魔女の処刑
現代の世界に、新しい国を作りました。パラレルワールドです。異世界ものでもあります。私達の世界と同じものが度々出てくるので、ややこしいかもしれません。
そして、つまらない話です。
1.Iktsuarpok
一年前、母は仕事の都合で一年間家を空けることになった。僕は十九歳で、学校もあるため実家に残った。誰の気配もない部屋。月明かりも完全に遮断された闇の中、布団の上で薄めの毛布にくるまっていた。窓を叩く風の音。時々ミシリと鳴るテレビと、レイゾウコの低いモーター音。時計が刻むカチコチという音に、催眠術でもかけられたように、僕は一瞬にして深く眠ってしまった。次に目を開けた時には朝だった。四時半くらいだろうか。カーテンを窓の両脇に縛り、ガラスごしに外を見ると、ちょうど日が昇り始めていた。街に並ぶ薄黒い屋根たちが次々に明らかになってゆき、悪い物でも祓われた様な美しい風景が広がった。市場の方では開店準備をする人が数人。一階のお店からは、香ばしいパンに甘いバターの香り。今までよりも爽やかな朝だったと思う。
この時の景色、温度、騒音、匂い、味ーーー感じる全てを僕は忘れなかった。そしてこれが僕にとって最後の目覚めとなった。
昨日二十歳になったばかりの僕は、大学の講義にきていた。板書版の前には、いかにも真面目ですという顔をした銀縁眼鏡の男が立っている。延々と何かを語っているが、僕にはさっぱりだった。
「ナツ、これ見ろ」
唐突に左肩を突かれる。
「何」
読んでいる本に目線を落としたまま答えた。明らかに興味が無い態度をとったつもりだったが、彼は今朝の新聞を本の前に突き出し、強引に話を進めてきた。
「ほら、また出たって」
嬉しそうに事件記事を眺めるこいつの名前はアサノ。彼の野次馬っぷりには出会った頃からうんざりしている。一度話しかけられたら逃げられない。そのくせ自分の趣味以外には興味がないところがまたストレスになる。僕の名前に関してはナツではなく、ユキノだと何回言ったかは覚えていない。
「ナツ、聞いてるか?」
「僕はナツじゃないから聞いてない。ちなみにユキノは興味がない」
わざわざ本を閉じ、睨んでやった。悪いやつではないが、自分の履修講義でも無いのに呼び出されたことで、僕はイライラしていたのだ。呼んだのはアサノではなく他の友人だが、貸しがあって断れなかった。アサノも一緒だとは聞いていない…
「ごめんてユキノ。でも、あだ名はナツでいいじゃん。俺、ナツで慣れちゃったよ」
悪びれた様子もなくへらへらと笑いながら言う。
「だめだろ、それじゃぁ気温が全然ちがうだろ…。で、何が出たって?」
この面倒なやりとりも早く終わらせようと話を促した。
「あ、そうそう!これうちの街だろ?魔女が出たってやつ」
アサノは "八人目の魔女"と大きく白抜き文字の見出しを指差しながら答える。そこには、この街の名前「イクツアルポック」とも書いてあった。
「え…」
本を掴む手が一瞬にしてぬるりとした感触になった。紙はその汗で柔らかくなる。濡れた紙を乾かすように吹いた空調からの冷気に、僕は寒気を感じた。
魔女はレガリタ国で恐れられている。それは一種の病のようなもので、魔女と話をした者はその呪いがうつり、後に死に至るという噂である。魔女になった者は処刑され、その付近に住んでいた人々は清められなければならない。
最初の一人が現れたのが五年前の春。十六歳の少女である。彼女は一週間眠れない日々が続いた。色々とあって入院をする事になったが、症状は改善しなかった。その年の秋、二人目と三人目がほぼ同時に現れた。一人目の少女の母親と、少女を担当していた看護師である。彼女たちもまた、眠らなかった。この頃、医師たちは眠らない人を"魔女"と名付けた。翌年、少女と同室に入院していたお婆さんが眠らなくなってから、四人の魔女達を殺す事で感染を抑えたのである。しかしその一年後、五人目の魔女が現れ、魔女専門研究医師団体がつくられた。
