笑われ虫


 彼はいつでも箱の中。僕を和ましてくれる。彼は僕が見ていることを知らない。そんな彼の一日が始まる。
 朝日に照らされる彼は 、オレンジの眩しさに目を細める。そこはビルの屋上、風見鶏が激しく鳴いている。今日は春一番が、暖かい季節へのご挨拶をしている。
 人差し指を咥える。濡れたまま空高くかざし、風を感じる。今日の風は生温い、午後には気温も上がり、洗濯日和。時折洗濯物が飛んでくる恐れがあり、スカートが捲れるサービスもあり。
 彼の立つ景色が変わる。前日午後からの空、雲の動きが早回しで流れる。雲の形、動きの速度、夕焼けの色、星の輝き、彼はすべてを計算し、今日一日の天気と気温を予想する。
 朝から続く晴天、紫色の夕焼けが拡がり、雲一つない星空の中、澄んだ空気を目一杯吸い込み、お休み。朝の気温は7℃、午後には15℃まで上がり、夜には再び7℃まで下がる模様。夕方過ぎまで強く吹き付ける風も夜には収まり、季節違いの月見日和。今日は春満月、冬の終わりの澄んだ空は、満月の輝きを堪能させる。

 彼の立つ景色がまた変わる。月夜の闇に真っ赤な炎が立ち上る住宅街の一棟、中から悲痛な叫びと赤ん坊の泣き喚く声が聞こえてくる。彼はただ、遠くからそれを眺めているだけ。他になにをする術も持ってはいない。やがて近づくサイレンの音。火が消し止められるまでの時間は、四十分。彼の時計は早送り、燃え盛る炎に飛び込む消防士、赤ん坊を抱きかかえ生還する勇敢な姿がスローモーションで流れ、再び早送りで火が消される。焼き跡からは死体が二つ。身元確認中だか恐らくは行方不明の赤ん坊の両親と思われる。一家は祖母を含めた四人家族。いち早く逃げ去った祖母は無傷で燃え盛る家の様子を眺めていた。その際消防への連絡もせず、赤ん坊の叫び声にも顔色一つ変えずに成り行きを見守る。
 放火殺人で逮捕された祖母。夜泣きの盛んな赤ん坊と、幸せそうな息子夫婦に、一人疎外感を感じての犯行。後先考えない身勝手な行為は世間の批判を買うことになる。
 彼はどんなときでも箱の中を離れない。彼はその狭く拡がる箱の中を動き回ることしかできない。箱の中の景色が移り変わり、彼を自由な世界へと運んでくれる。今また移り変わった景色は、首相官邸の前、群がる記者たち、一部の新聞がクローズアップ。
 総理大臣が何者かに襲われ重体、意識不明のまま集中治療室の中。犯人はまだ捕まっていない。これほどの大事件でさえ、この国の時間は止まらない。国民の関心はニュースに注がれてはいるものの、それ以上の感情は芽生えない。一国のトップの危機は国の危機でもある。犯人知れずの暗殺未遂、世界が注目するトップニュース。この国の民は無関心な関心を寄せるばかりで、まるで他人事。総理の死も有名人の死と同程度にしか感じていない。
 彼もまた無関心。事件は毎日手を変え品を変え繰り返される。どんな大事件も時が過ぎれば歴史の中に消えゆくだけ。彼は少し哀しい目を見せ、作り笑いを浮かべる。繰り返しの毎日、いつもと変わらない今日に哀しみを覚える。そんな彼の興味は一瞬で消え去り、笑顔の瞳が輝き、景色がまた移り変わる。

