彼のための祈り
彼は今日も神に祈る。
自分の神はただ一人。
である、と、アベル・ラトウィッジは思っている。
これは世間において広く信仰される女神を指すのではない。アベルが暮らす世界では女神を主とした宗教が広く信仰されているが、彼にとっての神は、この女神ではなかった。
たった一人の、具体的な人間のことを指していた。
アベルの神は、その体に触れることができる。
心臓が動く音を、その熱を感じとることができるのだった。
ただしくは主人、と称するのが正しいだろうと思うものの。
(主人、よりも、あれは神にちかい)
そんなことを久しぶりに思うのは、彼の主人が「ねえ、アベルはぼくと出会う前、何をしていたの?」と聞いてきたからだった。
一瞬、暗に出会う前のように戻れと言われたのかと思って、アベルは反応できなかった。
そんな風に言われたならば、彼は耐えられない。死にたいと防風のように襲ってきた絶望に落ちかけたが、いつものように言葉に深い意味はなかった。
「王族の家系図とか、有名人の家系図はあるのに、どうして一般人の家系図って残ってないのかな?どこでどうつながっているかわからないのに。それだったら一般人の家系図があってもいいじゃない」
というところからはじまり。
「アベルの家系はどういうモノだったの?家系って、受け継がれてゆくものなんでしょう、いろいろなものが」
というところに着地しており、つまるところ、出会う前はその家系に受け継がれていた職に就いていたのか、そもそも家系として受け継がれる仕事はなかったのかと、そういうことを知りたいらしかった。
最終的には。
「家系図、今からでも残そうよ。本の役割は記録的側面もあるんだから」
という話まで発展し、少なくともこれからでも家系図を残そうとするなら、国の行政制度自体を改革せねばならないとアベルが考えたのが始まりだった。
行政改革案自体は悪い話ではないけれど、アベルの過去が暴かれることを考えると、あまり気のりしない話だった。
(まあ、暴かれたところでって話であるがな・・・)
とはいっても、アベルは仕事に打ち込みながら、過去を暴かれる可能性から逃げていた。
あまり知られたくはないことである。
よしんば知られたところで、彼の主人は「へぇ、ふうん」で流しそうな気もするが、そうでなかった場合、きっと主人に殺されるというのが、アベルの見解だった。
べつに殺されること自体は怖いことではない。死ぬのも恐ろしくはない。
(ただ)
ただ、アベルは主人のそばにいられなくなることが、ひたすらに怖かった。
アベルは主人がいなくては生きていけないし、死ぬぐらいならバケモノに落ちてでもそばにいたい。
アベルが死んだあとに、その位置を誰かに譲るなんて耐えられなかった。
結局、アベルはなんのかんの言いつつも、彼を独占したいのだろうと思っている。
神とは言っても、向こうも人間であり、アベルも人間だ。
無駄だとわかってもアベルは見返りを期待しているのだろう。
(それは、まあ、でも、欲、というやつだ)
目を伏せて、アベルは己が過ぎた望みを抱いていると思う。
彼に何かを求めてはいけない。
求めたところで苦しくてむなしくなるだけだ。
人に神の心は推し量れないように、アベルに主人の心は推し量れない。
彼を独り占めしたいなんてとんでもない。
自分をそばに置いてくれと願うことすら、アベルは口には出せない。
いや、それぐらいならば本人ではなければ口にできる。
俺は主人のそばにいたいから働いているんだといえば、たいていの人間は納得する。
だが、そんなアベルにも押し殺している望みがあった。
口にできないどころではない。
それを考えることすら、とても危ういことのような気がする。
だから、理想とも言っていい。
できることなら、と願う。
アベルは、彼のために死にたかった。
そして彼のために生きたい。
それがアベルの望みである。
(彼のために死ぬことは、叶わない)
それだけはよくわかっていた。だから、それだけがただ一つの理想で夢だった。
もちろん、主人が死んでしまうときに身代わりにでもなればいいではないかという話なのだが、そうはいかない。アベルのもう一つの望みは彼のために生き続けることで、その延長でそばにいたいと思っているのだ。
だから自分の主人が死んでしまうというのなら、アベルは死んでもよかった。
だが、主人は不死身と化している。
黄泉の国へと行くことはかなわず、天を支配する女神に魂を地上に縛り付けられている。女神は生まれてから階段へ下る赤子を、それ以上、下へと降りることがないようにした。
それが女神から寵愛を受けたアベルの主人のありようだった。
だから彼のために死ぬことは叶わないだろうと、アベルは思っている。
だが、生きることは今のところ望みが叶っている。
アベルは彼の望むとおりに図書館を作り、運営にいそしんでいる。
読書をしていれば満足する主人を縛り付けておくための鳥かご。
どこにもいかないように、そして彼がいちばん居心地いいと思えるように。
だから正直、アベルは働くのが楽しくて仕方ないし、彼のために尽くすことは喜びしかなかった。
『もっと、本が読みたいな』
