おもい とは かく いし の ように
ボロアパートの屋根が、又雨漏りをしている。それは、決まって部屋の隅で起こるから、日焼けした畳の上には常に建水が鎮座している。母親が見れば目を剥きそうな行為だが、今の自分には何の価値も無い物だ。
だがさすが業物だけあって普通の茶碗よりも水音の響きが良いように思う。狭い部屋に響くトントンという音に耳を傾けるのは、自分なりの時間の楽しみ方だった。
こんな雨の日には尚更、その軽やかなリズムが心地良い。
何故こんなアパートを借りたのだとよく言われた。彼らは、実家を頼れば良いだろうにと口々に言った。
理由の一つは、父親が決して成人した子供を甘やかさないからだ。それでも仕送りはしてくれる。これは母親の情けだろう。
もう一つは、自分のどこかボンヤリとした性格のせいだ。
気付けば大学の入学式は目の前で、駆け込まず歩いて赴いた不動産屋ではいい物件もなかった。下見の際もなかなか良い部屋だとのんびり思っていた。桜が咲けば見事ですよという仲介屋の一声で決めた。よく見れば天井の染みにも気づけただろうに。自分はどこか抜けている。
それだから大切な人も失うのだ。実家を出る時、冗談めかして母親が言った。
借りた部屋は二階で窓からは桜の木が見える。
花の頃を過ぎても、青葉が繁ってそれはそれで良かった。
この窓枠に切り取られた空間だけを唯一気に入っていた。
「しかし、よく降るね。せっかく咲いた花も、皆流されちまう」
おまけに雨漏りも酷いと言って真向かいに座った彼が酒をあおる。
「まあ、言う通りだけど。でも、雨の日でも花見ができるなんて良い部屋だろう」
まだ住み始めたばかりだが、一応部屋の擁護をする。
アパートはボロかったが、借りている二階の部屋の窓からは丁度桜の木が見えた。ようやく七分、という所で今日の雨だ。
「それは置いておくとして、今日でもこれだけなんだから、梅雨になったら、お前どうするんだ」
「その時になって考える。梅雨さえ過ぎればいいんだし」
「ばかだな。その梅雨が大変だから困るんじゃないか」
彼は竹を割ったような性格そのままに笑って言った。自分もつられて苦笑いする。
まったくだと思った。
「綾子は――綾子さんは今日はやっぱり来れないのかな」
努めて何気なく口にした問いだったが、部屋には沈黙が降りた。
横風が吹いて来たので、是幸いと自分は窓を閉めに立ち上が った。だが、余計に気まずい空間を作ってしまったのではないかと思いついた時には、もう窓を閉め終わっていた。
どうしようか、もう一遍窓を開けるべきだろうか――逡巡していると背後の気配が動いた。
振り返る。
彼が畳の上に小振りの箱を置いた所だった。
色褪せた畳に不釣り合いなビロードの小箱だ。きっと、その中には指輪が入っているのだ。そしてきっと、台座には小粒で、しかし燦然と輝く宝石が入っているにちがいない。それからその宝石は、綾子の誕生石なのだ。
間違いようもない。自分は知っている。
「いい加減、我慢の限界だ。あいつの指にこれがはまっているのを見ていられない」
彼は、言葉だけは辛辣に、口調はおどけてそう言った。その後は、そっぽを向いている。
ふっと、緊張が緩んだ気がした。
彼は自分に怒られたがっている。
自分が自尊心を傷付けられたと怒り狂って、罵声の一つでも浴びせれば、彼は「ごめん」と言えるのだ。彼は自分に謝りたかったのだろう。
けれど自分は笑いだした。彼が思わず、自分の手をとる位唐突に。
「ごめん。君がそんなに綾子さんを好きだとは思わなかった」
「俺は……」
彼はその後 、何と言ったのだろう。
ただ、雨音に気をとられていた。
彼と綾子は幼い頃から美しさの片鱗を見せていた。二人が揃っている所を見ては、周りの大人が、お雛様とお内裏様のようだと褒めそやした。子供の自分から見ても、二人はお似合いだった。
それがどういう訳か、自分は彼らと一緒にいる記憶しかない。
二人に遅れがちになると、決まって二本の手が伸びる。「おいで、宮」と綾子が微笑み、「来いよ、翠」と彼が呼ぶ。
やがて、間宮と綾子の家との縁談が決まった。
定石通り、代々、義母から受け継がれるという婚約指輪を綾子に手渡した。ビロードの小箱を手にすると、彼女は、嬉しいと言った。咲きかけだった蕾が大輪の花を咲かせる様は、自分の心を初めて打った。
同じ頃、彼の表情に陰りが見え始める。彼女の指にはまる石を見ては、陰りは一層濃くなるようだった。
彼の様子に、そうだったのかと思い至った。
それから彼は彼女を「綾子さん」と呼び始める。同じ理由で彼女はもう自分を「宮」とは呼ばない。
葉桜の頃、綾子がこの部屋を訪れた。
花の時期が過ぎても、緑が繁っているのが目に眩しい。窓枠の中は相変わらず、この陰鬱な部屋とは切り取られた世界だった。
「ふふ、毛虫がいるわ」
世間一般の婦女子とはずれた感想を、彼女は漏らした。この部屋の窓を一番に気に入ったのも、彼女らしいと思えた。
今日ばかりは部屋の中が華やいで見える。
「来月に式を挙げるの」
「良かったじゃないか」
「……だました訳じゃないのよ」
「本当に酷いね。お陰で家賃まで手が回らない」
「私たち、貴方が大事なの」
「御祝儀はちゃんと送らせてもらうよ」
「貴方が誰かのものになるのがお互い許せないから、だからこれは契約なのよ」
「――元々、君は彼のことが好きだったんだよ」
「違うわ」
「そんなに自分を追い詰めなくてもいいんだ。素直に彼の所へ行けばいい。誰も責めない」
「どうして、……宮はいつもそう言うの」
「悪かったよ。抜けてるのは昔からなんだ。綾子の気持ちにも気づけない」
本当よと言って彼女は黙った。
それから、彼女がいつ帰ったのか知らない。
手に収まる石の重さに、思考は現実に戻った。
窓の外は雨ばかりだ。
好きだった花も瑞々しい青葉もなく、黒々とした幹や空を覆う枝葉が目につく。
この部屋を引き払おう。
思った時には、もう窓際から立ち上 がっていた。
了
おもい とは かく いし の ように