色音乃物語(五)
case 5 わが身に映る君を見る
他ならぬ自分の為に、愛する人が珈琲を淹れてくれている。その光景を眺めながら、あきらは、形容しがたい不安に襲われていた。
28年余の人生を振り返り、小さく積み重ね、拾い集め、漸く自身のあるがままの姿を、捉えて認めることが出来るようになった。そんな少しの慢心に依存することで、彼は解れた綱を渡るように、しのとの生活を享受している。
もしその慢心が泡と化したならば、たちまちに、彼の信じているものの多くが、あっていてもないものとして、認められるようになる。
彼は、それを何よりも恐れているのだ。
「あきらくんの考えていることを、分かる、とは言わないよ。けれど、似たような気持ちを、私も感じることがあるよ」
あきらは思ったことを、なるべく思った時に、そうでなくとも出来る限りその気持ちの薄れる前に、しのに伝えるよう努めている。
「僕は、自分の、しのたんに対する温かい気持ちを、自分の血とか体温や、こころで感じられるんだ。だから、それが確かなものだってことに、疑う余地がない。けれど、君がこころで感じていることを、僕が、そっくりそのまま感じ得る術はないと思っているんだ」
「そう。それはそうだね。わかるよ。どういうことか」
ほのかに灯っていた、しのの目の光が、わずかに弱まったのが、あきらには見えていた。
「ただね、しのたん」
「ん……うん」
「君のこころの在り様を、僕は感じることが出来ない。それで、いい。それがいい、と思うんだ」
「どういうこと?」
「知りたいことを知ることが出来なくて、恐ろしくなるのって、仕方がないと思う。だから、一番恐ろしいことは、“知りえないことが不幸だ”と思ってしまう気持ちだと思うの」
「うん」
「しのたんのこころの在り方を、しのたん自身が大事に思っていてほしいと願っている僕だから、僕自身のこころの在り方も、僕が一番大事にする。それが、僕にとっては、君と丁度良く生活するための要なんじゃないかって、考えているんだよ」
しのは言葉を追わなかった。自分が長く、あきらと同じ不安を抱いていたことを、胸に秘めながら、どうしてこれ程に、目に見えないところが重なっているのだろうかと考えた。そしてそれこそが、彼の体温を感じる大切な渡し舟なのだろうと心に得たのであった。
色音乃物語(五)