雨の帰り道


こんな日が来るのを待っていた。朝の青空とは裏腹に、突然の暗雲、夕方からの嵐。今日は僕の独立記念日。この雨、今夜はとてもやみそうにない。
僕は今、会社の中。一日中、工場の中。同じ物を繰り返し、無感情に造り続ける。退屈は感じない。満足も感じない。仕事は目を瞑ってもこなせる自信がある。だから僕は仕事中、家族のこと、自分の夢、理想や妄想を頭にめぐらせる。
今日の仕事、昨日の仕事、なにをしたのか覚えていない。どうせ毎日の繰り返し、覚える必要なんて少しもない。仕事に対する感情は、どこか遠くに捨ててしまった。だけど僕、はその日の理想や妄想は全て忘れない。描いた感情を胸から取り出し、休み時間にノートに書き記す。
仕事は朝の八時から始まり、夕方の五時まで、それが定時間。会社まではバイクで十五分。赤いスクーター、二人乗りの許された100cc。そのバイクを選んだ理由は、スピード制限が車と同じだから。普通のスクーターだと三十キロ以上で走ることが許されていない。他にも色々と制限が多く、暇な警察官の餌食になることが多い。けれど僕のバイク、お尻に三角のマーク、それが普通とは違う証。スピードを出すことを許されたバイク。といっても僕はスピードを出さない。僕は安全運転、車の左をすり抜けることはあっても、右からは抜かさない。スピードだって法廷速度のニ割増程度、車の流れについていく。
家と会社との間には、一つの山が立ちはだかる。バイクは真っ直ぐに山を登って降りるだけ。電車では大きく迂回する。二度の乗り換え、待ち時間、駅まで徒歩で十分、駅からは二十分。全てを含んで一時間半。毎晩毎朝の天気予報は欠かさずにチェックする。雨や雪の日には仕方がなく、早起きをして、文庫本を一冊ポケットに、欠伸を我慢もせずに駅へと歩いて出かけていく。
少しの雨ならば我慢することもある。けれど、なるべくならば濡れたくはない。帰りの雨ならば家に帰ってお風呂に入り、すぐに体を暖めることができる。行きの雨は最悪だ。会社には当然シャワー室なんてない。カッパを着て行けば中の洋服が濡れることはない。けれど手袋はグショグショ、顔はビショビショ、靴も濡れるし、靴下から中の素足にまで染み込む、フヤケた肌が我慢ならない。
僕のヘルメットは半キャップ、鉄で造られたツバのない野球帽。真っ黒で、遠目からはなにも被っていないようにも見えなくはない。頭の天辺から爪先まで、全身で風を感じるのがバイクの魅力。できることならば、ヘルメットなんて被りたくはない。けれど日本の現実は、そうしなければすぐ、捕まって免許の点数を減らされてしまう。
たかだか小さなスクーターだ。アメリカのハーレー・ダビッドソンに乗っているのならともかく、風を感じたいからヘルメットを被らないなんて、バカげた理由だと思われるだろう。けれど僕にとって、バイクはバイクであり、大きさやメーカーなんて関係ない。風を感じないバイクなんて、丁寧に屋根までついているピザ屋の宅配バイクだけでじゅうぶんだ。
そして僕は、フルフェイスが大嫌い。顔全体を隠すなんて、それこそバカげている。風を感じられないだけでなく、顔を人前にさらせない。それってなんだか、つまらない。バイクと車との大きな違い。一つは風、もう一つが目立ち度。自分を精一杯アピールするには、バイクが車に負けることはない。
その意味、わかりますか? どんなに有名なスポーツカー、無意味な改造、迷惑な音量、目立つのは車だけ。中に乗っている人なんて、外には見えない、どうでもいい存在。けれどバイクは違う。乗り手を含めて初めて、一つの絵になる。バイクだけが目立っても意味がなく、乗り手だけでも意味がない。両方が目立つように頑張らなければならない。
なんていうけど僕、ジーンズに黒いエンジニアブーツ、真っ白のティーシャツの上に黒の革ジャンを羽織る。なんて風に服装にはこだわっていても、結局は乗っているバイク、二人乗りはできるけれどなんの変哲もないスクーター。ただ少し、目立てばいいなと赤色を選んではいる。
それにもし、僕がつまらないプライドを捨ててフルフェイスを被ったとしても、風が目に入らないようにするためのシールドを、雨の日には上げなければならない。シールドを下げていては雨粒が激しく当たり、前が見辛くて仕方がない。顔が雨で濡れるのはどっちもどっち、多いか少ないかの違いなんて、僕にとってはさほど意味がない。
そんな理由で僕、雨の朝には時間の無駄遣いを覚悟に電車を使い、帰りに降る突然の雨にはカッパを着て我慢の二十分。晴れの日より五分の安全運転。

五時ちょうど、会社の終業ベルが鳴る。けれど僕は、まだ帰れない。携帯電話を手に取り、ボタンを押す。相手は愛する妻。こんな言い方はおかしいけれど、僕は本気で妻を愛している。心の底からの愛。血のつながった家族よりも強く、生きることの許されたこの地球よりも重く、確かな愛を感じている。
電話の内容は、いつもと変わらない。今日も残業、遅くなる、終わったらまた電話するから。そして二時間、仕事を続ける。
忙しいとはいえない仕事。残業をするのはお金のため。残業代は僕の家族にとって、なくてはならない援助金。僕の本音では早く家に帰りたい。お金なんて、どうでもいい。けれどそれでは生活が苦しくなる。家も購入したばかり、小さな子供がいて、妻のお腹の中には新しい命も。少しでも裕福になりたい。そのための残業。
理由はそれだけではない。本当にお金だけが欲しいのなら、他にも手段はある。夕方からアルバイトをしてもいい。もっと割のいい会社に転職するのもいい。けれどそうしない理由は、今の会社では楽をしてお金を稼げるからだ。会社に入る前の面接、僕が希望の給料を申し出た。手取りでいくらは欲しいです、と答える。社長の答え、うちの会社は二時間の残業が普通なんだ、毎日こなしたとして、こんな感じだね、と金額を紙に書いて示した。僕はそれを見てすぐ、納得をする。予想を遥かに越えていて、残業をしなくても希望を超えていることがすぐにわかったから。
入社して一週間、身体が慣れるまではと定時で帰ることを社長がすすめる。僕は素直に従った。二週目からは毎日の残業。初めは僕の仕事が遅いせいもあり、忙しく毎日を過ごしていた。けれど次第に仕事にも馴れ、一つの現実を知った。この会社、社長がいうほど忙しくはない。確かに仕事はひっきりなしに続いている。仕事がなくなる心配がないほどに注文は止まらない。けれど残業をしなくても納期には間に合う。現実に僕、注文がきていない在庫を造る日が長く続いている。
だから僕は、気を使って定時で帰る。すると社長、どうしたんだい? 具合でも悪いのかい? なんて聞いてくる。初めは僕、用事があるんです、と答えていた。けれどそれが二日も続くとすぐ、社長はこういう。今造っているのは在庫だけれど、必ずすぐに注文がくるから、心配はないんだよ。確かにその通り。突然の大量注文、よくある出来事だ。在庫はすぐに消えてなくなるし、お客さんは早い納入に大満足。
