さよなら

君枝、今からお前の所へ行く。ここから離れる事を、許してくれ…
涙を目の中に浮かばせ、最後の言葉を言う木下清。ビルの屋上、柵の外の縁に立っている。そしてその足を、一歩前に踏み出した。

一、走馬灯

妻に先立たれたのは六年前。半年前には交通事故で息子達を亡くしている。
あれはなんだ? 私がいる。君枝がいる。時間の流れが妙に遅くなる。ビルから飛び降りたはずの私。これは走馬灯、時間の概念なんて通用しない。
ねぇ貴方、今でも私を愛していますか? 私は今でも、貴方を愛していますよ。病院のベットの上で、君枝が私に問いかけている。この時はただの過労という事で入院していた。君枝は本当の事を知っていたのかも知れない。自分の死期が近いという事を。だからこその言葉だったようだ。
…なに言ってるんだ。今更聞かなくても分かってるだろ? この時の私はえらく鈍感だったようだ。
そうでしたね… すみません、つまらない事を聞いて… 哀しそうに話している君枝の手を、私がそっと握る。この時の事、すっかり忘れていた。
貴方… 痛いですよ。そんなに強く握らないで下さいよ。君枝はほんの少し笑顔を浮かべてそう言っている。そんな君枝の言葉を聞き、私は涙を流した。そして突然、君枝を抱き締める。
どうしたんですか? 泣かないで下さいよ。私まで… 涙が零れそうになってきたじゃないですか… 君枝はそういうと、私の目を見つめ、涙を流す。
愛していますよ… 貴方の事は忘れませんからね。君枝は涙を零しながらそう言った。私はその姿を見つめ、泣くのを止めた。
場面は変わり、家の中。電話が鳴っている。娘の喜久枝が電話を取る。
はい、木下ですけど。一瞬で娘の表情が固まった。娘は黙ったまま相手の言葉に頷いているだけだ。そして電話を切ると、目から涙が零れ落ちる。
どうしよう… なんでこんな時にお父さんいないのよ… 娘は言葉を絞り出すようにそう言った。
私はこの時、馴染みの居酒屋に行っていた。その事を知らない娘は、あちこちに電話をかけ、私を探している。
何処に行ってるのよ… まったく。…もういいわ、私だけで行くから。誰にともなく愚痴を零す姿が、とても弱々しく感じる。
子供達を連れ、娘は出かける。この時の私は、何故だか家に帰る気がしなかった。戻れば良かったと、今でも後悔している。早く戻ったところで、その後の結果は変わらずとも、気持ちの上でだいぶ変わるというものだ。
夜遅く、誰もいない家に帰り着いた。久し振りに気持ち良く酔っ払っている。なにも気にせず、居間のソファーに横になる。電話が鳴り、陽気に受話器を取る私。酔っ払った自分の姿を眺めるのは、なんだか不思議だ。自分で感じていた以上に楽しそうにしている。
もぉしもしぃ、私は只今酔っ払っております。御用のある方は後程こちらまでお伺い下さい。それでは私、ソファーで一眠りしたいと思います。おやすみぃなさい。情けないセリフを情けない喋り方で喋るもんだなと感じるよ。我ながら情けないっていうのは、こういうことだ。
…お父さん、酔ってるの? いいから早くこっちに来てよ! お母さんが… お母さんがね… 娘の動揺が伝わってくる。私には娘の言いたい事が、すぐに理解できた。病院でなにが起こったのかも、分かりたくないことほど感じてしまう。
もしもし… お父さん? 聞いてるの?… 電話口から漏れ聞こえてくる娘の声。私は受話器をそのままに、家の鍵もかけず、病院へと急いだ。思いつくまま、走って向かう。
病院までの二キロの距離を走っている途中、頭に君枝の顔が浮かんだ。優しく見守ってくれていた君枝に、私はなにをしてあげた? 愛しているの一言を、何故言わなかった? 目から涙が溢れる。病院に着いた時には、汗と共に酒も涙も枯れ果てていた。蒼褪めた顔の中、目だけが真っ赤に充血していた。
どうしたのよ、そんなに息を切らせて… まさかここまで走って来たんじゃないわよね? 呆れた様子で娘がそう言う。父の慌てぶりに困惑してもいるようだった。大事な時に外で酒を呑み、知らせを受ければなにも考えずに走ってくる。心配するのなら、もっと母の事を考えて欲しいと感じる。傍にいてあげる大切さに気づいて欲しかった。そんな娘の思いが伝わってくるようだ。
母さんは… どうなんだ? 覚悟はしていたが、万が一を期待する自分がいる。常にそうだ。いつだって、万が一の希望は捨てたことがなかった。私が外でお酒を飲んだりするのは、そんな希望を持っているからだ。またお酒ばかり飲んでいて、身体を壊してしまいますよ。なんて君枝の言葉を聞きたかった。
…亡くなったわ。お父さんに電話する前にね。娘は意外と冷静を取り戻している。それはそうだろう。私の様子を見れば、自分がしっかりしないとと思うはずだ。スーツ姿で走った後の私の姿は、シャツは肌蹴てびしょ濡れで、緩めたネクタイがだらしなく、とてもまともには見えない。
私は妻の死に際を見れなかった。正直言うと、見送りたい気持ちと、逃げたい気持ちと両方を抱いていた。結果としては逃げ出してしまったが、結婚する前にしていた約束がある。お互いの死に目には二人だけの時を過ごそう。忘れずにいた約束だったが、果たす事は出来なかった。私が一人で死ぬ事を決意したのは、この日からだった。
喜一と喜久治はどうした? 連絡したのか? 少しばかり落ち着きを取り戻し、息を切らしながらだが、なんとか吐き出した言葉だった。
もうとっくに来てるわよ。お父さんだけよ、こんな時に何処かへふらついているのは。娘はそう言いながら、ほんの少しの嫌悪の表情を浮かべていた。
そうか… あいつ等も来ているのか… 私は自分が情けないという思いよりも、息子たちがしっかりしていてよかったなと感じた。
私には三人の子供がいた。長男の喜一は、仕事の都合上東京へ行き、恋人と同棲している。次男の喜久治は、結婚をして息子が一人いる。私の家から車で三十分ほどの場所に住んでいた。二人は殆ど家には帰って来ず、君江が入院していた時も、一度も見舞いに来なかった。と、私は思っていたが、現実は違っていた。私が家にいない時、こっそり訪ねていたようだ。病院にもそうだ。私には言わないでくれと頼んでいたそうだ。私はそのことを、つい最近まで知らなかったよ。喜久枝には二人の娘と一人の息子がいる。末の子が産まれる前に旦那に死なれ、私の家で一緒に暮らしていた。こうして家族全員が揃ったのは、久し振りだ。君江が亡くなった事を、少しばかり感謝したものだよ。
