白痴との遭遇

 我らが揺籃の星、地球。その軌道上に、何かが浮かんでいた。
 チャーハンがこんもりと載った皿のようなシルエットだが、表面は鈍色だった。その上、皿の下側からは泡立ったような丸い何かがくっついていた。三つのそれは、時折、黄と白に明滅している。
 まるで、宇宙船のようで、実際に宇宙船だった。何を隠そう、ペテルギウスからやって来た宇宙人がその中に乗り込んでいた。
 大小様々な機器に囲まれた船内で、数千にも及ぶペテルギウス星人たちはふわふわと浮きながら、三つの瞳で正面を見つめていた。そこには、一回り大きなペテルギウス星人が居た。
「諸君、ようやく待ちに待った時が来た。
これは、聖戦だ。
資源豊かな、この星を蛮族の好きにさせていていいわけがない。
我らが移住し、この星の新たな支配者となるのだ」
「おーっ」
 号令と共に、大きなペテルギウス星人が触手をしならせると、宇宙船は地球へ吸い込まれていった。その際に、各国の衛星たちのすぐ側を通ったが、どの衛星のレーダーも宇宙船を感知することはできなかった。
 
 「敵が空から来るぞぉ」
 今日は大人しく食事していると思ったのも束の間、剛蔵は叫びながら立ち上がった。体がテーブルにぶつかり、揺れた衝撃で味噌汁が零れ出て、剛蔵の方へ向かってゆく。テーブルの縁の辺りまで川が伸びると、上から垂れてきた唾液がそれに合流した。唾液は剛蔵の口へ続いている。唾液と味噌汁は縁へ辿り着くと、剛蔵のズボンの股間にある染みと合流した。
 剛蔵から見て右側の椅子からそれを見ていた幸雄は、何となく水の循環を思い出していた。ああ、海へ行くんだなと、思っていた。床に水が落ちる音が、やけにうるさく聞こえた。
「もうイヤ!」
 そう叫んだのは、剛蔵の正面に座った幸雄の母親である美那子だ。豊齢線の濃い丸顔を両手で覆って、上半身を机に崩した。そのことで、また食器が揺れた。今度はまだ理性のある衝撃で、茶碗たちは倒れることがなかった。
「母さん、落ち着いて」
 幸雄と対面していた彼の父が椅子を引き、母の近くまで歩いて、その肩を抱いた。
「いい加減にしてよ!」
「落ち着きなさい」
「毎日毎日、毎日毎日!
誰が作ってると思ってるの! 誰が片付けると!」
「伏せろ! こら、お前ら伏せんか! 
殺されるぞ!」
「落ち着きなさいって、母さんの苦労はよーく分かるよ。
分かる、分かるからさ」
「もうイヤよ、無理よ」
「あああ! 撃たれた! 違う、俺じゃない!
朝比奈だ! ババババ!」
「うん、うん」
「私、皆でご飯食べたいだけよ。
なんで、そんなことすらできなくなるの?」
「おお、サチか。
腹が減ったな、飯はあるか?」
「いずれできるようになるよ、また元通りになる。
だからね、これまで大丈夫だったんだから」
「これからはもう嫌よ! 今すぐ追い出して!」
「ガッシャーン! 国へ帰りたい! 」
「しかしね、実家は売りに出したし」
「老人ホームに入れてよ……」
「それだって、金がかかる」
「食べてる時だけが生きてる実感がある。
サチ、飯」
「そもそもアナタが頼りないから、厄介ごとばかり押し付けられるの。
叔母さんの葬儀だって、赤の他人なのに喪主をやらされて……
お義母さんの時で慣れてるからだなんて理由!」
「赤の他人ってことはないだろう、君の兄さんが選んだ人じゃないか」
「サチ! 飯!!
「うるさい!」
 弾かれたように顔を上げて、母が怒鳴る。すると、父は眉をすまなそうに下げて、幸雄に目配せした。
「お爺ちゃん、もう部屋行こっか」
 幸雄に支えられながら、剛蔵は歩き出す。何か口をもごつかせていたが、別に言いたいことがあるわけではないようだ。幸雄が彼に近づいた時、つんと酸っぱいような臭いが鼻をつく。本当は触るどころか、近づくのも嫌だったが、そういった素振りを見せると父親が怒るので我慢した。
 リビングを出て、扉を後ろ手で閉めると、真っ暗な廊下が広がった。幸雄は、電気のスイッチを押す。十数年住んでいる家だけあって、慣れたものだ。
「ほら、歩いてよ」
 幸雄が腰を押すと、剛蔵はのろのろと足を進めた。
こうして剛蔵と歩いていると、小学生の頃は夏になるたびに、父親の実家まで遊びに行っていたことを思い出した。一週間程度の滞在だったが、父は最初と最後の日しか居なく、母と祖母は家から出たがらないので、幸雄は剛蔵と二人で色んな所へ遊びに行った。
 川釣りに虫取り、剛蔵は自然と遊ぶのがとても上手かった。沢山の獲物を抱えて、田んぼに囲まれた道を剛蔵と二人で歩く時間が幸雄は大好きだった。紅い空の下で、側溝から聞こえるカエルの声を音楽に、稲穂とトンボが踊るように戯れていた。延々と続くあぜ道は、子供の目からは終わりのないように見えたが、二人の足音が秒針のように刻まれて、向こうの山へ陽が隠れて行くのが分かった。
 そんな帰り道、剛蔵はいつも昔のことを話してくれた。戦争のことだ。自分がいつ、どこで、どうして戦ったか、そんな話。話の中で、いつも剛蔵は勇者であった。自分がもう少し、活躍していれば、日本は戦争に勝てた。そう断言して憚らなかった。
 その勇者の今がこれだ。所かまわず便を垂れ流し、口からは連続性のない言葉ばかりが発された。
「撃てぇ!」
 体を硬直させながら、剛蔵が叫んだ。肩が幸雄の顎を下から突き上げる。
 幸いにも舌は噛まなかったが、彼は痛みでうずくまった。
「さっさと入れ!」
 顎を抑えながら、突き飛ばす勢いで和室に剛蔵を押し込む。そして、幸雄は力強く引き戸を閉めた。
 一度、リビングの方を見たが、戻る気にもならなかったので、幸雄は廊下を更に進んで階段を上がる、二階の自室へ向かっていた。明日に向けて、もう眠ってしまうつもりだった。
 