すべてが一人の勇者によって解放されたとき、小さな少年はアベルにそうこぼした。
血塗られた小さな少年がそうこぼしたとき、アベルは喜びに震えた。
(あの、感動はなんなのだろうな)
ああ、ああ、もちろん、お前が望むとおりにしよう。
おまえが望むのなら、世界のすべてをやろう。
そう、アベルは心から思えた。
だから、本が読みたいというその言葉の通りにしようと、図書館を作った。
彼のために、彼が本を読んでいればいい環境を作った。
自分の残りの人生と、すべてをこの少年にすべてささげる覚悟で。
何もないところから作り上げてしまった。
だからアベルはあくせく働いて、彼はずっと読書に耽っていたらいいと。
当初は、そう思っていた。
それだけで構わないと、そう思っていたはずなのに、気が付けばアベルは、自分をそばにおいてくれと願う自分がいるのを知る。
(しかた、なくは、ない・・・)
仕方がないと言えるほど、アベルは彼に何かしてもらったわけではなかった。
命を助けてもらったわけではない。
結果的に助けてはもらったが、それは本当に結果としてだった。
生きることを、アベルは望んではいなかった。
死んでもいいと思って、死にかけた。
何かが間違ったように、アベルは助かってしまった。
生きる理由も、意味もなかった。
けれど理由にしていいと、したいと思えるような存在に出会った。
出会ってしまったというほうが正しいのかもしれない。
だからこそ、アベルは己の狂気を知っている。
(そう、これは、おかしい)
そばにいたい。
彼が死ぬまで。
彼が生きるために。
利用してくれて構わない。
きっと絶対に彼がしないであろう依存であってもいい。
そんな感情が胸にあるのを、アベルは確かに知っている。
愛というには狂いすぎている感情。
ただ、彼の側にいたい。
見返りが来ないことは仕方がないから、ずっとずっと側にいさせてほしい。
という、半ば狂った願望を抱き続けている。
(おかしい、くるってる・・・でも)
おかしいという自覚はしているが、直す気は全くない。
相手は神なのだ。
届かぬ祈りと恋しさにアベルが身を焦がそうとも、向こうは知らない。
(でも、それぐらいは、ゆるしてくれ)
願うことだけは許してほしいと、アベルは身勝手に思う。
口にすることなどできないが、しかし。
(少しだけは)
そうしていたいと、彼は手を止めた。
自室の机の端におかれた日記を見やり、ゆっくりと立ち上がった。
日記は、やきもちを紛らわすためのものだった。
いくら独り占めはできないとはわかっていても、他人が主人のそばにいるのは面白くない。だからどうしても気分がすぐれないと八つ当たりを書いて気分を晴らすためのものだった。
(おはようからおやすみまで全部俺がやりたいのに)
しかし、主人のために図書館の運営業務から離れるわけにはいかない。
そこがどうにももどかしい、とスーツの上着を脱ぎ、そのままベッドに横になる。
「家系・・・俺の・・・」
横になると昼間に言われた言葉がよみがえり、アベルは少しだけ苦いものを感じた。
「それを話したら、おまえは俺を殺すか?それとも、どうでもいいというか?」
自室で一人、天井を眺める。天蓋のついた寝床は、昔を思い出すにはちょうど良かった。
アベルの名は、昔はもう少し長かった。
もちろん名字はラトウィッジだけれども、他にも階級による様々な称号に似た名前がついていた。
今はだいぶ国の制度が変わっているが、かつての国では貴族と王が権力を持っていた。
そんな中でアベルの家は王に近い血筋だったため、正式な名前は飽きるほど長かった。
主人に出会う前のアベルの人生は、それまでのこの国の流れに大きく影響した。
彼も同様に時代の影響を強く受けているが、主人は結局国を変えた。
だからこそ時代の波にのまれてしまったといえば簡単だが、それで片付けようとするには、アベルの人生はあまりにもちっぽけだった。
アベルはもともと、宮廷魔術師の流れをくむ貴族の生まれだった。
魔術師の一族であり、歴代の当主は宮廷魔術師の役を務めていた。これは王の相談役というほどに地位のある職だった。
そのためアベルには王族の血も入っていた。
そんな家に生まれたアベルは、次男として生まれ、上には兄が一人いた。下には妹や弟がいたが、母親が別だったため、あまり交流はなかった。
当時の国は一夫一妻制だったが、位の高い貴族の男に妾がいて、屋敷でともに暮らしているのは別段特異なことではなかった。
母は当主である父の正妻であるため、アベルと兄はラトウィッジ家当主の座がいちばん近かった。
その時のアベルは、赤髪は今のままだが、瞳だけは違う色をしていた。
髪によく似た、赤みがかった色をしていた。
今は瞳が青い空色になってしまっている。
だが、かつては違う色だったのだと思うと、不思議な気分になった。
魔術師に向いていると言われる赤い髪に瞳は、昔からアベルの両親の自慢だった。
『スペア・ラトウィッジ』
と、親をはじめとした周りの人にはよく言われたものだった。
それは言葉の比喩だった。
アベルは客観的に見ても優秀だった。文句を言いたいが、いえない誰かが苦し紛れにそう言ってアベルをなじった。
