、村のサーカスとは違うんだぞ。
 パパは新聞を折りたたみ、テーブルの脇に置きました。そしてまだ逆立ちを続けているタケルの顔を睨んでいます。タケルは驚きの表情を浮かべ、頭を地面につけ、足をバタンと下ろし、倒れこみました。
 もしかして… 人間のサーカスなの?
 その通りだよ。あいつは冬眠前に人間の街に顔を出してしまったんだ。すぐに捕まって、売り飛ばされたんだよ。
 冬眠明けからそんな話をするのはよして下さい。あれでも一応私の兄なんですよ。心配してはくれないんですか? 助けようとは思ってくれないんですか?
 朝食の準備を終えたママは、パパの隣の席に腰を降ろしました。
 バカなことをいうんじゃない。そんなことをすれば私まで捕まってしまう。殺されてしまうかもしれないんだぞ。この村に危険が及ぶことにもなる。こんなことをいうのもなんだがな、人間に捕まったり殺されたりするのは、クマ側にも責任があるんだ。人間の街には近づかない。それがこの村で生きていくための鉄則なんだ。わかったか? タケルにもいっているんだぞ。なにがあっても人間に近づいてはならないんだ。
 わかってるよ。そんな怖いこと、絶対しないよ。
 タケルはそういいながら起き上がり、パパとママの向かいの席に腰を降ろしました。
 さぁ、朝ご飯をすませたら新しい一年の始まりよ。
 ママがそういうと、三頭は食事を始めました。この日の朝は、冬眠前に捕まえて漬物にしていた鮭がメインです。それと一緒に木の実の燻製が添えられていました。
 食事を終えるとママは片づけを始めます。パパは革製のカバンを手に持ち、ママにいってきますのキスをしてから出かけていきます。その際タケルには笑顔を向けて手を振っていました。
 あなたもそろそろ行かないと遅刻しちゃうわよ。
 わかってるけど、ヒメカちゃんを待っているんだよ。一緒に行こうって約束してあるからね。
 あら、でもそれ、去年の約束でしょ? 忘れちゃってるんじゃないかしら? あの子可愛らしいけれど、少しばかりおっちょっこちょいなのよね。
 そんなことないよ。毎年迎えに来るじゃないか。ヒメカちゃんは一度だって遅刻をしたことがないんだから。
 それは去年までの話でしょ。冬眠をするとね、ころっと性格の変わっちゃうクマも多いのよ。学校でもいるでしょ? 冬眠明けになると急に凶暴になったり、怠け者になっちゃったり。
 もういいよ。そんなにいうんだったら僕がヒメカちゃんを迎えに行くよ。同じ洞穴に住んでいるんだから。
 タケルは立ち上がりそのまま部屋を出ていきます。
 あら、そうだったわね。いってらっしゃい。ママへのキスは? 忘れてるわよ。
 ママはタケルに顔を向けて口を突き出しています。タケルは部屋の中に戻り、ママへとキスをします。
 気をつけるのよ。パパのいう通り絶対に人間の街には近づかないことよ。
 わかってるよ。いってきます。
 タケルは部屋を出て、洞穴の奥へと進んでいきます。その洞穴には沢山のクマの家族が暮らしています。一つの洞穴が、一つの村になっているのです。そしてその村は、山の中に複数存在しています。村の中には学校もあります。会社もあり、スーパーから銀行までなんでもあります。
 彼の通う高校は、彼の住む村にはありません。小学校と中学校はどの村にも義務として作らなければならないのですが、高校は義務ではありません。無理に通わなくてもいいのです。けれどほとんどのクマは、高校に通っています。彼は少し勉強をがんばり、この山で一番の高校へと進学をしました。その理由は、ヒメカちゃんがその高校を選んだからです。
 クマの社会では二歳になったら小学校に通い、翌年には中学校です。そして一年後から高校が始まります。高校は二年間あります。その理由は、小中学校は義務であり、クマとして生きていくための基本を学ぶのです。けれど高校は違います。それ以上のことを学ぶ場所です。一年ではとても学びきれないというわけです。そのため、高校へ行かないほとんどのクマは文字の読み書きができません。育ちが悪ければ、言葉を喋ることもできないクマもいるくらいです。
 具体的な勉強は、小学校では山の中での木の実や他の生き物についての勉強が主になります。中学校では狩の勉強と、人間社会について主に学びます。人間については特に、その凶暴性と危険性を理解する必要があるのです。そこまでを身につければ、普通のクマとしての生活を送るのに困ることはありません。
 高校はそれぞれの学校によって学ぶことが違っています。歴史を学ぶ学校、経済を学ぶ学校、語学を学ぶ学校、様々な学校が存在しています。タケルとヒメカが通うのは語学の学校です。クマの世界はとても広く、この国だけでなく、この星のいたる地域に広がっています。当然、それぞれ異なる言葉と文字を使っています。人間と同じで、それぞれの文化を持ち、その中で生活をしているのです。クマの世界でもそれぞれの地域との交流があります。ヒメカはそんな他の地域のクマたちと交流をしたいと思い、その高校を選んだのです。クマの高校の中で、語学の学校が一番レベルが高いのです。タケルは特に語学に興味があったわけではありません。ヒメカと同じ高校に通いたかったからとの理由もありますが、それ以外に一つ、その高校には魅力がありました。その高校では、クマの言葉以外にも、人間の言葉を勉強する授業が用意されていたのです。
 タケルはパパとママの前では決して見せないように隠していますが、人間に対してとても興味を持っています。おじさんが人間のサーカスに入ったと知り、本当はとても羨ましく感じていました。彼は今そのことばかりを考えています。おじさんがいるサーカスを見に行きたいと思い、どうすれば見ることができるのか、必死に考えているのです。
 あのぅ、ヒメカちゃんはまだですか?
 彼は一つの部屋の前から声をかけています。そこはヒメカの家族が暮らす部屋のようです。中には一頭のクマがいて、朝食の後片付けをしています。タケルのママと同じくらいの背恰好をしています。そして同じ毛色をしています。きっとヒメカのママでしょう。タケルやパパは違う毛色をしています。ママよりも少し濃い黒みがかった茶色をしています。その毛色の違いが男女の区別を表しているようです。
 あら、タケルちゃんじゃない。わざわざ迎えに来てくれたの?
 いえ、家で待っていたんですけれど、なかなか来ないんで迎えに来ました。今日は高校生活の初日だからとママに早く起こされたんです。いつもはヒメカちゃんに迎えに来てもらってるんで、たまにはこんな日があってもいいかなって。
 あら、面白いことをいうのね。タケルちゃんもいつの間にか大人になったじゃないの。ちょっと待っててね。今隣の部屋で支度をしているのよ。のぞいたりしたら大変よ。ここで待っていてね。
 えぇ、わかっています。一度怒られていますから。
 洞穴の中の部屋にはドアというものがありません。入口の前に立てば、中の様子が全て見えてしまいます。普段の生活にはなんの不便もないのですが、年頃の女の子には恥ずかしいことのようです。部屋でなにをしていなくとも、ただ部屋を見られるだけでも嫌だそうです。去年のことです。高校受験の勉強のために訪れた時のことです。タケルは約束の時間よりも早く来てしまい、直接ヒメカの部屋に入ってしまったのです。前日にもその部屋で勉強をしていたので問題ないと考えたのですが、タケルの姿を見てヒメカは激しく怒りを見せました。その理由はこうです。女の子の部屋にいきなり入ってくるなんて失礼だというのです。部屋は散らかっているし、人に見せるにはそれなりの準備があるというのです。実際には綺麗に片付いていても、許可なく入れば怒られるものなのです。
 それにしても遅いわね。ちょっと様子を見てくるから、中に入って待っていなさいよ。このハチミツ、去年の残りだけどよかったら舐めててちょうだいな。
 ヒメカのママは部屋から出てもう一つ奥の部屋に入っていきます。タケルはハチミツにつられて中に入り、スプーンですくって舐めています。
 早くしなさいよ! タケルちゃんが待ってるのよ!
 隣の部屋からヒメカのママの声が聞こえてきます。次いでヒメカの声も聞こえてきました。
 わかってるわよ! だけどもうちょっと待ってよ! 今日は大事な初日なのよ。
 それからすぐにバタバタと大きな足音が聞こえてきました。ヒメカのママが機嫌を悪く大股に戻ってきたのです。
 本当ごめんなさいね。もうすぐ来ると思うから、待っててね。わざわざ入口の近くからこんな奥まで迎えに来てくれたのに、待たすなんて失礼な子よねぇ。
 いえ、そんなことないですよ。いつもは迎えに来てもらっていますから。
 それはタケルちゃんの家が学校の通り道になっているからよ。
 タケルの家族が暮らす穴は入口から入って三又に分かれる道の右端の道を入って四つ目の穴がそうです。ヒメカの家族はその道をさらに奥まで行き、突き当たりの一つ前の部屋がそうです。一番の突き当たりは、ヒメカ一人の部屋になっています。この村の小学校と中学校は入ってすぐの三又の真ん中の道を通らなければなりません。そのためヒメカは嫌でもタケルの部屋の前を通過するのです。家族同士に友達付き合いがあり、生まれた時から仲の良い二人は、自然に約束もせず一緒に登校するようになり、今でもそれを続けているのです。
 けれどそのお陰でこんなに美味しいハチミツに出会えましたから、嬉しいくらいですよ。
 タケルは何度もハチミツをスプーンですくい、口に運ばせています。ヒメカのママがテーブルに置いたハチミツの瓶はリンゴ一個ほどの大きさがあり、四分の三ほどのハチミツが入っていました。けれど今はもう、ほんの一すくいが残っているだけです。それを見たヒメカのママはほんの少し顔をしかめましたが、なにもいわずにハチミツを差し出したので、文句がいえずに苦笑いを浮かべながらほんの少しだけ残っているその瓶を取り上げ、蓋をして棚にしまいました。
 あまり舐め過ぎると太るわよ。
 いいんですよ。パパがよくいっています。男なんだから少しくらい太っていた方が貫録があっていいって。
 けれど私はあまり好きじゃないわよ。デブって、素敵じゃないわよ。
 部屋の入口にヒメカが立っています。ママと同じ毛色をしています。タケルよりも少し背が低いようです。タケルと同じカバンを同じように斜めに肩から掛けています。
 やっと支度が終わったのね。気をつけていってらっしゃいよ。いつもと違って他所の村まで行くんですからね、途中でなにか危険を感じたらすぐに連絡をよこすのよ。いいわね?
 わかってるわよママ。それじゃあいってきます。
 ヒメカは部屋の中に入ってママと抱き合い、キスをします。
 今日の私、綺麗かな?
 ヒメカはママの耳元でそうつぶやきました。ママは笑顔を浮かべてこたえます。
 とっても綺麗よ。ママの学生時代にそっくりだわ。
 ヒメカとタケルは部屋の入り口で振り返り、ヒメカのママに手を振りそのまま外に出ていきました。ヒメカはニコニコしながらチラチラとタケルに視線を向けています。
 どうかしたの?
 なんにも感じないの? 私の顔見てなにか気がつかない?
 ヒメカはタケルの顔を覗き込むように顔を差し出しています。タケルはただ、首をひねるばかりです。
 別に… 少し、太った?
 タケルはその視線をお腹に移動しました。
 バカ!
 ヒメカはそういってタケルの頭を引っ叩きました。タケルにはその意味がわかりません。悪気があったわけでも、冗談でいったわけでもありません。ただ見たまんまの感想をいったにすぎないのです。
 そういうことを女の子に向かっていうの? 失礼だと思わない?
 タケルはうなだれて小さな返事をしました。
 ごめんなさい…
 そんなことより、本当に気がつかないの?
 ヒメカはもう一度タケルの顔をのぞき込みます。突き出したその顔を、見てほしいのです。タケルはその顔をあげてヒメカの顔をまじまじと眺めますが、なにも気がつかないようです。少し怯えた目をしながら、首をひねるばかりです。
 そう…
 寂しそうな声を出し、今度はヒメカがうなだれています。なにかにとてもショックを受けたようです。歩く速度まで遅くなってしまいました。
 その時、タケルはようやく気がつきました。うなだれたヒメカの頭に、ピンクのリボンがついていたのです。そしてもう一度じっくりと顔を眺めると、薄らと化粧をしていたのです。まつ毛をカールさせて色をつけています。頬はほんのりと赤くなっています。唇に色はついていませんが、いつもよりもピカピカと輝いています。そしてヒメカの身体からはいつもと違う香が漂っていました。まるで桃のように優しい甘さです。クマは本来匂いには敏感なのですが、この時のタケルはハチミツを沢山舐めたばかりで鼻が少し狂っていたのです。ハチミツの匂いが抜けきらずにいたのですぐにはその匂いに気がつかなかったのです。
 この匂い、香水変えたんただね。僕は好きだよ。とても優しい気持ちになれる。
 タケルは大袈裟に身振りをつけて大きな声でそういいました。
 それだけ…?
 ヒメカはゆっくりと顔を上げ、タケルへと向けています。
 すっごく綺麗だよ。急に大人になったみたいだ。
 ヒメカの顔が緩んでいます。急に笑顔が浮かび、その笑顔が元に戻せなくなっているようです。
 そう思う?
 タケルは必死に首を縦に振っています。すると突然、ヒメカの笑顔が固まり、ひんやりとした目つきでタケルを睨み始めました。タケルはすぐにその視線に気がつきました。首の動きを止めてゆっくりとヒメカを見つめます。
 いつも綺麗だから、すぐには気がつかなかったんだよ。ごめん… けれど本当に綺麗だと思うよ。
 タケルの目には涙が浮かんでいました。
 もういいわよ。今度からはすぐに気づいてね。女の子はね、そういったことを気にするものなのよ。
 わかったよ。
 二人はタケルの部屋を通り過ぎ、洞穴の外に出ました。
 そういえば僕のおじさん、サーカスに入ったんだってさ。羨ましいよなぁ。
 あら、そんなの別に普通じゃないのよ。少し練習をすれば誰だってなれるわよ。
 それは普通のサーカス団だろ? おじさんは違うんだよ。
 それって、そういう意味?
 そうなんだ。そういう意味なんだよ。大人たちに聞かれると困るから大きな声じゃいえないけどね。僕があこがれているなんて知られたら、僕はもう生きていけないよ。きっとパパに殺されちゃうよ。
 あら、その前にこの山から追い出されるから心配ないわよ。運が良ければそれでサーカス団に入ることもできるんじゃない?
