涼宮ハルヒの初恋

涼宮ハルヒの初恋

Ⅰ

「そうですね、最近はわりと落ち着いてはいるようですね。まぁ、ぼくとしても、もちろんぼくら機関にとっても最良ではないけれど、そういう日々が継続してくれることには、なにも異論はないわけです、あなたもでしょ」
相変わらずもったいぶったまわりくどい言い方をするやつ、で、古泉、俺になにが言いたい。
「佐々木さんとの一件以来、どうも我々と涼宮さんの間に……その、なんというか、軋轢とまでは言わないですけれど、ミゾができたような、そんな気がするのです……」
 「そういう含んだ言い方じゃなくて、もっとストレートに言えよ、古泉。なにを考えているんだ?」
 「……そうですね、どうやら涼宮さんは、おのれの異能力に気づきつつあるのではないかと、それを危惧しているわけです。もちろん我々の存在にも疑念を抱いているのは確かです」
 はぁ? ハルヒが自分の能力に気づきつつあるって!? 世界がハルヒの思い通り改変されたら、いったい、どういう日常が展開されるって言うんだよ!?
神人が暴れまわる閉鎖空間が現実と入れ替わったりしたら……世界は、俺は、どうなるんだ?
 「ですからあなたには相応の覚悟をしていただかないと、それが我々、宇宙人と、未来人と、超能力者の一致した意見です」

 はぁ? お、俺にどうしろって言うんだ? この俺に世界の命運を預けるっていうのか? それよりなによりハルヒが!?、ハルヒがもしも覚醒したらいったいどうなるっていうんだ? この俺が、なにをすればハルヒは、なにも気づかず今のままのハルヒでいられるっていうんだ?
なぁ古泉、俺はその辺の平凡でまったくもって普通の一般的な高校生の男子で、ハルヒといるだけでもかなりのストレスを抱えてるんだ。
 神のごとき異能力は疑うべくもなく、それに加えて宇宙人、未来人、超能力者と日々丁々発止の生業を……。
「考えすぎないでください。簡単なことです。まぁ、あなたが考えすぎてもなんにもこの状況を変えることはできないと思われますしね、ウフッ、おっと、これは失礼」
 「なにが簡単なことなんだよ!」
「簡単ですよ、一般人のあなたが普通にアオハルすればいいんです。涼宮さんは、あなたに好意以上の感情を持ち合わせているのは好都合です。
あなたもでしょ? とりあえず涼宮さんにはなにか特別の感情を抱いていると……」
「古泉、それ以上なにか的外れなことを言おうものなら俺はお前のヘラズ口にパンチをくらわすかもしれないぞ……」
「言いすぎましたか、しかし、あなたも分かっていると思っていたのですが、涼宮さんは一般人に全く興味はないはずなのに、あなただけは特別なのですよ。
 全くもって正真正銘の完璧な一般人のあなたにですよ、異能の僕や長門さんではなく一目置くくらいの、特別な存在。それが涼宮さんにとってのあなたなのですから、これがなにを意味するのか、いくら鈍いあなたでも多少はひっかかるところがあるのではないですか?」
 あるような、ないような今もって俺にも分からん。俺にも分からんことが古泉なぜお前に分かる?
 「御託はこれくらいにして、とりあえず異能に気づいた涼宮さんが自分の理想の世界に改変なんて事態を回避するためにも、全知全能の神のごとき涼宮さんに最も欠けているものをあなたが覚醒して差し上げればいいわけです。それは……青春ですよ、恋ですよ、恋。恋愛と言い換えてもいいですが……。
 アオハルです今的に言えばね、クスッ、うらやましいですね、あの涼宮さんにこれほど慕われているあなたがですよ、僕が代わってあげたいくらいなんですが、もちろん僕では役不足、充分承知していますよ、クスッ」
 フンモッフ野郎の含み笑いには辟易する。なにを言ってるんだこいつは!?

 「僕はね……あなたも同意でしょ? この今の、この世界、この時間軸がこの上なく愛おしいのですよ。ですから涼宮さんにはこの時間軸で青春して、恋愛して、目いっぱい高校生活を楽しんでもらいたいんです。それこそが僕ら機関の至上命題なのです。そうなれば、恐らく異能に目覚めるなどということもないのではないかと推測できるわけです。ねっ、簡単でしょ。結論、あなたと涼宮さんが恋人同士になればいいのですよ、一般の高校生がそうであるような夏を、青春を、恋の季節を謳歌すれば、涼宮さんも自分の異能に覚醒するなどという愚行をよもや犯すまいと……」

 晩御飯のあと早々に部屋に籠り、ない頭で必死に古泉の話を考えていた。
俺とハルヒが恋人にだと!? それで世界が救えるだと!?
長門も朝比奈さんも賛同しているだと……。
 古泉はなにかを隠している。それは俺の直感でわかる。
頭はよくはないが、直感だけは自信がある。
なにか大事な部分をオブラートに包んで、話してもいいことだけを伝えた。
そんな気がする。
 ない頭を絞ったところで、古泉の思惑をすべて理解することは不可能だという結論に達した。
 シャミセンが俺の横で大きく伸びをした。こいつがペラペラ蘊蓄を語る世界なんてまっぴら御免だ。ハルヒが望むハルヒが中心の世界、逆回転の地球なんて想像だに恐ろしい。
 頭がむやみに傷む。そろそろ潮時か……。
 こんな時はあいつに……あいつの意志だけは確かめておくべきだな、俺は携帯に手を伸ばした。
 《よぉ、長門起きてたか?》
《わたしに睡眠は必要ない》
《そ、そうか。ところでだ……》
《古泉一樹の提言のことか……》
《……あ、あぁ。お前も賛同しているそうだが》
《賛同した。もっとも合理的でもっとも単純でもっとも効果が高いと考えたから……》
《そっ、そうか……》
《ただし、涼宮ハルヒという有機生命体、恋愛という不確定要素を考慮すれば完璧な計画とはいえない。が、現時点で涼宮ハルヒを覚醒させてはならないという命題に対しては唯一の解かもしれない、とは思う》
《古泉は俺とハルヒが恋人同士になるのは簡単だと言ったんだが……》
《異論はない。むしろそれが自然の成り行き》
《お前はそれでいいのか?》俺だって長門を困らせてみたいと思うことだってあるさ。愚問だってことも重々承知のうえだ。
暫く沈黙……長門のらしくない息遣いが携帯越しに聞こえる。なにを思ってる長門。
《そういう問いにはどう答えたらいい?》
《いや、いいんだ。すまん、つまらん質問だった》
《わたしは今も人間の感情を習得中だ。しかし、感情には不確定な要素及び選択肢が多すぎて未だにすべてをデバイスに蓄積することは不可能。喜怒哀楽はさらに難題》
《すまん、すまん困らせるつもりはなかったんだ……夜分遅くすまなかったな長門。最後にもう一度訊く、お前は賛同するんだな》
《対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース(TFEI)に、二言はない》

******************
 次の日の放課後……。

 「なぁ、ハルヒ……」
「なによ、わざわざ河川敷なんかに呼び出したりして……用があるなら部室で話しなさいよ。あんたと違って忙しいんだからわたしは、みくるちゃんは?有希は?古泉くんはどこ?」
 あたりを見渡すしぐさをしてはいるが、ここにいるのは俺とお前だけだってのは充分承知してるって顔だぞハルヒ。
ハルヒを河川敷に誘ったのはいいのだが、さて、どうしたもんかな……。
黙ってりゃそれなりだし、こんな性格でなきゃ、絶世の美女とまでは言わないが、イケテルんだが……さて、どうしたもんか。
 真っ青な空、遠くに入道雲、季節は夏……シチュエーションは完璧なんだが、恋とか愛なんていうものとは無縁の人生歩んできたからなぁ、相手がよりによって変人ハルヒとはなぁ、どうしたもんか。
「なんなのいったい、ため息ばっかり。話がないなら帰るわよ。忙しいんだからわたしは」
相変わらずのハルヒ。ハルヒはハルヒだ。それ以上でも以下でもない。
 俺よりも更に恋愛ざたなどには無縁なヤツだった。
 そんなハルヒを相手にいったいどうすればいいのだ?
「いや、あの、その、まぁ落ち着け。落ち着いて俺の話を聞けよ」
「キョン! あんた今日なんか変よ。いつもの変人だけれど、今日は特になんか変」
おいおい、超のつく変人になんで変人呼ばわりされなきゃならない?
おいおい、俺はこの世界の存続のため、ひいては全人類の存亡をかけて今からハルヒ、お前に……ええい! 言っちまえ!
「ハ、ハルヒ。お前は俺のことどう思ってるんだ?」
「どう思ってるって、なによ」
「……そ、その、なんだ、なにかこう、特別な感情とか、例えばこうおれのことをスキ……」
「はぁ? キョン。バッカじゃないの! あんたはね、SOS団の庶務兼雑用係兼わたしの下僕よ! それ以上でも以下でもないわ!いい、わたしはね、団長なの!頭が高いのよ!身の程を知りなさい!」
 感嘆符だらけの言葉を吐くその口元を俺はあんぐりと見詰めるほかなかった。
 ハルヒお得意の両手を腰に組みすっくと立ったその姿は、まさにSOS団の独断専行団長、涼宮ハルヒその人であった……とさ。