 朝の時間は退屈だ。彼は部屋の中、ボーっとテレビを眺めている。どうでもいいニュースばかりが流れ、彼の退屈は増していく。
 部屋の中、畳が六枚敷いてある。押入れの襖に枕を向けて布団が敷かれている。直に置かれたみかん箱ほどの赤いテレビ、折りたたみ式の小さなテーブル、その上には携帯カセットコンロ、黄土色のヤカンが煙を上げている。他に荷物は見当たらない。押入れの中には洋服が箱にもいれられず無様に詰め込まれていると思われる。破れた襖の僅かな隙間から白地の水玉パンツが覗いて見える。台所、トイレ、風呂場はまるで使われた形跡がないほどピカピカに磨かれている。冷蔵庫、ポット、炊飯器、電子レンジ、生活感のない空間。まるでショウルームを覗いているかのようだ。一切の生ゴミも見当たらない。
 六畳間と台所の間に仕切りはない。けれど二つの部屋は明らかに別空間だ。テレビドラマの小洒落たワンルームマンションと古い映画の学生寮とがミックスされている。彼の部屋はまるで四角い箱のようだ。
 玄関を入って左に台所が広がり、右には二つの部屋がある。そこにも仕切りはない。清潔感漂うトイレと広くゆったりとした浴室、浴室手前の脱衣所には洗濯機と乾燥機があるが、どちらも手付かずに輝いている。三角に折られたトイレットペーパーが誇らしげに揺らめいた。
 彼は布団に潜り目を瞑る。こんな気分のときは寝てしまえばいい。なにもかもを忘れて夢の中、彼の冒険が始まる。
 箱の中の彼の寝顔と、その寝言が夢への便り。平穏から興奮、怒りから哀しみ、喜びに笑顔を見せ笑い声を上げる。呻き声、唸りを上げ、悲鳴を上げる。聞き取れない言葉、意味のわからない言葉を並べる。そして深い溜息を一つ、赤いテレビのスイッチが入る。
 テレビの中に映し出されるのは、彼の見る夢の世界。実態のつかめないあやふやな水彩画のような映像、パソコンで描いたようなデジタル映像、アニメ、実写、文章、テレビの映像は目まぐるしく変わる。彼は今、整理のつかない夢の中を漂い歩く。
 テレビの中に彼の姿は映らない。彼の目線、思考が形になる夢の世界。本人の姿が映るのは、初めだけ。
 モノクロからカラーに、砂嵐が吹き荒れ海が激しく波打つ。彼の思考が落ち着き始める。定まった映像はまるで絵画の世界。鮮やかな色彩、不安定な抽象画、彼はなにを思い描くのだろうか。
 箱の中の片隅に位置するテレビ、彼の二度目の溜息を合図にクローズアップされる。
 キミはなんて綺麗なんだ。
 画面には小太りの女性が一人立っている。ピンクのワンピース。黄色く背中まで届く髪の毛。白い素肌に赤いハイヒール。
 アナタほどじゃないわよ。ボクはこんなに太っている。アナタが羨ましい、アナタのようになりたいの。
 彼女の顔が映し出される。ファンデーションでは隠しきれない濃い髭跡。紫の口紅。反り上がった大きな穴の豚鼻。二重のまん丸な瞳に長すぎる付けマツゲ。そり落とされた上に描いたような太い眉毛。その上に拡がる輝くオデコ。そいつはどう見ても彼女ではない。けれど後姿、そのお尻のラインは色っぽい。
 キミは本当に綺麗だよ。キミといられて幸せなんだ。ずっと二人で… いいや、これからは三人だったね。
 そうよ、ボクたち三人はずっと幸せにすごすのよ。
 そいつは出っ張ったお腹を擦る。その手に彼の手が重なる。細い指の先、五色に塗り分けられたマニキュア、男性のそれとは想像すらできないほどに綺麗だ。箱の中で寝ている彼の寝顔とはどう考えても結びつかない。
 キミの為に家を建てたんだ。キミがいっていたフィンランド製のログハウスだよ。けれどこれは特別なんだ。地下室まであるからね。キミが好きなサウナは勿論、暖炉までもついているよ。この家で三人、幸せに暮らしていくんだよ。いいや、違うね、これからは四人だったね。
 そいつのお腹は出っ張ったまま、けれどそいつは赤ん坊を抱きかかえている。
 そうよ、この子ももうすぐお兄ちゃんね。
 うん、僕はこの子のお兄ちゃんなんだ。
 赤ん坊はそういってそいつのお腹を蹴り飛ばす。
 痛い!
 そう叫んだのはお腹の中の女の子。
 ハァー、幸せだなぁー。
 テレビの映像が揺らぎ、箱の片隅へと追いやられる。すると画面に砂嵐が帰ってきた。激しく波打つ海を乗りこなす白い影。その影が徐々に大きく画面全体に拡がっていく。そして画面が白で覆い尽くされたそのとき、彼の特大溜息が漏れる。
 ハァーアーァ
 それと同時に白い影が画面を飛びし、箱の中を走りまわる。コンロの上のヤカンを手にとり、彼の布団にぶちまける。布団から湯気が上がるのを見て喜びのダンスをする白い影。ヤカンをコンロの上に戻し、火を止める。そして押入れを開け、洋服の海に飛び込み埋まっていく。
 やばっ!
 勢いよく彼の目が開いた。布団を捲り上げ、覗き込む。濡れたズボンの中に手を入れる。その手を鼻に近づけ匂いをかぐ。
 やっちゃった…
 しかめっ面の彼。布団を持ってベランダに向かう。まだ湯気の立つ染みのついた部分を内側に干す。彼は部屋に戻ってそれを眺める。
 今日はアメリカか。明日こそはユーラシアだな。