 けれど運が悪ければ…
 そういうことね。そうならないようにタケルは高校に進学したんでしょ? 大丈夫よ。しっかりと勉強すれば、夢は叶うんだから。
 ヒメカはタケルの手をそっと握りました。タケルはヒメカに顔を向け、微笑んでいます。けれどその頬笑みに力はありません。とても弱々しい頬笑みです。
 僕の夢は、難しいよ。人間のことを知りたいだなんて、誰も理解をしてくれない…
 そんなことはないわよ。数は少ないかもしれないけれど、きっといるはずよ。それに、誰にも理解されなくたっていいじゃない。私はタケルのこと、理解しているつもりだよ。
 ありがとう。ヒメカちゃんがそういってくれると嬉しいよ。
 タケルは無理に力強い微笑を作りました。
 タケルにはわかっているのです。クマと人間が仲良くなることはあり得ないのです。人間は、意味もなくクマを殺します。タケルの家族もみんな殺されています。タケルの兄も二人、殺されているくらいです。人間に近づくには動物園に入るか、サーカス団しかありません。けれどそれも、人間と仲良くなるには程遠いのです。人間に商品として一方的に使われるだけなのですから。恐い噂では、食用に家畜のように育てられ、肉を切り裂き売られていくこともあるそうです。人間は、クマの肉を食べるともいわれています。
 けれどタケルは、いつか人間を理解し、仲良くなりたいと思っています。その理由は、山の上から見える人間たちの街を眺めたことにあります。幼い頃に一度、兄に連れられて山の見晴らし台に行ったのです。夜のことでした。山は真っ暗で、明かりが一つもありません。空に浮かぶ月と星が輝いているだけです。その輝きも雲の流れで見えなくなったりすることが多いのです。けれど兄が連れて行ってくれたその場所から見下ろした人間の街は、いつまでもキラキラと輝いていたのです。その美しさに、タケルは感動をしました。こんなにも美しい世界を創り出す人間に、興味を持ったのです。兄は色々と人間のことを知っているようでした。けれど詳しいことは教えてもらえませんでした。兄はその翌日に、人間の街に降りて殺されてしまったのですから。タケルはその日以来、暇を見てはその見晴らし台から人間の街を見下ろしています。ヒメカを連れていくことはありますが、もちろんパパとママには内緒です。
 そういえば、冬眠前になるんだけど、パパの友達の息子が動物園に捕まったっていってたわよ。冬眠に入る直前にいわれたから半分寝呆けてて確かじゃないんだけど、パパの友達の息子だったと思うわよ。助けに行きたいけど、命を引き換えにはできないって。それに、その息子は動物園にいる限りは殺されることもないし、人間から可愛がられるんだからある意味は幸せだろうなんていってたわよ。見せものではあるけれど、人気者のクマも大勢いるらしいもの。
 僕からいわせれば羨ましい話だよ。動物園の人気者になることには興味がないけど、人間と一緒に暮らせるなんて幸せだよ。それに動物園なら、サーカス団もそうだけど、人間の方から会いに来てくれるんだよ。きっと色々な人がくるんだろうな。動物園ならなにもせずにじっとしているだけだから、人間の観察をし放題じゃないか。
 けれど、もう二度とこの山には帰ってこられなくなるのよ。それでもいいの? 私とも会えなくなっちゃうのよ。
それは…
 タケルは急にテンションが低くなりました。それまで人間の話をしている時はとても楽しそうにしていたのにです。
 ここからはもう、この話はやめにしましょう。他のクマに聞かれたら困るものね。
 二人の歩く道に、多くのクマたちが集まり始めました。みんなは二人と同じ高校に向かう途中のようです。みんな二人と同じカバンを肩から提げています。斜めに下げている者が大勢ですが、中には片方の肩にぶら下げているだけの者もいます。同じ布のカバンではありますが、色を塗ったり、文字を入れたり、わざと破いたりして使っている者もいます。
 目の前に一つの洞穴が見えてきました。クマたちはみんなその中に入っていきます。二人もその中へと入っていきました。入るとすぐに道が七つに別れています。二人の暮らす村よりも、ここは大きな村のようです。二人は真ん中の道に入っていきます。そのまま奥まで進んでいきます。道の途中には一つの部屋もありません。その道は真っ直ぐと高校にだけつながっているようです。
 クマの学校では入学式というものがありません。クラス分けは冬眠前に発表をされています。合格発表の時に授業時間など全ての説明が済まされているのです。二人は教室に入り、空いている席に座ります。教室の中には十数頭のクマが席に座っています。
 ガァオォー。と少し迫力に欠けるクマの遠吠えが学校中に響きます。それがチャイムの代わりになっているようです。教室の中に、背中の曲がった濃い毛色のクマが現れました。脇に数冊の本を抱えています。真ん丸の小さな眼鏡を鼻にかけています。
 今日は初日ということでまず、冬眠中の出来事を報告したいと思います。みなさんご存知の方もいるかもしれませんが、今年はこの山で、四頭のクマたちが犠牲になりました。まずは生まれて間もない二頭の子グマが人間に連れ去られてしまいました。親の不注意ですね。その二頭はお隣さん同士で仲がよく、家族と一緒に冬眠前の食料集めをしていたそうです。親たちが食料集めに夢中になって子供たちから目を離した隙に、子供たちもまた遊びに夢中になっていて知らず知らずに山の麓まで降りてしまっていたのです。その姿を目撃され、すぐに捕まってしまったのです。まだ小さな子供です。人間の危険性を理解していないようでして、なんの抵抗もできずに捕まってしまったのです。一頭は動物園に連れて行かれました。もう一頭は研究所と呼ばれる場所に連れて行かれました。そこでなにをしているのかはわかりませんが、あまりいい噂は聞きません。人間たちは研究いう言葉を使い、様々な動物たちを殺し、自然を破壊しているのです。そしてもう二頭は男性の大人のクマです。一頭は食料を求めて人間の街まで行き、捕まりました。その後はサーカス団に売られていきました。このクマは人間たちの前で二本足で歩いている姿を見られてしまいましてね、それを理由にサーカス団に売られたのです。確かなことはわかりませんが、自らサーカス団へ行きたくて演出をしたのではないかといわれています。誰とはいいませんが、この教室にそのクマの親戚の方がおられるようです。万が一真実を知っておられるようでしたら、報告をお願いいたします。これは別に義務ではなく、私個人の興味からいっていることなので、なにも怖がることはありません。自ら人間に近づくことは決して罪ではありませんし、真実を隠すことも罪ではありません。ただ私は、人間に興味を持つクマについて知りたいと思っているのです。その他の生徒さんでもし、人間に興味を持っている方がいたら私に相談をしてみて下さい。なにも怖がることはありません。あまり大きな声ではいえませんが、私もその一人なのです。人間に強い興味を持っているのですから。話を元に戻しまして、もう一頭のクマは山に入り込んできた人間に殺されてしまいました。ご存知の方がほとんどと思いますが、この山には人間が入り込むことが多々あります。この山だけではありませんね。人間はどの山にも入り込んできます。そしてその山を自らの所有物だと考えているのです。けれど村のある奥まではなかなか入り込んではきません。数年に一度迷いこんでくることもありますが、我々の姿を見るとすぐに逃げ出していきます。時には我々の姿を見る前に首をくくって自殺をすることもあります。この自殺という言葉は、人間の世界から頂いたものです。人間以外の動物界では、意味もなく自らの命を捨てることはあり得ませんからね。下世話な話ではありますが、その醜悪さとしつこさがもっとも人間に近いといわれているゴキブリが、火に囲まれて逃げ場を失い、自ら飛び込んだという話は聞いたことがありますけれどね。その他では、家族や仲間を守るために命を捨てることは多々ありますが、それを自殺とは呼びません。嫌な言葉でありますよ。私が一番嫌いな言葉です。けれど人間は、この言葉が大好きなようですね。普段の会話でもよく使われています。自殺を考えたことがあるだとか、このままでは自殺を選ばなければならなくなるだとか、日常的に使われています。また話が少し逸れたようですね。村で生活をしている限りは、人間のことを恐れることはないということです。けれど少し麓に降りると危険が多く待っています。冬眠前の時期は食料を求めるため仕方のないことではありますが、気をつけなければいけないもの確かです。先ほど話した子グマのような件もありますが、それだけではないのです。山に入り込む人間の目的は二つあります。一つは我々と同じに食料確保のためです。木の実やキノコ類、野草などを採ったり、川で魚を捕まえたりするのです。こういった人間たちにも特に注意をすることはありません。こういった方たちは我々に危害を加えるつもりはないようです。ただし、姿を見られてしまったら、すぐに奥へと逃げる必要があります。我々の姿を見て恐怖を感じた人間は、一度は逃げ出しますが、仲間を連れて山に戻ってくるのです。それはとても危険なことです。その仲間の目的は、ただ一つなのですから。我々を殺してしまうことなのです。もう一つ危険なのが、初めから娯楽として我々を殺そうとする人間たちです。我々がなにもしていないのに、山に入り込んでは我々を探し出し、殺してしまうのです。一度に大勢が山に入り込んできます。そして誰がより大きなクマを仕留められるかを競うのです。その一頭は、そんな人間に殺されてしまったのです。これは少し余談になりますが、遠く海を越えた村での話を紹介しましょう。その村は人間の世界では一番権力のある国の中にありました。その国では一番偉く権力を握っている者を大統領と呼びます。その大統領はクマを殺すことを趣味としていました。休日には部下たちを従えて山に入るのです。みなさんは人間たちがどのように我々を殺すのかはご存知ですよね? そうです。銃と呼ばれる武器を使うのです。この銃には様々な種類があるようですが、我々を殺すのにはライフルと呼ばれる種類を使っています。鉛の弾を仕込み、火薬の爆発力を利用してその弾を物凄い勢いで轟音とともに外に弾き出し、我々の身体を傷つけるのです。鉛の弾は細い筒から飛び出してくるのですが、ライフルと呼ばれる銃は、その筒がとても長くなっております。そのため両手で銃を抱えるように持ち、引き金を引いて弾を発射させます。弾が発射される時の勢いは相当のようですね。人間たちはいつも、身体を後ろに飛ばされそうになっています。訓練次第で慣れることはできるようですが、反動を完璧に全て抑えることはできません。ですから発射直後が人間たちの弱点にもなっています。普通の銃であると片手で撃つこともできるようですが、ライフルを片手で撃つ人間を、私は見たことがありません。噂ではそんな人間もいるようですが、クマを殺しに来る人間は、しっかりと両手で抱えて我々を狙ってくるのです。その弾が身体に撃ち込められると、痛みとともに大量の血が流れます。大抵は一発だけで死んでしまうことはありません。けれど撃たれた場所が悪いと、一発で死んでしまうこともあります。頭や心臓には特に気をつける必要がありますね。実は私、この右肩を撃たれたことがあるのです。今でも傷が残っていて、身体の中にはその鉛の弾が入ったままになっています。興味のある方は授業の後にお見せいたしましょう。あまり趣味のいいものではありませんが、銃という凶器の恐ろしさを知るにはいい機会でありますからね。それでその大統領の話に戻りますが、大統領は山に入ってすぐに小さな子グマを見つけました。部下たちは銃を構えて撃ち殺そうとしたのですが、大統領がそれを止めたのです。子グマを殺すのは可哀想だというのです。そしてなぜなのか、子グマを助けた記念にと、その子グマとともに写真撮影をしたのです。そのことは後日人間の世界で大きく報道され、大統領の人気を上げることになりました。そしてその大統領の人気とその子グマに目を留めた人間がいました。クマのぬいぐるみを作り、そのぬいぐるみに大統領の愛称をつけて売り出したのです。そのぬいぐるみは大人気になり、今では世界中で売られているそうです。ここでおかしな話をしたいと思います。その大統領はその日、一頭のクマを殺していました。子グマを助けた後にすぐ、さらに山の奥へと入ったのです。当人たちは気がついていなかったようですが、殺したそのクマは、助けた子グマの母親だったのです。その後も大統領は度々その山に入り、クマを殺しています。翌年には助けたクマの父親と兄を殺しています。そしてその翌年には母親の家族を殺し、その後には父親の家族も殺しています。そして最後に、助けた子グマ自身も殺しているのです。断っておきますが、当の大統領はそのことには気がついておりません。気がついているのは、我々クマたちだけであります。それでは私の話はここまでといたしましょう。
 ガァオォー とまたチャイムが鳴りました。先生は教室を出ていきます。
 あのぅ、傷を見せてくれませんか?
 タケルは椅子から立ち上がり、先生に向かって走っていきました。
 おやおや、君かね。いいとも、見せてあげよう。ほれ、これがそうじゃよ。
 先生は右肩を彼に差し向けました。黒っぽい茶色の毛をかき分け、その傷を見せています。先生はその周りの毛を長く伸ばし、普段は傷が見えないように隠しています。その傷はとても痛々しいものでした。
 うわぁー、凄いですね。この傷跡は一生消えないんですか?
 えぇ、私が死んでしまうまでは残ることでしょう。触ってみますか? 中に残っている鉛の弾を感じることができますよ
 いいんですか?
 タケルは目を輝かせ、そっと右手を伸ばしています。先生はニッコリと、うなずいています。タケルはその傷跡に手を乗せ、鉛の弾が撃ち込まれたと思われる丸く禿げている部分をつまんでみした。硬い感触があります。これがそうだと、すぐに気がつきました。
 凄い!
 タケルは大きな声を出して喜んでいます。地面についているはずの足が、ほんの少し宙に浮かんでしまうほどでした。そしてタケルは小躍りを始めました。
 そんなに喜ぶとは思いもしなかったですよ。私も君とはいつかゆっくりと話をしたいと思っているんです。詳しい話を聞かせてくれますかね?
 喜んで、といいたいんですけど、僕も詳しい話は知らないんです。けれど先生とは色々な話をしたいです。それでもいいですよね?
 先生は鼻にかけていた真ん丸のメガネをずらし、その目で真っ直ぐタケルを見つめています。
 もちろんですとも。暇をみて話をいたしましょう。けれど今日は、他の授業が残っています。君はまず、しっかりと勉強をして下さい。
 先生はそういって、職員室へと歩いていきました。タケルは教室の中に戻り、ヒメカと少しの話をしています。するとまたチャイムが鳴り、別の先生が教室に入ってきました。
 その日はその後に二度の授業がありました。二人の先生は、初日から語学の授業を始めました。初めの先生だけが、タケルを楽しませてくれたのです。その先生は人間の言葉を教える先生であり、タケルの教室の担任でもありました。授業終りにタケルはヒメカを誘って先生を訊ねました。けれどその日先生は、すでに帰宅をしていました。
 先生にもっと人間の話を聞きたかったな。銃で撃たれた時のこと、どんなだったのか? 近くで人間を見たんだよね。凄いことだよ。それなのに捕まらずに生きて帰ってきたんだから。
 まだ学校は始まったばかりなんだから、いつでも聞けるわよ。それより、人間ってどんな姿なのかな? 噂では色々と聞くけど、見たことないわよね。
 そうなんだよ。だから先生に話を聞きたかったんだ。先生は人間の姿を見ているってことだろ?
 タケルとヒメカは高校のある村を出て、家へと帰る途中です。クマの学校は基本的に午前中で終わりになります。運動会や文化祭などの行事がある時は夜まで開かれていますが、学生といえどもそれぞれの家庭の仕事をしなければなりません。そのため午後は家に帰り仕事をするのです。クマが昼間は寝てばかりいるというのは人間の幻想です。確かに夜行性の本性を持ってはいますが、それは人間と同じで、今では夜に寝て、昼に仕事をするのです。人間やクマだけでなく、猫や犬など、多くの動物がそうしているのです。
 今から人間の姿を見に行く? 見晴らし台から見えるあの街に行けばいいんだよ。
 なにをいってるの! そんなの絶対にダメよ! もし見つかったらどうするの? この季節は一年で一番危険なのよ。一年で一番多くのクマが殺されるんだから!
 ヒメカはタケルを強く睨みつけていて、今にも噛みつきそうなほどに怒った顔をしています。
 わかってるよ。こんな昼間からそんな危険は犯さないよ。僕だって、殺されるのは嫌だからね。まだやりたいことが沢山あるんだから。だったらさ、夜になったら出かけようよ。
 ヒメカはまだタケルを睨んでいますが、怒りは収まっているようです。開いていた口を閉じています。
 それは見晴らし台に行くっていう意味? それなら構わないけど。
 タケルはニッコリと口を横にして笑顔を作りました。
 もう少し下まで行こうと思うんだ。夜なんだし、安全だよ。人間は夜になると極端に行動が減るらしいからね。心配ないって。
 …うーん。わからないよ。私も人間の姿を見てみたいけど、今は危険だよ。見晴らし台からで我慢しようよ。そこからなら今でもいいわよ。
 それから二人は見晴らし台へと向かいました。タケルのいう見晴らし台は、二人の住む村から少し下った場所にあります。人間が入り込んでこないギリギリの境目にもなっている場所です。
 あっそうだ。お腹が空いたから途中で川原にでも寄ろうよ。今日は僕、魚を取るのが仕事なんだ。
 いいわね。春のお魚って美味しいのよね。冬を乗り越えた魚にはたらふくの油がたまっているんだもの。でも、太ったらどうしようかしら?
 大丈夫だよ。ヒメカちゃんはそんなに太っていないよ。むしろモデルのようだよ。最高のプロポーションじゃないか。
 あら、そうかしら? 今度モデルのアルバイトでもしようかしら。
 ヒメカはそういいながらポーズをとりました。右手を上げて、左手でお腹の下辺りを抑えています。クマの世界では有名なセクシーポーズらしいです。その姿に、二人は大爆笑をしています。
 ヒメカちゃんは今日の仕事はないの?
 うん、私は今日は家に帰って勉強だけだよ。今日はパパが早く帰ってくるから、ママと二人でデートに出かけるんだって。いいよね。あの年になってもラブラブなんだから。もうすぐ弟か妹ができるかもしれないよ。
 いいなぁ。僕も弟が欲しいんだよ。けれど僕のパパは毎日仕事で忙しいからね。家に帰るとご飯を食べてすぐに眠ってしまうんだ。だから僕は毎日午後からママの仕事を手伝わないとね。勉強もしたいけど、昼間はそんな暇がないんだ。だからさ…
 私に勉強を教えてっていいたいんでしょ? わかってるわよ。毎年のことだもの。わざわざいわなくても夜になったらタケルの部屋に勉強しに行くわよ。
 本当? 冬眠明けだから忘れてると思っていたよ。今年もよろしくお願いね。
 クマの世界では父親が外に出て仕事をするのが一般的です。大抵は夕方には家に帰ってくるのですが、忙しい仕事もあるようで、夜遅くまで働くクマも少なくはありません。そして家の仕事などは母親と子供たちの役目です。食料を確保したり、日用品を作るのが主な仕事になっています。
 ヒメカの家庭は少し違っています。ヒメカのパパは村の村長に近い立場のクマです。クマの村にはそういうシステムがないので正確には村長ではないのですが、現実には村長としての立場で、そういう仕事をしています。どこの世界でもそうかもしれませんが、トップに立つ者は意外と時間に余裕があるのです。その分神経をすり減らすことにはなります。ヒメカのパパは見た目は先生と変わらないほどですが、実際には半分ほどの年齢なのです。そしてヒメカの家は食料に余裕があります。村長の仕事をしていると、貰いものが非常に多いようです。ヒメカの家庭は、クマの世界ではとても裕福なのです。洞穴の中で奥の部屋で暮らせるのも、その証拠です。入口に近いほど、貧しい家庭なのです。それには理由があります。万が一の時、被害に遭うのは入口近くの家庭なのです。今までにその例はないのですが、人間が村に襲いかかってきたことを想定しているのです。洞穴には一番奥の部屋から山の反対側に逃げ出せる通路が用意されているのです。
 川原に辿り着いた二人は、さっそく魚獲りを始めています。タケルは大きな二つの石を手に持って川の中に入っていきます。岩陰に隠れている魚を狙っているようです。魚が隠れていそうな岩陰を見つけると、一つの石をそっと川の中に置きます。その時石が少し川面からのぞけるように工夫をします。そしてもう一つの石を両手で高く持ち上げ、いっきに川面からのぞいている石にぶつけます。その衝撃により、近くにいた魚たちが気絶をするのです。プカプカと、数匹の魚が岩陰から浮かんできました。ヒメカは山の中で木の枝を拾っていました。地面から生えている雑草も数本引き抜いていました。ヒメカはそれを使って釣竿を作りました。雑草の茎を細かく裂いてはつなげ、糸を作り、木の枝の先につなげました。糸の先には針がありませんが、雑草の葉っぱを丸めて疑似餌を作り、くっつけています。ヒメカはタケルがいる場所よりも少し上流に向かい、大きな岩の上からその糸を垂らし、釣りを始めました。ヒメカは魚が喰い付いた瞬間を手製の釣竿を通して肌で感じ、スパッと引き上げます。針はついていないのですが、あまりの早業に疑似餌を銜えたままの魚も糸と一緒についてくるのです。ヒメカはわざと大袈裟に釣竿を後ろにまで振り抜きます。すると魚はヒメカの背後に落ちていきます。ほんの数分でヒメカの背後には十数匹の魚が溜まっていました。
 あっ! あれを見てよ!
 川の中に入って魚を獲っていたタケルが突然、大きな声をあげました。とても興奮しているようで、大きく持ち上げていた石を、自分の頭に落としてしまいました。石を手に持っていることを忘れて、遠くに見えるなにかに対して手を差し向けたのです。
 痛っ!