 夜中、床下からの音で幸雄は目を覚ました。心当たりはあったが、面倒なので寝ていることにしたが、しばらくするとドアが小さくノックされた。
「幸雄、起きてるか?」
 仕方がないので、布団から背を離すと、ドアの方へ向かって呟いた。
「なに?」
 ドアノブが回されて、突き出た腹をトランクスに乗せた父親が入ってくる。幸雄は、わざとらしいほど眠たげに目を擦った。
「お爺ちゃんがな、外に」
「また?」
「そうなんだ、それで」
「俺、明日テストなんだけど」
「今ならそんなに遠くに行ってないから」
「母さんは?」
 幸雄の父は、また眉を下げただけだった。大きくため息を吐いてから、立ち上がった幸雄は一階に降りると、スリッパを履いて、開けっ放しの玄関から外に出た。
 
「隊長殿、着陸しました!」
「よし、まずはこの町を占拠するぞ」
 横並びの三つ目をぎらつかせて、隊長と呼ばれた大きなペテルギウス星人が指示すると、数千のペテルギウス星人が統率の取れた動きで、宇宙船の出口を目指した。
「た、隊長!」
 モニターに注視していたオペレーターらしき星人が叫ぶ。
「なんだ、どうした!?」
「巨大な質量がこちらへ迫ってきています!」
「なに?」
 隊長は振り返ってモニターを見る。モニターは真っ暗で、何も映していないようだった。
「なんだ? 何も映ってないじゃないか」
「違うのです、モニター全てをそれが覆っているのです!」
「な、ななな!」
 隊長は触腕をくねらせながら、三つの瞳をバラバラに動かす。他のペテルギウス星人たちも同様の動きをした。
「退避だ! 退避!」
「はい!」
「わわ! ぶつかる!!」
 モニターにヒビが入り、丸い天上がへこんだかと思うと、すぐに全てが平坦になった。数千のペテルギウス星人もそうだし、星間移動を可能にする超技術の飛行船も何もかもがアルミ缶よりも短く潰れた。
 
「おっ?」
 物干し竿を振り回して、宵闇に包まれた町を歩いていた剛蔵はふと、足を止める。何かを踏んだような気がして、足裏を見た。肌色の中、かかとだけが赤く汚れていた。
「なんじゃあ!」
 平時からしわだらけの顔に、更なるしわを重ねる剛蔵。そこへ、青いパジャマ姿の幸雄がやってきた。
「ほら、帰るよ」
 幸雄は剛蔵の腕を掴むと、家の方へ向かった。この時、幸雄はまた、あの田舎道のことを思い出して、少し心を痛めていたが、剛蔵は違うことを考えていた。そして、結論に行きついたように声を上げた。
「勝った!」
「なに言ってんの、もう遅いんだから叫ばないでよ」
 どこかから飛んできたトンボが垣根の上で、羽を休めていた。それを認めた幸雄は、更に気を悪くし、家路を急ぐのだった。

白痴との遭遇

白痴との遭遇

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-30

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