虹橋

前回は推理小説を掲載して好評ですた!今回はお教室で書き始めたものをどこかへ投稿して没になった作品です。
取っつきにくいのはお教室だから。読めれば面白いと思いますが?20年くらい前の作品なので現在にそぐわない言語は書き直してありますが基本的にはそのままなのでご了承ください。

虹橋ーファイナルキスー

   虹橋   

初めの章
 それは・・・。
 ”異常な愛”に走ってしまいそうな予感がしたから。
 ううん、”許されない恋”と名付けた方が正確かも知れない。
 あと、二ヶ月で就職先を決めなくちゃ。
 私は家を出るしかない、と思った。
 淳也君にもたくさん会おう。
 ケイちゃんをお父さんと思おう。ミイちゃんをお母さんと思おう。四歳の時から十四年間も育ててくれたんだもの。
 けど、どんなに殊勝な気持ちになったって、私の置かれている状況は変わらない。
 例え、この福島から遠く離れた場所に住むことになっても、私が愛する人は永遠にたったひとりなんだから。

 まずは、この冬の間に路上試験をクリアしなくちゃ。
 「今日の先生、意外とイケメンだったよ。スタートでエンストしちゃったんだけどさ『おまけしてやるよ』なーんていってくれて。麻実の方はどうだった?」
自動車教習所を同時にスタートしたクラスメイトのキヨミが声を掛けてきた。
「いいなぁ。私はまた、イヤミな先生。これで三度目だよ。もう厳しくて厳しくて。サイドミラー見るの一回忘れただけで、ハンコ貰えなかった。まだ、ケイちゃんに教えて貰った方が上達しそう」
「ケイちゃん、ドライブ好きだもんね。いいよ、麻実は。若くてカッコイイお父さんがいて。あの先生、リーゼント、グリースで固めちゃって、時代錯誤もいいとこ!その上、説教がガチガチらしくて皆なイヤだっていってたよ。取り合えずアイツに当たらないよう願って、早いとこ免許取っちゃおうね」
キヨミは、教習所の階段脇にある自動販売機からオランジーナを二本買うと、
「路上に出ると、緊張して喉カラ」
と、その内の一本を私に差し出した。
 私はプシュッとキャップを捻りながら、
「アキコも一緒に通えたら良かったんだけどな」
といった。
 アキコとキヨミと私の三人は、一番仲良しの友達だから。
「仕様がないじゃん。アキコは早生まれだもん。大学に無事入学できたら、ゆっくり通うっていってたよ。車の方も終わったことだし、ラインでアキコ呼び出そうよ」
「でも私さ、ケイちゃんと出かけるつもりだったんだ。今日木曜で、ケイちゃん休みだし」
「お父さんなんか断っちゃいなって。だって、ダッフィーのケーキセット、今日半額日なんだよ」
「どうしようかなぁ。ダッフィーに行くなら、駅前まで出なきゃなんないじゃない」
「この辺、美味しいとこないもん。冬休みでどーせ暇なんだしいいじゃん。たぶん、淳也君もヒマしてると思うから誘おうか?私達がいたら邪魔?」
「ぜーんぜん」
「だったら行こう!ユウジを呼んでもいいし」
ユウジとは、キヨミが付き合っている大学生だ。
 ケイちゃんと出かけるの、楽しみだったのにな。でも、高校最後の冬休みだし、折角の約束だけど・・・ごめんね、ケイちゃん。
「寒いよねぇ。次の路上の時、雪、降らなきゃいいけど。ね、バスで行く?タクシー使う?」
「ちょっとだけ待っててくれる?今、アッシー頼むから」
「麻実もやるじゃん、誰?そのヒト」
「ケイちゃんだよ。家で待ってる筈だからダッフィーまで送って貰っちゃう」
「いいな、麻実は。お父さんと友達みたいで。ネ、ついでにケーキセットの分、お小遣いせびっちゃうとか!」
「キヨミーィ、それはグッド・アイディア!」
私はケイちゃんを、少しだけ自慢したい思いでラインで呼び出してスタンプ送信。

 キヨミ!
 本当はね、ケイちゃんはお父さんじゃないんだよ。アキコも淳也君も皆な、
「ケイちゃんはお父さんていうより、アニキって感じだよね」
っていうけど、ケイちゃんは正真正銘、私の父親じゃなく叔父さんなんだから。
 いつか・・・きっと・・・。
 ホントのことを話したい。
 今はいえないの。
 とっても複雑な心境だから。

  弟一章 桜月  

「 ケイちゃん、パパとママはもういないの?」
「・・・」
「麻実、パパとママに会いたい」
「大丈夫。今日からケイちゃんがパパだ」
「どうして?」
「どうしても」

 その時、私は白っぽく飾られた祭壇の前でぽつんと座っていた。
 桜を見に行った帰り道、私は突然ひとりぽっちになってしまった。隣では叔父さんが震えていた。
 私は何となくくしゃみをしたかった。
 お線香が蒸せかえったんじゃなくて、私が唯一嫌いだった、パパの靴下のような臭いが部屋中に立ちこめていたから。
 叔父さんはひとしきり俯き手を合わせると静かに私を抱き上げた。四歳になったばかりの私は、叔父さんの胸元にぺたんと顔を埋めて回りのすすり泣きを聞いていた。涙はこぼれてきたけど、本当に悲しみがこみ上げてきたのは何年も過ぎ去ってからだった。
 数日後。
 ケイちゃんの家では奥さんがちらし寿司を作って待っていてくれた。私のママは七つ違いの弟の慶一さんを『ケイちゃん』と呼んでいた。だから私も自然と『ケイちゃん』と呼ぶようになった。
 ケイちゃんの奥さんは、つまり叔母さんは少しだけよそよそしく、でも精一杯の笑顔で寿司桶から錦糸卵がこんもり盛り上がっているちらし寿司を取り分けてくれた。錦糸卵が私のお皿の中でほろりと崩れ、間から薄くてぎざぎざの二等辺三角形にきざまれた筍がいくつも顔を覗かせていた。
 よそよそしく・・・。
 まだ四歳の私に何故そんな記憶が残っていたのか・・・。たぶん私が女の子だったから周りの状況に、特にミイちゃんの反応に敏感だったせいだと思う。
 ミイちゃんだけには、我が儘な言動は慎むべきだと子供心に察知できたから、思い切りニコニコして、
「いただきます」
と、いっていた。
 錦糸卵の黄色が涙目を通してぼんやり、そしてキラキラ輝いて見えたこと、今でも忘れない。
 ケイちゃんは二十三歳。
 ミイちゃんは二十六歳だった。

 そもそも、私が日記でもない、自由文というほどでもない、取り留めのない事柄を書き表すようになったのは、写真のパパとママに向かって小声で話し掛けるのが恥ずかしいと思うようになった頃からだった。
 それまでは写真に話し掛たりすると、ケイちゃんもミイちゃんも(叔母さんの名前は美樹さんといって、ケイちゃんがミイって呼んでいたので、私もミイちゃんと呼ぶようになっていた)
「きっとパパもママも天国で麻実の声、聞いてるよ」
と、慰めるようにいってくれたのだけど、それもいまいち他人行儀で苦痛だった。
 「麻実、ちょっといい?」
 私が高二の春休み。
 ミイちゃんはまるで近所の友達に話し掛けるように私の部屋にズカズカと入ってきた。 ズカズカと・・・。
 こんな風に思ってしまうのも、突然両親を亡くした哀れな女の子が、悲しみや思春期の悩みを友達とダベることで解消し、母親みたいなお姉さんとして信頼していた目の前のミイちゃんを、少し敵意を持った心中で女同志として意識するようになっていたからだった。
「着替えとかしてるかもしれないんだから、すぐドア開けたりしないでよ」
「何、気どってんのよ。麻実の下着も洋服もみーんな、このセンスのいい私が買ってきた物ばかりじゃない。今更恥ずかしがってどうするの。ほら、この間だって私のブラジャーしていったでしょ」
「あれは雨でミイちゃんが洗濯しない日が続いて干してあるのも生乾きだったし」
「んなこといったって、いちいち乾燥機使ってたら電気代バカになんないんだから。麻実のパンティだってなんだって私が洗ってんだから文句いわないの!それとも急に入って来られて不味いことでもある訳?」
「別にないよ!洗濯だって頼んで洗って貰ってる訳じゃないもん。それで用事ってなに?」
いつもこんな調子だ。
 引き取られてから二年後にケイちゃんとミイちゃんの本当の子供、『涼太』が産まれてミイちゃんのよそよそしさはすっかり消え失せたものの、いつのまにか私が一歩引く体制が整ってしまった。だから下着を自分で洗ってたりすると、
「明日たくさん洗濯するんだから篭にいれて置きなさーい」
なんて、聞こえよがしの大声を出されたりする。ちょっとイライラしながらも
「じゃぁ、お願い」
って感じになっちゃう。近頃は”やなヤツ”なんてちらっと思う。確かにミイちゃんのセンスは他の友達のお母さんよりも流行先取りって感じで抜群だけど、どうもミイちゃんの物は派手で可愛らしく私のは地味で色気がない・・・ような気がしてる。
 いつだったかアキコに、
「麻実の下着って、制服みたいだよね」
なんていわれたことがあったもの。感謝はしてるものの、下着や洋服を自分の好みで買ったり出来ない、という遠慮もしている。パパ代わりとはいえ、まだ三六歳のケイちゃんの前であからさまに子供扱いされるのはしゃくにさわる。
 でも私はムッとなんかしない。
ポーカーフェイスを装って、ミイちゃんと話す態度などやっぱり本物のママ似なんだ。 
「涼太、まだ気づいてないよね」
ミイちゃんが、何気なく探りを入れてきた。
「もちろん、心配しなくても大丈夫!」
「ならいいんだけど。涼太もこれから中学だし最近、麻実達のことおかしな目で見てるような気がして」
 やっぱりそのことか。
 そうだと思った。
 涼太は私のこと、疑う余地もなくモノホンのお姉ちゃんだと思ってる。気になってるのはミイちゃんの方だ。こんないい方したらミイちゃんに申し訳ないんだけど、私だって涼太が産まれてからヤな思いしなかった訳じゃないし、養女という立場で結構傷ついたりもした。子供なのに変に大人ぶってみたり、家族の様子に伺いを立てなきゃならなかったり、正直いってかなり寂しい時もあった。その分ケイちゃんが甘えさせてくれたんだけど、あんまり仲が良すぎるのも本物の親子らしくないっていえばそうだし、ミイちゃんからは反感かっちゃう。
 ミイちゃんがいってるのはケイちゃんと私の過剰なスキンシップのことだ、たぶん。
「ほら、涼太が二、三年生の頃、お姉ちゃんはお父さんとお母さんをどうして名前で呼ぶの?なんて不思議そうに聞いてたじゃない」
「そう、だから私は適当に説明して、パパとママの写真も見つからないようにしまっておいたのよ」
「うん、でもね。麻実は六歳上なんだしこれからはもうちょっと気を付けて貰わないと。ケイちゃんもあの通り、あっけらかんとしちゃってるから」
だからケイちゃんが好きなのよ、といいたいとこだったけど我慢。
 けど、
「気を付けるってどういう風に?」
と、ミイちゃんの瞳を見据えてしまった。
「麻実ったら高校生にもなって父親と添い寝もないと思うよ」
ミイちゃんの眉毛がひくっと動いた。
「ちょっとしたお昼寝じゃない。涼太だって別になんとも感じてないよ」
「まぁそうかもしれないけど、でもお風呂の覗きっこだけは卒業してよね」
 親子なんだから構わないじゃない。だだ戯けてるだけなのに。
 こんな風にいわれるから私はケイちゃんを単なる『叔父さんパパ』ではなく、『パパのような男の人』になっちゃったんだ。でもそれはケイちゃんも同じかも知れない。『姉貴に似た義理の娘』から少しだけ『娘のような女の人』に変わる時があるみたい・・・だといいな。
「うん、私も覗きっこはそろそろ止めなくちゃ、って思ってる」
「でしょう。恥ずかしいから止めるって、麻実がはっきりいわなきゃだめよ」
「任せて!でもケイちゃんって歳の割におちゃらけてるとこあるからなぁ。でも、涼太の方は心配しなくていいよ。私は本当の弟だと思ってるもの。涼太につらい思いはさせないつもり」
「頼んだわよ」
ミイちゃんは、勝ち誇ったように私の部屋を見渡すと、
「女の子なんだからちゃんと片づけなさいよ」
と、私のほんの僅かな女の部分を逆撫でした。
「ミイちゃんは埃一粒残さないようにお掃除するからだけど、これでも友達と比べると綺麗なほうなんだけどな」
にんまりしているミイちゃんに背を向け、机の本を片づけるふりをしながら、私はケイちゃんとのファーストキスの瞬間を思い出していた。