優秀とは言っても、年の割には魔法がよく使えるし知識もある程度だった。それは単にアベルは魔法が得意で好きだったからで、本人はあまり気にしているところではなかった。
兄が跡目を継ぐのだろうと思って疑わなかったし、アベルはそんな兄を尊敬していた。
家のしきたりや、家のことを第一に考えねばならない。
当主を継ぐというのはそういうことであるとアベルも知っていたのだ。
そんなことは自分にはできない、と間近で見ながら思っていた。
それでも自分や兄弟に優しい兄の、支えになれたらいいとアベルは思いながら過ごしていた。
だから魔法を覚えたのも、兄の仕事に貢献できたらいいとか、兄を守りたいとか、そんなことがはじまりだった。
だというのに気が付けば、『スペア・ラトウィッジ』などという皮肉につながっていた。
しかしそれがどれだけの皮肉なのか、アベル自身よりも兄のほうがよくわかっていただろう。
もちろん兄もそれなりに優秀だった。
弟であるアベルから見ても、自分の兄は優秀で、自分が家を継ぐ必要などないと、お気楽に思っていた。
だが、年を追うごとに、現実はアベルの考えとは別の方向へ歩き始める。
『スペア・ラトウィッジ』
その言葉の通り、アベルは兄よりも優秀だった。
スペアと称されるアベルに対する罵りで賛辞。
魔術も、勉学も、言われたことをこなせばいやでもできるようになった。
魔術では特に強い魔力であったり、代々ラトウィッジ家に伝わる精霊を従えることができたりと、上流階級でよく話題になっていた。
年を追うごとにあだ名が良くささやかれるようになっていったが、所詮、アベルは己を『スペア』でしかないと思っていた。
当時の貴族の伝統では、長兄が家を継ぐしきたりになっていたし、次男は一人娘のところに婿に行くか、宮廷につかえるか、はたまた学者となるかと道が決まっていた。
『スペア』が思い違いだと知ったのは、兄と一緒に殺されそうになったときだった。
正直、殺されそうになるという暗殺の話は、貴族で王族に近いアベルと兄にはよくあることだった。
『アルバ、逃げて!』
だから、魔法で撃退する際、アベルは当然のように兄を守った。
家を継ぐのだから当然だろうと、兄を守ったアベルは軽い負傷をおった。
そうして兄を守って家に二人で帰ったとき、母に頬をはたかれたのは、兄のほうだった。
『なぜおまえはアベルを守らなかったの!使えない子!』
目の前で平然と行われた罵倒に、アベルは目を疑った。
14歳ごろのアベルには、その現実が受け入れられなかった。
『ああ、アベル・・・血が出ているわ、かわいそうに・・・』
そう言って自分に優しくする母親が、まるで別の生き物のように見えた。
どうして兄を優先しないのか、アベルにはわからなかった。
『俺は、何か間違った?兄さんを守るのは、俺の役目でしょう?だって』
家は兄が継ぐのだから、と続く言葉に、母親はにっこりと笑った。
『いいえ、何も間違っていないわ。でも、あなたが継いだっていいでしょう?』
その言葉が、アベルには突き刺さった。
(継ぐ?俺が?どうして・・・?)
目を丸くするアベルに、母親は上機嫌に続けた。
『あなたの歳で、精霊と十体近くも契約できることはすごいことなのよ!縁談だってたくさんあるわ!わざわざ、よその家にやる必要なんてないわよ!』
ねえ、と父に呼びかける母が、母親ではないのだと悟った。
彼女はラトウィッジ家の繁栄に関心があるのであって、アベルたちはどうでもよいのだ。
さらに彼女は、アベルの功績や能力に関心があるのであって、他はどうでもよいのだと。
年々大きくなっていく、『スペア・ラトウィッジ』というあだ名。それがアベルの考えとは違う方向に現実を動かしていたのだと思い知らされた気分だった。
(俺は、そんな、ことは)
望んでいないのに、と兄を見れば、あきらめたように笑う顔が見えた。
(にい、さん)
違うんだ、俺はそんなことは望んでいなかった。
そう思うのに、すでに何もかも己のなしてきたことは遅すぎたのだと、アベルは気づいていた。
小さいころ、乳母に将来は兄上が家を継ぐのですよ、と教えられていた。
そういう伝統だと知っていた。
『にいさんが当主になったら、おれはどうするの?』
『そうですねえ・・・学者になったり、王宮にお勤めになったり、お兄様のお手伝いになるようなことを選べるのではないでしょうか?』
勉強する毎日の中で、その言葉に希望を持った。
兄が家を継ぐ。
そうしたら自分はやりたいことが選べる。
しなければならないことを強制されていたアベルは、それだけで前向きになれた。
したくない勉強なんて、しなくていいのだと希望を持ちながら勉強していた。
だから、要求されればされるだけ勉強をした。
それは将来自由になるために必要なのだと言われ、仕方がないと思っていた。
それに魔法は面白かったし、自分ができることが広がるのも楽しかった。
だから精一杯頑張った。
だが、頑張ったことがすべて裏目に出ていた。
(なんで、なんで。兄さんが、ぜんぶ )
兄がいるはずの位置に自分が立っているのだと気づいた。
立ちたいと願ってはいなかった。
(・・・ここにいたくない)
逃げたい、と反射的に思った。