 着替えを始める彼。全てを脱ぎ去り真っ裸。押入れを開けて洋服を選ぶ。バーゲン会場のおばさんのように気に入らない服は投げ飛ばす。投げ飛ばされた服の中に静かに眠る白い影。鼻ちょうちんが大きく膨らんで、パンッ!
 スーツ姿の彼、箱の中の景色が変わる。彼は電車の中でドアにもたれて立っている。流れる景色はなぜか懐かしい。彼の瞳に涙が浮かぶ。
 駅のアナウンス、終着駅、乗り継ぎの案内。彼は涙を拭い、先頭車両に向かって歩き出す。二両目辺りを歩いているときに電車は止まりドアが開く。けれど彼は先頭まで歩き続ける。そして一番前のドアから降りる。
 駅を降りると彼は商店街に向かって歩き出す。興味を注がれる店に顔を出しては店の主人や女将と話をする。
 こんにちは! お邪魔しまぁーす。おや? なんとも雰囲気のいいお店じゃないですか。外からの佇まいも只者ではない感じを受けましたが、これはまた…
 彼はその後数分間一人で店の説明を続ける。時折り店の主人への確認の為目配せをするものの、主人は一言も口を開かない。そしてその店で一番高価と思われる品を手に取り、主人への目配せ。その品を手に店を後にする。
 次の店でも同じことの繰り返し。商店街を抜けて裏道を探す。そこで幾つかの店を発見、
 こんにちは!
 同じことの繰り返し。
 抱えきれない戦利品を手に満足げな彼。周りの景色が移り、彼はいつもの部屋の中。戦利品を押入れに押し込み、再び懐かしい景色の中へ。
 畦道を歩く彼。どこまでも拡がる田園風景、遠くに霞む山々には薄っすらと白い影が覆い被さる。
 ここはとても綺麗ですね。こんな景色が今の時代に残されているなんて奇跡としかいいようがありませんよ。いやぁ、懐かしいなぁ。子供の頃にはこんな景色がどこにでもありましたからね。幸せだなぁ、こんな町で暮らしている人は。
 彼の独り言に耳を貸すものはいない。拡がる景色の中、人影は一つもなく、民家さえ見当たらない。牛が鳴き、セミやカエルの井戸端会議が聞こえるばかり。
 景色は移り、突然爺さんの顔が現れる。
 ここでなにをしているじゃ。こんな田舎にきてもなんにもならんじゃろうが!
 爺さんは苛立ちを隠そうとしない。
 あんたのような都会もんはな、灰色に囲まれていればいいんじゃよ。ここの空気はあんたにはすぎるんじゃよ。とっとと帰るんじゃな。
 彼は黙って笑顔を見せる。一歩も動こうとしない彼に爺さんは苛立ちを募らせる。
 なにが目的じゃ! セールスか? この前も来たぞ! いっておくがな、わしはなにも買わんからな!
 それでも彼は口を開かない。
 なんじゃ、違うのか? 不動産か? この土地は売らん! なにがショッピングモールじゃ! そんなもんなくともな、この町は立派に潤っとるんじゃよ!
 今夜ここに泊めてもえないでしょうか?
 彼は爺さんの言葉にはまるで無反応。爺さんとの会話なんて関係なしに話をする。そんな彼の言葉に爺さんは驚きを隠せない。
 突然なんじゃい! こんな田舎に泊まってなにが楽しいというんだかな。
 爺さんは少し嬉しそうに笑みを浮かべる。けれど彼は少しも笑おうとしない。するとまた景色が移る。太陽が沈み、夕焼けが拡がる。
 もうこんな時間か。仕方がないのう、今夜は泊まっていきな。今からじゃバス停にいってもバスはこん。駅まで歩くのは勝手じゃが、二時間はかかるぞ。この辺はな、外灯なんて僅かじゃ、月明かりを頼りに歩くのはあんたには無理じゃよ。腹を空かした野犬に食い殺されるのがオチじゃからな。ついてきな!
 彼に笑顔が戻る。
 ありがとうございます。
 そういって爺さんの後ろを歩き家の中へ。中へ上がると一部屋ずつ見てまわり、一々感想を残す。爺さんはそんな彼に口を挟まないものの、部屋を一つ一つ案内してまわる。最後の場所は風呂場、彼は裸になり湯に浸かる。爺さんはその間に台所へ戻り、夕食の仕度を始める。爺さんは一人暮らしのようだ。
 うわぁー、こいつは凄いですね。こんな御馳走生まれて初めてですよ。
 白米、味噌汁、漬物、煮物、焼き魚。そして肉鍋。豪勢ではあるけれど、一つ一つの品はどこの食堂にも見当たる平凡なものばかり。けれどどの品も輝きが違う。
 うんまぁー、これこそ至福の時間ですよ。
 彼の言葉に爺さんは誇らしげに頷いている。その後彼は一言も喋らずに食事を口に運ぶ。ほんの五分ほどで全てを感触。ご飯粒の一粒、味噌汁の一滴も残していない。
 御馳走様でした。
 そういうと彼の姿は寝巻きに早変わり。いつの間にか片付けられた食卓、布団が二式敷かれている。爺さんまでもが寝巻き姿、布団に潜り込み一秒、夢の世界に旅立った。彼もすぐに目を瞑る。
 お休みなさい。
 誰にたいしてとかはなく、彼は独り言のように呟いた。
 部屋の中から景色は移り、真っ暗闇の爺さんの家を表から映し出す。するとアッという間もなく太陽は登り、鶏の鳴き声が町に響く。
 おはようございます! いい朝ですね。
 そういいながら玄関の扉を開き彼が出てくる。振り返り、爺さんに一言。
 お世話になりました。この御恩は決して忘れません。
 彼は家を後に歩き出す。