今では魔女になる原因や治療法の本が多数発行されている。冷水に浸かる、身体を摩る、断食、催眠ーーどれも効果があった話は聞かない。そして昨日、八人目の魔女がこの街で出たというのだ。
「今日の十七時…か」
アサノは先程の笑顔とは逆に、残念そうに眉間に皺をよせている。
「十七時?」
「ああ、十七時。…そうだ、俺の代わりに写真撮ってきてよ」
ぱっと目を見開いて、良い案を思いついた自分が天才であるかのように提案をしてきた。彼は急に腰を下ろしたかと思うと、無残に投げられたショルダーバッグを漁り始める。
「おい、アサノ。何言って…」
僕の言葉を遮って、またもや目の前に黒い物を差し出す。それはカメラだった。それはデジタルでも使い捨てでも無い、プロが使うような本格的なものだった。
「こんな高価なカメラいつ買ったんだ…」
「こないだ、羨ましいだろ」
鼻の下を人差し指でこすりながら得意げに話す。
「ほら、これ貸すから、な!何枚か撮ってきてくれよ。何なら金出すから!」
と、僕の顔にカメラを押し付けてくる。痛いと押し退けても一向に引かず、左手を自分の顎まで持ち上げ、お願いのポーズ一点張りだ。こうなったアサノを説得するのは、弁護士に依頼しても勝てそうに無い。諦めた僕は無言でカメラを受け取った。
「それで、今日の十七時に何を撮れって?」
「へ?だから魔女だよ、魔女の処刑」
嬉しそうに頬を赤くして笑うアサノとは反比例するように、僕の顔は青ざめていく。僕は、彼の興奮の汗がカメラをびっしょりと濡らしていることに気づき、危うく滑り落としそうになった。
「ナツ、顔色悪いぞ。気分悪いとか?」
「ああ、いや、ただ…最近寝てなくて」
できる限り自然に答えた。
「寝てないとか魔女かよ」
ーー魔女は睡眠をとらない。魔女と一般人を見分ける一つの方法であった。
アサノは自分で言った突っ込みに、半分開いた口を上に向けて笑っている。明らかな冗談口調に僕はほっとする。珍しく面白い彼の突っ込みに思わず笑ってしまった。
「なんだそれ、そうなら笑えたな」
イライラしていたことも忘れ、いつの間にか心地よい気分になっていた。
「何言ってんだ。魔女は女しかならないだろばか」
彼は笑いをこらえる代わりに僕の背中を叩いた。痛い痛いと言いながら一緒に笑う。
「じゃ、お代はロータスのケーキな」
少し高めの声で話しながらカメラを掲げて見せた。僕は講義終了を知らせる鐘と同時に別れを告げ、小走りで教室をでる。アサノが「割に合わない」と叫んでいたが、振り向きもせず空いた手をひらひらとしてやり過ごした。
この街で魔女が出るのは初めてだった。
アサノから無理やり持たされた記事によると、今回の魔女は二十三歳の女性。名前はマリ。魔女と接触した詳細は調査中で、半年ほど眠っていなかったとある。
彼女は二十日前から隔離され、魔女専門研究医師団体より直接治療を受けていた。結局回復の見込はなく、今朝処刑が決まったらしい。
処刑と言っても苦しめる様な物ではなく、注射2回による安らかなもので、十分程度で死に至る。僕らが見れるのは、それが行われた後の魔女だ。場所はこの街で一番大きな多目的ホール。街の真ん中辺りにあり、沢山の蔓が寄生するように絡みついた建物は印象的だった。葉の間からチラチラと見え隠れする鮮やかなステンドグラスは、可愛らしく見える。演奏会や個展、街の催し物が時々ここで行われることもあった。
時刻は十六時。建物の前は既に多くの人で溢れている。今回の魔女のマリは、こんなにも沢山の人に愛されていたのかと驚いた。若い人もいるが、マリの年齢よりも一回り大人の人達が多くいる。
右の扉は入口、左の扉は出口と看板が取り付けられており、中央の大きな扉には蔓が纏わりついていて長年使われてないようだった。
僕は右の扉へ続く列に並び、十八時前には入ることが出来た。
「ひ、ひろ…」
