呪いのピノキオ人形
仕事を終えたKさんがアパートに帰宅すると、部屋の真ん中に置いたコタツ机の上に、ボロボロの人形が座っているのを見つけた。外国製の女の子の人形だという事はかろうじて分かったが、その人形の黒ずんだ顔からは女の子らしさは欠片も感じられない。髪の毛はボサボサで、ところどころにハゲが見られる。服は色褪せ、布が傷み、至る所で糸のほつれや破れが見られた。
見た事もない不気味な人形が机の上に静かに座っていたので、Kさんは驚いて顔を引きつらせた。
今朝、仕事に出かけた時はこんな人形はなかった。部屋の鍵はちゃんと締めた。いったいいつ、誰がどうやって、何の為にこんな気持ちの悪い人形を机の上に置いたのだろう?
その人形はくすんで透明感が無くなったビー玉のような眼玉でじっとKさんを見ていた。なんだか本当に見られているような気がして、Kさんはぞっと身震いした。
Kさんは恐る恐る人形を摘み上げゴミ袋に放り込むと、すぐにアパートの共用ゴミ捨て場に持って行った。誰がこんなものを部屋に置いたのか気になったが、そんな事よりも早く人形を捨ててしまいたかった。
翌朝、Kさんは目覚めるなり、大きな声をあげた。昨日、捨てたはずの人形がまた机の上に座り、じっとKさんの方を見つめていたからだ。Kさんはすぐに人形を捨てたが、次の日、人形はまたもKさんの机の上に戻ってきた。何度繰り返しても同じだった。
何が何だか分からないが捨てても無駄らしい、とKさんは理解し、誰かに譲ればいいんじゃないかと考えた。しかし、こんなボロボロの人形をいったい誰が欲しがるだろう……? 家族や友人なら、もしかしたら事情を話せば預かってくれるかもしれない。しかし、親しい人にこんな気味の悪い人形を押し付けるのは胸が痛む。誰に譲ればいいか、Kさんは頭をひねった。
「この人形、今はボロボロですけど、有名なデザイナーが作った人形だから値打ちがあるんです。貴方には以前、仕事で世話になりましたよね? その御礼にこの人形とワインをプレゼントしたいんです」
Kさんは以前、同じ部署で働いたいけ好かない上司を食事に誘い、高価なワインと人形を見せて言った。無理難題を押し付けてKさんを苦しめた上司だから、呪いの人形を押し付けても特に胸は痛まない。上司はワインが好きだから、ワインと一緒に人形も受け取ってくれるはずだ。
「ワインだけ貰いたいんだけどな……」
怪しむ上司に対して、Kさんは必死に笑顔を作った。
「本当に価値のある人形なんですよ? 受け取らないときっと後悔します」
上司は仕方ないな、と言ってワインと人形を受け取った。Kさんは心の中でガッツポーズをとった。
しかし、次の日、人形はまたもKさんの机の上に戻ってきた。Kさんは落胆した。その後も何度か知人に人形を押し付けたが、結果は同じだった。何度捨てても、何度他人に譲っても人形はKさんの元に戻ってくる。
Kさんはがっくり項垂れながら、恨むような目で机の上に座る人形を見つめた。ふと、Kさんは人形の鼻が以前よりも長く、尖っている事に気づいた。いつの間にこんな風になったのだろう? 最初からこうだったか? いや、違う。最初はこうではなかったはずだ。
人形はじっとKさんを見つめ、鋭く尖った鼻先はKさんの心臓に向けられていた。なんだか薄気味悪いものを感じて、Kさんは掴み、壁の方を向かせた。人形に見つめられるのは気味が悪かった。
人形の向きを変えた後、Kさんがトイレを済まし、リビングに戻って来た時だ。Kさんは飛び上がるほどの衝撃を受けた。壁の方を見ているはずの人形が、いつの間にか向きを変え、トイレから出てきたKさんを見つめていたからだ。
Kさんは恐怖で震えながらもそっと人形を掴み、また向きを変えた。しかし、ふと目を離すと人形は再び勝手に向きを変えて、Kさんの方を向いていた。何度繰り返しても、人形はいつの間にか勝手に向きを変えてKさんの方を向く。意味がさっぱり分からないが、この人形は常にKさんの方を向き、鋭くとがった鼻先をKさんの心臓に向けるようになっているらしい。
いよいよ気味が悪くなったKさんは、人形を燃やす事にした。なんだか呪われそうな気がして、今まで燃やすことは出来なかったが、もうそんな事も言ってられない。Kさんは空き地でたき火を燃やして、そこに人形を放り込んだ。人形は黒く焼け焦げていき、やがて燃え尽き、灰になった。しかし、灰になったはずの人形は翌朝、何事もなかったかのような元のボロボロの姿でKさんの元に戻ってきた。Kさんはまたも頭を抱えた。
