今年も夏が終わる

母が死んで七年、久し振りに実家へと帰った。イギリスで暮らしていた私。きっかけは妹からの電話だった。
姉さん、今年は帰れるの? 面白いもの見つけたから、帰って来てよ。それに、今年は母さんの七回忌なんだからね。妹の声を久し振りに聞いた。海外に出てから、連絡は途絶え気味だった。
そうしたいんだけど、まだちょっと分からないわよ。それより面白いものってなんなの? 時間の隙間なんて、姉妹の間には意味がないんだなと感じる。あっという間に昔のような会話が始まる。
母さんの日記なんだけど、中身が凄いのよ。たった四日間しかつけていないんだけどね。母さんらしいと思わない? そんな妹の言葉に興味を抱く。
どんなことが書かれているのよ。私は話を急かす。
昭和五十年の八月十三日から十六日までのことよ。覚えてる? 姉さんとおじいちゃんのことが書かれてるのよ。妹の言葉を聞き、私の意識が過去に飛ぶ。今でも時々見る夢。幼い私とおじいちゃん、お盆の日に不思議な場所でお話をする。私にしか見えないおじいちゃん。家からいなくなった私を探す母さん。一生懸命おじいちゃんのことを母さんに説明する私。仏壇に飾られてある写真には、おじいちゃんの顔。写真の目が私を見つめ、笑いかける。懐かしさに心が和む。

八月十三日

実家に帰り着くと、家族や近所への挨拶を適当に済ませ、すぐに日記を読み始めた。
八月十三日、三年前に亡くなった父が帰って来た。私には姿の見えない父。しかしどういうわけか娘達には見えているらしい。迎え火の煙の中、突然現れた父。私を抱きしめ、頬にキスをした。死に際の父の言葉。いずれ会いに来るから、泣くんじゃない。単なるその場凌ぎの優しさだと思っていた。
そんな言葉が、現実になった。これが本当の話なら、幸せだと思う。明日は私にも、父の姿が見えるだろうか? 何故私には見えなかったの? 母さんは言う。大人には見えないものも、純粋な子供には見えることがあるんだよ。お盆さんだから珍しいことじゃない、ご先祖様が帰って来る日だからね。

八月十四日、庭で遊んでいた早苗がいなくなった。幸子が泣きながら私の元へ来た。お姉ちゃんが昨日のおじいちゃんに連れて行かれたよ。家の中はパニックになった。
何処を探しても、早苗の姿は見当たらない。何処へ行ったのか、幸子に聞いても埒があかなかった。あっちの方だよ。行って見ると、誰もいない。諦めて警察に連絡しようとしたが、夕方まで待つことにした。死んだ父が娘を誘拐するとは考えられなかったから。夕食の支度をしていると、窓から早苗の姿が見えた。一人きり、隣の見えない誰かと話をしている。手を振る早苗。誰と話していたの?と聞くと、おじいちゃんだよと答える。そして、今日の事を楽しそうに話し始めた。
私がいい子だから、楽しい世界に連れて行ってくれたの。綺麗な場所で、皆優しい顔をしてるの。だけど皆、早苗を珍しそうに見ていたよ。おじいちゃんは話をしてはダメって言うけど、なんでかな? 明日もまた会いに来るって。お母さんも一緒にあの場所に行こうよ。
私には見えない父。その場所も、私には見えないはずだ。父はなにをしに来たのだろうか? 私には何故会ってくれないのだろう? 寂しい気もするが、安心もする。私はもう子供ではないから、父の心配には及ばないから。そう思えば気分がいい。娘達を羨ましくは思うけど、私は子供じゃないんだ。

八月十五日、三児君が遊びに来た。早苗は大喜びしている。大好きなお兄ちゃんが来た、と三児君の姿を見ると走って抱きつく。後ろに回り、三児君の手を掴みはしゃぐ幸子。娘達の世話をしてくれる三児君は、本当に助かる。今日一日、三人は外で遊んでいた。父に会ったことを言わない早苗と幸子。夕食の時、お酒を飲んでいた三児君が、不思議な体験を話してくれた。
伯父さんは毎年帰って来てるんですか? 僕は去年、会えなかったんですけど、早苗ちゃんは会ったって言うんですよ。この先にある橋を渡った所に、窓ガラスの割れてる廃屋がありますよね? その裏山を越えると大きな池があって、脇道を抜けると小さな町に出るんです。そこの人達が、なんて言うか、不思議な感じのする人達で、町並みもどこか、こことは違うんですよね。空気の色が違うって言うか、ありそうでない理想の場所って言うんですかね。伯父さんはそこで今でも暮らしてるらしいんですよ。ここへはお盆にしか帰れないとか言ってましたね。明日は最後の日だからって、少し寂しそうに言ってましたよ。誰も自分には気づいてくれないとも言ってましたね。変なこと言いますよね。僕も早苗ちゃん達も皆気づいているんですから。
私には見えない父。もう子供じゃないはずの三児君には見えている。何故なの?
私も父に会いたい。会って話したいことが沢山ある。

八月十六日、父が帰ってしまった。帰り際、私の耳元で何やら喋っていたらしい。
聞こえなかった言葉は、いつか届く日は来るのだろうか? 早苗と幸子は元気をなくし、家の外に出ようとしない。父が帰ったから、それだけではない。三児君も帰ってしまったからだ。明日になれば、なにもなかったかのようにはしゃぐだろう二人。今日は久し振りにおとなしく、お風呂に入るとすぐ寝てしまった。沢山の人が出入りするお盆。二人も疲れたのだろう? 私の心には、聞こえなかった父の言葉が繰り返される。来年もまた来るよ。今からお盆が待ち遠しい。