 そう。
 ケイちゃんとは親子の会話もするし友達同士になってみたり、兄弟のような男女のような凄く意味深な会話をしたりする。ミイちゃんのせいで・・・といったら語弊があるかもしれないけど、私とケイちゃんはふたりにしか分からない世界で、微妙に屈折した時間を持っちゃった。

 ケイちゃんの会社は木曜が休みだった。
 学校が休みに入ると涼太と三人で車で四十分ほど先にある丘の、虹沼というところに遊びに出かける。
 木曜日のミイちゃんはフラワーアレンジメントに通っていて帰りが午後三時くらいになるので、虹沼にいった帰り道、三人でラーメンやファーストフードを食べてくるのが結構楽しみだった。
 けど、私も涼太も友達と遊ぶ方が忙しくなって、私が高校生になってからは、たまにケイちゃんとふたりで行くくらいだった。もちろん春・夏・冬休みの木曜日は、なるべく約束を入れないようにしていたんだけど。   
 春休み最初の木曜日。
 久しぶりに虹沼へ。
「私、四歳の時からここに連れてきて貰ってるけど、一度も虹掛かってるの見たことないよ」
「俺も」
ケイちゃんは私とふたりの時は俺っていうけど、涼太が一緒の時はお父さんという。
「よく虹が掛かるから虹沼なんでしょ」
「みんなそういってるみたいだけど嘘かもな。虹って雨上がりに出るもんだろう。雨降った後は沼の回りどろんこになるから来たことないもんな」
「虹沼じゃなくて泥沼だったりして。今度、雨の後に来てみようか、長靴履いて。ねぇ、今更ママの話も何だけど、私って似てるぅ?」
「似てる。こうやって横から見ると姉貴のミニチュァって感じだなぁ」
「ケイちゃんはさ、涼太が産まれた時、私のこと邪魔だと思った?」
「何いってんだ。知ってて訊くところなんかが、姉貴とそっくりだ」
「だって、ケイちゃんあんまりママの話してくれないから。私、気づいてたよ。私が来たことで随分ミイちゃんと喧嘩してたでしょ。あの日。私がちらし寿司食べてる間、もう陰の部屋でいい争ってたもの」
「よく覚えてるな」
「うん、普段は忘れてるんだけどね、桜が咲き出す頃になると思い出さないように!と思ってもダメなの」
私は近くにあった小石を拾い上げて、水面すれすれに二段投げをした。
「ケイちゃんが投げると、沼の向こう側まで届きそうなんだけど」
「ホントのこというとさ。あの時、麻実連れてきたの、衝動的だったんだ。あの事故でお前ひとり取り残されちゃっただろう。今だからいうけど、他の親戚は短期間ならいいけどずっとじゃ困るってそれとなくいってたしな。麻実とはしょっちゅう会ってた訳じゃないけど、施設に行かせる気はさらさらなかったし。俺が育てるしかない!なんてあとさきなんか考えてなかったよ。後で涼太が産まれてほっとしたけどさ」
「ミイちゃんの関心が涼太に向いたからでしょ?それまではケイちゃん、針のむしろって感じあったもんね」
「ガキのくせして観察力は人一倍だったんだな。もう、遠い昔のことだよ。ところでさ、麻実ちゃんは、キスなんて経験してんの?」
ケイちゃんは話を逸らして小石を拾い上げた。ケイちゃんの投げた小石が、四段五段とだんだん小さくなりながら水面を飛び跳ねていった。
「突然、とんでもないこと質問しないでよ。父親の勘からしてどっちだと思う?」
「そうか・・・その物言いから察するにやってんだな!」
「やってるとかやってないとか、なんつーい言い方するの。そんなこと、親に報告してる子、誰もいないってば!」
「麻実は俺に報告すればいいじゃないか」
「へぇー、気になって気になって仕様がないんだ?」
「別に。こんなネンネにキスしたって、どうせ牛乳の味しかしないもんなぁ」
「味は牛乳でも形はきりりとしてかわいいのよっ」
「どれ?」
ケイちゃんが私の顔をまじまじと覗き込んだ。 やだ、そんなに見ないでよ。
私は目の回りがポーッとなったので、まるで兄貴をなだめるようにケイちゃんの額を掌でグイッと押し返した。
「してるように見える?」
「今時の高校生なら当たり前なんじゃないのか」
「やっぱりケイちゃんはお父さんって感じじゃないよね。普通のパパならそうあって欲しくないなんて思って、怒ったり注意したりするもんなんじゃないのかな。つまんないの」
「おっ、意外と時代遅れ!まだだってことか。それにパパらしくないだなんて、お前が夜中に熱出した時だって運動会だって卒業式だって、俺が率先して行ってやったんだからな」
「ありがと、感謝してるよ。でも可哀想だと思ったからでしょ?」
 そうじゃないって分かってるのに。
「それも少しあった・・・かな。哀れって意味じゃなくて、麻実がかわいかったんだ。お前が小さい頃はいつだって姉貴と兄さんが俺の後ろに立って見てた。全て事情を知ってるよっつの麻実を前にして悪戦苦闘だったさ。最近になってやっと姉貴達から解放されたよ」
「ミイちゃんは良く思ってなかったんでしょ」
「最初は。でも夫婦なんておかしいもんだ。麻実がひとり入ってきただけで・・・」
「入ってきただけで?」
「うん。まぁ、何ていうか・・・」
「私なんとなく分かるけど。夫婦生活のことだよね」
「意外とはっきりいうなぁ」
私の精神状態は、そよ風に吹かれアンバランスな天秤みたいだった。年月を重ねる程に、叔父さんとは親子でいるよりもいつまでも『ケイちゃんと麻実』でいたいと思うようになっていた。私にとってケイちゃんは一番安心できる異性だったし、やっぱり私の胸の奥には靴下の臭い大らかなパパと、おねだり上手なちゃかりママが生きている。
「今、どんな話されても驚かないよ。それに私、来年卒業したら、家から出るかも知れない。まだ決めてないけど。もしそうなったらここにも滅多に来れなくなるし、毎日ケイちゃんとバカ話もできなくなるでしょ。だから今のうちに何でもいいから沢山話しておきたい」
「家、出ること考えてたのか?ここからだって学校にも通えるし就職だってできるぞ!遠慮することないだろう」
ケイちゃんは慌てた様子で、急に父親顔になった。
「遠慮なんかじゃないよ。その方がミイちゃんと涼太の為にもいいような気がして・・・。涼太だって自分で市役所行ったりするようになったら分かちゃうことだし。まぁ、あいつはしっかりしてるし、私と血が繋がってないのは驚きだろうけど涼太は本当の子だから。ねぇ、私いなくなったら寂しい?」
「当たり前だろう」
ケイちゃんがあからさまにガックリ肩をおとしたので、私はもの凄く嬉しくなった。
「さっきの話の続きしてよ。私が来てからどんな風に変わったの?」
「ミイが子づくりに頑張りだしたのさっ。でも頑張れば頑張るほどできないもんなんだよな」
「私が来たせいだっていってた?」
「まぁ、それとなく。その後、急につくりたくないなんていってさ」
「ミイちゃんにとってはお荷物だもんね」
「そこまでじゃないよ。只、自分の好きなことしたかったらしいからな。まだ若かったし新婚だったし」
「それにミイちゃんは、年上で主導権あったし、でしょ?ミイちゃんとケイちゃん別々に寝てたことも知ってた。ケイちゃん、私としばらく一緒に寝てたもんね。ケイちゃんが布団に入ってくるといい匂いがした。今もだけど」
私は沼の淵にしゃがんでいるケイちゃんの後ろに回って、首に両腕を回しながら抱きついた。
 小さい頃はいつもこうしてたのに。
そして、沼の周辺いちめんに敷き詰められた白つめ草の絨毯に押し倒されて、
「どうだ、まいったか!」
と、脇腹をくすぐられたりした。 
 ケイちゃんはじっとしていた。ケイちゃんの耳に頬を寄せて見た野原には、白つめ草の中に所々固まって菜の花ばかりが咲いていた。白いふあふあの中に黄色い集団がぽっかり浮いて、あの日の錦糸卵みたいだった。ふいにミイちゃんの顔がちらついて、
「私のファーストキス、ケイちゃんにあげたいな」
といっていた。  
「そりゃ、どうも。突如、血迷ったようなこというなんて、いよいよ好きな男でもできたのか?」
「うーん当たってるかも!でも片思い。その人の顔、想い浮かべながら目つぶるから小さい時したみたいにチュ!っとしてよ」
私はケイちゃんの正面に回って、立て膝に無理矢理割り込んで正座した。
「アタマ、やられてんじゃないの?叔父さんとキスしてどうするつもりだよ」
ケイちゃんはいつもの調子で、両膝で私の躰を挟んでグイグイ揺らした。
「どうもしない。今だけお父さんやめてくれればいいの」
どうしてこんなこといっちゃったのか自分でも驚いていた。
 目の前の人が本当のパパなら、ケイちゃんは平等に私とミイちゃんと涼太の三人のものだ。なのにいつも私の分は足りないような気がしていた。コンプレックスなのかもしれないけど、私の中に別の違った感情と、どこからともなく忍び寄ってくる独占欲みたいなものが、時々ミイちゃんと涼太を押しのけてしまう。
「単なる練習よ。ケイちゃんのいう通り、それ位みーんな経験してるもの。アキコなんか、もう全部。私が凄く遅れてるのよ」
「練習台なのかあ!そんなこと、人は人。別に焦せんなくてもいいと思うけどな」
さすがにケイちゃんが目を剥き出しにして驚いた。
 違うよ、ケイちゃん。
クラスの惇也君とは両思いなの。日曜日に会ったりしているよ。デートの帰り道キスされそうになったけど、私、土壇場で逃げて来ちゃった。惇也君の唇がすうっと近寄ってきたら、ケイちゃんの顔が急に浮かんで来ちゃって。
 その上、惇也君、私の腕痛いくらいにぎゅっと掴んで息使い荒くなっちゃってるし、もう一刻も早くケイちゃんに会いたくなった。走りながら思ったの。不道徳だけど、ファーストキスはケイちゃんじゃなきゃイヤだって。血の繋がった叔父さんだって分かってるのに。 
「ケイちゃん、い・い・よ・ね」
そういうと、私はケイちゃんの唇めがけて特攻隊みたいに一直線に向かっていった。ケイちゃんの唇にぶつかった時、
「おい、麻実」
と、もごもご声がしたけど、私は必死で唇を押し当てていた。
 それからは、なんだかほわっとしたいい気分になっちゃって。鼓動が喉のあたりでトクトクと波打って、すぐに離れようと思ったのに、ケイちゃんが両膝で私をすっぽりと抱き抱えてきた。ケイちゃんはちょっとだけ顔を斜めにしてから私の頭を支えてくれて・・・。 それから・・・。
唇を強く押し付けられて、下唇が微かに吸われていった。私の下唇がカスタードクリームの中に埋まってもがいてるみたいで、耳たぶが熱くて指先がピリピリしていた。目をつぶったままでいると、春空の逆光が瞼の裏で虹を描いていた。
 やっぱりケイちゃんはミイちゃんを愛しているんだろうな、なんて考えていたらゆっくりと唇が離れた。
「ここまで・・・な」
「うん」
おかしな会話だった。
 惇也君ごめん、全然思い浮かばなかった。 唇が花冷え風に晒されて、冷たくなっていった。