 彼はまた箱の中。時計に目を向ける。十二時を少し回ったところ。
 さぁて今日はなにを頂きましょうか?
 彼は台所に足を運ぶ。冷蔵庫を開け、中から冷えた携帯電話を取り出した。
 キミ誰? なぁ、そんなに冷たい声出すなよな。こっちは忙しいんだよ。これから昼食なんだ。キミは暇かい? だったらこうしよう。これから二人で食事に行こう。勿論金を払うのはキミだよ。当然だろ? キミが電話をかけてきて、キミが誘ったんだから。
 彼は携帯のボタンを一度も押していない。電話の着信があった気配もない。ただ一度、携帯を手にすると同時にもう一方の手で冷蔵庫についている不自然な赤いボタンを押していた。それは人間でいうと丁度ヘソの辺りに位置している。
 イタリアンのファミレス、順番待ちの名前を書いているのは彼ではない。ピチピチのスーツを着ているが、その顔とお尻にはには覚えがある。化粧もマニキュアもせず髪も短い、どこをどう見ても男性のそいつ、どことなくお腹が凹んでいるようなきがする。女の子を無事に出産したのだろう。
 そいつの名前が呼ばれ、席へと案内される。けれどまだ、彼の姿が見当たらない。そいつは一人で席へ腰掛ける。
 遅いんだよ、キミは。
 彼はそいつの向かいに座っている。テーブルにはそいつが食べたと思われる料理のお皿が数枚、食べ残しは一切なく綺麗なものだ。コップに注がれた赤い液体、彼はそれをそいつに差し出す。
 まぁこれでも飲みなよ。
 そいつはそれを一気に飲み干す。その様子を見て彼はニタニタ笑っている。
 ブブッ! なんだよ、これ! ふざけんなよな!
 そいつは怒りに任せてコップを彼に投げつける。彼は平然とコップをヘディング。跳ね返されたコップはそいつの手元に納まる。そこにはまた赤い液体が一杯にたまっている。そいつは再びそれを飲み干す。
 美味いねぇ、これ! ボクは好きだなぁ、トマトジュース。
 それは特別なトマトを使用しているからなんだ。農薬一切なし、人の手を借りずに自然の中で育ったトマトなんだよ。野生のトマト、野良トマトだ!
 テーブルの上のお皿に食べ物が乗っている。彼はそれらを一口ずつ食し、コメントを残す。この食材はどこで手に入れたものなのかを説明し、味を細かに比喩を交えて表現する。店員を呼びつけ残ったお皿を片付けさせる。
 それじゃあ次に行こうか?
 おいおい待ってくれよ。ボクはまだ一口も食べてないじゃないか。
 彼は席を立ち、歩き出す。
 それじゃあお勘定をよろしく! 次の店で待っているよ。
 彼の姿が薄くなり、ゆっくりと消えていく。そいつは彼の残像を眺め、手に取った明細書に目を移す。
 ゲッ!
 記された金額は、五千円。ここは主婦や学生の聖地、ランチタイムのファミレス。
 高級ホテルのエントランス、エスカレーターを上がり二階へ向かう。レストランの入り口では、二人のウェイターが扉を開く。
 お待ち致しておりました。どうぞ奥へ
 中で迎えていたのは支配人風の男性。偉そうな態度をとっているわけではないが、明らかに外に立つウェイターとは異なった雰囲気を漂わせている。そいつは支配人の案内にしたがって中へと進む。辿り着いたのは他の客の声や存在を一切感じない明らかに特別な個室。飾られた絵画や彫刻、テーブルや椅子までもが自らを特別だと主張している。
 よっ!
 親指の倍はあるブッとい葉巻を咥える彼が現れる。彼はほんの少しそいつよりも遅く個室に入ってきた。
 さて、今日はどんな料理を楽しめるのかな?
 一瞬にして彼の前に料理が並ぶ。どれもテレビや雑誌でしか見ることのできない高級料理。和、洋、中、その他世界のあらゆる料理が並んでいる。彼はそれを一口ずつ口に運び、説明と感想を述べる。全てを一口ずつ食べ終え、席を立つ。
 さぁて、今日はここまでだな。御馳走様でした。明日もよろしくな!
 彼はそういって店を出て行った。残されたそいつは明細書も見ずに食事中もずっと部屋の片隅で立っていたウェイターに財布を渡す。そしてテーブルに残された食事を一気に平らげる。
 ありがとうございました。
 そいつが店を出るときの支配人の言葉だ。支配人はそっとそいつの上着の裏ポケットに財布をしまった。
 よっ!
 ホテルの外、彼はバイクにまたがりそいつを待っていた。自らが被っていたヘルメットをそいつに投げ渡す。
 ほら、行くぞ! モタモタすんなよ。
 そいつは小走りでリアシートに腰を下ろす。走り出す彼のバイク。
 いい加減にしろ!
 大声を張り上げ、そいつは彼の後頭部を平手打ち。
 バシッ!
 彼はその音に合わせて舌を出す。
 エヘヘッ。

