冥婚
冥婚
「なぁ……美佐枝、辰彦だば今まで一度も良い女子いねがったなぁべが?」
兄の葬儀が無事に終わった翌日、朝早くから兄の仏前に張り付いて念仏を上げていた祖母がふいにそんな事をぽつりと言った。
「さぁ、どうだろうね? 兄さんは昔がら女っ気のない人だがんね。本人の口がらはあまりそういう話し聞いた事ないなぁ。でも急に何してそんな事聞くなや?」
「んねなよ、婆ちゃんな、辰彦がこの家さ女子連れで来たりした事一度も無いっけがら、ずっと気になってでよ。んださげ、ムカサリ絵馬でも描いでやらねぇど成仏出来ねがど思っていだんだぁ」
「……ムカサリ絵馬?」
免許証の写真みたいに生真面目な表情をした兄の遺影に手を合わせながら、祖母が聞いた事のない言葉を口にした。心なしかその小さな丸い背中が、深い後悔を背負って更に曲がったように見えた。
兄の葬儀で喪主を務めたアタシはその慌しさに翻弄されてまともに兄の死を悲しむ暇などなかったが、一通り落ち着いてこの狭い家に祖母と二人きりになってみると、ようやく兄の死の実感が自分にも湧いて来た。兄の遺影と向き合ったまま片時もその場を離れずにいる祖母の脇に座り、「ムカサリ絵馬」というものが何なのか祖母に尋ねてみた。
「ムカサリ絵馬っていうのはな、身内の男が独り身のまま死んでしまった時にやるこの辺の慣わしよ。死んだ者と嫁子さなる女子の顔ば一緒に紙さ描いでな、あの世で結ばれるよう、その絵ばお寺さんの奥の院さ奉納すねばなんねなだっけ」
「へぇ、そんな風習あったけの。アタシ初めで聞いた」
「奥ノ院さ行ぐどよ、若いうぢに兵隊さ取られでしまって結婚すねまま戦争で死んでしまった人だぢのムカサリ絵馬なんかがいっぺ飾ってある」
「ふ~ん、そうだっけの」
祖母の話しを聞いて、アタシは以前靖国神社を訪れた時に見た花嫁姿の日本人形の事をふと思い出した。それは戦争で使われた鉄砲や大砲などの遺品が展示してある戦災記念館の中にあり、兵士たちの遺影が処狭しと並んだスペースの隅にひっそりと置かれていた。その時は亡くなった兵士の誰かが持っていた形見の品か何かだと思っていたけれど、沈痛な場に添えられた献花のように佇むその日本人形にも、祖母がいうムカサリ絵馬と同じような意味があったのかもしれない。
「美佐枝は絵上手だべ。婆ちゃんだば辰彦の嫁さなるような女子の顔なんてさっぱり思いつがねぇがら、オメが代わりに辰彦のムカサリ絵馬ば描いてみでけねが?」
「それはいいけんど、アタシも兄さんの好みのタイプなんてよくわがんねよ」
「大丈夫、相手の顔なんてオメの思い付ぎでいいなだ」
その日の夜、アタシは祖母の頼みを聞いてスケッチブックに兄の花嫁になる女の顔を描いた。なんとなくぼんやりと浮かんだイメージを頼りに動かした筆先が、面長の顔立ちとスラッと伸びた鼻筋を紙に写していく。
筆は不思議とスラスラ進んで、少しばかりきつい感じの印象がある細く吊りあがった目を描き、文金高島田に結い上げた黒髪に真っ赤な口紅を差したら古風な美人の顔になった。 兄の好みかどうかはわからないけれど、これならなんとなく兄も喜んでくれそうな顔だと思った。
遺影の肖像をそっくりそのまま描き写しただけの生真面目な兄の顔の横に、微かに恥じらいを帯びた綺麗な花嫁の顔が並ぶ。東京の美大で培った画力がこんなところで役に立つなんて皮肉だ。
