浸水。
誰にも聞こえない叫び声が、泡になって散って行く。
冷たく暗い学校という水槽は、映えある魚にしか餌を与えない。
浸水。
優しい友達に、優しい先生。
綺麗な校舎に、可愛い制服。
この学校は恵まれている。
何もかも。
卒業する先輩は皆、そう言った。
そんな言葉に引き寄せられるように、半年後私は入学した。
入学してすぐ、私の足元には水がせせらいだ。
これがなんなのか、何を意味しているのか、当初は理解しなかった。
半年経つと、学校に通うたびに濃くなる体のアザと、高くなっていく水かさ。
徐々に息苦しくなってくる。
地面から足が離れたらどうしよう。
そんなことを考え始めたのは一年の終わり頃だった。
通うことが3年目になる今は、もう上も下も分からないほど深い水の中で、息もできずに浮いていた。
『佐木』
しかしその深海の中には一匹だけ、いつからか魚が泳いでいた。
紅色の、靭やかな肉付き。
私の名前を呼ぶのは、紅魚だけだ。
『佐木さん、何してるの?』
ボロボロの制服姿の私に紅魚は尋ねた。
『何って、』
『嬉しい?』
紅魚は、周りが見えていないのか。
『そんな姿で跪かされて、写真取られてなんで何も言わないの。お人好しなわけ?サイトに投稿されるよ』
そう言って紅魚は私の目の前に座った。
『楽しい?』
紅魚はなんのためらいもなく私の手を握り、顔を覗きこんだ。
ああ、彼は何も知らないんだ。
一週間に2回学校に来ればいいほどの人間だ。
なのに、彼は私の周りを泳ぐ。
『楽しいわけないでしょう。こうしてあなたが私の手を握っているこの瞬間でさえ不愉快に感じる』
こんなことを言ったところで、彼は動じない。
『佐木さんってさ、美人だよね』
いつだって自由なのだ。
『触らないで』
手を振り切ると、紅魚が跳ねた。
水面近くで。
『そうやって自分から遠ざけるからだよ』
紅魚はヒレを翻して私の元を去った。
ただ私の周りを泳いでいる。
ふとした瞬間に、私を嘲るような目をしながら優しく声をかけてくるのだ。
あなたに何が分かるの、何も考えていないくせに。そんな言葉は私の中で黒く渦巻くだけだった。
黒く深く深く光の見えない水槽の中で、傷口に水がしみる。
涙を流しても水の中では誰も気づいてくれない。
『佐木、おいで』
紅魚以外は。
紅魚は、私の無理やり引っ張り立たせ、私に上着を着せた。
そして私を抱きかかえるようにして保健室まで運んでいった。
『先生いないじゃん、まあその方がいいか』
紅魚は、手慣れた手つきで私の傷ぐちを手当した。
『ねえ、』
『しみる?少しだけ我慢してて』
いつも、彼は話を聞かない。
『私のことは放っといてよ』
『できたよ、少し横になって休んでたら』
消毒液の入っていた戸棚を閉めて、彼はソファに腰掛けた。
『泣いてただろ、そのくせに放っといてなんて我儘だな』
『助けてほしいなんて言ってない』
紅魚は私の手を取り、ベッドに座らせた。
『言わなくても痛いほど伝わるんだよ』
保健室の消毒液の香りが妙に鼻につく。
この香りは紅魚から香るのだ。
いつもは水面近くにいるくせに、誰も紅魚を捕らえない。
ましてや、紅魚自体がそうさせないかのようにヒレを翻し、光の届かない深く暗い水の中に、ただ沈んでいくだけの私の近くを何度も何度も繰り返し回る。
まるで外敵から守るように、だ。
『一度でいいから、助けてって言いな。俺は、あいつにあんな風にされている佐木を見ていたくない』
私の胸はきゅうっと締め付けられた。
私だって普通で居たかった。
楽しく友達と話したり、放課後デートしたり、普通の高校生で居たかった。
『…学校、ほとんど来ないくせに…』
私のつぶやきに紅魚はにっこりと笑い、私の口を塞いだ。
そのまま私は紅魚に抱かれ、冷たく放された。
『俺、あいつと付き合ってるんだよね』
紅魚の言う“あいつ”は決まっている。
私をいじめる主犯なのだ。
『あんなやつって佐木は思うかもしれないけど、俺はあいつを愛してるよ』
紅魚からの突然の告白に、水中で口を開けてしまった私は息ができずに沈んだ。
紅魚は、誰にも捕らえられないのではなく、私の周りを泳がされていたのだ。
訳もなく期待をした私の心は、水圧に負けてぐしゃぐしゃに萎んだ。
この水槽にはもう何も居ない。
鮮やかな紅魚ですら、私の身を貪り喰って底に沈めてしまった。
水面は遥か遠く、何も掴めない水の中で、涙を流し叫んだ言葉は独り言で終わってしまった。
『だれか、私をたすけて』
浸水。
手の届くところに誰かがいるうちに、声を上げて。
イメージカラーは深緑色。