 彼とそいつは部屋の中、時計は二時ちょうどを指している。
 もう何年になる? こうして二人一緒になるなんて当時は考えもしなかったな。キミとはただの幼馴染、それだけのはずだった。けれど今、キミなしでは生きていけない。こんな生活ができるのはキミがいるからだよ。
 彼は真面目な表情を浮かべている。けれどそいつはニヤニヤニヤニヤ締まりのない笑いを浮かべるばかり。
 真剣な話なんだぞ! キミはいつでもそうだ、そうやって気持ちをはぐらかす。
 そいつは彼に寄り添い、彼の胸をそっと抱きかかえる。
 ハァー。
 彼が溜息を零す。続けてそいつも溜息を一つ。
 ハァー。
 赤いテレビのスイッチが入る。映し出される二人の姿。服装のせいもあり今より幾分かは若く見えるが、どうも違和感が残る。テレビの映像が箱一面に拡がる。顔の皮膚感がはっきりと見てとれる。それはどう見ても無理があった。学生服で自転車に乗る二人。足を動かしているのはそいつ。登校途中らしい。二人が挨拶を交わしながら抜かしていく歩いている生徒たち。彼らの顔を見る限り、二人が向かう先は中学校。
 ボクは絶対に有名になるよ。一緒にやろうよ。二人なら必ず世界を獲れる!
 昼休みの屋上、そいつはパンを齧りながら話をする。彼はその話を給水タンクの天辺に座り足をブラブラさせながら聞いている。
 二人で話をするだけでクラスのみんなが盛り上がる。これって才能だよ。ボクたちは漫才をするべきなんじゃないか?
 彼は食べかけのパンをそいつに投げつける。
 ふざけるな! あれはただバカにして笑ってるだけだよ。笑わしてるんじゃない、笑われているんだ。
 それでもいいよ。人を喜ばせるのにさせるもするも関係ないからね。
 彼は背をもたれて横になる。足を組み、両手で後頭部を抱える。
 ハッ、勝手にいってろよ。
 うん! 勝手にいってるよ。
 テレビの画面が一旦消える。再び映ると駅前の広場、学生服、さっきとはタイプが違う。彼は変わらず学ラン姿。けれど上着の丈は短く、ズボンは吸い付くほどにピチピチ。そいつは紺のブレザー。サラリーマンに見えなくもないが、赤と緑の縞模様のネクタイ、桜を模った校章、どうやら高校時代のようだ。顔の皺はやっぱり今と変わらない。
 二人は大声を張り上げ会話をしている。内容はチンプンカンプン。新しく買ったお互いの洗濯機の話で盛り上がっている。彼がその洗濯機をどれほど愛しているのか、そいつが根掘り葉掘り聞き出している。そしてそいつは自分がどれほど洗濯機を愛しているのかを手短に説明。その説明は非現実的。そこで足を止めて二人の会話を聞いていた数人が笑いを上げる。
 そこでまた画面が消える。今度の二人はスーツ姿で、劇場の舞台に立っている。そこでもまた二人の会話。酒に合うツマミの話。彼が答えるツマミにそいつが理不尽な文句をつける。そしてそいつは自分が好きなツマミを発表、見当違いな理由を述べる。
 舞台は静まり返っている。始まってすぐには幾つかのクスクス笑いが聞こえていた。けれど終盤、聞こえてくるのは溜息ばかり。
 ハァー。
 画面が消えて新しい場面へ切り替わる。ホテルの一室、二人のほかに女性も二人。四人はともに素っ裸。ベッドの上に横たわる。
 二人は仲がいいんですね。漫才の人たちって仲が悪いって聞きますけど、本当ですか?
 真ん中に彼とそいつ、二人の女性はそれぞれの腕の中。喋りだした彼女はそいつの腕の中。
 さぁね。人によるんじゃないかな? ボクたちみたいに仲がいいのもいれば、普段は一切口をきかないなんてのもいるしね。
 四人は掛け布団の中、仰向けのまま手をモゾモゾ動かしている。ベッドの中央、不自然な動きと膨らみ、両端の彼女たちの手が明らかに届かない位置での動きが確認される。

