鳴子温泉にて

本作品は2004年、私が74歳の時点で執筆したものです。

物心ついた時、日本は戦争のさなかにあり、少年の私には平和な社会というものがどんなものか想像も出来ませんでした。
やがて戦争が終わり現在に至るまで平和が守られています。

今思えばあの戦争は、全く想像すら出来ない異次元の世界でした。

 プラットホームを降りると列車の中が暑かったせいか思わず身をすくめた。駅前広場には昨日降った雪が残っている。こけしで有名な温泉町なのにウィークデイのせいか閑散としていた。街道に出て急坂をのぼると直ぐ予約していた旅館の前に出た。5階建の建物で玄関横の石組にはむくむくと蒸気を発散させて熱湯が泡立っている。湯量の多い温泉と言う触れ込みである。
 案内されたのは4階の、こざっぱりとした部屋だった。可憐な花が生けられている。窓からは江合川に沿う鳴子の町並みが見渡せた。
 「お客さんはどちらから」元気の良い健康そうな仲居さんがお茶を入れてくれる。
 「鴻巣市」
 「鴻巣市って何県かしら」
 「埼玉県。鴻巣市には昔コウノトリがいたって言うけれど、嘘か本当か判らない。鳴子みたいに有名ではない所」
 「鳴子だって温泉の他には何もないですよ。今は日本国中に温泉が増えてきたし、お客さんが少なくて閑古鳥だわ」
川の向こうの山脈が雪で白く光っている。
 「鳴子はこけしが有名じゃないの」
 「西洋風の人形に押されて、前みたいに売れないみたい」
 「世の中がどんどん変わるものね」私は窓から振り向いて言った。「此処には懐かしくてやってきた。思い出に浸りにね」
 「だったら、きっと素晴らしい思い出でしょうね、綺麗な人でもいたのかしら」
 「‥‥‥‥‥‥‥‥」
 私は74才になる。此処へ来たのは60年ぶりである。当時、私は家族と一緒に2ヶ月間、此処に住んでいた事があった。楽しい思い出などはなかった。しかし、死ぬまでに一度、此処に来たいと思っていた。

 夕食には次から次と珍しいものが出てきた。ここの酒は香りが良い。つい杯を重ねているうちに気持よく酔いが廻ってきた。
食事に満足すると風呂に行く事にした。風呂はエレベーターで下がった1階にあった。講堂のような広さの中に幾つもの浴槽が作られ、自慢の湯量だけに湯が溢れていてまるで洪水である。浴槽は熱いのや冷たいのや、ぶくぶくと泡立つ酸素風呂などいろいろ、もうもうと湯気が立ち込めているが不思議に息苦しくない。私は喘息持ちなので風呂に入ると息苦しくなるが、此処にはまるでそれがなかった。高原の爽やかさだと感心してよく見ると、浴室の奥に大きな換気扇が勢いよく廻っている。
ほろ酔い加減なので足を滑らさないようにそろそろと歩いて行くと、酸素風呂の横に寝ながら入る浴槽があった。大人の体の大きさに造られた木の枠が並んでいて、寝ると湯はちょうどお腹の臍のところまで来る。爽やかな風が頬を通り過ぎて行く。
 水蒸気で濡れた窓の外側に白いものが点々とつき始めた。雪が降ってきたらしい。外は寒いのに違いない。


 あの日も寒かった。学校に行こうと何時ものように、朝の8時半に家を出た。友達を誘って一緒に歩いていると道端に置かれた防火用水に、びっしりと氷が張りつめているのに気がついた。私と友達はは面白がって転がっている石を拾い、氷を割っては道に投げつけて遊んだ。氷は音を立てて四散して朝日に反射してキラキラと輝いた。面白がって繰り返していると、近くの家のラジオから塀越しに行進曲が勇ましく流れてきた。曲が終ると感情を押し殺した声が続いた。
 「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
 私は小学校4年生だった。物心ついた時から日本は中国との戦争を続けていて、新聞やラジオに戦争報道のない日がなかった。平和を知らないだけに、平和とは一体どんなものなのか想像がつかなかった。子供向きの絵本には日章旗を翻した戦車隊が中国の大地を駆け巡っているものや、中国に向かって日本海を渡る重爆撃機の絵などがあったが、逆に空襲を受けて火災になった時、ハタキとバケツで火を消す方法とか、敵が毒ガスを撒いた際のガスマスクの着け方なども載っていて、日を追う毎に戦争の重圧感が追っていた。
 今、流れてきたラジオは、今迄の戦争に加えて、もっと大きな戦争が新しく始まったと言う事なのである。不安になって思わず氷を投げるのを止めた。
 しかし、この日から新聞・ラジオは陸海軍が米英軍を撃滅する連戦連勝のニュースを止めどもなく流し始めた。こうして、あの開戦の朝の何とも言えない不安感が何時の間にか消えていった。
 
 後楽園球場に真珠湾攻撃の大々的な模型が造られて、我々小学校生徒も教諭に連れられて見に行く事になった。大火に覆われたホノルル市、爆撃されて沈んでゆく戦艦、航空母艦、雲間から急降下して果敢な攻撃を加える攻撃隊。勇躍、血沸き肉踊る姿が再現されていた。物資は日ごとに少なくなっていったが、“欲しがりません。勝つまでは”の標語の元に私達は戦勝気分に浸っていた。
 その日は土曜日だったので、昼で学校の授業が終わり、善光寺坂を下って自宅に帰る時だった。後ろからブルンブルンと飛行機の爆音がしたので思わず空を見上げた。すると、今まで見た事もない大きな飛行機が一機、青空を背景に頭の上をゆっくりと通っている。低空飛行なので操縦梓を握っ
て下を覗いているパイロットの眼と私の眼が合ったような気がした。当時、飛行機と言えば「赤トンボ」と言われた小さな飛行機しか見た事がなかったのでびっくりした。まさか敵国アメリカの飛行機が飛んでいるとは思わなかったので恐怖心がなく、立派なものだと思って、ひたすら憧れの気持で見つめた。その時、飛行機を追いかけるように空襲警報の断続するサイレンが鳴った。機はゆっくりと本郷台地へ抜けて行った。米軍の中型爆撃機による日本本土の初空襲だった。

 それから2年が過ぎる頃から日本軍の旗色がひどく悪くなってきた。占領した南の島々から次々と退却するようになったのである。日本軍には従来から退却と言う言葉はない。この為に大本営陸海軍報道部は退却の言葉の代わりに“作戦の為の転戦”と、発表していた。昭和19年7月サイパン島の日本軍が転戦どころか玉砕してしまった。米軍がサイパン島のあるマリアナ諸島を基地にして日本本土の空襲を狙っているのは明らかである。東条首相はサイパン島が奪取された2日後に責任を取らされて辞職した。

 この時、私は文京区関口台にある(旧制)私立独協中学校1年生だった。校長は校庭に全生徒を整列させた。
 「今こそ決戦である」と訓示した。「我々は死を覚悟して、天皇陛下をお守りしなくてはならない」

 マリアナ諸島に飛行場が完成すると、戦略爆撃機B29が米本土から続々と諸島に飛来してきた。この爆撃機は別名“空の要塞”と呼ばれ、今までにない破壊力を持つ巨大な飛行機だった。昭和19年11月24日、いよいよB29が日本本土への空襲を開始して、超高度から日本各地の軍需工場を爆撃し始めた。
 昭和19年12月雪が激しく降る寒い夜だった。空襲警報が鳴って10分後、ドシン、ドシンと地響きが始まった。私達家族は自宅に造った防空壕に入ったが、ますます爆裂音が激しくなってきたので、身の危険を感じて隣家の高木さんの防空壕に入れてもらう事にした。高木さんの防空壕は崖に横穴を掘ったもので、私の家で造ったものよりもはるかに安全に思われた。ろうそくのユラユラする光りの中で2家族は身を寄せ合った。
 爆弾落下の音が次第に追ってくる。ザアーッと駿雨がトタン屋根に激しく叩く音。ヒュール、ヒュールと風を切る音とともに、ドシンと大地が揺らぐ。高木さんの70才になるお婆さんが奥に座っていたが大声で「南無阿弥陀佛。南無阿弥陀仏」と唱え始めた。私はひたすら身を堅くした。