 ***************

《まぁ、結果は分かっていましたがね、あの涼宮さんがあなたの実直ストレートな告白に素直にのってくるとは思えないですから》
古泉の図星の指摘に俺は無言、ただただ無言。
《いいですか、今までお話ししてませんでしたが、まぁ、朝比奈さんの言い方で禁則事項にあたるガジェットをお話ししましょう。これは特例ですからね。可及的速やかにこの事態を突破するために……あなたは今の状況を、この宇宙全体に及ぶ危機について自覚していないようなのでね、、我々機関の調査では、あなたと涼宮さんは過去、現在そして未来においてそういう関係だったのですよ。
 ここにいるのは、宇宙人、未来人、そしてわたし、限定的ですが一応超能力使いです。では異世界人は?》
古泉……なにが言いたい? まさか俺がその異世界人とか言い出すんじゃ?
《まさにその通りですよ。今、あなたが頭に浮かんだ疑問符そのままお返ししましょう。我々機関は疑っています。あなたこそが涼宮さんが最後に欲するものであると……》
 はぁ? 古泉よ。言うに事欠いて平凡を絵に描いたようなどこにでもいる高校生男子のこの俺が、ハルヒの言う異世界人だと? ところで異世界人ってなんなんだよ! 

《ある意味、あなたと涼宮さんはこの世界の住人ではないと……古来から転生と輪廻を繰り返していたと申し上げたいんですよ》
俺は初めて携帯を握りしめ呟いた。
《全く意味が分からん。古泉、お前の言うことはいつも回りくどく、ほとんど戯言だと思って聞いていたが、今回のことは全くわからん》
長話も終わりにしないとそろそろ携帯のバッテリーが切れる。机の上のバッテリー・コードを取りに行く気力もない。古泉、こんな話はグッタリだ。

 《涼宮さんが望めば、どこまでも遡って例えば日本書紀や古事記に記述された神話の世界ですら現出できるんですよ。いやいやそれよりも我々は涼宮さんが天照大神であなたがスサノオの尊で、涼宮さんがクレオパトラであなたがシーザー、涼宮さんが織姫、あなたが彦星を、それこそ枚挙に暇がないほど具現化してもなにも驚きはないと言いたいのです。あなたたち二人は元来そういった関係だったのですよ、切っても切れない間柄というんでしょうかね、なんともうらやましいですがね、わたしからしてみれば……》

 俺は夢を見ていた。ハルヒがジャンヌ・ダルクのいでたちで俺たちの先頭を切って勇ましく闘う姿……またしても相手は巨大なカマドウマ??、相手は巨大なカマドウマではなくって……オロチ、八岐大蛇だった。
 自在に宙を舞う古泉が「ふんもっふううううううううう」と叫ぶ。
古泉の掌からバレーボール大の火炎が八岐大蛇めがけて数百発飛びかう。
「なんだ? なんだ!? 古泉にこんな隠し芸があったのかよ!」と、谷口が感嘆の声を上げれば、国木田も「小泉くんってすごいんだね」などとのたまう。
八岐大蛇が悲鳴の唸り声を上げる。その度に大地がミシミシと揺らぐ。
古泉もコンピ研の部長行方不明事件の時と違ってかなりパワーアップしている。
 トンガリ帽を被った魔女のいで立ちの長門が俺と国木田と谷口がせっせと集めてきた瓦礫を早口の呪文でナパーム弾?らしきものに分子構造を位相変化させて手投げでオロチにぶちこむ。
 オロチ、断末魔の悲鳴。
朝比奈さんはと言えば「ひぇええええええ」と言いながら俺の腰に腕を回して離そうとしない。
 「ち、ちょっと朝比奈さん。動けないんですが……」
「キ、キョンくん、ひぇええええ」
オロチの八つの頭に宿った十六の眼球は憤怒で真っ赤である。
「さぁ、相手はもうちょっとでイチコロよ! キョンあんた止めを刺しなさい」
「な、なんでお、俺なんだよ! 俺は元来、人畜無害の博愛主義で無抵抗主義者なんだ、ハルヒ! お前がやれ!」
「意気地なし!あんたってまったく」
そこで登場したのが鶴屋さん。鶴屋さん、衣装が安倍晴明然としてますよ。陰陽師ですかあんたは……大仰の弓をキリキリと目いっぱい引く。弓の長さは六尺三寸。
晴明ではなく坂上田村麻呂かよ、と別の俺が無理な突っ込みを入れたのだが、はて鶴屋さんは全く意に介すようすもなく、
「キョンくん! どいて!」
鶴屋さんの足元には陰陽五芒星が描かれており、湯気が立つくらいパワーに満ち溢れている。
 やはり鶴屋さんは陰陽師の家系なのかもしれないなどと思わないでもないな。
とりあえず只者ではない。
十六本の弓を目にも止まらぬ速さで射る鶴屋さん、そのどれもがあの真っ赤に充血?したオロチのマナコに命中。間髪をいれず、天高く舞い上がったハルヒが右手に持ったエクスカリバーでのたうち回る八つの首を一閃。
 なぜジャンヌ・ダルクがエクスカリバーなんだ? などという疑問など眼前の阿鼻叫喚な光景の前では無意味だった。

 大量の血しぶきとともにオロチの八つの首が大地を揺るがし、首なしでのたうち回っていたオロチの体も小一時間もするとさすがにピクリとも動かなくなった。
ハルヒが誰先に一目散に大地に横たわった首なしオロチの背中に飛び乗る。
「やったわね、キョン以外勝鬨を上げなさい、エイエイオー! SOS団に栄光あれ!」
 SOS団の面々、あの長門までもがうれしそうに高らかに勝鬨を上げた。谷口、国木田、鶴屋さんがそれに続く。
 なんで俺だけ仲間はずれなんだよ、
 村の長が喜緑江美里さんを従えてハルヒの元をおとずれる。
「なんとお礼を言っていいのやら、これで娘も生贄にならずにすみました」
なんで俺だけ仲間はずれなんだよ、
おんなじことを二度も繰り返したら目が覚めた。
 汗びっしょり、最悪な目覚めだ。押入れでなにか物音がする。
「キ、キ、キョンくん。いますかー」
訊き慣れた声が押入れの中から……。
いやはや、怒涛の展開、どうなってんだ、これ?

