後後の不幸と今の息苦しさを天秤にかけて、どちらを取るか考えたら、答えは明白で私は今の息苦しさから逃げ出すことを選ぶだろう。
後でどんなに苦しむことになっても、両親にも周りにも迷惑をかけても、私は自分が嫌だ。自分が変わるためなら、刃物を持った人がいれば嬉嬉として近づいていくし、頭から硝酸をかけてくれる人がいたならその人に菓子折を持ってお礼に行く。死にたいと常に機会を伺っているようで、実際は自分で命を絶つ勇気なんて毛頭持っていない。
自傷癖と聞けば人はこぞって笑い出すだろうし、私が自傷行為に走っていると聞けば同情し本音のわからない言葉で私を囲もうとするだろう。そういう人は大抵何故自傷行為そのものを悪と捉えるのかと聞いても答えることは出来ないし、あなたの為だという自己満足のための理論を押し付けてくる。

常常私は玉子を飼っていると思う。食べるためのものかもしれないし、食べられるためのものかもしれないから「玉子」なのだ。玉子は日々成長していく。感情が動く度に玉子は動き、玉子にひびが入る前に私は自分の体にひび割れを見る。

私は毎日学校に通っている。毎日というが、学校がない日は行かないし、気乗りしないと感じれば無理やりには行かない。それを5年間続けてきた。5年間続いてるそれは地下鉄通学をやめて自転車を持ち出してきたところで劇的な変化が起こる訳では無い。見てるのはいつも同じもので、というよりは何かを見ているという感覚は持ち合わせていない。
私は時間を守ることは得意だけれど、いつも同じ時間に行動する事は極めて苦手で、家を出る時間は朝6時から8時の間とまちまちだ。時間が定まっていなければいつもの風景は薄まったものになる。薄まった風景には気負いがない。もっとも、私がいつも違う時間に家を出るのは朝が苦手だからなのだが。
学校は嫌いではない。朝目が覚めて布団を蹴飛ばし、学校に向かうまでは憂鬱で、台風の直撃を祈ったり学校に行かなくていい理由を探したりするが、学校に着いてしまえばそんなことは意味を持たない。というよりは、学校に着いてしまいさえすればそんなことはどうでも良くなる。
友達はたくさんいるし、自分は人に好かれる方だと自惚れでなく思う。人に好意を向けられるのは素直に気持ちいいことで、私を自己陶酔させてくれる。だが、私が好きな人というのは困ったことに今まで1人もいないのだ。異性に告白されてなんとなく付き合ったことはあっても、自分から好きになったことはない。同性からは何故だか相談話を持ちかけられ、表面上は親身に相談に乗り、これ以上ないであろう答えを相手の手の届く範囲に運んでやる。そんな相談事は私にとっては興味もなく、どうでもいいとしか言いようのないことだ。そんなものでも、そんな人でも、私の一言で行動を起こし、態度を翻して熱心に忠実に実行に移そうとする。私にはそれが面白くて仕方ないし、それを見るために自分の時間を割く。相談に乗るという行為は私の娯楽の時間なのかもしれない。
歪んだ心。私にはそんなものはない、これが私の芯の通った本質であるからだ。これが私の生活の軸となり、満ち足りた生活の糧となる。
ただ、たまには転生のことを考えたりもするのだが。

生きている中の排泄物なんです。

自分が生活する中で、学校生活の中で、勉強をする中で、人に頼られる中で、嫌悪感と自己陶酔に浸る中で。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-26

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