いつまでも落ち込んでいないで、少しは元気出してよね。お父さんがそんなんだと家の雰囲気も悪くなるし、子供達も元気をなくして困るのよ。哀しいのは皆一緒なんだからね、たまには外でも出て遊んでらっしゃいよ。娘がそう言った。君枝が死んでからのは私は、一人で外に出る事は殆どなかった。以前からも私がどこかへ行く時は、私の傍には必ずと言っていいほど君江がいた。お酒を飲みに出かけるのだって、君枝が元気な時は一緒だった。
しかしこの日は、娘にしつこく言われ、仕方がなく出かけることにしたんだ。昼間の一人での散歩は、行く場所なんて特別はなく、なにをしていいのかも分からない。ただ当てもなく歩いていた。そして、ふと目についたレコード屋に足を向けた。普段はそんな場所にレコード屋があることにさへ気づいていなかった。そこで私は、君江との思い出の曲、『アンフォゲッタブル』を手に取る。涙が滲み出てくる。ナット・キングコールの顔を、私の涙が濡らす。
時間が経つにつれ、君江の事を思い出す瞬間が少なくなっていた。哀しみを忘れた訳でも、記憶が薄れた訳でもない。後ろを振り返らなくなっていただけだ。君江が生きていた時には考えられなかった事だが、君江のいない生活に順応し始めていた。五年もの歳月が経てば当たり前なのかも知れない。それが現実なんだと思うと、やっぱりなんだか寂しいな。
もうすぐ兄さんと喜久治が来るからね。覚えてる? 紀理子さんも来るけど、分かってるわよね? 娘の口調がとても強く私にぶつかる。
次男の嫁の紀理子さんは、私とは何故だかそりが合わない。二人が顔を合わせると、その場の空気が悪くなる。私も紀理子さんも気を使ってはいるが、合わない人間と一緒にいるのは苦痛な事だ。それを態度に出してしまう私が悪いのは分かっている。この日はそうならないよう、いつも以上に気をつけようと思っていた。
はい、木下ですけど。娘が電話でなにやら話している。相手は紀理子さんのようだ。…そうですか、分かりました。すぐ行きますんで、待ってて下さい。そう言う娘の声が、なんだか不機嫌だった。
娘はすぐに車で出かけて行った。子供達は私と家に残ることにした。次男の車が動かないらしく、迎えに来いとの電話だったようだ。そんなに遠くないのだから、電車で来るなりタクシーを捕まえるなりすれば良かったんだ。そうすれば、あんな事にはならずに済んだはずだ。この日、後悔には意味がないと、身をもって体験することになった。
父さん? 喜一だけど、そっちに喜久治達は来てる? 待ち合わせた場所に来ないんだよね、家に電話しても出ないし、なにかあったのかな… 電話で長男がそう言った。
さっき喜久枝が喜久治の家に迎えに行ったぞ。もうすぐ着くんじゃないか? 暫く待っても来ないようだったら、もう一度連絡すればいい。私が迎えに行くから。そうは言ったが、なんだか嫌な予感がした。次男の嫁が車に拘る理由がわかった。長男との待ち合わせをしていたからだ。きっと、次男の嫁から誘ったんだろうと思う。次男の嫁はプライドが高いというかなんというか、長男よりも年上で、常に自分を優位に立たせようとしているんだ。そんなのに私は意味を感じないが、次男の嫁は感じていたようだ。
待ち合わせ場所に、娘達は着かなかった。十数分後にかかってきた警察からの電話で、交通事故で死んだと知った。乗っていた皆が、孫達も含め即死だったらしい。連絡を受け、私は言葉をなくした。一緒に行けば良かった… そんな想いは言葉にも出てこなかった。
おじいちゃん、ママは何処に行ったの? 孫の京香が聞いてくる。娘たちが亡くなって二週間が過ぎても、毎日同じことを聞いてくる。
ママは死んじゃったのよ。冷めた声で、姉の君香がそうこたえる。母親の愛情恋しく、末っ子の菊人が側で泣き出した。これも毎日の光景だ。
ここにママがいなくても、おじいちゃんはいるから。ママだって何処かで、菊人達の事を見守ってるんだよ。泣いてたらママに怒られるぞ。いつもお前達の側にいるはずだから… そう言いながらも、孫達と一緒に声を出して泣いている私がいる。本心から泣き、そう感じていた。今こうして死のうとしている事は、この瞬間には完全に頭から消えていた。三人を守って生きなければと思っていたんだ。
僕と一緒に東京で暮らそう。子供達も連れてさ。長男は週末になるとやって来ては、同じことを言ってくる。
断るよ… お前の気持ちは嬉しいけど、この家はどうする? ここを離れる時は死ぬ時だって決めてるんだ。どうせだったらお前が来い。そうすれば子供達も喜ぶだろうし、私もな… これは私の本音だったが、そうはならないと知っての嫌味の気持ちも含まれていた。
…そう。父さんの気持ちは分かったよ。僕だって本当はここで暮らしたいんだ。仕事さえなければ… そう言うと長男は、困ったような呆れたような、くたびれた溜息を吐き出した。
長男はいつも恋人の清美さんを連れて来ていた。子供達は清美さんになつき、清美さんも子供達を可愛がっていた。皆で一緒に暮らしたい気持ちはあるが、この家を離れるつもりはなかった。君江との思い出が詰まったこの家を、離れるなんて考えられない事だったんだ。
おじいちゃん、遊びに行くからね。おじいちゃんも遊びに来てね、待ってるよ。孫が二人、揃って声を出す。末っ子の菊人は、清美さんに抱かれ幸せそうだ。笑顔で私に手を振り、バイバイと言っていた。
色々と話し合った結果、子供達だけが長男と東京で暮らす事になった。こうする事が一番なのは分かっている。しかし私には、つらい現実だった。これで本当に、一人きりだ。
父さん、いつ来てもいいんだからね。なにかあったらすぐ連絡してよ。待ってるから… それじゃあ。そう言って右手を軽く上げた長男の声が、少しばかり嬉しそうだった。それもそうだ。長男が清美さんと結婚をしなかった理由は、清美さんが生まれつき子供の出来ない体だったからだ。長男はそんなことは気にしていなかったが、清美さんが気にしていたようだ。しかし、次男の子供達を正式な養子として引き取ることになり、結婚を受け入れたようだ。式は挙げないと言っていたな。
私は見送りをせず、部屋でレコードをまわす。悲しく流れる『アンフォゲッタブル』 私の想いは一つだけ。一人でここにいるよりも、息子や孫たちと一緒に暮らすよりも、君江の側に行きたい。死が現実味を帯びた瞬間だった。