「さすが美術の大学出ただげあって上手なもんだなや。でもいいが、ムカサリ絵馬は間違っても知り合いの顔なんかば描いてなんねなだげな。昔、うちの本家の姉さがな、自分とそっくりな顔ば絵馬さ描かれて一緒に連れて行がれだ事あったっけがらな」
居間の座布団に深く根を降ろして座っている祖母が、手慣れた感じで描き上げていくアタシを見て感心しつつ、急にぼそっとそんな怖い事を言った。
ムカサリ絵馬。結婚式の事をこの地方の方言で”ムカサリ“と呼ぶ事は知っていた。祖母くらいの年長者の会話の中でしか聞く事がない言葉だけれど、迎えて去るからムカサリだとか、娘が去るからムカサリだとか、小さい頃祖母に聞いた覚えがある。でも高校を卒業するまでずっと住んでいたこの山間の土地にそんな変わった風習があるなんて事は全然知らなかった。身内の者が独身のまま亡くならない限りは目の当たりにする事がない儀式だからかもしれないけれど、ひょっとしたら上京して薄らいでいった故郷への愛着と共に、いつの間にかアタシの記憶の中からその風習の事がひっそりと抜け落ちてしまったのかもしれない。自分の描いた花嫁に少しだけ見覚えがあるような気もしたが、想像で描いたのだから大丈夫だろう。
葬儀から一週間が経ち、家を訪れる弔問客もだいぶ減って来たので、奥ノ院までの長くて急な石段が難儀な祖母に代わり、アタシが兄のムカサリ絵馬を奥ノ院まで奉納しに行く事になった。
四方を山に囲まれ、秋の紅葉が見頃な今の時期は、この土地の山々が織り成す長閑な景色と、切立った断崖の岩山に打ち建つ古刹の名所を楽しもうと、県の内外から大勢の観光客たちが訪れて賑わっているはずなのに、今日に限ってはなぜかあまり人気がなく、すっきりと晴れた穏やかな天気にも関わらず、みんなが兄の不幸を忌み嫌ってこの日の行楽を避けているかのように、地元の土産物屋の人たちでさえ店の奥に引っ込んで妙に静かだった。
何年ぶりかに歩く奥ノ院までの岩山の参道。商店街を抜けて山門を潜ると、千段もある傾斜のきつい石段がずっと山頂の方まで続く。朱色の大きな口を開けて、笑っているのか泣いているのか分からない滑稽な顔をした奪衣婆のお地蔵様を境に、風雨に晒されて歳を経た石仏たちが参道の周囲に点々と顔を出し、この岩山に死者の魂が集まるからここに神仏を彫ったのか、神仏を彫ったからここに死者の魂が集まるのか、この参道の断崖にせり出した奇岩や自然に穿たれた大きな岩屋などの絶景を眺めていると、目には見えない霊的な世界の存在を不思議と素直に感じる事が出来るような気がした。今日はあの世で執り行なわれる兄の婚礼の仲介人という立場もあってか、余計に神妙な心持ちで石段を上っていた。
多少の息切れと動悸はあるが、小さい頃から参詣して通い慣れているのと、山頂から吹き降りる秋風のひんやりとした心地良さのおかげで小一時間もかからずに奥ノ院へ辿り着いた。
勝手知った場所だとばかり思っていたけれど、考えてみれば式場になる奥ノ院の観音堂の中に入るのは今回が初めてだった。お堂にはいつも閂がされていた記憶が微かに甦ってくる。あの世の結婚式場にこの世の者が無闇に立ち入ってはいけないのかもしれない。新たに新婚夫婦を迎え入れる今日だけはお寺の誰かが開けてくれていた。
戸を開いて入ってみると、狭いお堂に張りつめた静謐の中に黒ずんだ木彫りの観音像がずっしりと鎮座していて、その周囲を取り巻くように天井と壁一面に無数のムカサリ絵馬が飾られていた。古いものから比較的新しい物まで、凛々しい紋付袴と艶やかな花嫁衣裳の肖像が寄り添ってお堂を埋め尽くす。その異様な光景を目の当たりにしたアタシは、亡くなった人のために遺族たちが描いた素朴な画風の魅力に圧倒され、しばらくその場に釘付けになった。