 翌日、学校に行こうとしたら昨夜の空襲の為に都電が動いていなかった。歩いて行こうと安藤坂を下ると、途中に都電が一両、焼けて鉄骨だけになっていた。中には黒こげの死体が折り重なっている。死体は都電と一緒に激しく燃えた為に灰になっていた。その日は風が強かったせいで風が吹きつけると少しずつなくなっていった。
 見渡すと後楽園から神保町にかけて、壊れたビルと煤で黒くなった煙突以外には遮るものもなく焼けてしまっていた。

 この頃、独協中学は通常の授業が少なくなっていた。その代わりに毎日、学校近くの、空襲に備えて強制疎開になった家を壊す作業を命じられた。学校周辺は屋敷町で格調の高い家が多かったが、それを孫悟空が振り回す如意輪棒の如き鉄棒で片端からぶち壊すのである。特に贅を尽くした客間を威勢よく壊す時には惜しいと言うよりも一種のサディステックな快感があった。
 全部の柱に鋸を入れ、屋根のてっぺんに縄を掛けて、大人も交えて、20数人で掛け声もろとも倒そうとするが、建物が60度に傾いても倒れないのには閉口した。木造の軽やかな日本建築だが、部屋のどこの壁にも芯にしっかりと竹が網代に編んであり、その上に筋交いが掛けられていて頑丈な耐震建築に造られている。幾ら鉄棒で叩いても壁は鉄棒を跳ね返してビクともしなかった。作業の指揮をする教諭が大きな槌を持って来てみんなで壊した。
 疎開作業が一段落すると銃剣術の練習である。校庭の隅には米兵に模した藁人形が5体作られ並べてあるが、それに向かって銃剣に似せた木製銃を持って大声を挙げながら突進するのである。藁人形の心臓めがけて銃剣を刺した後は、そのまま直ぐ引き下がってはいけない。生身の人間に銃剣を剌すと直ちに肉が締まって銃剣が抜けなくなる。この為にすぐさま、その米兵の体に足を掛けて銃剣を引き抜く、次に、引き抜いた銃剣で素早く隣りの米兵の胸を刺すのである。
 「そんなヘッピリ腰で敵を殺せると思うのか。それではお前が先に死ぬぞ!元気をだせぃ」と配属将校が叫んだ。
 この将校は中年の准尉で、何時もピカピカに磨き上げた長靴を履いていて暇さえあれば大切そうに磨いていた。
 当時、日本陸軍は中学校以上のすべての学校に軍人を出向させ、いざと言う時には学生を戦線に配置して米兵と戦わせようと訓練していた。これは女学校も同じで、女学生も竹槍で米兵を殺す練習をしていた。
 私はかねてから、この配属将校に恨みを持っていた。3ヶ月ほど前、我々中学1年生は1週間の予定で富士の裾野に軍事教練に出かけた。
 我々は木製の模型銃をかついで軍歌を歌いながら行進していたが午後から次第に雨が激しくなり風も強くなってきた。 15キロも歩いたろうか、近くにいた級友の野々宮君が突然倒れた。激しい腹痛の為に動けないと言うのである。額に手を当てるとひどい熱である。我々が行進を止めると、配属将校が飛んできて例の長靴で屈みこんでいる野々宮君の腹を何度も激しく蹴り上げた。我々はぐったりとし意識の殆どなくなった野々宮君を支えながら行進を続けた。彼はその晩、病院に収容された後に亡くなった。
 次の日私は食事当番だったので仲間6人分の飯を貰いに調理場に行くと、調理担当の級友がしきりに1つの飯茶碗の上で頭を掻いている。
 「兵隊の叔父の奴がね、嫌な上官をやっつけるには、そいつの食う飯に頭のフケを撒いて腹を壊させるのが一番だって言っていたのさ」と友人が言い、その飯茶碗を盆に載せて野々宮君を足蹴にした配属将校の部屋へ運んだ。
 配属将校がそれを食べてどうなったか、私はじっと様子を窺っていたが、残念ながら余り効果がなかったようである。しかし、溜飲がさがった。
 この頃からよく昼間に空襲警報が鳴った。私は白山通リにある映画館に長谷川一夫主演の「雪之丞変化」を観に行った。映画が終って外へ出ると午後の陽射しに眼が眩んだ。空襲警報が鳴ったが、その頃は警報に慣れっこになっていたので平気に自宅に向かって電車道をぶらぶらと歩いていた。その時にパンパンと言う破裂音がした。思わず見上げると抜けるような青空に長い飛行機雲を引きながら3機のB29が飛んでいる。B29は広い大空の中でまるでトーセミトンボのような細くて白い透明な美しさがあった。余りに高いので爆音が聞こえない。パンパンと言う破裂音は、迎え撃つ首都防衛隊の高射砲のものだった。警防団がメガホンで道端に造られている天蓋のない防空壕に入るように叫んだ。しかし、私は周りの人達と一緒に、防空壕に入らないで空を見上げていた。我々は皆、直ぐにも高射砲弾がB29を撃墜するものと期待していた。しかし、弾はB29の遥か下に、パッと白い煙を出して散るだけである。 B29の高度は1万メートル。日本の高射砲弾の射程距離は8千メートル、届く訳がないのである。我々は失望した。そのうちに豆粒ほどの戦闘機が2機舞い上がってきた。翼に鮮やかな日の丸である。我々は歓声を挙げた。戦闘機は大鷲に喰らいついてゆく小雀に見えた。しかし、果敢に接近しようとするものの、2機とも敵機の機関砲を受けてチカッと光ったと思うと散りじりになって落ちていった。 B29 は悠然と飛び続けている。
 見物している者の殆どが黙っている。先程、高射砲がとどかなくて「情けない」と笑った男も黙っている。
 我々を守る為に、巨大なB29に勇敢に襲いかかり、文字通り大空に散っていった兵士達に対する思いが、我々を沈黙させた。

 生活必需品が払底していた。戦争が長引くにつれ、政府は軍需物資の生産に力を入れる一方、生活物資の生産は隅に追いやられた。一日一日と食料品、衣類その他のあらゆる物資が次々と周りから消えてゆくのが判った。それは、ほのかな絶望と微かな悲しみを伴う毎日だった。しかし、着るものは我慢できても食べる物はそうはいかない。
 母は箪笥から着物を引き出しては、東京近郊の農家に出かけては食料品と交換した。私も手伝って母と一緒に行く事が多かった。田舎道は食料を求めて買出しをする市民達が長い列を作っていた。リュックサックにさつま芋、米など食料を詰め込んで、やっと駅まで帰ってくると、平均5回に1回ぐらいは駅で網をはっている警察官に捕まって没収されてしまった。警察官は「物価統制令違反で検挙してもよいが、没収だけで許してやるのだから有難く思え」と言うのである。
 2月の寒い日だった。警察署で朝9時から白米の特配があるのを聞いて私は朝早くから出かけた。警察署の霜の立った庭にはすでに80人ぐらいの人達が並んでいた。
 「危篤の父が……」と30才台の痩せた女性が、前に並んでいる腰の曲がったお婆さんに口ごもりながら言った。
 「死ぬ前にもう一度、白いご飯を食べてみたいと必死で言うので来てみたの、くれるでしょうか」
 「頂けるのは一人2升ですって」
 「助かるわ」
 「少ないね」と、婆さんが怒ったように言った。
 「お巡りさんは買出しから没収したものを勝手に家に持って帰るので、お巡りさんの家族は何時もお腹が一杯だって聞いています。取り上げた品物が倉庫に入りきれなくなると、こうやって少しずつ出すのですって」
 警官が建物の中から米の入った大きな桶を出してきて、我々の持参した袋に2升ずつ入れてくれた。並んでいる人達は、沈鬱な空気から急に嬉しいざわめきにと変わった。私も代金を払って米を袋に入れて貰うと、さっきのお婆さんの話しをすっかり忘れて警官に心から礼を言った。