君枝、私は今からお前の所へ行く。ここから離れる事を、許してくれ…
涙を流しながら私がそう言う。つい先程の出来事だ。これで走馬灯はお終い? 私は死ぬ? 哀しい出来事ばかりが蘇る。幸せだった頃は何処にいった? それが走馬灯? これが現実なのか? 私はもう、この流れを止められない。このまま死んでしまうのを待つばかり。

二、走馬灯の世界

貴方、どうしてこんな所に来たんですか? 君江の声が聞こえる。私に話しかけているようだ。貴方はまだ、ここに来るべきではありませんよ。戻って下さい。それが貴方の為なんです。
私はすでに死んだはず。これはまだ走馬灯? 思い出を通り過ぎ、隣には君江がいる。確かに私に対して話しかけている、現実の君枝がここにいる。
ここは何処なんだ? 私は何故ここにいる? 君江はここでなにをしているんだ? 私は思わず君枝に話しかける。
私はなにもしていませんよ。ここは走馬灯の世界、未練を残して自殺する人が来る場所ですよ。貴方は迷い込んだだけ。今すぐ出れば、まだ間に合います。いつもの君枝とは違う、強めの言葉が飛んできた。
君江は知っている。私が自殺をし、後悔し始めている事を。それを責めずに優しく話しかけてくる。私の後悔は募っていくばかり。
…ごめんな。絞り出した言葉は、あまりにも非凡過ぎる。
なにを言ってるんですか。貴方はなにも悪くはありませんよ。仕方のない事ですから。後悔しているのなら、すぐに戻ればいいんです。君枝の言葉がほんの少し、優しく変化した。
…もうすぐ死ぬ私に、戻る場所なんてない… お前ともせっかく会えたんだ。もう少しここにいても、いいだろ? 私は本心からそう言っている。君枝と一緒にいたくて、死を選んだんだ。今はまさに、その夢が叶っている。このままでいられたら、それは私にとっての幸せでもある。
そうですね… 私も嬉しいんですよ。せっかくですから、少しこの世界を案内してあげましょうか。微笑を浮かべてそう言う君枝は、いつもと少し様子が違う。
そんな君江に連れられ、私は走馬灯の世界を旅する事になった。この先に広がる世界は、私になにを与えてくれる? 絶望? 幸せ? 君江と出会えた事だけで満足している私には、どんなことになったとしても、今は幸せでしかありえない。
ここがどんな世界なのかを知っていますか? 貴方にとっては耐え難い世界かも知れませんよ。それでも本当にいいんですね? 君枝の顔から笑顔が消えた。
あぁ… ここは死ぬ前に見る世界なんだろ? 私はただここを通り過ぎればいいんだよな? それ以外になにがあるんだ?と、本気で考えている。
…それは違いますよ。ここは貴方が来るべきではない世界です。貴方はこれから今まで辿った道を歩くんです。ただそれだけの事… 君枝の声に、哀しみが滲んでいるのを感じる。
あそこにいるのは誰だ? 君江そっくりに見えるけど… 私は遠くに君枝の姿を見とめた。
あの人ですか? 貴方と出会う前の私ですよ。君枝は淡々とした口調でそう言った。そこに見える君江は、確かに若い。
すみません、木村高校に行きたいんですけど。若い君江が道行く人に尋ねている。相手にする人は誰もいない。すぐそこだよ。交番で聞いたら? 親切に教えてくれる人は一人もいない。
私はただ見ているだけだ。どう声をかけていいのか分からない。声をかけてもいいものなのか?
私はどうすればいい? このまま通り過ぎるだけなのか? 思った疑問が声になる。
そうですよ。話してもいいですけど、私以外は誰も答えてくれませんよ。あそこに見えるのは、半分は幻ですから。君枝の言葉は、とても冷たい。
私はなにもせずに見ているだけしか出来ないようだ。止まってはいけないと君枝は言う。歩いていないと消えてしまうそうだ。目の前に浮かぶ景色をただ、通り過ぎ、眺めることしか出来ない私は、とても情けない。
すみません、誰か教えていただけませんか?… お願いします、急いでいるんです… 君枝の必死な声は、虚しく街の空気に溶けていく。
泣きそうな声を出す君江の姿が、私の胸を苦しめる。見覚えのある場面だ。
どうかしたんですか? 若い頃の私が現れ、そう言う。君江と始めて出会った場面だ。
あっ、あの、木村高校まで行きたいんですけど… 若い頃の君枝は、驚きと安堵の表情を同時に浮かべてそう言った。
木村高校? あぁ、それならすぐ近くだよ。良かったら案内しましょうか? 若い頃の私が笑顔でそう言う。
道を行く若い二人。言葉は交わさなかったが、私は君江の雰囲気に一目惚れしていた。
本当にありがとうございました。助かりました。若い頃の君枝は、顔一面に感謝の気持ちを浮かべている。素敵だなって、今でもそう感じるよ。
若い頃の君枝は、深々と頭を下げ、学校の中へと入って行った。
この後の予定はどうするんですか? 良かったら食事でもしませんか? 私は若い頃の君枝の背中に大声でそう呼びかける。
…一時間ぐらいで戻りますから、その頃またここに来て頂けますか? 立ち止まり、振り向いた若い頃の君枝がそう言った。頷く私。笑顔を見せ、中へと急ぐ君江。青春を絵に描いたようで恥ずかしい。
教員免許を持っている君江は、この日は採用試験の日だった。面接を済ませた君江は時間よりも早く戻り、近くをふらついてた私を待っていた。食事をし、次のデートの約束をする。二人が愛を覚えるのに、そう時間はかからなかった。
清さん、私ね、お見合いする事になったの。何度目かのデートの日、君枝が恥ずかしそうに言った。
…そうか、頑張れよ。心にもないことを私の顔は、少し引き攣っているようだ。
君江が私以外の誰かと結婚? 想像も出来ない事だった。私はそれ以上言わず、君枝はお見合いに行くこととなった。
今だから言いますけどね、この時私、貴方と別れて結婚しようかと本気で考えていたんですよ。隣を歩く君枝がそう言う。心なしか怒っているようにも聞こえてくる。