Ⅱ

「キ、キ、キョンくん……」
「うはっ!? あ、あ、あ、朝比奈さん!」
押入れからひよっこり顔を出したのは誰あろう朝比奈みくるさんであった。
 ピンクのハートが散りばめられたパジャマ姿で!? 
パ、パ、パジャマだと!?
「ど、ど、ど、どうしたんですか? こんな時間に」
「古泉くんに言われて……キョンくんを助けろって……あの、あの、その……」
萌え要素たっぷりなその仕種に萌え死にそうだ、あはは……。
 谷間から覗くそれはなんですか!? マシュマロみたいなそれから目を反らすには大変な労力が必要なんですよ。
しかし、そんなことはおくびにも出さずにおれは言った。
「またなんか唆されたんですか、古泉に?」
「まぁ、そう、いえ、いえ、そうじゃなくって多分キョンくんのことだから、あのー、そのー、そういう色恋沙汰に疎いでしょ……だから、古泉くんがわたしの、そのーTPDD(Time Plane Destroyed Device=タイムマシンのようなもの)使ってね、もう一度戻ってみろって言うの、戻ってみたらなにかその涼宮さんとの関係に新しい発見があるかもって……」

「はぁ?また戻るんですか? 三年前の七月七日に……」
「そう、前回はなにか忘れ物をしたようなね、そんな気がするの。とっても大事なことをね、なにか分からないんだけれど、ずっと引っかかっているの」
「まぁ、朝比奈さんがそう言うのなら、行くこともヤブサカではないのですが、またまたTPDDなくしちゃったとか、またぞろ長門の世話になるとか……」
「だ、大丈夫ですっ! わたしだって成長してます。もうそんなヘマはしません!」
いくぶん、怒り気味の朝比奈さんであったが、これがまた可愛い。どこまで萌えさせる気なんですか、いや、ほんとに。
 結局パジャマ姿で時間旅行はまずいだろってことで、朝比奈さんは俺のジャージ上下に着替えた。

 朝比奈さんが肩に手をかけると同時にそれはやってきた。
眩暈とともに奈落の底に落ちてゆくあのいやーな感覚。そして、例によってあの公園のベンチに……。

「また来ちゃったね」と言いながら木陰から朝比奈さん(大)が現れた。
「はい、まさかまた3年前の7月7日に戻ってくるなんて思ってもみませんでしたよ」
「よく寝てるね」
おれの肩に頭をのせて朝比奈さん(小)は熟睡状態である。
「ダメよ、寝てるからってキスなんかしちゃ、ウフフ」
「なんか一度目とは言うことが違うような……」
「そりゃーね、多少オリジナリティがないとキョンくんだって退屈でしょ、ウフフ」
「で、再度の3年前に退行。これには古泉がどこまで絡んでるんですか? 長門も絡んでたりするんですか?」
「ごめんね、禁則事項なの」
街灯の灯りに照らされた朝比奈さん(大)は殊のほかいろっぽかった。意味もなく胸元のホクロを確かめた。あるある、確かにある。
「キョンくん、悪いけどおぶっていってね、することは分かってるよね、多分おなじ」
「あの、あの朝比奈さん……」
「うん? ああ指切りする? もちろんこの子には内緒にしてね、わたしと会ったことはね」

 おれは前回のように東中を目指して歩いた。もちろん朝比奈さん(小)をおんぶしてだ。
 なんだこの違和感は? なにかが違うような気がした。今までの所は全く同じ展開なのだが、なにかが違う。そんな気がした。
案の定、校門には人影はなかった。確かハルヒがいたはずだ。よじ登ろうとするハルヒがいたはずなのだが……。

門扉の隙間から辺りを覗く。
グラウンド横の芝生にポツンと人影が見えた。
門扉は造作もなく開いた。どうやらハルヒが前もって開けていたのだろう。
なぜだ? 校門をよじ登ればハルヒ一人ならなにも門扉の鍵を開けておく必要などないではないか? 俺が来ることを分かっていたのか? それとも違う誰かを待っていたのか?
 寂しそうなその姿に俺は声をかけずにいられなかった。
「おいおい、こんな時間になにやってんだよ? 襲われでもしたらどうすんだ」
「……! あんただれ? うるさいわね、ほっといてよ」
ハルヒだった。なんだかシチュエーションが違うがこいつは紛れもなくハルヒだ。
 東中の一年生。Tシャツ、短パン姿の涼宮ハルヒ。無造作に伸ばした黒髪がやけに長い。
「こんなとこに一人でいたらほっとけないだろ、女子は特にだ」
「一般人なんかに興味ないの、わたしは! 特に女子をおんぶしてる不審者なんかに声をかけて欲しくなんかない!」
とりあえず俺は朝比奈さんを芝生に寝かせ、ハルヒに一歩近づいた。
 なんだか、懐かしかった。中学一年生のハルヒに会うのはこれで二度目だ。こんな妹ならもう一人いてもいい。
「姉貴は眠り病を患ってるんだよ。眠り病だよ。所かまわず寝ちゃうんだ」
「ふん、そんな胡散臭い病気初めて聞いたわよ。いいからほっといてよ、うざいから」
「俺には小五の妹もいるんだ。だから、なんだかほっとけない。家に帰れよ、まさか家がないなんて言うなよ、送ってくから」
「……いいからほっといてってば! こんな世界うんざりよ、なにもかもが平凡で、なにもかもが退屈で、凡庸なこんな世界! わたしの居場所じゃない!」
 なんだかなー、反抗期が終わって思春期真っ盛りの女子中学生っぽいな、ハルヒにもこんな多感な時期があったんだな、神のごとき力を宿してる現在のお前よか、よっぽど可愛げがある。
 「……もう、やだ……誰もわたしのこと分かってくれない」
すすり泣き……はぁ? ハルヒが泣いてるだと!?
確かに潤んだ瞳からはしずくが一滴、二滴、泣き顔のハルヒなど、多分これが見納めだろう。
 「中坊の分際でなに言ってんだよ。お前にはずっともっと楽しい未来があるじゃないか」
俺もしかしなに言ってんだろうな。こんな状況だってのに慰めの言葉一つ浮かばない。
 北高生になったお前が誰に会うと思う。宇宙人に未来人に超能力者だぞ。
 俺や、長門や、古泉や、朝比奈さんがどれだけお前に振り回されてると思ってるんだ!? もう毎日が非日常なんだぞ、夏休みを638年と110日延々と繰り返したんだぞ!
 ハルヒが鼻を啜りながらこっちを睨む。抑えようとしても涙があふれる。
なんて瞳をしてやがる、吸い込まれそうだ。
 鼻をかめ、そして、涙を拭えとハンカチを渡す。
妙にしおらしく俺からハンカチを受け取る。どうやら警戒心がいくぶんか緩んだようだ。
 「まぁ、とにかく、俺の言う通りにしろ。芝生に寝ころべ。星空が見えるだろ」
 訝しげな視線を向けたままハルヒが芝生に寝ころぶ。俺もつづく。
天空には幾千の輝く星が見えた。
「あれがデネブ、アルタイル、ベガ……」俺はわざわざ大げさな身振り手振りを交え指さしながら言う。ハルヒが遮る。
「真夏の大三角……でしょ?」こっちを見るハルヒの瞳から涙は消えていた。
「そうだ、ベガとアルタイルが……」
「織姫と彦星……でしょ?」
なんだよ、知ってるのか……まぁ、ハルヒだからな、頭いいからなこいつ。
「ねぇ、あんた。宇宙人っていると思う?」
「いるんじゃねーの」
長門にはいつも苦労かけてるなぁ。
「じゃあ、じゃあ、未来人は?」
「一人知ってる」
朝比奈さん、あなたの煎れるお茶は最高です。
「超能力者は?」
「それも一人知ってる」
古泉、お前はこの件にどこまで絡んでるんだ?
「異世界人は?」
「まさに俺だよ。別の次元域からきてるもん」
幾千の星空の下で交わす妙なテンションの会話にハルヒがクスッと笑い声を漏らした。
「あんた、面白い。なんて言う名前?」
「ジ、ジョン……ジョン・スミス」
「バ、バカじゃないの! なによ、その偽名」
「名乗るほどのものじゃないってことでいいだろ。だけど、けどな、誰もお前を理解してくれないなんて思うなよ。少なくとも、少なくともだ、どこかに、きっと、どこかにお前を分かろうとしてくれるやつはいる」
 穴の開くほどじーっと俺を見詰めるハルヒの瞳から曇りが消えた。この世界がお前を理解しようとしなくても少なくとも俺は理解しようと試みるだろうし、誰一人お前を認めなくても、俺はお前の側につく。
 「会ったばかりだってのに、よくそんなこと言えるね、ジョン……」
「いやいや、別の場所、別の次元で会ってるかもしれん。それも何度もだ」
なに言ってんだ俺……古泉の転生、輪廻の受け売りかよ。いつの間にか古泉の言葉に毒されてるじゃんか、俺。
調子にのって俺は続ける。
 「お前だって俺と初対面な気がしないんじゃないのか? どこかで会ったことがあるような気がしてるんじゃないのか?」
ハルヒが俺の視線を捉える。真剣なその眼差し、いくぶん照れる。なんでだ? なんでこんな中坊の眼差しに照れるんだ?
 「お前、お前って……わたしだってちゃんとした名前があるの!」
すっくと立ったハルヒは短パンについた芝をほろいながら言った。
「ハルヒよ、涼宮ハルヒ! ジョン、忘れたら許さないからね! わたしの名前は涼宮ハルヒよ!」
 今の自分を分かってくれる誰かが欲しかったのかハルヒ。誰でもよかったんだろうか? それとも俺を認めてくれたのか? あの時、北高の教室であんな出会いをしなかったら、俺たちはもっと素直になれたのか、どうなんだハルヒ?
ここにいるハルヒにそれを問うたところで、いやいや問うことすら茶番だろう。
 今の俺は眠ってる女の子をおぶって夜中に徘徊している不審者に過ぎないのだから。
なにより俺はこの次元の人間ではないのだ。三年後の7月7日の七夕からやってきたのだから……。
 「忘れないよ。絶対に忘れない。涼宮ハルヒ」
「帰る。またどこかで会える?」
踵を返しハルヒがグラウンドを横切る。
 あわててハルヒの後ろ姿に叫ぶ。
「おいおい、なんか忘れてることはないか? なにかしようとしてここに、こんな時間に忍び込んだんじゃないのか?」
 振り向いたハルヒは今まで見たこともないような飛び切りの笑顔でこう言った。
「ジョンと話してたら忘れちゃった。ねぇ、また会える?」
「ああ、きっと会える。お前、いや涼宮ハルヒが望めばきっと会える」
「うん、またね」