だがアベルは、己の名字からの逃げ方を知らなかった。
また、兄に押し付けていたことがそういうことなのだと理解したとき、罪悪感も湧き出た。
(俺は、こんなことを兄が全部やってくれると、そう思ってたんだな・・・)
自由がない。
家のために、を実行せねばならない。
ああ、なんてひどい生き方なのかと、己の身に降りかかったとき、アベルは兄に押し付けてよいものかと悩んだ。
ちょうどそのころ、王宮では若い王が、力を持っていた。
前王の時代に隣国から攻め込まれ、負けが続いていたため、国内は疲弊していた。
魔術師を宮廷に集める動きが活発になり、研究者として多くの魔術師が宮廷に集められた。
そして兄は、その招集の対象にされた。
王族に近いラトウィッジ家の、しかも長男がそんな招集に呼ばれるはずがない。
兄が当主になるのなら、王宮魔術師を勤め上げればそれで十分なのだ。
どう考えても何かしらの権力闘争があることは間違いなかった。
自分と兄が天秤に賭けられていると、世間に疎いアベルでも理解できた。
王宮へ行く必要はないと、アベルは思っていた。
行ってしまったら、自分で当主の座を棄権したと意思表示したことになってしまう。
だが、父は行けと兄に命じ、兄はそれに従った。
『どうして!アルバ。アルバート!兄さん!行く必要なんてないじゃないか!』
『・・・父さんは、そこで結果を出せば、俺を当主にすると言ってきた』
なんだそれ、とアベルは顔をゆがめた。
それはつまり、結果が出せないのなら、当主にする気はないという意味ではないか、と。
理解をして、腹が立った。
『・・・結果も何もない。次期当主は兄さんだ。俺は当主にはならない』
本心からの言葉だった。
しかしそういえば、兄は残念そうな、困ったような顔で笑った。
『スペア・ラトウィッジ、と言われるお前なら、もうこの状況はよくわかっているだろう?わがままをいうな』
自分と兄が対立候補になりつつあるが、しかし両親たちはアベルを推しているとか、国が疲弊しつつあるから、王がその打開策のために魔術師を集めているとか。
あるいは、父たちが画策して兄を王宮へ向けたとか。
兄が王宮へ行ってしまうのは嫌だと言っているのがアベル程度だか。
わがままと言われる状況はいくらでも理解できる。
だが、頭で理解したことを受け入れられるかどうかは別問題だった。
『誰がいい出したかわからないことを、兄さんまで・・・』
いや、うまいことを言っているよと兄は穏やかに笑った。
『スペアって、どれだけ優秀でも所詮、アベルはアルバート・ラトウィッジの予備でしかないって言いたいんだろう?』
つまり。
『予備のほうが優秀だっていう、笑い話なんだろう?俺も、そう思うよ』
それを兄自身に言われてしまえば、アベルは言葉がなかった。
(優秀かどうかで、決まるものなのか、当主は)
そうなじりたかった。
けれど、穏やかにしている兄が、王宮へ行くことを嫌がっていないから、アベルは何も言えない。
確かにしたいことを選びたいというのはアベルのわがままだし、兄の力になりたいのなら、兄の代わりに家を背負うほうが良いのでは、とすら思う。
『・・・意地の悪いことを言ったな。大丈夫だ、ちゃんと戻ってくるよ、アベル』
あまりにアベルがひどい顔をしていたのか、兄はそう言ってアベルをなでた。
『俺はアベルが当主になればいいと思っていたのに、お前はそうじゃないんだなあ。欲がないというか、なんというか・・・よく似てるな、俺たちは』
大丈夫だ、当主にはなる。けれど自分が当主になるまでの間、少しだけ好きなことをさせてくれ、大丈夫、戻ってくるから、と兄はそう言って、王宮へと向かった。
(兄さんは、帰ってくる)
大丈夫だと、自分はそれまでの代行だと、アベルは兄の言葉を信じながら家のことにかかわり始めた。
しばらくして兄が参加した魔術師たちが率いた軍は、隣国に勝ったと報じられた。
王都にいる兄からは連絡はなかったが、それでも順調に行けば帰ってくるだろうと、アベルは知らせを聞いて信じていた。
そのころから、庶民の間では失踪事件が相次いでいた。
また、どうやら王宮が人買いをしているらしいという噂が流れ、国外の勝利とは裏腹に、国内では不穏な空気が漂っていた。
そして、三年ほどたったある日、王宮から知らせが届いた。
『アルバート・ラトウィッジが王に対する反逆罪で、処刑された』
内容は非常に簡潔なものだった。
だからこそ、意味が分からなかった。
『・・・え?・・・』
理解できずにアベルが戸惑う中、なんてことだと母が憤り、父は息子の不始末を嘆いた。
親戚はむしろアベルに継いでもらうほうが良いと、アベルを慰めるふりをしながらの婚約者候補の話をしに来るようになった。
そんな中で、一番悲しんだのはアベルだけだった。
いや、アベルしか悲しんでいなかった、というほうが正しいだろう。
(・・・なんで・・・なんで)
帰ってくると言っていたのに。
功績だって上げたはずなのに。
(俺は、俺は兄さんの力になりたかった)
それだけなのに、とアベルは立ち尽くした。
何を間違えたのか、何がいけなかったのかと自分を責め続けた。
(どこで間違えた?)
