太郎の家で次郎が夢見て、次郎の家で三郎が夢見る。それなら、太郎はどこで夢見たらええんや?(3)
三 リーボックの靴を履く女
「ちょっと、休もう」高橋は立ち止まった。辺りを見回す。
「どこか。座る場所はないかなあ。あった」
商店街の通りの端にベンチが二つ並んでいた。ひとつには、おじいさんが、もうひとつには、若い女性が座っていた。もう、男はこりごりだ。また、変な勧誘をされちゃあ、かなわない。高橋は女性が座っているベンチを選ぼうとした。でも、用心しないといけない。最近では、ちょっとしたことでもセクハラと言われるからだ。まあ、こちらから声を掛けなければ問題ないだろう。
高橋は女がいるベンチにできるだけ距離をとって座った。息はまだ荒い。落ち着くには時間がかかりそうだ。息を大きくゆっくりと吐く。口から息さえ吐けば、自然と鼻から息が吸い込まれる。
「あのお」
誰かが声を掛けてきた。女の声だ。隣に座っている女だ。可愛い。ベンチに座るときに、若い女だと思っていたが、あまりじろじろ見ると、それこそ変態、セクハラと訴えられそうだったので、あえて見ようとはしなかったのだ。その女が尋ねてきた。
「リーボックはお好きですか?」
「はあ?」
高橋は意外な質問だったので、間抜けな返事をした。
「その靴はリーボックでしょう?」
ようやく意味がわかった。高橋が掃いているランニングシューズのことだった。高橋は健康も兼ねて、週一回程度、家の近所のバイパスや車で二十分程度離れた森林公園で、ジョギングをしている。ただし、寄る年並みか、最近、膝に痛みを感じることが多くなった。
そのため、仕事場でも、仕事が休みの日でも、クッション性の効いたシューズを履いている。メーカーはいろいろ試してみたが、今のところは、リーボックが一番膝にやさしい。なぜなら、その靴は、靴底が厚く、クッションが効いているからだ。パッと見た目は、ゾウの歯ブラシのように見える。商品名はジグザグだったか。そう言えば、ここまで、ジグザグしながら変な男から逃げてきたのだ。
「ええ。リーボックが好きというよりも、この靴が気にいっているんです」
高橋は自分のお気に入りの靴のことが話題になったので、見知らぬ女に対しても、つい、気を許してしゃべり続けた。
「この靴の型は、四年以上前から販売されていて、毎年、一足ずつ買っているんです」
「毎年ですか」女が首を振りながら感心する。
「そうです。実は、早くはないんですが、毎年、ハーフマラソン大会に出場していて、自分の御褒美として、買っているんです。もう、この靴が四代目かな」
高橋はそんなにおしゃべりではないけれど、つい、自分が好きな靴のことなので、初対面の人にもしゃべり続けた。
「そうですか」女がにっこりと頷いた。
「実は、私も」女が足を差しだした。同じ靴の型だった。
「ちょっと、女の子にはごっつい感じがするんですけど、何だか気に入っているんです。それに、あなたがおっしゃるようにクッション性もいいし、ちょっとだけ背が高く見えるし」
高橋は女の靴を見た。自分と同じリーボックだ。高橋が譬えたゾウの歯ブラシのような厚い、靴底だ。
「その靴底って、ゾウの歯ブラシに似ていませんか?」今、思いついたかのように、女にしゃべる。
「ゾウの歯ブラシですか?そう言えば、そんな風に見えますね。面白い表現ですね。今度から、友達にこの靴のこと聞かれたら、ゾウの歯ブラシって言います」女が笑った。高橋も、自分の言ったことが受けたので笑った。
女の靴の色はピンク。女の子らしい。靴で話が盛り上がるのは面白い。さっきまでは、姓が一緒だとか、身長が同じだとか、訳がわからないことで、仲間にならないかと誘われたが、この女からゾウの歯ブラシの靴同好会になりませんかと誘われたら、入ってもいい気になる。高橋がそう思っていると、
「もし、よかったら、同じタイプの靴を愛好している仲間として、愛好会に入りませんか」と女が誘ってきた。