 ハルヒが消えた暗闇を見続けた。
名残惜しかった。ひよっとして俺はこの次元のハルヒに恋しちゃったりして……。いやいや、そんなことはありえん! あんな小生意気でこまっしゃくれたヤツに恋など……。
 落ち着け、ただでさえ、ハルヒがしなきゃならないことをせず立ち去り、時系列があやふやになってんだ! ハルヒがグラウンドになにも描かなかったことが3年後になにか影響を及ぼすのか? 
 ハルヒがグラウンドに描いたあのヘンテコリンな模様が情報フレアを起こし、統合情報思念体がそれを感知して長門を……。
 ここは冷静に、とりあえず一度戻って古泉や長門の助言でも訊いてみよう。とにかく落ち着け。
 気を沈めるために、天空に浮かぶ大三角を見た。それは一段と光を増したように見えた。
 しかし、グラウンドに描いたアレはどうすんだ? あれは、事実だったんだぞ、
俺も手伝ったんだぞ? 手伝ったってか、ほとんど描いたのは俺だ!
 地方の新聞にまで載った既成の事実なんだぞ。 それともここはハルヒが改変した世界だとでも? いいのかよ、このままでいいのかよ……?
 このまま戻っていいのか?
 とりあえず朝比奈さんを起こそう。
「朝比奈さん、起きてください。朝比奈さん」
「ふひぇえええ、キ、キョンくん? あれ? ここはどこ? わたしは誰?」
もうもうなに寝ぼけてるんですか? そんな萌え声でキョンくんなんて呼ばれたら……なにか間違いしでかしそうです。そのピンクのほっぺた齧りますよ、あはは。
そんなことはおくびにも出さず俺は言った。
 「朝比奈さん、そろそろ戻りましょう」
「はい……涼宮さんには会えました? なにか新しいことでもありましたか?」
「いや、それが会えたことは会えたんですが……なにかがちょっとづつ、あの、違っているような……とりあえず戻りましょう、ねっ」
「はいはい、じゃあTPDDセットしますね」
「お願いします。TPDDちゃんとありますよね」
「もう、キョンくん。信用してったら、長門さんのお世話にはなりません!」

 肩に朝比奈さんの掌の感触を感じた。景色がゆらゆら歪む。奈落の底が見えた気がした。
「キ、キョンくん! TPDDが制御できないの! なにか外部から強大なエネルギーが……あああぁぁぁぁ」
「朝比奈さん! き、強大なエネルギーって?」
「き、き、き、禁則事項ですぅ……」
 俺と朝比奈さんはもちろん3年後には戻れなかったのだ。
ど、どこなんだここは?

Ⅲ


「キョンくん、キョンくん……大丈夫?」
なんだか後頭部にやわらかなマシュマロみたいなもんが、それも特大の……この匂い、この弾力、未来のほうのあれだ、あれしかない……お、お、溺れる!
このまま気絶したフリでもしてようかな、もう少し。
「キョンくん! キョンくん! 目を開けて! お願い……」
薄目を開けるとやはり朝比奈さん(大)の胸元に顔をうずめ、抱きかかえられている俺であった。
「朝比奈さん、俺は!? ここはどこですか?」
大げさに驚いてみせてはいたが、後頭部はしっかり、胸元に抱えられたままだ。
「3年前の7月7日よ、もちろん。みくる(小)にはそれしか指示を与えていないもの。みくる(小)は遡航平面状しか往き来できないTPDDしか携帯してないし、でも、なにか変ね。とても違和感があるわ、いえいえ、この平面上でのわたしは、これ以上言ってはいけないのね。この子おぶっていってね、寝てる間にチューくらいしてもいいわよ、ウフフッ、それは冗談。この道をまっすぐ進むと小学校があるわ、そこで……誰かくるわ、キョンくん、隠れて……」

 俺たちの脇をニケツのママチャリが横切った。
俺は自分の目を疑った。 ハンドルを握っていたのは俺だったからだ。今から見ればずいぶんと幼い顔の俺自身をどんな暗がりだろうと俺が見紛うはずがなかった。そして、ケツに乗っけてたのは佐々木!だった。
 朝比奈さん(大)は夜道のほの暗さに気づかなかったらしい。
「まあ、かわいいカップルね。塾の帰りかしら、あら? この時間平面にこんなシークエンスあったかな?」
「朝比奈さん、俺たちは3年後に戻ろうとしたんですよ。それが三度目の三年前の7月7日にまた舞い戻ったらしい。それも外部からの強烈なエネルギーだかなんだかに邪魔されてね、その強烈なエネルギーの正体をどうやら朝比奈さん(小)は分かっているらしいんですが、禁則事項だと言って教えてくれないし……」
朝比奈さん(大)はなにかを言いたそうだったが、そのステキな唇に人差し指を押し当てるしぐさをして俺たちを送り出した。
 聞きたいことが山ほどあるんですよ朝比奈さん(大)。
 数歩歩いて振り向いたがそこには朝比奈さん(大)の姿はなかった。
「むにゃ、むにゃ……キョンくん。どうやらあなたたちは次元断層にはまっちゃったみたい。わたしも含めてね、とても強大なエネルギーがキョンくんの3年後への帰還を邪魔してるの。とりあえずわたしに分かっていることはこれだけ。涼宮さんに会うというクエスト以外にここから逃れる選択肢は今のところ見当たらないの、ごめんなさいね……」
 おんぶしている朝比奈さん(小)が耳元で囁いた。
朝比奈さん(小)の口元から出たのは明らかに朝比奈さん(大)の言葉だった。
「やれやれ」
三年後に戻れない? 次元断層? ループしてるだと!? まさかまたエンドレスな夏休みのような事態に陥るんじゃないだろうな……。
 あの時、長門の脳みそに蓄積された膨大な記憶の量を想像して俺は吐き気がした。638年と110日、毎日おんなじ繰り返しをあいつは秒単位で克明に記憶していたのだ。
 ヒューマノイド・インターフェスといえど、その膨大な記憶の断片に変調をきたし、その要因であるハルヒを排除した世界を夢見たとしてどうして責められよう。 俺はこの時、初めて長門を女の子として意識したのだ。それは間違いない。
 何度も世話になっておいておこがましいのだがやはりどこか人間らしくない長門に覚えていた違和感が消し飛んだ瞬間だった。
 一皮剥いた長門は、小説好きの臆病で引っ込み思案な女の子なのだと……。