僕は残業をしない理由をなくしてしまう。本当に用事があって早く帰る時にでさえ、社長に対して気を使ってしまう。そんな理由で僕は、毎日二時間の残業をこなしている。まぁ、時間を売りさえすれば楽にお金を稼げる現実、みすみす見捨てる理由は見つからない。
残業の二時間は、いつもならアッという間に過ぎていく。けれど今日はとても長く感じる。余計な心配が頭をめぐる。あいつは今頃なにをしているのだろうか? しっかりと準備を整えて、計画通りに事を運ぶことができるのだろうか? 予定通りなら、あいつは今、僕の家に向かっている。
いつもの僕は、七時十分前には仕事を終え、掃除と着替えを済ませて七時きっかりにタイムカードを押す。そして妻と子の待つ家へと急ぐ。けれど今日は雨降り、急ぐ理由は見当たらない。七時にベルは鳴らない、だから会社の壁にかかっている丸い時計の長い針が天辺に上るまで仕事を続ける。それから掃除をして、バイク置き場へ向かい、座席の下のヘルメット入れからカッパを取り出す。僕はいつも、バイクの鍵を作業着のポケットに入れている。休み時間に買い物をしたりすることがある、それだけの理由からだ。
カッパを持って会社の更衣室へ行き、作業着を脱がずに上に着込む。大きな雨、カッパを着れば洋服が濡れることはないけれど、それは完璧ではない。足元のズボン、手首の隙間から上着の袖、首から胸元に入り込む。少量ではあるけれど、洋服が濡れるのは我慢ならない。どうせ汚れている作業着だ。洗わなければならないのなら、雨の日に。それが作業着に与えられた最高の栄誉だ。
洋服をカッパを閉まっていたビニール袋に入れる。それを持ってバイクへと戻る。途中にタイムカードを押し、その場には誰もいないのにさよならの挨拶。お疲れ様、というときもあれば、お先に失礼します、とか、単純にさよならだけのときもある。なにもいわないことはない。黙ったまま帰るなんて寂しすぎる。
雨の日のバイク、僕はいつも以上にゆっくりと、雨にタイヤを滑らせないようにバイクを走らせる。滑って転んで怪我をする。視界が悪くて車に突っ込む。その逆もある。つまらない事故に遭うのはゴメンだ。ゆっくりと時間をかけての安全運転、どうせ帰りが遅くなるんだ。急いで仕事を終わらせるのは意味がない。バイクに乗る前に携帯電話を覗く、息子の笑顔を確認し、妻への帰るコールをする。
いつもよりも遅くれる十分間、雨の日は決まって十分遅れでタイムカードを押しいている。その間に雨がやむこともある。逆にもっと強くなることもあるのだけれど。

今はまだ、六時少し前。後一時間、あいつはもうすぐ、僕の家。これから始まる僕の計画。思いついたのは、些細な出来事から。
幸せって、案外退屈なもの。僕は今、その幸せの絶頂にいる。去年の春、愛する妻との間に生まれた息子、一度の失敗を経験している僕と妻にとって、待望の子供であった。結婚三年目に訪れた新たな幸せ、待ち続けていた幸せ。そして今年の夏には二人目も生まれる予定。僕たち夫婦にとっては待ちに待った女の子。洋服選びや習い事、将来のことを考えると娘の未来は明るく輝いているように思える。当然息子にも同じように未来が待っている。けれどなにをどうあがいても僕の息子には違いない。なにを頑張ったところで、僕のようになってしまうのが精一杯、のように感じられてならない。
自分でいうのもおかしな話だけれど、息子は僕に似て男前。娘はきっと、飛び切りの美人になる。なにせ僕の妻は、僕以上の男前だから。
僕は以前、とても大きな夢を抱いていた。世界一の男になりたい。世界中に僕の存在を知らし示したい。けれどその夢は、中途半端に沈んでいった。その夢自体が中途半端だったからだ。なんでもいいから僕は、世界一になりたい。次から次へと新しいなにかを見つけては、その世界での一番を目指す。
僕はいつでもそうなんだ。なにをやっても中途半端、目標まで辿り着かない。途中で諦めてはまた、新しい夢を追いかける。その繰り返しでここまで生きてきた。僕の息子もきっと、そうなるに違いない。
夢見がちな男。それが悪いとは思わない。けれど僕の息子には、中途半端にだけはなってほしくない。どんなに小さな夢だとしても、それに向って、なりふりかまわずに突き進める男になってほしい。それが僕の、父親としての切なる願い。
娘の心配がいらないのは、妻がそんなタイプだから。僕の妻は愛に満ち、幸せの本当の意味を知っている、無邪気な天使の生まれ変わりのような存在だ。
僕は妻に出会って人生を変えた。それまでが特別の不幸だったわけではない。僕なりに幸せを感じてはいた。夢を追いかけることは、例え貧乏であったとしても、幸せを感じることができる。なんて、本音は違う。幸せを感じているだなんて、僕のつまらない見栄にすぎない。そう思うことで、僕の心を納得させていた。意識的に現実から目をそらしていただけだ。
そんな生活を一人、学生生活を終えてからずっと、続けていた。実家を出て、苦しい一人暮らし。アルバイトをしながら夢を追いかける。ミュージシャン、作家、画家、俳優、いくつもの夢を追いかけた。辛い日々を送りながら夢を追いかける自分自身に満足を感じながら。これもやっぱり、本音は違う。現実には少しも苦しくなく、適当に夢を見て、適当に過ごす日々。それを認めず、苦しい素振りをして過ごしていただけのこと。
それが妻との出会いで大きく変わった。その当時、僕は少しの不満もなく、夢を捨てた。新しい僕の始まりだ。あえていわせてもらうけれど、その結末が今日という日を呼び寄せたわけではない。今日のこの計画、余計なチャチャはあったけれど、あくまでも僕個人の心が決めたもの。幸せな日々、大切な家族とは離れた位置にある、僕個人の行動であり、僕個人の心の結末だ。妻は少しも悪くない。悪いのは、僕の心。
夢を捨てて生きること。それは楽しい日々を重ねていくことでもあった。それが僕の考えだ。けれど、この二つを切り離して考えたとき、僕の景色が拡がった。
それまでの僕は、夢を捨てなければ平凡にはなれないと感じていた。僕の考える幸せとは、楽しい日々は平凡に生きること。平凡って、それこそが、それだけで幸せなんだって感じるようなった。余計なことは一切考えずに、日々をただ精一杯生きていく。そして楽しむための努力は怠らない。平凡って、変化のない日々って意味じゃない。ただ楽しいだけの日々。そういう意味なんだ。そのために頑張るってことなんだ。
僕の夢はどれも、窮屈なものばかり。叶える為の犠牲が多すぎた。友達、恋人、睡眠、お金、心、平和、笑顔、それでも夢は叶わない。僕は所詮、妄想族。現実に生きることを拒否して夢を見る。夢が叶うその日まで苦しみに生きることさえ、拒んでいる。そんな中途半端な僕は、この先どうすればいいのか、行き場を失っていた。自分を誤魔化して生きるのに、限界を感じていたんだ。