 3月10日、深夜に空襲警報が鳴った。ドシン、ドシンと地響きがする。通りで警防団が「下町が焼けているぞ」と、叫んでいる。寝ていた私は洋服に着替えると、近くの沢蔵司稲荷の境内に走った。この境内からは本郷台の向こうの両国国技館(現在の日天講堂)の丸いドームがはっきりと見えた。隅田川の花火大会の時は、此処へ来て、ドームの右手に上がる花火を”玉ヤー”左手に上がる花火は”鍵ヤー”と喝采して叫んだものだった。今や、そこは、もの凄い火炎が渦巻き、高く盛り上がった黒煙が火炎を反射して真っ赤に染まっている。黒煙の中を掻い潜ってB29が、チカチカと鋭い光を発するものを地上にばら撒いている。

 翌11日夕刻、親戚の利根川さんが訪ねてきた。利根川さんの所属する警防団は朝早く所轄の警察署から非常召集を受けて死体収容の為に浅草に集合したと言う。
 「隅田川の水が死体で埋まってしまって、見えなくなっていましたよ」と、青い顔をして利根川さんが言った。作業は死体を引き上げ、岸の公園に集めて燃やすものだった。利根川さんは35才の屈強な男だったが、ショックの為に、眼を見開いたまま話をしていた。時々、作業を思い出しては身震いをした。
 3月10日深夜零時を少し廻った頃、344機のB29が東京の下町に来襲した。攻撃は綿密に計算されたものだった。ナパーム製高性能焼夷弾を投下して最初に江東区、墨田区、台東区の周囲に火の壁を作って住民を猛火の中に閉じ込めた。そして火の壁の中に100万発の油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、高温発火式焼夷弾を投下、市民は退路がなくなり火の中を逃げ惑った。もしも人々が焼けていない場所を見つけて集まれば、其処は周囲の熱で、一瞬に燃えあがる釜戸の中と同じだった。多くの人達が一斉に命を断った。
 折から強風が吹き荒れて火勢が一層激しく燃え上がった。火の粉は巨大な火の玉となって舞いあがり、強風に捲かれた炎は、隅田川や下町の堀の川面を舐めるように駆け抜けた。そして、炎に追われて川に逃げ込んだ人々を焼き殺した。
 こうして多くの市民は逃げ惑い、重なって焼け、性別も判らない炭と化した。(東京大空襲の記録より抜粋)
 この空襲は一般市民を一人でも多く殺戮する為に緻密に企画、立案、実行に移されたものだった。これは、これまでの軍需工場を目標にした空襲から一転して、一般市民の殺戮のみに的を絞った最初の空襲だった。この方針は以後も徹底され、市街地が壊滅しても近くにある軍需工場は残った。この、2時間半の東京最初の大空襲で市民10万人が死んだ。
 効果的な殺戮に味を占めた米軍は、以後、終戦迄の5ケ月間に日本全国70都市に襲いかかり、56万人(原爆関係の死者を除く)の非武装の市民を殺した。これは、世界史上に前例のない大量虐殺だった。それが、この日から始まったのである。
 これを企画、立案、指揮した米空軍司令官カーチス・E・ルメイ少将は昭和39年に来日した。その際、時の総理大臣で自民党総裁佐藤栄作は、ルメイ少将に勲一等旭日大綬章を授与した。

 昭和20年5月25日、私は2階の部屋で明日の授業に必要な教科書を鞄に詰めていた。先刻、警戒警報のサイレンが鳴ったがやがて解除になったのだ。私は小学生の時、鞄に教科書を入れるのに、考えると馬鹿みたいだが「国語様」「地理様」と「様」をつけて入れていた事を思い出していた。「様」をつけると、その教科の時間に教師に怒鳴られずにすむ事が多かったからである。その時、空襲警報の断続的なサイレンがなった。外で警防団が「消灯」と叫んでいる。私は子供だったので天井から下がる電灯のスイッチに手が届かない。何時ものように机に上がってスイッチを消そうとした。今までに空襲警報は飽きる程あったので、又か、とは思ったが、この時だけは変に胸騒ぎがした。電灯を消そうとして勉強部屋だった部屋をグルッと見渡して「さようなら」と一寸、芝居かかった声で言ってみた。
 2階から降りる最中にドシン、ドシンと地響きがきた。防空頭巾を被り貴重品を入れた鞄を肩に掛けると家族全員で外へ出た。大塚方面、北の空が真っ赤だった。煙が刻々と濃くなり、火の粉の乱舞が激しくなった。何時火の粉の為に我が家が燃え出すか判らない。
 「伝通院が燃えている」と、誰かが叫んだ。
 浄土宗伝通院は1415年に創建された徳川家の菩提寺で、家康の実母於大の方、2代将軍秀忠の娘千姫の墓などがある。徳川家女系累代の墓所となり江戸時代は常時1,000名の学僧が修業していた。創建当時の本堂は明治の失火で焼失し、その後に再建したものだが、創建当初からの山門、経堂、鐘楼が残っていた。特に山門は三重の屋根を持つ豪壮華麗なもので、数百羽の鳩がねぐらとしていた。
 伝通院が燃えれば、境内にある伝通院経営の淑徳女学校が危ない。私の家は淑徳女学校校舎が建つ崖下にあったが、校舎が燃えればそれが崩れ落ちて助かる見込みがなかった。
 「淑徳女学校に火がついた」警防団員が叫んだ。
 柳町から本郷にかけては未だ火の手があがっていない。「今の内に逃げよう」と父が言うので近所の人達と一緒に柳町へ向かうために善光寺坂を下った。坂は逃げ惑う人達で一杯である。家財道具や荷物を持った人達でごったがえしていた。
 暗い本郷台地に逃げようとして柳町商店通りを人に押されながら歩いて行くと、行く手の電柱がメラメラと燃えている。これは落ちてくる火の粉のために飛び火したもののようだったが、恐怖に慄いて度を失っている我々群衆には爆弾としか思えなかった。群集と一緒にあわてて元来た道に引き返す、又、行く手に火の手が上がった。押し合いながら火のない方へ進んでいる内に何時の間にか東京大学の構内に入り込んでいた。私達家族は隣組の人達と一緒に赤門を入って右側の建物、法文2号館校舎のロマネスク様式の洒落た玄関先に座り込んでしまった。扉が閉まって教室に入れなかったので玄関先で寝た。そして疲れがどっと来て眠り込んでしまった。
 目を覚ますと、すっかり朝になっていた。抜けるような晴天である。隣組の組長から「我々の家は全部燃えてしまった。ひとまず焼け残った柳町小学校に集まる事になった」と知らせてきた。我々は焼けなかった本郷台を降り、柳町小学校の雨天体操場の隅に座り込んで無料の乾パンの配給を受けた。今回の空襲では本郷台の住宅地も、柳町商店街も無事だったが、私は別に羨ましいと思はなかった。次の空襲で早晩焼けてしまうと思ったからである。
 
 雨天体操場は罹災者で一杯だった。元気に話し込んでいる人もいたが、大抵の人は昨夜の疲れで放心状態になっていて横になっている人が多かった。
 私の家族は父(50才)、母(41才)、学生の兄(19才)、姉(16才)だった。あと妹が2人いたが学童疎開でいなかった。両親も兄や姉も近所の人達と話し込んでいるので、私は家がどうなったのか見に行く事にした。そして、家が焼けるのを見越して庭に埋めておいた瀬戸物の食器類が無事だったら掘り出してこようと思った。