 「麻実ぃ!夕飯の準備、手伝ってくれない?」
キッチンからミイちゃんの呼ぶ声がする。机に俯せになってうとうとしていたんだった。
「今いく」
私は乱れた前髪を指で梳きながら立ち上がった。

 もうすぐ桜がピンク色に染まる。お風呂の覗きっこはいわなくても自然に消滅しちゃうだろう。キスしちゃった事実は大きいもの。でも、私もケイちゃんも今までとそんなに変わらない。この家にいる限り変わっちゃいけないって思ってる、私なりに。パパとママは怒っているかな。私をひとりにしちゃったからそれくらいは大目に見てるのかな。
 惇也君はずっと卒業するまでボーイフレンドだった。(正確にいうとそれ以後も)だから二度目のキスは惇也君とだった、意外とあっさり。チューッ!って感じかな。
 一年後。
 私は家を出て就職することに決めたのだけど、ケイちゃんへの想いは離れた途端に強くなった。ミイちゃんに対してポーカーフェイスやめたくなったのと、右も左も分からない癖に、
「ひとり暮らしする」
って、はったりみたいにいっちゃったから。
 私は桜のほのかに甘い香りがとっても切なかった。

      第一章
  第二章  七夜月

 私は惇也君の話を上の空で聞いていた。
「何だよ、折角来たのに全然嬉しそうじゃないな」
「あっ、そんなことないよ。めちゃ嬉しい」
「麻実が直で呼び出すなんて珍しいから、これでも急いで来たんだからな」
「わるぅい!でも福島市内からならさして遠くもないでしょ」
「麻実だってローンで軽自動車でも買っちゃえば、こっちへ出て来るの簡単なんだぞ。あっ若葉マークで遠乗りは無理なのかぁ。キヨミちゃんなんて、高速もバンバン運転して歩いてるっていうのにさ」
「だって通勤に必要ないんだもん。何なら淳也君の車、運転してみようか。助手席に乗せてやるよ」
「冗談じゃねえよ。ぶつけられたら修理代だけで、バイトの給料、飛んじゃうからな。それにしても不思議なんだよなぁ。なんで喜多方くんだりに就職したのかが。近くにカラオケもないんじゃねぇの?」
「それ位はあるってば!いいじゃない、家から離れたかったんだから。こんな場所って思うかもしれないけど、なかなかいいんだから。アキコとキヨミなんて観光気分で来て、ちゃっかり私にガイドさせて宿泊所にしていったよ。それにうちのお店、高卒の女性でもマネージャー代理まで役職付けてくれるらしいし。将来お店持ったりするのも夢があると思わない?」
「確かにな・・・。でもさ、まだ会津の方が便利だし、福島市内だって就職先はあったのになぁと思って」
 私だってそう思うよ。分んないのよ、惇也君には。私の両親のこと知らないんだもの。これ以上、ミイちゃんの監視下に置かれるのはまっぴらだったの。ミイちゃんの友人が喜多方で漆塗りのお店を開いてるとかでそこを勧められたけど、私としてはミイちゃんのコネで働くなんて死んでもイヤだったから、蔵をイメージしたレトロっぽい造りのプチレストランに就職決めた。
「四カ月経った今でも信じられないよ。あんなにお父さん子だったのにさ」
「・・・」
「今日泊まっていこうかな?」
「また始まった。そういって泊まったことないじゃない」
「泊めないのは麻実の方だろ」
「とまりはとまりでも毎回毎回キスどまりぃ!だもんね」
「まさか結婚するまでとっておくのかよぉ?」
「まさかぁ。でも、一回そうなると毎回そうなっちゃうでしょ」
「かてーな」
惇也君は、お昼時を過ぎたわっぱめし屋さんの中でちょっぴりしらけた。
 別に惇也君を特別拒んでる訳じゃない。ストレートにいってしまえば、ケイちゃんとキスはしたものの、その先が未定だから・・・だと思う。ケイちゃんが涼太を連れて来た時は、私の部屋でお茶を飲んで、喜多方観光をした。その後、働いているレストランにはミイちゃんと一緒に食事に来てくれた。ミイちゃんはしきりに部屋の様子を見に行かなくちゃといっていたのだけど、引っ越した日と何も変化がないからといって、断った。
 ミイちゃんに部屋を覗かれたくなかった訳は・・・。この四ヶ月で、私の装飾品ばかりが異様に増えていることに気づかれたくなかったから。
 だって、本来ならコケティッシュな洋服なんかをを着込んで、イメージの違う麻実を見て欲しかったんだもの、ケイちゃんだけに。
 けど、ミイちゃんに、
「随分、服装変わったわね。麻実も一端の社会人になったのかしら」
なんて、一言二言いわれるのもしゃくだから、食事をご馳走してあげただけだった。ケイちゃんだけ惨めな娘を見るみたいな哀愁顔で。ふと、本物のママだったら帰って欲しくないんじゃないかと、胸がキュンとした。

 私はあの日のカスタードクリームキスを片時も忘れられなかった。思い出すと、まるで病気みたいにそこから先の美しくイヤらしい状態が、入道雲みたいにモクモクと膨れ上がって増殖していく。想像の相手が惇也君ならキヨミやアキコにラインで長々メールするけど、ケイちゃんだから胸の金庫にがっちり鍵掛けてしまって置くしかない。
 けど、もう七月も終わる。家には八月にゆっくり帰ることにしてあった。
「しっかし、麻実って全然変わんねぇよな。ひとり暮らししたら、俺のような学生なんか見向きもしないんじゃないか、なんてちょっと思ったりしたんだけどさ」
淳也君は気を取り直したように明るくいった。
「惇也君だって相変わらずって感じ。でも私に好きなヒトできちゃったりしたらどうする?」
「ん?」
「ネ、ネ、どうする?」
「えっ、できたのか」
「お店に観光の若者、結構来るもん」
「ナンパされた?察するに違うな。うん、好きなのはこの俺!でしょ」
 こんなところが学生っぽいのよね、惇也君は。
 全然変わらないだなんて一体、私のどこを観察してるのよ!私は少しお姉さん面をした。
「今日、泊まったら?私は明日お仕事だけど」
「ホントかよぉ。よし、俺は明日休講にする!」
「じゃ、夕飯でも作ろうか」
「いいなぁ、そういうの。ご飯も麻実もいただきだ」
「よく、いう!」
 呆れた、惇也君たらその気になっちゃって。 私としては、お休みの日に猪苗代湖あたりをドライブしながら遊覧船に乗ったり、会津を散策しながら仲良くふたりで味噌田楽を食べたりして、充分雰囲気が高まったところで初めてのソレを確かめたいなんて考えていたけど、惇也君じゃ無理みたい。夕飯作るっていったって惇也君の為というより、外食は毎日職場やコンビニで食べ飽きちゃってる。
 こんな気持ちで惇也君を泊めるのも醒めた感じがするけど、八月にケイちゃんに逢う前に私の躰、換えちゃいたいって突然思った。 どうしてだろう。

 雨上がりの喜多方市内は蒸し暑くて、惇也君の背中にTシャツがへばりついていた。部屋に男のヒトを連れ込むなり、すぐにお風呂を洗って夕飯の準備だなんて、プライド捨ててるみたいで馬鹿みたい!って嫌悪感の固まりみたいになってたけど、心の片隅で未知と遭遇する期待なんかがあった。両手でレタスを割っていたらスマホのベルが鳴った。
「もしもし、元気?」
涼太だ。
「元気だよ、そっちは?」
そっちの意味は私にとってはケイちゃんだ。
「いつもと同じ。お父さんがこっちに泊まりに来る日、教えろってさ」
「大体お盆のあたりだけど、できればお祭りか花火大会ある時にしようかなと思って」
「ふーん、えっ何・・・あ、いつでもいいってさ」
「隣にケイちゃんいるの?なら代わってよ」
「お父さん、ほら・・・また掛けるからいいって。姉貴、今誰か来てるの?」
「どうして?」
「野球の音聞こえるから。姉貴、見ないだろ。あっそうか、そういうこともあるよな、うん」
 涼太は鋭い。
受話器を押さえつけてなにやらケイちゃんに訴えている、みたい。惇也君と付き合っていたことは涼太も知ってるから、きっとそんな風に伝えているんだ。
「ちょっと!誰もいないから。とにかく帰る日決まったら電話するから、ミイちゃんにそういっといて!」
こんな時までミイちゃんに気を使ってる自分が情けない。電話を切った後も、
「野球中継聞こえたよ」
と、三人で笑ってる光景が目に浮かんで何故だか悲しさが込み上げた。