一体何組の夫婦があの世で結ばれたんだろう? 祖母が言ったとおり紋付袴に混じって、戦争で亡くなった軍服姿の新郎の姿もいくつかある。中には病気か事故で死んだのか、小さい男の子の写真を、成人の晴れ着姿と合成して首だけすげ替えた絵馬なんかもあった。
あの世でめでたく結ばれた絵馬の仏たちに見守られながら、祖母の言いつけどおり観音像の祭壇に用意された額縁に兄のムカサリ絵馬を奉納する。目を閉じて一人静かに手を合わせると、お堂中の絵馬が一斉に盛大な拍手をして兄夫婦をあの世に迎え入れてくれた気がした。
「兄さん、結婚おめでとう」
線香を上げてから祭壇の盃に持参した酒を注ぎ、兄と花嫁さんに交互に酌をする。祖母が重箱に詰めたごちそうを並べ、親族たった一人が招かれたあの世の結婚式がしめやかに進行して行く。そして段取り通りに仲介人の役目を終えたアタシは何かしらホッとした心持ちで観音堂を後にした。
帰りはゆっくりと近くの山々の紅葉を眺めながら参道の石段を下る事にした。人の全くいない静かな参道が、兄と同様に独り身であるアタシの寂しさをふいに誘う。東京での不甲斐ない生活をぼんやりと振り返りながら歩いていると、参道の途中で小さい男の子の手を引いて落ち葉拾いをしながら参道を上がってくる女性の姿が見えた。観光客だと思い、何の気なく通り過ぎようとしたら、向こうが軽い会釈をして来たので、アタシもそれに合わせて会釈を返した。
アタシと歳が近そうな三十代前半くらいの女性で、向こうの方でもそう思ったのか、擦れ違いざまにまじまじとアタシの方を窺う視線を感じた。
「あれ?」
通りすぎて数歩石段を下った時に、向こうの女性がそう声をかけてきた。驚いて振り向くアタシに「ひょっとして美佐枝?」と、半分驚いた笑顔で尋ねて来る。
アタシが自分の名を呼ばれて戸惑っていると、その女性は確信をついたように懐かしそうな笑顔を見せた。
「なんか見た事のある顔だなって思ったら、やっぱり美佐枝だっ。久しぶりだなやぁ。アタシの事おべったか? ……わがんねかなぁ? 珠子だ、珠子」
「珠子っ」
その名前を聞いてアタシはやっと相手の女性の顔にすごく親しかった者の面影があるのを確認した。地元の同級生で、高校を卒業するまでずっと一緒に過ごしていた珠子。上京してからこれまで一度も会っていなかった。
身内に不幸があっての慌しい帰郷だったからアタシは誰にも顔を会わせずに東京へ戻るつもりだったが、何の示しあわせか予期せぬところでかつての親友と久しぶりの再会を果たしてしまう。今まで全く連絡も取らずに長い事顔を見ていなかったせいか、懐かしさよりもなんとなくよそよそしい気まずさの方が勝ってしまって、アタシは珠子にかける言葉がすぐに見つからず、愛想笑いのまましばらくその場に固まってしまった。
「いつ帰って来たの? 連絡ければアタシ駅まで迎えに行ってやったっけのに」
アタシの動揺を特に気にする様子もなく珠子の方が先に口を開いた。
面長の顔に切れのある目鼻立ち。再会を懐かしんで微笑む唇の下に、ぽつんと添えられた黒子が相変わらず色っぽかった。童顔で地味な顔立ちのアタシとは対象的に中学の時から地元で可愛いと評判だった珠子は、歳を経てさらにその容姿の秀麗さを光らせていた。
「兄が急に亡くなっちゃってね、それで久しぶりに帰って来たんだよ」