 タケルは大きくそう叫びました。クマのヒメカにはそう聞こえていましたが、遠くに見えるなにかには違うように聞こえていたようです。その声を聞いてその場で腰を抜かしてしまいました。
 ちょっとどうしたのよ。せっかくの魚が逃げちゃったじゃない。それでも大量だからいいけど。
 ヒメカが走ってタケルの元に向かいました。タケルは頭を抱えてうずくまっています。ぶつぶつとなにかをつぶやきながらゆっくりと川から上がってきます。
 どうしたの? 頭でもぶつけたの?
 …そうなんだ。びっくりしたよ。急に石が落ちてきたんだよ。
 それはタケルが手を離したからでしょ?
 タケルは首をかしげています。記憶が少し、飛んでいるようです。
 あっ… 違うんだ! 思い出したよ! あれを見て!
 タケルの顔がパッと輝きました。そしてヒメカの立っている背後に指をさしています。そこには人間が、腰を抜かしてしゃがみ込んでいたのです。
 あれはなんだと思う?
 わからないわ。…見たことのない動物ね。隣の山から迷いこんできたのかしら? 春になるとまたにいるのよね。食料を求めてきたんじゃないかしら?
 二頭にはそのなにかが人間だということがわかりません。今までに人間を見たことがないのですから無理のない話です。今までに見たこともないおかしな生き物にしか映っていません。二頭はゆっくりと、そのなにかに近づいていきます。
 けれど人間には、向かってくるのがクマだということがわかっています。襲われてしまうのではないかと、怯えています。二頭がなにかを話している言葉も、その人間には唸り声にしか聞こえません。タケルが痛っと叫んだ時も、その人間にはグワァーと吠えているようにしか聞こえませんでした。その人間は必死に立ち上がろうとしていますが、腰が抜けていては立ち上がることができません。向かってくる二頭に顔を向けながら、両手を使って必死に後ずさりしていますが、ほとんど進んではいません。二頭がずんずんと近づいてきます。二頭が目の前にやってくると、その人間の動きが止まりました。
 どこから来たんですか? この辺じゃ見かけませんけど、サルの仲間かなにかですか?
 ちょっとタケル、こんなに大きなサルなんて見たことないわよ。顔は確かにサルみたいだけど、シカかなにかの仲間かもしれないわよ。
 シカは二本足じゃ歩かないよ。僕見たんだ。さっき二本足で歩いてたんだよ。それにしても不思議な肌をしているね。
 タケルはそういいながらその人間の身体に手を伸ばしました。
 うわぁー、た、助けてくれぇ!
その人間は大きく震えた声で叫びをあげています。そしてまた、必死に後ずさりを始めました。その姿と声を聞き、タケルとヒメカは顔を見合わせています。不思議そうな顔をして、互いに首を傾げているのです。
 なにかおかしいと思わないか?
 変な言葉を話していたものね。私たちの言葉も伝わっていないみたいだし、この辺の動物じゃなくても、少しは伝わるはずだものね。まったく伝わらないってことは… 二つしか考えられないわよ。
 それって、そういうこと?
 タケルの声が少し、弾んでいます。目が輝いているようにも見えます。そしてその目を、その人間に向けています。
 まだわからないんだから、そんな興奮しない方がいいわよ。違っていたら、後でショックを受けるんだから。
 わかってるよ! わかってるけど、それなら説明がつくじゃないか! これは肌なんかじゃないんだよ。これが噂に聞いていた洋服ってやつだよ。ほら! よく見れば僕たちのカバンにも似ているじゃないか。それにこれ、蹄じゃなくて靴ってやつだよ。それからほら! 顔につけているこれ、メガネじゃないか! 眼鏡は人間だけが創り出せるものだろ? 凄いよ! 信じられない! 始めて見たよ! これが人間ってやつなんだ!
 タケルはとても興奮していて、何度もその人間の身体に手を伸ばしています。そして一頭、その場で踊り出しました。
 海の向こうから来たのかもしれないわよ。パパから聞いたことあるけど、最近は人間たちに捕まって無理に連れてこられることもあるそうよ。それも動物園に入れられるだけでなく、普通に誰でも飼うことができるのよ。おかしなのはね、人間はその動物と一緒にいることに飽きてしまうと山の中に捨ててしまうらしいのよ。酷いことをするわ。これもそうなのかもしれない。
 ヒメカはそういいましたが、本心では意見が違っていたようです。じっとその人間を見つめていて、タケルと同じように目を輝かせています。
 先生を探してみよう。先生ならこれが人間だって証明できるはずだよ。
 先生がどこにいるのか知ってるの?
 わからないけど、このままここに置いていくわけにはいないよ。凄く震えているし、このままだと死んでしまうよ。とにかくどうにかしないと。
 どうにかって、どうするつもりなの? 学校に戻っても先生はいないと思うわよ。だって、帰りに立ち寄った時にいなかったんだから。
 それならどうする?
 タケルはその場でしゃがみ、その人間を抱えました。
 ちょっと… どうするつもりなの?
 いいことを思いついたんだ。今日はこれを僕の部屋に連れていくよ。そして明日になったら学校で先生に聞けばいいんだよ。そうすれば解決するだろ?
 タケルはそういいながらドンドンと先に進んでいきます。
 ちょっと待ってよ。パパとママにはなんて説明をするの?
 なにもいわないよ。これがなんなのかわかるまで、余計なことはいわない方がいいからね。僕の部屋でかくまうんだ。本当は君の部屋の方がいいんだけどね。君の部屋になら、裏口が用意されているんだから。
 そんなの無理よ。私の部屋には毎日パパが一度は入ってくるんだから。
 冗談でいっただけだよ。僕の部屋でも問題ないと思うよ。僕が朝早く起きればママも起こしには来ないし、それ以外では誰も僕の部屋には入ってこないからね。それよりさ、魚を忘れないでくれよ。僕の分も取ってきてくれないかな?
 ヒメカは一頭で川原に引き返し、大量の魚を抱えてタケルの後を追いかけています。タケルは村の近くにつくと、足を止めてヒメカが追い付いてくるのを待っています。
 先に行って様子を見てきてくれないかな? 安全だと思ったら合図をしてくれよ。すぐに部屋に駆け込むから。
 ヒメカは不満そうな顔をしてそのまま村へ向かっていきます。タケルに対して返事をしません。大量の魚を抱えていて、息を切らせながら歩いています。
 ごめんよ。後でちゃんとお礼をするからさ。
 タケルの言葉を聞いてヒメカは一度立ち止りましたが、振り返ることなく歩き進んでいきます。
 た、た… 助けてくれ…
 タケルの腕の中で人間が呻いています。
 なにをいっているのかわからないんだ。とにかく静かにしていてくれないか? 暴れると助けることもできなくなるんだよ。
 タケルはその人間の口に手を当てました。静かにしてくれとの合図のつもりでした。けれどその人間にはその意図が伝わりません。その場で気を失ってしまいました。ズシンと突然タケルの腕の重みが増しました。
 …死んじゃったのかな?
 タケルはその人間の顔に耳を近づけています。そしてその人間がまだ息をしていることを確認し、ホッとします。
 生きていてよかった。ヒメカちゃんはなにをしているんだよ。早く戻ってきてくれないかな?
 それから数分間、タケルはその場で立ち尽くしています。ヒメカはなかなか現れません。タケルは苛々して足を震わせています。そしてじっと、村への入り口を眺めています。
 すると、タケルの目の前に信じられない光景が映りました。ヒメカが外に出てきたのですが、その隣にはもう一頭のクマがいたのです。そのクマの存在が、タケルには信じられないのです。二頭は少し足早に、周りの様子をチラチラと気にしながらタケルの元に近づいてきます。
 どうして… ここでなにをしているんですか?
 タケルの前にやってきたのは、高校の先生でした。先生はタケルが抱えている人間をじっと観察しています。
 君の御家族と話がしたいと思いましてね。それから君とも話をしたいと思って待っていたんですよ。けれどこいつは驚きました。…いいや、こいつはとても素晴らしいです。どこで見つけたんですか?
 タケルはその人間を抱えたまま先生にその人間を見つけた経緯を説明しました。先生はとても興味深げに話を聞いています。
 …ということは、自ら川を上ってきたということですね? この恰好を見ると自殺ではなさそうです。ましてや我々を殺しに来たわけでもないですね。銃を持ってはいないですからね。この近くの街の人間ではないと思います。食料でも探すつもりで入ってきて、迷いこんでしまったのでしょう。観光客というやつですな。
 先生! やっぱりこれは人間なんですね?
 えぇ、間違いないですね。君はこれをどうするつもりですか? 君の部屋にかくまうつもりらしいですが、それはちょっと無謀ではないですか?
 先生はそういうと、タケルに向けていた顔をヒメカに移動しました。
 君は確か、あの村では一番いい部屋に暮らしているんでしたね。ということは、裏口へと通じる部屋というわけですね。
 私の部屋は無理ですよ。パパが毎日来るんですから。
 えぇ、それは特に問題ではありません。君たちは知らないかもしれませんが、奥の部屋のその先には、幾つかの小部屋が用意されているのですよ。それを作った理由は定かではありませんが、裏山に逃げ出すには結構な距離がありましてね、小部屋に隠れてやり過ごすことでも考えたのでしょう。それでは誰にも見られないようにまずはヒメカさんの部屋に向かいましょう。
 先生はヒメカに向かってそういいました。ヒメカはその勢いに思わずうなずいてしまいました。けれどすぐに首を横に振り、すぐには無理だといっています。
 部屋が散らかっているし、どこが裏口になってるかはパパじゃないとわからないんです。
 その点については問題ありませんよ。私の部屋も一番奥の部屋なんです。この村ではありませんが、どの村でも裏口の構造には変わりがないと聞いています。
 だったら少し待って下さい。部屋を少し片付けますから。
 ヒメカはそういって村へと走っていきました。
 女の方は難しいですね。私はいまだに理解ができません。
 先生は結婚をしていないんですか? 娘さんとか、いないんですか? 僕は少しわかりますよ。理解はできませんが、恥ずかしいんだと思います。去年僕が部屋に入ろうとした時、そんなことをいわれましたから。
 そうですか… 実は私、君のいう通りなんですよ。この年まで一度も、結婚をしたことがありません。それこそ恥ずかしいことですね。
 そんなことないですよ。別に結婚なんて、しなくても幸せにはなれますから。僕から見れば先生は最高に幸せなクマですよ。人間に銃で撃たれても生きているんですから。
 そういわれればそうですね。けれど君は、タケルさんはヒメカさんと結婚をするのでしょう。
 タケルは恥ずかしそうに首を垂れてニヤニヤとしています。けれど抱えている人間の顔を見ると、気持ちが急に引き締まりました。人間を抱えているという現実に、少しの恐怖を感じているようです。
 先生はこの人間をどうするつもりですか?
 …それはまだわかりません。本来は人間の街に返すべきなのですが、私はこの人間と話をしたいのです。私の言葉が通じるのか、試してみたいんです。それに今、この人間を連れて山を降りるのは危険な行為です。奥の部屋で様子を見るのがベストでしょう。少しの話をして、他の方たちに気がつかれないうちに人間の街に帰ってもらいましょう。
 それじゃあ明日にはもう帰るってことですか?
 そのつもりです。考えてもみて下さい。クマにとっての人間は、害でしかないのですよ。人間の言葉を借りますと、彼らは害獣なのです。しかもですよ、食しても大変まずく、その肉は毒性も強いそうですからね。もしも他のクマたちにばれてしまえば、殺してしまうことになるでしょう。私はそうなってはほしくないのです。
 先生は人間が好きなのですか? 人間に殺されかけたことがあるのに?
 好きでも嫌いでもありません。私はただ、興味があるだけなのです。本来は人間も、我々と同じ動物の仲間なのです。それが長い年月をかけ、人間だけが孤立をしてしまいました。私には、そんな人間が可哀想に思えるのですよ。そしてその真意を知りたいのです。なぜ人間だけが孤立の道を辿ったのかをです。
 それからもタケルと先生は人間についての話をしていました。ヒメカはなかなか戻ってきません。あんまりゆっくりしていては、他のクマたちに見つかってしまいます。日が傾き始めています。そろそろ仕事をしていた母親や子供たちが家に帰ってくる時間です。
 その時、村の入り口からヒメカが出てきました。タケルと先生がじっと睨んでいるのに気がつき、慌てて向かってきます。人間のいる街に近づかない時は大抵二本足で歩いているのですが、急いで走る時には四本足の方が速いのです。ヒメカはドタドタと四本足で走ってきます。
 ごめんなさい。タケルのママに捕まっちゃったのよ。魚を調理するのを手伝わされちゃって。いらないっていったんだけど、半分貰うことになって、ママがいないから私が片付けをしてたのよ。机の上に置きっ放しにしとくわけにはいかないのよ。泥棒の心配もそうだけど、そんなことをしたらママに怒られちゃうんだから。
 タケルと先生はじっとヒメカを見つめています。
 わかってるわよ。…ごめんなさい。さっきもちゃんと謝ったでしょ?
 タケルと先生は周りを気にしながら村へと歩いていきます。その後ろをヒメカがついていきます。村の中、三頭は気配を殺し、ゆっくりと進んでいきます。タケルのママ以外にも部屋で仕事をしているクマはいます。決して気がつかれないように、進んでいきます。
 ここがヒメカさんの部屋ですね。早速ですが、裏口を探させてもらいます。
 先生は一番先に部屋の中に入っていきます。タケルは部屋の前で振り返り、ヒメカの様子をうかがっています。
 入ってもいいわよ。ちゃんと片付けてあるから。
 ありがとう。さっきはごめん。まだちゃんと謝っていなかったからさ。
 そんなのいいわよ。タケルはいつもそうなんだから。なにかに夢中になると、他のことには目が向かなくなっちゃうのよ。
 さぁ、見つけましたよ。思った通りですね。私の部屋とほぼ同じ位置にありました。鍵も同じだといいのですが。
 先生はそういいながら壁に手をかざしています。
 おや、ここに鍵穴がありますね。どうやら同じ種類のカギのようです。
 先生は壁に手を当ててなにやら動かしているようです。カチカチと音が聞こえてきます。
 もうそろそろ開きそうですよ。ほら!
 カチャッ! と大きな音が部屋に響きました。そして壁が、開いたのです。その壁は大人のクマが一頭ギリギリで通れる大きさです。そこにドアがあったことは内側からはまるで目に見えません。ただそこに壁があるだけで、ドアの形が線になって見えることもありません。先生が鍵だといいカチカチと手を動かしていた場所にも、なにも目には見えません。けれどそこには確かにドアがあって、部屋の外側に開いているのです。タケルもヒメカも、不思議そうに先生を見つめています。
 これって、どういう仕組みになっているんですか?
 不思議に思うのも無理はありません。目には見えないかもしれませんが、ここが鍵になっているんですよ。ここを決められた回数だけ決められた方向にグルグルと回すと、開くようになっているのです。
 部凄い! こんなの誰が考えたんですか?
 これは人間の技術を利用しているのですよ。この土の壁は、特別製なんです。この部分だけは内側に木を使っているのです。一番の工夫は、壁がここにあることを見えなくすることですね。この技術もまた人間から盗んだもののようです。さぁ、中に入りましょう。
 三頭は中に入っていきます。中は真っ直ぐと細い道が続いています。
 ここに人間をかくまうの? こんなところで生きていけるの? 人間は寒さに弱いと聞いたことがあるわよ。
 確かにそうですね。ここは少し寒いですからね。けれど心配はありませんよ。ここにはそのための枯れ草が沢山用意されているはずですから。それをかけていれば、一晩くらいは問題ないでしょう。
 しばらく進んでいくと両側に小さな部屋がいくつも見えてきます。
 どこか好きな部屋に入ってかまいませんよ。私は枯れ草のある部屋を探してきますから。
 タケルはすぐ近くの部屋に入り、抱えていた人間を地面に下ろしました。そしてすぐ、先生の後を追いかけます。ヒメカはその部屋に残って人間を見ています。タケルと先生は枯れ草を大量に抱えて戻ってくると、人間のいる向かいの部屋に枯れ草を敷き詰めます。そして人間をその部屋に移動させ、身体の上に枯れ草をかけています。
 これで問題ないでしょう。念のため、私もこの部屋で寝泊りをします。彼が目を覚ました時、誰もいないのは問題ですからね。一人で外に出てこられては大変なことになってしまいますから。
朝までここにいるんですか?
 そうですね。彼が目を覚ますまではここにいるつもりです。
 それじゃあ僕もここにいていいですか?