 朝比奈さんをおぶってヘトヘトの疲れた体を引きずりながらも俺の頭はフル回転をやめない。海馬のあたりがズキズキ傷む。
 ハルヒはグラウンドにあのへんてこりんな文字を描かなかった。朝比奈さんがTPDDを失くさなかったので、長門の力を借りることもなかった。
 ゆえに長門が部室でくれたポケットの短冊も使わずじまい。
 まてよ、このまま長門に会って次元断層ってなもんに閉じ込められたらしいんだ、またあの悪夢のようなループにはまりそうなんだ!助けてくれと言ったら、どうなんだ? それともハルヒに会い、グラウンドにヘンテコリンな文字だかなんだかを描き、朝比奈さんがTPDDを失くし、長門に会うという一連のシークエンスを達成しなければクエストは成就されず、このループから抜け出せないってことなのか?
この平面上ですでに時系列は破綻をきたしているのか? 俺は中坊の可愛いハルヒに流されてそういった瑣末をすっとばしていた。
 「朝比奈さん(小)寝言でもいいから教えてくださいよ。TPDDの航行を妨げて俺たちをまたここに戻らせた強大なエネルギーの正体ってなんなんですか?」
 俺は背中で安らかな寝息を立てている朝比奈さん(小)に返答など期待もせずに話しかけた。
「むにゃ、むにゃ……キ、キョンくんがこんなにマシュマロ好きだなんて思わなかったですぅ、スヤスヤ、むにゃ、むにゃ……」
はぁ、まぁ、そうだろうな。期待通りの答えだった。やれやれ、こんなにマシュマロ好きにさせたのは誰あろう、貴女と未来の貴女なんですがねぇ、ははは、相変わらず背中にその感触感じて、疲れもいくぶんか吹っ飛ぶといえば吹っ飛ぶんですが。

 校門に着いた頃、小雨が降り始めた。
門扉は簡単に開いた。目を凝らすとシルエットではあったけれど確かにそこにハルヒがいた。一心不乱に例の象形文字だか、クメール文字だか、エニグマでさえ解読不可能であろう謎の落書きをグラウンドいっぱいに描いていた。

 「誰? 誰かいるの!」
濡れないように朝比奈さんを木陰に降ろしハルヒに近づく。
「こんな時間に中学校のグラウンドに忍び込んでなにやってんだ? 雨も降ってきたぞ」
「あんたこそ女の子をおぶってこんな時間になにやってるのよ! 不審者! 通報するわ」
 こんな時間にグラウンドに落書きしてるお前はどうなんだよ、と、突っ込んでも仕方あるまい。これがハルヒなのだ、変わってないよなハルヒ。
 「姉貴は眠り病って奇病を患ってるんだよ。ところかまわずどこでも寝ちゃうんだ」
「ふん、そんな変な病気聞いたこともないわ。ちょうどいい、あんたヒマなら手伝いなさい。そこの倉庫に石灰あるからリヤカーに積んでもってきてよ!」
「はい、はい」
 相変わらず人使いの荒いヤツだ。俺も俺だ、雨だってのにいそいそと石灰取りに校舎裏の倉庫に向かってる。
 戻るとハルヒが土砂降りの雨のグラウンドの真ん中でずぶぬれになりながら立ち尽くしていた。
 「なんで!? なんで七夕に雨が降るの? せっかく書いたのに消えちゃうじゃない!」
 雨はますます勢いを増し、ハルヒが描いた絵だか文字だかをあらかた消し去っていく。
 俺はなんだかわけも分からず愛おしさがこみ上げてくる。ハルヒ、もういいだろ? どんなに頑張ったって理解してもらえないことだってあるんだ。
お前がどんな衝動に突き動かされてその行為を行おうとしてるんだか、俺にも分からん。
 しかし、こんな土砂降りの七夕の日に女の子がここまで懸命にしなきゃならないことなのか、これが?
 端から見ればどうしたって奇行にしか見えない。
「なぁ、風邪でも引いたらどうする。こんな意味の無いこともういいだろ、帰ろう、夜道は危ないから送っていってやるから」
「ほっといてよ! わたしにだって分からないの! なぜ、こんなことしてるのか……でもしなきゃ駄目なの! しなきゃ伝わらないの!」
 泣いてるのかハルヒ。ずぶ濡れの姿で俺の前に立つハルヒの瞳に涙が……俺にはそう見えただけのなのかもしれない。
「なぜわたしはこんなつまんないとこにいなきゃならないの!? なぜわたしは一人ぼっちなの!? 世界中がなぜわたしに逆らうの!? なぜわたしはそれに抗ってはいけないの!? なぜわたしは……」
三年後のお前は俺の前で泣き顔ひとつ見せたことなどないのだがな。
 数秒後、土砂降りの雨の中で俺は、わけもわからずハルヒを抱きしめていた。
「もういい、お前の不平も不満も、誰にも理解されなくても、世界がお前に抗っても俺はお前の側につく。だから、もうやめろ」
ハルヒはほんの少しだけ、抵抗の素振りを見せたが、大人しく俺の腕の中に身を預けた。
 俺はほんの一瞬でもこの土砂降りからお前を庇う。そう決めたんだ!!
 恋してんのか俺? 中学生のハルヒに? 恋してるのか俺? あの時、このままこの時間平面に留まるという選択肢が脳裏を過ぎった。
 俺はこいつのためにここに留まってもいいとさえ思ったのだ。
なにもかも捨てて、たいしたものを持ってるわけでもないのだが俺はお前の傍にいたい、とさえ思った。
これが恋なのか? ハルヒ! 俺はお前を守りたい。あらゆる世界の抗いからお前を守り抜きたい。ずぶ濡れで立ち尽くすハルヒはそれほど幼く、か弱く見えた。
 「あんたのこの温もり、なんだかすごく懐かしい。あんたとは初めて会った気がしない。どこかで会ったことある?」
 そういえば一度だけあの閉鎖空間に閉じ込められた時、決死の覚悟でお前を抱きしめキスしたことを思い出した。しかし、あれは夢だったのかもしれないし、三年後のお前にだし。
 俺は無言のままハルヒを見つめた。なんて瞳をしてやがる。そういえばマジマジとこいつの瞳など見たことはなかったな、吸い込まれそうなほど澄んでやがる。

 「あんた名前は?」
「ジョンだ、ジョン・スミス」
「なによそれ、ふざけないでよ」
「名乗るほどのものじゃないってことで許せ。とりあえず帰れよ、この模様だか文字だかは雨がやんだら俺がなぞって完成させてやるから、なっ。お前にとっては大事なものなんだろ、これ。ライン引きも石灰もリヤカーも片付けておくよ」
「あんた、見かけによらずいい人みたいだね。わたしはハルヒ、涼宮ハルヒ!忘れたら許さないから!」
ハルヒは帰りがけにこう聞いた。
「その制服、北高?」
「ああ、そうだ」
「また会える?」
「……もちろんだ。お前、いや涼宮ハルヒが望めば、いつだって俺は傍にいるさ」
我ながらキザなセリフに苦笑する。暗闇だし雨だ。ハルヒには分からないだろうな。
 三年後のハルヒにこんなこと言ったらきっと一笑に付されるだろう。
あんた頭大丈夫だとかなんとか、ばっかじゃないのだとか……やれやれ。
「信じていいの?」
「信じろ、それが初めの一歩だ」
「うん」
「み、未来で待ってる」
「ばっかじゃないの、あはは」
振り向いた笑顔がまぶしかった。
 この時空間で一秒、一分、一時間、一日、一年、あるいは永遠にお前といっしょに過ごせたらきっと楽しいだろうな、俺は本気でそんなことを思った。
 俺の思惑なんぞは気にもせず小走りにハルヒは暗闇に消えた。
 
 名残惜しかった。もう少し話していたかった。これってやっぱり恋なのか?恋したのか俺?