勉強したのがいけなかったのだろうか。
それとも自分が素直に跡を継いでいればよかったのだろうか。
けれどもどの可能性を考えても、すでに何もかもが遅すぎていた。
処刑されたという兄の遺体は家にさえ戻らなかった。
だから余計にアベルは現実を受け入れることができずに日々を過ごし、心を狂わせかけていた。
そんなとき、兄の遺品だと、一冊の魔術書が届いた。
ありきたりな薬草の本には、愛しい弟へ、ぜひお前に知ってほしいと書かれていた。
(いとしい、おとうと・・・)
その書き方をするときは、兄の魔法が本にかかっている。
これは、アベルと兄だけの秘密のやり取りだった。
アベルは勉強の本以外は与えられなかった。
だから普通の本を読みたいアベルが、兄に駄々をこねたとき、兄は魔術書を渡してくれた。
愛しい弟へ、に対して、アベルが呪文を唱えればよいのだ。
『・・・いと、しい、あによ・・・私に、ものがたりを、きかせて・・・』
その瞬間、手にしていた本がふわりと浮く。
かかれていた文字は光を帯び、くるくると本の周りを回り始めた。文字は本の中に入ったり出たりを繰り返す。そしてすべての文字が本の中に納まった。
しばらくすれば、ぽとり、と手の中に本が戻ってくる。
表紙には日記、と書かれ、中身はすべて文字が入れ替わっていた。
こうして兄は、よくアベルに勉強の本になりそうなものに見せかけた冒険物語を渡してくれていた。
(・・・にいさん)
懐かしいと思いながらページをめくり、中身を読んだアベルは、怒りに頭を焼かれた。
その中には、一人の少年のことと、王が行っていることについて書かれていた。
王は気を違えている。
勇者を作ろうと、国民を犠牲にしていると。
番号しかない魔力のある少年少女たちが兵器にされようとしている。
二十七番という少年は魔力に圧迫されて成長を阻害されるほど魔力がある。
彼に知識を与えず、魔力を供給する兵器にしようとしていると。
先の隣国の争いに勝ったのは、実験段階のその子たちを投入し、こちらも使い捨て、また向こうも全滅したと。
王都では、知識の統制が行われている。
子どもたちに、正しい知識を与えて魔法使いにすべきだと書かれていた。
また、その計画に父が大いに貢献していると。
怒りは憎しみとなって、アベルを焦がした。
『二十七番は本が好きなんだ。どうか、本を与えてやってほしい。俺は、それをやって、殺されてしまうけれど』
帰れずにすまない、とアベルへ向けた言葉に、涙が止まらなかった。
(・・・兄さん)
この国はおかしい。
おかしいのはアベルではない。
間違ったのは自分ではなく、この国と王だった。
(ああ、そうだ。もう、兄さんはいないから)
帰りを待つ必要もない。
だからアベルは生きる必要も、頑張る必要もない。
何かを気にする必要は、もう何もなかった。
(もう、どうでもいい)
死んだって構わない。
けれど兄が残した言葉ぐらいは全うしよう、とアベルは父に頼んだ。
『・・・我が家の名誉を、挽回したいのです。私も、王宮へ行かせてはくれませんか』
そういえば、父は了承した。
魔法使いとして優秀な自分が行きたいといえば、また母にも名誉挽回のためだといえば、よい顔をした。
そして王に頼めば、狂った王はすらすらと己の蛮行を口にした。
『勇者がいるのだ!我が国に勇者さえいれば、何もかも良い方向へ行く!』
まるで夢のような世界に行けるのだと言わんばかりに訥々と語る王に吐き気がした。
(勇者一人でどうにかなるわけがない)
確かに王はもう狂うているとアベルは心の底から思った。
だからこそアベルは王宮内部で行われている子供たちに対する実験の数々には、どうとも思わなかった。
むしろアベルは積極的に参加し、己の知識を使って王の理想の手助けをした。
そうすることで王の信頼を得て、アベルはなかなか明かしてもらえなかった二十七番の少年に触れ合うことができた。
この子供だけは扱いが特別なのだろうと、アベルは少々緊張していた。
初めて会ったときのことを、アベルはよく覚えている。
少年は、空色の瞳をアベルに向けた。
そして、少し、嬉しそうに。
『アルバート』
と、アベルに声をかけた。
(う、あ、ああ・・・・)
声を上げて泣きそうになったのを、アベルはこらえた。
その瞬間、アベルの胸には言葉にできない苦しみがあふれ出た。
それは、ずっと邪険にしか扱われていなかった兄を好く人間がいるといううれしさと感動であり、同時に、この子は兄には二度と会えぬという悲しみを味わってしまったせいだった。
この子は、兄になついていた。
家族でも、父と母でさえ嫌い、なじった兄を。
アベルが好いていた兄の良さを、この空色の瞳の子は知っているのだ。
わかってくれている。