だから僕は考えた。平凡を夢見ようって。なにもなくたっていい。君さえいればそれでいい。そう思える君と出会えたから。
君との出会いは特別。そのとき僕は二十五になったばかりだ。夢を捨てるには若いなんて言われたくない。僕の考えでは、夢はいくつになっても見ることが出来る。例え百歳をすぎてからも。その逆で、捨てるのも簡単だ。年齢なんて関係ない。夢を捨てるのは、タイミング。僕にはそれが、二十五だった。
君は二十一。電車の中、偶然の隣同士。僕が読んでいた本を、君は覗き込んだ。横目でチラリ、なんてものじゃない。頭全部を僕のお腹に埋めるかのようだった。君の頭の向こうに、持っていた本が隠れてしまった。僕はお腹に君の重みを感じた。邪魔だな、とは思ったけれど、嫌な気分はしなかった。心地がいいとさえ感じた。
しかし現実には、困ってしまった僕は、固まったまま一分間、君もそのままに一分間、僕は夢中に本の中の文字から文字へと視線を走らせる。
外国人作家のホラー小説。誰かが誰かを殺したり、殺されたりする話がメインだ。僕は彼の作品を愛している。日本語に訳された全ての作品を、今でも繰り返し読んでいる。英語版も本屋でみつける度に買ってはいる。いまだにどれも一行も読み進めたことはないけれど。僕は英語が嫌いなんだ。読める読めないはどうでもいいことだよ。
彼は外国でも日本でもホラー作家というくくりに入れられてはいるけれど、それは単に彼の扱うテーマの問題だ。悪魔やゴースト、殺人鬼やら吸血鬼、頭のイカれた人物が普通に登場する。けれど中身は立派な文学作品。現代に生きる人々の心を上手に描き出している。と、僕はそう感じながら読んでいる。君も同じなんだって感じた。
一分間が過ぎ、見開いていたページを読み終えた君は、そのままの体勢を崩さずに、僕の右手をポンッと叩いた。彼女の手の感触に少し、ドキッとした。目だけを動かし、その手を見つめる。すると彼女は、もう一度ポンッと叩く。そしてすぐその後に、君の手の感触に僕がなにかを感じる前に、叩いたその手で僕が手に持つ本を指差す。ページを捲れとの催促だった。僕は黙ってそれに従った。
電車は走り、途中駅で何度か停車しながら終着駅へ辿り着く。少し長めの停車時間。そのまま折り返し、反対の終着駅へと向かう。片道約四十分、大きな街と街との間を結ぶ私鉄電車。一往復と半分、一分おきに僕の右手をポンッとする。君は僕のお腹に頭を埋めたまま、物語の最後まで読み終えた。
頭を起こした君は、そのままの動きで僕の目の前に顔を近づける。顔の中身をクシャッとさせて、笑顔を作る。そしてありがとうの言葉。僕はまた、ドキッとした。君の顔、想像以上に綺麗で、ハンサムだったから。
大きな瞳、二つの間隔、目の窪み、眉毛の位置と形、太さ具合。幼稚園の滑り台のように滑らかな鼻、その位置と高さ、二つの穴が嫌味なく上品にあいている。頬の色と肉付き具合、小さなアゴの上、鼻との間、絶妙な位置の口、少し大きめだけれど、薄く綺麗な形をしている。両端の耳、目の真横より少し下、鼻よりも上の位置にあり、遠くの物音までよく聞こえそうな大きさの、音を集めやすい形をしている。広めのオデコ、皺やシミ、ニキビの一つもない。背中まで伸びた黒く輝く細い髪の毛、君は僕の顔を見ながら後ろで束ねる。
約百分間、僕はずっと君を想像していた。髪の毛から漂う匂い、嫌味のない柔らかい酸味と仄かな甘みが入り混じっていた。ずっと本に顔を向けていた君。僕には顔が見えない。向かいの窓ガラス、小さな本に隠れる君の顔。細身の身体に丈の短いピチピチの真っ白なTシャツ、浮かび上がるブラの形、腕や首元、背中の滑らかな肌が目に飛び込む。細身のジーンズ、真っ黒に光ったハイヒール。君が綺麗だってことは簡単に想像ができた。
そして僕は君の匂いを吸い込み、変な妄想をしたりして時間をやりすごした。君は始め、両手を君自身の膝に置いていた。けれど途中から、その少し無理な体勢に疲れたからなのか、僕へ気を許したからなのか、両手をそれぞれ僕の太腿に乗せた。僕の興奮は増し、妄想も膨らんだ。けれど僕は、大事な場所を膨らませない。君に不愉快な思いはさせたくないから。
僕はすでに君に恋をしていて、君と一緒になることを夢見ていた。君となら楽しくすごせる、そう感じたから。僕は君との日々を楽しく、妄想していた。仲良く手をつなぎ歩く僕と君。
君の言葉、僕はなにも返せず固まった。すると君は、突然立ち上がって僕の手を掴み、そのまま引っ張り上げる。僕はなんの抵抗も出来ず、立ち上がる。ちょうどそのとき、電車が駅に停車、音を立てて開くドア、君は僕を強引に駅のホームへと引きずり降ろした。そして今度は、ドアが音を立てて閉まった。
電車が走り去り、降りた乗客が駅の外、ホームは少しの静寂。君は僕にもう一度、ありがとうを言った。今度は僕、きちんと答える。うぅん、いいんだよ。
それから二人、手をつないで歩き出す。なんだかとても自然で、僕の胸が、いい感じにドキドキしていた。心地よい緊張感。嬉しいドキドキ。
改札を抜けた二人。ゆっくりしたいねって君の言葉。目の前の喫茶店に入っておしゃべりをした。そこで君のことを、たくさん知った。君の過去も、本当の性格も、短すぎる僕との時間、それに対しての僕への想い。君は僕に気があるという。僕はますます君に夢中になる。僕も君に気があったから。
どんな話をしたのかは覚えていないけれど、話の勢いで二人、映画館へ向かった。二時間後、映画館の入っていたビルの中、少しだけ洋風のレストランで食事をした。その後は街をブラブラ、可愛いお店を見つけては中に入り、気に入ったものがあれば買ったり、ただ見るだけで買わなかったり。なんだか疲れたねって君は、僕を引っ張り少しの早歩き。向った先は、派手な色の建物、ラヴホテルだった。休憩しようよって君が言い、結局そのまま朝まで二人きりで過ごすことになった。
本当に楽しい日だった。君との時間はアッという間に過ぎていく。けれど不思議だ。その日を思い出す映像は、いつでもゆっくりと流れる。一日のことを思い出し、頭に描くだけで、十日は時間が過ぎていく。僕は君との間に愛を見た。君もそうなんだと信じ、そうであることを確認した。
無断で仕事を休んだ僕と君。どうして連絡をしなかったのか? 簡単なことだ。二人とも、仕事のことなんてすっかり頭から消えていただけのこと。出会いの日から一週間、僕と君はいつでも二人きり。当然というべきか、二人は仕事をクビになった。お互いの会社からの電話。二人はそのとき初めて、自分が仕事をしていたことを思い出した。
遊んでばかりの僕と君は、見つけたばかりの愛を育てるのに必死だった。毎日一緒に寄り添い、夜を共にする。そしてその結果、君は妊娠した。