「この人形はアルベール王朝のロルローシュ家の末裔、スカンジナビア・ロルローシュが娘のキャサリン・ロルローシュの7歳の誕生日に贈った人形でして、とても価値のある一品なんですよ。ま……、ご存知の通り、ロルローシュ家は原因不明の大火事で一家全員が死に絶えてしまい、この人形も燃えてボロボロになってしまいましたがね……」
Kさんは快活に笑いながら、家で何度も練習してきた台詞を言った。人形コレクターの男は胡散臭そうな目をKさんと人形に交互に向けた。
ボロボロな上に、容姿も酷い人形だとコレクターは思った。特に不細工なのは鼻だ。人形の鼻はあまりにも長く、ナイフのように鋭く尖っている。残酷趣味を持つ人形師が作ったピノキオ人形のようだとコレクターは思った。
Kさんが、週刊誌の特集で人形コレクターの男の事を知ったのは二週間前の事。雑誌の編集部に電話し、コレクターの連絡先を何とか聞きだし、買って欲しい人形があるから会いたいと、半ば強引に約束を取り付けた。
コレクターの男の背後には頑丈そうなガラスケースがいくつも並んでおり、中には色とりどりの優雅で美しい人形が保管されていた。
「証明書はあるんですかね?」
コレクターはKさんを訝しげに眺め、苛立たし気に机を指先でトントンとつつきながら言った。
「証明書?」
コレクターが何を言っているのか分からなくて、Kさんは首を傾げた。
「この人形は間違いなくロルローシュ家の人形であるという証明書ですよ」
「そんなものがあるんですか?」
「あるかと聞いているのは私ですよ! 証明できなかったらこんなボロボロの人形、絶対に引き取りませんからね! この人形がロルローシュ家の人形であると証明できるものはないんですか!?」
Kさんは青い顔になって下を向いた。そんなもの、あるわけがない。何故なら、Kさんの話は全てコレクターを騙す為の嘘っぱちだからだ。しかし、正直に「証明書なんてない」と言うわけにもいかない。この人形は絶対にこの男に引き取って貰わなければならない。この恐ろしい人形から早く逃れなければ、Kさんは近い内に気が狂ってしまうだろう。
「すみません。証明書は家に忘れてきました。今度郵送しますので、とりあえず引き取って下さい」
「そうですか。今、証明書が用意できないのであれば、この人形を引き取るわけにはいけません。郵送はしなくても結構。今度また日を改めて、証明書と一緒にこの人形を持ってきて下さい」
淡々と話すコレクターの腕をKさんは突然掴んだ。コレクターはぎょっとした。
「思い出しました。証明書は車に乗せています。取ってきます」
Kさんが目を血走らせながら必死の形相でそう言うので、コレクターは何も言えず、ただ頷いた。
「これは以前、親戚の鑑定士に人形を鑑定して貰った時に書いて貰った証明書です。どうぞ、ご覧になって下さい」
コレクターはKさんが車から持ってきた証明書に目を落とした。
手書きの証明書だった。A4の紙の真ん中に『この人形は間違いなく、スカンジナビア・ロルローシュが娘のキャサリン・ロルローシュの7歳の誕生日に贈った人形です』とボールペンで書かれている。下手糞な文字だった。文字の隣にKさんの名字の印鑑が押されていた。コレクターは呆れて口をあんぐり開けた。
「……あ、あんた、これを私に本気で信じろと」
「鑑定士は私の親戚です。ですから、私と同じ名字の印鑑が押されているんですよ」
「いや……、これ……、どう考えてもあんたが今さっき車の中で書いた――――」
コレクターが言い終わる前に、Kさんがまたもコレクターの腕を掴んだ。今度はさっきよりもずっと強い力だ。Kさんの目は血走り、赤く充血していたが、それとは対照的に肌は青ざめていて生気がなかった。Kさんのあまりに必死な形相に、コレクターは恐怖で息を飲んだ。
「こ、コレクターさん……」
「は、はい……」
「に、人形を受け取って頂きたい……。何なら私がお金を払う……。コレクターさんは一円も払わなくていい。コレクターさんのい、家で……、この人形を厳重に大切に厳重に注意深く厳重に厳重に厳重に厳重に保管して頂きたいのです……」
強く腕を掴んだまま、コレクターに顔を寄せて、Kさんは一息にそう言った。コレクターには首を横に振る勇気はなかった。
コレクターが人形を頑丈なガラスケースに保管し、鍵を閉じたのを見た後、Kさんはウキウキ気分で帰宅した。
これであの人形はうちには帰って来れない。何度捨てても帰ってきたが、何度誰かに譲っても帰ってきたが、何度燃やしても帰って来たが……、あの人形コレクターならきっと……、あの人形コレクターの頑丈なガラスケースならきっと……、あの呪いの人形を閉じ込めといてくれるに違いない……。