 それはダメですよ。タケルさんは自分の部屋に帰って下さい。ご両親が心配をいたしますからね。大丈夫ですよ。なにかがあれば連絡をしますし、勝手に人間を街に返したりはしません。明日の午後にでも、ここで話をいたしましょう。
 タケルはあまり納得のした顔はしていません。けれど先生に強く見つめられ、しかたがなしに部屋に帰ることにしました。
 それからヒメカさん。ドアはしっかりと締めといて下さい。鍵をかける必要はありませんよ。閉じるだけで鍵がかかるような仕組みになっていますから。それなのに裏側からは鍵がなくてもいつでも開くようにもなっているんです。素晴らしい技術ですよね。余談ではありますが、裏山からの入り口も同じようになっているんですよ。つまりはここに入るためには鍵が必要ですが、出る時には鍵がいらないんです。これは中に閉じ込められないようにするための工夫なんです。本当に素晴らしいですよね。
 先生、ドアを開ける時はなにかの合図をしてね。パパやママがいるかもしれないから。
 わかっていますよ。小さく二度ノックをしますから、問題がなければ同じように二度ノックをして下さい。
 その人間が目を覚ましたら絶対に呼んで下さいよ。
 タケルはそういい、その部屋を出ていきました。ヒメカもすぐに後をついていきます。先生は人間がいるその部屋で、人間の隣に横になりました。
 二頭はヒメカの部屋に戻ると、ドアを閉め、それぞれ別れていきました。ヒメカは家族の部屋で食事の準備を始めました。両親がデートで遅くなるため、この日はヒメカの仕事になっていたようです。タケルも自分の家族の部屋に戻り、ママの手伝いをしています。普段通りのクマの生活に戻りました。
 クマの世界では一般的に一日に一度の食事をします。その日の収穫を夜に家族全員で食すのです。けれど余裕のある家庭では朝にも食事をします。それは夜とは違って簡単な食事です。加工品などをお茶などと一緒に食べるのです。
 タケルはママと二頭で食事の準備をし、パパが帰ってくるのを待っています。タケルのパパは今日も仕事で遅くなるようです。クマの世界では、どんな理由があっても家族揃って食事をするのが常識となっています。タケルは待っている間自分の部屋で枯れ草の上で寝そべり勉強をしています。授業の教科書を広げているのですが、まるで頭に入ってきません。人間のことが気になって仕方がないのです。そこで人間の言葉についての教科書を取り出して開いてみるのですが、そこには人間の文字ばかりが書いてあり、なんて書いてあるのかが読めません。まだ授業が始まっていないので、まるで意味がわからないのです。
 おっ、ちゃんと勉強をしているみたいだな? 高校はどうだ? 楽しくやっていけそうか? ママから聞いたけど、今日は大量の魚を捕まえたそうじゃないか。
 あれは違うんだよ。ほとんどヒメカちゃんが釣ったんだよ。僕は三分の一くらいだったよ。
 タケルのパパが仕事から帰ってきました。今日はいつもよりは少し早いようです。
 冬眠明けはどうも仕事のやる気がなくなるんだよな。タケルは偉いな。初日からちゃんと勉強をしているんだからな。それは人間の言葉か? もう読めるようになったのか?
 全然だよ。パパはこれ、読める?
 タケルは立ち上がりその本をパパに手渡します。二頭はそのまま家族の部屋に移動しています。
 人間の言葉は難しくてね。パパも一度は勉強をしたんだが、挫折をしたよ。さっぱり意味がわからないな。
 そうなの? だってこの本、パパの会社で作ってるんでしょ?
それはそうだけどな、パパは文字を書いてはいないからな。パパが作っているのは本そのものなんだよ。これがなかなか大変なんだぞ。全て手作りだからな。だから本は大事に扱うんだぞ。
 パパはそういってタケルにその教科書を返しました。それから二頭は家族の部屋で食事を始めています。
 今日はヒメカちゃん来ないのか? 去年は毎日のように勉強してたじゃないか。
 それは高校受験のためだよ。これからも一緒に勉強をつもりではいるけど、今日はまだ初日だよ。
 そうか… タケルは人間の言葉に興味があるのか?
 …少しはね。パパの会社には人間の言葉が喋れる人がいるの?
 いるにはいるけどな、あまり上手じゃないようだよ。完璧に喋ることができるのはその教科書を書いたクマだけだよ。そのクマはこの辺りじゃあ唯一人間の世界から生きて帰ってきたクマだからな。幼い頃に人間に捕まってサーカスに売られたそうだよ。そこで十数年生活をしていて自然と人間の言葉を覚えたらしい。
 どうやってサーカスから逃げ出してきたの?
 詳しくはわからないけれどな、人間の隙を見て逃げたんじゃないかといわれているよ。パパも、…そのクマには会ったことがないんだ。
 お喋りもいいけど、しっかりと食事をしてちょうだいよ。明日も仕事があるんですからね。
 ママが顔を覗かせます。パパとタケルは、ままの後を追って食事の用意された部屋に移動します。
 パパの仕事って、そんなに大変なの? 一日どのくらいの本を作っているの?
 なんだ? パパの仕事に興味があるのか?
 そういうわけじゃないけど、この教科書がどうやって作られているのかには興味があるんだよ。
 パパは少し寂しそうな顔をタケルに向けています。
 これは草の茎を原料にされているんだよ。人間が使う紙を真似して作ったものなんだ。後は一枚一枚形を整えて穴を開けて紐で結ぶだけだよ。
 違うよ! 僕が聞きたいのはどうやって文字を書いているのかだよ。これ、クマの手で書いたんじゃないでしょ? こんなに綺麗な文字を書けるクマはいないよ。ヒメカちゃんだってこんな文字は書けないよ。
 あぁ、これは企業秘密なんだよ。この技術があるからパパの会社は一流なんだ。
 えぇー! 家族にまで秘密にするの? 少しくらいいいじゃんよ。
 パパは黙って食事を進めています。タケルはじっとパパを見つめています。そんな二頭を、ママが見つめています。
 文字の型を並べて押していくのよ。なにが企業秘密ですか! それだって人間の真似じゃないのよ。
 そうはいってもな、クマでこれができるのはパパの会社だけなんだぞ。文字の型を作るのは大変な作業だしな。
 パパとママはその後少し声を荒げて会話をしていました。喧嘩ではないのですが、二頭はよく興奮をして声を荒げることがあります。それは仲が悪いわけではありません。むしろ仲がよいからそうなるのです。二頭はお互いに遠慮をせずに本音で会話をしているだけなのです。
 タケルは食事を終えると教科書を持って部屋に戻ります。枯れ草の上に寝そべり全く読めない文字ばかりが並んでいる教科書を開いています。その内に眠たくなり、そのまま眠ってしまいました。
 朝早く、タケルが目を覚ましました。いつもよりも一時間は早く目を覚ましています。起き上がるとすぐ、部屋を出て奥へと向かおうとします。けれど数歩進んだところでふと、足を止めます。この時間にヒメカの部屋に行ってもし、ヒメカがまだ眠っていたら大変なことになります。寝顔を見られたことに怒り狂うことでしょう。起きていたとしても危険です。ヒメカはタケルに寝起き姿を見られることを嫌うからです。タケルは家族の部屋に向かいました。そこで時間を潰し、ヒメカが迎えに来るのを待つことにしたのです。
 あら、珍しいわね。こんなに早く起きてきて、どうかしたの? 熱でも出たの?
 部屋ではママが仕事をしています。部屋の掃除をしながら朝食の準備をしています。
 どうもしないよ。昨日はいつもより早く寝たから、それだけだよ。パパはまだ起きていないの?
 そろそろ起きる頃だと思うわよ。ちょうどいいから起こしにいってくれないかしら? それからついでに新聞も取ってきてちょうだいな。
 タケルは立ち上がり部屋を出ていきます。洞穴の入り口まで行き、左側の道に入っていきます。すぐ脇に大きな棚が見えます。その棚はいくつにも仕切りがされています。そしてちょうどいいサイズの箱がはめられています。それぞれには番号が記されています。タケルは二番の箱を引き出します。その中には新聞が入っていました。その他にも数枚の紙が入っています。タケルは全てを取り出し、箱をしまい、戻っていきます。
 もう起きる時間だってさ。新聞取ってきたからここに置いておくよ。
 …タケルか? どうしたんだ? 熱でもあるのか?
 ママと同じこといわないでよ。僕が早く起きるのってそんなにおかしい?
 そうだな。人間がクマのペットになるくらいおかしいな。
 パパはそういいながら立ち上がり、大きく笑っています。タケルは少しも笑わず呆れ顔を見せているだけです。二頭はそのまま家族の部屋に向かいました。パパの部屋は家族の部屋の隣にあります。大きな部屋で、夜はママと一緒に過ごしています。クマの世界では普通、夫婦といえども別々の部屋を持って別々に夜を過ごします。クマは交尾を暖かい昼間に行うのが紳士的とされています。そのため夜に別々の部屋で眠るからといって夫婦間に問題があるというわけではありません。別々の部屋で過ごすのには理由があります。部屋の中でそれぞれ仕事をする必要があるからです。ここでいう仕事は家庭につながることだけではありません。本を読んだり、身体を洗ったり、それぞれ個人的なことをするのです。これは村の中で過ごすクマだけの特徴ともいえます。山の中、村とは別に外で暮らしているクマもいるということです。そんなクマたちは特定の部屋を持ちません。たいていは家族仲良く一つの洞穴などで暮らすのです。村の洞穴とは違い、自然にできた小さな洞穴です。タケルのパパは幼い頃、そんな家庭で育ったのです。ですから今でも家族と一緒に眠ることを好むようです。けれどタケルは村で育ったクマです。一頭で眠ることを覚える必要があると、パパもママもそう考えました。
 おはよう! あら、もう起きてるの? 熱でもあるの?
 部屋にヒメカがやってきました。今日のヒメカは昨日とは違う色のリボンをつけています。白地に黒の玉模様です。今日はそれを二つつけています。タケルは朝食を済ませていて、学校の準備も終えています。教科書を読んで時間を潰していました。
 ヒメカちゃんまでそんなこというの? そんなに珍しいかな?
 タケルは教科書をカバンの中にしまい、立ち上がります。パパとママは大きく笑っています。ヒメカも一緒に笑っています。
 失礼だと思わないかな? もう! 行ってくるよ!
 タケルはぷんぷんと頬を膨らませて部屋を出ていきます。ヒメカは必死に笑いを堪え、タケルのパパとママに御辞儀をしてタケルの後を追いかけていきます。
 ちょっと待ってよ! そんなに怒ることないでしょ?
 別に怒ってなんてないよ。たださ、みんなが揃って同じこというからだよ。なんなの? みんなでリハーサルでもした? 本読みとかしてるんでしょ?
 なによ、それ!
 タケルは振り返って笑顔を見せています。ヒメカと二頭、立ち止って腹を叩きながら大笑いをしています。
 先生はどうしたの? まだ起きてないのかな?
 わからないけどなんの連絡もなかったわよ。今日は学校には来ないんじゃないかしら?
 そうなのか… まだあの人間は寝てるのかな?
 それから二頭は人間のことを話題にしながら学校へと向かいました。学校につくと、教室の入り口に先生が立っていました。二頭が来るのを待っていたのです。
 おはようございます。早かったですね。この教室では一番乗りですよ
 先生は笑顔を見せています。ヒメカはそんな先生を睨みつけています。タケルはその空気を感じて怯えています。
 どういうつもりなの?
 ヒメカは唸るように低い声を出しています。
 君たちにはいち早く伝えようと思ったのです。
 先生はまるで普通に答えています。タケルは先生に向かって合図を送っています。ヒメカの背後から手振りを使ってヒメカが怒っていることを伝えています。けれど先生はまるで気がついていません。
 彼が目を覚ましたんですよ。
 本当に!
 先生の言葉にタケルが大声を上げました。それまでの不安な表情を一変させ、タケルは驚きの顔を浮かべています。とても興奮しているようで、ヒメカを横に突き飛ばしてしまっています。ヒメカは悲鳴を上げて横に転げてしまいました。先生も驚きの顔でタケルを見つめています。その表情を見て、タケルは現実に気がつきました。顔を蒼ざめさせて、先ほどよりも不安な表情になり、ゆっくりと倒れているヒメカに向けています。
 …ごめんなさい。そんなつもりはなかったんだ…
 タケルは腰をかがめてヒメカに手を差し伸べています。ヒメカはキリッとタケルを睨みつけています。そしてその手を払い、自らの力で立ち上がりました。
 後で覚えてらっしゃい!
 ヒメカはそういいながら視線を先生に移します。
 まずは先生からよ! どういうつもりなの? ここにいるってことは、私が寝ている時に勝手に部屋に入ったってことでしょ? 酷いじゃない! 女の子が一頭で寝ている部屋に入り込むなんて!
 ヒメカはそう叫びながら先生に掴みかかっています。首元を掴み、噛みつこうとしています。先生は必死に頭を仰け反らせています。息が苦しくてなかなか声が出てきません。けれど必死に唾を撒き散らしながら息を漏らすように叫んでいます。
 ちょっと! それはやりすぎだよ! 死んじゃうよ!
 タケルが間に割って入ります。喉元を掴んでいるヒメカの腕を外しています。
 あなたもよ!
 ヒメカはそう叫び、今度はタケルに掴みかかろうとしています。けれどタケルはそれを上手くかわし、ヒメカの首元に顔を近づけ、フッと耳に息を吹きかけました。するとヒメカは足の力を抜かしてその場にしゃがみ込みました。
 助かりましたよ。さすがですね。ヒメカさんの扱いが上手です。
 そんなことより先生、ヒメカちゃんにちゃんと謝った方がいいですよ。あれは一時的にしか効きません。唯一の弱点なんですよ。本気になったヒメカちゃんには僕では勝てませんからね。本当に殺されてしまいますよ。
 先生は突然、微笑を浮かべました。
 いやぁ、君たちは仲がよろしいですね。そしてとてもいい方です。君たちの担任になったことを誇りに思いますよ。
 なにがいいたのよ!
 ヒメカがゆっくりと立ち上がっています。怒りは収まっていないようですが、その目の怒りが弱まっています。そしてその声も、普段通りの綺麗な声に戻っています。
 いえいえ、私はヒメカさんの部屋は通っていないのですよ。嘘ではありませんよ。あの部屋を通れば他のクマたちに出会ってしまう可能性は高いですからね。朝早くに見かけないクマに出会えば、誰もが不審に感じますからね。私は裏山を抜けてここに来たのですよ。そんなに驚かないで下さい。裏山からの近道を知っていましてね。この学校に来るには意外と近いんですよ。倍の時間はかかりません。同じスピードでも一・五倍程度ですからね。けれど一つ問題もあるんです。最近裏山にはよく人間が入り込んできますからね。この季節はあまり危険ではないんですけど、秋には気をつけないといけません。なにやら人間にとっては美味しいキノコが採れるということです。私も以前食そうとしたのですが、匂いだけで我慢ができなくなりましたよ。
 あっ! それ知ってますよ。あの雑巾みたいな匂いのするキノコですよね。僕のパパが一度友達に貰ったっていって持ってきたことがあります。
 先生は一歩前に進み、タケルの目の前で顔を寄せています。
 ひょっとして、タケルさんの父親は本を作る仕事をしていませんか?
どうして知ってるんですか?」
 やはりそうですか… あのキノコは、クマでは私しか食したことがないはずなんですよ。そして私は、一頭のクマにそれをあげたことがあるんです。そういうことだったんですね。これが人間のいう運命なのかもしれませんね。いいことを聞きましたよ。あの人間をどうするのか困っていたところです。あの方なら協力してくれることでしょう。
 そうですよ! そのことを聞きたかったんですよ!
 タケルはなにを思ったのか突然先生にキスをしました。
 なにをするんですか?
 …すみません、つい興奮してしまって。人間が起きたんですよね? それでまだあそこにいるんですか? どうなってるんですか?
 あのぅ… 盛り上がってるところ悪いんだけど、私も話に入っていいかな?
 ヒメカが小さな声でそういいながら二頭の間を開けようとしています。
 おや、ヒメカさん。もう怒りは鎮まったようですね。誤解を生むようなことをしてすみませんでした。初めに説明しておくべきでしたね。
 ヒメカは先生の目の前に割って入り、しゃがみ込みました。そして土下座をしたのです。
 ごめんなさい! 私… もう少しで先生のこと…
 ヒメカの声が震えています。涙を流しているようです。鼻水も垂れているようで、啜っている音が混じっています。
 いいんですよ。その気持ちだけでじゅうぶんです。頭を上げて下さい。それよりも大事な話をしなくてはなりません。
 けれど私… 本当に殺してしまうところだったんですよ。
 大丈夫ですよ。私は生きていますから。それより… もう時間がなくなってしまいましたね。そろそろ他の生徒さんも登校してくることでしょう。詳しい話は放課後にいたしましょう。授業が終わったらこの教室で待っていて下さい。
 先生はそういって職員室に向かっていきます。タケルはヒメカを立ち上がらせて教室の中に入っていきます。
 ごめんよ…
 タケルがそういいました。ヒメカは無言でうなずきました。それからすぐ、教室には他のクマたちがやってきました。二頭はみんなと少しの挨拶をしています。まだあまり仲良くはなっていませんが、前日から少しずつ会話をしているようです。そしてチャイムが鳴り、先生が登場して授業が始まります。この日は人間の言葉の授業はありません。色々な地方のクマの言葉を三時間、勉強しました。二頭は休み時間になると普通に会話をしています。他の生徒とも会話をしています。けれど人間の話は一切しません。万が一を考えると、誰にでも話せる話題ではないのです。
 先生はあの人間をどうするつもりなのかな? 僕のパパがどうとかいってたけど、どういう意味かな? 僕のパパ、人間はあまり好きじゃないんだよね。
 人間のことを好きなクマなんていないわよ。私だって興味はあるけど、嫌いよ。タケルだってそうでしょ?
 うーん… 確かにそうだね。ちゃんと話をしたことはないから嫌いともいえないけど、好きってことはないよ。いいイメージはないしね。野蛮な感じはするね。
 感じがするんじゃなくて、野蛮なのよ。意味のない殺しを楽しむのは人間だけなのよ。私たちだって殺しはするけど、食べるためと、危険を避けるためだけよ。後はたまに、不可抗力もあるけれど、それはどうしようもないものなのよ。人間なんてその不可抗力も尋常じゃないのよ。空を飛んでいる飛行機なんて飛んでいるだけで鳥や虫たちを数万と殺しているんだから。
 ヒメカは話の途中からついつい興奮して、立ち上がっています。今にも遠吠えをしそうな姿勢になっています。タケルにはヒメカの言葉が理解できていないようです。特にその、飛行機という言葉が、まるでわかりません。けれど質問をする空気ではありません。その疑問をそのままに、話は進んでいきます。
 おやおや、だいぶ興奮なさっていますね。放課後とはいえあまり大きな声は困りますね。まぁ、そういった内容でしたら問題はありませんが… それにしてもヒメカさんは人間のことが嫌いなようですね。そこまで嫌うにはなにか理由でもあるのですか?
 先生が教室に入ってきました。手には大きなカバンをぶら下げています。かさばる物が大量に入っているようです。とても重たそうに持っています。
 それはなんですか? 昨日はそんなカバン持っていなかったですよね?