僕は困った。仕事がなくお金もない。そんなこと、どうでもいい。けれど、僕には夢がある。やりたいことが盛りだくさんだ。特別熱くなれるものはまだ見つけられていなかったけれど、とにかくなにかをして世界一になりたいという夢だけは溢れていた。それを続けるため、君の存在はプラスになると考えた。君が側にいるだけで、夢へのアイディアが溢れ出す。真っ直ぐ進む僕を、君はしっかりと支えてくれる。僕は本気でそう感じていた。
けれど新しい命、それは負担にほかならない。新しい命を守り育てることは、中途半端ではできないことだ。当時の僕には、ありえない現実だった。
だから僕は、精一杯考えた。君との日々は僕にとって初めての、最大の幸せ。この幸せを、長く続けるにはどうすればいいのか? 新しい命を絶つ、それも本気で考えた。けれどできるはずがない。新しい命に罪はない。そして新しい命には、明日へとつながる最大限の幸せがある。僕はその幸せを夢見ようと決意する。それまでの夢を捨て、君との幸せだけを膨らませていくことを選んだ。それはとても簡単な決断だった。君さえいれば僕は、他のことなんてどうだっていいんだ。お腹の子供のことも、って一時は感じていた。
今さらいうべきではないけれど、以前の僕の夢なんて全く意味がなく、つまらない。捨てるなんて簡単だった。というよりも、それを本気で夢だと思い突き進んでいた僕に虚しさを感じる。世界一の男? 君との出会いで僕は知った。誰もが世界一なんだって。僕にとって君は世界一。君にとっての僕も当然、世界一。
だから僕は簡単に、夢を捨てた。というよりも、僕の夢は叶ったんだ。そして僕は、もう一つの夢を得た。
君と新しい命、その二つとの生活が僕の夢になった。僕は風景画のような家庭を描く。それが退屈な平凡と結びつくことを知っていながら。平凡こそ幸せなんだって、本気でそう思えた。君との平凡。新しい命との平凡。それはなんて素晴らしいんだと感じた。
僕は新しい仕事を探し、それまでの夢に関わる全てを捨て去り、君にプロポーズをした。君は顔をクシャっと飛び切りの笑顔を見せ、快く承諾した。けれど翌週、君は泣きじゃくる。なんの連絡もなしに突然僕の前に現れ、僕の胸に顔を埋め、僕の肩をドンドンと叩き、身体を震えさせながら声を出し、涙と鼻水で僕のシャツを濡らした。
流産。とても重たい響きの言葉だ。
ゴメンね、ゴメンねと、君の声が震えていた。僕は言葉を失い、思考をとめた。そしてただ呆然と、力なく君を抱きしめた。
その日の僕と君は、なんの言葉も交わさず、ただ手を握り、抱き合った。二人で朝まで僕の部屋。僕も君も頭の中で色々な想いをめぐらせていた。
僕の出した答え。現実を受け入れる。僕にはどうすることも出来ない事実。とても哀しくて辛いことだけれど、それでお終いじゃない。僕と君はこれから先、前に進んで生きていかなければならない。一度捨てた夢を、この現実の重みから逃げるためにもう一度、なんて思わない。僕は二度と、自分勝手で中途半端な夢は見ないと誓った。そのはずだった。
けれど、君の出した答え。僕と別れて一人きり、全てを忘れてやり直す。僕との結婚はなかったことに、新しい街に引っ越して、現実から逃げ出したいという。
僕はすぐに怒鳴りつけた。ふざけるな! そして君を強く抱きしめ、耳元で囁く。僕は決して君を嫌いになんかならない。哀しければ泣けばいい。君の側には僕がいるから。僕と君はずっと、一緒なんだ! 君の哀しみを、僕はしっかりと受け取ったよ。そういって僕は、声を大きく泣き出した。
現実を受け入れるって、口でいうのは簡単だけれど、心の苦しみは想像を絶する。しょうがない。この言葉は、決して後ろ向きなんかじゃない。終わったことはどうにもならない。だから前に進むしかない。哀しみを心に受け入れて前進あるのみだ。そんな意味が込められている。
僕はさらに君への愛を膨らませる。僕のちっぽけな夢はおさらば。君だけを愛し、君との家庭を築いていく。僕の新しい夢が生まれた日。それは僕にとって、本気の、心からの夢だった。僕にとってはこれ以上の夢はない。今でもそれは認めている。けれど… やっぱり夢って、退屈だった。

六時半、トイレの中で電話をかける。奴は準備万端に僕からの合図を待っていた。僕の家から数百メートル離れた位置で、怪しまれることのないように、コンビニの前で待機する。屋根の下、雨宿り。梅雨時のこの時間、大きな雨、カッパに身を包みバイクに乗る。不自然ではないけれど、奴が目立てばいいなと、僕の考え。カッパを着てコンビニの前、運良くその姿でコンビニの中にでも入る。入らなくとも十分以上もコンビニの前で居座る。少なくも何人かが、奴の姿を目撃し、印象を残しているはずだ。
僕がかけた電話番号は、奴に持たせたプリペイド携帯。購入したのは数年前、妻と出会う以前に使っていたものだ。今日の計画を思いつく以前から持っていた。お金を払った分だけ使える、その考えが好きだった。けれど今は、妻との連絡を頻繁に取るようになってから、普通の携帯電話が便利だと感じて使っている。友達のあまりいない僕。妻との電話だけなら、とても便利なサービスがある。家族同士ならいくら電話をしても一定額。ありがたく利用させてもらっている。
捨てずに取っておいたその携帯を、奴に渡した。お金は残っていないけれど、電話を受け取ることはできる。勿体がない、それだけの理由で僕は秘密の隠し場に閉まっておいた。妻にも内緒にしていた。可能性はないけれど、浮気をしたときに使えると、浅はかで情けのない考えも少しばかりあったのは認めざるをえない。そこはバイクの座席の下、ここなら妻は絶対に開けることがない。僕は毎日、バイクと共に生活をしている。妻とよりも長く一緒に同じ場所にいる。
計画を思いついたのは今年の春、つい最近の出来事だ。突然の嵐、我慢の二十分間。会社を出る前の帰るコールをかけ忘れてしまった。ゆっくりな帰り支度、カッパを着る時間、雨のためにスピードを緩める。それぞれ五分の遅れだ。普段よりも十五分遅い帰宅。妻は少しの心配をしていたけれど、なんの疑いもなく僕の帰りを待っていた。開けっ放しの玄関。バイクの音を聞きつけ、玄関先でタオルを手に息子と二人、僕を待つ。
ただいま! お帰りなさい! 何気ない会話の奥、僕は恐怖を感じた。もしも僕が見知らぬ他人だったら? それがもし… 間違いなく妻と息子は、危険にさらされる。なんの抵抗もできず、なんの抵抗もせずに、幸せの一時が一瞬にして恐怖の刹那にとって変わる。そんな姿を想像する僕は、狂っている。
帰るコールをかけ忘れる。それはよくあることで、妻はなにも気にしていない。それでも最初のかけ忘れに、妻は異常なほどの心配を見せていた。どうして電話しないのよ! いつ帰ってくるか心配していたのよ! バイクで事故でもって思ったじゃないのよ! それに、料理や子供の都合があるんだからね!