 雨上がりの夜空。所々に水溜りが残るグラウンドに俺は、寸分たがわず例のヘンテコリンを描いた。
 クシャクシャになってはいたが長門からもらった栞まで確かめた。
今ではそのクメール文字だか死海文字だかわけの分からない文様が「わたしは、ここに、いる」そういう意味だと俺は知っている。
 どうやら無意識のうちにハルヒが全宇宙へ向けて発信したメッセージらしいことも分かっている。
 そして、これがハルヒをめぐるあらゆる事象の発端だということも……。
ハルヒにとって大事なことは俺にとってもおろそかにはできないことになっていた。そういう事態に俺はため息をついた。
 「やれやれ」
 しかし、しかしだ。ここに留まったとしてどうやって生活するんだ? どうやって高校に通うんだ? そんな俺がどうやってハルヒと同じ時間を歩める? どうして傍にいられるっていうんだ!?
 だいたいこの時間軸にさっき佐々木をケツに乗っけた俺がいるってのに!? 三年後の俺の居場所は?
 「きゃああ」
朝比奈さんの叫び声に俺はわれに帰った。
「朝比奈さん、どうしたんですか? いつ目覚めたんですか?」
校舎の暗がりから小ぶりな人影が現れた。
「な、な、な、長門さん!?」いくぶん、恐怖に捉われた朝比奈さんの声。
長門だと!? なぜ長門がここにいる? 
「有機生命体二体確認。当該情報を認識。該当者、涼宮ハルヒ識別不能。情報統合思念体、確認を求める。なぜわたしのミッション・ネームを知っている? これを記したのはあなたか? 涼宮ハルヒはどこだ?」抑揚のない長門の声が響く。
 矢継ぎ早の長門の問いに俺はタジタジ。朝比奈さんは引きつったまま微動だにしない。
「明確な回答がなければ、この時間平面上の不要因子二体を速やかに排除せよと命を受けた」
 「おい、おい、おい、おい! 長門、ち、ちょっと待ってくれ。今から説明するから、ってかお前はあのマンションで待機モードじゃなかったのか?」
「……なぜ、それを知っている? なぜわたしのミッション・ネームを知っているのだ? 明確な回答がなければ……」
 グラウンドが一瞬ゆらゆら揺らいだ。みるみるあたりが見知らぬ景色に変貌する。荒涼たる砂漠? いや違う、どこか別の惑星!? 見たこともないような奇岩が林立する。月面ってこんな感じか? いやいやYOUTUBEで見た火星の表面か?
「な、長門! 落ち着けって、ちゃんと、ちゃんと説明するってば!」俺は声の限りに叫んだ。
長門の唇がすばやく動く。
 近くにあった岩の塊が俺と朝比奈さんに向かって牙を剥く。
「ひぇええええ、長門さん……凶暴すぎますぅううう」
「な、長門! やめろっ、やめてくれ!」
俺は朝比奈さんを抱えながら逃げ惑う。岩石は雨、あられと俺たちを襲う。
だめだ、このままでは一分ともたない。眼鏡の奥の長門の瞳は本気モードだった。
 数百のバスケのボール大の岩石の塊が降り注ぐ。もうだめだ、こんなもん避けられるはずない!
もうだめだ、ここで死ぬのか? まさか長門に? 恋を知ったばっかだぞ俺!
 死ぬには早すぎるだろ! どう考えたって。
 数百の岩石の塊が俺たち数センチのところでいっせいに静止し、地面にパラパラと落ちた。
まるで、見えない壁があるように、それは、俺の目の前で留まり、力なく地面を叩いた。
「長門さん! やめて!」
その声は朝倉? 朝倉涼子だった。

Ⅳ

「止めて! 長門さん。バックアップとして忠告するわ。もしも、これ以上この生命体への排除行動を続けるのであれば、バックアップ行為を逸脱してでも阻止せよと思念体β(しねんたいベータ)から回答を得ている。思念体βの見解は違うわ。この二体はこの時間平面上の不要因子ではなく、次元断層のループに漂流しているに過ぎない。 
 この生命体が本来の時間平面に戻らなければ、時間軸上の質量バランスが崩れ、ひいては延長線上にあるすべての時間軸が崩壊する。
 これは思念体の懸念ではない。現象としての決定事項なの。
極端な行動は慎みなさい、長門さん」

 微動だにせず対峙する長門と朝倉。体内を戦慄が走った。デジャブ!おんなじような光景を俺は知っている。しかし、今回はまったく逆だった。
 いつぞや朝倉は俺を教室に閉じ込め、本気で殺そうとしたのだ。
その時現れ、身を挺して救ってくれたのは誰あろうここにいる長門だった。
 動いたほうが敗北、そんな一撃必殺の殺気。朝比奈さんは顔面蒼白。俺だって、その迫力に気圧され身動きひとつできない。
 お互いの瞳からは目に見えない火花が散っているようにさえ思えた。
「な、長門! こ、これを見てくれ」俺は言いながらポケットからしわくちゃの3年後の長門から受け取った栞を見せた。
 水戸黄門の印籠かよ、この期に及んでもまだ自分につっこみを入れるのを忘れない俺だった。
 眼鏡の奥の長門の瞳が一瞬青白く光ったように見えた。
「分かった。思念体α(しねんたいアルファ)は思念体βの思考を上書きした。朝倉、帰還して。思念体への報告は、あなたに任せる。二体は即座にこの時間平面を離れることは、わたしが見届ける。同時間軸上の涼宮ハルヒをこれ以上刺激しないように、それが思念体の至上命令」
 朝倉はうなずき、それと同時にTVのスイッチを消すようにふっと暗闇に消えた。いや、消えたというより闇と同化したようにも見えた。
 今もこの暗闇に身を潜め、あるいは長門のバックアップとして俺たちを監視しているのかもしれない。背筋に悪寒が走った。
 俺たちを寸でのところで救ってくれたってのにどうも朝倉は苦手だ。俺と朝比奈さんを簡単に始末しようとした長門に親近感を感じてしまう俺って……すまんな朝倉涼子。美小女でクラス委員長なんて元来信用できん。
 朝倉が消えたと同時に俺たちを取り囲んでいた奇岩も、あっという間に地面に吸い込まれ、一瞬のうちに現出していた辺境の惑星ぶった景色が消え失せて、あのグラウンドに俺たちは立っていた。
 長門は先ほどの敵意を秘めた眼差しが失せて、すでに俺が知っている長門に戻ったように見えた。
 朝比奈さんは相変わらず怯えた子猫のように俺の影に隠れたままガタガタ震えている。
「な、長門。この栞は三年後のお前がくれたものだ。それを理解したと思っていいんだよな? 俺たちは親密とまでは言わないけれど、かなり親しい間柄だってことも分かったんだな。岩の塊をぶつけるのだけはなしにしてくれ、頼む」
「その栞が三年後のわたしが渡したものだと理解した。同時に三年後のわたしと同期した。記憶も上書きした。礼を失した行為については是正した。それについては礼には及ばない」
 礼には及ばないって……あはは、俺たちを本気で屍にしようとしたくせに、礼には及ばないってなんだよ。
 「長門、やっぱり眼鏡ないほうがいいぞ」俺は本当に長門が長門に戻っているのか確かめようと言葉を振った。
「……そ、そうか、では削除しよう」
きっかり一秒で眼鏡は跡形もなく消えうせた。
 眼鏡なしの長門の瞳を俺はまじまじと見つめた。
 無機質な顔色にほんのり赤みが差した。間違いない。俺の知ってる長門だ。
「さっきのどっかの惑星みたいな景色はなんなんだ? 長門のいた星かなにかか?」
「そう。記憶の中の心象風景を具現化した、外界から途絶した固有空間。何か問題でもあったか?」