 振り向くと、惇也君が扇風機の前で上半身裸になっていた。一緒にプールに行ったりして何度も見ているのに、私しかいない私の部屋で見る惇也君の裸はセクシーに映って、一瞬心臓がドクッと音を立てた。
 いちいちそんな気持ちになってしまうのも、こっちに引っ越してから不純な動機で洋服や不似合いな下着を買い集めるようになったからかも知れない。でもそれは、この間までミイちゃんに抑制されていた反動だ。レーシーなワインカラーのキャミソールや黒フリルスキャンティなんて普段付けたら落ちつかない。だけど買ったっていうことはいつか付けようと思ってるってこと、だから。
 時々私は、鏡の前に下着姿で立ったりする。
 鏡の中には、私に寄り添っている妖しげなケイちゃんがいる。私は両腕で自分の躰を抱きしめる。それはケイちゃんがバスケで鍛えた精悍な腕・・・。
 優しかったり強引だったり。
 それからケイちゃんの唇が私の肩から胸に・・・。
 たちまち私の躰に足元から蟻が這い上がってくるような幻想の快感が走り、私は虚しい陶酔に興じちゃう。
 こんな事、もし惇也君が知ったら、もしタンスの中を覗いたりしたら、きっと吃驚して、それこそ私の私生活を疑っちゃうかも知れない。それよりも私の方が恥ずかしさで顔がポーッてなっちゃうけど。
 こんなにも頭の中はケイちゃんで一杯なのに、今すぐ惇也君がそっと近寄って後ろから抱きしめてくれないかな、なんて凄く矛盾した要求が芽生えていた。けど、惇也君はテレビに夢中なのか私の方を気にしてる様子もない。少し不満に思いながらレタスを割っていたら、このまま友達でいる方がいいような気さえしてきた。
「ねぇ、やっぱりラーメンにしようよ。喜多方ラーメン。ここに来たらみんな食べてくよ」
「その気になってたのにどうしてだよ。別にラーメンなんていつだっていいでしょ」
惇也君がとぼけた格好でベルトを外すふりをしたので、私のしらけたハートが怒りとムカつきで熱く燃え上がった。
「そういう態度ってないんじゃない!何だかそれだけの為に来たって感じ!」
「違うって!怒んなよ、ホントに違うって!」
「別に怒ってないけど、全然ムードないんだもん」
「麻実と一年以上も付き合ってるんだよ、オレ」
「だから?」
「だからって、そんなに邪険になんなくたっていいだろ。今日の麻実、変だよな。もしかして・・・生理?」
「な、訳ないじゃない。いいよね、学生生活楽しんでる人は」
そこまでいってから私はもう一度キッチンに向き直った。淳也君が独り言のようにブーイングを出している。
 惇也君も初めてなのかな。
訊けば笑って答えてくれるだろうけど、寂しさで訊けなかった。同級生の惇也君と父親代わりのケイちゃんを比べること自体がどうかしてる、と思いながら後ろにいる惇也君の気配をケイちゃんにスライドさせていた。
 「ご飯・・後でいいからさ・・」
最初の期待に添うように惇也君が私を抱きしめてきた。惇也君の前髪が首筋に触れた途端に虹沼で仰いだ雲の形を思い出し、その後、キヨミの事実に基づいた性体験によるアドバイスを思い出した。取り合えず、
最初は明るいと落ちつかないよ、といっていた。
「テレビと部屋の電気ぜーんぶ消してくれない?」
私は自分でも信じられないほど落ち着いていた。
「ぜーんぶ消したら見えなくなるよ」
「じゃないとヤダヨ。真っ暗にしたらいいけど。あっ、お風呂の電気もつけないでよね」
「それじゃ、全然見えねぇよ。懐中電灯ぐらい貸してよ」
「ちょっと不気味だけど仕方ないよね。アキコ達はみぃーんな可愛いプチホテルとかラブホだったらしいんだけどな」
「じゃ、今度そうしよっか」
淳也君がマジな顔でいった。

 私は引っ越した日に、ケイちゃんが近所のお店から防犯用に買ってきてくれた懐中電灯を手渡した。惇也君は懐中電灯を付けたり消したりぐるんぐるんに振り回しながらシャワーを浴びに行った。
 そんなとこが惇也君といると楽しいんだけど。
 惇也君がシャワーを使ってる間に私はタンスの引き出しを開けてみた。電気を消した暗がりの中で手探ると、未使用の新品下着とその奥にはふたつの小さなフォトケースがある。私とケイちゃん、ふたりで撮った写真とパパとママの写真。ケイちゃんの笑顔は、目を閉じていてもどんな暗がりでもちゃんと浮かんでくる。
 ケイちゃん私とうとう・・・。

 それは金縛りのような出来事だった。
 夢見心地も余韻もなくて惇也君だけが重たく感じて、キヨミがいってた”楽しいセックス”という触れ込みが大嘘に思えた。仕方ないかも知れない。アキコは学生生活をエンジョイしているし、キヨミはフリーターで不倫の真っ最中。アキコの友達は援助交際までしてるらしいし、皆なショッピングだ、プチ旅行だ、キャンプだって忙しそう。
 それがちょっと悔しかったせいもあって、話しかけようとしている惇也君を無視するみたいにお風呂に駆け込んだ。頭からシャワーを浴びて必死で躰をこすった。こすりながらこんな暑い日にまだエアコンもない部屋で汗だくになることもなかったんじゃないかなとか、突然ケイちゃんが来てくれないかなとか、これで女の子脱皮の行事が終了したんだとか、そんなことばかり考えていた。
 私がTシャツに着替えて戻ると、扇風機の前で暑い暑いを繰り返していた惇也君が、私の肩をぐいっと引っ張るようにしてベッドに押し倒した。
「ヤダ!また汗でべたべたになちゃうよ」
軽くキスしようとした惇也君を遮った。

 こんな時、ケイちゃんならどんな話をしてどんな風に私に触れるんだろう。ミイちゃんと私ではどう違うんだろう。たかが、たかが処女じゃなくなっただけで、私はケイちゃんから一歩他人になり、別な意味で一歩近づいたような気がしていた。
「なに、ボッと考えてんだよ。さてはオレに処女を奪われ嬉しくなってたんだな。ダイジョブ、ダイジョブ、なんてことないって!エッチをしたからってオレの気持ちは変わんないさっ」
淳也君はラグマットの上に手を伸ばして懐中電灯を掴み上げると、私の顔に向かってスイッチを入れた。
「ちょっと!ふざけないでよ!ボーッとなんかしてないってば。ヒトを子供扱いしないで!」
力を込めて押し退けた懐中電灯が淳也君の手から転げ落ちて、テーブルの足元をゆらゆら照らしていた。
「やっぱ、おかしいよな」
「何が?」
「麻実だよ。いつもの麻実なら逆に”淳也君の童貞奪っちゃった!”なんていって喜ぶんじゃないかな、と思ってさ」
「へぇ、淳也君そうだったんだ。なぁんだ」
私は、他の女の子とそういうことをしていなかった淳也君にちょっとだけ安心して、その後、独占欲まるだしでいった。
「淳也君ってさ、特別もてない訳じゃないのに私以外の人とできなかったんだ」
「そんなことねぇよ。そっちだって安堵感で胸一杯って感じだぜ」
「あのさ、この後に及んでいうのもなんだけど、淳也君、避妊しなかったよね」
私はラグマットにゴロンと俯せになると、斜め上を見つめて何気にいった。
「しなかった・・・やばかった?」
「大丈夫だと思ってOKしたんだけど。でも困るな、淳也君持ってると思った」
「ごめん、今日は持ってなかった」
「じゃ、いつも持ち歩いてるの?」
「いいじゃん!」
「そんな簡単にいわないでよ!次の回まで不安が付きまとうじゃない。そういうのってそっちが用意するんじゃないの?」
「ツンケンすんなって。次からは任せてよ。まっ、俺はできちゃってもいいんだけどなぁ」
淳也君はベッドから起きあがり、私の体をひょいと跨いで冷蔵庫の中の飲み物を物色している。
 できちゃってもいいだなんて、この若さで非情なこといったりしないでよね、淳也君。優しく繊細な言葉のひとつも掛けてよ。私、初めてだったんだから。痛かったんだから。
「なぁんだ、ビールもないのかよ!めし、どうする?」
淳也君が振り向いた。
「なんか、急に態度おっきいのね」
 あー、勿体ない。
 私は淳也君としちゃったことにちょっと後悔していた。結局私たちは宅配のピザを食べ、淳也君のくだらないジョークを子守歌代わりに眠りについてしまった。

 翌朝。
 まるまったタオルケットに抱きついている淳也君を後目に、
「出かけるね!」
と、声をかけた。
淳也君はタオルケットと一体化したまま、
「花火の日、俺も行くからさ」
と、寝言のようにいった。
 それは困るよ、淳也君。
 うまく説明できないんだけど”邪魔しないでね”って感じなの。それとこれとは違うっていうか。出来ることなら、ミイちゃんにも涼太にも来て欲しくない。久しぶりにケイちゃんとデートがしたいんだもの。それも昼間の親子デートなんかじゃない。でも、どうやって皆を巻いたらいいんだろう。

 喜多方は今日も夏日になりそうだった。
 日除けのないバス停に立っていたら、丁度今頃、虹沼のほとりで丸かじりした白桃の甘さや、韮の香りに似た青草に混ざってちらほら揺らいでいた姫女苑を思い出し、ケイちゃんにたまらなく逢いたくなった。私ったらキヨミの不倫よりタチが悪いかも知れない。  忘れてないよね、ケイちゃん。
「戸締まり気をつけろよ」
と、懐中電灯を私に手渡した時いったこと。「今度、帰ってくる時は麻実も少しは大人になってるだろうなぁ。楽しみだなっ」
って、私の下唇を人差し指でチョンとつついて笑ったこと。
     第二章

  第三章    時雨月

 八月の花火の日は、一言でいったら楽しかった、家族行事としては。本音をいったら欲求不満の何者でもなかった。
 私は湊色に花柄の浴衣で、いかにも風情を気取って花火大会にでかけたものの、左手にはケイちゃんとミイちゃん、右手には涼太。挙げ句の果てには淳也君が、
「花火のクライマックスに間に合って良かったなぁ」
と、駆けつけラムネを飲み干しながら、
「あとでな・・・」
なんて目配せされてがっくり。

