れんたる・しんどろーむ
Prolog だれかへ
拝啓、これを見ている誰かへ。
私に名前はありません。私に名前というものは存在しません。
私は、昔いじめられていました。親にもいじめられていました。
虐待、というものだったのでしょうか。
親は私を見捨てたし、学校の先生方も私のことを視界に映すことはありませんでした。
それでも私は、ある希望を持っていたのです。笑われるかもしれませんが、誰かに愛される資格というものが自分にもあるということを信じていたのです。それは柔らかな親からの慈愛であり、激しい他人からの熱情とも言えるものでした。
私にとってそれは、憧れでした。
安直でありながらも業火のように熱く、そして誰よりも優しいその愛情というものを誰かが私に抱いてくれると思っていたのです。
だから私は、信じて待ち続けました。
そして耐え切れないと思ったある日、私は見つけました。私を愛してくれる彼の姿を。
だから私は彼とここにいるのです。
空調が効いたこのレンタル倉庫の中に、私はいるのです。
これは私が望んでいるものなのです。
だからどうか。お願いします。私から彼を奪わないでください。
それだけが私の望みです。
名前の無い子より。
第一話 その子と
夏が進んでいって、あまりにも暑くて生きるのが億劫になったときに僕はそこに行く。レンタル倉庫、というやつだ。僕にとってそこは桃源郷以上の意味を持っていて、そしてその意味というのは明らかに煩わしいものでありながら胃の奥に鈍重な痛みを与えるものだった。それもそのはず。そのレンタル倉庫には、僕の罪が詰まっているのだ。
僕は大学の二回生で、現在親と一緒に生活をしている。大学へはまともにいっていない。元より大学に行く気はなかったのだが、親に言われて現在はそこに通っていた。どうしてそんなに僕がそこを嫌いなのかというと、視線が怖いのだ。他人の視線を感じると僕はどうしても動けなくなってしまう。だから他人の目の届かないところで生活をしていた。大学内では受講人数の少ないものを選び、そしてバイトも他人の目を感じないで済むライター業などをやって稼いでいた。意外と文字を仕事にするのは罪悪感が無く、小説家志望の一介の男であった僕にとっては向いている職業なのかもしれないと思うのだ。長時間パソコンに向かっていても僕にとってはなんら苦痛ではなかった。
実生活でもパソコンの中でも、僕は居場所がないのだけれども。居場所がないとどうしようもない。居場所がなければ何もできない。そんなことを僕は知っていたけれど、それでも僕は、なんとか20になるまで生活を続けていた。
レンタル倉庫のドアに手をかける。その中にあるものを僕はわかりきっていて、そしてそれは何よりも辛い罪の証だということを知っていた。罪の証でありながらも、それと同時にそれは僕の救いでもあった。救いであると同時に、巣食われているのかもしれないけれど、それは確かにすくいだったのだ。
ごくりと生唾を飲みながら僕はドアを開ける。
そこにあるのは、真っ白くて大きなクッションと、真っ白いふわふわのラグ。本棚にはつまらなさそうな本――ただしそれは、僕の蔵書だった――が置かれており、そして小さなちゃぶ台のような机がひとつだった。その机の上には食べかけのパンと飲みかけのココアが放置されていて、本棚に入りきらなかったらしい本がたくさん散らばっている。それは、ひとつの部屋のような様相をなしている。
本来のレンタル倉庫の使い方とは違うだろう。しかし僕は、そうせねばならない理由があった。
白いクッションに埋もれるように眠っていた子供が目を覚ます。真っ白い髪の毛をした子だった。ばさばさの髪の毛をして、しばらく風呂に入っていないせいかその髪の毛は油っぽい。それでいながらも服は毎日替えているのか、服だけは綺麗だった。部屋の隅に積まれた服の山はここに一週間程度僕が着ていないことを象徴しているようだ。
彼女の名前は、ななこという。もちろん偽名だ。名前の無い子だから、ななこ。僕がつけたセンスのない名前だった。
僕がレンタル倉庫にいれて、大切に保管しているのは、ななこだった。
激しいストレスからか真っ白くなってしまった髪の毛は腰まで伸びていて、そしてのんびりと伸ばされた手足は緩やかな形を保っている。しかし身体にはケロイド状の火傷が何箇所か残っていて、打撲痕が見られる。
彼女は虐待されていたらしい、ということしか僕は知らない。ななこも、世界に居場所のない子供だった。
「おはよう、ななこ」
「あら、おはよう」
彼女の声はしわがれていて、あまり空調を効かせるなといっているのに効かせていたのだろうということが見て取れた。彼女の悪いところは、そういうところなのだと溜息をつきながら僕は彼女のことを見つめる。彼女はのんびりと身体を起こして、真っ白いテーブルに置かれたココアをこくこくと飲んでいた。
「卿も疲れたから私に会いに来たの?」
「うん、そうだよ。はい。頼まれてたもの」
僕はそっとななこに便箋とボールペンを渡す。彼女は文字を書くのが好きだった。
小さく欠伸をしながらそれを受け取ったななこは、ゆっくりと僕を見つめた。その黒い瞳は黒曜石よりも深い。いつか高校の頃、映画で見た宇宙の姿を思い出す。宇宙は彼女の目のように深い色をしていたけれど、彼女の目には光がなかった。宇宙と彼女の接点はそんなものだ。彼女はいつも少しだけ疲れきった目をしていて、それが少女に老成した雰囲気を与えていた。ななこは、魔女のような少女だった。
ななこが、僕から目を外す。僕は慌てて言葉を紡いだ。
「今日もとても疲れたんだ」
「そう。それは、大変ね」
僕のおいて行ったつまらない本を見ながらななこが言う。ななこにとって僕の生活なんて興味がないだろうけど、それでも今僕はななこを扶養していて、そしてななこを僕はこう見えて愛しているからななこはこうして逃げずにレンタル倉庫の中にいてくれるのだと、そんなくだらない幻想について考えた。
「ななこ、あのね」
「はい」
「……すごく、すごく、疲れたんだ」
レンタル倉庫に上がり込んでうつむいてそう言う僕に、ななこが呆れたように視線を向けたのがわかった。いつだってななこは情けない僕に呆れている。それが時々、少しだけ辛くなるのだ。ななこは僕よりずっと年若いくせに、ぼくよりずっと聡明で、きっと僕の悩みなんて些細なことなのだろう。
それでも僕は彼女に頼ることをやめられなかった。彼女の指の暖かさを知っているのだ。
「ねえ、あなた」
「どうしたの?ななこ」
「お風呂に入りたい」
ななこの声はとても柔らかかった。そのわがままは、ひどく愛しかった。
れんたる・しんどろーむ