思い出す子供の頃の記憶。私には確かに、おじいちゃんの姿が見えていた。死んだ人と会えるのが特別なこととは考えもしていなかった。
姉さん、どうしたの? そんな慌てて読まなくてもいいじゃないのよ。ゆっくりしていくんでしょ? 日記は逃げないから大丈夫よ。それより、向こうでの生活のことを話してよ。父さんも主人も楽しみにしているのよ。どうなの? うまくやってるの? 妹はそう聞いてくる。私としてはつまらない話だが、妹は楽しそうに耳を傾ける。人に聞くより、興味があるなら自分で行けばいいんだとは、言えなかった。
イギリスでの生活は、たいしてこっちと変わりはないと思う。私の場合、やりたいことの出来る環境を求めてイギリスに行ったまでのことだから。今はまだ身になっていないけど、夢を追うのに適した街を探した結果のイギリス暮らし。妹や親戚は羨ましいだとか、無責任なことを言うけれど、それは違うと思う。この時の私は、当然そんなことは言わない。適当に喜びそうな話をしていただけだ。
海外で好きなことやって暮らすなんて理想よね。いいわよね。私も行きたいな。もし旅行とかで行くことがあったら、案内してよ。そんな妹の無責任な言葉には、正直少し頭にくる。
いいけど、本当に来るの? まぁその時は案内するわよ。それより、この日記、あなたはどう思う? 私は世間話をしにわざわざ帰って来た訳ではない。母の日記、幼い頃の記憶の事実を知りたくて来ただけだ。今の私達のことなどどうでもいい。
私には良く分からないわ。だってその時、まだ二歳だったのよ。覚えてないし、本当のこととも思えないわよ。母さんの作り話なんじゃないかな? そもそも四日間だけの日記なんておかしいじゃない? 妹は興味無さげにそんなことを言う。
それはそうだけど… だったらなんで私を呼んだのよ! なにか他にも理由があるんじゃないの? 違うの? そう言ったのには理由がある。私には確かな予感があったんだ。
本当のこと言うとね、私にはまだ信じられないんだけど、娘が見たって言うのよ。去年のことなんだけど、おじいちゃんじゃなくて、母さんを見たって言ってたわよ。どう思う? あの娘が嘘をついているとも思えないのよ。妹からは、予想通りの言葉が返ってきた。私の勘は冴えている。
佐和子ちゃんにはいつ聞いたの? 去年のことならもっと早くに知らせくれても良かったんじゃないの? 私があの夢に悩まされているのは知ってるわよね? 私は少しばかり怒った声を出す。逆ギレかもしれないが、あの夢の話は、私にとってはとても重要なことなんだ。
私もこの前聞いたばかりなのよ。主人と日記の話をしているのを佐和子が聞いててね、思い出したように話してくれたのよ。それですぐ姉さんに教えたんじゃないのよ。妹が不機嫌な声を出す。そうなるのはもっともだと私も思う。
そうだったの。ありがとうね。だけどそれでも信じられないって言うのね? 私はこんな風に適当に話を元に引き戻した。
それはそうよ。娘はまだ三歳なのよ。嘘だとは思わないけれど、ねぇ。妹は先細りの声でそう言う。
今何処にいるの? 佐和子ちゃんと話したいんだけど。私はそう言った。妹の感情なんて御構い無しだ。佐和子ちゃんから直接話を聞くのが一番だ。この時点でもう私は、佐和子ちゃんの話を信じていた。
主人と出かけてるわよ。夕方には帰って来ると思うけど。妹の言葉は歯切れが悪い。
私は外を歩き、佐和子ちゃんの帰りを待つ。あの頃とは変わってしまった町並み。今でもあるあの橋は、綺麗になってはいるが、懐かしい雰囲気が残っている。この橋の向こうに、おじいちゃんは今も暮らしている? 母もそこにいるのだろうか? 足が動かない。私はなにかを怯えている。どうしても一歩踏み出す勇気が足りないでいた。

おじいちゃんが現れたのは、夕方のこと。迎え火の煙と共に、スゥーッと姿を表した。私と目が合うと、微笑を投げかける。そのまま私を素通りし、母の隣に位置取る。そして抱き締め、頬にキスをする。気づかない母。おじいちゃんは私にしか見えていなかった。幸子はおばあちゃんに抱っこされ、煙を嫌がっている。
親戚を交えての食事が始まった。仏壇の前で家族の様子を見守るおじいちゃん。怖くて話しかけられないでいる私。たまに見せる笑顔に、興味を覚える。おじいちゃんはなんでそこにいるの? 一言も喋らず笑うばかり。母や父、親戚の昔話を聞いているだけ。話の中心はおじいちゃん、そこにいるのもおじいちゃん。だけど皆は昔の話ばかり。そこにいるおじいちゃんには触れられない。
母と妹と三人で、お風呂に入った。何気なく口にした私の言葉。母は驚き、妹は訳もなくはしゃぐ。
おじいちゃん、何処に帰っちゃったのかな?
さぁ? 明日聞いてみたら? ちゃんと帰るのは十六日だから、まだこの家の何処かにいるわよ。母は一瞬の戸惑いを隠すようにそう言った。
お母さんにも見えていたんだ。だったらなんで喋らなかったの? 食事の時、おじいちゃん寂しそうにしてたよ。私はさっらとそう言った。
えっ…
おじいちゃんおじいちゃん、妹もおじいちゃんに会いたいよ!
惑っていた母だったが、妹の言葉を聞いた後、嬉しそうな顔を浮かべていた。