そうだ、兄は好かれる人なのだと、アベルは兄がいないことを悲しんだ。
(兄さん、この子はどんな子なんだ。あなたの口から、もっといろいろなことを聞きたかった。どうして)
どうして子供に本を与えた程度で、兄は殺されたのだ。
どうして、と思えば、この子供が憎らしくも思えた。
『・・・はじめまし、て。俺はアルバートの弟。アベルディ』
よろしく、と笑えば、子どもはふうんと首を傾げた。
『アルバートは、もう来ないの?』
『・・・そうだな』
来ないのではない。
いないのだと、口にすることはできなかった。
少年はしかし、納得することに慣れていた。
そうなんだと言って、それ以上問い詰めることはなかった。
そんな少年の部屋には、ぬいぐるみをはじめとしたおもちゃしか置かれていなかった。
この年の頃ならば絵本の一つだってあったってよいだろうに、そこには文字の類は一切ない部屋があった。
文字の類があまりにもないので、アベルが文字は読めるのかと聞くと。
『・・・ちょっとだけ。アルバートに教えてもらった』
と、返すので、アベルは魔法を使えるようにするための基礎的な知識とともに、文字を教えた。
そして王の目を盗んでは本を与えていた。
どうして少年に本を与えた程度で、とアベルは思っていた。
だが、本を与えて知識を与えていけばいくほど、この少年の才能がよくわかった。
そして、本を与えることの危うさも。
(控えめに言って、とても才能がある・・・)
一冊の本から、その本で読み取れる以上のことを生み出す。
言葉と文字の組み合わせによっていかに想像力を働かせていくかが魔法使いの才能の見どころである。
少年は、その才能にひたすら長けていた。
本を読んでいるだけで、小さな部屋から世界征服でもできそうなほどだ。
『アベル、これはなんて意味?』
けれどいくら才能があっても、魔法使いとしては生まれたばかりのような子だ。発展途中の生き物が目を輝かせながら、どうしてとアベルに教えを請うてくる。
その学ぶ姿を、彼はかわいらしいと思った。
(兄の良さを知る、こども・・・)
兄の血が入っているわけではない。
だが、それでも少年がいることはアベルにとっては救いだった。
(できることなら・・・)
この子を引き取って、しっかりとした魔法使いにしてやりたい、とアベルは思った。
兄が考えていたように、しっかりとした教育を受けさせるべきだ。
この子はすごい魔法使いになるだろうか、それとも本を読むのが好きだから、学者にでもなってしまうのだろうか。
将来、どんなふうになるのだろうと思えば、アベルはこの先も生きて、この子の将来を見たいと思うようになった。
(生きたい。兄が見つけたこの子の将来を、見たい)
そんな風に思いながら過ごす日々は、安らかなものだった。
いつまでも二十七番ではさみしいと、アベルは彼に名前を付けた。
『じゃあ、ニーナでどうだ?27番だから、ニーナ』
『にーな。・・・ぼくの、なまえ・・・』
『そう。ニーナ。ここから出られたら、俺の名字を使えばいいから』
きっと少年にはいろいろな可能性がある。
外に出て、旅をすればもっと変わるだろう。自分はともについていけないかもしれないが、それでも少年が戻るための場所ぐらいにはなれるのではないだろうかと考えていた。
ニーナと過ごした日々は、アベルにとって間違いなく幸福で穏やかな日々だった。
だが、それも終わりを告げるベルはゆっくりと鳴り響いた。
ある日、アベルは実験動物の一匹に、見つけてしまったのだ。
変わり果てた、兄の姿を。
『に・・・さん』
思わず出した声は、届かなかった。
目を閉じて動かなかったからだった。
そしてこれが本当に兄なのだろうかというのも疑問だった。
それは、人の面影を残した怪物だった。
壁に茨で貼り付けにされ、右腕は鳥の翼のように変形して、白い羽が覆っている。白い羽は右半身を覆い、顔の半分も隠していた。
そして右手の先には大きな鉤爪のついた手といえそうなものが生えていた。
だが、本来右目があるはず部分には花が咲いていた。
半分鳥のような姿をしながら、左腕には緑の茨が巻き付いていて手が残っているのかもわからない。茨は皮膚の下を通り体中にめぐっているのが、皮膚に浮く緑の線で理解できた。
そんな風体でも兄だとわかったのは、くすんだ赤い髪と、喉元に走る一文字の傷跡があったからだった。
そしてその体に何を入れられたのか、アベルはすぐに理解できてしまった。
『イルドリョウス・・・』
兄が契約していた魔物に、白い鳥と茨の魔物がいた。
だが、こんなにおぞましい姿ではなかった。
もっと美しい、白い鳥だったはずだ。
呆然と立ち尽くすアベルのもとにやってきたのは父だった。
『・・・見たか』
アベルは父のほうも向けずに立ち尽くしていた。