 俺はどうやら目の前にいる長門を過小評価していたようだ。
こいつはとんでもないやつだ。その小さな容姿に底なしの力を秘めたこいつだけはどんなことがあっても敵に回したくないもんだ。
「この時間平面にいることは危険。もうすでにタイムリミットが近い。あってはいけない二体の質量が加速度的に増幅して空間の亀裂を招くから」
 さっぱりわからん。
「よーするに3年前にいることはやばいんだな、俺たちはこの時間平面では不純物か、いてはいけないんだな?」
「有体に言えばそう……」
「キ、キ、キョンくん、戻りましょ。TPDDは使わないほうがいいのね。前のように長門さんのTPMD(Time plane moving device)に頼ったほうが確実だわ。また前のように邪魔されて帰れないなんてことになったら!? なんのお役にも立てないのね、わたし……ふぇええーん」
 長門を怖れるように相変わらず俺の影に身を潜めながら朝比奈さんが久々に口を開いた。
 大丈夫ですよ、朝比奈さん。少なくともこの長門は俺たちが知ってる長門ですよ。
 泣きじゃくる朝比奈さんをなだめながら俺たちは長門のマンションに急いだ。

 襖を開けると例によって二組のふとんが鎮座ましましていた。
朝比奈さんは疲れたのかいそいそとふとんに潜り込んだ。
「あなたも寝て」
「ありがとな、長門」
「礼には及ばない。役目を果たす。それがわたしの唯一の存在価値」
「俺は、そんなお前が嫌いじゃない。またな……」
長門の瞳は迷ったように宙を舞う。
「わ、わたしも嫌いではない。わたしにとっては唯一無二の存在」
「そ、それって俺のことか? それともハルヒのことか?」

長門の言葉を待たずに俺は眠りについた。

 誰かが俺の眠りの邪魔をするようにほっぺたを何度もつつかれた。
「もうちょっと寝かせてくれ! あと五分……」
 目を開けると満点の星空が拡がっていた。
 多少湿ってはいるが心地よい芝生の香りが鼻腔をくすぐる。
 「ふぁあああ? ハルヒ?」
隣にひざ小僧を抱えたハルヒが座っていた。
指先で俺のほっぺたをつつくマネをしながらじっと俺を見る。
どうやら俺だけまたまた三年前に逆戻りしたらしい。
「やっと目を覚ましたね。死んでるのかと思って心配したじゃん」
これは夢か? はたまた現実なのか?

「描いてくれたのね、寸分たがわずに」
「ああ、約束だからな」
「ジョンはここの住人じゃないっていったよね」
「ああ、異世界人ジョン・スミスだ」
「ここにいて……どこにもいかないで……」
 言葉が途切れた。あるのは満天の星空と静寂。そしてハルヒの息遣い。
俺の吐息。
 「どこにもいかないでって頼んでるのよ……お願いだから……」
背中にもたれたハルヒの声はなんだかいくぶん震えているように聞こえた。
「そばにいて……」
 俺はさ、三年後のお前と出会い、そして、無理やり非日常の世界に頭の先までどっぷり浸ってるのさ。
 お前が望んだ宇宙人と未来人と超能力者に囲まれて、しかし、それを一番望んでるお前がまったく蚊帳の外ときてる。
 あたふた引っ張りまわされるはいつも俺たちで、お前はやりたい放題だし、気づきもしない。

 しかし、佐々木や周防九曜、天蓋領域との一件以来、古泉の説によるとお前はお前の異能に、どうやら感づいてきてるみたいだし、覚醒しようものなら世界が破滅に向かうようなんだ。
「……やれやれ」
 まったく困ったもんだ。
 あげくにそんなハチャメチャの非日常が嫌いじゃないんだな、俺自身が。
 三年前の涼宮ハルヒ。俺はどうやらお前に恋してる。
俺は、お前が、好きだ。どうしようもなくか弱く、幼く、世界から孤立するお前を守りたい。
 たった一人で世界に抗うお前の傍で、なんにできないかもしれいけれど、俺は傍にいたい。
 お前は三年後のお前とは違う。俺を必要としてくれるのは今のお前なのかもしれない。
 しかしだな、これは憐憫なのかもしれないとも思うんだ。
失礼だよな、憐憫なんかでお前の傍にいるなんてさ。
 俺も、相当ひねくれてるな。すまんな、こういうものの見方しかできないんだよ。つまらんいい訳でもしなきゃな、ここから離れられないんだよ。
 本当に、本当に、できるならお前の傍にいたい。
 しかし、俺にはどうすることもできん。俺の存在がこの場所にいてはいけないらしいんだ。
 当たり前だよな。俺は三年後の俺なのだから、現にこの時間平面には中坊の俺がいるんだし、だから俺は戻ることにするよ。

 [時間がない。戻らなければ次元断層の亀裂が修復できないほどに拡がる。そうなればわたしにも修正できない]

 長門の抑揚のない声が脳裏を過ぎった。
どうやら寄り道を許してくれたのは長門らしい。
「いかなきゃならん。俺は涼宮ハルヒ! お前を……」
「ジョン!! スミス!! 忘れたら許さないから! 忘れないで!」
大声で叫ぶハルヒを置き去りにして俺は走った。
 グラウンドを横断した時、一度振り返った。振り返らずにいられなかったんだ。
 立ち尽くすハルヒが霞んで見えた。

Ⅴ

 目覚めたのはベッドの中だった。けたたましい目覚まし時計の音に反射的に腕を伸ばす。汗びっしょりの身体、パジャマが纏わりつく。
 いつもの恒例行事。「うおぉ? ここは!?」
はっとわれに返り、机の上のデジタル・ウオッチの表示を確かめる。
 三年前のハルヒとの別れの余韻が脳裏にしっかりこびり付いていた。
あいつはここにいてくれと俺に頼みやがったんだ。
あれはいったいなんだったんだ? 夢でも見てたのか?
別れ際、立ち尽くすハルヒの姿が心を過ぎった。
七月八日、午前七時三十二分、勢いよくドアが開く。
「キョンくん、ご飯できてるよー。学校に遅れるよー」「ニャーゴ」
甲高く元気一杯の妹の声が鼓膜を打つ。さらに、こちらを値踏みするようなシャミの一声。
 いつもの日常にほっとため息を漏らしたのもつかの間の安息だった。
無理やり腕を引っ張られベッドから滑り落ちた。
 恋に邪魔ものはつきものだ。

「はあぁ」
 シーシュポスの苦行を体現するような目の前に聳える学校までの坂道にため息をつく。
「キョンくん! 朝から背中丸めてちゃダメだよ、めがっさ、いい若いもんが、あはは」
 背中にパンチを食らった。「イテテッ」鶴屋さんが勢いよく追い越してゆく。
「ふぁあ、おはようございます」覚醒していない俺は生返事で答える。
「キョンくん、おはよう。お役に立てなくてごめんなさいね。鶴屋さんとわたし日直なので先にいくね、ほんとに、ほんとうにごめんなさい」
 今にも泣き出しそうな顔の朝比奈さんがそそくさと鶴屋さんの後を追う。
朝比奈さん、そんな済まなそうな顔しないでください。多分あのトラブルはあなたのせいじゃないんだから。
やはりあれは夢ではなかったんだ。
 ヒグラシがけたたましい鳴き声を辺りに撒き散らす。
やれやれ、今日も暑い一日になりそうだ。
 教室のいつもの席に座る。
谷口と国木田はこっちを一瞥しただけでおしゃべりに夢中。
 多分夏休みのことだろう。やけに朝から盛り上がってやがる。こっちの気も知らないで……能天気がうらやましい。
 なんにも変わらない日常がそこにあった。俺は安堵のため息をもらす。
なんとも言えない安堵感に後ろの席で腕組してるアイツのことさえ忘れていた。
 「キョン、なによ。目を合わさないってなによ、浮気したみたいな顔して、おはようくらい言いなさいよ。朝から不愉快だわ」
ここにも能天気なやつが一人いた。しかも勘が鋭い。
「う、浮気ってなんだよ? 浮気したみたいな顔ってどういう顔なんだ? 俺が誰に対してどう浮気したって言うんだ? 朝っぱらから分けのわからんことを言うな」
「例えよ、例え。あんたのその腑抜けな顔を例えたのよ、バカね相変わらず。目を合わさないってことは、なんか後ろめたいことでもしたの? なにかわたしに隠し事でもしてるの?」