姉さん、そんな所でなにしてるの? 佐和子ちゃんを連れた妹が現れた。誰かに似ている幼い顔。夢に出て来る私にそっくりだった。
佐和子、早苗伯母ちゃんだよ。覚えてる? 挨拶しなさい。妹がそう言うと、佐和子ちゃんが笑顔を見せる。
こんにちは。伯母ちゃん、そこでなにしてるの?
佐和子ちゃんのおばあちゃんを探してるの。一緒にお散歩する? 私も笑顔を見せ、そう言った。
食事の支度があるからと、家に戻る妹。私と橋を一緒に渡る佐和子ちゃん。この先で待っているはずの母、おじいちゃんに会いに行く。
おばあちゃんとは何処で会ったの? ママには見えなかったみたいだけど、私には見えるかな?
見えるよ、きっと。この橋もね、ママには見えていないんだよ。伯母ちゃんには見えているんでしょ? 佐和子ちゃんは、事も無げにとんでもないことを言う。この橋が私にしか見えていない? 驚きはしたが、そうなのかも知れないとの思いもある。妹はまるでこの橋に目を向けたいなかった。
橋を渡った先には、以前と同じ景色が広がっていた。
おばあちゃん、隣の人は誰? 私には見えない誰かと話をする佐和子ちゃん。母がそこにいる。信じられないことかも知れないが、以前の私には、確かに見えていた存在。
伯母ちゃんはね、ママのお姉さんなんだよ。おばあちゃんの子供にもなるのかな? 伯母ちゃん、会えて良かったね。佐和子ちゃんはそう言うが、私にはなにも見えない。妹達に見えない橋は見えても、母の姿は見えなかった。
おばあちゃんの隣には誰がいるの? どんな話をしているの? 私は素直に疑問を投げかける。
うんとね、曾じいちゃんだって言ってるよ。佐和子は会ったことない人だけど、伯母ちゃんのことは知ってるって。
二人はどんな顔してるの? 嬉しそうにしてる?
うん、笑顔で楽しそうな顔してるよ。伯母ちゃんには見えないの? 佐和子ちゃんは目を丸めてそんなこと言う。
そうみたい… 二人の顔が見えて、話も出来て、佐和子ちゃんが羨ましいわね。本心からそう言った。そんな私の言葉に、佐和子ちゃんは少し気を使ってくれたようだ。
おばあちゃんと曾じいちゃんには見えてるよね? 伯母ちゃんのこと。佐和子ちゃんはそう言うと、ちょっとの間を置いて、見えているってと、笑顔を見せた。
そのまま佐和子ちゃんは話題を変えて暫く話を続けている。私には聞こえない祖父と母の声。以前となにが変わったというのだろう? 大人になってしまったからなのか?

家に戻り食事を済ませ、佐和子ちゃんが寝るのを待ち、妹やおばあちゃんにこの日の出来事を伝えた。お盆さんだから帰って来てるんだよと、以前と同じ台詞のおばあちゃん。妹は黙ってなにやら考え込んでいる。
姉さん、今更こんなこと言うと怒るかも知れないけど、佐和子ね、時々嘘つくのよ。悪気はないと思うんだけど、大人の話に合わせようとしたりするのよね。今日のも姉さんの話に合わせただけじゃないかしら? 妹がため息混じりそう言った。
なにを言ってるんだい、あの子は嘘など言わないよ! お盆さんに故人が帰って来るのは当たり前のことだろ。おばちゃんが声を荒げてそう言った。八十を過ぎ、ボケもなく元気なおばあちゃん。ただ少し、耳が遠いせいか、声が大きくなっている。
私もそう思うわよ。あなたにだって以前は見えてたのよ。本当に覚えてない? 私がそう言う。妹が少し可哀想だと思ったのは何故だろう?
覚えてないわよ。例え本当だとしても、今の私達には見えないんだったら意味ないじゃないのよ。妹の声は冷たい。
それはそうだけど、あなたは会いたいと思わないの?
私だって思うわよ。だけど仕方ないじゃない、死んだ人のことなんて。それよりね、姉さんを呼んだのにはもう一つ理由があるのよ。明日ね、三児君が来るのよ。母さんの日記のこと話したらね、来るって言ったわよ。仕事忙しいみたいだけど、なんとか都合つけて来るって。姉さんも会いたいでしょ? 妹は突然楽しそうな声を出した。
私たち二人の初恋の人、従兄の三児君。毎年お盆の時期になるとこの家に来ていた。私と妹は毎年お盆に会えることを楽しみにしていた。それは三児君もそうだったと思う。いつ頃からか、三児君が家に来ることはなくなり、私は三児君を好きでいることに気づいた。それも幼い頃の幻で、いつの間にか好きという気持ちは消えてしまっていたけれど。今は漫画家として、忙しい日々を送っているらしい。名前を聞いたが、私には分からない。妹が言うにはそれなりに売れているそうだ。明日の楽しみが一つ増えた。三児君に会い、あの頃の思い出を呼び覚ます。少しだけ母に会える予感がする。

八月十四日

私は一人で散歩をしていた。何処を探しても昨日見た橋が見つからない。道なりは覚えていたはずなのに、その場所は行き止まりになっていた。あれは幻? 佐和子ちゃんがいたから見えていた? そんなはずはない。佐和子ちゃんと会う前から見えていた。