 坂をのぼると善光寺は無事だったが、そのすぐ上にある沢蔵司稲荷はところどころに白い煙を上げながら瓦榛となって消えていた。

 この沢蔵司稲荷は江戸時代には伝通院の寺領の中にあって、伝通院の守護神との言い伝えがある。
 伝通院で浄土宗を学ぶ多くの学僧の中に沢蔵司と名乗る若い学僧がいた。その学僧は蕎麦が好きで、毎日のように寺の門前にある蕎麦屋に出かけていた。ある晩、この学僧の払った金子が木の葉だったのを知り、怪しんだ店主は学僧の後をつけて行く事にした。学僧は善光寺坂の途中の暗い茂みの中に入り、更に深い窪地の中に入って行った。窪地の底には横穴があり、そこで急に姿が消えた。店主が勇気を振るい起こして中を覗くと、突如として白煙とともに2メートルほどもある火皿が立ちはだかった。
 「我は江戸城内に住む稲荷大明神だ! 伝通院を守護する身だが、今は沢蔵司と名前を変えて伝通院で浄土宗を学んでいる」
 店主は恐れ入って「以後はこのお穴に御蕎麦をお供え申します、御代は要りません」と平伏した。以後、この穴は霊窟として信仰を集めてきた。
 今、官営のある窪地を見下ろすと、神域を被っていた鬱蒼とした樹木は幾つかの黒い木炭に変わっているだけだった。あの茂みに囲まれた霊窟もむき出しになっていて、太陽の強い日差しに無残にさらされていた。
 沢蔵司稲荷から善光寺坂を10メートルほど上がると道路の真ん中に樹齢700年と言われる椋の巨木が立っていたが、やはり燃えてしまっていた。この木は沢蔵司の霊が宿ると伝えられていて、樹の廻りには何時も、〆縄が捲かれていた。私の家はその椋の木から右手の道を入った中にあった。
 道を入ってすぐの、椋の木に一番近い所は文豪と言われた幸田露伴の家だった。露伴は昼でも酒を飲んで赤い顔をしている時が多かった。何時も気難しい顔をしていて近寄り難い威厳があった。しかし、正月になると羽織袴で威儀を正して近所の家を年賀に廻っていた。娘の幸田文さんは和服しか着ない人だった。勘気の強い人で、自宅の台所での高笑いは、外で遊んでいる我々にとって、塀を乗り越えて聞こえてくる何時もの聴き慣れた笑いだった。文さんの一人娘の玉さんは私より2才年上だったが、抜けるような色白な肌をしていた。我々悪童は玉さんを「卵、卵」とからかったりして、文さんから睨まれた。
 幸田家の隣は岸道三さんの家だった。岸さんは近衛文麿前首相の秘書官をしていた。日本の敗戦が濃厚になってきたので同志と一緒に終戦の機会を探している事が東条首相の耳に入り、憲兵隊の監視下に置かれ、仕事につかれずに浪人生活を送っていた。
 岸さんは子供の私に「君、日本が鉄道を造った時、島国で狭いから汽車の軌道も狭くて良いとしてしまった。おかげて今になって、物資の輸送がとどこって国の発展の障害になっている。これからの日本は鉄道に代る巾の広い道路が必要なんだよ」と話していた。戦後、岸さんは日本道路公団の初代総裁になって、従来からの考えを実行に移した。
 岸さんの隣は「非凡閣」と言う出版社だった。2階建ての居宅に鉄柵の門をつけて事務所としていた。主に難しい学術書などを出版していたが、不気味な金色の表紙をした江戸川乱歩全集や“富士に立つ影”など侍もの、「実話雑誌」と名付けたエログロナンセンスな月刊雑誌も出していた。戦争の激化とともに、「実話雑誌」の扇情的な記事が禁止となったので、やむな句”立派な兵隊になる方法”とか、“国債を買うための上手な貯金方法”とか、前線と銃後を結ぶ美談などを集めて記事にしていた。編集者の一人が私に「子供が前線の兵隊に送る手紙を実話雑誌に掲載するので何か書いてくれ。大人が書くと、どうしてもインチキがばれちゃうので頼む」と言われて書かされた事があった。小学生の私は「兵隊さん、支那をやっつけても蒋介石の首だけはは取らないで下さい。僕が兵隊になって取りに行きますから残しておいて下さい」などと書いた。
 その隣の茂木さんは銀行経営者の一族だった。1人息子は小学校4年生で友達だった。母親は32才ぐらいだったが。当時流行のヴェール付の帽子を被り、ハイヒールを履いて颯爽と歩く姿は当時のフランス映画に出てくるような美人だった。或る日、友達とこの母親の部屋に入った。そこには今まで見たこともない大きな三面鏡の前に色とりどりの化粧品や香水が何十となくキラキラしながら散らばっていた。それは、さしずめ天空に煌く星か、アラビアンナイトのアリババが見つけた宝石だった。当時は生活物資が払底していてマッチでさえ自由に買えない時代だったので私はびっくりして見入ってしまった。
 露伴翁の筋向いの家は普通の2階建の居宅だったが、全部を「非凡閣」が書庫にしていた。我々子供はうず高く積まれた学術書の山の中で隠れんぼをしたりして遊んだ。その隣が「非凡閣」経営者加藤雄策さんの居宅だった。雄策さんは背の低い小太りな人だった。よく作家の菊地寛が、運転手付きのフォード型ダットサンに乗って遊びに来ていたが、2人のずんぐりとした体つきは兄弟のように似ていた。2人とも大の競馬好きで雄策さんは現在でもクモハタ記念として名を残すダービー優勝の名馬クモハタ号の所有者として有名だった。雄策さんはレースの日の朝、その日に出場する馬の目を見ただけで、レースの勝敗が判るとの評判だった。それだけに金が儲かったようで雄策さんには私の友達を含めて子供が5人いたが、5人全部に1人ずつ女中を付けていた。
 その隣が私の家だった。私の父は大学を卒業して神田銀行に就職したが、銀行が不況で倒産してしまい、大学の先輩が保険会社の代理店を辞めるので後を継がないかと言われて顧客名簿を譲り受けて代理店を始めた。それだけでは食べてゆけないので先代から受けついた家の敷地を3分割して2階建の家屋を3軒建て、両隣の家を貸して、私達は真ん中の家に住んだ。しかし、当時は借家が多くて残念ながら空き家の時が多く、思ったほど家賃収入があがらなかった。
 左隣りの高木さんは鉄鋼会社を経営していた。時流に乗って景気が良く、ゆったりと暮らしていた。そして、憧れにしていた横綱羽黒山がよく遊びに来た。高木さんの家には2才年下の友達がいたが、羽黒山が軽々と友達を抱き上げているのを見て羨ましい思いだった。
 高木さんの塀の向こうは甘い柿の木のある額賀加之助さんの家だった。加之助さんは日本キリスト教会の会長だった。当時、日本キリスト教会は戦争を日本の聖戦と捉えて肯定する方針だった。加之助夫妻は若い時に米国に過ごした事があり、奥さんが小声で「あんな大きなアメリカと闘って勝て
るつもりでしょうかね」と私の母に囁いていた事があった。加之助さんは日本のキリスト教徒が政府から弾圧されるのを恐れてやむを得ず戦争を「聖戦」と肯定したようである。何時もステッキを持って我々が道で遊んでいるとニコニコ微笑ながら通って行った。我々子供は「ニコニコおじさん」と言って甘えて緩りついた。
 保羅(ボーロ)さんは加之助さんの一人息子である。青山学院神学科を出て足立区の小学校教諭をしていた。当時23才だった。父が会長を務める日本キリスト教会の行き方を批判して無教会主義者になっていた。ガリ版刷りの冊子を追って「神は一人しかいない、天皇は神ではない」「電車が宮城前を通過する時に、車掌が号令を掛けて乗客全員を二重橋に向かって最敬礼させるのは馬鹿げている」などと書いていた。私は保羅さんが近所の子供達を自宅に集めて日曜学校を開いてい"エス家庭学園”の生徒だったし、保羅さんを心から慕っていた。
 以前から保羅さんは朝鮮独立運動の金さんと親しくしていたが、金さんの部屋を警察が家捜しをした時、保羅さんのこの冊子を見つけた。警察から連絡を受けた特別高等警察は小学校で授業中の保羅さんを生徒の前で逮捕,拘禁した。そして、この冊子の後記に、私がこの冊子の出るのを待っていると記してあったので、保羅さん逮捕の数日後2人のチョビひげの特高が私を訪ねて来た。私が中学校の1年生だと知ると苦笑いして「あんたが子供だとは思わなかったね。これからは変な奴と付き合わない方がいいよ」と言い残して帰って行った。