けれど妻の心配は、一度きりだった。二度目にはもう、いつものこと。またか! でお終い。まさかの予想外の出来事は、当然予想はしていない。雨でいつもより帰りが遅くなっても同じこと。妻は僕の帰り時間を経験からわかっている。僕からの帰るコールなんて、必要ない。それでも続けている理由はただ、妻を愛しているから。
幸せって退屈だ。平凡って疲れる。そう感じたのは、妻と息子の幸せな無邪気な笑顔を見ている時だった。その笑顔に僕は、騙されている。そう感じてしまったんだ。けれど実際は、妻との結婚からずっと感じていたことなのかも知れない。僕は不満を心の奥に、幸せを演じて、幸せで真実を塗り隠して生活していた。と、今では実感している。
好きでもない仕事を毎日。会社では嫌なことばかりだ。十一時間の地獄の苦しみ。家についてからの幸せは、癒しと同時に恐怖を伴う。この幸せは、いつまでも続くもんじゃない。家と会社とのギャップはそれを大きく実感させられてしまう。
仕事を辞めたい。お金は欲しい。全ての時を家族とすごせないのなら、家族を消してしまえばいい。僕の心の中にだけ、永遠の家族をしまい込む。そして僕は、心の中の家族と共に、自分勝手な夢を見る。
そんな馬鹿げた思いは膨らむばかり。僕は本当の幸せを掴むんだ。平凡を心の中に、夢を外に拡げて生きていく。お金の心配? それは簡単だ。妻と息子が僕のために、必要以上の大金を用意してくれる。
けれど一つの問題がある。僕が考えついたこの計画では、決して僕の手を汚してはいけない。血塗れの愛は絶えられない。なにか方法を、実際に手を汚す誰かをと考えた。答えは簡単だった。僕のこの計画は、奴との出会いからうまれている。
会社の帰り、僕の隣を奴が並走する。僕と同じ形で、同じ色のバイク。その日は雨の帰り道、奴は僕と同じカッパを着ていた。その並走は、一度ではなかった。奴は必ず、僕に顔を向ける。僕の視線と奴の視線が重なる。
こんにちは! よく会いますね! 精一杯の空元気で、話しかけたのは僕からだった。
誰だ? お前! 奴は笑顔を剥き出しにそう答えた。
会話はそれでお終い。僕は続きの言葉を失う。奴の攻撃的な口調に、突き刺さる視線。僕にどうしろというのか。
けれどなぜか、僕は奴への興味を隠せない。気持ち悪いほどの髭面。ヘルメットからはみ出す気持ちが悪く縮れた長い髪の毛。奴のヘルメットは僕と同じ色形。そして同じようにボロボロだった。なんだか黒いシミで汚らしいズボンと皺だらけのシャツ。口から漏れる言葉と息が泥臭かった。奴は僕が求める理想にピッタリだ。
僕が奴に話しかけた理由は、悔しいけれど僕の意思だけではない。奴の醸し出す雰囲気。わざとらしく僕の隣を離れない嫌味な並走。目が合ったのは偶然なのか? 奴は常に僕に顔を向け、家から会社までの三分の一もの距離を並走する。それが一週間、毎夜続いた。僕が話しかけたのは金曜日。奴との出会いは僕が恐怖を感じた雨の帰り道。その日から僕の頭はおかしくなり、新しい夢への想いを膨らませていった。
赤信号で待っている時、僕は奴にプリペイド携帯を手渡した。なにも喋らず、携帯を持った右手を突き出し、アゴも同時に突き出す。
なんだこれ! 俺にくれるのか! 奴は車の騒音に負けない大声を出す。そしてぶっきらぼうに携帯を手に掴み、素早く懐に滑り込ませた。
奴は僕の顔を見て、ニヤッとした。剥き出しの歯は、所々黒く、全体が黄ばんでいる。僕は奴に一言、後でそれに連絡するから、とアゴを奴の懐に向けて突き出した。
僕の意思が伝わったのかどうか、奴はもう一度、歯を剥き出し、ニヤッとした。
その日の夜中、妻と息子が完全に寝入ってから、一人静かに外に出て携帯のボタンを押した。僕は面倒が苦手だ。なんの前触れもなし、挨拶さえせずに計画の全てを話してみせた。奴がどう反応をするのか、それを見たいとも思ったからである。
奴は黙って僕の話を聞いてくれた。そして、少しの沈黙をつくり、一言放つ。いくら貰える?