私の前に現れたおじいちゃん。誘われるままついて行く私。この時まで見たことのなかった橋を渡り、不思議な町に辿り着く。
ここは何処? おじいちゃんは誰なの? 私がそう言った。
ここはおじいちゃん達が暮らしている世界だよ。早苗ちゃんは初めてだね? 案内してあげるよ。おじいちゃんがそう言う。
おじいちゃんだけなの? おばあちゃんやおじちゃん、お兄ちゃんとかはいないの? そう言う私の顔は、少し笑っていた。
そんなことないよ。色んな人達がいるよ。どうしてそんなことを聞くんだい? 不思議そうな顔でおじいちゃんが言う。
だって、今おじいちゃん達がって言ってたよ。ここにはおじいちゃんしかいないのかと思ったんだもん。違うんだね? 良かった。そんな私の言葉に、二人の笑顔が広がった。
その町には、それまで出会って来た人達とはどこか違う感じの人達が暮らしていた。優しさが滲み出ていいて、なにかを悟ったような感じのする人達だった。その時の私には、ただ変わった人達にしか写っていなかった。けれども優しさは感じ、嫌な感じは少しもしなかった。
ここの人達はなにをしているの? パパやママとは違うみたいだよ。皆楽しそうな顔しているね。
パパやママは楽しそうじゃない? そんなことはないと思うよ。ここにいる人達はね、もう仕事をしなくていい人達なんだよ。だから疲れていないだけなんだよ。パパやママだって、普段はこんな顔をしているはずだよ。違う? そう言うと、おじいちゃんはそれまで以上の穏やかな表情を見せる。
違うよ! いつもね、こんな顔してるんだよ。そう言いながら作った私の顔真似に、おじいちゃんは笑ってくれた。つられて私も笑い出す。そして、周りの人達も静かに笑う。
どうして皆笑っているの? 早苗の顔が可笑しいからかな? 周りの人たちの笑いが少し気になり、そう聞いた。
そうじゃないと思うよ。楽しい時に笑うのは、自然なことなんだよ。早苗ちゃんが近くにいると、皆楽しいんだね。おじいちゃんの笑顔が輝いていた。

昼食の支度をしていると、電話がかかってきた。三児君からだった。手伝いをしているといっても、いてもいなくてもいい邪魔なだけの私。車を借り、駅まで迎えに行くことにした。
俺が行くからいいよ。義姉さんはゆっくりしててよ。一応お客さんなんだからさ。そんな妹の旦那の言葉に、少しムッとした。私が客? 確かにもうこの家には住んでいないけど、ここは私の実家。後から来たのはあなたの方なのよ! なんて想いはぶつけなかった。
気を使わなくてもいいのよ。それにね、三児君には早く会いたいって思ってたんだから。わざとらしい笑顔でそう言う。
私は駅まで妹の車で迎えに行った。駅に着くとすぐ、三児君の姿を見つけた。久し振りなのに、お互い一目で気がついた。
早苗ちゃん、久し振りだね。イギリスに渡ったって聞いてたけど、帰って来てたんだね。久し振りの三児君の声だった。
うん、またすぐ戻るんだけどね。私の声だ。
早苗ちゃんも、日記のこと聞いて来たんだ… どんなこと書いてあった? 三児君は少しくらい声を出す。
今持って来てるから、見た方が早いんじゃない? 私はそう言いながら、母の日記を渡した。真剣に読む三児君。実家に近づいてもまだ、読み続けている。
もう着くわよ。先に挨拶して、それからまた読みなさいよ。車を庭に停め、そう言った。
あぁ、そうするよ。だけどこれ、本当なのかな? 僕が良く見る夢にそっくりだよ。三児君は私に顔を向けてそう言う。私は思わず息を飲み、固まった。
私と同じ夢を見ていた三児君。このこと全てが幻なのかと思えた。初めから存在しない出来事。日記も含めて全てが夢の中での出来事。今もまだ、夢の途中なのかも知れない。

明日はね、お兄ちゃんが来るんだ。ここに一緒に来てもいい? 妹の幸子もね、おじいちゃんに会いたいって言うの。いいよね? 橋の向こうで、私がそう言った。
いいけど、そのお兄ちゃんには見えないかも知れないよ。おじいちゃん達はね、皆とは違う存在だから、大人の人には見えないんだよ。早苗ちゃんにだって、今は見えているけど、何年かしたら見えなくなるんだよ。きっとね。そう言うおじいちゃんの目は、寂しげだった。
大丈夫だよ。早苗にはずっと見えるよ。だって、大好きなおじいちゃんが見えないなんて、嫌だもん。それにね、お兄ちゃんにも見えるはずだよ。だって、早苗に見えるのに、お兄ちゃんに見えないなんておかしいもん。お兄ちゃんは大人だけど、パパやママとは違うよ。だからきっと、明日は一緒に来るよ。私がそう言うと、おじいちゃんは困った表情を浮かべる。私はそんなことお構いなく話を続けた。周りでそれを聞いている見知らぬ人達が、いつものように楽しそうに笑っている。