 今は5月のまぶしい日差しの中にそれらの家のあった所は、ただ、赤茶けた瓦磯が重なっているだけだった。淑徳学園から伝通院、通学していた礫川小学校も消え去り、はるか大塚方面まで瓦礫が連なっていた。家の近所の人達は戦争の激化に伴い日常生活こそ以前に比べて逼迫していたが、それでも生き生きと暮らしていた。その生活が一夜にして消え失せていた。
 私は家の焼け跡の瀬戸物を埋めたと思われる所を、焦げた瓦欠けで掘り始めた。その時、瓦礫に混じって小さな白い骨片を見つけた。ここには飼っていたカナリヤがいた筈である。このカナリヤは私が物心ついた頃には既に家にいた。よくさえずったので今でも耳の底に玉を転がすような声が残っている。毎日、夜になると電灯の明かりでカナリヤが寝るのが邪魔にならないように籠に風呂敷を被せるのが私の役目だった。私は骨片を頬に当ててみた。ほんのりと暖かく、まるで生きているカナリヤの体温のようだった。“あの時、逃がしてやればよかった”火の中で羽をバタバタさせて死んでいったと思うと悲しくなった。私は骨片をポケットの奥にしまい込んだ。
 柳町小学校の雨天体操場では同じ隣組同士で固まって満員だった。皆、気の抜けたような顔をしている。両親はこれからの生活について悩んでいたと思うが、こちらは子供なので始めての集団生活が面白かった。そのうちに青白い顔をした青年が尋ねてきた。隣家の加藤さんがいるかと言うのである。いないと答えると青年は「昨日の空襲で加藤雄策さんが赤坂で亡くなった。これを加藤さんの遺族に渡してくれ」と言って封筒を手渡して去った。そのうちに加藤さんの長女で姉の幼馴染が顔を出したので雄策さんの死亡を伝えた。17才の長女は顔面蒼白になって数分間体を硬直させたままだった。青年の寄越した封筒を開いて私達にも見せてくれた。作家菊池寛の色紙が入っていた。[雄策君が煙に巻かれた時、紅蓮の炎の中を君は天翔ける白馬を見たに違いない]と、色紙に書いてあった。加藤家は戦時中にもかかわらず比較的に豊かな生活をしていたので、雄策さんは多分、赤坂の料亭かなんかで亡くなったのだと思ったが、その後、仕事で赤坂の道路を歩いていて、沢山の人達と一緒に煙に巻かれて焼け死んだと判った。
 何時までも柳町小学校にいる訳にもゆかないので、両親は知人の紹介で電車道に面した家の一部を借りる事にした。この家は入口に高い石柱を配した西洋館で、持主が疎開して管理人がいるだけだった。門から母屋にいたる道の右側に書生用の家があり、父はここを事務所として借り、家族の寝る所としては母屋の2階の洋間を借りた。洋間は20畳ほどの広さがあり、暖炉は埃が積もっていたが、側面には見た事もない等身大の華麗な鏡を幾つも配し、天井にはシャンデリヤを下げた跡があった。以前、この部屋は光り耀き、主人は客を招待して華麗な晩餐会を催していたのに違いない。
 火災保険の代理店をしている父は金儲けが下手だったが、最近、父の座っている書生用の家の事務所には客がひっきりなしに来るようになっていた。今年に入ってから空襲による災害がひどく、都民すべての人達が今日は無事でも明日は絶対に焼け出されると考えていたので、戦時特例火災保険に入る希望者が激増したのである。しかし、保険会社の方も無尽蔵に保険に入れたら倒産は必死と考えて代理店が客を募集するのに制限をつけてきた。客はどうせ焼けるのだから、焼ける前に多少の礼金を代理店に払ったとしても結局は儲かると踏んで保険に入りたい一心で父の前に金を積む者も出てきた。又、物資が払底しているにもかかわらず、砂糖や酒、穀物類を下げて来る者もある。父はなるべく有利になるように客を選択して保険の申し込みを受けていたので懐はおもいもよらずに潤沢になった。
 子供心にも戦局は日に日に悪化してゆくのが判った。客の一人が声をひそめて「大きな声では言えないが、アメリカを九十九里浜におびき寄せてマッチ箱一つくらいの新兵器で、一挙に殲滅する作戦ができています。楽しみですよ」と話しているのを傍で聞いて、私は半信半疑ながら僅かに希望を持った。
 6月の暑い日だった。私は父に連れられて親戚の老婆が入院している神田橋の病院に見舞いに出かけた。この辺りは3月の大空襲で廃墟と化していたが病院は焼け残っていた。神田橋の交差点で電車を降りて少し歩いた時、空襲警報も鳴らないのに突如、米軍の艦載機グラマンが3機、焼けたビルの間から超低空で襲いかかってきた。辺りは真昼だと言うのに誰一人歩いていない。焼け野が原で身を隠す場所がない。父と私はアスファルトの電車道に平たくなって身を伏せた。耳元でビシッと機関銃弾が地面を噛む音がした。砂煙が上がる。体を小さくしている内に爆音が去っていった。父と無事を確認し合った後に病院に出かけた。しかし、せっかく、危険をおかして行ったのに、患者が伝染性の病気と言う事で会えなかった。