 彼は一人で部屋の中。テーブルの上、携帯を手に取りボタンを押す。
 今からそっちに行く。
 すぐに景色が切り替わる。夕焼けが眩しい児童公演。ブランコに座る、彼と彼女。彼女はテレビの中に映っていたホテルの女性。そいつの腕の中で眠っていた彼女。
 遅いよ、すぐきてっていったじゃないのよ。
 唇を隠して一文字を作り、ホッペを膨らませる。彼女の瞳が笑っている。
 すぐだろ? まだ五分も経ってない。いつもいつもさ、こういうのやめてくれないか?
 あなたが悪いんでしょ? 私がなにも知らないと思って? あなたが浮気をしているのは確かなのよ。
 けれど証拠はないだろ。
 だからこうして抜き打ちチェックをしているのよ。
 なら直接部屋にきたらどうだ?
 それはダメよ。だって、現実を知る勇気なんて私にはないんだから。
 二人は手を繋いでテレビから飛び出し、箱の外へと消えていった。すると突然、赤いテレビがクローズアップ。黒い画面のまま、音だけが聞こえてくる。
 キミはなんて綺麗なんだ。
 その声は彼のものではない。
 キミは本当に綺麗だよ。
 わかっているわよ! だってワタシは世界一、この鏡がいっていたわ。
 女性の口調を真似しているが、声の主に聞き覚えがある。彼のものだと思われる。
 だからキミはここにいるんだね。ボクはキミを愛している、キミもボクを愛している。
 その声にも心当たりがある。ボクの発音に癖がある。ボを強く吐き出し、クを小さく呑み込む。それはそいつのものに違いない。
 それはないわ。ワタシは愛していない。ワタシは誰も愛さない。愛はワタシにとっては無意味なの。だって、愛に優劣はないでしょ? 争いのない世界にワタシは興味を抱けないの。
 テレビの画面が揺らぐ。
 ダダダダダンッ! ズダダダダンッ! パンッ! バンッ!
 銃声のような音が乾いた空気を切り裂いた。
 ウアッ! 気をつけろ! 殺られる前に殺るんだ! 躊躇をするな、敵を我々と同じ人間と思うな! あれは悪魔だ! 殺らなければこっちが殺られてしまうんだぞ!
 モノクロの画面、飛び散る閃光が白く光る。
 ウワァーッ!
 おい! どうした? 誰か撃たれたのか?
 画面に映る二人の兵士。肩から血を流している男の顔は彼にそっくりだ。もう一人の男は、少しやつれてはいるがそいつに違いない。
 大丈夫、心配は要らない。ちょっとかすっただけだ。
 これからどうする? 味方はみんな殺られちまった。残ったのは二人だけだ。どうする? このまま逃げきれるとは思えない。降伏して捕虜になるか?
 戦って死ぬぞ! 敵に背を向けるのは兵士の恥だ! 相手も残りは数人のはず、弾丸の閃光は四種類。さぁどうやって戦う?
 彼は敵陣を覗き見る。二人はいつの間にか敵陣近くに潜伏。四人の敵兵、今は銃を脇に抱え食事をしている。罠を仕掛けて捕まえたネズミをナイフで突き刺し、火で炙り喰らいつく。葉っぱに溜まった雨水をそのまま口に運ぶ。彼はそんな四人に銃を向け、バンッ! しかし右手で作ったその銃からは煙すら発せられない。それでも彼は人差し指から流れ出る煙をイメージして吹き流す。
 今がチャンスか? こっちは二人、向こうは四人。こっちに銃はない、向こうは四丁。
 そいつは彼の陰に隠れて小声でものをいう。
 これは戦争だ。けれど奴等に罪があるのか? こっちにも罪はない。ならば六人、仲良くすればいい。ここにはお偉いさんはいない。あの四人はどう見ても下っ端二等兵だ。
 彼はそういうと丸腰のまま四人の前に現れる。そいつも彼の背に隠れついていく。
 さぁパーティーの始まりといこう。戦いは終わった。我々は二人しかいない、そちらも四人だけ。六人の新しい国の誕生だ!
 彼はそういって右手で作った銃を四人の中のボスらしき存在の頭にあてがう。ボスは一人、髭を伸ばしていた。
 六人はその場でパーティーを始めた。葉っぱの雨水で乾杯、ネズミの串焼きに齧り付き、幻覚をそれぞれが思い浮かべる。いもしない女性を抱く者。雨水をウィスキー代わりに酔っ払う者。蛙と一緒に踊る者。意味もない会話を交わして笑う者たち。彼とそいつはその様子を手を繋いで眺めている。
 モノクロ画面がカラーに変わる。六人の服装が黒のスーツに変わる。場所は公園墓地、葬式に参列し牧師の挨拶を聞く六人。埋葬が無事終わり、楽団が演奏するのはアメリカ合衆国国歌。六人は涙を浮かべて敬礼、景色はまた移り、ビルの屋上。
 これでお終りにしよう。もう疲れただろ? 殺し合いに意味はない、あんたら四人はここにいるべき人じゃないんだ。
 彼は四人を突き落とし、最後にそいつをも突き落とす。四つの悲鳴、遅れてもう一つ。ドンッ! ドドドンッ! ドンッ! 彼は五つの死体を覗き込む。
 鉤十字の腕章。マッシュルールカットにコサックダンスとハンバーガー。そしてチョンマゲ姿が映しだされる。
 これで世界は一つになれる。
 彼の言葉を最後にテレビが箱の片隅に引っ込んでいく。その中に流れるエンドロール。聞こえる歌はロックンロール。