三児君と私は、二人で橋のあるはず場所の前に立つ。やっぱり私には見えない。三児君にも見えていない。
昨日は確かに見えたのよ。あの時と同じような景色が広がっていたわ。だけど、母やおじいちゃんの姿は見えなかった。佐和子ちゃんには見えていたみたいだけど… どういうことだと思う? おばあちゃんは私が大人になったからだって言うけど、あの時の三児君は子供じゃなかったよね? なんで見えていたのかな? 私はその場所を見つめながらそう言った。
僕はあの時も、今も子供だよ。三児君もまた、その場所を見つめている。
じゃあどうして今は見えないの? 見えてないんでしょ? 違うの? そう言いながら私は、三児君に顔を向ける。遠くを見つめる三児君の横顔は、なにかが見えているようにも、なにも見えていないようにも感じられた。
私達は本当に大人になってしまったのだろうか? それだけの理由で見えていたものが見えなくなってしまったのだろうか? 母の日記を見る為だけに、仕事をほったらかして来た私と三児君。そんなことをするのが、大人と言えるのだろうか? しかし実際に、私にはなにも見えていなかった。
伯母ちゃん、ここでなにしているの? 佐和子ちゃんの声が聞こえた。声の後、行き止まりの場所から突然現れた佐和子ちゃん。橋を渡り、向こうの世界に行っていたのだろう。
この子が佐和子ちゃん? 僕にも紹介してよ。三児君がそう言った。
会ったことないの? 佐和子ちゃん、この人はね、ママの従兄の三児君。漫画を描いてるのよ。後でなにか描いてもらったら? 私がそう言うと、佐和子ちゃんの顔が輝いた。私には意外だった。一度くらいは会っていたんじゃないかと、勝手に思っていた。そうでなくても、妹が漫画家の従兄を自慢しているんじゃないかと思っていた。
はじめまして。なにして遊んでたの? 僕達も一緒に遊んでいいかな? そう言い、三吾君は人懐っこいいつもの笑顔を見せる。
うーん、いいよ! 嬉しそうな顔をする佐和子ちゃん。三児君もまた、笑顔を見せる。
だけどね、おばあちゃんも一緒でいい? そんな佐和子ちゃんの言葉に、私も三児君も、一瞬固まってしまった。すぐ近くに母がいる。私には昨日と同じ不思議な出来事。三児君には初めての驚きの一言だった。
おばあちゃんがいるの? ここに? 三児君が少し大きめの声を出した。
そうだよ。おじちゃんにも見えないの? 佐和子ちゃんの言葉に、私は笑ってしまった。三児君は、まるでその言葉の可笑しさには気がついておらず、ただただ驚きの表情で辺りを見回しているだけだった。
私たちはそこで、三人で(四人?)追いかけっこをしたり、石を拾ったりして遊んでいた。いつまで経っても疲れを見せない佐和子ちゃん。日が沈みかけた頃、ようやく家に戻ることになった。
おばあちゃん、明日もまた遊びにくるからね! バイバイ! 佐和子ちゃんが元気にそう言った。

食事の時、おじいちゃんの姿が見えた。
今日はなにしに来たの? 昨日はなにも喋らなかったよね? さっきはあんなにお喋りしてたのに、どうして? 私は真っ直ぐおじいちゃんを見つめてそう言った。
周りの家族は驚いた顔で私を見ていた。おじいちゃんは私と妹にしか見えていない。そのことを思い出し、少し気まずくなる。
早苗、誰に話してるんだ? 無口な父が、無関心に問いかける。幼い子供の戯言に、父は興味を持っていない。
そこにいるの…? おじいちゃんがそこにいるのね? 母が表情を変えてそう言った。見えないものを必死に見ようとしている。しかし、見えるはずはなかった。今の私に母の姿が見えないのと同じ理由だ。
せっかくこっちの世界と通じているんだから、皆の顔を少しでも見ていたんだよ。私が喋らないのは、喋ってもなにも伝わらないからだよ。だけどね、喋らなくても伝わることが、少なくともあるんだ。そんなおじいちゃんの言葉の意味を分からずにいる私。今なら分かるけど、この時は、ただそれ以上なにも喋らずにいるのが、私に出来る精一杯の答えだった。
母は私に、目の前のおじいちゃんの事をあれこれと聞く。なにも言わない私。その様子を黙って見ている父とおばあちゃん。妹はテレビのアニメに夢中だった。
私からなにも聞けないと諦めた母は、夕食の後片付けを始める。食器を洗う母の横に立ち、なにやら小声で呟くおじいちゃん。そして私に向かって一言。そろそろ戻るよ。明日また、遊ぼうね。おじいちゃんの姿は消えてしまった。

明日は僕がおじいちゃんに出会った日なのか… 全然覚えていないよ。この日記、本当に叔母さんが書いたものなの? もしかしたら日記じゃないんじゃないかな? 叔母さんが創作した、小説かなんかのアイデアなのかも知れないよ。三児君は家の中でもう一度日記を読み返していた。
それはないと思うなぁ。私は思い出したわよ。始めは夢の中の出来事かと思っていたけど、ここに戻って来てはっきりとしたわ。三児君も本当は思い出してるんでしょ? 昼間言ってたじゃない、この日記は夢にそっくりだって。私は三児君から日記を奪うように受け取り、パラパラと捲りながらそう言った。
そうだけど… 僕の考えなんだけどさ、昔は毎年ここに来てただろ? その時、叔母さんからこのアイデアを聞いていたんじゃないかな? それがずっと頭の何処かに残っていて、それが夢になって思い出したんだと思うよ。違うかな? 三児君は、真顔でそう言う。
こうも考えなれない? 二十七年前の明日か明後日、三児君はあの場所でなにか嫌な思いをしたんじゃない? それを忘れたくて、頭の隅に追いやっていたのよ。だけど簡単には忘れられない事だった。そして夢として現れてきた。嫌なことを除いた、不思議な体験としてね。どう思う? 私も真剣にそうこたえる。
夜遅くまで三児君と、あの日の出来事について話をした。他にもっと話したいことはあったのに、私達にはその余裕がなかった。思い出や近況を語り合うより、日記の真実を知りたいと思っていた。今は少し、後悔している。三児君ともっと、下らない世間話をしたかった。
嫌な思いって、どんなんだ? 僕にトラウマなんてないし、あの夢はとても心地がいいんだ。どうして思い出せない? 早苗ちゃんは思い出せたんだろ? 早苗ちゃんはなんで今まで忘れていたんだ?
それは、私が大人になったからかな? 現実離れしたことを、大人は認めたがらないでしょ? 私もそんな大人になってしまったってことかな?
そんなこと言うなよ! 僕はそんな大人にはなりたくないし、それを大人とは思わないよ。早苗ちゃんだってそうだろ? 昨日その橋を見たって言ったよね? それは現実? 思い出したことも、現実なんだろ?
そうよ。だけど本当は、まだ信じきってはいないのよ。どこまでが現実で、なにが夢なのか分からないのよ。大人には見えない。本当にそうなのかも知れない。以前見えたものが見えないって、本当にそういうことかも知れないわ…
私の言葉にムッとする三児君。その後も話は続いたが、絶対に引かない私の態度に、少し呆れたような表情を作り、トイレに行くと立ち上がった。だがしかし、トイレを出るとそのまま客室へ行き、一人先に眠ってしまった。私は居間で一人、もう一度日記を読み返す。そしてなんとか記憶を紐解こうとした。