「ふふふ……うへへへ……」
Kさんは気味の悪い含み笑いを零した後、ベッドに横になり、ホッと息を吐いた。人形が家に来てからというもの、不安と恐怖で毎晩眠れない日々が続いていた。あまりの恐怖で最近は性格まで少し変わってしまった気がする。しかし、今夜は久しぶりに安心して眠れる気がした。Kさんは目を閉じ、夢の世界へ落ちて行った。
後日、Kさんの隣の住民から警察に通報があった。Kさんの部屋に乗り込んだ警官は、ベッドの上で横たわるKさんの死体を発見した。死因は出血性ショック死。Kさんの胸には鋭利で細い何かが刺さったような跡が残っていた。警察は徹底的に捜査したが、Kさんの胸を刺した凶器は見つからなかった。
また、Kさんを死ぬまで悩ませた人形は、影も形も消え失せ、どこにも見つからなかったという。
「どう考えてもこの人形だよな……」
Yさんはパソコンの画面と、机の上に座っているボロボロの人形を見比べ、青ざめた顔で呟いた。
昨日、会社からマンションに帰宅すると、見た事もないボロボロのフランス人形が机の上に座っていた。気味悪く思いながら、ゴミ袋に人形を放り込んで捨てたが、翌朝、人形はまたも机の上に座っていた。
捨てても戻ってくる人形の話、どこかで聞いた事がある。パソコンを立ち上げ、ネットを探し始めたのが一時間ほど前。Kさんという男が人形を捨てたり燃やしたり他人に押し付けたりしたが、結局人形から逃れられず、死んでしまったという話を始め、ボロボロの人形にまつわる話をいくつか見つけたのは、ついさっきの事だ。
何とかしてこの人形から逃れないと、俺も殺されてしまう……。Yさんは人形をしばらくじっと見つめた後、パソコンの画面に向き直り、人形にまつわる話を深く読み込んでいった。
数時間後、ネットを検索して分かった呪いの人形にまつわる『ルール』について、Yさんは紙に箇条書きにした。
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① その人形は常に持ち主の方を向く。
②-1 持ち主が嘘をつくと人形の鼻が少しずつ伸びていく。
②-2 人形の鼻が限度を超えて長くなると、持ち主の心臓に刺さり、持ち主は死亡する。
②-3 しばらく嘘をつかなければ、人形の鼻は少しずつ縮んでいく。
④-1 人形を誰かに快く受け取って貰えたら、人形を受け取った人物が新しい持ち主になる。
④-2 ただし、人形を譲る際、人形がどんな物か正直に説明しなければならない。
④-3 嘘をついて相手に受け取らせた場合、持ち主は入れ替わらない。
④-4 相手が人形を渋々受け取った場合も、持ち主は入れ替わらない。
⑤ 人形を捨てたり売ったり燃やしたりしても、人形は絶対に持ち主の元に戻ってくる。
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Yさんは紙を眺めながら、どうすれば呪いの人形から逃れられるか考えた。
呪いの人形を呪いの人形と分かった上で、快く受け取ってくれる人物を探さなくてはならない。果たして、そんな奇特な人間はいるだろうか。嘘をつくと殺しにかかる、この恐ろしい人形を欲しがる人間なんて――――
Yさんはハッと顔を上げた。大学時代の友人S。彼は確かオカルトマニアだった。彼の家に遊びに行った時、グリモワールとかいう中世の怪しげな呪術の本や、アフリカかどこかの原住民が儀式に用いるボロワムとかいう謎の骨を見せられた。Sは他にも種々雑多な謎のアイテムを楽しそうに見せびらかしてきた。大学を卒業してから会っていないが、彼がまだオカルトマニアであるなら、呪いの人形も欲しがるかもしれない。
後日、YさんはSさんを食事に誘って、呪いの人形について正直に説明した。説明を聞き終えたSさんの顔はキラキラ輝いており、今すぐにでもその人形に会いたいと言った。YさんはSさんを家へと案内し、人形を見せた。人形の不気味な外見にSさんの興奮はさらに高まり、Yさんに人形を譲ってくれと懇願した。
「でも、大丈夫か? 下手すりゃ殺されるかもしれないんだぞ? ……そりゃ、俺としては受け取ってくれたら有り難いけどさ。お前が死んだら寝覚めが悪いよ」
心配そうなYさんに、Sさんは胸をドンと叩いて、自信満々な笑みを見せた。
「心配するな。僕は嘘をつかない人間だ。それに、この女の子との上手い付き合い方だってすでに思いついてるんだ」
Sさんは人形を抱きかかえて、薄汚れた人形の頬にキスをした。