 けど、私だってそのまま引き下がる訳にはいかない。募る想いを心に秘めて、また喜多方に戻って行くんなら、里帰りの意味は半減するんだから。このまま私が歳を取っていったら、ううん、結婚して子供が産まれたりしたら、今までのようにケイちゃんに甘えられなくなってしまうかも知れないんだもの。実の父親でもないケイちゃんにべたべたしてたら旦那さんに誤解されちゃうだろうし、ケイちゃんだって父親顔しか見せなくなる。やれやれ、これで麻実も落ち着いたわねと、ほっと胸を撫で下ろすのはミイちゃんだけだ。今日だって、
「麻実も浴衣ぐらいひとりで着れるようになんなくちゃね」
なんていわれてる。
 淳也君が私の家族にほんの少し気を使って「俺、かき氷でも買ってきますよ」
といった時、ミイちゃんが、
「あらひとりで持ってくるの大変ね」
と、一緒に姿を消した。
 その隙。
 昔からしていたように、私はケイちゃんの右手にそっと触れてみた。それに答えるようにケイちゃんもそっと握り返してくれた。
 その瞬間。
 何故だか私は家族の一員から遠ざかり、独立した他人になってしまったように思えた。たった四ヶ月しか離れてなかったのに、ケイちゃんが私の中でひとりの男の人に変わってしまっていた。華やかなスターマインの後の六号花火のボーンボーンという音が頭の奥に響いて、妙に悲しかった。
 暫くは黙って花火を見ていた。
「ケイちゃん、ひとりで泊まりに来てくれない?」
私は今がチャンスだと思ってケイちゃんの指を止血帯のように思い切り握り締めた。涼太は花火に飽きてきたのか少し離れてウロウロしている。
「来てって何処に?」
「私の所に」
「ミイと一回、涼太と一回、行ったよな」
「そんなんじゃなくて」
「逆ホームシックか。いいよ、いつがいいんだ?」
「いつでもいい。でも急に来ないで。電話してから来て。ケイちゃん今度だけはお願い、ミイちゃんには内緒にしてね。ケイちゃんなら分かってくれるでしょ」
「電話は時々してるじゃないか。だいだいお前は一人暮らしなんて向いてないんだよ。ムキになって頑張んなくたっていいぞ」
「いいの!ミイちゃんの手前、ちゃんとやってみたいの」
「辞めたくなって、俺に泣きついてくんなよ」
「・・・ちょっとは泣きついてもいいでしょ」
「そういえば再来月、泊まりがけでフラワーアレンジメントの展示発表会が東京であるっていってたなぁ」
「そんなに先なの?」
「ミイに内緒となるとなぁ。話しちゃいけないんだろう」
「うん、ミイちゃんには悪いけどケイちゃんだけに話したいことがあるの、ダメ?」
「ダメ!マル秘はダメ」
「ダメなの?いいでしょ?」
「俺はダメっていってんだぞ」
「フフ、ケイちゃんは私のいうこと聞いてくれるもん」
「調子いい奴だなぁ。涼太は一日位、友達でも呼んで泊まって貰えばいいかな。最近はこっちが余り干渉すると煩がるからな。ミイもいなくて、かえって喜ぶんじゃないか」
「淳也君にも黙っててね」
「ふーん、麻実と密会かぁ」
「ケイちゃんちゃかさないで!雨が降っても槍が降っても来てよ」
私は顔を上げてケイちゃんの表情を伺いたかったのに、かき氷ペアが戻ってきた。私が人混みを掻き分けている淳也君に団扇を持った右手を挙げたのを見て、ケイちゃんは繋いだ手を解き、私の手首を一度強く掴んでから離した。

 花火の後。
 私は複雑になった頭を切り替えるみたいに浴衣からジーンズに着替え、淳也君とラブホに行ってしまった。行ってしまったというのは別段、淳也君を拒む理由はないし、私はそういうこともしているのよという、ケイちゃんに対しての意地みたいなものがあったから。夜遅く淳也君とのデートから帰ったものの、ケイちゃんに握られた手首の感触だけがもどかしかった。
 キッチンに立って、冷たい麦茶をゴクゴク飲み干した。
 ケイちゃん、今、隣にはミイちゃんが眠ってるんだよね。

 振り返るとパジャマ姿のケイちゃんが、
「遅かったな。俺にも麦茶!」
といって、流し台へ近寄って来た。
私は咄嗟に身を翻してケイちゃんから離れた。
「コソコソすんな!」
低い声だけど、ケイちゃんは怒ってる。
「高校生じゃないんだし報告する必要ないでしょ。おやすみ・・・」
それだけいうのが精一杯だった。 淳也君としてきた後だから。
 部屋へ戻ろうとしたら・・・。
 UFOキャッチャーみたいなケイちゃんのごつい片腕が伸びてきて、私は頭をきつく掴まれた。ケイちゃんは頭を抱きかかえたまま、私の耳元に顔を近づけて、
「おやすみ・・・っていっても、コーフンして眠れないんじゃないか?」
と、ひそひそ声でからかった。
「何よ!さっきは怒ってた癖に。心配しながら変なこといったりしないでよっ」 
私はケイちゃんの腕のトンネルをくぐり抜けると、恥ずかしさと嬉しさの両方を隠したい一心で、急いで二階に駆け上がった。
 私、矛盾してるけど・・・たった今の方がコーフンしたみたい。
 ケイちゃんの汗の臭いが、いつまでも髪にまとわりついているみたいだった。

 九月に入ってからアキコに会って、少しだけ胸の金庫の鍵を開けた。
「それって、結構罪悪かもね」
遊び慣れてるアキコにそんな風にいわれると、私は急にしょげ返った。
 その通りだもの。
「でもさ、罪悪感って益々燃えるものがあると思わない?」
アキコがカウンセラーの顔付きで、リュックからキティちゃんのシガレットケースを取り出した。
「父親の方も満更ではないなんて、近親相姦、なんてことにもなり兼ねないよね?」
「ちょっとアキコ、ケイちゃんはお父さんじゃないんだから」
「でも、叔父さんじゃない。通りで麻実達、仲がいいと思ったわよ」
「自慢の父親・・・なの」
「よくいうよ。まっ、填らないようにすることだよね」
「それって冷たいいい方」
「率直なだけなの!でもさ、もし、つまり世間でいうい・け・な・い関係になっちゃったりしたら」
「全部ケイちゃんが決めてくれると思う」
「他力本願はやめなよ!はっきりいってお父ちゃまに抱かれたくなっちゃったってことでしょ。それで諦めつくならいいじゃない。気に病む必要なんかないよ。ふたりの秘密にしておきなよ。淳也君とじゃ、余りにも対象が違いすぎるもんね。過渡期を乗り切ればまた元に戻るって。ちょっと淳也君には気の毒だけどさ」
「アキコは私を変に思わない?淳也君にも黙っててくれる?」
「当たり前でしょ。人にいえないような恋愛してる子、一杯いるもん。キヨミだって関係はソフトだけど不倫中なんだから。なんかキヨミの彼、ユウジのプレゼントまで買ってくれたりしちゃうんだって。こうやってみると、私が一番スレてるように見えるけど、中身は真面目よね。それにしても麻実がねぇ」
「意外性あるでしょ」」
「叔父さんを選ばなくったっていいのにさ。例え淳也君をケッたって、付き合いたいっていう男たくさんいるのになと思って。麻実って仕草とかは子供っぽいのにスレンダーな体型だし、雰囲気も大人っぽいじゃない。合コンなんかで結構、目つけられそう」
「それって誉めてんの?」
「ちょっとだけね」
「ね、私って色っぽい?」
「それもちょっとかな。オトナか、はたまたコドモか・・・どっちかっていうと少女っぽいってとこかな。どうころんでもいづれはバイバイしなくちゃいけない間柄だよね」
「考えたくないな。ケイちゃんとバイバイするなんて絶対考えたくない」
「気持ちは分かるけど考えてた方いいって!お父さんとして割り切ってた方がいいんじゃないの」
「ケイちゃんに思いっきり突き放されたら、アキコ達の合コンに混ぜてくれる?」
「それもいいかも。アッ、淳也君はどうするの。一番可哀想なのは彼かもよ」
「そうだよね。裏切り者は私、かぁ」」
「暗くならない!合コン位はへっちゃらだけど、その前にどうしてもお父さん、なんでしょ」
「そう、ミイちゃんには負けたくない。暗い二人になりたくない」
私は脳天気に微笑んで、やっぱりこの霧が晴れないような、それでいて胸から溶岩が流れ出る程に熱くて拠り所のない思いは誰にも分からないでしょ、たぶん、と思いながら爽らいを聞いていた。

 フラワーアレンジメントの発表展示会の日は朝から雨だった。
 秋晴れが続く十月に肌寒い雨降りだなんてついてない。けれどそれもケイちゃんと逢えるだけで、百八十度晴天になった。ちゃんと待ち合わせの場所をセッティングしてくれるなんていかにもケイちゃんらしい。
 会津の漆器店が立ち並ぶ、裏通りの静かな三叉路だった。私は駅前からその場所へ歩き出すと、気分はもう”禁断の恋人”だった。ケイちゃんの好きなストレートのセミロングを一糸乱れないようにヘアアイロンで延ばし、シンプルな胸開き膝上七センチワンピを着た。
 ケイちゃんが気に入っているスタイルだ。 「どっか、行きたいのか?」
寄せて待っていてくれた車に乗り込むなり、ケイちゃんが訊いてきた。