八月十五日

家の中、はしゃぎまわる私と妹。三児君が来るのを、朝から待ちきれないでいた。
お兄ちゃんまだ来ないのかな? いつになったら来るの? 私がそう言う。
幸子も会いたいよ! まだ? 妹は床をドンドン足踏みしながらそう言った。
お昼頃には来ると思うわよ。それまで二人で遊んでなさい。母がそう言った。
私と妹は表に出て遊ぶことにした。三児君が来たらすぐに気づけるように。しかし私達が気づいたのは、おじいちゃんの存在と、その隣の見知らぬ少年だった。
その子は誰? 今日はこっちで遊ぶの。お兄ちゃんが来るまではね。私はおじいちゃんに向かってそう言った。
そう思ってこっちに来たんだよ。お兄ちゃんは当分来ないと思うから、それまでこの子の世話をしてもらおうと思ってね。あの場所には近い年齢の子が余りいなくてね。何人かはいるんだけど、皆他の場所に遊びにいっちゃたんだ。この子も午後には帰らないといけないんだけど、それまで一緒に遊んでやってよ。おじいちゃんがそう言った。
その少年を残し、おじいちゃんはどこかに消えていった。少年の名前は三太。見たところ私と同じぐらいの年齢だ。その時は気にならなかったが、今思い出すと、どことなく三児君に似ている。

あの日にね、三児君が来るまでここで遊んでたのよ。三人でね。佐和子ちゃんの相手をしている私達。私は遊びながら三児君に話しかける。今日はまだ、母の姿もおじいちゃんも現れていないみたいだった。
三人? おじいちゃんも一緒にか? 三児が驚いたように眉間にしわを寄せてそう言う。
違うわよ。おじいちゃんも始めはいたんだけど、すぐに消えたわ。そのおじいちゃんがね、男の子を連れて来たのよ。三太君って言ってたわよ。三児君の子供の頃を想像すると、あんな感じの子になるわね、きっと。私が三児君の顔を見つめていると、三太君の顔が見事に重なる。私は思わず、瞬きを繰り返した。
始めて聞く話だな… 三太君の顔をした三児君がそう言った。
そうだっけ? まぁいいじゃない。私は顔を横に振り、幻想を追い払った。
伯母ちゃん、喋ってばかりいないで真面目にやってよ! 佐和子ちゃんが頬を膨らませてそう言う。三児君と話をしながら、佐和子ちゃんとバトミントンをしていた。そっぽを向きながら適当に羽を返す私に、佐和子ちゃんはつまらなそうな顔を向けていた。
ごめんね… 伯母ちゃん疲れちゃった。次はおじさんとやってよ。私はそう言い、ラケットを三児君に投げ渡した。
いつまでも疲れない佐和子ちゃん。私達は交代に相手をした。バトミントンに飽きれば、違う遊びを考える。そしてまた飽きれば、次の遊び。時間はいつの間にか過ぎていく。

なにして遊ぼうか? 幼い頃の私がそう言う。
なんでもいいよ。そう言いながら辺りの景色を見渡す三太君。遊びには興味がないみたいだった。ふらふらと歩き回り、時々ニヤニヤと笑う。私と妹は最初、三太君の後をついて回った。しかしすぐに飽きてしまい、二人で遊び始める。構わずふらふらしている三太君。そんな事を気にせず遊びに夢中の私達。ふと目を向けると、座り込んで私達を見ている三太君が目につく。
見ていないで一緒に遊ぼうよ! 私が声をかける。
僕はいいんだ。見えているだけで楽しいから。そんなことを言う三太君だったが、私はそんな三君太の視線が気になり、なにをしてもつまらない。そんな私達を見ている三太君も、やっぱりつまらなそうだった。
つまんない! お家で遊ぼう! 妹が先にそう言った。助かったと、私は正直そう思った。
三太君も一緒に行こう。プーさんのビデオ見ようよ。私がそう言った。プーさんは妹のお気に入りだった。私から妹へと、小さな感謝の印でもあった。
妹はさっさと家の中に戻っていく。私は三太君の手を引っ張り、無理矢理中に連れて行こうとした。
僕は行かないよ。行きたいけど、いけないんだ。遠くで見てるよ。時間になったら帰るけど、また今度遊ぼうね。笑顔でそう言う三太君に、無理強いは出来なかった。掴んだ手は冷たく、マネキンのように温かみがなかった。気にしながらも中に戻り、いつの間にかプーさんに夢中になっていた。ビデオが終わり、外を覗くと、三太君の姿は消えていた。