てっきり二階建てだと思っていた。中には一つの空間しかなく、真っ黒な大理石の床に自分が映っている。天井は、鳥、植物、天使などの彫刻が施されており、手を伸ばしてみても、遠すぎて触るのは不可能だ。氷上を渡るような緊張感の中、歩くたびに、僕の鼓動はどくどくと速くなった。奥に見える箱は…おそらく八人目の魔女の棺だろう。気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。ツンと鼻の奥を刺激する甘酸っぱい花の匂いが強くなった。
「あ、あの…えっと写真は撮っても?」
棺の横に立つお世話役の男性に声をかけた。
「ええ、あまり近くでなければ」
「ありがとうございます」
お礼を言って花を受け取った。
棺はしっかり密閉されていて、蓋だけがクリアになっている。中の彼女は微笑んで見えた。その瞬間喉の奥が少し苦しくなり、目から涙が一粒こぼれ落ちた。
彼女は半年前から眠れなかったと言った。眠れない日々が続いたのに、彼女は誰にも話さず、半年も一人で不安を抱え込んだ。そんな彼女が永遠に眠る事を望んで、誰かに打ち明けたのだろうか。
彼女の首元にそっと花を置く。それから三歩離れて写真を撮った。処刑というより葬儀みたいだった。あまり棺の前に長居すると迷惑なので、すぐに出口へと向かう。長い一瞬だった。ホッと一息ついた直後、ちょん、と後ろから服の裾を引っ張られた。
「お兄さんお兄さん」
「は?」
後ろを振り向いてぎょっとした。赤いロングコートのフードを深くかぶり、目元を真っ黒な前髪で隠した長身の人間が立っていた。真っ赤な口紅とその口調からして女性だろう。角度によって黒光りするコートがなんとも怪しげである。
「お兄さんは何か悩みがあるんじゃないかしら」
「い、いえ…」
戸惑いを隠せなかった。
「あれ、間違えたかな…」
女性はぼそぼそと話しながら考え込んでいる。僕は恐る恐る尋ねた。
「あの…ど、どちら様ですか?」
「ああ!ごめんね!あたしはアロンゾ。占いをやってるの」
彼女はにっこりと微笑んだ。見た目より明るい性格のようだ。
「占い?占い師さんが僕になにか?」
「少しあなたとお話がしたいと思って声をかけさせてもらったの。あなたはマリさんのお友達?」
「違いますけど…」
僕と話がしたい理由がわからない。それに、最初にかけられた言葉は"悩みはないか"だった。お話がしたいというよりも、占いをするために声をかけたのでないのだろうか…
「お話しってなんですか?占いなら大丈夫です。悩みはありません」
お金はほとんど持っていないので、せがまれる前にキッパリと断っておく。
「そう?でも、あなた泣いていたじゃないの」
「そ、れは」
顔が少し熱くなる。泣いているところを見られていたなんて。恥ずかしくなって、床に映った自分の影を見つめた。アロンゾのクスッと笑いを堪える声が聞こえる。
「恥ずかしくなんてないわ。人が亡くなって、悲しくない人なんていないもの」
肩にそっと手を置かれた。顔を上げると、彼女の口元はにこやかだった。周りを見渡すと、何人かと目があった。会話がうるさかったのかもしれない。
「外を歩きましょうか」
アロンゾも周りの空気を察したのか、僕の背中を軽く押して、二人で出口へ向かう。立ち話をする人々を避けながら歩いて行くと、人集りが見えた。
「あれはなんですか?」
そう言って人集りを指差した。
「あれ、貴方、もしかしてお金持ってきてない?」
「お金?」
「やっぱり…処刑会場にくるには三百メルほど必要なの。」
三百メルとはだいたい一般的な辞書が三冊ほど買える金額である。出口の扉では受付係が二人立って、退出する人々から何やら紙を受け取っているのがみえた。「そういうのは入場時に払うだろ!」と叫びたくなったが言葉を飲み込んだ。ここはで叫べば山彦が返ってきそうだ。周りからの視線が刺さるにきまっている。
額に汗を流し、焦点の合わない僕の目を見つめて女性はにやりと笑う。
「今、それは入口でやってくれ!って思ったでしょう?」
「んなっ」
アロンゾはとても楽しそうに笑った。
「わかりやすいのね。そうね…魔女の処刑では、払わざるおえない状況にさせて、お金を集めるところもあるの。」
「それって詐…」
言いかけた言葉を遮って、僕の口に人差し指を当てた。
「いいえ、一応外には提示してあったわよ。小さくね」