 特別行きたい所なんてないよ。
 只、私だけのケイちゃんでいてくれる時間が欲しかっただけなんだから。
「車で来てくれるならどうして麻実の部屋まで来手くれなかったの!」
私は開口一番、ふくれっ面を見せた。
「喜多方だとミイの友達の漆器店があるだろう。俺は娘のとこに来てるんだから構わないけど、麻実はバレバレになると困るみたいだから。父親らしい気遣いだよな、な!」
「いわれてみれば、そうだったよね。ミイちゃんの友達にまで、気、回さなきゃなんないなんて、天気は悪いし鬱状態に入って行きそう」
「淳也君に隠れて密会なんだろう。それらしくていいじゃないか。どっちみち麻実のアパートまで行くと、県外に出るのには時間が掛かるしな」
「じゃぁ、どっか連れってってくれるつもりなの」
「明日の朝までは帰るぞ!」
「明日まで、ホント?嬉しい!でもどうして?」
「少し麻実を元気づけようかなと思って」
「私、元気ないように見えた?」
「見えた!家に帰りづらいのかな、なんてさ」
「少しはあるけど。ケイちゃんさえ来てくれれば、会津の味噌田楽食べなくたって猪苗代湖でザーザー雨に濡れたって元気!元気!」
「何だ?それ」
「何でもない。単純に嬉しいっていう表現よ」
「そうか・・・でもそろそろ麻実も俺から卒業しないとな」
私がその意味を理解する刹那な時間、ケイちゃんは苦しそうに笑顔を消した。
 分かってる!いわれなくったって。
 私だって尋常じゃない気持ちを維持できる程、神経が麻痺してる訳じゃない。でも、今いわなくたっていいじゃない。雨に佇む三叉路が、リアワイパーを通して次第に遠ざかっていった。
「ケイちゃん、私は永遠に養女なの?」
私は不安で、前方だけを凝視した。
「そうじゃないと死んだ姉さんが悲しむからな」
「いつまで経っても・・・永遠に養女なのね」
「海でも見に行くか。海岸沿いサーッと流してさ」
 ケイちゃんは答えてはくれなかった。
 けど、ケイちゃんの裏返しであろうと思われる返事で私の肋骨の奥底からは、また溶岩がトクトクと流れ出し微妙な満足感を与えてくれた。
 ケイちゃんとなら取り留めのない会話は尽きなかった。四ヶ月分の総決算を喋り続けた。 一度相馬に出て遅めのランチを食べ、松島に寄り道してから夕方には神割崎という所まで来ていた。会津の雨とは打って変わって、千切った綿菓子状の雲が幾つもひっきりなしに流れていた。車を停めて階段を登り岬の先端まで手を繋いで歩いた。
 「麻実は淳也君のこと、好きなのか?」
ケイちゃんが丸木の柵に寄り掛かかりながら訊ねてきた。
「少しは気になる?」
「まぁな、麻実を見ればそれとなく分かるんだけど、こんな時でもないと訊けないからな」
「じゃ、ケイちゃんのそれとなく、の通り。でも好きにも種類があると思わない?」
「嫌いじゃないんだろう?BF程度か」
「さぁね。私、キヨミと違って淳也君しか知らないから」
「キヨミちゃんてそんなに?」
「見えないでしょ。三人の男のヒトと現在進行形。アキコは今、恋人はいないんだけど大学のグループで夏場と秋は競馬場通い」
「福島競馬か?大した遊び場が無いからな。俺だって土、日が休みなら通いたいよ。麻実が小さい頃は何度か連れて行ったけど。行ったの、忘れてるだろ?」
「覚えてる。目の前で馬がぐるんぐるん歩いてたもん」
「歩いてたんじゃなくて走ってたんだろう?」
「違う、歩いてた。テレビで見て分かったんだけど、あれはパドックの前だったのよ」
「成る程・・・。その内、休み取って遊びに行ってみっか」
「行く行く。ケイちゃんの休みが日曜だったら、でも何処へ行くにも、ケイちゃんとデートの時は、淳也君にはヒ・ミ・ツ」
「何いってんだよ。長々、淳也君と付き合ってるくせに」
ケイちゃんに断言されて、私は後の言葉が見つからなかった。
 ケイちゃん、ふたりきりでいる時間は、私のこと女として見て欲しいの。どうか、ケイちゃんが麻実を女として好きになってくれますように・・・。
 私は虹沼でのシュークリームキスが急に欲しくなった。ケイちゃんの後部に回って力一杯ウエストにしがみついた。
「何してんだよ、麻実。赤ちゃん、やってんのか。暫く見ない間に女っぽくなったなぁと思ったのは俺の錯覚だな」
ケイちゃんは回した腕を振り解こうとしたけど、私は負けずにもっと強くしがみついた。「ケイちゃん、本当のことをいうとね、私はミイちゃんを一度もママとは思えなかったの。ミイちゃんが私を煙たがったからとか、そういう理由じゃなかったみたい。たぶん、やきもち。私・・・ケイちゃんが好き。凄く。好きで好きでどうしようもないくらい。淳也君とは違う次元で好きなの。ケイちゃん、困る?困るでしょう」
思い切り吐き出してしまいなさい、心に生息している不幸の悪魔が囁いていた。その声は罪もないミイちゃんの笑い声と重なり合った。
次第にケイちゃんの手の力が緩み、私の告白を受け入れてくれそうな気配になった。
「私を抱いて・・・ケイちゃん」
いってはいけない、と思いながら岸壁に打ち込んでくる飛沫に急き立てられるように言葉が一人立ちしてしまった。
 嘘でもいいから好きっていって。ミイちゃんと麻実は別の女だって。
「麻実、一人暮らし寂しいんだろう?どうすれば寂しくなくなるんだ。本当の父親でなくても俺が一生、必ず見守ってやるっていってもダメなのか?」
 それ、どういうこと?

 私はケイちゃんの背中に頬を擦り寄せた。ケイちゃんの血液のオーラが、私の敏感になった胸の先端にジンと伝わってきた。
「虹沼の虹、麻実はまだ一度も見たことなかったよな」
「もう見なくてもいい」
「どうして?」
「虹、見に行くなんて幼稚園のお遊戯みたいで子供っぽいから!。ケイちゃん、怒らないで聞いてくれる?」
「ん・・・」
「いい辛いんだけど、ミイちゃんよりもランクが上のデートがしたい」
「麻実はいうことが過激だなぁ。三人抜きで逢えば、かなりランクは上だよ」
 ケイちゃん、どう思ってるの?私達のこと。 たぶん私は元の麻実には戻れない。ケイちゃんは静かに私の腕を解いて引き寄せた。
「不思議な娘だよな」
「娘なんかじゃイヤ。二度と娘なんて言葉使わないで!ケイちゃんは私を嫌いなの?」
「まさか。嫌いだなんて思えないさ。だけど麻実と俺が男と女になることは出来ないだろう」
「どうしてよっ!」
「どうしてって、常識的に考えて見ろよ。今はこのままでもいいさ。でも、俺が父親でなくなったら麻実の幸せを奪ってしまうようなもんだ。本当に俺から離れられなくなったら大変なんだぞ」
「何が大変なの?」
「何がって・・・気持ちの問題だ」
「不純な毒が回っちゃうから?ケイちゃん、私から逃げられなくなると、ミイちゃんに責められるちゃうから?私は平気よ。淳也君とだって上手く付き合えるし、ミイちゃんとも今まで通りにして行けるもの」
「麻実、本気でいってんのか」
「だって、私はケイちゃんが好きなんだもの」
「だからって、こんな関係がまかり通る訳ないじゃないか。ミイだって一応は母親替わりしてきたんだからな」
「それをいわれると、どうしていいか分からなくなる。ミイちゃんはお母さんっていうより、ケイちゃんの奥さんとしか思えないんだもの。たとえば、ケイちゃんが私を嫌いっていっても、私にはもうケイちゃんしかいないから」
「あのなぁ、麻実がいってることは極端過ぎるんだよ。もう少し大人になってから冷静に考えれば、なーんだただの叔父さんじゃないかって思える時がきっと来るさ」
「私、軽率かも知れないけど、衝動的じゃないよ。もうずっと前から気づいてたのに、口にも態度にも表せなかったの。涼太だってだんだん大人になっていくし、私には甘えられるヒトなんて誰もいない。本物のお母さんっていうのは、育ててくれるだけじゃだめなの。十四年間いつも満たされない気持ちで一杯だった」
「分かってるつもりだよ。でも涼太だってお前だって結婚すれば新しい家族を持つことになるんだ。ずっとひとりな訳じゃない。麻実は今、甘えるヒトが欲しいだけなんだろ。BFじゃ物足りない時期なのかなぁ」
「違う!そんなんじゃない!もし相手がケイちゃんじゃなかったら、私から好きなんていえないもの。淳也君にもまだいってないのに」
「だったら、たまにいってみろよ」
「いいたくない!どうして私を遠ざけるの」
私はケイちゃんの首に両腕を絡ませた。
「遠ざけてなんかいないよ。淳也君だっていいヤツじゃないか」
「淳也君を押しつけたりしないでよ。ケイちゃんなら女のヒトのことよく分かってるんでしょ?その・・・何ていうか経験豊富って感じで」
「勘ぐりすぎだ。どこまでも突っ込んでくるんだな、麻実は。娘の気持ちは分かるつもりだけど、女の気持ちは難しいからな」
「意地悪いってないで!じゃ、どうして今日、
内緒で来てくれたのよっ。ケイちゃんだってちょっとは私と同じ思いだったんでしょ。ケイちゃんは麻実が要求してること、ちゃんと知ってるんだから」
「風呂の覗きっことは別問題なんだぞ。麻実、こんなこと続けてたらな、マズイ!俗にいう裏街道の始まりだ!」
「それでも構わない!ファザコンとでも何とでもいって!」
「姉さんに申し訳ない」
「ママのこともいわないで!ミイちゃんのことも!」
私は無理矢理、ケイちゃんに唇を押しつけた。 そう、あの日のように・・・。

 私は叔父さんコンプレックスなんかじゃない。只、隣にいてくれるだけのケイちゃんじゃ満足できないの。私の躰から放出される自然のエネルギーが、ケイちゃんを何処までも要求しているんだもの。
 私はもっともっとケイちゃんの唇に近づこうとした。ケイちゃんは一旦顔を離し、冷静さと諦めの面持ちで私を見つめると、
「毒が回りそうなのは俺の方だ」
と、今にも震えてきそうな頬を両手で包んでくれた。
 私は静かに目を閉じ、血迷ったように舌先をそろそろと突き出した。
 それはあっという間に生暖かいケイちゃんの口中に滑り込み、強く激しく吸い取られ葡萄の種をまさぐるように絡み合った。それからケイちゃんの舌が私の口中で間断なく動き出すと、眩暈がしそうな程に嬉しくて・・・。 それから、ケイちゃんは掌で私の首をゆるく絞め、背筋をなぞり腰を抱きしめた。私は衣服をサンドしてケイちゃんの高ぶりを確かめると、ミイちゃんに対する優越感を伴って、たまらない程にケイちゃんの為だけの源泉が溢れてしまった。
 ホントにごめん、淳也君。
 もう私の躰、別の生き物みたい。

 夕暮れと共に鰯雲が去る頃、私達はもう少し北の静かな海岸沿いに車を停めていた。「このまま麻実のアパートまで直行だ」
というケイちゃんを引き留めていたのは私だった。
 生成のようにサラつく砂浜に降り立っても、海鳴りが爽やかな白いドライブインでお茶を飲んでも、私はケイちゃんと全く別の位置に置かれているような気がしてならなかった。 答えは簡単。
 ケイちゃんが無言で私の躰を拒否していたから。
 当たり前だよね。
 でも、当たり前のケイちゃんなんて大嫌い。 大人ぶったってさっきは私にあんなにキスを・・・。
 ケイちゃんは時々、途方に暮れるように何かを考えている。それは間違いなく私のこと。ケイちゃんが悩む姿は意地悪だけど、やきもちと正反対の視感的快感があった。
 このままどこかに泊まってしまいたい。でも、今夜ケイちゃんとそうなってしまったら、半分、虹沼の虹を見てしまったようなものだもの。
 またこうして逢いたいから・・・。
 私はケイちゃんに促されるようにサイドシートのドアを閉めた。カシオペア座を背天に、ひたすら高速道路を南に戻った。
でも・・・。
 でも次の日の明け方。
 四歳の頃と同じ姿で、私はケイちゃんの胸に埋もれていた。 
    第三章