これこそが地獄だった。
アベルはニーナがいる場所はこういう地獄なのだと理解した。
(なんだ、これは)
そう疑問を呈しつつも、兄が実験の対象にされたのだということは、すぐに理解できていた。
処刑されたという兄の遺体すら帰ってこなかったのは、利用されて実験の対象にされていたからに他ならなかった。
こんなのはあまりにもひどいじゃないか、とアベルはこぶしを握り締めた。
反逆罪ならわかる。
だが殺してすらもらえず、このように利用され、意識のない怪物と化している。
助けたいと、力になりたいと思っていた兄が。
アベルにどこまでも優しかった兄が。
国の策略で、人の言葉もしゃべれない姿になっていた。
そして絶望に意識を失いそうになるアベルは、次に父から放たれた言葉に、耳を疑った。
『素晴らしいだろう?魔法を習得していると、とくに強い結びつきを得ることが、この子で理解できた!きっとこの子は、強い!!次の戦争が楽しみだよ』
(なにを)
何を言っているのか、とアベルは父こそ化け物のように思えた。
となりに立つ男は本当に己の父親なのか、と目を疑う。
『27番に文字を教えたときはどうしようかと思ったが・・・こうして国のために生きれることになって、よかった』
『と・・・』
『魔物と契約していると、やはり結びつきの強さも違うんだ、アベル』
『父さん!!何を、何をしてるのかわかってるのか!!』
家族だ。あなたの子供ではないか。
そしてアベルの兄なのに、と顔をゆがめれば、父は不思議そうに首を傾げた。
『すべては、我が国に勇者をもたらす尊い犠牲だ』
仕方がないんだ、という父も、もうだめなのだとアベルは思った。
(だめだ。おかしい)
国のまれて、とうの昔に何もかもが狂ってしまっている。
国民を実験に利用する王。
勇者が来ればどうにかなると、実験を繰り返す王宮の意識。
それは坂を転がり始めた石のように。
(もう、止まらない)
そんな日を過ごしてから、アベルの希望と救いはニーナだけだった。
アベルはさらに複雑な魔導書をはじめとして大量の本を与え続けた。
本を与えていることが発覚せずとも、兄の実験を皮切りにして、研究員が実験されるようになった。
アベルが王都にいる間も行われた戦争で、物資も人員も不足していったのもそれに拍車をかけたのだろう。
国は、傾くところまで来ていた。
だが王は、戦争よりも勇者を作ることに盲目的になり、いよいよ国民だけでなく、他国の兵士さえも利用し始めていた。
そしてアベルも例外ではなかった。
研究する身でありながら、体は生身でなくなっていった。それはアベルだけでなく、他の研究員も同様だった。
そして体の半分以上が生身でなくなったとき。
おわりは、あっさりと訪れた。
ニーナが魔法を使えるようになったことに気づき、アベルが本を与えていたことが知られたのだった。
『なんてことを!アベルディ!!!』
罵倒とともに、ニーナの目の前でかろうじて生身だった頭を殴られた。
確認のためにと、ニーナまで尋問部屋に引きずり出されていた。ショッキングな映像を見せて、あるいはニーナもこうするぞと脅したかったのかもしれない。
あの子の前でそんなことをしないでくれ、と思ったが、散々に拷問された体はうまく動かなかった。
ぐら、と体が傾いだ。やけに軽くなった体は、踏ん張りもきかない。
(ああ、死ぬ)
と、反射的にアベルは思った。
(・・・いやだ)
そしてそれに反するように、強く強く、願った。
(あのこの・・・これからを)
見たい、とアベルは強く願った。
だが、思いとは裏腹に体は倒れていた。
どくどくと血を吐き出した視界で、ニーナが目を見開いていたのがよく見えた。
(あのこを・・・)
守ってくれ、頼む。
アベルはかすんでいく意識の中、そう望んだ。
それからは、たぶん自分の主人さえも知っていることだった。これまでのことは主人のあずかり知らぬことであり、主人は自分が研究に加担する側だったことを知らない。
次にアベルが目を開いたとき、そこに人はいなかった。
ぴちゃ、ぴちゃ、と音を立てながら、アベルは何か生き物に乗せられて運ばれていた。
(・・・いきてる)
視界に入ってきた白と黒の縞模様の毛皮に運ばれていた。温かいそれからは歩くたびに足からの振動が体に伝わる。
『・・・いきてる』
『おう、目ェ覚ましたか旦那』
白い毛皮の正体は、虎だった。
赤く濡れた顔をこちらに向け、上機嫌に笑う。
その赤さは、問うまでもなく液体のものだった。
見た目的には恐ろしいものだろうに、アベルにはそういった類の感情が持てなかった。
『そら、生きてるだろ。ニーナがあんたんのこと直したんだぜ』
虎はそう言って、前を向いた。
そうだ、あの子はどうなったんだろう、とアベルはようやく意識をはっきりさせた。