 真っ暗なあ箱の中、ロウソクの炎が優しく灯る。彼は一人でその灯りを眺めている。テレビのスイッチをつけたのは彼だ。明かりの中から現れる彼女。
 どこ行ってたのよ、ずっと探してたのよ。
 彼は言葉を使わずに謝る。手を合わせて天高く突き出し土下座する。
 それでこの後の償いは?
 彼は笑顔で彼女の手を取る。そして箱の中を飛び出した。こんなことは初めてだ。彼が箱の外に出るのはこれが初めて。
 ヨォ! アンタもどうだい? いつもそこから見ているだけじゃ退屈だろ? 三人でデート、たまにはいいんじゃないか?
 彼は僕の耳元で呟く。彼女にはその言葉が聞こえていない。僕の存在にすら気づいていない。僕は彼のもう一方の手を掴み二人についていく。
 辿り着いたのは三百六十度地平線のコンクリートの大地。南には幾頭かの動物の陰。東には銀に光る塊。西にはニオイたつ柔らかな存在、北には今にも襲い掛かってきそうな血だらけの二足歩行の化け物。ビルから飛び降りた五人の顔によく似ている。頭上には真ん丸のオレンジが拡がる空に浮かんでいる。
 なにもないここから全てが始まるんだ。まずは西に向かう。大事なのは生きる為の燃料だから。
 彼と彼女は柔らかな存在に襲いかかる。歯を剥き出しに獣のように喰らいつく。目に映る全てを襲い、食べきれない分を冷蔵庫に保存。大地の真ん中には業務用冷蔵庫が三台。
 東のそれは我々に文明を与えてくれる。今すぐ捕らえるんだ。傷をつけてはいけない。それはとても繊細なんだ。
 銀の塊は自らの意志で動くことはできない。彼はそれらに赤いボタンを取り付ける。
 ピッ。
 それらは小さな丸に変形、ピンポン球ほどのサイズだ。彼女がその球を麻の袋に詰め込む。
 そんなに乱暴に扱うな! それは繊細だといっただろ! これに入れるんだよ。この箱にな! その袋は後ですぐ必要になる、大事にしまっとけ! 一個ずつ丁寧にな。ぶつけて傷でもつけてみろ、痛みに発狂して爆発しちまうぞ!
 差し出された箱は十二の部屋に仕切られている。プラスティックの仕切りには分厚いスポンジが巻かれている。底にも上蓋の裏にも同じスポンジが敷いてある。一部屋のサイズはその球を少し押し込めてピッタリ。彼女はその箱七つ分の球を拾い集めた。
 南の動物には手を出すな! あいつ等がいなくては崩れ去る。この世はバランスの元に成り立っているんだ!
 彼は優しい眼差しで動物を眺め、手を伸ばして頭を撫でる。
 いよぉーしよしよぉし、可愛いなぁ、オマエたちは。しっかり生きろよ、負けるんじゃないぞ!
 彼女も動物に手を伸ばす。
 ガブッ!
 っぅぃったぁーいよぉー。
 彼女は涙を流している。その表情からは痛みが伝わらない。手には二つの傷穴、少しずつ血が滲み出て、やがて噴き出す。
 その動物が彼女の流れる血を舐めている。ゴメンね、こんなにするつもりはなかったんだよ。瞳がそう訴えている。
 イヤァーアーアーアー! 痛ぁーい! なによこのバカ! 汚いじゃないのよ!
 動物を振り払い、彼女は怪我した方の手で殴ろうと身構える。
 ダメだ! 手を出してはいけない。あいつは謝っているだろ! 悪いのは誰でもない、あいつの目を見るんだ。それが答えだ!
 バシッ!
 彼女はその手で彼を殴った。彼は満足げに笑ってみせる。
 見上げてご覧よ、この世はどこまでも広く、果てがない。あのオレンジが全てを焼き尽くす前に、ここから先に進むんだ! 手を伸ばしてジャンプする。叶わぬ夢はどこにもない。
 彼はそういって空高く飛び立っていく。残された彼女は、何度も何度も力強くジャンプする。
 どーしてよぉー、飛べないよぉー、おいてかないでよぉー。
 彼女の言葉は力なく、ジャンプの勢いも衰え、膝から崩れ落ちる。彼女は手に持った七つの箱を地面に叩きつける。
 ボンッ! ボボンッ!
 箱中からそれぞれ銀の塊が現れる。十二個が一塊に寄り添い同化する。七つの大きな物体が地面に転がる。それらは別方向に散らばり、見えなくなってしまった。
 北から化け物が近づいてくる。ウゥー! 呻きを上げ足を速める。南の動物たちは見えない距離へと消えていく。彼女は立ち上がることもできずに化け物に襲われてしまった。化け物は彼女の身体を麻の袋に入れる。それを両手で抱え上げ、ウォー! 雄叫びを上げる。大地が大きく揺れた。地面の真ん中に、オレンジの真下に一本の亀裂ができ、裂け目が拡がる。化け物はその裂け目に麻の袋を投げ込んだ。そしてもう一度、ウォー! 再び大きく揺れる大地、裂け目が繋がり、亀裂の後さえ残らない。空を見上げると、オレンジが満足そうに帰り支度をしている。そのまま上へと小さく消えるオレンジ、世界は真っ暗な夜を迎えた。