 あぁ、これは人間の言葉を扱っている本が入っているんですよ。色々と面白いものもありましてね、人間のためのクマ語講座もあるんですよ。彼が興味を持つと思って、用意してみたんです。
 凄いですね。僕にも読ませて下さいよ。他にはなにがあるんですか?
 タケルは先生のカバンを手に取り中を拝見しています。
 うわぁー、これって人間の書いた物語ですか? あっ! もしかしてこれ、クマ語に翻訳されているじゃないですか!
 喜んでくれて嬉しいですよ。みんなで相談をして分け合うといいですよ。タケルさんはヒメカさんとは違い、人間が好きなようですね。
 そんなことないですよ。好きだなんていうのとは違います。興味があるだけですよ。どちらかというと、僕も人間を軽蔑しています。ヒメカちゃんと同じですよ。人間は野蛮です。僕の親戚も大勢殺されていますから。
 そうでしたね… けれどタケルさんのおじさんは一人、人間のサーカスに売られたそうじゃないですか。昨日はそれがあの方の義理の弟さんとまでは気がつきませんでしたけれど。まさかあの方がタケルさんのお父さんだなんて、こんな偶然もあるものなのですね。私はとても嬉しく感じていますよ。
 …今朝もそんなようなことをいっていましたけど、パパとはどういう関係なんですか?
 まぁ、昔の友達といいましょうか。何度かお世話になっているんですよ。それはまた、お父様にお会いした時に話しましょう。そろそろ行きますか。ここで話をしていてもいいのですが、ここではあまり詳しい話はできませんからね。それはそうと、今日はなにか予定でもありましたか? お仕事があるようでしたら、後で待ち合わせても構いませんよ。
 あっ… 僕、仕事を頼まれていたんです。今日は木の実か草の葉などを集めてきてほしいといわれたんです。どうしましょうか? 収穫なしではママに怒られますよ。
 …ヒメカさんのほうは?
 私はなにもありません…
 ヒメカは少し寂しそうな表情をしています。そしてなにかをいおうと、口を開こうとしています。けれど先生はそんなヒメカに気がつかず話を続けます。
 それでは三頭で一緒に帰ることにしましょう。今日は裏山への入り口まで案内をいたしますよ。
 ちょっと先生! 僕の話を聞いていたんですか?
 えぇ、心配なさらなくても結構ですよ。道の途中で拾えばいいのですから。裏山への道には沢山の草の葉が茂っていましたよ。使えそうなものが、という意味です。木の実は探してみないとわかりませんが、この季節はまだ少ないですからね。お母様も怒りはしませんよ。それでは急ぎましょう。彼が待っていますからね。
 タケルはその言葉に反応をしています。なにかをいいたいようですが、先生は構わずに先に進んでいきます。重たいカバンを必死に持ち上げています。
 持ちますよ。
 タケルはそれだけしかいえません。その重いカバンを受け取って先生の後をつけていきます。その後をヒメカがついていきます。ヒメカはまだ寂しい顔をしています。
 三頭は山の中をいつもとは違う道を歩いていきます。学校を出てからしばらくの間はなんの話題もなく無言で歩いていました。途中からは草の葉を先生が見つけ、三頭で取りながら歩いています。少しの話はしていますが、先生は草の葉探しに夢中です。タケルもヒメカも夢中になっています。
 いやぁ、大量ですね。これだけあればタケルさんのお母様も納得してくれるでしょう。ではここからは少し急いで帰りましょう。
 それからまた少しの沈黙が続きました。タケルはずっとぶつぶつ呟いています。そして先生の顔をチラチラとうかがっています。ヒメカは少し元気な表情になりましたが、やはりなにかを考えているようです。
 あ、あの人間は今、な、なにをしているんですか?
 タケルは精一杯の勇気を出してそういいました。言葉が思わずつかえてしまいした。いい終わった後に、ホッとため息をついています。
 彼のことが気になりますかね? いいですよ。彼と会う前に説明をするつもりでいましたから。簡潔な話をいたしましょう。彼はしばらくこの山で暮らしたいそうです。クマの生活に興味を持ってしまったようですからね。
 えぇっ!
 タケルとヒメカが同時に驚きの叫びをあげました。
 どうしてそんな話になっているんですか? 意味がわかるように説明して下さい。
 そうよ! なんなのそれ! 彼が村で生活をするってこと? そんなの許されないわよ! みんなに見つかったらどうするの? すぐに殺されちゃうわ!
 そうでしょうか? 私も初めはそう考えましたよ。けれどそうはならないと思います。彼と話をして感じたのですが、彼は問題ありません。あの人間は、決して悪いことはしませんよ。私にはわかるんです。私は多くの人間を見てきました。彼は嘘をつく人間ではありません。不思議な懐かしささえ感じるほどです。それに、この村を知られているわけですから、人間の街に帰すよりも安全だと思うんですよ。人間の街に帰れば、村のことを話してしまうかもしれませんからね。それからもう一つ、タケルさんのお父様がいますから、味方になってくれると思います。それと…
 先生はヒメカに顔を向けました。
 ヒメカさんのお父様にもご協力を得られればと思っています。裏口のある部屋に住んでいるということは、村での権力者を意味しているのですからね。
 ヒメカは必死に首を横に振っています。
 そんなの… 無理だと思います。
 おや、ヒメカさんの御家族はみなさん人間が嫌いなのですか? そういえばまだ、その理由を聞いていませんでしたね。なにか理由でもあるのですか?
 ヒメカは一度下を向き、ゆっくりと顔を上げます。そしてゆっくりと口を開きます。
 特別はないけど… 他のクマたちと同じよ。親戚を大勢殺されてるから… 意味もなく殺すなんて、許せないのよ。この世界で一番恐ろしいのは人間でしょ? それなのに人間は、毒のある昆虫や大きな身体のクマを恐ろしいだなんていうのよ。クマがなにもしていないのに、人間の世界に顔を出したっていうだけの理由で殺すのよ。人間が作った畑から作物を盗んだって、元は自然のものでしょ? この土地は全て人間の物なんかじゃないのよ! 生き物みんなのものでしょ? それなのに人間はこの世界を我が物顔で歩いている。この山だって、いつ人間が入り込んでくるかわからないわよ。パパがいってたけど、世界中で動物たちの暮らす山が壊されているのよ。
 それは少し、大袈裟ではないですか? 人間も最近では少しの反省をしています。森を取り戻そうとしているらしいですからね。
 そんなの全て人間の勝手じゃない? 自分たちで壊しといて、今になって困っているだけなのよ。自然保護なんていうけど、自然を守るつもりなんてないのよ! 人間が守りたいのは自分たちの生活だけでしょ? そして自分たちのこの世界での地位を守りたいのよ。人間なんて許せない! 私たちの山に入ってはクマを殺すのに、クマが少しでも人間を傷つけたら大騒ぎよ。すぐに殺されてしまう。そして人間は、殺したクマを見て、満足して笑うのよ。それにもう一つ、いいたいことがあるのよ。私たちを恐いとかいいながらも動物園に閉じ込めてたりサーカスに無理矢理軟禁をしたりして、そんな姿を見ては可愛いだなんていうのよ! ふざけてるわよ! そう思わない?
 ヒメカはまた、とても興奮して叫びました。そして思いのたけを全て話し終えたのか、今では少しづつその興奮が落ち着き始めています。荒れた息遣いを整えるように何度も深呼吸をしています。
 なにがあったのかは深く聞きませんが、相当の恨みがあるようですね。
 そうなの? 僕は聞いたことがないよ。ヒメカちゃん、そんなに人間のこと嫌いだったっけ?
 タケルはヒメカの話を聞いている時からずっと驚きの顔をしていました。今でもその驚きが抜けていません。
 なんだかとても人間に詳しいみたいだけど、全部パパに聞いたの?
 うん… そうだよ。パパはああいう立場の人だから、人間にはある程度詳しくて。私は色々と聞かされているのよ。タケルには口止めされていることもあるくらいなのよ。それに、人間を恐れているの。村の平和を守るための一番の敵は、人間だからね。
 …そうですか。それは少し困りましたね。ヒメカさんのお父様は実際に人間を見たことはあるのですか?
 遠目からはあるみたい。だけど、遭ったことはないはずよ。人間に遭って生きて戻ってきたクマなんて、先生くらいのものよ。
 …そうですね。それならまだ、可能性はあることでしょう。ヒメカさんのお父様は私が直接説得することにしましょう。
 ヒメカは先生の顔を見つめながら首を横に振っています。
 さぁ、急いで帰りましょう。今日はやらなくてはならないことが沢山ですからね。
 先生は立ち尽くしているタケルとヒメカをそのままに、先へと進んでいきます。
 あの人間となにがあったんですか?
 タケルは慌てて後をついていきます。重たいカバンを持って、草の葉も抱えています。ヒメカは少しの草の葉を抱えてついてきています。先生は手ぶらでスイスイ進んでいきます。
 少しの話をしただけですよ。どこから来たのかとか、なにをしに来たのかをです。それから人間の世界についても少し、うかがいました。
 それは今説明してくれないんですか?
 いやぁ、説明するというほどに難しい話ではありませんよ。彼はここからはだいぶ遠くの都会から来たそうです。山などがないような地獄のような世界からです。そこでの生活に疲れを感じたそうです。人間といっても元は動物ですからね。疲れた時には緑の山を見たくなるのですよ。落ち着くそうです。私もそうでした。都会にいたことがありまして、この山に戻って緑を見た時は、とても心が落ち着いたものです。
 それだけの理由でここに来たんですか?
 それだけ… ですか。私には大きな理由に感じますけれど。彼は人生に疲れていたようですからね。
 それって、自殺のつもりで来たってことですか?
 そうではありませんよ。確かに人間はよく自殺をしますが、この山には来ないでしょう。この山での自殺は、この十数年一度もありません。この山は、自殺には適していないようです。ここはとても、癒される山ですからね。彼は奥深くまで入り込むつもりはなかったようですね。山の入り口から入ったのではなく、川原を上流に進んでいただけらしいですからね。ここがクマの山であることを、知らなかったようです。
 それがどうして? この山に残りたいなんていうの?
 それはまぁ… この山の緑と、私との会話が楽しかったからでしょう。初めは私が人間の言葉を使うことに驚いていましたが、目の前の現実はすぐに受け入れるタイプのようですね。人間の言葉を喋るクマを見たことで、この山にすっかり興味を抱いてしまったようです。
 それって… 先生のせいじゃない?
 いやまぁ、そういうことになりますね。けれど心配はありません。私は期待をしているくらいです。彼はもしかしたなら、クマと人間との世界を結び付けてくれるかもしれません。
 それって、人間とクマが仲良くなるってことですか?
 えぇ、そうなれたらと、私は思っています。人間が考える自分勝手な関係ではなく、本当の意味で仲良くできたらと思っています。人間は少しでも自然に触れあえば、それだけで仲良くしていると勘違いをしますからね。
 そんなの… きっと無理よ。
 そうかもしれませんが、希望を持つのはいいことですからね。さぁ、すぐそこですよ。見えますか? あの小さな洞穴に裏口が隠されているのですよ。
 三頭はその洞穴の中に入り、鍵を開けてドアを押しました。するとそこには、人間が待ち構えていました。
 おや、驚きましたね。私たちのお出迎えですか? それとも約束を破ろうとしたわけではありませんよね?
 先生は人間の言葉を使ってその人間に話しかけています。その口調が少し、冷ややかに感じられます。
 いやぁ、退屈だったんでこの道を行ったり来たりしていたんですよ。そしたら物音が聞こえたので、待っていたんです。
 その人間は前日と同じ姿をしています。登山をするおじいさん、そんなファッションです。背中のリュックも前日そのままに背負っています。真ん丸の眼鏡もそのままかけています。
 まぁいいでしょう。こちらの二頭が、昨夜話をした二頭です。見覚えはありますか? あなたを助けてくれた二頭ですよ。
 えぇ、私は襲われるかと思いましたけどね。それで私はどうなるんです? 村での生活は許されたんですか?
 それはまだ、これからですよ。中に入ってこれからのことをお話しいたしましょう。
 三頭と一人は奥へと進んでいきます。途中でタケルが何度も人間に話しかけますが、人間にはまるでなにをいっているのはわかりません。ただクマが吠えているようにしか聞こえていないのです。
 さてさて、灯りを用意しなければなりませんね。不便なものですよ。人間は夜目がまったくききませんからね。
 先生はクマ語でそういい、一つの部屋に入り、灯りを持ってきました。その灯りはクマの世界ではごく普通に使われているものです。タケルの部屋にもヒメカの部屋にもあります。クマたちの普段の生活では使わないのですが、勉強をしたり特別な仕事をする時には使用しています。魚や植物から油を取り、その油に植物の茎を利用して作ったロープをつけて染み込ませます。それに火をつけてランプ代りにしているのです。
 さぁ、部屋の中で話をしましょう。
 先生が人間の言葉でそういうと、まず先に人間が部屋の中に入っていきます。その後から三頭が続きます。
 先生、この人間の名前はなんていうんですか? 挨拶くらいしたいんですけど。
 そうですね。この方は山上さんと申します。
 先生はクマ語の中に山上という人間の言葉を混ぜました。
 こんにちは、とこれが挨拶の言葉です。
 タケルとヒメカは先生の言葉を真似ています。
 山上、こんにちは…
 こんにちは! あなたがタケルさんで、あなたがヒメカさんですね?
 山上はクマ語でそういい、二頭の腕を軽く叩いています。
 クマ語は難しいです。けれど、魅力的な言葉です。
 タケルとヒメカが驚きの顔でお互いを見合わせています。
 いやぁ、山上さんはとても呑み込みの早い方ですね。一度教えたことはすぐに覚えてしまう。これはクマ語で書かれた本です。人間の言葉に一語ずつ意味が書かれていますから、勉強になると思いますよ。よかったら暇な時にでもお読み下さい。
 先生は山上に顔を向けて人間の言葉でそういうと、二頭に顔を向きなおし、クマ語で話を続けます。
 クマ語を喋れる人間は、初めてなんですよ。今まではいくら教えてもちっとも理解をしてくれませんでした。人間には難しい言葉のようです。それはクマ語だけでなく、人間にとって、動物の言葉は難しい言葉のようです。けれど彼は、こうして喋ることができます。彼なら、この村で暮らしても問題ないとは思いませんか?
 タケルとヒメカはゆっくりと先生に顔を向け、うなずいています。
 それでは早速私の考えを説明いたします。簡単なことなんです。これから山上さんを村の方たちに紹介をするのです。この村で一緒に暮らしたいと頼むのですよ。空いている部屋を貸してもらえれば幸いです。まぁいきなり彼を連れて行っても混乱するだけですから、まずは君たちの父親に紹介しようかと考えています。できればですが、夜にでもここに連れてきてほしいのですよ。
 先生はクマ語でそういった後に、すぐにまた人間の言葉で同じことを話しました。
 …今日、ですか?
 こういうことは早くしなくてはいけません。山上さんをここにずっと置いておくのですか? それでは人間と同じですよ。ペットという呼び名をつけ、一生の自由を奪うのですか?
 わかったわ… けれどパパがなんていうか、どんな結果になっても私は知らないわよ。
 ヒメカはそういうと立ち上がります。
 私は部屋に戻るわね。今日はパパ、早く帰ってくると思うけど、何時にここに連れて来ればいいの?
 何時でも構いませんが、急にどうしたんですか? ずいぶんと積極的ですね。
 よくわからないけど、この人間からは嫌な匂いがしないのよ。それに… 人間のことを詳しく知るにはいい機会じゃないの。
 僕もそう思いますよ。山上さんは、いい人間かもしれません。
 そういってくれると思いましたよ。それではお二方、お父様を説得して連れてきて下さい。
 …先生? お願いがあるんですけれど、その本、一冊貸してくれませんか? パパを待っている間に少しでも人間の言葉を覚えたいんです。
 構いませんよ。それでは、一番簡単なこの本をお貸ししましょう。これはとても実践的で、覚えればすぐに使える言葉ばかりですから。
 タケルはその本を受け取りとても喜んでいます。
 うわぁ! 凄いですね!
 タケルはその本を開き興奮しながら部屋を出ていきました。二人はドアを開けてそれぞれ自分の部屋に歩いていきます。タケルは部屋に入っていくヒメカになんの挨拶もしません。ヒメカはじっと部屋の入り口からタケルの背中を見つめていました。
 タケルは脇に抱えていた草の葉を家族の部屋にいるママに渡しました。ママと少しの会話をしましたが、人間の話はまだしません。自分の部屋に戻ると、タケルは枯れ草に寝そべりその本を夢中で読み進めています。クマにとって、人間の言葉はあまり難しくはないようです。タケルの父親の言葉を思い出すと、タケルが特別に覚えがいいだけなのかもしれません。わからないクマからしてみれば、人間の言葉も獣の遠吠えに聞こえているのかもしれません。しかし、客観的にも簡単なように感じられます。幾つかの音を並べるだけでいいのですから。複雑な感情の組み合わせを必要といたしません。クマにとっては難しい発音も確かにあります。けれど少しくらいおかしな発音でも、言葉は通じるのです。聞く側が愛情を持って耳を傾ければ、言葉や意味を想像して理解することも簡単なことです。
 クマの言葉は、とても難しい言葉です。特に人間にはそう感じられることでしょう。クマの言葉で大事なのは、感情なのです。ただ言葉を吐き出すだけでなく、その表情にも意味があるのです。同じ音を使ったことでも、感情によって意味が変わってきます。もちろん、人間の言葉のように音のイントネーションや高低でも使い分けをしますが、それはさほど難しいことではありません。感情を言葉に乗せるのは、動物の世界では当たり前のことです。その理由は、動物は言葉にする音の数が少ないからです。それは不便だといういい方もできるかもしれません。けれどそのお陰で、動物たちは使う言葉が違っていてもコミュニケーションを取ることが簡単にできるのです。人間でもよく動物と話ができるという人がいますが、あれはほとんどがただの思い違いです。勘違いというやつです。本当に話ができるのなら、相手の言葉も気持ちもわかるはずなのですが、そんな人間を現実には見たことがありません。テレビの中では紹介されていますが、それが真実なのかどうかはまだ、確認をしていません。ほとんどは、一方的に感情を押しつけ、理解していると勘違いをして喜んでいるだけです。
クマ語は感情の使い分けをするので、その文字にも特徴があります。同じ文字に感情を表す文字が後に続くのです。そのセットで一つの言葉を表します。
タケルは一通り目を通すと、今度は声を出して本を読んでいます。暗記をするにはこれが一番の方法だと、去年の受験勉強で学んだのです。
 変な言葉を喋るんだな。どこの村の言葉だ?