よく女の子だって分かったな……、とYさんは思った。あまりにもボロボロで薄汚れていて、性別すら判別し難い状態だったのだ。
YさんがSさんに人形を譲って以降、人形はYさんの家に戻ってくることはなくなった。呪いから逃れて安堵したのも束の間、YさんはSさんに対して罪悪感を抱くようになった。あの人形は持ち主を殺す恐ろしい人形、そんなものを友人に押し付けてしまって、本当に良かったのだろうか。とはいえ……、誰かに譲らなければ自分が死んでしまうのだから、仕方のない事だったが……。
罪悪感で悶々とした日々を過ごしていたある日、Yさんの元に「人形を見せたいから僕の家に来てくれ」とSさんから電話が入った。
Sさんのマンションに入ってすぐに、Yさんは呪いの人形が部屋のどこにもない事に気づいた。
「誰かに譲ったんだな……。良かった。安心したよ」
「譲ってないよ。譲るわけないだろ、あんないい人形」
Sさんは部屋の角に置かれた棚を指差した。棚の上には、綺麗なドレスを身にまとった可愛らしい女の子の人形が座っていた。
「え? あれがあの人形?」
「そうだよ」
Yさんは口をポカンと開けて驚いた。性別すら分からないほどボロボロだったあの人形が……、嘘のようだ。
薄汚れて透明感を失っていた肌は、きめ細かで真っ白な陶器のような肌へと変化し、黒く変色したビー玉のようだった目玉は、海のような神秘的で美しい瞳へと変貌していた。
変化していたのは顔だけではない。ボサボサでところどころ抜けてしまっていた髪は、流れるようなしなやかな髪に変わり、ボロボロだった衣装はきめ細やかな布の美しいドレスへと変わっていた。ドレスには可愛らしいフリルがあしらわれており、胸元には大きなリボンが飾り付けられ、人形の美しい顔を引き立てていた。
「50万くらい使って、人形を綺麗にしたんだよ」
Yさんは驚いた顔で人形とSさんの顔を交互に見た。
ふと、気づいた。人形の鼻が少しも伸びていない。Sさんは本当に人形と上手く付き合えているようだ。
「……で、でも、どうして、人形を綺麗にしてやったんだ? 何の為に50万も使って……」
「教えてやるよ。着いて来い」
Sさんは人形を大切に抱きかかえ、部屋から出て行った。Yさんは慌ててSさんの後を追った。
Sさんが向かった先は質屋だった。Sさんは質屋の主人に人形について説明した。50万かけて綺麗にした人形である事は勿論、嘘を吐いた人を殺す呪いの人形である事も正直に説明した。ただし、人形を捨てても持ち主の元に戻ってくるという話だけは、Sさんはしなかった。
「この人形を担保にして金を貸して欲しいんだ。……そうだな、2万円ほど」
呪いの話を聞いて、明らかに渋い顔をしていた主人だったが、2万円と聞いてちらりとSさんに目を向けた。
「お客さん、50万の人形を2万円で?」
「この人形の呪いは本物だからね。そんなに多く借りられるとは僕も思っちゃいない」
呪いの話のインパクトが大きかったのか、主人は不安そうにしていたが、人形があまりに綺麗な事と、2万円という安さに魅かれて、主人はSさんに金を貸す事にした。
「商品の預かり期間は3か月です。3か月以内に2万円+金利分を返済頂ければこの人形はお返しします。3か月過ぎても返済頂けない場合は、この人形はこちらで引き取らせて頂きます。取り立ては一切しませんのでご安心を」
主人は契約内容を説明しながら、Sさんに契約書を差し出した。Sさんは契約書にサインし、主人に人形を差し出した。
「大切に扱ってくれよな」
「分かっています」
Sさんは2万円を受け取り、Yさんと共に質屋を後にした。二人が店を去った後、主人は人形を店の金庫にしまった。
翌朝、Sさんの手元に人形が戻ってきた。Sさんは質屋から借りた2万円で買ったクッションにもたれ掛かりながら、Yさんに向けて勝ち誇ったようにニヤリと笑った。嘘を吐かず、何も失わず、Sさんはタダで2万円を手に入れたのだ。
なるほど、よく考えたもんだ、とんでもない奴だな……。とYさんは引きつった笑みを浮かべてSさんを見た。
「……その人形に上手い使い方があるのは分かった。だけどそれでも、いつ殺されるか分からないその人形と一緒に暮らすのは、ストレスなように思うんだが、お前は何ともないのか……? 俺だったら絶対無理だ。気味が悪い」
Sさんは人形を抱きかかえながら快活に笑った。
「いつも僕だけを見てくれて、僕の為にお金を稼いでくれる女の子を不気味に思う理由なんてどこにある?」
そう言って、Sさんは人形の頬にキスをした。一瞬、人形がかすかに微笑んだような気がして、Yさんは目を瞬かせた。
呪いのピノキオ人形