…そうだったのか。だったら何故そうしなかったんだ? 今なら言えるだろ? 私はわざと無関心な口調でそう言う。
分からないんですか? この時はもう貴方以外は考えられなかったんですよ。勿論今でもそうですけどね。君枝の声が笑っているように聞こえてくる。私は君江と一緒になれた事を、今更ながら幸せに思う。
君江の実家の前、うろつく私が見える。
あれは私がお見合いに出かけた日の夜ですよ。貴方は心配で私を待っていたんです。隣の君枝の笑顔に、私は安心する。口ではどうでもいいような事を言っていても、内心は心配していた。その事は君江にも伝わっていたようだ。
どうだった? 相手の男、気に入ったのか? 帰ってきた君枝の姿を見て、私がそう言った。
えぇ、とても感じのいい方でしたからね。意地悪な笑顔を見せるなと今では感じるが、当時はまるでそうとは感じられなかった。そうか… 私は単純に落ち込み、項垂れた。君江は私が顔を上げるのを待っている。そして私の目を見つめる。
断ってきましたよ。…私には貴方という人がいるんですから。素直な笑顔で君枝がそう言った。
私は嬉しそうな顔でその場を立ち去る。見えなくなるまで私を見送る君江の姿が、そこにはあった。
この時は確か、プロポーズした日だったよな? 私のそんな言葉になにも言わずに隣で微笑む君江の姿がある。
君江! 外に出て来てくれないか? 大声で叫ぶ私の姿が見える。君枝の実家の前だ。
二階の窓から顔を出す君江が、…どうしたんです? ちょっと待ってて下さいね。なんて驚きの表情を見せている。
その日の帰り道、近くのタバコ屋の婆さんに紙と鉛筆を借り、その場で恋文を書き上げた。化粧を落とし部屋着に着替えていた若い頃の君枝に、私はなにも言わずにその恋文を手渡した。
結婚しよう 一緒に暮らそう いつまでも、愛してる
なんですか?… これは… 恋文を読んだ君枝の目が、丸くなる。そして、まん丸になった瞳から涙が零れる。隣を歩く君枝も、また泣いている。
どうなんだ? 若い頃の私が不安そうな声で聞く。
…宜しくお願いします。だけど… 手紙でこんな大事な事、ずるいですよ。少しの間を置いて、若い頃の君枝はそう言った。
隣で泣く君江に、私は不思議に思う。どうしたんだ? 感動のシーンではあるが、泣くほどのことなのかと私は思う。
いいえ、つい懐かしくなったものですから… 今でもこの時の事は嬉しく思っていますよ。君枝の気持ちが少し、伝わってくる。お互いの想いが通じたとの確信を持ったのが、この日だった。それ以前からも、通じているとは信じていたが、やはり言葉や文字に表すと、その実感は増すものだ。そんな想いが、私よりも君枝の方が強かったのだろう。
そうか… 私も嬉しいよ。こんなにも君枝が私を想っていてくれたんだと、今更ながらに感動をしている。そして自然と涙が込み上げてくる。この世界に来られた事、君江と会えた事、懐かしい思い出を幸せに感じる。
貴方、一つだけ聞いてもいいですか? 君枝の顔からは涙も喜びも消えている。
なんだ? 平静を装ってそう聞くが、内心では得も言えぬ恐怖を感じている。
何故自殺なんて考えたんですか? 貴方はそういう事を考える人じゃなかったですよね? 別に答えたくなかったら答えなくてもいいんですけど、私はとてもショックを受けているんです。君枝の視線が鋭く、私は目を反らす。
…もう耐えられなかったんだ。お前に死なれ… 息子達にも死なれ… 生きているのが苦しくなった… 本当に胸が苦しく痛む。
喜久治がいるじゃないですか。喜久枝の子供達もいるんです。きっと後悔しますよ。今からじゃもう遅いですけど。君枝の口調が一層厳しくなっていく。
分かってる。だけど… こうする事しか出来なかった。あの家にはもう、私しかいない。君江のいないあの家は、辛いんだ… お前に会いたくて、一人が耐えられなくて… そう言いながら、私は苦しく痛む胸を掴んだ。
だからって自殺なんて… 喜久治や子供達も今頃悲しんでますよ。君枝はそう言いながら、私を睨んだ。
私にはなにも言えない。君江の気持ちは正しい。私が馬鹿な事をしたのは分かっている。だけどこうする以外、どうすれば…
お腹を大きくした君江が苦しんでいる。
貴方… 早く絹さんを呼んで下さい 。お腹を大きくした君枝が、そのお腹を押さえて大きな声を出す。
どうした?… 間抜けな声で私が近づく。
どうしたじゃないですよ… 産まれそうなんですよ! 汗を流し苦しむ君江がそう叫ぶ。ただ慌てて、その場でそわそわしているだけの私が見える。
早く呼んで来て下さい! お願いしますよ… お腹を大きくした君枝の声に、少しの怒りと呆れが混じって聞こえる。それもそのはずだ。情けないと亭主を持ったと感じたことだろう。
言われるままに、私は絹さんを呼びに行った。絹さんは近所に住む助産婦をしている婆さんだ。子供達も私自身も、絹さんの手によって産まれている。
絹さん! 早く来て下さい! 子供が産まれそうなんです。私の声は、どこか他人事のようにも聞こえる。慌てているのを通り越しているといったところだ。落ち着いているようにさえ聞こえてくる。しかし内心の私は、その口調とは真逆だった。今にも発狂しそうで、誰もいなければ全力で走り出していたかもしれないほどの興奮状態だった。
初めての出産は、どうしたら良いのか分からず、予定日の一週間前から仕事もせずに落ち着かなかった。そんな私の態度を見て笑う君江は、意外なほどに落ち着いていた。
君江さん、元気のいい男の子だよ。絹さんの声は、
神々しい。
貴方、私頑張りましたよ。これで今日から仕事に戻れますね。予定より遅くなってすみませんでしたね。君枝の声もまた、神々しい。
…なに言ってるんだ。お前は本当に良く頑張ったよ。私の声は、まるで平凡だな。
そうだよ。それに少しぐらいね、遅れて出てきた方がいいんだよ。早く出て来るとせっかちな子になっちまうからね。絹さんの力強い声が部屋に響く。そんな絹さんの言葉に、笑い声を上げる私と君江。