「え、辰彦さんが? ホントに? あらヤダぁ、アタシ全然知らなかったやぁ。それは気の毒だったねぇ、それだば近いうちにでも家の方さお悔やみ言いに行くさげ。美佐枝の婆ちゃんにそう伝えておいで」
「うん。……それより珠子結婚したの? 一緒にいるその子はひょっとして珠子の子かな?」
アタシは珠子が連れている小さい男の子が気になって仕方なかった。人見知りするのか、男の子は珠子の後ろに隠れて不審そうにアタシの顔を窺っている。
「似てっかぁ? 裕太って言うの。もう五歳になるよ。そういえば美佐枝には言ってなかったっけね。アタシ高校卒業してすぐくらいに結婚したんだっけ」
「えっ、そうなんだぁ。……へぇ、そっかそっかぁ」
もういい歳だし、顔も器量も良い珠子の事だから、結婚くらいしていてもおかしくないだろうと思いつつ、また自分一人だけ置いてけぼりを喰らった疎外感が湧き上がって、素直に珠子の結婚を認めようとしない自分がいた。東京での暗い独身生活に兄の突然の不幸が覆いかぶさって、目の前の親友がすごく順風満帆そうに見える。
「お、おめでとう……」
気持ちとは裏腹なその一言が上擦って霞んだ。早々と女の幸せを手に入れた珠子に対する負い目がそうさせるのか、アタシは珠子に自分の現状をあれこれ詮索されるのが怖くて、ずっと目を泳がせながら妙な沈黙を維持してしまった。
「裕太ぁ、この人ね、ママの親友で美佐枝ちゃんって言うんだよ。ほら、「こんにちわ」って挨拶してみな」
その場を和ませようと珠子が子供を抱きかかえて戯れてみせた。並んで見る子供の顔はあまり珠子には似てはいなかったけれど、上向きの男らしい眉毛に二重の瞳がクリっとして可愛く、将来の男ぶりの良さを期待させるものがあった。アタシはぎこちない愛想笑いを作って、知らない女に近づかれるのを嫌がる子供の頭を撫でた。
「ごめんね、この子知らない人見ると恥ずかしがっちゃうの」
「そうなんだぁ」
「あ、そうだ。ねぇ? この後何か予定ある? 立ち話もなんだし、時間あるんだったらアタシの家にちょっと寄ってかない? お茶菓子くらい出せっぺがら」
一人再会を喜んでいる快活な珠子に萎縮して、アタシは誘いを断わる理由も見つけられず、必然的な流れで珠子の家にお邪魔する事になってしまった。
珠子の車で送ってもらった先は結婚した旦那さんが三年前に建てたばかりだという新築の一軒家だった。
二世帯、三世帯で先祖が残した古い茅葺きの家屋に住み続けるこの土地の風合いから少しばかり浮いた白塗りのマイホーム。羨ましいな、と思って覗いた玄関は開放感のある吹き抜けになっていて、明かり取りの天窓から注ぐ陽光がとても眩しかった。
「遠慮しないで上がって、上がって」
通された二十畳くらいのリビングにはゆったりした大き目のソファが二つと、大型の液晶テレビ、それにセンスの良いテーブルが配置されていた。リビングのすぐ側にはカウンターで間仕切りした広めのキッチンがあって、クッキングヒーターや食器洗い機など、調理しやすい設備が充実していた。
「すごくいい家だね。広くて快適そう。ここに旦那さんと子供三人で住んでるの? なんか到れりつくせりって感じで羨ましいな」
絵に描いたような理想の家庭。お世辞でもなんでもなくアタシはそう思った。
「まぁ住んでみるとそう大した事ないよ」
