鉄仮面

鉄仮面

 カール・グスタフ・ユングは分析心理学を創始した人物である。僕たち人間は生きていく上で各々、お父さんとお母さんの前での子供と言う顔、学校での先生や友達に対しての生徒としての顔、サッカー部では先輩や後輩と言う部活での顔といった、意識しているか、意識していないに関わらずその地位や役割や場面に対応して態度や表情、行動を変えていくという事だ。つまりその時、その時で自分自身が役割を演じて対処しているわけらしい。
 ユングはこの人間の外的側面をペルソナと呼んだ。ペルソナという言葉は元々、古代ローマの古典劇において役者が顔にはめていた仮面。僕たちはこの仮面をはめて、この日常を生活しているとの事だ。
 何故、僕がこの心理学者について知っているかと疑問に思うかい?別に僕は心理学に熱を上げる様な人間でもないし、小難しい学者が説いた事柄にも察して興味はない。けれども図書館から本を借りて読んだのさ、そうだ、読まなければならなかった。僕は今年、高校二年生になった。新しいクラスになり、早くも三か月が去ったが僕は初めて二階の教室に入ってある人を見た時から不思議な疑問と畏怖の念を抱いた。僕は今日の今日までこの狭い席で平然を装っているが内心は何時もその人を見ては、脳髄の奥から赤いランプがクルクルと回転し、警告を促すのだ。僕が座っている前から二番目の席から一番後ろに座る髪の毛が黒いショートカットの女の子を見た。芹沢さんだ。僕は彼女を見ると額から冷たい汗が流れてくる。何故ならば。
 芹沢さんは鉄の仮面をはめているからだ。
 彼女の顔にはスベスベとして硬そうな黒金は光沢もなく無表情ではめられている。目や口の切り取られた部分はあるが、その奥は闇であり一寸の光の介入さえも許さないほど黒く、どの様な瞳や唇をしているのか僕には分からなかった。刃物でえぐられたかの様に見える口元も頬に向かって少しは上がっているが、それは笑みを浮かべていると受け取っていいのか?この教室で初めて芹沢さんを見た時から彼女はこの鉄の仮面をはめている。僕はこの奇妙な彼女の顔に最初は何か病気的な意味や怪我の事故の影響で鉄の仮面をはめなければ、ならないのであろうと、自分自身でその様に解釈をしたのだが実際は違うのだ。
 どうやら僕以外の生徒や先生、後輩は彼女の顔に鉄の仮面がはめていない様に見えていて、つまりだ、芹沢さんの顔に鉄の仮面がはめて見えているのはこの僕だけなのだ。その事が分かった事はこの理由からだ。
「芹沢さんってあの芸能人に似てない?とっても品がある顔よねー」
「お前、最近チラチラと芹沢さんを見てるけど、まぁ気持ちはわかる!可愛いからな!だが辞めとけ!芹沢さんはあのイケメン先輩を振ったと聞いた、お前じゃだめだな」
「ん?どうした芹沢?少し顔が青白いぞ?保健委員、芹沢を保健室まで連れて行ってやれ」
「生徒会役員に入ったら?芹沢さん?頭もいいし、優しいし、顔も可愛いし、内の学校の行事に花が増えると思うの?どうかしら芹沢さん、今年やってみない?」
 僕はこの三か月の間ひっそりとして彼女の周りを観察していた。もちろん最初は友人たちに彼女の鉄の仮面について話そうと思ったが、この状況から判断すると僕がキチガイの扱いを受けると考えてしまい、とうとう、誰にも相談が出来ず現在に至ったわけだ。だから図書館に出向いて調べたのだ。もしかすると芹沢さんの事が分かるかもしれないってね。そうして一番近いと僕が思った事がユングが提唱しているペルソナなのだ。彼女は何かしら、つくろっているのだ、自分自身を、そして何故かこの僕、たった一人だけが彼女の一面を常に見えているのではないか?そう言ったふうに僕は答えらしきものを出した。
 鉄仮面。
 僕はもう一度軽く振り向いて芹沢さんを見た。彼女の素顔よりも、どうしてその顔に鉄の仮面をはめる事となった理由を僕は知りたくなってきた。湧き上がってくる好奇心を段々と抑えられなくなりつつ、授業の終了を表すチャイムが黒板の上にある四角い箱から流れた。