絹さんを見て思い出したんですけどね、君香ちゃんは絹さんの生まれ変わりなんですよ。こっちの世界で知ったんですけど、世間って意外と狭いものですね。君枝が訳の分からない事を言い出した。生きていた頃はあまり言わなかった冗談? それともこの世界では当たり前の事なのか? 笑顔を見せる君江が、言葉を続ける。貴方は自分が誰の生まれ変わりか知ってますか?
どうした? お前はそんな事信じてるのか? 私からすれば当然の疑問だ。
以前は違いましたけど、この世界に来れば変わるんですよ。貴方にもその内分かります。人が生きる事の意味が… 君江のその言葉が、意味もわからず私を怯えさせる。今更とは思うが、死への恐怖が込み上げるような気がする。
貴方、子供が産まれそうです。落ち着いた声で君枝がそう言う。その周りでは、二人の子供がはしゃいでいる。
分かった。今呼んで来るから、少し我慢出来るな? 私は落ち着いた声でそう言っている。
末の子が産まれる時の事。慣れたせいか、私達は慌てずに落ち着いていられた。
男の子だよ。今度のは随分と大きな子だねぇ。元気な絹さん声が聞こえる。信じられないが、絹さんはこの数日後、死んでしまった。
この時の絹さんの顔、覚えていますか? 本当に幸せそうな顔をしていましたね。遠くを見つめて君枝がそう言う。
そうだったな… あの顔は今でも忘れられないよ。私もまた、遠くを見つめる。
喜久治だけはどうしても取り上げたいと言ってましたからね。絹さんには本当にお世話になりましたから。最後にあの笑顔が見れて良かったですよ。絹さんもきっと、満足してあの世へ行ったと思いますよ。だから生まれ変わる事も出来たんです。少しトゲのある君江の言葉だ。自殺なんてしてはいけない、生を全うしなさいと、私にはそう聞こえてくる。
喜久治が産まれてから、私達の生活は幸せそのものだった。
お仕事頑張っていますね。お茶を煎れときましたから… なぜか少し不貞腐れてお茶を置く君江。
貴方、今度の作品はどうですか? いい作品になりそうですか? そう言った言葉にも棘がある。
なんだ? そんな事聞いてどうする? 私は少し、苛立ちの声を出す。
…すみません。余計な事でしたね。そう言うと、機嫌を悪くしたのか、君枝は部屋を出て行った。普段は私の仕事に口出しをしない君江だが、この日だけは違っていた。
喜一、お父さんは仕事が忙しいみたいよ。また今度の休みに頼もうかしらね。隣の部屋から君枝の声が聞こえてくる。普段よりも心なしか大きく聞こえる。
なにを話してるんだ? 机に顔を向けたままの私がそう言う。
いいえ、貴方には関係ありませんよ。それより、お仕事頑張って下さいね。貴方には私達の生活がかかっているんですから。君枝の嫌味は私を動揺させる。
どうしたんだ? どうせまたなにか言いたい事でもあるんだろ? どうせ負けるとわかっている喧嘩はしない。私は君枝がこれ以上嫌味っぽくならないように気を使う。
いえね、たまには皆で表に出かけようかと思いましてね。忙しいのなら無理しなくてもいいんですよ。私と子供達だけで出かけますから。そう言いながら、君枝がほんの少しの笑顔を見せる。
お父さん、僕映画館に行きたいよ。アメリカの西部劇がいいなぁ。横から割って入る喜一。小さい頃から映画が好きで、良く私の後をついて来ていた。月に一・二度二人で映画を見る。この頃はジョン・ウェインがお気に入りだった。
映画か… 久し振りに見に行くか? 私は喜一と君枝の顔を交互に見渡しそう言った。
喜一は嬉しそうな笑顔を見せている。
ダメですよ。映画はまた今度にして下さいよ。今日はもう、決めているんですから。君枝の言葉に私と喜一はがっかりする。
映画はこの前行ったばかりじゃないですか。貴方達二人だけで。今日は皆で出かけたいんですよ。嫌ですか? 君枝の笑顔が怖い。
…そうだな、たまには皆で出かけるか。ところで、何処に行くつもりなんだ? 結局はこういう流れになると、初めから分かっていた。この辺りが諦めどころだった。
これを見ても分かりませんか? 君枝はそう言いながらバックから弁当箱と水筒を取り出した。それ以上聞かずとも、すぐに場所は分かる。私達が結婚をして始めて出かけたあの場所。まだ子供達が産まれる前の思い出の場所だ。考えてみれば結婚してからこの時まで、君江と出かけたのはあの場所だけだった。貧乏だった為新婚旅行にも行けず、苦労をかけていた。子供が産まれてからは、おかげさまというか、仕事が認められ、金に困る事も少なくなったが、時間に追われ何処かに連れて行く事はなかった。そのくせ私は、喜一を連れて映画館には行く。君江が嫌味を言うのも仕方ない事なのかも知れない。この日は先日買ったばかりの車で出かけた。子供達を後ろに乗せ、その後二度と行く事はなかったあの場所へ。代わりに年二・三度、家族揃って旅行をする事になった。君江に対しての些細なお詫びを込めて。
この時はとても楽しかったですね。子供達と一緒に行けるなんて、幸せでしたよ。君枝はとても嬉しそうにそう言う。私にはとても不自然に感じる。
この後何処に行ったか覚えていますか? 君枝は平静とそう尋ねる。
忘れる訳がないだろ。この時はすまなかった。あんな事になるなんて、本当に悪かったと思っているんだ。この日のことを思い出すと、私は平静ではいられなくなる。
なんの事です? 君枝は惚けてそう言う。君枝は意識的にこの日の事を忘れようとしているんだ。私には死んでも忘れる事が出来ない。些細な事で君江を傷つけた事は、忘れようとしても忘れられない。忘れてはいけないとさえ思っている。だが、君江が忘れたいと思うのなら、私も今から忘れる事にする。君江の悲しむ顔は見たくない。この場は静かに、なにも見ないで通り過ぎよう。
すみませんね… 私の為に、せっかくの思い出を通り過ぎてしまって… 君枝の声が哀しく沈む。