 Kさんは父の明治大学時代の友人だった。家によく遊びに来て子供の私にもこぼれる様な笑顔で接してくれるので大好きだった。父は大学時代にKさんと槍ケ岳へ出かけたが、山が余りに急峻だったので恐れをなして途中で引き返し、Kさんが一人で頂上を極めて帰るまで山小屋で待っていたと言う。そのKさんは仙台市に住んでいて、仙台は戦災に遭っていないので移住して来ないかと言うことだった。その結果、仙台市移住を決意したのだが、後から考えてみると何故、焼けるものが殆ど無くなってしまい、以後に大きな空襲がなかった東京を離れて、未だ戦災に遭わないで空襲の危険性のある仙台市に移住を決めたかと言う事である。東京には2軒の家作を含めて持ち家が焼けてしまい未練がない為か、東京が焼土となり火災保険をかける家も無くなってきたので、未だ家の焼けていない仙台で商売をしようと考えての事か、又は東京で家族全員が爆弾で死亡してしまうと、学童疎開で鳴子温泉に疎開している2人の妹が孤児になってしまうのを恐れ、せめて鳴子温泉に近い仙台に住まおうとしたのか、どうも、はっきりしない。
 柳町商店街の角に美濃鼠菓子店がある。我が家は子供が多かったせいで、よく菓子を買ったので美濃屋の得意先だった。こうした関係で、焼け出された後は何くれとなく世話をしてくれた。主人は顔が利いているので金さえ出せばどんな品物でも手に入れる事ができた。戦災で家財道具を全く失ったので仙台転居に当たって、父は懐が潤沢なのを幸い主人に頼んで色々と品物を買い集めた。当時は誰もが今日は無事でも明日は空襲で灰になってしまうと考えていたので、結構、良い家具など安く買えた。
 7月の始め、いよいよ仙台市に移住する事になった。買い集めた荷物はガソリン不足で運送トラックが駄目なので、リヤカーを借りて兄と一緒に秋葉原駅まで何回となく運んだ。辺りは焼け崩れたビルや土蔵が建っているだけの見渡す限りの瓦礫の連なりである。リヤカーを押す私に真夏の太陽が容赦なく降りそそいて皮膚を焦がした。
 7月9日、私達は仙台駅に着いた。Kさんが迎えに来てくれていて、駅近くの高台にある料亭に招待してくれた。2階の10畳程の部屋で、ガラス障子の向こうには青葉に彩られた仙台市街が見渡せた。開けられた窓からは冷たい風が気持良く入ってきた。東京の瓦礫の街を見慣れた眼には仙台市は生き生きとしてまぶしかった。父がKさんに「仙台は杜の都と聞いていたが、やはりそうだね」と言うとKさんは嬉しそうに頷いた。
 その晩は一先ず駅前の旅館に泊る事にした。旅館は燃料不足で風呂がないので交代で近くの銭湯に出かけたが、私はぐずぐずしていて最後に出かけた。帰ってみると皆はほっとしたのか、もう寝てしまっていた。私は母が旅行に備えてとっておいた米で炊いたご飯が釜の中にあるのを知ってい
た。母が今晩、食べるのを各人一膳に限定して翌日に備えて残しておいたものである。私はしゃもじに少し飯を乗せると口に入れた。我慢が出来ないほど美味かった。あっと言う間に釜の半分ぐらい食べてしまった。さすがに明日の朝の事を考えると心配になってきた。しかし、そのうちに布団にくるまって寝てしまった。
 爆裂音と地響きが一緒に来て眼が覚めた。ガラス障子が一面、真っ赤に染まっている。部屋の壁に真っ赤な色がゆらゆらとうごめき、それが停電の部屋の隅まで明るくしている。あわてて全員が飛び起きて防空頭巾を被り、震える手で空襲に備えて用意していたバッグを肩に掛けた。私はとっさに座敷の隅に置いてあった父の胴巻きに気付いて、部屋を出ようとしている父に渡した。全財産の入っていた胴巻きである。これを持って行かなかったら家族全員が翌日から路頭に迷った筈である。母はこの事を後年まで思い出していたが危ない一瞬だった。
 外へ出ると電灯が消えて真っ暗になった道を人々が黙々と列を作って歩いている。私はあわてて裸足のまま靴を持って出たので歩きながら靴を履いた。周りは暗いが、周囲の空は赤く染まって火の子がキラキラ舞っている。飛行機の爆音と高射砲弾の破裂音が重苦しく響いている。私達は一緒に歩いている人達の流れに乗りながら、少しでも火のない方向に歩いて行った。だが、逃げない人達もいた。自宅の防空壕の入口に立って呆然と立ちすくんでいる。仙台市は初めての大空襲だったので度肝が抜かれているのか、それとも空襲はたいした事もなく収まると考えていたのか解らない。
 母が防空壕の前に佇んでいる人達に手を振って「逃げなければ危ないですよ、そこに居ては駄目ですよ」と大声で叫んだが、動こうとしなかった。
 我々は人の波と一緒に何時の間にか仙台市を北西から東南に流れる広瀬川の縁にたどりついた。この辺りは東北大学のキャンパスもある市の枢要地区である。
 今や全市の上空が火災の煙で覆われているが、その厚い煙の層を掻き分けながらB29が一機ずつ5秒間隔で姿を現してきた。彼等は周辺の爆撃を終えて市民に逃げ場を無くさせると、我々を殺戮する為にいよいよ爆撃を中心地点に移してきたのだ。超低空で飛ぶ巨大な機体に地上の火災が赤くメラメラと反射して地獄の使いのようだった。真上に来ると集束焼夷弾を落とし、これが開いて何百と言う赤い粒をばら撒く。私は広瀬川に沿って作られている危険防止用コンクリート柵の傍らに身を潜めた。赤い粒は火の糸となって落ちてくる。粒に見えたのは、長さ30センチほどの焼夷弾で、こいつがバラバラと回りに落下すると花火のように火が飛び散る。周辺のあちこちが花火になっているが、直撃されれば死ななくてはならない。私はついさっきまで居た場所に焼夷弾が落ちてその風でよろけた。広瀬川は淵の岩に何十となく焼夷弾が炸裂して凄まじい閃光を発している。川の水は油で燃えあがっている。私は思った。夜が明けて朝日が顔を出した時、人々はこのコンクリートの柵の傍らで私の死骸を見つけるのに違いない。どんな死骸だろうか、私は今まで空襲による色々な死骸を見てきた。あの市電と一緒に焼けた死骸は人の形をしていたが黒い灰だった。風が吹くと少しずつ飛び散って無くなっていった。広場で亡くなっていた人々は洋服が燃え尽きて裸だった。まるでマネキン人形みたいに肌がスベスベとして光っていた。熱い煙にあぶられての燻製状態だった。
 人々は明るい朝日の中で私の死骸を無感動で眺め、他の死骸と共に空地に穴を掘って埋めるだろう。戦慄が走った。
 依然として敵機は極めて正確に 5秒間隔で西の山陰から顔を出しては襲ってくる。やがて金色の襟章をつけた陸軍少将が5人程の兵隊を連れて近くにやって来た。兵隊達はゴザを敷くと少将は中央にどっかとアグラをかいた。兵隊の1人が携帯してきた道具箱から杯を取り出すとウヤウヤしく少将に捧げて酒を注いた。私は自分が命の危険を感じていたので、彼らが何をしようと関心はなかった。「あの人達だって我々と一緒に死ぬのだ」と思った。少将は軍刀を左手に握り右手に杯を持って辺りを睥睨しながら飲んでいる。まるで花見見物をしているような感じである。しかしゴザの周囲には焼夷弾が落下するのである。取り巻きの兵隊達は少将に火が移らないようにと必死である。そのうちに、一人の痩せた兵隊が火災で赤く染まった空を押し分けて襲ってくるB29を指さしながら「また来る、また来る」と叫び出した。顔は血の気がなく眼は絶望的に見開いたまま、全身がガタガタと恐怖で震えている。正に地獄だ。私はひたすら身を小さくして蹲った。

 何時の間にか爆音が聞こえなくなり、東の空か明るくなった。火災は未だ燻っているが、市全体を覆っていた煙はなくなっていた。廻りの避難してきた人達はだ殆どが横になっている。あの少将の一団は見えなかった。
 あちこちに死体があったが誰も関心を示していない。私達家族は無事だった。気を取り戻すと、泊っていた旅館がどうなったか心配である。未だ煙の燻っている焼野原を仙台駅に向かった。行ってみると案の定旅館は無くなっていた。母が明日の分にと残したご飯を私が食べてしまったあのお鉢も一緒に燃えてしまった。この事だけは叱られずに済んで助かったが、私達が熱い日盛りに秋葉原駅に運んだ家財の一切も貨物車に入ったまま、一緒に焼けてしまった。かくして我が家の全財産は再び父が持っている胴巻きの金だけになってしまった。
 私達は仙台市に到着したばかりで知り合いが居ないのでKさんの家を訪ねるしか方法がなかった。Kさんの家は歩いて15分ぐらいの住宅地にある。辺りは焼け残っていたのでホッとした。平屋建ての庭のある家で中に入ると屋根の一部が抜けていて家の中から空が見える。Kさんはいなかったが奥さんが立ったまま半狂乱で「焼夷弾が落ちて屋根が燃えた。息子が火を消そうとして火傷を負った。あなた達も焼けたらしいが、ウチの息子のように火を消さなかったのだから仕方がない。屋根を直したり、息子の傷の手当てをしたりで、あなた達に構ってはいられない」と、一気に捲くし立てられた。私達はKさんとは会えず、水も与えられずに、そのまま立ち去るしか方法がなかった。尚、父とKさんは親友だったが、これを最後に交際を絶っている。
 両親はこれからどうしようかと思案をしていた。今更、何もない東京へ帰っても仕方がない。戦局は日増しに悪化している。我々は何時戦災死するか判らない。一先ず妹の2人が学童疎開をしている鳴子へ行こうと言う事になった。
 仙台駅が焼失してしまったので列車は東仙台駅から出ていると言う。父は戦災者に支給される全国無料の鉄道切符を手に入れると、我々は東仙台駅に向かって8キロの道を歩いて行く事になった。快晴で空は一点の雲もなかった。東京の空襲でもそうだったが、空襲の翌日は必ず快晴である。米軍は爆撃の成果を確かめる写真をとる必要上(おそらく軍が米国議会に襲撃成果を説明する資料にするのだろう)天候を調べて快晴の前日に爆撃を行う事にしていたのだ。太陽が中天にかかり眩しい。夏の日差しが容赦なく降りそそいて来る。真っ青な空にB29が一機、機体をキラメカせながら悠々と飛行している。1年前は日本の戦闘機や高射砲を恐れて超高空を飛んでいたが今では迎え撃つものがなくなったので高度を下げながらゆっくりと焼け跡の写真を撮っている。
 私達は東仙台駅へと、瓦礫と化して見通しのよくなった大通りを歩いていった。腐った醤油を焼いたような臭気が一面に漂っている。荷台の横の張り紙に[死体収容車]と墨で大書したトラックが通り過ぎた。見ると服が燃えてしまい、殆ど裸の死体が何体も折り重なって積まれている。
 トラックに向かって防空壕の傍に立っている女の人が「此処にも死体があります。積んでいってください」と、叫んだ。逃げないで壕の中で死んだ人がいるのだ。トラックの荷台に立っている憲兵が「駄目だ、もう一杯で載らない」と手を横に振って叫び返した。