夜中の電話にも関わらず、奴は少しも不機嫌さを見せなかった。僕からの連絡を待っていたかのようにも感じられる。電話を受けるまでの時間、たった一言の受け答え、僕の気持ちを落ち着かせる絶妙のタイミング。奴はおそらく、全てを計算していると思われる。
僕からの奴への報酬は、計画終了の半年後の約束だった。妻と息子が残す予定の半分、それが僕の精一杯だ。半年間の猶予はあらゆることへの安全のため。それまでの間、僕と奴は、以前と同じ関係に戻る。仕事帰り、別の道から一つの道へ合流し、寄り添い走り、また別の道へと消えていく。連絡は僕からのみ。奴は僕への連絡手段がない。プリペイド携帯は受信専用になっていると奴には伝えた。プリペイド携帯がどんなものなのか、奴が知っているとは思えない。奴に新しいカードを買うなんて知恵は、絶対にないと思われた。そして当然、僕からの連絡は、非通知設定にしてある。番号を教えるなんてミスはしない。
僕の想像だが、奴は僕を誘っていた。僕の心に溜まっていた不満を、どうしてなのか奴は感じ取り、爆発へと誘導する。奴と顔を合わす度、僕の心はよどんでいった。初めて掴んだ夢。平凡な幸せに抱いた疑問。奴との偶然から、膨らみは増すばかり。
奴の瞳は、いつも不気味に輝いていた。サングラス越しからも伝わる不気味さ。そのサングラスは、僕が以前に使っていたものと同じメーカーで同じ形。僕は今、サングラスを使っていない。以前のものは、ネジが一つ緩んで、右の柄がプラプラ揺れている。
奴の顔は、よく見ればかなりのいい男だ。髭を落として綺麗にすれば、なんとなく、僕に似ているかも知れない。
奴への依頼は、とても簡単だ。奴の答えもまた、とても簡単だった。僕の代わりに、僕が帰る予定より五分早く僕の家に奴が行く。僕と同じバイク。同じカッパ。そして僕の夢を打ち砕く。僕はゼロに戻り、新しい夢を見る。平凡は退屈だから、複雑な夢を見る。叶うその日まで、今度こそはと諦めずに夢を見る。どうせ中途半端になることを知っていながら。
奴の問題は、金次第。金のためならなんでもやる、と僕の想像だ。仕事として実行するのはこれが始めてと思われる。けれど、個人的には何度もこなしているはずだ。今まで無事でいられた理由は、奴の行動は全てが衝動的だったからだ。証拠を残さなければ、なんのつながりも見せはしない。その濁った瞳が捉えた、不安に付け込んでの犯行。奴の大好物は、他人の不安だ。不安を抱えた人を弄ぶのが最大の楽しみ。そして僕は、奴にとってのターゲットだった。奴は僕を狙い、来たるべき衝動を待っていた。けれど奴の興味はズレていく。僕の不安に、普通とは違う色を見てとったからだ。それからじっと僕の様子を観察し、僕からの行動を誘った。それは初めての体験だ。奴は自ら動くことを抑制し、相手からの動きをジッと待つことを選んだ。その相手が、僕だった。
奴の衝動は二段階。第一の衝動は、獲物を探し当てるときに訪れる。奴は臭覚の感じるままに獲物を探す。特別に街を徘徊なんて面倒なことはしない。普段通りの生活の中で嗅ぎ当てる。こいつだ! と心をときめかせる瞬間が、待っていれば必ずやってくる。
第二の衝動は、現実の行動へと移るときに訪れる。それは普段と同じ生活の中にある。獲物との出会いを強要はしない。その理由は、獲物との接点を見えにくくするためと、素直な衝動に従うためた。獲物との少ない出会いの中、後はただ、衝動が起きるのを待つばかり。奴は決して計画を立てない。計画された行動には、必ず穴がある。今だ! と思った瞬間、思った行動をするばかり。
奴にとって、僕からの仕事は新しい挑戦だった。危険は伴うけれど、得るものも大きい。奴は大金を手に、なにをするつもりだ? どこかに身を隠し、獲物を狩る毎日か? それとも普段通りの生活を続けながら、獲物を狩る毎日? どちらにしても、僕には無関係だ。奴の人生は、ろくでもない。
奴の心は、僕には見えないけれど、きっとこんなもんなんだ。あの瞳、あの顔、ろくでもないのは間違いない。奴は絶対に、法を犯している。あくまでも僕の想像だが、それだけは確かだと思われる。奴は僕とは少し違い、法廷速度の三割増で走っているから。

携帯電話を手に取り画面を覗くと、七時ちょうどになっていた。僕は仕事を終えて掃除を始める。会社の時計を見ないのは、ただに偶然だ。この日の僕の仕事場からは、時計が見えなかった。ただそれだけのこと。深い理由なんてない。世界の物事は大抵がそうなんだ。理由なんてなく、世界は回っているんだ。
僕は急いで、けれど丁寧に掃除をする。いくら掃除をしても、次の日には元通りなのは承知している。それでも普段から掃除をしているが、僕は明日、会社を休む。おそらくはそのまま、会社を辞める。だから少しだけ、いつも以上に丁寧な掃除をする。
退社の理由は、精神的な問題。今起こりつつある事件に対してのショック。耐え切れず、仕事への気力を無くす。それが僕の考えたシナリオだ。
帰り支度を始める。カッパを着込み、タイムカードを押す。僕の携帯電話の画面が七時九分を示している。妻への電話をかけ忘れる。エンジンをかけ、ゆっくりと安全運転。必要以上にスピードを緩める。タイヤがスリップして危ない目に遭ったのは一度や二度じゃない。
バイクでの事故は不公平だ。車とは違い、すぐに地面に放り出される。怪我の度合いも増し、死への危険も高くなる。僕の怪我は、頭を四針、唇を五針、足に十円玉の穴が開き、全身を打撲。その程度ですんでいるのが幸いだ。入院経験も骨折もない。反対車線に放り出されても対向車に轢かれたことはない。僕はラッキーだ。反面、それがいつまで続くのか、次への恐怖が一杯でもある。
会社を出て十五分、高速道路の高架下で立ち止まり、奴に連絡を入れる。五分後に決行、僕が帰るその前に仕事をすませ、立ち去ること。後の連絡は半年後、それまではごゆっくり、お互いの無事を祈る。
奴は無言で頷いた。ように感じる。電話口の向こうで、奴の唇が緩むのを感じられた。奴は電話を切らず、バイクにまたがりエンジンをかける。奴の動き出す気配を感じ、僕も家へとバイクを走らせる。電話は切らずにそのまま、音声を表に出し、カッパの内側の、作業着の内ポケットにしまう。聞こえるはずのない物音に、僕は耳を澄まして家へと向かう。
七時二十五分。奴は今、僕の家。激しい雨音の中、かき消されそうなバイクの音を聞きつける妻と息子。僕の帰りを待ち遠しく、息子は玄関とリビングを行ったり来たり。バイクの音に反応をし、料理をしている妻に合図する。エプロンの紐を引っ張り、チャッチャッ! 妻は料理を止めて玄関へと走る。
鍵のかかっていないドアが開く。カッパ姿の奴に気づかず、妻はやさしい声でお帰りなさい! 雨の中大変だったでしょ、今日はでも、少し早いのね。お風呂沸いてるから、先に入ってね。
