お局になる日
くらげみん
暑い。目の前のアイスティーはみるみるうちに汗をかいていく。あつい。ここはランチメニューが人気のカフェの室内で、クーラーはすぅっと涼しい風を吹かせながら動いている。目の前の彼女達は、ちょっと寒いねー、なんて薄手のカーディガンを羽織っている。私は暑い、この場が暑い。暑苦しくて仕方がない。
「先週、彼氏と温泉旅行行ってきたんですよぅ。」
「ええ!いいなぁ。どうだったの?」
大して仲良くもない相手の男の話を、さも興味があるかのようにうんうんと聞くのは、女性ならではの悪しき慣習だと思う。自分は男にはなった事がないから、男同士の会話がどういったものかは知らないが。
「そこ料理も美味しくてー、露天風呂も部屋についてたんですけどー…。」
「えー!めっちゃいいねぇ!」
おいおい、さっきからいいねぇしか言ってねーぞ、と心の中で先輩に突っ込む。同じ部署で働く私より2つ上のこの先輩は、こうやって相手をおだてて褒めて話を盛り上げるのが上手い。彼女はその性格から広い人脈を持っており、こんな私とも、歳が近いという事から仲良くしてくれる。今日はふたりでお昼を食べる予定だったのだが、初めて見る他部署の若手の女の子も、一緒にいいかな?と連れてきた。
「お部屋で懐石料理だったんですけど、わたしこういうきちんとした懐石料理って初めてでー!」
「えっ、どれどれ?」
彼女の上手い合いの手によって、私より一回りくらい違う、名前も思い出せないなんとかちゃんの恋愛話はヒートアップしてくる。何やら可愛らしいふわふわしたカバーの携帯を取り出し、先輩におそらくは懐石料理と、ついでに写ってる彼氏の顔を見せているのだろう。
「お待たせしました。日替わりパスタのお客様は…。」
「あ、はーい!こっちふたりでーす!」
なんとかちゃんが手を挙げる。ふたりの前には本日のパスタである、キノコと4種のチーズのパスタがふたつ、綺麗に並べられた。
「生姜焼き定食のお客様…。」
一方私の前には、どっしりとしたお肉に申し訳程度の野菜、それにご飯と味噌汁とお新香が並べられた盆である。ここのカフェは小洒落たパスタも、こういうがっつりした定食も置いてあるから、性別や年齢を問わず人気であったりする。もっとも、私は定食しか頼んだ事が無いが。
「…そしたらその時ぃ、なんと!プロポーズされちゃったんですぅ!」
プロポーズという単語を聞いて急に胸がドキンと跳ね、味噌汁を持った手が止まる。
「おおー!おめでとう!やっとだねー!」
以前から話を聞いていたのか、先輩はようやく結ばれてよかったねぇと言ったところだった。私は動揺を隠すように味噌汁を啜る。あつい、顔があつい。
「あっ、そういえば。」
先輩が思い出したかのように私に話しかける。
「私先月入籍したんだわ。そんで、9月に退職する予定。まだ課長と部長にしか話して無かったんだけどね。」
えっ、と私が先輩を見つめながら驚きの表情していると、彼女の横でなんとかちゃんが、えー!初耳です!おめでとうございます!と黄色い声を出した。
「籍入れるまで、みんなには内緒だったんだよね、ごめんね。社内恋愛ってビミョーなルールがあるからさ…。」
そんな事を言いながら先輩は、お相手が他部署のだれだれさんという事を教えてくれた。残念ながら、私はだれだれさんの顔は分からない。その話を聞く自分の顔は未だあつい。箸を持つ手もあつい、この場全部があつい、あつい。
「という事で、私が抜けると一番上になっちゃって大変かもだけど、私より仕事できるし、全然大丈夫だと思ってるから!」
頑張ってね!とニコニコ幸せそうに笑いながら、先輩は私に言った。先輩の横のなんとかちゃんは、もう結婚式の話をしたそうにしている。私の目の前は穏やかで花びらが舞いそうな空気を纏っている。こちらの生姜焼き定食の女にとってそれは、暑い、哀しいほどあつい。
アイスティーの氷がカラン、と音を立てた。コップの水滴がテーブルを濡らしている。あつい、額から汗が止まらない。私はついにこの日が来るのか、と味噌汁を啜りながら、心の奥で泣いていた。
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