彼女の前髪が風に揺らされて意地悪な笑みが見える。金色の瞳がキラキラとして眩しかったが、目を反らせなかった。
「それ、私が助けてあげるから、あなたのお話を聞かせて」
僕は、もっと彼女の顔が見たい気持ちには少しも勝てず、二つ返事で了承してしまった。
外に出ると、陽は沈んでいて、街灯には橙色の明かりが点いていた。気温は涼しくなり、過ごしやすい。まるでゴッホの『夜のカフェテラス』のような光景だった。
僕の家までの道のりを、おしゃべりしながら歩くことになった。
「まずは、お名前を教えて」
「ユキノ、です」
女性と話すのは緊張してしまう。それに、こんなに美しい人が僕に何の話をさせたいのか検討もつかない。
「ユキノくんね。あなたは体質のことで、悩んでいる。あたってる?」
アロンゾの言う体質。それが"眠れない"という事を示しているのかは分からない。もしそうなら、僕もマリのように個室に隔離され、治らないからといって殺されてしまうのだろうか。そう考えると、本当の事は言えない。
「はずれです。友達の無茶振りにはちょっと困ってますけど」
嘘はついていない。眠れないことに悩んではいないし、アサノの無茶に多少困っているのは本当だった。
「そう、でもそのお友達が好きなんでしょう?」
アロンゾはカラカラと笑いながら言った。
「僕からも質問いいですか」
当てられたことに頷くのは悔しかったので、強引に話をそらす。彼女は気を悪くする様子もなく、にこにこしていた。
「なぜ僕に声をかけたんですか?」
「ユキノくんが泣いていたからよ」
「泣いている人は他にもいました」
「あたしはあなたを助けたかったの」
相変わらず表情は微笑んだままで、心が読めない。しかし彼女の受け答えから、僕が魔女であることを知ってるようだった。そうでなければ、「助けたい」の意味がわからなくなる。
「どうして…」
「どうして分かったのか」
僕の言おうとした言葉を、アロンゾが先に言う。
「そりゃあ、占い師だからねっ」
彼女のその言葉は明らかな嘘だった。話す気がないのだろう。ますます僕は彼女が気になっていった。
「僕を助けたい理由は…」
興味が抑えられず、続けて質問をする。
「死ぬのは恐いでしょう」
やはり、彼女には何でもお見通しだった。それはとても嬉しかった。この時は当てて欲しくて聞いた質問だったからだ。
「アロンゾさんはすごいですね。…僕は眠れないことなんて気にしていません。魔女でもいいんです」
「ユキノくんが泣いたのは、マリさんと自分の未来を重ねてしまったのよね」
アロンゾは的確に僕の気持ちを言葉にする。
「アロンゾさん、僕はどうするべきですか」
「このまま隠していく方法、だけを聞いてるわけではないみたいね」
頬を赤らめて笑う顔は本当に嬉しそうだった。
「はい」
その嬉しそうな表情に巻き込まれて、僕まで口角が上がってしまう。彼女はその返事を待っていたように、一枚の白いカードを自分のぽっけから取り出した。
「レガリタの南の方にね、ヴァルトアインザムカイトっていう街があるの」
「ヴァル…アインカイ??」
カードには簡単な地図が書かれている。僕はそれを受け取ってまじまじと見つめた。
「ヴァルトアインザムカイト」
手を口に添えて上品に笑うアロンゾは可愛かった。街名を間違えたことに後悔はない。むしろ自分を褒めたいくらいだ。
「街と言っても廃墟ばかりだけど。そこにあたしの知り合いがいるんだけど…」
「お医者さん、とか」
「うーん、お医者さんではないみたいなんだけど…きっとあなたの助けになってくれると思うの」
何ともあやふやな返事だった。僕にとって何でも知っているアロンゾが、よく分からない人物に頼るのは不安がある。
「その人は"ヴァルトの魔女"って呼ばれてるわ」
「魔女…」
「問題なのは、街の何処に住んでいるか分からないの。ごめんなさいね。でもその人に頼るしかないと思う」
不安はあるけれど、そこらへんの医者の方が信用ができないのは確かだった。今回、マリが処刑されることになったのも、病院へ行ってしまったからだ。