 タケルの部屋にパパがやってきました。
 これは人間の言葉だよ。簡単だけど、意外と面白いよ。それよりパパ、今日はいつもより早いんだね。
 なにをいっているんだ、外はもう何時間も前から真っ暗だぞ。そんなことにも気がつかなかったなんて、随分と熱心に勉強をしているんだな。
 …うん、人間の言葉は初めてだからね。面白いよ。パパも勉強してみる?
 遠慮しておくよ。パパには少し、難しすぎる。それより、食事にしたいと思うんだが。
 パパの言葉により、三頭は家族の部屋で食事を始めます。今日は草の葉がメインの食事です。前日の魚も少しあります。三頭は口数少なく食事をしています。タケルはチラチラとパパの様子をうかがっています。山上のことをいつ話そうかと、きっかけを探しているようです。
 そういえば、昨日いってた教科書を書いたクマ、今はタケルの高校で先生をやっているそうだぞ。
 本当に? 誰? なんの授業を教えているの?
 さぁなぁ、詳しくは聞いてないけど、人間の言葉を教えているんじゃないか?
 …それって、一頭しかいないよ。そうだったんだ。先生が自分で書いていたんだ… これもそうなのかな?
 タケルは先生から借りている本をパパに手渡しました。
 見なくてもわかるよ。人間の言葉に関する本は、彼にしか書けないからな。しかし驚いたな。あのクマがタケルの先生なのか。
 知ってるの? 昨日はそんなこといわなかったよね?
 いや、まぁ… 知っているというか、なぁママ。
 私に話を振らないで下さいよ。そんなことされても困ります。
 タケルのパパは急に顔を下に向けて食事に夢中になりました。一点に魚だけを見つめながら無言で食べています。そして食べ終わるとすぐに立ち上がり、部屋を出ていこうとしています。
 ちょっとパパ! もう寝ちゃうの?
 パパは立ち止らずに返事の代わりに手を上げて部屋を出ていきます。タケルは残っている食事を慌てて食べ、パパの後を追いかけます。パパは自分の部屋の中、枯れ草の上で横になっています。
 ねぇパパ、まだ起きてるんでしょ? 大事な話があるんだ。
 タケルはそういいながらパパの部屋の中に入っていきます。
 教科書を書いているのが先生だったのは知らないけど、パパと知り合いなのは知っていたんだ。先生がそんなことをいってたからね。
 パパは突然ガバッと起き上がり、タケルの目の前に近づきます。
 あのクマが自分からそういったのか?
 パパの声が、大きく遠吠えをしているようです。その顔も、興奮しています。
 なにを聞いているんだ!
 タケルは一歩、のけぞっています。そして思いっきり顔をしかめています。
 そんなに怒鳴らないでよ。汚いなぁ! 唾が飛んでるよ!
 そんなのどうでもいい! あのクマはお前になにを話したんだ!
パパの興奮が止まりません。
 …なにって、パパのことは知っているってだけでどんな関係なのかは聞いてないよ。
 そうか… そうだよな。あのクマが自分の口からいうはずもないな。
 パパはそういいながらゆっくりと後ずさっていきます。その目がおどおどと揺れています。
 けどさ、パパに会いたいっていってたよ。それでさ…
 本当か?
 パパは驚いた顔でまたタケルに近づいてきます。そしてタケルの肩を掴みました。
 あのクマがそういったのか?
 どうしたんだよ… 先生とパパ、なにかあったの?
 そんなのはどうでもいい! 本当にあのクマがそういったのか?
 パパは激しくタケルの肩を揺さぶっています。あまりに勢いがいいため、タケルは目を回しています。今にも気を失いそうです。口を小さく動かし、なにかをいっていますが、パパの耳には届いていません。
 おい! どうなんだ! しっかりしろ!
 やめてよ…
 そんなタケルの細い声がようやくパパの耳にも届き、パパはその手を止めました。
 …先生がパパを呼んでいるんだよ。今もこの村に来ているよ。昨日はママとも話をしていたみたいだよ。聞いてないの?
 どういうことだ?
 パパはそういいながらタケルを押し退けて部屋を出ていこうとしています。けれどタケルがそれを止めています。
 それよりも今、待っているんだよ。裏口からの抜け道の部屋で待っているんだ。先生にパパを連れてきてほしいといわれたんだよ。
 用事があるんなら向こうからくればいい。昨日はママに会いに来たんだろ?
 パパは無理にタケルを押し退け、部屋を出ていきます。タケルはすぐに追いかけ、背中越しに話しかけます。
 今日は少し訳が違うんだよ。その部屋に人間がいるんだ!
 パパは急に足を止めました。タケルはその背中に突っ込んでしまいます。
 それは本当か?
 パパは振り返らずにそう聞きました。そしてタケルの返事を待たずに歩き始めます。家族の部屋に向かうのではなく、奥へと進んでいきます。タケルも後をついていきます。
 あのクマは私に助けを求めているのか? いったいなにを考えているんだ?
 それは…
 まぁ、いわなくてもわかるけどな。人間がいるということは、その人間を助けたいとでもいうのだろう。私が行ったところで意味はない。私にそんな力はないんだからな。
 二頭は真っ直ぐ奥へと進み、ヒメカの部屋に入っていきます。タケルはヒメカの家族の部屋を横切る際、ちらっと中をのぞき見ていました。部屋にはヒメカのママが、一人で食事をしています。ヒメカの姿もヒメカのパパの姿も見当たりませんでした。
 ドアはどこにあるんだ? タケルは開け方を知っているのか?
 ドアはこの辺りのはずだけど、開け方は知らないよ。この辺に鍵があるみたいだけど、どうやって開けるのかな?
 タケルは前日に先生が触っていた辺りに手を当てています。けれどタケルには、平らな壁を触っているようにしか感じられません。
 そうか… ちょっとどいてみろ。本当にこの辺りなんだな?
 パパはそういいながらタケルが触っていた場所に手を触れました。
 おっ、本当のようだな。なるほど… 噂通りだな。どの村でも鍵は同じだ。よし。
 カチッと音が鳴り、ドアが開きました。タケルはパパの顔を驚きの表情で見つめています。
 どうして? パパも鍵を知っているの?
 …まぁそういうことだ。詳しい話はあのクマに聞くといい。タケルが聞けば、全てを教えてくれるはずだ。あのクマはお喋り好きになってしまったようだからな。
 二頭は中を進んで人間のいる部屋を目指していきます。すると前から足音が聞こえてきます。
 おや、だいぶ遅かったですね。私を嫌って来ないのかと思いましたよ。
 そこに現れたのは先生です。先生は二頭の足音に気がついて迎えに来たのです。
 …久し振り、ですね? 昨日も来たそうじゃないですか? 妻に会って話をしたそうですが、なんの用で来たんですか?
 そんな冷たいいい方をしなくてもいいでしょうが。昨日はなにも知らなかったんですよ。彼女があなたの妻だとも、タケルさんがあなたの息子さんだともです。私はただ、冬眠前にサーカスに売られた方のことを聞きに来たのですよ。まさかあなたの妻の兄だとは知りもしませんでした。なにせ私は、昨日まであなたの妻に会ったことも話をしたこともないのですから。後でぜひ、改めて挨拶をしたいものですね。
 …そんなのはどうでもいいですよ。それより、人間がいるというのは本当ですか? いっておきますが、村での暮らしなんて無理ですよ。もしも他の人間に知られてしまったらどうするんですか? 以前のような過ちはごめんですよ。生きていたからいものの、あんな事件は二度とゴメンですからね。
 おや、私の心配をしてくれているのですか?
 …そんなんじゃないよ。
 パパは消え入るそうなほどに小さな声でそういいました。
 なんの話をしているの? パパと先生はどういう関係なの?
 タケルの質問にパパは見向きもしません。
 それで人間は今どこに?
 ねぇ! どういうこと? ちゃんと説明してよ!
 タケルは二頭にたいして大きく吠えています。
 ここではあまり大きく吠えないで下さい。
 先生がそういうと、先生の背後から足音が聞こえてきました。
 もう少し中で待っていて下さい。これは家族の話ですので、お願いいたします。
 先生は振り返ってそういいました。その足音が引き返していきます。
 その説明をするためにここまで迎えに来たのですよ。他の皆さんの前でお話しするのもいいのですが、家族の問題ですからね。あまりみっともない姿は見せたくないのですよ。
 他には誰がいるんです? いっておきますが、私一頭の力では人間を守ることはできませんよ。この村では、人間に家族を殺されたクマたちがほとんどなのですから。
 その問題はもう、解決しましたよ。タケルさんはよいお友達を持っています。そしてそのお父様は実に話のわかるお方でしたよ。
 …なるほど。ヒメカちゃんのパパに頼ったわけですか。まぁいいでしょう。けれどそれだけでは問題は解決しないと思いますよ。
 それはじゅうぶん承知していますよ。けれどあなたも彼に会えば納得することでしょう。彼にはそれだけの魅力があるのです。
 …先生? 説明は?
 タケルは二頭の会話に空いた隙間を見逃さず、小さな声ではありますがそういいました。
 簡単なことですよ。私はこの方の父親なんです。つまりは、タケルさんのおじいちゃんということになりますね。今までにお会いしたことはありませんでしたが、こうしてお会いできたことを嬉しく思っていますよ。
 本当なの?
 タケルはパパの顔をのぞき込んで見ています。
 まぁ、そういうことになる。
 どうして今まで黙ってたの? どうして会いに来てくれなかったの? 昨日は結婚をしたことがないっていってたよね?
 タケルがまた少し大きく吠えています。先生の背後で物音が聞こえましたが、こちら側に向かってくる気配ではありません。
 私は罪なクマですから、仕方のないことだったんです。一度は結婚をしましたが、訳あって別れることになりました。結婚が失敗だったのではありません。私が愚かだったのです。
 母さんはあの後すぐに死んでしまった。あなたのことを思って、危険な麓に何度も足を運ばせていたんだ。
 そのことは反省をしています。私も捕まるつもりであんなことをしたわけではありません。運が悪かったのですよ。
 危険とわかって山を降りるからそうなるんだ! 母さんはそんなあなたを心配していた。私と兄弟を残して、殺されてしまった。お陰で私は辛い生活を強いられたんだ。
 もうその話はいいでしょう。私はただ、子供たちに美味しい木の実を食べさせてあげたいと思ったのですよ。あの頃の生活はとても貧しかったですからね。私は村に所属をしないクマで、日々の生活にいっぱいいっぱいだったのですよ。けれど子供たちには、少しでも美味しいものをと考えたのです。愚かでしたよ。捕まることも考えてはいませんでしたが、妻が殺されるなんてことは微塵にも考えてはいませんでしたから。
 先生はじっとタケルのパパを見つめています。タケルのパパも、真っ直ぐに見つめ返しています。
 …もういい。その話は過ぎたことです。
 どうして僕に会いに来てくれなかったの?
 息子とは連絡を取り続けていましたが、どこに住んでいるのかは、知りませんでした。孫がいるという話は聞いていましたが、会わせてはくれなかったのです。私の存在をタケルさんに知られたくないと思ったようです。私とも本当は縁を切りたかったようですが、仕方がありませんよね。息子の会社にとって、私はとても重要な商品の一部になったのですから。
 このクマだけなんだ。人間の言葉を完璧に話し、読み書きまでできるのはな。このクマがいなければ、私の会社で教科書を売り出すことができない。それだけの関係だ。私はとっくにこのクマを父親だとは思っていない。縁は切れているはずです。
 そうでしょうね。私が近くにいることは危険かもしれませんから。けれど現実に、あれからはもう十年近くも経っているのですよ。人間はとうに諦めています。ここまで探しに来ることはないでしょう。
 先生は人間に追われているんですか? ひょっとして、サーカスから逃げ出したクマが、先生なんですか?
 おや、その話は知っているんですね。確かにそうです。私はサーカスに売られていました。そこで長い間を過ごしていたのです。息子とは一年ほどしか一緒に暮らしていませんでした。まさかあぁいう形で再会をするとは思いもよりませんでしたよ。
 いい迷惑ですよ。あの事件で何頭のクマが殺されたと思うんですか?
 そのことは深く反省をしていますよ。今でも遺族の方には毎月会いに行っています。あんな事件に発展をするなんて、誰が考えつきますか?
 なんなの、それ? どういうこと?
 このクマのせいで多くのクマが死んだんだ。人間たちはこのクマを追いかけてこの山にやってきた。そしてこのクマの代わりに殺されたんだ。
 …その通りです。そのことについていい返すことはなにもありません。
 当然だ。あなたの罪は決して消えませんから。
 あのさ、もっと僕にもわかりやすく話してくれない?
 そうでしたね。タケルさんに説明をするための話でしたからね。私はあることをきっかけにサーカス団を逃げ出すことになったのですよ。不満があったわけではありません。私にとってサーカス団での生活はなかなかに楽しいものでしたからね。人間たちは私に優しくしてくれましたよ。私は逃げ出すつもりなど少しもなかったのです。残した家族に会いたい気持ちはありましたが、人間の世界はそれよりも居心地のいいものでした。それには訳がありましてね。一人のサーカス団との出会いがあったのです。その人間は私よりも後からサーカス団に入ってきたのですが、私の面倒を見る係になりましてね。すぐに仲良くなりました。女性の方だったのですが、その方に人間の言葉を教わったんですよ。しばらくしてから彼女が突然私を山に帰してあげたいと言い出したのです。そして自分も一緒に山で暮らしたいというのですよ。彼女はすでに若くはなく、一度は結婚をして子供もいたのですが、その時には一人立ちをしていて、彼女は一人きりで暮らしていたのです。寂しかったのでしよう。私と一緒に山で暮らしたいなんていったのですから。まぁ詳しく話すと長くなるのでここでは話しませんが、色々なことがありまして、結局私は彼女を連れて逃げ出すことにしたのです。それが間違いの始まりでしたね。あの頃の私はサーカス団の檻に入れられていたのですが、彼女の手助けのもと、檻から抜け出すことが出来たんです。そして幾つかの夜と山を越え、この山の麓まで辿り着きました。そこで私と彼女の姿を、街の人間に見られてしまったのです。大騒ぎになりましたよ。私が彼女を捕まえて乱暴をしているように、人間たちの目には映ったのでしょう。人間たちは銃を構えて私たちに迫ってきました。彼女は必死に説明をしていましたが、誰も彼女の言葉には耳を貸しません。私は悟りましたよ。彼女を離して一頭で逃げるしか道はないんだと。そして彼女を離し、山の奥に逃げようとしました。するとすぐ、人間は私に向かって銃を撃ち始めました。サーカス団で鍛えた機敏な動きのおかげで、ほとんどは避けることができたのですが、一発だけ、肩に撃たれてしまいました。大量の血が流れ、痛みも想像を絶するものでしたが、それでも私は逃げ切ることができました。彼女を人間の街に残したままではありましたが、それは諦めるしかありません。奪いに行けば必ず殺されてしまいますからね。私は山の奥に入り、平穏に暮らすことにしたのです。と、そこで事件は終わりではなく、始まりだったのです。人間はしつこい生き物です。私を探し出すために山に入り込んできたのです。村のある奥まではさすがに入ってはきませんでしたが、クマの生活範囲にまで入り込んできたのです。そして誰かれ構わずに撃ち殺していったのです。それは人間にとって、復讐のようでした。その彼女は生きていたのに、クマに襲われたと思い込み、その危険に対してのみせしめだったのです。私の罪は、この山のクマを犠牲にしてしまったことです。人間の彼女を連れてこようとしたための悲劇です。これが私の過去の全てですよ。まぁその後、人間との生活を活かし、人間の言葉の本を書くようになり、出版社で息子と再会をしたという訳ですよ。私の今の地位があるのは、その時代のおかげであります。ちなみにですが、この眼鏡はその時の彼女から頂いたものです。
 先生が話を終えた時、タケルは茫然として先生を見つめていました。
 凄いですね。なんだか聞いているだけで疲れてしまいます。
 タケルはただ立って話を聞いていただけなのですが、息を切らせてそういいました。
 では、部屋に行きましょう。実はもうほとんどの話は終わっているのですよ。ヒメカさんのお父様が協力してくれることになりましたからね。
 先生は奥へと進み人間のいる部屋に入っていきます。タケルとパパも後をついていきます。
 こちらが人間の山上さんです。明日からタケルさんの隣の部屋に住むことになりました。空いている部屋はあそこだけのようですから。村のクマたちには明日紹介をすることになりました。緊急の集会を開いてくれることになっています。
 先生はクマ語でそう説明をします。
 どうも、初めまして。山上です。お隣でお世話になります。仲良くして下さい。
 山上はクマ語でそういいながらタケルとタケルのパパに近づき握手を求めました。タケルのパパは戸惑いの表情で、手を前に差し出しました。
 ど、どうも…
 それしか言葉が出てきませんでした。
 それから先生は明日どうするのかを話しました。村のクマたちにどう説明をすればよいのかを相談しました。山上の村での仕事についても考えました。結果、村のクマたちには前日先生が考えていたように話すことになりました。山上の仕事は、人間の文化と言葉を教えることになりましたが、他の村へは連れ出さないことにもなりました。他の村のクマたちには山上の存在は知らせません。大騒ぎになることが間違いないからです。そうなっては、山上を殺そうとするクマが出てくることでしょう。この村だけでもその可能性はありますが、ヒメカのパパの力でなんとか抑えることができるという結論に至ったのです。なによりも、ヒメカのパパは人間たちといい関係を築きたいと考えているのです。そうすれば、毎年のようにクマが殺されることもなくなるのですから。
 その日は山上をその部屋に残し、みんなはそれぞれの部屋に戻っていきました。先生は、タケルの家族の部屋に向かいました。そこでタケルのママも交えた三頭で蜂蜜酒を飲み、魚をつまみながら会話をしていました。朝になるまでずっと、楽しそうな笑い声を響かせていました。タケルもその輪に入りたかったのですが、子供は寝なくてはならないとの理由で追い返されてしまいました。納得のいかないタケルは壁に耳をくっつけて会話の内容を盗み聞きしていましたが、いつの間に疲れてしまい、そのまま眠ってしまいました。
 朝になり、いつものような一日が始まりました。タケルとヒメカは今日も学校があったのですが、村の緊急集会のため休みを取ることになりました。先生も、学校に連絡をして休むことにしました。タケルの村に住む他の高校生も、大学生もみんな休むことになりました。大人たちも会社を休みます。村では集会が開かれる時、みんなが参加をしなければならない決まりがあるのです。集会の知らせは朝一番で村中に知らされました。村には人間の電話とは違う独特の通信手段があります。それは、モグラたちの力を借りるのです。村には多くのモグラが住み着いています。クマたちはモグラを襲うことをしません。むしろ他の外敵から守っているのです。その代わりに、モグラに一つの仕事を頼んでいるのです。穴掘りが得意なモグラは、村の中の全ての部屋を地下を通してつなげているのです。その穴を行き来して知らせを伝えてくれるのです。前にも話した通り、動物たちはそれぞれ別の言葉を使いながらも会話を成立させることができるのです。
 そしてもう一つ、もっと大きな通信手段も持っています。さすがにモグラでは他所の村との通信ができないからです。この手段は人間も似たようなことをしていた時代があるようですが、その歴史はクマの世界での方が古いようです。空飛ぶ鳥たちにお願いをするのです。季節やその距離によって様々な種類の鳥にお願いをします。これはお願いであり、鳥たちはなんの見返りも求めません。クマたちと鳥たちは、動物の世界でも特に仲がよい関係を築いているのです。裏切るということはあり得ません。鳥たちが途中で事故を起こさない限り、必ず知らせは伝わるのです。時には物を運ぶこともありますが、あまり大きな物は運べません。手紙や木の実を送る程度です。
 緊急集会は村の外で行われます。大きな村では村の中に講堂が用意されているのですが、タケルの暮らす村はあまり大きくはありません。
 大勢のクマが外に集まる様子は、意外なほどに迫力があり、恐ろしいと感じるほどです。そこでヒメカのパパが話を始めました。
 ヒメカのパパの説明に、村のクマたちは騒然としています。ほとんどのクマは顔をしかめて、家族や親しいクマとなにやら言葉を交わしています。静かにしなさいと、ヒメカのパパが大きく吠えます。途端にクマたちは静かになります。そこで山上が登場します。
 山上の姿が見えると、クマたちはざわめき始めます。山上は気にもせずに挨拶を始めました。人間の言葉ではなく、クマ語を使っての挨拶です。クマたちのざわめきが、一瞬静まりました。けれどすぐに、それまで以上のざわめきが起こります。それでも山上は気にせず、挨拶を続けました。
 山上の挨拶は、人間にとっても、クマにとっても素晴らしい内容でした。その全ては先生が考えたものではありましたが、山上のたどたどしいクマ語が、聞く者の心をとらえたようです。挨拶の途中からはざわめきもなくなり、最後には大きな拍手が起こりました。山上がこの村に受け入れられた瞬間です。
 今日はどうでした? あれからなにをしていたんですか?