手に持っているタオルで、身につけたままの状態で濡れたカッパの雨粒を拭う。妻はまるで気づかない。奴の身体つきは、驚くほどに僕とそっくりだ。バイクを運転するときの曲がった背中まで、僕と同じだった。
妻は奴に対して、その日の出来事を楽しげに口にする。息子のこと、友達との電話のこと、テレビの中のこと。
奴はまるで無反応。妻はアレッ?と感じる。いつもの僕は、妻の話を黙って聞くだけなんてありえない。妻の話に耳を傾け、自然に会話を重ねていく。
どうしたの? 具合でも悪いの? 妻はわざとらしく心配そうな声を出す。奴はなにも答えない。疲れているとき、寂しいとき、妻にかまってもらいたいとの想いから、僕はたまに、そんな冗談をする。わざとバカな態度をとり、妻の心配を誘う。けれど妻は簡単には騙されない。
もう! またふざけているの? やめてよね、そんなバカ! 怒りをのぞかせながらも、半笑い気味の妻の言葉に、普段の僕は素直を取り戻す。けれど今、そこにいるのは僕じゃない。奴はその言葉を合図に、ポケットから包丁を取り出す。それは僕の家にあるものと同じメーカーの同じ形。そして、ズバッ! 少し大きくなった妻のお腹に、ひと突き。
ハゥッ! 叫びにすらならない妻の呻き。突然の出来事と痛みに驚きの表情が顔全体に拡がる。そして必死に息子を守ろうと、本能で動く。すぐ後ろで立つ、チャッチャッ言葉を発しながら笑顔を見せる息子を足で後ろに追いやる。息子に顔を向け、なにかを叫ぼうとしている。けれど言葉にならない呻きだけが頼りなく漏れるばかり。苦しみの吐息で精一杯。奴はそんな妻に対し、何度も何度も、包丁を突き刺す。お腹だけでなく、背中や腕、喉元など、顔をのぞいたあらゆる場所に、何度も何度も。
アナタ誰なの? 主人じゃないわよね…
妻の口が動く。僕には聞こえる、心の声。
大量の血を流しながら、妻は奴へともたれかかる。後ろに倒れることは負けを意味している。息子を守るためには少しでも長く奴の前に立ちはだかなければならない。妻は動くはずのない身体を気力で動かす。
けれど、息子にはその必死の想いが伝わらない。妻の足に抱きつき、飛び散る妻の血を全身で浴び、チャッチャッ叫び笑っている。
誰なの…
妻の掠れ声が漏れる。けれどおかしい。喉をかき切られ、声など出るはずはない。気力だけで声を出す。
奴はまだ、妻へと包丁を突き刺し続けている。妻の身体はガックリと、両手をブラ下げている。お腹から、まだ人の姿には成りきれていないなにかが垂れ下がっている。僕の娘、トカゲのようでもあり、猿のようでもある。生まれたばかりの息子よりもだいぶ小さなその身体。奴はその娘に対しても包丁を突き刺した。
包丁を持っている右手を頭上で止め、左手で僕の妻を横に押し退ける。お腹から垂れ下がる娘。首から斜め下、横っ腹の皮を少し残して半分に切り裂かれている。血だらけの身体、それでも必死に奴を睨んでいる。奴は当然気にもしない。けれど娘は、確かに奴を睨みつける。僕にはそんな気がしてならない。娘の想いは、奴には届かない。奴は左手を伸ばし、息子の左腕を掴み取る。
やめて… この子だけは…
妻が搾り出す、最後の言葉だ。しかし奴の耳には届かない。息子はいまだに笑っている。恐怖なんて微塵も感じていないでいる。自分の置かれている現状を理解していないようだ。
ハァ、ハァ… 妻の呼吸が微かに聞こえる。最後の力を振り絞り、立ち上がる。そして、壁にもたれかかる。右手を伸ばし、奴のカッパに、顔を隠しているフードに手を伸ばす。奴はカッパのフードの下にヘルメットを被ったままだ。雨の中だというのに、サングラスもかけっ放しでいたようだ。右側が少し、垂れ下がっている。妻はそれを、ヘルメットとサングラスを取り外そうとするが、そこまでの力は残っていない。ヘルメットに手を触れ、少しずらすのが精一杯。けれどそれで充分だった。僕は髪の毛を肩まで伸ばしている。奴には髪の毛がない。黒い塩粒がバラ撒かれている地肌が覗けた。いつの間に刈上げたのか、奴の頭が、虎刈りになっている。
妻の苦痛が目に見える。その顔が、無念の笑顔に染まった。犯人が僕ではないと確信しての安心だった。けれどその笑顔が、一瞬にして崩れる。
グサッ! グサッ! 奴は包丁を妻の顔に突き刺す。それまでは綺麗なままの妻の顔だった。奴は意識をして顔だけは傷付けないようにしていたようだ。妻の顔は、異常者の奴から見てもいい顔をしているから。けれど奴は、恐怖の只中にありながら、妻が見せた満足の笑顔に、怒りを覚える。妻は頭をガクッと、意識を失う。奴は妻の息が完全に途絶えてからも、笑顔の残る顔に向けて、何度も何度も突き刺し続ける。
七時二十七分、信号待ちの僕は、ポケットから携帯を取り出し確認する。ここから家までは後三分。予定通りの時間経過だ。僕の胸は高まる。僕はもうすぐ、本音の夢を取り戻すんだ。
奴は妻を突き飛ばす。そして倒れた身体に近づき、持ち上げ、息子の頭を超えて奥の壁に投げ飛ばす。
ドカンッ! 妻の体が壁にぶち当たる。突然の衝撃音に、息子は驚き、泣き叫ぶ。
ウェーンウェーンウェンウェン!
奴は息子に対して少しの情も抱かない。無表情のまま、首をスパッ! 一度高く舞い上がった後、転げ落ちる息子の首を、奴は空中で捕まえる。そしてその首を、二階へと上がる階段の、上に向って放り投げる。包丁を床に落とし、玄関から外へ。バイクのキーを回し、走り出す。数十メートル先で、僕とすれ違う。奴は僕の顔を覗き込み、汚れた歯を剥き出しニヤッとする。

家の前、バイクから降り、座席の下を開ける。僕はいつも通りにドアを開け、ただいま! 近所に聞こえるほどの元気な声を出す。それと同時に目に飛び込む惨劇の残骸。
ウワァー! ウゥワァー!
僕の悲鳴が町中に響き渡る。僕は本気で、驚きと哀しみを感じた。こんな現実は、酷すぎる。僕が待ち望んだ夢が、この先に待っているとは到底思えない。元の顔が分からないほどにズタズタの妻は、身体のいたるところから血が吹き出している。お腹からは、血まみれで身体を二つに引き裂かれている娘が垂れ下がっている。床や壁も血に染まっている。そして、僕の目に飛び込む最悪の現実。
首から上のない小さな身体。首の切れ端から、噴水のように血が噴き上がっている。
僕は叫びを失った。
コロコロコロコロ・・・・
階段からなにかが転げて落ちてくる。
笑顔が固まった息子の顔が、丸い頭が綺麗な音を立てる。息子の笑顔には、一滴の血もついていない、綺麗な笑顔だ。それがなぜなのか、不自然なほどの綺麗さを保っている。まるで誰かが拭ったように。
僕は転がる息子の頭を足で止め、拾い上げる。そしてそれを、血が噴き上がる首の切れ目に乗せる。
息子の身体を妻の側へと寄せる。僕は二つの身体に挟まって、引き裂かれた娘と共に四人で仲良く丸くなる。
ウッ、ウワァーワァー!