「いえ、十分です。行ってみます」
「ユキノくん、気をつけてね」
「ありがとうございました」
あっという間に家に着いてしまった。誰かとおしゃべりをしていると、こんなにも時間が過ぎるのが早いなんて。
「あ、僕の家は二階なので。それでは」
階段に右足をかけて振り向きながらお別れをする。
「ええ、また会いましょう。おやすみなさい」
「僕は寝ませんよ、おやすみなさい」
お互いの距離は二、三歩しか離れていないが、手を振り合う。彼女が「また会いましょう」と言うのだから、また会える気がしてしまう。一礼だけして階段を登る。途中でもう一度振り向いてかがんで外を覗いてみたが、そこにアロンゾはいなかった。
2.Culaccino①
光が外に漏れぬよう、カーテンはずっと閉めきったままだった。壁に背中を預けて座り、今夜も朝まで読書をして暇をつぶす。調べものをしようにも、この時間の図書館は閉まっている。もちろん眠気はこない。今日会ったことを振り返ってしまう。アロンゾとヴァルトの魔女はどんな関係なんだろうか。ヴァルトの魔女は今何をして過ごしているのだろうか。
そうしているうちに、窓越から鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「うう、朝か」
ずっと同じ体制で本を読んでいたので、肩が凝ってしまった。
まずは大学の図書館でヴァルトアインザムカイトについて調べよう。今日は授業があるはずだが、アサノも選択をしていた気がするので、後でノートでも見せてもらうことにした。ついでにカメラを返そう。
母親が仕事で家を出た日から、一階にある開店前のパン屋で朝食を買ってくるのが日課になっている。石階段を軽い足取りで降りて行くと、今日もあの日と同じバターの香りがした。
「はよーごさいますー」
"close"の看板がつるされた扉を開けると一瞬にして温かい空気に包まれた。
「あら、今日も早起きね。これ、ユキちゃんの。今切るからねえ」
焼きたての食パンを巨大なオーブンから店頭に運び出すおばちゃん。食べ物にこだわりのない僕は朝昼晩と、食パンにベビーリーフとスクランブルエッグを挟み込んだだけの、特製ユキノサンドを食べる。薄めに切られたパン六枚が紙袋に入れられていくのを確認して、お代を払った。
「いつもありがとう、おばちゃん」
「いいのよお、お礼なんて。」
おばちゃんは満更でもない顔で照れた。
「あ!そろそろお母さん、帰ってくるんだっけ?よかったわねえ」
「うん、明日。そしたらパンは時々になっちゃうかもだから」
「買わなくてもユキちゃんならお茶しにおいで。歓迎するからさあ」
おばちゃんは六十歳で、一人でお店をやっている。ちょっと前までは夫婦でお店に立っていたのだが、おじちゃんが腰を痛めてしまい、昼間の混む時間帯だけ手伝ってもらっているのだそうだ。
僕は少し悲しげに笑うおばちゃんに「はーい」と元気よく返事をした。お店を出て深呼吸をする。風が強いせいか、外は微かに潮臭かった。階段を上る足取りは自然とリズミカルになり、鼻歌を歌いながらドアノブを回した。一人で隠し続けた秘密をアロンゾに知ってもらって、体が浮いたようにふわりと軽いのだ。
部屋に戻ると、買い溜めしてあった賞味期限ギリギリの卵とベビーリーフで、二食分のサンドを作った。一つは大口で頬張り、水で胃に流し込んだ。その薄い味付けは食べた気がせず、お腹は物足りないと感じた。もう一つはペーパーで包んで灰色のショルダーバックに放り込んむ。黒の長ズボンに長袖の白いYシャツを着て、そのバックを肩にかけたモノトーンコーデは、大人っぽくまとまった。
しっかりと家の鍵をかけ、一段飛ばしで下に降りる。最後の三段を飛び降りた着地の際、左膝の力が抜けて転びそうになった。右足でなんとかそれに持ち堪えた僕は、お金とお弁当だけを持って、駆け足で駅に向かっていった。