いいんだよ。あの事はもう忘れるんだ。ただ… あの場所だけは忘れないで欲しい。あんな事があったけど、私達にとって大切な場所には違いないんだから… 私は君枝の横顔にそう言う。
分かってますよ。それに、あの時があったからこそ、私達は今でも心を通い合わせる事が出来るんですものね。そう言いながら、君枝が私に笑顔を向ける。
私は手を伸ばし、君江の手を強く握り締める。ここに君江が存在している事を確かめるように、強く、もっと強く…
君江、私はもうすぐ死んでしまうんだよな? 子供達は今どうしているんだ? 私の事を少しは心配してるのか? 急にそんな不安が押し寄せる。
なにを言ってるんです… 今はまだ誰もなにも知りませんよ。貴方が自殺をしているなんて、夢にも思っていませんよ。そう言う君枝の瞳が、なぜだか揺れている。
そうか… それで私は、今何処にいるんだ? 私は間の抜けた質問を平気で繰り返す。
貴方はここにいるじゃないですか? 変な事聞かないで下さいよ。そう言いながら、君枝は笑う。
そうじゃない! 私はここにいる。生きているんだろ? 助かったって事なんだろ? 私の感情は複雑だ。助かったことが嬉しくもあり、哀しくもある。今のこの状況が把握できずに苦しい。
違いますよ。貴方は助かりません。あんな高い所から飛び降りて生きていられる訳ないじゃないですか。それに今はまだ、飛び降りている最中なんですよ。生きていると言えば、まぁ間違いではありませんけれど… 君枝がまた、遠くを見つめる。
私はそんな君江に返す言葉が見つからない。走馬灯の世界では時間が緩やかに流れているが、ここを抜けた時、私は死んでしまう。あっという間に地面に激突。身も心も粉々だろう。これが病院のベットの上で見る夢ならいいとも思うが、もしもそうなら覚めないで欲しいとも思う。
どうしたんですか? 黙りこんでしまって… そんな君枝の声が優しい。
やっぱり死ぬんだよな… こんな気持ちになるとは思わなかった… 死ぬってことは、思った以上に複雑なんだと感じている。
怖がる事はありませんよ 。そう言うと、君江は優しく微笑み、強く握った手にもう片方の手を添える。
私はここにいますからね、いつまでも、貴方の傍にいます。優しくそう言う君江が気に入らない。自分の不甲斐なさを実感する瞬間だ。いつもそうだ。こんな時、私は自分がとても哀しくなる。
貴方見てますか? あれは私が風邪で三日ほど寝込んでしまった日の事ですね。
お父さん、お母さんは? 寝巻き姿の喜久枝が言う。書斎にいる私が、寝ずに朝まで仕事をしていた。
…今何時になる? 怒りの含んだ声で、私がそう言う。
七時半だよ。目を擦り、喜久枝はそう言う。
おい! 今何時だと思ってるんだ! 私は寝室へ行き、君枝を怒鳴りつける。
…ごめんなさい、今起きますから… 苦しそうな君枝の声だ。苦しそうな咳まで出している。必死に起き上がろうとするが、立ち上がる事すら出来ず、その場で倒れ込んてしまった。
大丈夫か?… どうした?… 急な出来事に私は慌てる。目の前で人が倒れた。それも君江が… いても立ってもいられない気持ちになるが、なにをどうすれば良いのか分からず、うろうろ、うろうろ、いたずらに時を過ごす。
この時の貴方の慌てようったらなかったですよ。可笑しくって風邪なんて吹き飛んでしまいそうでしたよ。
なにも出来ない私は、本当になにもしなかった。医者を呼んだのは喜久枝だ。せめてもと思い、生まれて始めての家事をする事にした。子供達に任せっきりには出来ない。
ご飯まだ? 子供達が一斉に騒ぎ出す。もう、お母さんに頼らないとなにも出来ないの? そこまで言うかと思うが、その通りだとも思う。
うるさい! 少し黙って待ってろ! もうすぐ美味いのが出来るから。私の声が、大きく響く。
食事を作るのは初めてだった。しかし、多少の不安はあったが、味には問題がないと思っていた。今まで散々君江の作る美味い飯を食べていたんだ。それを真似ればいいだけのことだ楽観していた。私は自信たっぷりとはいかないが、かなり楽しんで作っていた。
なぁにぃ… これ… 本当に食べれるの? そう言ったのは喜久江だけだ。他の二人は黙ってその料理を見つめている。
いいから食べてみろ! 見た目は悪いけど、美味いはずだ。そうは言ったが、私も少し不安を感じる。
君江の事も考え、雑炊を作った。入れ過ぎた胡椒が黒く浮かぶ。漬物を切り、子供達には魚を焼いた。ヌカ味噌がついたままのキュウリ、焦げて黒い塊の鮭。私から見ても美味しそうには見えない。作っている最中は美味しそうに見えていたが、いざ食卓に並べると、犬の餌より酷く見える。
ぅえ… なにこれ… どうやって作ればこんな味になるの? 見た目より酷いよ… 喜久江が吐き真似をしてそう言った。
そうか? どれ。まぁ食べてみなければ分からない。そう思い、口に運ぶ。どれを口に入れても、美味しくなかった。五人全員が言葉をなくした。それでも皆、最後まで残さずに食べたんだ。
貴方、もう大丈夫ですから、明日からは仕事に戻って下さいよ。君枝は、布団の中から隣の布団で横になる私に話しかける。慣れない家事をしたおかげで、いつもに増して疲れていた。
ダメだ、後二・三日は安静にしてろと先生も言ってたろ。もう寝なさい、私も寝るから… 明日はゆっくり寝てていからな。布団な中の私は、君枝に背を向けてそう言った。
はい、分かりました。君枝はじっと私の背中を見つめ、そう言う。
私は仕事をせずに三日間家事に専念した。喜久枝は私のする事全てに文句をつける。喜一と喜久治はなにも言わなかったが、冷たい視線が飛んでいた。これまで君江が良くやってくれていた事を、身を持って感じた三日間だった。
本当に良く頑張ってくれましたね。ありがとうございました。もう本当に大丈夫ですから、明日からはお仕事の方を頑張って下さいね。君枝のその言葉に、苦労が報われた思いがした。嬉しさと安堵感から、自然と涙が滲む。