 タケルが隣の部屋を訊ねています。人間の言葉を使っています。山上が帰ってきたのを確認してからすぐに顔を出しました。朝の集会を終えてからタケルはずっと自分の部屋で勉強をしていました。
 おや? 人間の言葉を覚えたんですか?
 山上はクマ語でそういいます。
 はい。人間の言葉は簡単ですから。山上さんは凄いですね。クマ語は難しくないですか?
 えぇ、けれどその分、楽しいですよ。話をしていてこんなに楽しい言葉は他にはありませんね。
 山上はまたクマ語でそういいます。
 この村はどうですか? 居心地いいですか?
 タケルはまた人間の言葉を使います。
 えぇ、素晴らしい村だと思いましたよ。集会の後、村を案内してもらったんですが、クマたちが山の中でこんなにも文化的な生活をしているとは知りませんでした。それに村の方たちはとても親切ですね。沢山の食料を分けてもらいました。あっそうそう、タケルさんのお父様の会社へもうかがいましたよ。あの技術は素晴らしいですね。クマがああして本を作っているとは想像もしていませんでした。なによりも、クマ語の文字は美しいですね。
 こんなに遅くまで、大変でしたね。
 いやぁ、そんなことはありませんよ。今日はとても楽しい一日でしたから。
 今はもう夕方過ぎです。外はだいぶ暗くなっています。
 そういえばお風呂があると聞いたんですけど、一緒に入りにいきませんか? 私はお風呂が大好きなんですよ。
「それ知ってます。聞いたことありますよ。人間はお風呂が大好きだって。僕たちも嫌いじゃありませんが、この季節はあまり入りませんね。暖かいですから。けれど今日は付き合いますよ。ちょっと待って下さいね。
 タケルはそういうと家族の部屋に向かいました。
 山上さんがお風呂に入りたいって。今から行ってきてもいい?
 あら、別に構わないけど、どこまで行く気なの? あまり遠くには行っちゃダメよ。他の村のクマたちに見られないようにね。
 わかってるけど… パパの会社に行ったみたいだよ。大丈夫なの? パパの会社には色んな村から集まってきているでしょ?
 大丈夫よ。ヒメカちゃんのパパが一緒について行って説明をしているはずだから…
 タケルは山上を連れて村の外に出ていきました。川原に行く途中の道を登っていきます。軽快に進んでいくタケルの後を山上は息を切らせて必死について行きます。
 ちょっとタケルさん! もう少しゆっくりとお願いできませんか? 私はこう見えても結構な年齢なんですよ。さっき知ったんですけど、この村でも一番の年寄りなんですから。
 本当?
 タケルは足を止めて振り返ります。
 そんなに小さいのに? まだまだ成長途中じゃないんですか?
 いやぁもう私は四十近くですよ。足腰もだいぶ悪くなってしまいました。
 タケルは山上に近づき、抱えあげました。そしてそのまま山を登っていきます。
 人間はみんなこんなに軽いんですか?
 クマに比べれば、確かにそうですね。私はその中でも軽い方ですよ。背も低い方ですから。
 面白いですよね。こんなに小さいのに、一番偉そうな顔をしているのが人間なんですから。
 …それはまぁ、そうですけど、なかなか厳しい意見ですね。
 仕方ないですよ。人間はクマのことも平気で殺しますし、意味もなく人間同士の殺し合いもしますからね。山上さんはどうなんですか? 先生はとても信頼しているみたいですけど、人間を殺したりしたことありますか?
 タケルが山上の顔を見つめています。山上は少し、怯えているようです。目と頬が震えています。
 そんなこと… 一度もないです。
 そうですよね。そんな人間だったら、先生が気がつくはずですからね。ほら! 見えてきましたよ。あそこから湯気が上がっているのが見えますか?
 タケルがそういうと、山上は自らタケルの腕から降りました。
 素晴らしい… 天然の温泉ですね。
 クマのお風呂は全て、天然なんです。寒くなると他の動物たちも大勢やってきますよ。
 タケルはそのままお風呂の中に入っていきます。山上は洋服を脱いで、それを木の枝にかけてから中に入ります。眼鏡はそのままに、湯気で真っ白に曇っています。
 洋服って、暖かいんですか? なんだかカッコいいですよね。
 よかったら私のベストをあげますよ。といっても、タケルさんには着られそうもありませんね。
 そんなことないです。是非下さい。ママに頼んで直してもらいますから。
 よろしいですよ。もう一枚あるので、それも一緒にあげますよ。二枚をつなげれば、タケルさんでも着られるはずですから。
 本当に! 山上さんって、いいクマ、あっ、いい人なんですね。人間の街ではどんなことをしていたんですか? 人間の街って、どんなふうになっているんですか?
 タケルは嬉しそうな笑顔を浮かべながらそういいました。山上は人間の世界のことを話してくれました。けれどそれは、タケルにとって少しも目新しいことはありませんでした。全て噂で聞いていた通りでした。魅力ある街ではありますが、山上の話は少しも楽しくありません。山上の仕事も、普通でした。山上はレストランで働いていたといいました。
 人間の世界とクマの世界、どっちが楽しいですか? 今の話だと、人間って退屈ですね。
 山上の話は確かに退屈でした。大人たちは朝から仕事をして、子供は学校に行き、夜になると家の中でテレビを見て一日を過ごし、休みの日には動物園に行ったり、たまにはサーカスを見たり、大人はお酒を飲んだりして仕事の疲れを癒し、また仕事に戻る毎日だと話したのです。その話はクマの世界でイメージする人間そのものの姿です。
 いやぁ、そうかもしれませんね。けれど今のは、私の生活であって、もっと楽しんでいる人間もいます。私は母と二人暮らしですから、仕事以外はほとんど家の中なんですよ。この年ですし、若者の流行にはついて行けませんからね。
 山上はそういいながら人間の世界の今を話し始めました。それはタケルにとって、信じられないほどに魅力的なものでした。コンピューターの話、マンガや音楽などの文化の話、タケルが特に魅力を感じたのは、新幹線や飛行機などの乗り物の話でした。車の存在は知っていたのですが、空飛ぶ飛行機や新幹線のことは知りませんでした。飛行機という名前に聞き覚えはありましたが、どうして知っているのかは思い出せません。
 クマの世界では海の外側とも交流はありますが、その交流は鳥たちを通して行われるものがほとんどです。中には実際に海を渡ったクマもいるそうですが、タケルの耳に届いたのは船を使っての移動でした。大勢を乗せて猛スピードで走る新幹線や飛行機に魅力を感じたのです。
 凄いですね! 僕もいつか行ってみたいなぁ。空を飛べるなんて、素敵だよ。
 タケルと山上はお風呂を上がり、山上は着替えをして山を降りていきました。その途中、タケルはずっと人間のことを聞いていました。つまらない話ではなく、楽しい話を聞き、興奮をしています。
 山上さんは人間の世界に未練はないんですか? そんなに楽しい世界なら、僕は絶対に逃げ出したりはしませんよ。
 いやぁ、私にはそれが楽しいとは思えませんね。こうしてのんびりと緑を眺めているのが、一番の幸せですよ。今日は本当にありがとうございました。また一緒にお風呂に入りましょう。
 山上は村の中、自分の部屋に戻っていきます。タケルも隣の自分の部屋に戻ります。そして人間の世界を夢想しては楽しんでいます。
 随分と楽しそうだな。
 タケルのパパが部屋の入口に立っています。
 あれ? 今日はいつもより早いね。
 …なにをいってるんだ?
 パパにはタケルの言葉が理解できません。タケルは無意識に人間の言葉を使っていたようです。山上との会話が全て人間の言葉だったので、その影響でしょう。その会話の時、山上はずっとクマ語を使っていました。そのためパパのクマ語にも自然と人間の言葉で反応をしてしまったようです。
 ごめん。今から食事だよね。
 タケルはクマ語でそういいます。そして起き上がり、家族の部屋に向かいます。そこには山上もいました。三頭と一人での食事が始まりました。
 山上はクマの世界のことをパパやママと楽しそうに話しています。どうやら山上は本気でこの村を気に入っているようです。そしてパパやママも、山上を気にいっています。
 いやぁ、あなたは素晴らしい方ですな。人間がみんなあなたのようだったら助かるのですが。
 そうよねぇ。山上さんのような人間となら楽しく過ごせそうですよ。頭もいいですし、自然を大切にしてくれます。クマの世界を理解してくれますからね。
 そうだな。父がいっていたように、山上さんがいれば本当に人間と仲良くなれるかもしれないな。期待していますよ。どうかこの山に昔のような平和を取り戻して下さい。
 パパとママの言葉に山上の顔が不安な表情を浮かべています。
 …それって、どういう意味ですか?
 おや? 父から話を聞いているはずですが?
 そうよ。朝の集会でもいってたわよ。山上さんが人間たちを説得して下さるのよねぇ。クマたちを無暗に殺さないと、そう訴えて下さるのよねぇ。
 あぁ… そうですね。そう努力をいたします。
 次の日の朝、タケルは起きてすぐに山上の部屋を訊ねました。
 あれってやっぱり、無理なんでしょ? わかってるよ。大人たちは本気で信じているみたいだけど、僕にはわかるよ。人間の残虐さがそう簡単に変わるはずないよ。いくら山上さんが訴えたって、無理なんでしょ?
 山上はタケルの目をじっと見つめています。
 …えぇ、残念ですが、きっと無理でしょう。あなたはこのことを他のクマたちにもいいますか?
 そんな、とんでもないですよ。いったからといってどうなるんですか? 山上さんが追い出されるだけですよ。僕の勘ですけど、先生だけはわかっていると思いますよ。ああいうことをいったのは、山上さんをこの村に置いておくためですよ。きっと、そうです。
 ありがとうございます。今日は午後から中学校で人間の言葉を教えるのですが、よかったら顔を出して下さい。
 タケルは笑顔を見せてその場を去りました。
 その一年、村の生活は平和に過ぎていきました。冬眠を前にしても、人間による被害は出ていません。こんなことは、ここ数十年で初めてのことだそうです。クマたちはみんな、山上がきてくれたおかげだと喜んでいます。
 タケルとヒメカは今まで通りの学生生活をしていました。二頭の距離が特別縮まることはありませんでした。友達以上ではありますが、恋人とまではいえない距離の関係です。
 今日で学校も終わりね。冬眠の準備は進んでる?
 学校の帰り道、タケルとヒメカが一緒に歩いています。二頭とも、身体つきが少しふっくらとしています。
 僕の家はもう完璧だよ。今日にでも冬眠に入るんじゃないかな? 寒くなってきたし、ちょうどいいタイミングじゃないかな?
 いいわね。私の家はまだ、無理よ。毎年のことだけど、パパの仕事が終わるまではね。村のみんなが冬眠に入るまでは無理ってことよ。毎年最後になるんだから。
 それは仕方ないよ。ヒメカちゃんのパパは僕たちの村で一番偉いんだから。けれどどうするのかな? 人間って冬眠しないんだよね?
 パパたちもそのことで困っているみたいよ。山上さんは一人で生活を続けるから心配しないでほしいっていっているらしいのよ。いくら信頼できるといっても人間でしょ? 冬眠中に村の中で暮らすっていうのはちょっと、ね。だからパパたちは冬眠の間は人間の街に帰ってくれないかって頼むつもりらしいのよ。春になったらまたくればいいって。
 えっ!
 タケルが大きな叫びをあげました。そしてすぐにその口を手で押さえています。
 どうかしたの?
 ヒメカが心配そうな声でそういいました。タケルの顔は少し、緩んでいます。今にも大きく笑いそうなのを我慢しているかのようです。
 うぅん、なんでもないよ。それよりまた来年、よろしくね。
 タケルはそういうと突然走り出しました。急いで村の中に入っていきました。ヒメカはただその姿を茫然と見つめています。
 …なんなのかな?
 タケルは部屋に入るとすぐ山上から貰いママがつないでくれたベストを着ました。そして冬眠の準備に入りました。
 もう冬眠に入ったのか?
 しばらくするとパパがタケルの部屋をのぞきに来ました。今日はパパの会社も午前中で終わりです。ほとんどのクマが、これから冬眠に入るのです。
 また来年、ゆっくりと休むんだぞ。
 パパはそういって自分の部屋に戻っていきました。
 夜になり、タケルはそっと枯れ草の上から立ち上がります。村の中はいつもに増して静かです。タケルはパパとママの部屋をのぞきました。二頭ともが冬眠に入っています。それを確認してから山上の部屋に訪れました。
 おや? 冬眠に入ったのではないですか?
 えぇ、そのつもりだったんですけど、なかなか眠れなくて。
 山上は眼鏡越しにタケルの顔を見つめています。
 …わかりますか? やっぱり山上さんは鋭いですね。実は…
 いわなくても想像はつきますよ。私を説得にきたのでしょう。やはり冬の間は人間の街に戻るべきなんでしょうね。私一人ではきっと、この山で冬を越すことはできないでしょうから。
 いや… それもそうなんですけど、実は頼みたいことがあるんです。僕を、人間の街に連れて行ってくれませんか?
 山上の表情が固まりました。
 それは… 無理な相談です。そんなことをすれば、タケルさんの命がありませんから。
 …そういうとは思いましたよ。だからせめて見送りをしたいと思ったんです。いいですよね? いつ帰る予定なんですか?
 山上はまたタケルの顔を見つめています。
 …明日の朝帰るつもりですよ。これからヒメカさんのお父様に挨拶をしてきます。さすがに夜に一人で山を降りるのは危険ですから。…それにしても、本気なんですか?
 えぇ、見送りだけですから。いいですよね?
 …わかりました。けれど絶対に山を降りないで下さいよ。人間に姿を見られては大変なことになりますから。
 もちろんですよ!
 タケルは笑顔でそう答え、部屋に戻っていきました。タケルは眠らずに朝まで部屋の中で本を読みながら過ごしていました。興奮をして眠れないのと、山上が一人で外に出ていくのを見張るためです。
 さぁ、そろそろ出かけましょうか。
 部屋の入口に山上が現れました。タケルはその言葉が発せられた瞬間にはもう立ち上がって山上の目の前まで進んでいました。
 準備はもうできたんですか?