三十分間列車に揺られて、目的の駅に到着した。五分程度歩いたところに大学があり、図書館はその二階だ。フロア全体が図書館となっているため扉はない。そのフロアに続く大きな階段が中央にあるだけだった。足元には、歩く音が響かないように芝生のような絨毯が満遍なく敷かれている。勝手に入っても良いのか迷ったが、受け付けの人は席を離れているようで、そのまま直進してしまった。
レガリタの地誌本を探す。何冊か棚から抜き出し、広間に設置された机に積み上げた。適当に選んだ書物には、ヴァルトの街は目立った特徴もないのか、「ほとんどの住民はレガリタの都心に移住し、街は廃墟と化した」と簡潔な説明が書かれているものばかりだった。アロンゾの話では魔女が住むと聞いていたのに、それについて触れた内容が一つもない。どこかの国に、"百聞は一見に如かず"という言葉があるらしい。つまり僕は、百回聞くよりも一度でも自分の目でみる方が確かだ、と言いたいのである。それに、誰だか知らない人が同じ情報を書物にし、公式に出版された本をいくら読んでも、占い師アロンゾに対する信用には及ばない。それくらい、僕の中にいる彼女の存在は大きかった。
「あー…なんだかな。好きなのかな」
「何が好きだって?」
「うわっ」
背後にはアサノが立っていた。両手にはたくさんの新聞紙が集められている。僕はここにいるはずのない彼に声をかけられて、驚いてしまった。
「アサノ…じゅ、授業は」
何でお前がここにいるんだ、とでも言いたそうな顔で聞いてしまったことに後悔する。
「さぼり、お前と一緒」
お互い様だ、と言いたい顔をしたアサノの的確な返答に苦笑いしてしまった。
「ナツはここで何してんの」
「ああ、ちょっとね。ヴァルトについて調べてた」
「あ、お前もなに、魔女調べてんのか」
「ああ…え?」
ヴァルトに魔女がいると書いた書物は無かったのに、彼は知っていた。そういえば、本を読み漁るより簡単なことがあったじゃないかと気がつく。アサノは色々な事件の情報を読むのが好きで、特に魔女の関係した話には目がない。もしかしたらヴァルトの魔女について、有力な情報を持っているかもしれない。
「あのさ!!アサノ!」
両手で机を押すように立ち上がり、アサノに顔を近づける。椅子を勢い良く引きすぎて倒してしまった。運が良く、絨毯のおかげでそれほど音はならなかった。それを見た彼は一瞬目を見開いたが、すぐに冷静になって僕の頭を拳で一発こつんと殴った。
「図書館だ、ばか。どうしたんだよ」
つい焦って大声で叫んでしまった。椅子を起こしながら気持ちを落ち着かせる。
「ヴァルトの魔女のこと、教えてくれ…」
きっとアサノは、僕がヴァルトの魔女に興味を持つことを不思議に思っただろう。それでも、理由を言いたくない雰囲気を察して、聞いてはこなかった。僕は彼のそんなところが気に入っていた。
魔女がヴァルトに現れたのは最近のことだった。しかし現れたと言っても数少ないヴァルトの住人が噂をしていただけで、確実な証拠はなかったそうだ。そこで魔女専門の医師団員が調査しに行ったのだが、どうやらその魔女は、魔法使い"のように"住民達のあらゆる問題を解決したことが街で有名になり、そう呼ばれるようになったという。魔女は偽物だったのだ。もちろん、偽物の記事などは大きく取り上げられず、人々の興味は今回の魔女マリに向けられていった。
ヴァルトへ行くにはフェルンエという場所まで列車で四時間。その途中、クラッチーノで乗り換えが一回。さらにフェルンエから一時間ほど歩かなければヴァルトには辿り着けない。おそらく二、三日はこの街を離れてしまうことになるだろう。母親にはなんて話そうか、大学にはどう理由を提出しようか。やらなければならない事がたくさんあった。
「なあ、ナツ。魔女と言えば、処刑の写真は」
「あ」
頭からすっぽりと抜けてしまっていた。カメラは家のテーブルに置いたままだ。アサノは返事を聞くまでもなく、肩をガックリと落とし、深い溜息をついている。
「楽しみにしてたのに…」
わざとらしい落ち込み方で、僕の反応を待っているのが分かった。
「ハイハイ分かりました、今から取りに帰りますー」