 私達は朝から何も食べていなかった。母は逃げ出す時に持ち出した救急鞄の中にあった袋を取り出した。中に米が2合ほど入っていた。私達は生来が体に毒だと言いながらも空腹に耐えかねて歩きながらポリポリと咬んだ。あたりには臭気が依然として立ち込めている。やがてそれが、焼け死
んだ人達の死臭だと判った。

 戦災者を乗せた超満員の列車が小牛田駅に着いたのは夜だった。列車がプラットホームに着くと歓声が沸きあがった。見ると真白な割烹着に“愛国婦人会”の襷をかけた大勢の婦人達が大きな握り飯を沢山作って待っていてくれたのだ。婦人達は明るい大きな声で「頑張ってくださ一い」と叫びながら大きな握り飯を1つずつ配ってくれる。私は1つ貰うと、素早くもう1つの手を出し、2つの握り飯に武者ぶりついた。
 鳴子駅に着くと駅に近い老舗旅館に泊る事にした。早速、妹達と駅で会った。妹達は比較的に元気だった。

 あの旅館は此処だったかも知れないと、私は湯に浸かりながら思った。あれは古い大きな木造建築で駅近くにあり、湯船は何十段となく階段を降りた下にあった。今は辺りに大きな木造建築の旅館が無くなっているが、泊っているこのホテルも湯殿に行くまでかなり下までエレベーターで降りて行くのである。私は近くの湯船に気持良さそうに浸かっている年配の人に聞いた。
 「この旅館はずっと前は木造で、湯船までは長い階段を降りて行ったのではなかったでしようか」
 「昔も大きな旅館だったようですね。でも、経営が何度も変わっているので従業員に昔の事を聞いても知らないと思いますね」と、男は手ぬぐいを頭に載せながら眠そうに答えた。

 翌日の朝、私は旅館を出て古い町並みを歩いた。あたりは温泉客の姿がチラホラと見えるだけで、町は時代の波に取り残されて落ちぶれた感じだった。JRの踏み切りを過ぎると下り坂になり、町並みに沿って道がウネウネと鳴子峡へと続いている。山脈の雪に朝日が当たって眩しかった。
 私達はあの時、何時までも旅館にいる訳にも行かないので、この町並みに沿った家の離れを借りる事にしたのである。

 私は70歳までは元気一杯、病気知らずだったが、71歳になってからは体の各所に次々と痛みが出て来た。一時は痛みの為に歩行も困難な時もあったが、治療の効果もあって近頃は小康を得ている。一説によると、日本人男性の平均寿命は、78才で、70才までは元気な生活が送られるが、70才から寿命の終る78才迄の間は体が衰弱して死に至る病気との共同生活になるのが普通だと言う。今はその時期に当たるので弱くなった体に文句は言えないのである。
 弱った足を労わりながら雪の坂道を降りる。記憶では借りていた家は街道から少し入った所にあって、裏は直ぐ崖になり中腹に鉄道線路が走っていた。8畳、4畳半に台所だけだったが、台地にあるために、部屋からは江合川が左から右へゆったりと流れ、川に平行してなだらかな山脈が続いているのが見えた。
 此処へ来た時は空襲で疲れきっていたので、戦争も知らぬげに悠然と横たわっている8月の青い山脈を見て思わずほっとしたものだった。
 父は仕事が出来なかったし、私は学校へ行くことも無く家族全員は何もする事なくぼんやりとしていた。ただ、母だけが僅かな配給の食糧を如何にして引き延ばして食べてゆくか格闘していた。
 7月の中旬、する事が無いので、戦災者に渡されている無料乗車券を利用して、家族全員で旧制中学の国語教師をしている叔父の住む尾道市に行く事にした。それには戦火の激しい表日本を通って行くよりも裏日本を通って行く方が安全だと考え北陸本線に決めた。
 列車が福井駅の手前に来た時、急に動かなくなった。しばらくたつと人の歩く速度より遅く動き出した。眼に映るのは朝日に照らされ、煙の立ち上がる一望千里、瓦礫の連なりである。焼け爛れた福井駅で乗客の乗降が終ると列車は再びノロノロと動きだした。貨物線や引っ込み線など線路が10数条走っている中をゆっくりと動く。私は4人掛けの座席の窓際に座っていて何ともなく外を見ていたが、ふと、線路のあちこちに死体がころがっているのに気が付いた。列車の乗客は満員に近かったが、死体を見ても誰もが諦めたような顔付きをして押し黙っている。不思議な静けさが車内を支配している。夏の太陽が中天に昇って熱線が客車の窓にも転がっている死体にも降りそそいでいた。
 すると、ノロノロと動く車体の直ぐ脇に死体が2つ転がっているのに気がついた。2体とも熱にあおられて衣服が燃えてなくなり蝋人形のような肌をしていた。大きな方の死体は体つきから若い女性と思える。うつむきになっているが、苦しかったのだろう、両手で地面をかきむしっている。小さい方は大きい方のすぐ傍で仰向けになり、小さな2つの拳を自分の運命を呪うかのように天に向けている。恐らく周囲を火に囲まれた若い母親が赤ん坊を抱きながら必死にここへ逃げ込んで来て、煙と炎の中で絶命したのだ。私は今まで戦災死した多くの死体を見てきた。しかし、この2体の死体だけは何故か脳裏から離れない。 60年たった今でも時折思い出すのである。

 現在、福井市役所が出している空襲の資料は次のようになっている。
 昭和20年7月19日の夜10時頃、B29戦略爆撃機120機の編隊が福井市に来襲、まず市の外周部に照明弾を投下、徐々に中心に向かって約9,500発の焼夷弾が市内に投下された。焼夷弾は全市を猛火で襲い、防空壕に避難していた人々は熱気で蒸焼きとなり、水を求め福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は折り重なって死んだ。福井市内は一面の焼け野原となり、全國最大の被災率と言われる 95%の市街焼失で壊滅した。

 尾道市は戦災に遭っていなかった。叔父の家は急坂をのぼった海の見える高台にあった。平屋建ての落ち着いた家で広い庭には夏蜜柑がたわわに実っていて、ささくれた神経を慰めてくれた。叔父の妻は、尾道の大きな畳問屋の娘で地元に顔が利くところからこの時期に珍しい牛肉を探してきて我々はすき焼をご馳走になった。すると箸をつけるかつけないうちに空襲警報が鳴った。外で警防団が「消灯」と叫んでいる。叔父は電灯に黒い布を被せたので僅かな明かりの中で押し黙って食べた。やがて、ズシン、ズシンと地響きが伝わってきた。庭に出てみると、尾道市街が消灯のために真っ黒になって横たわっている先の、湾の向こう側に紅蓮の炎があがっている。炎の上を巨大な煙の入道雲が昇ってゆくが、その中を幾つもの強い光がチカチカと耀いて落ちている。焼夷弾だ。今、その下に何千の人々が逃げ惑っているに相違ない。
 「糸崎市が燃えている、あそこには病人の友達がいる」と、息を呑みながら叔父が言った。

 3日ほど泊って帰る事になった。今度は空襲の危険度は表も裏も同じだと考えて表日本を廻って帰る事にした。列車は物凄い混みようでトイレの中迄すし詰だった。トイレヘ行きたい人は列車が駅に着くと駅の便所に押しかけるが、並んでいても列車の発車ベルが鳴ると客車の中から人が見ているのにも構わず、女も男も近くで用を済ませた。
 上野駅から東北線に乗ったが、超満員のために小牛田駅まで体を斜めにして人の重圧に耐えながらの旅だった。途中、顔色の悪い男が、隣に話しかけているのを、聞《ともなく聞いていると、先日の7月17日夜、日立市に米機動部隊が艦砲射撃を加えてきて自分が住んでいた家が燃えてしまった。これから親戚を頼って青森へ行くと言う。艦砲射撃の弾丸は爆弾の何十倍かの威力があり、突然、暗い海が明るくなると、何百と言う雷が一気に鳴り、大地が裂け耳が麻痺し、体が中に浮んだと言う。それは暗い海の彼方から何十となく紅蓮の炎を引きながら紙と木でできた町に殺到して来た。
 「ウチの犬の腰が抜けてしまいましたよ。私は女房と子供を引き寄せて震えていました」と、男が低い声で言った。
 「命があっただけ儲けものですね」と聞いている方が慰め顔で言った。
 それを聞いている私は私で、そうなったら、もう逃げられまいと思った。