「まだ、同好会名はないんですけど、ゾウの歯ブラシの靴愛好会でもいいんですよ。ハンドインハンドじゃなく、フットインフットでもなく、シューズアンドシューズしませんか」
「ええ?」高橋はあまりにも偶然に、自分が思っていたことを女が言いだしたので、少し怪しいと思いだした。新手の詐欺かもしれない。さっきの仲間かもしれない。
「いやあ。たまたまこの靴を履いているんだけで、アシックスもミズノもナイキもアディダスも、僕は好きなんですよ」とさっきとは違う答えをする。
女も「私もアシックスもミズノもナイキもアディダスも好きなんです。じゃあ、ジョギングシューズ愛好会にしませんか。それなら、もっと多くの人を仲間に出来ますよ」と続ける。女の膝が高橋の膝に当たる。温かい。それに、柔らかい。心の半分が同好会のメンバーになっていく。
いや、待て。心の半分が同好会を押しだす。色気作戦か。きっと、靴を大量に俺に買わす気に違いない。くわばら、くわばら。
「あれっ、急にお腹が痛くなってきた。イタタ、イタタ」高橋はベンチから立ち上がると、愛用のジョギングシューズのバネを生かして走り出した。
「あっ、待って」女の声がする。高橋は後ろを振り返らずに走る。週一回の練習の成果を出す時だ。さっきの松本の時のように、ダッシュ作戦だ。今度は、相手は女だ。きっと逃げられるはずだ。だが、長い距離は無理だ。早い時間で勝負をつけないと。高橋はライオンが玄関口で鎮座する近くのデパートの正面玄関から、男子トイレの中に駆け込んだ。
「ふう。ここまでは追ってこないだろう。今日は、変な奴に勧誘される日だ。俺の顔に「勧誘されたい」の六文字でも書いているのかなあ」
トイレの手洗いの鏡で自分の顔を見る。いつもの顔だ。自分としては、別段、物欲しそうな、寂しそうな顔をしているわけではない。いや、勝手に自分がそう思い込んでいるだけかもしれない。とにかく、今日は、厄日だ。さっさと家に帰ろう。家の中でいれば、誰も声を掛けてこないだろう。ちょっと、暇だからと言って、街に出たのが失敗だった。でも、ひょっとしたら、女が追ってこないかなという期待もある。足が微妙に震えている。
何を待っているんだ。高橋は右足で左足を踏み、妙な気持ちを踏みつけた。
それから、高橋は誰にも目を合わさずに下を向いて歩いた。目的もなくふらふらしていたから、声をかけられたんだ。暇そうに見えたんだ。この愛用のシューズがあれば家までたどり着けるはずだ。いや、愛用のシューズだからこそ声を掛けられたんだ。今度、街に出る時は、スーパーで千円の靴でも買って、それを履くなど、目立たないようにしよう。
高橋が家に帰る途中でも、「眼鏡を掛けているんですね。「眼鏡がうっとおしくてたまらないけれどコンタクトレンズをつけられない会」に加入しませんか」とか、「失礼ですが、ひょっとしたら、体重が七十キロじゃないですか。私は見た目でわかるんです。「体重七十キロの現実を直視して、少しでもやせませか会」に加入しませんか」「あなた、顔にほくろがありますね。顔のほくろがチャームポイントだと思い込みたい会」に入りませんか」「髪の毛が少し薄くなってきていますね。髪は長い友の会だけど、髪はあなたを友だちと思っていない会」に入りませんか」などなど、家に帰るまで、数十種類の勧誘を受けたが、高橋は全てを断った。
ただし、その勧誘を断る度に、足先や目、たるんだお腹、ほくろ、頭皮が熱くなり、その熱が広がり、体中がポカカポと温かくなっていった。いかん。いかん。俺は一体、何を求めているんだ。そんなにあいつらの仲間になりたいのか。その度ごとに、高橋は自分の舌を噛んだり、耳を引っ張ったり、頬をつねったり、少し出てきたお腹をつまんだり、太ももに鉛筆を突き刺したりして、そんな思いを否定するのであった。
太郎の家で次郎が夢見て、次郎の家で三郎が夢見る。それなら、太郎はどこで夢見たらええんや?(3)