 七月初期、クラスの女の子の一人が夏休みに入る前にこの教室でクラスの全員で出し物をしあって交流会をやろうではないかと企画の声を上げた。意外にもクラスのほとんどがその女の子の企画に対して了解する絶品の声を上げた。僕は正直どちらでも良かったのだが、この時、ある胸の鼓動が高鳴る事を思いついた。僕もその交流会で出し物を行うと考えたのだ。僕はその思いついた事柄をA4のプリントにスラスラと文字を羅列させて教員のいるコピー機で39枚程を印刷した後、クラス全員にそれを配布した。その内容を見たクラスの女の子の一人は僕に言う。
「貴方の心を分析します!だって?何これ面白そう!えっ、此処に書いてある質問に対して記入するだけで良いの?そしたらクラスの交流会の時に別の教室で分析した結果を教えてあげる?いいよ!楽しそうだから、今すぐに記入してあげるね!」
 このプリントの内容を読んだクラスの女の子や友人たちは、ワイワイとはしゃぎ、僕の配ったプリントにアンケートを答える様にしてシャープペンを動かしていた。そして、その中には芹沢さんもいた。
 僕はその場でプリントを受け取ってまわり、書き終えたらしい芹沢さんの手からもプリントの紙を今まで集めてきた紙の上に重ねた。
 その後家に帰り、僕の散らかった机の上でクラスの回答した内容を黙読して紙をペラペラとめくっていると芹沢さんの書いたプリントに目がとまった。と、内容を読むと僕はその書かれた文字を追う事に自分の想像していた事よりも酷く、あの鉄の仮面はやはりそれだけの理由があると確信する次第であった。
 アブラゼミが青々した木目にしがみついて鳴いている七月初期が来た。クラスの交流会は金曜日の夕方、授業が終了した一時間後に行われた。各自、炭酸飲料や砂糖水や菓子、団子を準備して机を端に移動させて椅子だけを自分の座る場所に設置して出し物をする友人たちを囲んで笑いながら見張っている。その女の子の中心の席に芹沢さんは座っていて、僕も後ろの方からその出し物を見て愉快に笑っていたが、そろそろ具合の良い時間だろう。僕はクラスの全員に目が留まる椅子を囲んでいる中心に進み話した。五分程度の間隔で隣の教室に呼ぶので来てくれと語り、まず初めに出し物が終わった女の子を指名して教室を出た。
 隣の教室は空き教室で中はスッカラカンだ。その教室の真ん中に僕ようの椅子と僕の話を聞く椅子が対面して置いてある。まぁ僕が適当に置いたんだけどね。僕は空き教室に女の子を招いて椅子に座らせて解答して貰ったプリントの内容を読みながら言った。
 赤は何を感じますか?リンゴかな、青は何を感じますか?海かな、チョコレートはどうですか?甘くて美味しい、ヒマワリはどうですか?黄色い、夜はどうですか?眠くなる。僕はこの様な感じでプリントの内容を読み上げて僕の意見を述べた。
 この事から君は最近、部活の先輩と上手くいってないね、君の性格が少しだけ短気のせいなのかもしれない。そうした事を続けて言うと女の子は「そうだよ!凄い!全部あたってるよ!」と驚いた声で言い次の生徒を呼びに行った。
 こうした事を繰り返し行っていると空き教室のドアの前にあの子が立った。ドアの窓ガラスからすぐに分かる。スベスベとして冷たそうな黒鉄の仮面。何度見てもその顔からは、仮面が外される事はなく怖さで僕を威圧する。そして僕の背中に一筋の汗がスゥッと垂れるのだ。
 僕は調子の良い声でお入り下さい。と述べて、鉄仮面の芹沢が一言も言わず白くて細い足を伸ばして教室に入って来た。そうした後、僕の正面に彼女は座った。
 僕は高鳴る鼓動を鳴らしプリントを読みながら芹沢さんに言う。
 赤は何を感じますか?イチゴののど飴、青は何を感じますか?病人の皮膚、チョコレートはどうですか?魚のサンバ、ヒマワリは好きですか?全ての死滅、夜はどうですか?象牙で造られたナス、僕は自分で書いた質問に対して返答されている文章を声に出して読みながら、やはりこの芹沢さんは一般的な女の子とは違うと確信した。そして最後の質問の下にあるプリントの空白に『こんな質問をしてどうするの?有本くん?もしかして有本くんは気づいてるの?私の顔にはめられている事を、ね?』
 この一文が家に帰って目を通したとき非常に背筋がゾクゾクしたわけだ。それは怖いという感情を僕に思い出させた。
 僕はそうした後、目の前に座っている芹沢さんを見た。彼女は黙って下を向いている。さして僕に向かって声を出した。
「それで、分かったの?私の事が?他の人たちは皆は言ってたよ?有本くんの言う事は全部正解だって、あたってるって」