お父さん、会って欲しい人がいるんだけど… 真剣な表情で喜久枝がそう言う。この時二十五になっていた。
なにを黙っているんですか、貴方? なにか言ってあげなさいよ。君枝がそう言う。私はなにも言わないでいる。喜久枝の言いたい事は理解出来る。だからこそ、なにも答えず書斎にこもる。
お父さんの事なら気にしなくていいわよ …それで、いつ来る予定なの? 君枝が喜久江にそう言った。
今度の日曜がいいかと思ってたんだけど… 喜久江の声は寂しげだ。
連れて来なさいよ。お父さんには私から説得しとくから… いいわね? 君枝のその言葉を、私には聞こえていないんだと、必死に言い聞かせていた。
日曜の午後、喜久枝がその男を連れて来た。
お母さん、お父さんは何処にいるの? 喜久江がそう言う。
さっきまでは家にいたんだけどね… ちょっと前に出かけちゃったのよ、止めたんだけどね… 君枝の困った声が、そう言った。
散歩に出かけた私は、この日北村君を連れて来る事を分かっていた。君江にも何も言わず、逃げるように家を出た。
お父さんには今日だって言わなかったんだけどね… 君枝の声は困ったままだ。
いいわよ、別に… そう言った喜久江の声は、諦めの色よりも呆れ果てたという感じがする。
私の帰りを待つ喜久枝。後の旦那になる北村君も一緒に待っている。晩飯時、私は馴染みの居酒屋で飲んでいた。複雑な気持ちが心に揺れる。
遅いわね、あの人はなにをやっているのかしら… 北村さん、今日はもう帰って、今度また来なさいよ。君枝の声が疲れを帯びてきた。
そうですか… だけど、もう少し待ってたいんです。いいですか? 北村君がそう言う。
お母さん、この時間にお父さんが行きそうな場所って知らないの? 喜久江がそう言う。
そうねぇ、多分、あそこだと思うんだけど… ちょっと出かけてくるわね。すぐ戻るから、あなた達は待ってなさい。君枝はそう言うと、家を後にした。
私が何処にいるのか、君枝には初めから分かっていた。自分の意思で帰って来て欲しいと思い、この時間まで待っていたんだ。昼間は映画館、夜は居酒屋。いつもの私の道なり。
やっぱりここにいたんですね。店ののれんをくぐり、私を見とめてそう言う君枝。お猪口を片手に酔えないでいる私。
おぅ、どうした? 私は素知らぬ顔でそう言う。
どうもしませんよ。もうお家に戻りましょう。君枝の声には、子供を諭す甘い響きがあった。
喜久枝はどうした? 帰って来てるのか? 分かっていながら私はそう聞く。
とっくですよ。だから貴方も帰りましょう。そんな君枝の言葉を聞き、私は頷く。そうだな… 意地を張るのも疲れるからな…
会ってくれるんですね? 安心した表情を見せ、君枝がそう言う。私の気持ちを理解していたのか、最後まで無理強いはしなかった。その優しさに折れ、意地を曲げた私だった。
お父さん、今まで本当に… 神妙な表情でそう言う喜久江を私は妨げる。それ以上は言うな!と。
結婚式の前日、当たり前のように木下喜久枝として最後の挨拶をする。最後まで聞かず、部屋を追い出す私。情けない顔を見せたくなかった。いつも通り送り出したいと思っていた。喜久枝が部屋を出た後、我慢しきれずに涙が零れる。
何故こんな事を言ったのだろうな… 最後まで聞いてやるべきだったんだ… それが本音だった。
なに言ってるんですか、当日にもう一度言ってたじゃないですか、ほら。君枝の言葉と共に、景色が変わる。
お父さん、昨日はごめんなさい… だけど… どうしてもこれだけは言いたいの。今まで育ててくれて、本当にありがとう… 喜久枝の涙声だ。
…幸せにな… 私も涙声になる。
なにを泣いているんですか? 隣を歩く喜久江がそう言う。結婚式の場面なんて、殆ど覚えていなかった。終始俯き、涙を堪える私がいる。
なんだか… 情けなくてな… 娘の結婚式で泣いてばかりだなんて… そう言いながらも、今でも涙声の私だよ。
なにを言ってるんですか。貴方は立派な父親でしたよ。君枝はそう言う。
そんな事はない。父親としても、亭主としても、私は失格だ。ただ、君江の支えがあったから、なんとか持ち堪えていれただけだ。本気でそう思うよ。
なにをそんなに落ち込んでいるんです? 必要以上に自分を責めるのは、昔からの貴方の悪い癖ですよ。優しくそう言う君枝、私はいつも慰められ、気分を落ち着ける。死んでも変わらず、心の支えになっている君江がここにはいる。
どうした? 何故私の傍を離れる? 隣を歩いていた君江が、急に足を速める。
…貴方はもうすぐ帰らなくてはなりません。私にはそれが、とても哀しいんです。そう感じてはならないんですけど、やっぱり辛いんですよ… 君枝の声には哀しみが滲んでいる。
何故そんな事を言う? 私は少し、苛立ちの声を出す。帰らなくてはならない。それは私の死を意味する言葉なのか?
この世界も終わりに近づいているんですよ。どういう意味かは分かっていますよね? 君枝の声が厳しく尖る。
死よりも怖い事それは、君江と離れる事。この世界の終わりに、君江は何処へ行く? 私は何処へ帰る?
そんなに早く行かないでくれないか? もっとゆっくり、この世界の最後を楽しまないか? そんな私の言葉に耳を貸さない君江。目の前の時間は確実に流れていく。幸せだった私の思い出を映しながら…
貴方、良かったですね。遠く離れた映像の中の君枝がそう言う。
そうだな、まぁあんなもんだろう。私は少し、偉そうな声でそう言った。私が書いた小説が、初めての映画化になった。完成試写に二人で見に行った帰りの会話だ。
少しは素直に褒めたらどうです? エンドロールで泣いていたじゃないですか。君枝が笑い声でそう言った。
…あれは違うんだ。お前は気づかなかったのか? 私は真顔でそう言う。
なんの事ですか? 君枝もまた、真顔になった。
エンドロールで流れた曲、二人の思い出、『アンフォゲッタブル』
あぁ、あの曲の事ですね。あの映画にピッタリですよね。君枝が再び笑顔になった。
私は黙ったままタバコに火をつける。
なにを機嫌悪くしているんですか? 君枝が困った表情を浮かべた。
『アンフォゲッタブル』をイメージして書いた小説。映画の内容はそれなりだったが、最後の曲が私を嬉しくさせる。完全ではないが、私の気持ちは伝わっている。しかし、それに気づかない君江。
あの物語はな… お前との思い出を描いたものなんだ。それが分からなかったのか? 私がそう言う。分かってますよと、メロディーを口ずさむ君江。私の歌声が重なる。
街のレストランで、家族全員が揃って食事をしている。
父さん、母さん、今日はなんの日か覚えてる? 喜一がそう言った。
当然だろ、なぁ、母さん。私が君枝に語りかける。
そうですね。忘れたくても忘れられませんよ。君枝は私そう、微笑みかけた。
どういう事? 今日は結婚記念日でしょ? 結婚式でなにかあったの? 勘のいい喜久江が楽しそうに聞いてくる。顔を見合わせ笑う私と君江。
なにが可笑しいの? 笑ってないで教えてよ。喜久江はすでに笑っている。
仕方ないわねぇ。いいですか? 貴方? 君枝のその言葉に笑いながら頷く私。
あれからもう三十年が経つのね。早いわねぇ、時が流れるのは。家族もこんなに増えたし、本当に幸せですよね。君枝がゆっくり話を始めた。
それはいいから早く本題を話してよ! 急かす喜久江。
君江が話をしているのは結婚一周年の日の事。忘れられない出来事。今思い出しても笑いが込み上げてくる。君枝の話に、家族みんなで大笑いをした。
この日は本当に楽しかったですね。けれど、どうして突然私達の結婚記念日を祝ってくれたんですか? それまでにはこんな事なかったですよね。前を歩く君江が、振り返りもせずにそう呟いた。
そうだったよな… この年から毎年、この日には皆で集まるようになったんだよな。全員が揃ったのは最後だったけどな…
この年の暮れに北村君が亡くなった。喜久枝のお腹は菊人を身篭っていたが、それを知らずに事故で死んでしまった。この日の事は北村君が計画してくれたんだ。その後も毎年、君江が死んでからも続いていた。私が死んだ今年はどうするのだろう? 心配しても仕方がない。大勢いた家族も、今では四人しかいない。喜久治と喜久枝の子供達だけだ…
ねぇ貴方、私を今でも愛していますか? 私は今でも、貴方を愛していますよ。君江が亡くなる数日前の事だ。ついさっき見たのと同じ映像が流れる。
この時の私の気持ち、貴方には分かりますか? 立ち止まりそう言う君江は、振り返り、意地悪そうな顔を向ける。
分からなかった… だけど、今では分かるよ。私はお前を愛している。今までも、これからもずっと… 私は真剣な表情を君枝に向ける。
そうですか… ごめんなさいね、意地悪な言い方をして。本当はこの時、とっても嬉しかったんですよ。手を握ってくれたじゃないですか。あれだけで十分、貴方の気持ちは伝わっていましたよ。涙ぐんだ君枝の声が、すぐ隣から聞こえる。
そう言ってくれると、私も嬉しいよ… 私も同じく涙ぐむ。
どうしたんです? なにか表情が暗いですよ。突然立ち止まった君江に、急に不安を感じた。私も足を止め、君江を見つめる。この先にはなにが待っている? 走馬灯の世界はまだ、続くのか? 嫌な予感で胸が苦しい。
君枝が私を睨む。暫く黙った後、そっと口を開く。
貴方、後ろを振り返って下さい。あれが見えますか? なんなのか分かりますか? 君枝の厳しい声がそう言った。
後ろに広がるのは私の過去だ。通り過ぎてきた過去が私を招いている。怖くなり、すぐに目を逸らす。前にいたはずの君江の姿が見えない。恐怖が増す。私はもう、死んでしまう。
何処にいるんだ? 君江! なにか言ってくれ! いなくならないでくれ!… 不安は声にも表れる。私の声が、震えていた。
走馬灯の世界を一人で歩き出す木下清。そこにはなにも映し出されない。死への後悔から生み出されたこの世界。そこを抜けた時、木下清は現実へと引き戻される。