用意された台詞を初めて読みました、というような棒読みで話す。彼には質問に答えて貰っているので突っ撥ねることはせず、一度家に帰ることに決めた。
「ありがとう!さすがナツ様!なんなら俺もついて行こうか」
「いらん」
結局、最後の言葉は全力で否定して図書館をあとにした。
時刻はまだ昼前。カバンには、なま温かくなった特製サンドが入ったままだった。いつ昼食にしようか、考えながら歩いた。
自宅近くまで来ると、おばちゃんのパン屋には、お店の壁沿いに数人が列をなしているのが見えた。おばちゃんのパンは種類は少ないが、働く人々を考えて一つ一つ丁寧に開発しており、ボリュームはあるのに食べやすいところが人気だった。そのため、平日のお昼は外まで列ができる。店先にはおじちゃんがお手伝いに来ていて、彼の元気そうな顔を見て僕は安心した。
自宅のドア前まで着くと、左ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。大学に戻ったら特製サンドでもゆっくり食べようかと思いながら鍵を回す。
「あれ」
軽かった。
回した手の感触はいつもより軽く、ロックが外れた時のカチャリという音も聞こえなかった。
鍵を閉め忘れてしまったのかと思ったが、今朝も閉めた記憶が頭の中にはっきりと残っていた。不気味な出来事に息使いが少し速くなり、何秒か瞬きを忘れてしまった。嫌な予感がする。それでも気味の悪い出来事の原因を知りたかった。ここで確かめなければ、何も分からない恐怖がいつまでも残ってしまう。僕は少ない勇気を振り絞り、息を整えてから静かにドアノブを下ろした。
「…母さん?」
恐る恐る扉を引いてみるが、カーテンを完全に閉め切った部屋は昼間でも暗く、よく見えない。
「帰ったの?」
もう一度声をかける。返事はない。
自分の開けたドアから差し込む陽の光のおかげで、電気のスイッチは見つけやすかった。スイッチまで手を伸ばし、それに触れる。
その瞬、間部屋の奥に黒い何かが動いた。黒い何かは机の陰からゆっくりと起き上がる。あれは…人だろうか。早く明かりをつけなければと思いつつも、自分の体なのに思うように動かせない。ただ黒い何かから一瞬たりとも目を離さずじっと観察をした。
「誰」
母親ではないことはとっくに理解している。黒い何かを刺激しないように、返事を待った。
「…」
長い沈黙が続いた後、黒い何かはじわりじわりと僕の方に近づいてきた。その度にギィと一定のリズムで床が鳴る。あれは人間の歩く音だと確信した。
目線は黒いそれに向けたまま、錆びた自転車を漕ぐように力いっぱい自分の足を動かす。動け動け動けと何回も念じながら後ずさりをした。
僕は完全に外へ出て、開いたドアを支えていた右手をそっと引く。部屋に差し込んだ光は細くなっていき、人間の正体はますます闇の中に埋もれた。それでもいい、幽霊でもポルターガイストでもない、人間の仕業だったと判明しただけで充分だ。あとほんの少しでドアが閉まろうとした時、隙間からその人間が勢い良く突進してくるのが見えた。顔がうっすらと浮かびあがる。何処かで見覚えのある顔だった。思い出そうにも僕の頭の中は真っ白で、思考よりも先に体が反応していた。逃げなければ。
無我夢中で走る。パンの香りも、吹く風も、賑やかな音も感じない。駅に到着するまで、一度も足を止めなかった。その間、何回足を縺れさせたか覚えていない。感じることが出来たのは、膝にできた幾つかの痣がズキズキとする痛みだけだった。
人通りの多い駅付近に着くと、顔、体、服ーーーはっきりと視覚で確認できる通行人に安堵する。その光景に足を止めて、深呼吸をしようと大量に吸い込んだ酸素に咳き込んでしまった。口の中が乾燥して、喉の奥がねばねばする。思わず目が潤んだ。アサノのカメラも置いてきてしまった。家にも帰れない…そしてあの人は誰だったのか。明日、母が帰ったらどうなるのだろう。何も考えずに走ったぶん後から遅れて、色々な思いや感情、考えが整理されない状態で浮かんでくる。周辺には自分と同じ"人"が大勢存在し、僕はその他人に触れられる距離に居るというのに、孤独感を感じてしまう。もしかしたら、他人が居るからこそ、自分の孤独感がより強くなってしまうのかもしれない。理解者が欲しい。