昼食をとっている時、佐和子ちゃんがまた、おばあちゃんと話をし始めた。なにを喋っているのか、誰も気にしない。私も三児君もまた、気にはしなかった。三児君の頭では、私が話したもう一人の少年が引っかかっているらしい。私もまた、三太君のことを考えていた。あの子は誰だったのか? その後二度と会うことはなかったが、今何処にいるのだろう? おじいちゃんと一緒に橋の向こうの世界にいるのだろうか? もしかして、佐和子ちゃんには見えている?
漫画家をしている普段の三児君。想像力豊かで、人間味のあるちょっと不思議な世界を描いている。この時の私は、まだそれを読んでいなかった。今なら分かる、三太君の正体、三児君の本当の心。
昼食を終え、客室で寝そべる三児君。まだ考え事の続きをしている。私は外に出て散歩をする。佐和子ちゃんが後ろから追いかけて来る。
伯母ちゃん、あのおじちゃんは何処に行ったの? お昼食べなかったけど、具合悪いのかな? 佐和子ちゃんが三児君の事をそう言った。
食事をしていない三児君。出されたものに手をつけようともせず、ただじっと考え込んでいた。そこまで考え込むことなのか? 不思議に思うが、気持ちもわかる。
昨日の夜も食べてなかったけど、大丈夫なの? ママはなにも言わないし、どうしてかな? 佐和子が残すとすぐに怒るくせに… 皆にはあのおじちゃんが見えていないのかな? おばあちゃんみたいに。佐和子ちゃんのその言葉に、私は一瞬ハッとした。しかし、そんな事はない。私にも妹にも、ちゃんと見えていた。ただ一つ思い出したことがある。子供の頃、私のおばあちゃんだけは、三児君と一言も口を聞かなかった。
今日もまた、あの場所に行くの? さっきおばあちゃんと話をしてたよね、なに喋ってたの? 私が佐和子ちゃんにそう聞いた。
あれはね、おばあちゃんじゃないよ。おばあちゃんのお父さんなんだって。まだお家にいるよ。あのおじちゃんのことが気になるからって言ってたよ。どういう意味かな? 佐和子ちゃんは首を傾げてそう言った。
おじいちゃんは生きている頃、三児君をとても可愛がっていたらしい。養子に迎えたいと、本気で考えていた。当然の事ながら、三児君本人や両親は本気に受け取らなかった。だけど私の記憶にある三児君とおじいちゃんは、言葉を交わしてはいたが、なにか冷たい空気がそこには流れていた。おじいちゃんがすでに死人だったから? そうなのかも知れないけど、私には暖かく接してくれていたような気がする。子供ながらの私に、二人の関係がいいものでないのは感じられていた。
私の前を歩く佐和子ちゃん。つられるように、その後を追う。昨日は見えなかった橋、今日はまた見えている。その橋を渡り、子供の頃見た景色の中に迷い込む。

今の男の子、お兄ちゃんと同じ匂いがしたね! 何処に行っちゃったのかな? 妹がそう言った。
表に走り出す幸子、取り敢えず私も後を追う。もうすぐ昼食、三児君が来る時間。表で会えればいいけど… 余り遠くまで行かなければいいけど… なにかに夢中になった時の妹は、誰がなにを言っても言うことを聞かない。私や両親はただ、妹の気が治まるまでやり過ごすばかり。
何処にもいないよ! どうして? お姉ちゃん、ちゃんと探してる? どうやら妹は三太君を探していたようだ。
いつの間にか赤い橋の前に来ていた。橋を渡ろうとする妹に、嫌な気分を感じる。この先を幸子に見せてはいけない。不確かだけど、確実な予感。橋の向こうの世界はまだ、妹には辛い世界。そして今は、私にも辛い世界。死の匂いと、生きる喜びの混ざった匂い。物心つく寸前の私には素敵に映っていたけど、死も生も知らない幸子には哀しく映る。漠然とながらそう感じていたのだと思う。
ダメ! その先に行っちゃダメ! 私は今まで出したことのない大声で怒鳴っていた。
きょとんとして立ち止まる幸子。私の表情を見ると、泣きそうな顔をして後戻りする。
…お姉ちゃん怖いよ。妹にそう言われ、ハッと我に返った。私はきっと、鬼よりも鬼らしい顔になっていたことだろう。
冷静を取り戻し、普段の表情に戻った私は、妹と手をつなぎ、家に戻ろうとした。ふと橋の向こうが気になった私。振り返るとそこに、三児君の姿があった。
お兄ちゃん… 思わずって感じで漏れた言葉だった。
私の声に反応する幸子。振り返るとまっすぐ走り出し、三児君に抱きついた。
橋の向こうからやって来た三児君。何処から来たのか、私には聞くことが出来なかった。話を聞いて真実を知るのが怖かったのかも知れない。