三、現実

地面が上から迫ってくる。私は遂に死を迎える。死ぬ前の束の間の幸せ。思い出に出会い、君江とも出会えた。もう後悔は残っていない。生まれ変わりがあるのなら、もう一度君江と一緒になる。今はそれを願うばかり。
自ら命を絶った木下清。人が自殺をする事の意味に気づいていない。二度と出会えない人、思い出、戻る事は出来ない世界。再び妻と出会う事など、叶わぬ願いだ。
空の中、私は動けない。目の前の地面。恐怖に引きつる私の顔。何処からか誰かの声が聞こえてくる。
あっ… 誰か飛び降りた
えっ、なに? 人? 人が落ちて来る…
なんだこいつ… 白目剥いて笑ってるよ…
イヤッー、人が… 気持ち悪っ…
なんで自殺なんか… 私は嫌だな… 絶対嫌…
なになに? どうしたの?
ちょっと誰か… 見てないで警察呼びなよ
笑いながら死んでるよ、こいつ…
死んでどうなるんだよ! 楽にでもなると思ってるのか? バカじゃねぇの
道行く人から聞こえる声。私はまだここにいる。しかし、時は流れ、人々は動いている。少しも近づかない地面。私はこれからどうなる?
この時を、この場所で、永遠に生き続ける木下清の心。死ぬ事も出来ず、生まれ変わる事もない。流れる時を感じる事もなくなり、ただ存在するだけの心。誰にも気づかれず、後悔と共にこの場に彷徨う。聞こえるはずのない声、見えるはずのない妻の姿、ありもしない走馬灯の世界を心に描き、来る事のない死を待っている。

四、現実の世界

私は今、書斎に座り、原稿を書いている。最後の物語。これから起きる出来事、物語のようにはならないだろう。だが、今の私に後悔はない。『さよなら』君江に伝えたい最後の言葉。
原稿をポストに入れ、その足でビルの屋上へと向かう木下清。目には充実の色が輝いている。
君枝、今からお前の所へ行く。ここから離れる事を、許してくれ…
妻を思い、許されない死を乞うように涙を浮かべる。ビルから飛び降りると、あっという間に地面に叩きつけられる。気絶する間もなく、走馬灯を見る事もなく死んでしまう。
さよなら君枝、さよなら私の家族。
そんな木下清の声が聞こえてくる。いいや、そんな気がするだけだ。

さよなら

さよなら

自殺をする男の物語

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-07-03

Copyrighted
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