「アサノ、ごめん」と、何も居ない空間に呟くと、その寂しさから逃げるようにこの街"イクツアルポック"を出発した。
もちろん僕が乗った列車は、ヴァルトへ向かう途中、乗り換えをする予定であるクラッチーノ行きの列車だった。
恥ずかしながら、二十歳にもなって街を出るのは初めてだった。母子家庭である僕の家は、旅行をするお金なんて持っていなかった。父は幼い頃に家を出て行ったきり帰らない。母親は理由を離さなかったが、僕にはそれが伝わっていた。良いこと悪いことの判別がまだしっかりつなかい年齢ではあっても、あの頃の泣きながら「どうして私じゃないの…」と毎晩鼻水をすする情けない母親の姿なら、今でもはっきりと思い出せる。昔からそんな両親達が嫌いだった。一年前、仕事で家を空けると聞いたときは、不謹慎なことだが気が楽になった。その、楽になって余裕ができたばかりの心はすぐに、"魔女"になった自分は殺されてしまうのではないかという恐怖心で満たされていったのだが…
列車のドア際に立って、だんだんと田舎の景色になっていく外をぼうっと眺めていた。一瞬だけ見えたあいつの顔面を、過去の記憶から思い出そうともした。一向に思い出せる気配がない。体も心も疲れていて、脳が働いてくれなかったのだ。今はただ胃が空腹を訴えてくるばかりで、苛立ってしまう。
「お腹すいた」
実際に言葉にしてみる。
余計にお腹が空いてしまったのを実感する。
バックに手を突っ込むと、しっとりとしたサンドイッチを手探りでつかんだ。その手を引っ張り出し、おもむろに包紙を剥がしていく。露わになったサンドを一口齧った。挟んだベビーリーフはぐったりとしていて、美味しいとは言えない味だった。それでもぺろりとたいらげてしまった。
「足りない…」
いつもならば、一つ食べれば満たされたのに、今日は何だか満足できなかった。
クラッチーノに到着すると、列車の中の誰よりも一番に降車した。ここから、フェルンエまで三時間も列車に乗ったままになる。フェルンエ行きの列車はあまり多くは出ていないみたいで、出発まで五十分はあった。指定席は高くて買えなかったので、自由席チケットを購入する残金を手のひら上で確認して、売店に向かった。
売店に来たのは電話機を借りるためだった。僕は携帯端末を持っていない。端末なんて高価な物を持てるのは富豪達だけだ。事情を説明して、まずは自宅にコールさせてもらう。誰も受話器を取らないことに胸をなでおろした。もしあいつが出たら…という不安があったからだ。それでも家にコールしたのは、母親を一応心配してのことで、固定電話機に伝言を残すためだった。伝えたのは、少し友人の家で寝泊まりするという嘘と、何か不審な人が来たら直ぐに警察に連絡するように、という二つ。それ以上は残さなかった。
店を離れる際にふと目に付いたのは、表面に薄くゼリーのコーティングがされた、鮮やかな色の柑橘系フルーツタルト。久しぶりに見る蛍光オレンジが、ちかちかと眩しい。フルーツの下にはふかふかのお布団のようなカスタードクリームが隙間なく詰まっていた。それを口に含んだ想像をして、口内にはじゅわりと唾液が溢れ出していた。こぼれる前にそれを飲み込む。買ってしまえば、帰りの交通費が足りなくなることは承知していたけれど、どうしても食べたい。人は欲を目の前にすると、都合の良い考え方をしてしまうもので、お金はあっちの土地で少し店の手伝いでもすればなんとかなるだろうと思ってしまう。それに、あのタルトならば、今の自分を癒してくれる気がした。
その時、へそ辺りから「ぐうぐう虫」が鳴くのが聞こえた。
「よし、これください」
先程の訳のわからない出来事に、未だ放心状態から完全に抜け出してはいないけれど、脳内整理はヴァルトに着いてからすることにした。
魔女の処刑
あと、これからもよろしくお願いします…