椅子であること。
わたしは椅子です。
人間様に座っていただくために生まれました。わたしは椅子です。ご主人さまは、三十八歳の男性です。
西暦三〇八七年、日本は夏を迎えようとしている。
わたしにとっては二十三回目の夏で、椅子になってからは八回目の夏であります。人間様を乗せての夏は、八年目にして初のことです。同じ頃、椅子に生まれ変わった友だちの多くはすぐに良いご主人さまが現れ、一年目から椅子としての役割を立派に務めています。五年ほどで役目を終えた子もいます。大体はじめに、脚が駄目になるそうです。わたしはといえば、つい三ヶ月前まではご主人さまもなく、暗い夜の砂漠のような部屋で眠っていたものですから、傷一つ負ってません。わたしはそれが少しだけ恥ずかしい。わたしだけが処女であるような心持ちだったので。
ご主人さまは三十八歳の男性で、作曲家をしています。作詞もします。絵も描きますし、写真も撮ります。小説にも挑戦したいとおっしゃっていますが、ご主人さまには向いていないと思われる。パソコン画面に綴られた物語調の文章は、お世辞にも面白いとは言えません。ご主人さまは歌詞と小説を混同されている。小説とは才能がないと書けないと、どこぞの文学者が宣っていました。読む者の胸に突き立てるは言葉のナイフ。からだを痺れさせる電気的表現。起承転結という古来より伝わる形式は、書き手のオリジナリティを損なうのではないかとわたしは考えます。ご主人さまは声を出して笑ってしまうほどに、型にはまった文章をお書きになる。少し気の弱い男の子と、秘密を抱えた女の子の青春。その女の子には重苦しい過去、又は病を患っているという不幸設定が必ずといっていいほど付いてまわるのです。
はて、わたしは今、酷くどうでもいい話をしておりましたね。
兎も角ご主人さまに買い取られたわたしは、ご主人さまが仕事をされるパソコンデスクの椅子として、ご主人さまの下半身に安寧を与えております。十五歳でとつぜん椅子に生まれ変わる前の、自分より才ある者を賤し貶めながらも漫画家にも画家にもなれないような下手くそな絵を描いていたわたしが、八年経って姿を変えて誰かのお役に立っているのですから、これはとても喜ばしいことではないでしょうか。
椅子であること。