 彼と彼女が消えてからも僕はずっとそこに置き去り、誰も迎えが来ない。真っ暗な中、進める足元さえ確認できない。僕はポケットからリモコンを取り出す。
 ピッ!
 目の前にぼんやりと薄明かりが照らされ、いつもの箱がそこに浮かぶ。箱の中の彼は、僕を見つめている。
 今日はこれでお終いだよ。また明日を楽しみに待っていてくれないか? 今日は少し疲れたから、いつもより早く終わることにしたんだ。
 彼はその場で立ったまま寝てしまった。箱の中、テレビの画面が明るくなる。乾いた音楽が流れ、彼の姿が浮かび上がる。
これはスペシャル、ここまで付き合ってくれた人だけへのサービスだ。アンコールとはちょっと違う。再放送とも意味が違う。これは録画ではあるけれど、一度きりの使い捨て。お休み前のちょっとしたお遊びだね。
 テレビの画面が大きく近寄る。白い景色がボンヤリと晴れ、小さな声が聞き取れるほど大きくなる。
 キミはなんて綺麗なんだ。
 彼の声はいつになく男っぽい。
 アナタがいるからよ。ボクはアナタの為に綺麗になるの。
 色っぽい彼女の声、二人はコンビニで立ち読みをしている。濡れた髪の毛に黄色いタオルを巻いている彼女。彼は同じタオルを肩にかけている。二人は揃いの赤ジャージを身にまとっている。彼は左脇にビニール袋を抱えている。中には紫と白の下着と、シャンプーハットが覗いて見える。彼女は手ぶらで彼の読む雑誌を覗き見ている。
 その子知ってる。ボクの妹の友達だよ。可愛い子だよね。一度会ったことあるんだけど、本物はもっと可愛かったよ。
 あっそう。私にはキミが一番だよ。
 彼が見ているのは漫画週刊誌。巻中カラーの女子高生? その子の顔は彼女にそっくり。彼は振り返って彼女を眺める。
 なに? ボクの顔ってそんなに綺麗?
 彼女の顎に濃い髭跡が浮かぶ。目つき鼻筋が変化する。髪の毛が短く黄色に染まる。
 そろそろ帰ろうよ。その雑誌好きなの? ボクが買うからさ、家帰ってコタツで暖まろうよ。ここはとても寒いよ。
 赤ジャージのそいつは震えを我慢しようとその場で足をバタバタ上下させる。腕を力強く振り、今にも走り出しそうな勢い。コンビニの屋根が消え、駐車場に民家が建ち並ぶ。町の明かりに暖かみを感じる。外灯は古ぼけた黄昏色。二人は店頭で雑誌を立ち読み。店の中には居眠りをする婆さんがいる。婆さんの顔が突然アップ。
 こら! ワシは起きとるぞい!
 オデコの皺はマジックペン。鼻を赤く、顔全体を浅黒く染めている。白髪のカツラ、薄汚れた着物姿。背中を丸めて立ち上がるその顔には彼の面影がいっぱい。
 バァちゃん!
 彼の叫びとともにテレビのスイッチが切れる。
 砂嵐が画面を吹き飛ばす。テレビが彼の部屋から逃げていく。窓を割り、白い羽を得て飛び出したテレビ。立ち寝の彼が目を見開き、ポケットからリモコンを取り出す。
 ピッ!
 テレビの中に誰かの影が見える。そいつと彼女が裸で抱き合っているようだ。
 キミは本当に綺麗だよ。僕はキミを愛しているんだ。このままのキミとずっといたい。
 ワタシもアナタを愛している。けれどワタシは彼のものなの。どんなにきつくアナタに抱かれていても、ワタシの心は彼の中。
 二人は激しくお互いを求め合っているようだ。画面は遠ざかり、かすかな喘ぎが聞こえてくる。
 アッ♂アッアッーン♡

 彼は箱の中でに一人きり。じっと僕を見つめている。立ったままの位置を動こうとしない。
 これでお終いだ。もうなにも起こらない。このまま朝まで待つのかい? アンタ少ししつこいよ。どうせ明日も今日と大して変わらない。ここは繰り返しの世界。アンタも同様だ。
 彼の部屋が歪む。電波の悪いテレビのように揺らめく。横に波打ち、上下に揺れる。
 楽しめたかい? 今日一日アンタはなにを得た? どうせ意味もわからずにボケーっとしてたんだろ? そして勝ち誇ったように馬鹿にして見下した笑いを吐き出す。アンタには教訓なんて意味を成さない。皮肉な笑いに気づきもしない。癒しはアンタが自身で感じるものなんだ。与えられるものじゃない。
 部屋の景色が呑み込まれる。揺らいだ画面に降り注ぐ雨は、いつしか綺麗な虹が浮かび上がっている。
 オ、オレ、オレは、オ、オ、オオオオオオ…
 彼の声が途絶えてしまった。僕は布団に入り、リモコンのスイッチをオフ。お休みなさい。

 彼はいつでも箱の中。明日もまた僕の退屈を和らげる。特別なことはないけれど、意味のない笑いを与えてくれる。
 そんな僕も箱の中。誰かが僕を眺めている。なにをしているわけでもないのに、僕を見て笑っている。滑稽な男だと、上から目線で見下して、僕の一日を笑っている。そんな誰かも箱の中、違う誰かに笑われている。僕らはいつでも、笑われ虫。

笑われ虫

笑われ虫

意味がわからないようで実は単純すぎる物語

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-03

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