終章 限月

 私はアキコにここまでの経緯しか話していない。
 とてもいえなかったから。
 もちろん淳也君には自然な素振りを装って。
 ケイちゃんとの初めてのデートの日から、私は女と娘の仮面を被り続けたのかも。私の存在が何処にどうあるのかなんて分からないままに、ケイちゃんの腕の中で漂い続けてしまった。ケイちゃんは私と逢うといつも罪悪感に苛まれているような感じで、抱きながら突き放すという言動を何度も繰り返した。
 そうして四年。
 運のいいことにミイちゃんには気づかれずに、私はケイちゃんとの密会を苦しみながら楽しんだ。
 アキコとキヨミをダシに使って、旅行もしたし、ケイちゃんの出張の帰り道に、私が待ち伏せをしたこともあった。当然、会津の味噌田楽も一緒に食べたし、猪苗代湖の遊覧船の中で、隠れるようにキスしちゃったり。
 ミイちゃんが車を使う日は待ち合わせ場所でレンタカーを借りたり・・・。私の車を使ったり、だって私は車を買って、(半分はケイちゃんが買ってくれたようなもんだけど)運転も上手に出来るようになっていたから。

 なのに・・・。
 私は意にそぐわないまま、自分から卒業を仄めかしてしまった。まるでケイちゃんを試すように。
 ううん、試してみたかったから・・・。
 虹沼は背丈を揃えた白つめ草が秋色のさざ波を作り、紅葉した枯れ葉も舞い降りていて緑黄色の檀通のように見えた。瞳を閉じて空を見上げると、瞼の裏側で静脈が流れていく感じがひどく懐かしかった。
「ケイちゃん、私達親子に戻れると思う?」
「俺に答えをいわせるのは酷じゃないか。突然、深刻になられるとペースが狂うよ。ふざけ合ってる方が似合ってる」
「そうだよね。でも心配になってくるの。このまま恋人にも親子にもなれなくて、最後に私はたったひとりになちゃうんじゃないかなって」
ケイちゃんと繋がれた手の感触は、三年前とは全く異質のものになっていた。何故ならケイちゃんが父親というバリアをすっかり取り払ってくれたから。私自身も、ちょっぴりではあるけれど、女としての意識が高まった・・・と、感じてる。
 血の繋がりだけだったケイちゃんの掌の温もりは、すでに私の全身に熱く切ない電流を呼び起こす触覚に変化し、触れているだけで私の躰は恥ずかしげもなく敏感に反応するようになっていた。
 私達は沼の対岸から山側に向かって続いている木立の細いハイキングコースに入っていった。涼太と三人で勝手に秘境と決めつけていた道だった。
「いよいよ俺から離れたくなったんじゃないのか?」
「どうして?」
「虹沼に行こうとか親子に戻れるかとかなんて急にいうからさ。それとも淳也君と上手くいかなくなったのか?」
「ううん、別に変わりわないわ。私はケイちゃんにずっとこうしていて欲しいけど、でもいつかは・・・」
「そう、だ。もうやめとけ!」
「すぐ、そういう風にいう。ケイちゃんは平気よね。ミイちゃんと涼太がいるんだもの。私は実の娘でもなく本物の女でもないんだから」
私はケイちゃんの手を思い切り振り飛ばした。
「少しはずるくなったか、麻実も」
「どういう意味?」
「俺の答えを知ってていうからさ。少しは大人になったんだなぁ」
「大人になんてならなくてもいい、一緒にいられるなら。それにケイちゃんの答えなんて皆目見当がつかない。時々どっからともなく不安が押し寄せてきて落ち着かなくなるの。きっと私、ミイちゃんに地獄に落とされるわ」
「神妙だな」
「ケイちゃん、私以外のヒトいないよね?」
「そこまで疑ってんのか、重症だな。あぁ、いる。奥さん」
「私と逢った後でもミイちゃんとしてるんでしょ」
「そういうこというな、っていってるだろう。麻実ちゃんも同罪なんだぞ」
「だって淳也君は違うもの。ケイちゃんとは全然違う。私は・・・絶対違うわ」
「今度は誘導尋問か?」
 その通りよ、ケイちゃん。
 私はケイちゃんの口から聞きたいの。私はミイちゃんとは全く別の、ケイちゃんにとって一番にランクされる女のヒトだって。
 でもケイちゃんの顔を見てしまうといつも訊けなくなる。未だに私を子供扱いしているから。
 私は自分からウソの別れを切り出しておきながら、砂漠の真ん中にひとり置き去りにされるような寂しさと、きっと永久に癒されないであろうと思われる孤独感がこみ上げてきて、今すぐこの場でケイちゃんにめちゃくちゃに愛されたいという衝動に駆られた。
 お願い!ケイちゃんも不純でいて!
 そう心の中で叫びながら、何故か気持ちを悟られないように話し掛けた。
「さっきの続き。誘導尋問の答えは?」
ケイちゃんが拾った小石は、相変わらず軽々と沼の水面を遠くまで跳ねて消えていった。
「麻実の為には父娘に戻る努力、した方がいいよな」
「答えになってないよ。これからお父さんしてくれるっていうの?麻実はそんなにもちっぽけな存在だった?どうしてそうやって大人ぶっていられるの?」
 あの時は 好きってくれるのに。
「そんなに矢継ぎ早に聞くな!いっとくけど、俺と麻実は普通の関係じゃないんだぞ。三年前までは娘だったけどな」
「じゃ、今は?今は何なの?」
「何だろうなぁ。娘だっていうとまた怒られるからなぁ。麻実ちゃんの為を思ってロマンティックにいうなら、歳の離れた織り姫と彦星ってとこにするか。ふたりは年に一回、俺と麻実は何回も逢ってるけど、七夕がやって来る限り織り姫と彦星は必ず逢える訳だろう。三百六十五日地球が回ってる限り、その関係も永遠に変わらないんだよな」
「そんな子供だましみたいな譬えなんか全然嬉しくない。ケイちゃんだって知ってるくせに。もう気持ちだけじゃ収まらない。おとぎ話なんて私を甘く見てる証拠よ」
卒業を切り出した私だったのに、目一杯甘えるようにケイちゃんに縋り付いた。
 いつもそうだ。
 ううん、この頃は特にそうだ。
 私の方がちょっとケイちゃんの庇護本能を掻き立てる感じで、抱かれることをおねだりする。
 だってそれは・・・。
 ケイちゃんが望んでいるように思えるから。
「おとぎ話じゃないさ、実話だ。俺にはそうとしかいえないじゃないか・・・」
 ウソばっかり!ケイちゃんだって本当は。 ただ、口に出していえないだけなんでしょう。私だってこの三年間で随分と計算高い女になっちゃった。ケイちゃんをこのままミイちゃんにそっと渡してしまうなんて、できっこない。
「ケイちゃん・・・好きよ」
私はケイちゃんの胸元に耳を当てて、片手を這わせるようにゆっくりと肩に這わせて、哀願の素振りで髪を鷲掴みにする。
 それから・・・それから・・・。
 ためらうように下半身に触れちゃう。
 そう、ちょっと誘うように・・・。
 ケイちゃんの指先は棒立ちのままの私の内腿を、ナイフの切れ味を確かめるようにするっと這い上がり、一番敏感な部分に優しく・・・・一ミリの隙間もない程、きつく抱きしめられて、ケイちゃんの握力が私の胸と腰をいたぶっていく。
 唇を塞がれながら、やっぱりケイちゃんはどんな形にしても私を離したくはないのだろうと不安の入り交じった確信が芽生える頃に、思い切り焦らされながら愛してあげることがケイちゃんにとって最上の幸せだったらいいのに・・・と、立ったままでも痙攣が到達しそうな爪先に力を入れた。

「そろそろ一緒に住んでもいいと思わない?」
すっかり常連になってしまった喜多方のラーメン屋さんで、淳也君が半分どんぶりに顔を突っ込むような体制でいった。
「それって結婚のこと?まさか同棲?」
「同棲なわけねぇだろ」
「だって一緒に住むっていうから」
「俺だって就活に励んでんだぜ。休みの度にここまで来るのも案外、根性いるんだから」
「ふうん、通ってくるのに疲れたんだ!だから手っ取り早く結婚しちゃって、私の仕事も辞めさせようって魂胆ね」
「そこまで深く考えてないよ。ただ・・・只俺はさ、麻実とずっと一緒にいたいな、と」
「でもそれって、私が福島に戻らなきゃならないじゃない」
「麻実さえうんっていってくれれば、すぐにでも挨拶しに行くつもりだし、ちょっとの間、実家にいてもいいんじゃないかなと思ってさ」
「ふざけないで!両親のことは話したでしょう。今になって家に帰るなんて死んでもイヤよ。その上、もう少しでマネージャー代理になれそうな感じなのに仕事まで辞めなきゃなんないなんて、そんなの淳也君の勝手じゃない!」
「まぁ、仕事のこととかは後で考えるとして麻実の返事は?結婚すれば両親との関係も大分変わるだろうし」
「そんな簡単にいわないでよっ。私はまだ辞めたくないのっ。私の気持ち、分かんないくせに!」
「だから、俺が貰ってやるっていってんだろっ!大体、籍入ってないだけでやってることは夫婦みたいなもんじゃねぇか。今になって急に勿体つけんじゃねぇよ、ばーか。ねえ、おじさん?」
私達の大声に目を白黒させていたラーメン屋のおじさんに、淳也君は馴染み顔で訴えた。
おじさんの言葉に一瞬びっくりしてから、
「私はまだイヤよ」
といった。
「信じらんねぇな、なんでだよ」
「結婚なんて、まだ勿体ないもん」
「チャンスを逃すと一生できねぇぞ!」
と、淳也君は息巻いた。
 淳也君は嫌いじゃない。
 はっきりいって、ケイちゃんがこの世に存在しなければ大好きなのだと思う。だけど淳也君にどう説明すればいいの?いってしまったら私は淳也君までも失っちゃう。本当にひとりぼっちになっちゃうんだ。仕事にも未練はあるけど、それよりこの仕事をしてる方が、ここに住んでる方がケイちゃんと逢うのに都合がいいから逃げ道に選んでるだけなのかもしれない。
 ちょっと気まづい思いで外に出ると風花がコートの襟元をくぐって来た。冷たいと感じた瞬間、私はケイちゃんに暖かく包まれたくなっていた。
 なんなら、ワザと躰が氷のように凍えてしまうまで街角に佇んでいて、それから死にそうなふりでケイちゃんに電話を掛ける。ケイちゃんは吃驚して、慌ててミイちゃんに即席のアリバイを創るだろう。ケイちゃんが駆けつけた所で、私も即席の悲劇のヒロインになる。
 そしてその後は・・・。
「何考えてんだよ。少しは真剣に考えられないのかな、生活設計ってものを」
「あんまり古くさいこといわないでよ」
「なんだよ、今日はコンサートチケットまで土産に持ってきたのに、さっぱり盛り上がんねぇな」
私達は部屋に帰ってからも同じようなやり取りを繰り返しながら、それでもふざけ合ってベッドに入った。淳也君は次の日出勤が早いからといって、珍しくお酒も飲まずに帰っていった。