 僕はその彼女の言葉を聞いて怖くなる。きっとそれは彼女の聞こえてくる声でしか表情を分析できないからだ、彼女の顔には鉄の仮面がはめられている僕は黙って彼女の次に話す言葉を待っていた。僕がそうしていると、彼女はしゃべった。
「こんな質問しなくても教えてあげるよ、有本くん」
 そう述べた後。
「朝起きたら何時も、ミンミン蝉で手を洗ってパレットの上で歯磨きをするの、そうした後、アマクリン細胞で茹でたジャガイモを私の十二単(じゅうにひとえ)がパクパク食べるの、時計の針がステンドグラスを割った時、耳の奥に埋め込まれた受話器から赤ワインの熟成した声が聞こえて、PCCSに電話しろ!PCCSに電話しろ!って怒鳴れるから、私、怖くなってトイレに駆け込んで天井に頭を突っ込むの。そうするとね、その怖い人から守られるの。あははは!大丈夫だよ!有本くんは、私が給食センターの地下にある萌黄威(もえぎおど)しの鎧を着けて、影に回り込んでくる回折(かいせつ)をぶった切るから怖くないよ!んん!あはは!」
 僕はその甲高い笑い声と対照的に無表情の鉄の仮面をはめた彼女を見て自分のいまいる空間が危険ではないかと察して立ち上がろうとした。この鉄仮面の女、僕が興味本位で近づいていい奴ではなかったのだ。不安と後悔が僕を襲った。だが、しかし、一つだけ分かった。僕が読んだ本の人物、ユングが提唱したペルソナ、つまり、彼女のもう一つの顔はこれなのだ。成績優秀で優しくてクラスの友人に慕われている彼女とは別の彼女、そう今、僕が見ている芹沢さんだ。
 芹沢さんは途端に笑い声を止めて僕に言う。
「有本くん、私の顔に鉄の仮面がはめられているのがわかるんでしょ?」
 僕は頷いてしまった。
「やっぱり…」そう言った後、芹沢さんは悲しそうな声で言った。
「最初に好きになったのは、お父さんだったでもお父さんは私に鉄の仮面を被せた。違うかな?お父さん、私にどうして何時も仮面をはめているんだ?とか言ってたから違うか?それでその次に好きになったのは従弟のお兄さんだった。その人も私の顔に鉄の仮面が付いているとか言ってた。小学校高学年で好きになった先生も私が下校する時に言ってた。芹沢、その鉄の仮面は何なんだ?って、中学校に上がって同じクラスのミサちゃんのお兄ちゃんも怖そうな声で言ってた、その鉄の仮面いい加減にはずせよって…」
 僕はその話を聞きながら頭の中を整理していた。どういう事だ、僕以外にも芹沢さんの顔に鉄の仮面がはめられている事を知っていた人物が過去にもいたのか?でもその後は一体どうなったのだ?
 芹沢さんは考える僕を見て話す。
「私が好きになった人って何故か私の顔に鉄の仮面がはめられて見えるらしいの」
「でもね」
「最後は私の素顔がみんな見えたよ」
 僕は彼女の言葉にふと、疑問に思う。最後って何だ?
 そうしていると芹沢さんは言う。
「お父さんはショコラのミンチに、従弟のお兄さんはセピアの淡い空気に、先生は可視光線の焼き芋に、ミサちゃんのお兄ちゃんは藍銅鉱(らんどうこう)の花火にしたらね、私の鉄の仮面が取れて私の顔が見えたみたい」
 僕は正面を向いた。芹沢さんの顔にはスベスベとして硬そうな黒金は光沢もなく無表情ではめられている。目や口の切り取られた部分はあるが、その奥は闇であり一寸の光の介入さえも許さないほど黒く、どの様な瞳や唇をしているのか僕には分からなかった。刃物でえぐられたかの様に見える口元も頬に向かって少しは上がっているが、それは笑みを浮かべていると受け取っていいのか?
 芹沢さんは立上ったと思うと瞬時に椅子を持ち上げて僕に向かって振り下ろした。凄い衝撃と力だった。あんな細い身体からどうやって、これほどのエネルギーがうち放たれる事が出来るのか?僕は地面に叩きつけられて酷い痛みに頭を抱えたが、僕の前に立つ彼女に気が付いて視線を移した。
 十字に光る銀のナイフを腰からスッと出した。キラリと美しく光る。
 僕はその恐怖から芹沢さんの顔を見た。

 と、鉄仮面が床に落ちてカランと転がった。

鉄仮面

鉄仮面

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-06-26

Copyrighted
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