 鳴子に帰ると私は疲れの為に食事もとらず24時間眠り続けた。元気を回復すると、1人で江合川へ出かけた。今でこそ、川に沿って国道が造られ重量トラックが排気ガスを撒き散らしながら疾駆しているが、当時は樹木と畑に囲まれ、水は太陽を反射してキラキラと耀いていた。渇水期なので深いところでも50センチ位しかない。私はパンツひとつになると冷たい水に潜った。水の中で眼を開くと、川底の石がまるで宝石のように光っている。あまりに水が澄んでいるので、川底に入道雲が絵模様のように映っている。私は腹を上にして水に浮んだ。誰もいなくて周囲は静まりかえっていた。山々にも畑にも微風がそよぎ、光が溢れていた。食べるものが少なくて腹の皮が背中に付く位に痩せていたが、私は何もかも忘れて豊かな自然につつまれている幸福感に浸った。

 鳴子町は江合川を挟んで両側に山脈が迫っているので、気流の関係で飛行機が飛べないので空襲はないと信じられてきた。しかし、7月末になると連日のように空襲警報が鳴った。ラジオの東部軍管区情報によると三陸沖に米機動部隊が出没していて、そこから艦載機が攻撃して来るのであった。艦載機なので爆弾は持っていないが、地上の人々をやたらに銃撃して来る。その度に我々は建物の陰に身を隠した。8月になったばかりの日、冬に備えて裏山で燃料にする木の枝を集めていると空襲警報が鳴った。眼下には江合川が左から右にキラキラと流れているのが見える。すると川の右手、川下の方から1機の艦載機が飛来してきた。それが左手の川上へ向かったかと思うと、アッと言う間に急旋回して両翼からロケット弾を発した。弾は2発で赤い尾を引きながら右手に斜めに走り爆発音がしたと思うと煙が上がった。すぐ後で知った事だが、そこは川の淵に作られた毒ガス工場で、この攻撃で働いていた日本人、朝鮮人の作業員35名が爆死した。今でこそ米軍機の目的を定めて爆撃するシステムが珍しくないが、60年前の事である。この正確に目的物を捉え破壊する能力には驚くとともに背筋が寒くなった。要するに、あの飛行機に狙われたら最後、逃げられないのである。

 8月7日の新聞は昨日、広島市に新型爆弾が投下されたと報じた。爆弾は極めて強力の上に強い光線を発するので火傷をするが、しかし、白いシャツさえ着ていれば火傷を免れて大した事はないと報じた。
 8月10日の新聞は、昨9日の午前10時にソ連軍の大軍が満州国との国境線を突破、破竹の勢いで侵人中と報じた。又、同じ9日午前11時には長崎市に新型爆弾が投下されたと報じた。
 もう終わりである。進退窮まった。

 8月15日、隣組の組長が来て、正午に重大放送があるので表通りの角の家に集まるようにと知らせてきた。正午近くになったので父と出かけてみると角の家がラジオを外に出していて、それを20人ばかりが囲んでいた。私は大人遠の後ろに立った。強烈な夏の日差しで眼が眩みそうである。気温は30度を越えていた。ラジオは、それまで艦載機が何処に来たとか、来つつあるとか、ひっきりなしに空襲情報を流していたが、ピタリと止まった。正午の時報の後に上調子のか細い声が聞こえてきた。「天皇陛下だ」と組長が言うと全員が頭を下げた。声が小さくて聞き取れ難いし何を言っているのか私には理解できなかった。その内に天皇の声が終ると、アナウンサーが興奮しながら声を張り挙げた。日本はポツダム宣言を受け入れて無条件で降伏した。しかしながら国体は保持された。日本は連合軍の膨大な物量に負けたのであって、精神で負けたのではない、精神では勝っていたが、物量で負けたのだと、何度も繰り返していた。ラジオを囲んでいた大人の1人が「天皇陛下が戦争を止める訳がない。それでは陛下の為に死んだ兵隊が浮かばれない。陛下の周りにいる卑怯な重臣どもが戦争を止めさせたのだ」と、吐き出すように言った。
 やがて散会して私達は借家に帰った。父は暑いので猿股1つになって窓際に寝た。風がなく、動かなくても汗がじっとりと浮んでくる。油蝉が狂ったように騒いている。、私は台所に座り込んでしまった。家主のラジオが依然として日本は物量に負けたのであって精神力では負けてない。日本の美しい国体は保持されたと叫んでいる。私はふと、窓際で上を向いて寝ている父の腹がペコペコと動いているのに気がついた。食べるものがなく胃が空になり、息をする度に腹の皮が背中にくっつかんばかりに上下に動くのである。私は面白がって動くのをしばらく見ていたが、やがて寝ているものとばかり思っていた父の目から涙が溢れ出てきて頬を流れた。

 あの家は何処だったろうか。私は鳴子峡のほうへ歩いて行った。旅館から借りた長靴が雪に埋まって歩きにくかった。しばらく行くと左側の角の家に見覚えがあった。この家のラジオで天皇の声を聞いたのである。たしか、この家を曲がった所に住んでいた家があった筈である。少し行くとそれらしい家が見つかった。あの頃は新築だったが今は古くなって空き家のようだった。その時、列車の来る音がした。裏山の中腹をディーゼル列車が繁みを掻き分けながらのぼって来た。あの当時はSLだった。私はあの頃、列車が来る度に庭先に出て飽きずにSLを眺めていたものだった。
 終戦から3日もすると軍隊を除隊した人達がSLに乗ってくるようになった。武装解除されて帯剣をはずされ、郷里に帰る旧兵士達には戦時中の緊張した感じがなかった。負けたとしても戦争の重圧から開放されたのである。風に吹かれながら2人の旧兵士がデッキに立っていた。丸腰になった兵隊服を、緑の風が軽くはためかせている。彼等は流れてゆく景色を懐かしそうに眼で追っていた。
 SLは黒煙を吐きながら急坂を力強くのぼって行く。完膚なきまでに叩かれて壊滅し、茫然自失の日本に、機関車の勢いよく吐き出す蒸気が私には”がんばれよ”、“日本よ”、“しっかりしろよ”、と、励ましているように聞こえた。

 旅館に帰って何となく窓辺に寄って山脈を見ていると、昨日、部屋に案内してくれた仲居さんが這入って来た。
 「思い出はどうでした、楽しかったですか」と、笑いながら聞いた。
 「日本が戦争に負けた時に鳴子にいたので、それを思い出しにね」
 「それで、わざわざ来たのですか」
 「そう」
仲居さんはテーブルの前に座って茶を入れながら意外そうな顔をした。


 川の向こうの山脈が夕暮れの静かな光りに包まれている。
 「君は鳴子生まれなの」
 「ええ」
 「終戦の直ぐ前の日に、ここの鳴子の工場で、アメリカ軍の爆撃で亡くなられた人達が大勢いたのを知っていますか」
仲居さんは一寸首をかしげて「聞いた事がないわ。私が生まれるずっと前の事でしょ。知っている筈がないわ」と言い「お客さん、夜の御食事は7時でよろしかったですね」と、念を押して忙しそうに部屋を出て行った。
 それも、そうである。60年前とは余りにも遠い昔である。昔の暗い話は忘れた方が良いのかも知れない。戦後の平和しか知らない人達にとっては、悲惨な日本の敗戦も、歴史書の散文的な記述の一節にしか過ぎなくなっているのかも知れない。
 私は日が落ちてすっかり黒くなった山脈を、しばらくの間ぼんやりと眺めていたが、気を取り直すと一風呂浴びてこようと思い、洗面所に乾かしておいたタオルを取って部屋を出た。


(了)

鳴子温泉にて

前の大戦の記憶が薄れつつある今、記録を残そうとする動きがあります。

私も大戦に身を置いた一人として、あの異次元とも思える日常を書き残したいと思いました。

鳴子温泉にて

第二次大戦下、戦火を逃れるために逃げ惑ったとある一家の実録です。

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2016-06-27

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