『ニーナは?あの子は無事か?今はどうなってる?』
『あと少しだ。直接話せ』
と、虎がそういった直後、ついたぜ、と足を止めた。
そこは、王宮の大広間だった。
入り口の広間は、なぜか床に赤い絨毯のようなものが敷き詰められていた。
『・・・これ、は・・・』
たがすぐに、壁に張り付いた赤い飛沫のあとや、床の端に積まれたガラクタのような人形のようなそれに、ここで惨劇が起きたのだと知った。
絨毯は人の血であり、ガラクタのように積まれたものは、人間の死体だった。
『・・・やあ』
そして、その赤い絨毯のなかでただ一人、小さな少年が立っていた。
紺色の、寝癖だらけの髪。晴れ渡る空のような、明るい瞳。身にまとうぼろきれのような布さえも赤い飛沫が跳んでいた。
そして幼い顔の頬に赤い血をつけ、体のサイズに合わない不自然に小さい赤子のような手でそれに触れている。
少年がどこもケガした様子がないことに、アベルはまず安心した。
(よかった。無事だった)
少年はアベルを見ると、目を細めて、小さく笑った。
『アベル、君がなぐられて動かなくなったとたん、周りにいたやつらを殺してしまった。頭が焼ききれそうなきぶんだった。これは、なんていうの?』
その質問に、仕方ないな、とアベルは思った。前々から、あまり人道的な扱いをされていなかった少年の感情のふり幅はすさまじいものがあることを知っていた。
だからきっと、それは赤子の泣き声のような主張に近い。
言葉でやり取りしていなかった分、伝え方が爆発したのだろうと思えば、アベルはなぜか彼を咎める気にはならなかった。
悪いのは、彼ではない。
それを教えずに、すべてを遠ざけてきた、周りに責任がある。
『・・・いかり、かな』
そうか、と少年はうなずき、アベルに視線を向けた。
『アベル、世界は知らないことであふれてるね。もっと、本を読みたい』
惨劇がどんなものか、想像するまでもなかった。
きっと彼はあの場にいた全員を殺したし、なんなら王宮内にいた人間のほとんどを殺したに違いなかった。
それは彼の産声の殺戮。
命を奪うことは良いことではない。いくらアベルとて、無意味な殺生を好むような性格はしていない。
けれど、アベルもニーナも置かれていた場所は地獄だった。
この国自体のありようが、もはや何もかも、どうしようもないほどに狂っていた。
だから殺すことは悪だと思いながらも、アベルはこの惨劇に爽快感すら覚えていた。
(だめだ、おかしい)
自分も相当に狂っていると、アベルは思った。
普段ならば許せるはずもない。
だが、助かったと思う自分が確かにいた。
(だって)
希望にしていた兄は怪物化してしまった。
この少年でさえ、もとは実験対象であり、兄よりも怪物になる可能性が高かった。
だが、少年は生きていた。
変わらぬ姿で。
そしてこの狂った国を、自らの手で終わらせた。
(ああ、いきたい)
そう強く思ったことを、きっとアベルの主人は知らない。
殺戮を行ってなお、世界は知らないことだらけだという。
そんな少年に、世界を与えてやりたいとアベルは本気で思った。
もし少年が殺戮に及んだことに責任を問う声があるならば、自分がすべてを請け負えばいい。
(それが始まりだったとは、思うまい・・・)
それからのアベルは早かった。
王に迫り、国民を煽り、反乱を起こした。
そして王を交代させ、彼のための図書館を作った。
そうこうしている間に少年は王の蛮行を防いだ者として英雄の扱いをされ、気が付けば勇者になっていた。
結果的に、彼の行いは正義とみなされたのだった。
女神の保証付きの正義を持つものとなった少年は、その寵愛で死ぬことがなくなった。
そのためアベルは不老の道を選んだ。
そんな半生を、アベルは語れないなと改めて思う。
(むりだな・・・)
アベルは結局、兄を助けられはせず、最終的には利用することまでした。
兄の化け物を殺すのがあまりにも忍びなく、結局主人の魔物とするために、適当な嘘をついたのだ。魔物は主人を守り続けるために生きつづけている。
その魔物が兄であるとは言えず、今日まできていた。
きっと永遠に言えはしないだろうと思う。
国を再建するついでに、彼のための図書館を拡大させた。図書館を拡大し、主人が本を読めば読むほど、主人はかつての扱いの異常性に気づいた。
そのため彼は当時の研究者や王たちの行為にひどい嫌悪を抱いている。
そのことを考えると、研究に加担し、兄のためにすべてを破壊した一端を担う自分のことを語れるはずもない。
だからすべてを口にせず、そばにいたいとすら言わない彼は、今日も祈るのだった。
(明日も、そばにいられますように)
どうか彼が、自分を置いて行かないように、と。
彼のための祈り