 夜中。
 私は無性にケイちゃんの声が聞きたくなった。
 つい、九日前に逢ったばかりなのに。
離れていると明日の朝にでもポトン!と落ちてしまう薔薇の花のように心許ない気持ちだった。
 こんな夜。
 アキコやキヨミに全てを喋ってしまえたなら。少しはいけない行為をしているという重圧から逃れられるのかもしれない。でも私はケイちゃんとの世界が壊れてしまう方が怖かった。
 不思議だった。電話を掛けてくれたのはケイちゃんの方だったから。
「寝てたのか?」
「十二時過ぎたばかりだもの、まだ。ミイちゃんと涼太は寝たの?」
「涼太はまだ起きてるみたいだな、勉強かどうかは定かじゃないけどな。ミイはもう寝てるよ。仕事、忙しかったらしい」
「フラワーアレンジメント、本格的にやってるんでしょ」
「ああ、いづれは教える立場になりたいらしいよ」
「羨ましいな」
「何が?」
「ミイちゃんが。好きなことしながらいつもケイちゃんと一緒にいられて」
「いつ戻ってきてもいいぞ、麻実がその気なら」
「出来るわけないじゃない。そんなの拷問よ」
「今、ちょっと外に出たんだ」
「念のために?変だよね、一応お父さんなのに」
「都合のいい時だけお父さんにするな!」
「フフッ、麻実の抜群の躰、恋しくなった?」
「とぼけたこというなよ、暫く電話してないから掛けてみたんだ。変わりなし、みたいだな。寒くなってきたし音信不通だと風邪で寝込んでるんじゃないかと思ったりしてさ」
「うん、それは大丈夫なんだけど。私、今日、プロポーズされた、淳也君に」
「・・・そうか・・・」
「そうかって、素っ気ないのね」
「分かってたことだからな。予定、いつ頃なんだ?」
「大学卒業したらすぐでもいいんだって。答えられなかった。ぬくぬく結婚できるようなことしてないから」
「俺のせいだよな。いよいよ麻実を取られるのか・・・早すぎるよなぁ。早すぎる。でも淳也君なら仕方ないと思うしかないか」
「焼かないの?」
「・・・淳也君に悪いと思ってるさ」
「違うってば!ケイちゃんのホント気持ち。行くな!とか、断れ!とか。何年経っても私を独占してくれない。やきもちぐらい焼いてよ」
「いいんだ!」
「全然良くないくせに。ちゃんといって、ケイちゃん。淳也君、挨拶しに行くって張り切ってたんだから」
「そんな急ぐに?冗談きついよ。麻実と俺がこんな状態なのに」
「私ってキズモノ?」
「俺が・・・悪い・・・」
「悪くない・・・強くいわれてみたかっただけ」
「・・・抱いてるじゃないか」
「どうしてくれるの?淳也君と同棲でもしちゃおうかな」
「結婚するって決めたいなら、今までのことは忘れてしまった方がいい」
「ウソだってば!このままでいて欲しいの。急に父親のふりだなんて・・・麻実をひとりにするつもり?」
「するわけないだろ」
「なら、今直ぐ逢いに来て!」
「何、我が儘いってんだ、一生逢えないわけでもないのに。明日、仕事なんだろう?寝なさい」
「イヤ、眠れないもの。しない!結婚なんてしないから」
「そういう時はな」
「酒でも飲んで大の字になちゃうんでしょ。ケイちゃんにいわれることなんて分かってる!」
「麻実、俺が麻実をちゃんと結婚させてやる」
「結婚させて貰う必要なんてない。皆な楽しく遊んでるのに、私だけ結婚なんかで縛られたくない」
「投げやりになるな。いいか、絶対負い目なんか感じちゃ駄目だ。これから自然に俺から離れて行けばいいんだ」
「出来ない、離れるなんて。結婚の話、しなきゃ良かった」
「いづれはこういう日が来るんだ」
「ケイちゃんはそうやって自分を諦めさせてるのよ!ずるいわよ」
「何とでも罵れ!いいか、ゆっくりでいいから」
「思えるわけないじゃない」
「余りいいことじゃないけど、逢えない時の慰めだ。いいから黙って目、瞑れ」
「こうかな、瞑ったわよ」
私は子機を握り締めて小さなソファに寄り掛かった。寒空の下、私の全てを知っているケイちゃんが私の為に心配してる姿が想像できた。
 ケイちゃん、ケイちゃんはそれで平気なの? 罪深い関係を続ける勇気より、別れてしまう方が簡単なの?私だってミイちゃんや涼太のことを考えれば、いつだって足踏みしてしまいそうになる。
 なのに、ケイちゃんをもっと自由に私の方へ傾けたい一心で・・・。
「ケイちゃん、もう逢わないつもり?」
「逢いたいさ。麻実・・・電話は辛いよな」
「私が?それともケイちゃんが?」
「・・・」
無言のケイちゃんは、私が知っているケイちゃんの中で一番真剣で一番優しく感じられた。
 それなのに、いつもどことなく突き放されていた私の仕返しは今しかない、と思った。
「麻実がもっと辛くしてあげようか。私がパパとママを亡くしてケイちゃんだけを愛してきたこと、話してあげる。ケイちゃんに逢える日までの為の仕事に行って、ケイちゃんの為に洋服を選んで、そして下着まで。ひとりの部屋に帰ってくると、後ろ目たくてミイちゃんに電話も出来ずにぽつんとして。友達と飲んだり遊んだりしていても楽しいのはその時だけで、淳也君に抱かれている時でさえケイちゃんの顔が浮かんでくる・・・そうなると死んだ魚みたいに躰が醒めていくの。心が全部締め付けられそうになるんだから。家を出れば、お父さん以外のヒトになってくれるかもしれないなんて、ちょっぴり期待してた。。誰にも遠慮しないで思いっきりケイちゃんに甘える時間が欲しかった。許されないよね・・・アキコ達にも今の状態は話せなかった。いつか元に戻らなきゃいけないって思いながらも、気持ちコントロールできなくて。ミイちゃんにも悪いと思ってる。でも、お父さんにはならないで。ケイちゃんはやっぱり、ミイちゃんを愛しているの?・・・今は、それでもかまわないから・・・逢わないなんていわないで」
「・・・」
「私に本当の気持ちいって、お願い」
「いったら、麻実がますます可哀想になる」
「それでもいいからいって!もう、十分可哀想だもの」
「麻実、俺は麻実を愛してるよ・・・」
 ケイちゃんから初めて聞いた言葉は、熱湯に変化して私の血管を拡張しながら流れていった。
 私は操られるように夜の海を泳ぎ、ケイちゃんの言葉の波に何度も溺れそうになりながら愛撫され、虹色の海岸に辿り着いた。
 この先、ケイちゃんの躰の温もりを求めることができなくなるのかも知れないと思うと、自然と涙が滝のように流れ落ちた。
 私の部屋はしんと静まり返っていた。
 ──ケイちゃんに初めて抱かれた日
 私の──
 私は柔らかな羽根毛にくすぐられるように浮遊して、時には鋭利な刃物で切り裂かれるように刺激的に愛された。そして異国へ旅立つ船に揺られたかと思うと、たちまち急降下するジェット機からひょいと雲の絨毯の上に乗っけられた。
 けど、それだけの為にケイちゃんを繋ぎ止めておきたかった訳じゃない。どんなに丸く収まっていても、私だけが僅かに不公平だった分、支えは特上の愛情だけだった。ケイちゃんの私だけに執着する愛情が、両親がいないコンプレックスを解消してくれた。もしもケイちゃんが、逢う度にチラッとでも同情の素振りを見せていたなら、私は素直に”ウン”と返事をしていた、淳也君に。
 このままワープしてケイちゃんのいる場所へ飛んで行きたい。
 私は透明な炎に焼かれるような思いで、ソファにうずくまった。
 まるで、土の中で眠っている幼虫みたいに・・・。
 このままじゃ、淳也君にも会いたくない。 年末に帰省なんてできっこない。
 ケイちゃん、私は今、汚いどろんこにまみれています。もう、雲の上には行けないの?
 
 電話のベルがもう一度。
 電気ショックを受けたみたいに、強張った躰がビクンとなった。
「雪、ちらついてきたぞ!そっちは?」
 ケイちゃんだ。
 夢かも知れない。私は急いでカーテンを開け、窓まで全開にした。
「こっちは、まだ・・・ケイちゃんずっと外にいたの?」
「寒くて凍えそうだよ。たぶん、モンモンと考え込んでんじゃないかと思ってさ」
「まさか・・・お酒でも飲んで寝ちゃおうかなと思ってたところ」
「ふうん、強がりも人一倍だな」
「ケイちゃんなんて凍えて死んじゃえばいいのよ!明日、仕事なんだから電話、切るからね!」
「行くよ、今から」
「うん・・・えっ?」
「お前が熱出して寝込んでるっていう」
「ミイちゃんに?」
「涼太に」
「ミイちゃんには?」
「起こさないで、涼太から伝えて貰う」
「大丈夫なの?」
「父親だから平気だ。小さい頃は何回も夜中に小児科に連れていった」
「ホントに来てくれるの?」 J
「泣きべそかいてたんだろ」
 唇がガタガタと震えて止まらなかった。
 私は自分の人差し指を、そっと下唇にあてがった。引っ越してきた日、ケイちゃんがしてくれたように。
 冷たい外気が忍び込んでくるのに、生暖かい風が涙が全身を包んでいた。
 私、土の中から解放されたみたい。
 
 喜多方の空は群青で、十二月の星達が私に味方してくれるように高く輝いていた。
 桜が咲く頃にはまた、不思議な関係になっていればいいと儚い願いを込めながら。
 ケイちゃん、ファイナル・キスはいつ?
 パパ、ママ。そしてミイちゃん涼太、ごめんなさい。
 淳也君、許して・・・くれる訳ないよね。
 ケイちゃん・・・愛してる。

虹橋

虹橋

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 成人向け
更新日
登録日
2016-06-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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