おじいちゃんの家の前、中を覗いても誰も見えない。ただ気になる物が幾つかあった。黄色い幼稚園鞄、スーパーカー消しゴム、プロ野球カード、小さなパンツ、小さな靴下、スーパーマンの人形。
ねぇおばあちゃん、今日はお兄ちゃんいないの? 佐和子ちゃんがそう言う。
私には見えない母、おじいちゃん。他にも誰かがいるのだろう。小さな子供、三太君があの日のまま、ここに暮らしているのかも知れない。
伯母ちゃんにね、会わせたい人がいたんだよ。昨日から何処かに出かけちゃったんだって。だけどね、皆おかしなこと言ってるの。佐和子も伯母ちゃんも、何処かで会ってるはずだって。昨日から一緒にいたはずだって。それ以上は教えてくれないの。おばあちゃん、今日は何処に連れて行ってくれるの? 佐和子ちゃんは忙しなく色々な人話をしているようだった。
三太君が私達の近くに? まるで気づかなかった私。佐和子ちゃんにも見えていない男の子? それが三太君? なにか違う気がした。私に見えていないもの。それは現実の世界なのかも知れない。佐和子ちゃんに見えているもの。それが現実。ならば男の子は何処にいる? 現実でもなく、架空でもない存在。三太君は確かに何処かにいる。それがどこなのかは今でも分からないけど、もしかしたら…

私達と遊ぶ三児君。おじいちゃんが現れ、なにかを話しかける。聞こえているのかいないのか、少し不機嫌な顔を見せていた。その場を離れるおじいちゃん。その様子を眺める三児君。
後をついて行こう! おじいちゃんあの家に帰るのかな? 幼い私は無邪気にそう言う。
私も行く! いいでしょ? お姉ちゃん。妹がそう言う。
嫌々ついて来る三児君。なにを嫌がっているのか、当時は考えもしなかった。妹は私の顔を窺いながら、不安な顔を見せている。また私に怒られるとでも考えていたのだろう。私は怒らなかった。なにも考えずにただ、おじいちゃんの後を追うので精一杯だった。なんにそんなに夢中になっていたのか? 分からない。赤い橋の先の古い家、不思議な世界、そこに惹かれていたのは確かだが、なにか他に違う理由があったと思う。三児君のあの表情が気になっていた? そうかも知れない。
二人はおじいちゃんのことが見えてるの? この先には行ったことあるの? 僕はあまり行きたくない。なにか怖い気がするよ。三児君が険しい顔でそう言った。
お構いなく先を行く私達。おじいちゃんは家の前で私達を迎えてくれた。
中に入りなさい。三児君も一緒にどうだい? おじいちゃんが三児君を見つめる目は、どこかぎこちなく感じられた。
家の中で、三児君はおじいちゃんとなにやら話をしている。私達はそんな話には耳を傾けず、外と家の中を行ったり来たり遊びまわっていた。
この日のことを覚えていない三児君。大事な事は抜け、少しばかりの記憶、不思議な体験だけが残っている。今なにを思い出そうとしている? おじいちゃんとの会話? 私は知りたい。三児君は本当は誰なの?

母さんとおじいちゃんは、佐和子ちゃんの隣を離れないでいる。見えないはずの二人を見つめる私と三児君。静かな夕食、明日になれば皆いなくなる。寂しい思いをするのは佐和子ちゃん。あの時の私と同じだ。

八月十六日

御供え物を持って裏山のお墓に向かう。三児君と手を繋ぐ妹。私の隣のおじいちゃんは、母さんの顔をじっと見つめている。お墓に水をさし、別れの挨拶。消える直前、母さんの耳元で囁くおじいちゃん。 いつか会えるまで元気でいろよ。しかし私にはなにも言わずに消えてしまった。また会えるんだと確信していた。だけど次の年、思い出せない。

お墓から戻り、居間でお茶を飲む。皆帰っちゃったね… 佐和子ちゃんの言葉に、周りの異変に気づく。今までいたはずの三児君がいない。

あの時も、三児君は突然いなくなった。いつ帰ったの? なんで教えてくれなかったの? 母さんに言い寄る私と妹。困った顔の母さん。おばあちゃんが横から割って入る。三児君って誰のことだい?
この世にいないはずの存在。幼い私にも、母にも見えていた。おばあちゃんだけには見えていない。三児君が誰なのか、死んだ理由を知っていたから。
思い出したように話を続けるおばあちゃん。そう言えばあんた達には言ってなかったかねぇ。あんたには生まれるはずだった弟がいたんだよ。このお腹の中で死んじまったんだけど、あんたは覚えていないのかね。ここにいた時から勝手に男の子って決めつけて、三児って名前を付けたじゃないか。おばあちゃんが、母に向かってそう言った。
今年も三児は来てたのかい? そう言うおばあちゃんの声に哀しみが見えた。どうして私には見えない? 実の息子なのに… そんな思いが見て取れる。
トイレの帰り、明かりに誘われ寝室の襖を開ける。日記をつける母の姿が見えた。今日で日記はお終いね。おばあちゃんの言ってたことは忘れなさい。来年もきっと、会いに来てくれるわよ。母は私に向かってそう言った。

わからないことは沢山ある。漫画家の三児君は誰? 妹だけならともかく、旦那もその存在を知っている。それはもしかしたら、私と妹が作り上げた幻想なのかも知れない。それとも、別の誰かと三児君の面影を重ねているだけなのかも知れない。わからないなら、わからないままでもいいのかも知れない。
世の中には不思議な事が沢山あるものだ。幼い頃の幻、今でも見る幻。どちらも現実じゃないのかも知れない。それでも構わないと今では思える。お盆の四日間が、短い夏と共に幻に消えていく。
妹に車で駅まで送ってもらう途中、三児君と遊ぶ母の姿が思い浮かんだ。傍らにはおじいちゃんがいる。母の顔が佐和子ちゃんと重なり、三児君は三太君に変わる。手を振る私。来年もまた遊ぼうね! その約束だけは守ろうと心に決めた。

今年も夏が終わる

今年も夏が終わる

ちょっと不思議な幼い頃の物語

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-03

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