涙が止まらない。
一時間、僕は泣き続けた。その涙は、偽りではなく、心の底から溢れ出てきたものだ。冷静を取り戻すのに、一時間は短い。けれどこのままじっとしているわけにもいかない。警察に電話をかけて、僕は自由になるんだ。
内ポケットの中、携帯電話を取り出す。妻が殺された。息子が殺された。お腹の中の娘も殺された。僕は動揺を隠さない。震える声で、住所と名前を告げる。
家の中は、不気味なほどの静けさに支配されている。、今の僕には耐え難い。妻と息子の笑い声、遠く耳の中に消えていく。僕はじっと、三人の間で警察を待っている。退屈だ、独りがこんなに退屈だなんて、知らなかった。これから僕は、自由になる。本気の夢に生きることができる。それは僕が望んだこと。嬉しいはずのこと。けれどなぜ? 哀しみが、苦しみが、襲い掛かる。今更だけど、息子の声を思い出す。
パトカーの音が、遠くに聞こえた。僕は洗面所へ、涙で歪んだ顔を整えようと考える。洗面台の、鏡の前に立つ。僕の顔が、血だらけだ。真っ赤に染まったカッパ。ズレたヘルメット。右側が垂れ下がったサングラス。見当たらない髪の毛。黒く散らばるゴマ粒。僕はそこに左手を乗せる。ザラザラの感触、真っ赤な血が頭にベットリ。左手を鏡に向けて突き出す。真っ赤に染まっている。そして僕は、右手に目を落とす。そこに握られている、血が滴る包丁。僕の顔が、ニヤニヤ歪んでいる。

妻と息子を殺した奴は行方不明だ。僕が握っていた包丁に、僕と妻以外の指紋はなかったという。警察は僕を疑っている。僕はこんなときのために、奴のバイクのナンバーを覚えていた。あの4979。警察は僕の話を信じない。
僕はやっていない。愛する妻と息子を、僕が殺すなんて、ありえない。
けれど現実に、僕のバイクの中から、切り落とされたビニール袋に入った僕の髪の毛が見つかった。そして僕のノートも。
僕のノートは警察が持っていってしまった。その内容を、僕は正直覚えていない。浮かび上がるアイディアを書き記しただけだと思っていた。けれど警察は、そうだとは思っていないようだ。この日の計画が、克明に記されていると考えている。
奴の存在を、誰も信じてくれない。雨の日に、同じ時間、同じ色のバイク、同じカッパ、二台が並走していたんだ。目立たないわけがない。けれど誰一人知らないという。通り道のガソリンスタンドの店員も、僕のことは見たことがあるらしいけれど、もう一人に覚えはないという。雨の日に、カッパを着込み一人で走る僕を見たという。そしてそのバイクは、雨でもかまわず、普段通りに無茶なスピードで走り抜けて行ったという。スタンドの店員がいうには、僕は信じられないほどの無茶な運転をしていたらしい。
コンビニの不審な男を、店員が覚えていないなんてありえないと思った。けれどやっぱり? 覚えていないという。その日のその時間、バイクでやってきた客はただ一人だという。店の前でバイクにまたがり雨に濡れたまま、携帯電話でなにか大声で叫んでいたという。僕はそれが奴だと主張した。けれど警察は、その客を僕だと決めつける。
僕は思った。奴の電話番号がある。そこにかければいいんだ。警察に知らせると、警官の一人がポケットから携帯を取り出し、奴へとかける。
トゥルルルー、音が聞こえる。すぐ近くからだ。どうして? 僕の疑問に警官が答える。ジップロックのような袋に入ったプリペード携帯を、僕の目の前に掲げる。僕は言った。それが奴の携帯だと。しかし警察では違うと判断したようだ。僕のバイクの中から見つかったという髪の毛の入ったビニール袋の中から、そのプリペイド携帯が見つかったろいう。しかも、そのプリペード携帯は、時計が十五分早く進んでいるという。
この日の僕のタイムカードは、いつもより十分も早い時刻が刻まれていた。中途半端な時間に帰る僕に対し、社長は不思議に感じたらしいけれど、話しかける言葉を失っていたという。その理由はちゃんとある。仕事途中にトイレに行った僕、出てきたらそれまで伸びていた長い髪の毛が消えてなくなっていた。手には髪の毛の束が握られていたという。社長はトイレを確認し、僕の髪の毛の残骸、ハサミ、剃刀を見つけた。
社長がいうには僕、最近の様子がおかしかったらしい。髭は伸ばしっ放しで、仕事中には不可思議な独り言をいう。その目つきも、虚ろであやふや。
僕は必死に奴の存在を訴える。どうしたら分かってもらえるのか。そうだ!と思いつく。奴は僕に金を要求していた。僕はそのために、妻と息子に保険をかけている。警察はその話を聞いて確信したらしい。保険の受け取り人は僕、犯人は一人しかありえないらしい。そんなわけで、僕は警察に捕まった。
警察の一人が、僕が伝えた奴のバイクのナンバー、その持ち主の名前を教えてくれた。聞き覚えのある名前だった。僕が眠るベッドの枕の上、鉄の柵にぶら下がっているプレートに書かれている名前と同じだそうだ。僕が主張している奴の存在は、どこを探しても見当たらないと言う。
僕の罪は、一つじゃなかったようだ。妻と息子のほかにも、多くの犠牲があったらしい。僕が通う会社の近くや会社までの通り道では、未解決の事件や行方不明事件が数多くあったという。その全てに僕が関わっていると警察はいう。その証拠は、僕自身がノートに書き記していたらしい。通勤途中や休憩時間の犯行だったらしい。社長も僕が休憩時間にバイクで出かけるのを目撃しているという。
そのノートに、僕はただ、日々の感情や頭に浮かぶアイディアを記していただけだ。昼休みや途中の休憩時間、バイクに乗ってどこかへ出かける僕。それのなにが悪い? 休み時間に僕がなにをしようが、自由だ。それが例え、どんなことだとしても、だ。自由な行動のなにが悪い?
そして僕は、病院送り。ここはとても気分がいい。僕が描く夢、それに向かって真っ直ぐに歩き出す。ここには平凡が備わっている。なにもしなくていい。これこそが自由なんだって感じる毎日だ。僕は少しの不満も感じず、幸せに夢を見る。ここにいればずっと、やりたいことを続けられる。絵を描いたり、詩や物語を創造したり、歌を歌って踊ったり、なにかを演じたりもする。誰にも邪魔されることはない。ここは真の理想郷だなにもかもが揃っている。僕は今、本当に幸せなんだ。これ以上を望む理由が見当たらない。
それでも明日、もっと幸せになれる。だって明日、妻と息子がここに来る。生まれたばかりの娘も一緒に。これからは四人、新しい幸せをつくっていくんだ。僕以上に幸せな人って、この世界にはありえない。僕は今、世界一の男になった。

雨の帰り道

雨の帰り道

狂気に満ちた男の物語

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-03

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