まんざらでもない顔で平然と言ってのける珠子に、家賃六万八千円で狭い六畳一間に住んでいる独身の現状を知られるのがますます怖くなり、居心地の良いソファに身を固くして座った。出された紅茶とお菓子にも容易に手が出せず、珠子が何かアタシに尋ねようと口を開く度にアタシは部屋の中にあるどうでもいい物や昔の他愛ない出来事に話を逸らして逃げた。
地元で一緒にいる時から、アタシは事あるごとに珠子の容姿、性格、境遇なんかを自分のそれと対比させて軽い嫉妬に似た感情を募らせたりしていたけれど、高校卒業してからの二人の格差は以前にも増してその明暗をはっきりとさせていた。
世の中は不公平。はっきりそう言ってしまえば自分がさらに惨めになるだけだけど、才能や努力だけではカバーし切れない運の無さみたいなものが自分にはあると思った。
容姿にも自信がなく、勉強も運動も異性と親交を持つのも苦手。小さい頃からとにかく苦手なものばかりで、唯一本気になれた絵にも終いには見放された。
中学で県内のコンクールに選ばれた時、自分には絵の才能がある。なんの取り得もないアタシが充実した幸せな人生を送るにはこれしかない、と将来は芸術家になる道を決意したものの、志望していた美大には二年浪人してなんとか入学した。
それなりに技術は上達したけれど、アタシより絵の上手い人や感性の豊かな人なんて何人もいたし、そもそも美大を出たからといって、絵だけで生計を立てられる保障も何もないのが芸術という世界の現実だった。
広告会社にでも就職できれば御の字と割り切って絵を制作している人が大半の中で、アタシも早々と芸術家になる夢を諦め、次第に学費と生活費を稼ぐためのバイトの方が忙しくなり、大学卒業後も就職難の煽りを受けて割に合わないバイト生活をそのまま送っていた。
ふと気付けば独身のまま三十歳を過ぎ、自分の周囲の同世代たちがどんどん結婚して身を固めていく姿を見ているうちに、芸術家なんていう自分の力量に反した大逸れた道を選んだ事に深い後悔を感じるようになった。
「ねえ……珠子の旦那さんってどういう人? こんな良い家建てるくらいなんだから、稼ぎとかも相当いいんでしょ?」
珠子が得た幸せの最大の要因が知りたくて、大胆にもふとそんな不躾な質問をしていた。
「旦那? そっか旦那ねぇ。……なんていうか、実は美佐枝もよく知ってる人なんだけんど、高校の時バスケ部だった正敏ってまだ覚えてる?」
「え? あ、うん……」
「その正敏がね、今のアタシの旦那。隠すつもりはなかったんだけんど、アタシたち高校の時から付き合っててね、卒業してしばらくしてから、正敏の方からプロポーズされて、そのまま勢いで結婚したの。正敏と付き合ってるのを美佐枝に言うのだけはなんとなく恥ずかしくて、あの頃結局言い出せなかったんだっけ」
……正敏。高校の時にアタシが密かに想いを寄せていた男子生徒の名前をふいに珠子の口から告げられ、アタシは心底驚くと同時にうんざりした。二人が付き合っているとまでは思わなかったけれど、改めてあの頃の事をいろいろ振り返ってみると、二人が妙に仲良さげだった場面に何度か出くわす。休み時間や放課後、珠子が正敏の肩に気軽に触れ、互いに冗談を言い合って戯れている心中にはちゃんと恋愛感情があったのだ。アタシはそれをただ遠目から見ているだけで、正敏との思い出らしい思い出なんか一つもない。地味で暗くてコンプレックスだらけの学校生活をただ必死でこなしていた。
いつの間にかソファで寝息を立てている子供の顔を改めて見てみると、さっきまで気付かなかった正敏の面影が確かにあった。