 本気で行くつもりなの?
 山上の後ろにはヒメカの姿があります。
 …どうして?
 なにいってるのよ。タケル一人だと危険だからに決まってるでしょ? パパに頼まれたのよ。
 …そうなんだ。山上さん、僕のこと話したの?
 タケルは泣きそうな声でそういいます。
 当然ですよ。悪いことですか? 見送りだけなんですから、話しても問題はないでしょう?
 …まぁ、そうですね。
 二頭と一人は村を出ていき、山を降りて行きました。
 山を下る途中、二頭と一人はほとんど口をききません。山上は村でのことを思い出しているようです。ヒメカはタケルの行動を心配しています。タケルはどうにかして少しでも人間の街に近づこうと考えています。
 もうこの辺りでいいんじゃないでしょうか? これ以上は人間も入り込んできますよ、きっと。
 山上は足を止めてそういいました。そこはもう、すでに普段なら決してクマが降りてはいかないほどに人間の街に近づいていました。
 …そうですよね。わかりました。また来年、会いましょうね。待っていますから。
 タケルはそういい、山上を抱き締めました。ヒメカもその後に続き、山上を抱き締めました。
 春が来たら、必ず会いに戻ってきますよ。
 山上の言葉を背中に、タケルとヒメカは山の奥に消えていきました。
 ヒメカちゃん、僕ちょっと用事があるから、先を急ぐね。
 少しばかり歩いたところでタケルは立ち止まりそういうと、突然本気で走りだしました。ヒメカが呆気にとられている隙に、タケルの姿が見えなくなってしまいます。ヒメカは慌ててタケルを探そうと追いかけましたが、見つけることはできませんでした。ヒメカは仕方がなしに一頭で村に戻っていきました。村の入り口にはヒメカのパパとママが待っていました。ヒメカはタケルがどこか山の奥に走っていなくなったことを告げました。パパとママは後のことは任せて先に冬眠しなさいといいました。ヒメカは一緒にここで待ちたいといいましたが、パパとママに説得されて一頭で奥の部屋に戻っていきました。
 タケルは勢いよく山の奥へと走っていきましたが、ヒメカの姿が後ろに見えないことを確認すると、すぐに木の陰に隠れてヒメカが通り過ぎるのを待ちました。そしてヒメカが通り過ぎて遠くに走っていくのを確認すると、すぐにまた山を降りて行きました。そして山上の姿を見つけ、その後を気がつかれないようについていきます。
 山上は人間の街へ辿り着きました。けれどまだそこには、人間の姿は見えません。人間が暮らしている家は見えます。人間が創り出したアスファルトの地面もあります。不自然に突き立てられた電柱と、その電柱をつなぐ電線が景色を汚く映しています。
 静かな田舎町です。余計な物音が一切しません。けれどなぜだが、鳥たちが騒がしく飛び回っていまいす。山上はなにか様子がおかしいと立ち止りました。そして、振り返ります。
 こ、こ、ここでなにを? 危険ですよ! すぐに引き返して下さい!
 なにいってるんですか? ここには誰もいないじゃないですか? 人間の街って、随分と静かなんですね? 山から見下ろすのとだいぶ違いますね。噂とも違って危険なんて少しもないじゃないですか。
 ここは田舎だからですよ。それにここはまだ、街の入り口です。もう少し下った所に大きな街が広がっているんですよ。けれどここにも人はどこかにいますから、見られでもしたら大変ですよ。
 タケルの近くには多くの鳥が集まっています。肩に乗っている鳥もいます。
 …まったく、困った方ですね」。
 その時です。ガタンッ! と物音が聞こえました。タケルの周りにいた鳥たちが一斉に飛び立ちます。近くの民家のドアが開いたのです。
 おや? あっ! アァー!
 中から歳をとった婆さんが現れました。叫びをあげるとすぐ、バタンとドアを閉めて家の中に入っていきました。
 逃げるんだ! 大変なことになる! きっと仲間を連れてくる! 早く! お願いだから逃げてくれ!
 山上はタケルに駆け寄り、腕を引っ張り山へと連れ戻そうとしています。けれどタケルは少しも動こうとはしません。
 僕は飛行機に乗りたいんだよ。飛行機に乗ったらすぐに帰るから、いいだろ?
 いいわけあるか! そんなの無理なんだ! 普通の人間はクマとは仲良くなれないんだよ! 言葉を話すクマがいることを知られたら、きっと大騒ぎになる。村のクマたちにまで被害が及ぶんだ! 人間はきっと君たちを動物園やサーカスに売り飛ばすんだよ。そしてお客が来なくなったら殺される。それが人間なんだ! わかるだろ? 飛行機には乗ることはできない!
 ガタンッ! とまたドアが開く音が聞こえます。さっきの婆さんの家のドアです。けれど出てきたのは、爺さんでした。爺さんは手に銃を持っています。
 危ないぞ! そこを離れるんじゃ!
 爺さんが大きく叫びました。そして銃を構えます。
 危ない!
 同時に山上も叫びました。山上は必死にタケルを押しのけようとしました。タケルを銃弾から守り、山へ帰そうと必死です。けれど爺さんには、山上の声がクマの叫びにしか聞こえません。その動きもクマから必死に逃げようとしているように見えています。
 大丈夫ですよ。心配しなくても、僕は大丈夫ですよ。
 タケルのその声が、爺さんには人間の声に聞こえます。それを合図に、引き金を引きました。ズドンッ! と乾いた音が響きます。
 バタンッ! と重たい音が後を続きました。タケルが脳天から血を流し、倒れています。
 タケルさん! どうしてこんなことに!
 山上はクマ語で大きく泣き叫んでいます。すると背後がらもう一発ズドンッ! と乾いた音が響きました。クマがまだ生きていると思ったのです。弾は倒れたタケルの心臓に命中しました。山上はタケルに近づき泣いています。そこへゆっくりと爺さんが近づいていきます。
 どうして殺したんですか!
 山上はクマ語でそう怒鳴りました。爺さんは驚きもう一度銃を構えましたが、その声が目の前の人間から発せられていることに気がつき、すぐに銃を下ろしました。爺さんは憐れそうに山上を見つめています。クマに襲われて気が動転しているように見えたようです。
 タケルが殺されたという噂はすぐにクマの村にも伝わりました。鳥たちが知らせてくれたのです。冬眠中の今、起きているクマはヒメカの家族だけでした。ヒメカは部屋の中で冬眠に入ろうとしています。けれどなかなか眠れません。パパとママが戻ってくるのを待っています。
 …そろそろ冬眠に入ろうか。村のみんなは無事に冬眠に入ったよ。
 ヒメカのパパが部屋の中に入ってきました。普段通りの声を出していますが、その目が真っ赤に滲んでいます。
 なにがあったの!
 ヒメカは勢いよく立ちあがりました。パパが嘘をついているのは明らかです。
 タケルになにかあったのね?
 パパは急にヒメカを抱き締めました。
 ちょっと… どうしたの?
 落ち着いて聞くんだよ。決して興奮をしてはいけない。タケルくんは。 人間の街に降りて殺されたよ…
 うそ…
 ヒメカはパパの胸にうずくまり泣いているようです。鼻をすする音が聞こえてきます。
 とにかく一眠りしよう。そうすれば少しは気持ちが落ち着くだろう。
 パパはそういいながらヒメカを枯れ草の上に寝かせました。そして枯れ草をお腹にかけています。
 来年まで、ゆっくりと寝ていなさい。
 パパは自分の部屋に向かっていきました。ヒメカはパパにいわれた通り冬眠に入ろうとしています。けれどなかなか眠れません。タケルが殺されたという現実が、信じられませんでした。冬眠明けにはまたいつものように会えると、そう思いました。そしてタケルはまだ生きているんだと信じ込み、ゆっくりと冬眠に入っていきました。

 冬眠中のヒメカはタケルとの夢を見ていました。楽しい夢です。二人はまだ恋人未満ではありますが、お互いの気持ちは固まっています。将来は幸せな家庭を作るつもりでもいました。けれど夢の中、タケルが突然山に現れた人間に撃ち殺されるのです。ヒメカはその瞬間に悲鳴をあげて飛び起きました。
 …夢、なの?
 ヒメカは一度ホッとため息をつきました。そしてゆっくりと冬眠前のことを思い出しています。
 あっ! そうだ…
 ヒメカの目から涙が流れてきました。冬眠前にパパがいっていた言葉を思い出したのです。どうしてどうしてどうして? ヒメカの頭が混乱しています。そして突然、思考が停止しました。一瞬だけ、頭が真っ白になりました。すると今度は頭の中が怒りで一杯になりました。許せない許せない許せない! 人間に対しての怒りで身体が熱くなるほどでした。ヒメカは部屋を出て村の外まで歩いていきました。そしてそこから、一頭で山を降りて行きました。村のクマはみんながまだ冬眠中です。季節はすっかり冬になっていて、山は雪で覆われていました。けれどヒメカは少しも寒さを感じていません。四本足で勢いよく走っていきます。
 人間の街に降りたヒメカはそのまま人間の家の中に入っていきました。街の外には一人の人間もいなかったので、家の中ならいると考えたのです。
 人間はいますか? この辺りでクマを殺した人間を探しています。
 ヒメカは人間の言葉を使ってそう叫んでいます。ヒメカの人間の言葉は、タケルのそれと比べるととても未熟です。外国の言葉を覚えたてで話しているようなものです。
 その家の中には人間がいました。けれどその人間は、ただ怯えるばかりでなにも答えません。ヒメカの言葉は耳に届いているのですが、まさかクマが人間の言葉を話すわけはないと、無意識にその言葉を拒否していたようです。
 ヒメカはその家を出ると違う家に入っていき、同じような言葉で人間に詰め寄りました。その人間も前の家と同じようにただ怯えるだけです。ヒメカはそれを数軒の家で繰り返しました。その内に人間たちは大勢集まり、銃を構えてヒメカの入り込んだ家の周りを囲み始めました。ヒメカは誰一人傷つけていないのですが、人間にはそんなこと関係がないようです。クマが人間の世界にいるというだけで、危険を感じ、殺してもいいと考えているのです。ヒメカはそうとは知らずにその家を出て次の家を目指そうとしています。ヒメカは無暗に人間を傷つけるつもりはありません。タケルを殺した犯人だけを探し、殺そうと考えているのです。
 ズドンッ! ズドンッ! ヒメカが外に出るとすぐ、乾いた音が響きました。ヒメカの胸に二発、命中しました。けれどヒメカは倒れませんでした。四つん這いになり、銃を持つ人間に向かって突っ込んでいったのです。
 グワァー! と大きく吠えながら人間の首に噛みつきました。ズドンッ! ズドンッ! 銃声が響きます。ヒメカはもう一人に向きを変え、飛びつきます。そしてまた、首を一噛みします。ヒメカは銃を持つ全ての人間を襲うつもりのようです。けれど、ズドンッ! ズドンッ! と次々にヒメカの身体に銃弾が撃ち込まれていき、ヒメカが四人目に襲いかかった直後に力尽きて倒れていきました。その時はすでに意識を失い、死んだ後でした。
 クマが民家を襲い四人の人間を殺したというニュースはすぐに全国に広がりました。
 そのニュースを家にいた山上が目にしました。山上はその町の名前と、死んでいるクマの姿を見てすぐにそれがヒメカであると気がつきました。そのクマは、頭にピンクのリボンをつけていたのです。
 まさか… そんな…
 テレビを見ていた山上は突然立ち上がりました。
 …知っている人が死んだのかい?
 その家には山上の母も一緒に住んでいました。
 いや…
 人じゃなくて、クマの方かい?
 母の言葉に山上は驚きをあらわに目を丸くしています。その目には、真ん丸の眼鏡がかけられています。
 山に行くといって半年以上も帰って来なかったんだ。見つかった時のおまえは死んだクマと一緒だったじゃないか。そのクマはお前のベストを着ていたっていうしな。大体の想像はつくさ。それでどうするつもりなんだい?
 どうするって… わからないですよ。助けてあげたいですけど、無意味なのはわかっています。母さんはなにを知っているんですか?
 私がサーカス団にいたのは知っているだろ? クマの調教をしてたってことも。お前、あの町で見つけられた時、獣のように叫んでいたそうじゃないか? それはつまり、クマ語を喋っていたんだよ。私は知っているんだよ。人間の言葉を喋るクマがいることをだ。そのクマがあの山に住んでいることもな。おそらくお前は、あの山であのクマに会ったんだよ。あいつは元気でやっていたかい?
 その話は本当ですか? それじゃあ先生のいっていたのは母さんのこと? サーカス団から助けてくれたっていっていましたよ!
 そうかい。あいつは今、先生なのかい。そいつは素晴らしいことだ。
 どうしたらいいですか? 助けてあげるべきですか?
 いいや、なにもするべきではないね。これからどうなると思う? 人間たちは以前にもましてクマに怯えることだろうよ。それはつまり、クマたちの危険が増えるってことだ。怯えた人間はすぐにクマを殺すだろうよ。もしかしたら山の奥に入り込んで大量に殺すかもしれないな。
 そんな… だったら今すぐ伝えないと! 彼らは人間と仲良くすることを望んでいるんですよ。
 山上はそのまま外に出ていこうとしています。
 ちょっと待ちなよ。止めるつもりはないがね、命は大事にするんだよ。その歳になっても、お前は私のたった一人の子供なんだ。それからあのクマに会ったらよろしくいっといてくれよ。
 母さん… ありがとう。必ずそう伝えときます。
 山上はクマたちの村のある山へと向かっていきました。
 山の麓の町は取材やヤジ馬たちで一杯です。山上は誰にも気がつかれないように少し遠くの川原から山に入っていきました。村に辿り着いた山上は、村の中に入っていきます。入口に、一頭のクマが座り込んでいました。
 どうしたんですか? こんなところで?
 山上がクマ語で話しかけます。そこにいたのは、ヒメカのパパでした。
 君か…
 ヒメカのパパは顔を上げて山上の顔を見つめました。特に驚いた表情もせずにいます。
 騒ぎを聞いて来たのかね? 大変なことになったものだよ。これからもっと大変なことになる。君はここに来る途中で誰にも会わなかったのかね?
 ヒメカのパパの声はとても元気がありません。
 いえ、僕は川原から登ってきましたので。人間の街には取材の人や警察などが大勢いますからね。山へ入るのも簡単ではありませんから。
 そうかい。それは幸いだったかもしれない。これからもっと大変なことになる。この村ももう、お終いかもしれないな。
 なにがあったんですか? 今はまだ冬眠中じゃ?
 …本来はそうなんだが。君も知っての通り、ヒメカが事件を起こしてしまった。大きな事件だからな、鳥たちがわざわざ知らせに来てくれたんだよ。この村だけでなく、この山のほとんどのクマが目を覚ましているよ。そしてみんな、怒りをあらわにしている。大変なことだよ。
 ヒメカのパパは下を向いて小さな声を出しています。その姿は先日までとは違い、とても痩せて見えます。二回りも小さくなったかのようです。
 なにが起きているんですか? 村のみんなはどこにいるんですか?
 山上は入口から中をのぞきました。誰もいる気配がありません。
 山を降りていったよ。人間たちに復讐をするといっていた。私は止めたんだが、無理だったよ。タケル君のことも知ってしまったからな。他の村のクマたちも数十頭が参加をしている。けれどこの村のクマは、全員山を降りて行ったよ。私の妻もそうだ。そういえば、先生も降りていったな。当然だ。孫を殺されてしまったんではな。
 それならどうしてあなたはいかないんですか? 娘さんを殺されているんですよ。
 私は… この村を守らなくてはならない。例え誰もいなくなっても、それが私の仕事なんだ…
 山上はヒメカのパパをその場所においたまま、急いで山を降りて行きました。麓に近づくと、クマたちの姿が見えてきました。山上は安心しました。まだなにも始まっていないと思いました。
 大丈夫ですか? 悔しいのはわかりますが、今は村に帰りましょう。
 山上の言葉が聞こえたのか、クマたちは山に戻っていきます。けれどその様子が少し、妙です。誰も山上に顔を向けません。クマたちの中には山上と仲良くしていたクマもいます。けれど少しも山上の姿が見えていないかのようです。
 その理由にはすぐに気がつきました。山上は山へ引き返していくクマたちの間を縫って人間の街に向かっていきました。そこでは、多くのクマたちが血を流して倒れていました。多くの人間も倒れていました。
 山上はその死体の中に走っていきます。その様子を引き返していくクマの一頭が気がつきました。山上とは一番仲良くしていたクマです。そのクマは山上の元に走っていきます。
 ダメ! そこにいたら殺される!
 そのクマはすぐに山上を抱えました。そして山に逃げようとしています。
 ズドンッ! ズドンッ! と銃声が響きました。そのクマと山上が、血を流して倒れました。
 その場には生きている人間の姿は見えませんでした。クマたちとの壮絶な殺し合いの後、人間は離れた位置から銃を構えて狙っていたようでした。
 山に戻ったクマたちは、なにもいわずにそれぞれの村のそれぞれの部屋に帰っていきました。そして全てを忘れるように冬眠に入ろうとしています。ヒメカのパパはずっと入り口の前にしゃがみ込んでいます。いつの間にか雪が降り出し、身体には少しの雪が積もっています。
 山上の母は部屋のテレビの前で息子の死を目の当たりにしていました。ただ涙を流すこともできません。じっとテレビの画面を見つめています。画面に映るクマの中には、真ん丸の眼鏡をかけた先生の姿も、タケルのパパとママも、ヒメカのママの姿も映し出されています。
 ヒメカのパパはいつまでも入口の前にいて、雪に埋もれても動くことはありませんでした。そのまま春を迎え、いつまでも動かずにその場所にしゃがみ込んでいます。その姿は永遠に村を守っているようにも、家族の帰りを待っているようにも見て取れます。

出没注意!

出没注意!

山の中で生活する文明を持ったクマの物語

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-03

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