「正敏、多分もうすぐ仕事終わって帰って来るよ。そうだっ。ねぇ、よかった今晩うちで一緒に晩ご飯食べてってよ? 美佐枝の顔見たら正敏も懐かしがると思うし」
軽い同窓会気分ではしゃぐ珠子の提案はアタシには苦痛でしかなかった。気付くと窓の外は夕焼け空で黒いカラスの群れが山に向かって一斉に消えかけていた。
きっと正敏はアタシの事なんて憶えていないだろう。かつての親友と片想いだった人とその愛息子に挟まれ、歯噛みするほど惨めな思いをしている自分の姿がありありと想像出来た。
「せっかくだけど、お祖母ちゃんが家で一人っきりになっちゃうから、アタシはこれで失礼するよ。正敏君には、珠子からよろしく言っといて」
「そっか。じゃあまた時間がある時にでも遊びに来てよ」
「うん」
遠慮するアタシを珠子がまた家まで車で送ってくれる事になった。アタシは帰りの車中、久しぶりの再会が芽生えさせた嫉妬やら焦燥で胸の中がどす黒く蟠り、珠子が何か話しかけて来ても「うん」と生返事をするだけで、あとはほとんど何も口を聞かなかった。
「じゃあ、また。日を改めて必ずお悔やみ行くさげ」
気まずいドライブを終え、家の手前で降ろしてもらったアタシは、珠子が去っていくのを黙って見送ってから昼間奥ノ院でやり残した事を果たすために夜の岩山の霊場の方へ向かって、来た道を引き返した。もう陽は完全に落ちて、どの家も明かりを灯している。人目を憚って商店街を足早に通り抜けたものの、店のほとんどが閉じたこの時間に出歩いている者は一人もいなかった。ぼんやりと浮かぶ月明かりを頼りに、山門から参道を上り、兄のムカサリ絵馬が待つ奥ノ院へ向かう。
夜の霊場は昼間よりも霊的な世界の臨場感が濃く、真っ黒な岩屋が黄泉の国の入口を連想させた。薄暗い参道の入口に座した奪衣婆のお地蔵様の顔が妙におぞましく、昼間通った時に見た滑稽な印象はすっかり消えていた。他の神仏たちもみんな神妙な顔で、夜の霊場をうろつく不届きな生者を一喝するような威厳を持って佇んでいた。
奥ノ院までの暗く静まり返った道のりに対する心細さと、迷信を信じて禁忌の領域に足を突っ込みかけている後ろめたさを感じながら、一人とぼとぼと先を急ぐ。
今日珠子と再会してふと思い出した事。兄の辰彦が生前アタシによく洩らしていた一言がどうしても頭に引っかかって、気付くと奥ノ院に舞い戻っていた。
「珠子っていつ見てもめんこいよな」
珠子が家に遊びに来るたびに兄は確かそう言っていたと思う。惚れていたのかどうかは知らないけれど、気に入っていたのは間違いない。
幸いにも観音堂はまだ開いていた。お堂の中央に飾られた兄のムカサリ絵馬の前に座り、ロウソクに火を灯す。堂内に犇き合う古参の新郎新婦たちが一斉に浮かび上がった。
「兄さん。アタシ兄さんの嫁さんさ、黒子描くの忘れたっけやぁ」
祭壇の額縁から兄の絵馬を抜く。ためらいはもうなかった。そしてスケッチ用にいつも持ち歩いている木炭を取りだし、兄の横に佇んで微笑んでいる花嫁の口元に丁寧に黒子を描き加えてやった。
実物よりも少し若い気がしたけれど、やっぱりそっくりだった。親友に瓜二つの花嫁がそこにいる。
「……お似合いだよ」
他の絵馬に描かれたどの新婦よりも美しい新婦が兄の横に並ぶ。
ひょっとしたらアタシはまた親しい人の訃報を聞いてこの土地に戻って来る事になるかもしれない。でもアタシの頭の中では二人を祝福するムカサリ絵馬たちの拍手が昼間よりも盛大に鳴り響いていた。
冥婚