机を盾に大上段に人を追い詰めるハルヒのいつもの姿。三年経ったらこんなに変わりやがって、黙ってりゃ、そこそこの顔だし可愛げもあるっていうのに。
沈黙は金なりって言葉をお前は知らんのか? ハルヒに沈黙? 似合わん。
「なんなの? なに人の顔、穴の開くほど見てるの? 気色悪い。なにその顔」
「ひよっとして俺たち以前にどっかで会ってないか?」
「あんたと? あるわけないじゃない。わたしは記憶力がいいの。あんたみたいなバカ面会ってたら忘れないわ」

なぜか、放課後になると旧校舎にあるSOS団の部室に足が向く。なんなんだろうな? パブロフの条件反射じゃあるまいし。

 ドアを開けるといつものように長門が窓際で小説を読んでいた。
「よう、お前一人か」
「そう」
「今回もまた世話になったな、済まん」
「礼には及ばない。仕事だから」
「ハルヒは?」
「今日は来ていない」
「そ、そうか……なに読んでるんだ?」
「阿部公房、砂の女」
「そうか、知らんな。面白いのか」
「そう」
「朝比奈さんと古泉は?」
「部活」
「そうか、先に帰る。戸締りよろしくな」
「分かった。光陽園駅に向かうべき」
「なぜ?」
「待ってる人がいるはず」
「誰だそれ?」
「行けばわかる」
「そうか?」
「そう」

 雑踏の中、横断歩道の手前で所在投げに佇むハルヒがいた。
 そうか、ハルヒだったのか……こっちを見ろ! 俺のことが好きならこっちを見ろ。俺は記憶の中の三年前のお前と今のお前を重ねた。
 そして、腹を決めた。
 群集の中、俺を見つけたハルヒが一瞬だがはにかんだ笑顔を見せた。しかし、それはすぐに怒りの仮面の下に埋没する。
「なによ!有希が光陽園駅で待ってろって言うから、あんただったの? 三十分も時間を無駄にしたじゃない」
「そうか」
「そうかってなによ! 呼び出しといてそうかって? なによ? この間は河川敷まで呼び出してくっだらない御託並べるし……」
「そうか、言いたいことは言い終えたのか?」
「なによ! なんか文句でもあるの?」
「丁度いい。本年度数回目の不思議パトロールをやっちまおうと思ってる。ま、それは仮の名称で、俺はハルヒ、お前とデートすることに決めた。本日、今からな」
「デ、デート!? あんたとわたしが?」
「夕方の風が心地いい。ブラブラ歩こうか」
「ふん、なによ? 分けわかんないわよ。なんであんたとわたしが」
俺はそんな不満顔のハルヒを置きざりにしてスタスタと歩きだす。
「な、なによ! デリカシーのかけらもないの? 女の子の歩調に合わせてよ」
「そうか、これはデートだと認めるんだな」
口を尖らせたハルヒがほんの少し小首を傾げる。
 俺たちはどこに向かうでもなく雑踏の中を歩いた。
 ハルヒ、俺はお前の傍にいたい。今はただただそれだけだ。
 
「手をつないであげてもいいわよ。デートなんだから」
指と指がおずおずと絡まった。どちらからともなく、それはなんだか自然なことのように思えた。
 ショーウインドウに写った俺たち。しっかりと手を繋いだ姿。初めてハルヒと心が繋がった、そんな気がした。心臓の高鳴り、顔の火照り、汗ばんでやしないか俺の手のひら、そんなことがやけに気になった。
「わたしたち、見ようによってはけっこうお似合いかもね、あはは」
満更でもなさそうなハルヒの言葉に俺は指先にほんの少し力を込めた。
あの三年前のお前とこうして手を繋いで街をブラブラしたらいったいどんな気分だったんだろう?
 いやいや、違う、違う。俺が恋したハルヒはそうなんだよ! 目の前にいるんだよ!生意気で可愛げがなくてどうしようもなく自己中で俺のことを馬車馬のようにこきつかう。
 そんなお前が……!? 正直に言おう。もう二度と言わないからな。
俺はハルヒ、今、ここにいるお前が好きなんだ……。

 「腕を組んであげてもいいわ」
「余計なこと言うな。組みたきゃ組め」
俺の予想外の言葉にたじろぐハルヒ。
「えっ!? は、はい」
「もっと、ちゃんと俺の腕をつかめ」
「は、はい」
「で、キスしたきゃ左のほっぺた貸してやる。してもいいからな」
 俺は歩みを止めた。はっきりしてること、それは、俺は、ハルヒ、お前が、好きなんだ。
 ハルヒの両手が俺の肩を掴む。俺はそれに合わせてほんの少し左に小首を傾げる。
 雑踏の中でハルヒのローファーが爪先立った。
 左頬に一瞬ハルヒの唇が触れた。
目と目が合った。
「これでいい?」
「ああ、それでいい」
俺は雑踏の中でハルヒを抱き寄せた。
素直じゃないかハルヒ。いつもこうであってくれたら俺は、俺は……。
「今日だけよ、今日だけは恋人になったげる……」
「そうか」
この期に及んでまだそういう言い方しかできないのか? いい加減認めろよハルヒ、俺のことを。
まばらな人影が俺たちを見る。
これでいい。これでいいんだ。

 後日俺は今回の件について古泉の狡猾さを知ることになる。こいつは策士だ、赤壁の曹操より上手かもしれない。

「完璧です。閉鎖空間もまったく影も形もなくなりました。あなたの完全勝利ですよ。涼宮さんは現在、一般的な女子高生のように恋することに夢中です。覚醒などという事態からは程遠い存在です。
 まぁ、あの涼宮さんですから、おのずとあなたに恋してるなどというあからさまな態度は控えていますがね、
 おやおや、もっと喜んでもいいはず、世界の破滅をあなたが救ったのですから」
「古泉、今回の件。お前はどこまで知っていたんだ?ってかお前が仕組んだのか?」
ほんの少しの沈黙のあと古泉が口を開く。
「……必然ですよ、必然。この時間平面の涼宮さんが素直にあなたとの恋に身をゆだねるなど、考えられませんからね。
 われわれはあらゆる可能性を沈思黙考しました。もちろん、長門さんと朝比奈さんも交えて、ああ、言ってませんでしたか? われわれの会話に言葉はいりません。イメージのやりとりで事足ります。とりあえずわれわれ個々の思惑は考えないことにして、ここは一致団結して事にあたりましたよ。なんせ、涼宮さんが己の神のごとき力を確信したり、覚醒しようものなら世界が終わってしまう可能性だってあったわけですから。
 僕だって、あなただって、誰でも、こんな若さで世界の終末を目の当たりにするなんて、どう考えても理不尽ですから」
「そ、それで三年前のハルヒを利用したってわけか?」
「もちろんです。現在の涼宮さんがあなたに抱く恋心を素直に感情に現すと思いますか? 思わないでしょう、あなただって素直に涼宮さんへの想いを吐露するなんて考えられない」
 「だから俺をまた三年前のハルヒに会わせたってのか? 俺がハルヒに恋心を抱くと……?」
「ええ、長門さんも、朝比奈さんも賛同してくれましたよ。前にも言った通りあなたと涼宮さんは転生し輪廻しながら、そういう間柄であったわけですから、ほんのちょっと我々がその扉を開けてあげれば恋に落ちる。必然ですよ、必然。うふふっ」
 ふんもっふ野郎の得意満面の笑顔が鼻につく。
「もうひとつ言わせていただければ、涼宮さんの異能はあなたへの思慕によって発動したと我々機関は推測しています。うがった見方でしょうか? ゲーテです。若きウエルテルの悩み尽きまじですよ。初恋とはかくも純粋で美しく、そして壮大な物語なのです。
 三年まえの涼宮さんは間違いなく異世界人のあなたに恋をしたんですよ。あなたもね。もちろん三年後の、今、現在の涼宮さんが素直に吐露できないあなたへの恋心をどうしても伝えたくてね。三年前の自分を利用したんです。
 そう考えればあながち我々をそういう風に仕向けた、つまりこのドラマの影の仕掛け人は涼宮さん本人であったのかもしれませんね」

 「あ、あのママチャリのケツに佐々木を乗っけた俺はいったいなんだったんだ? あれもお前たちが?」
「ほおっ? それは初耳です。いや? しかし、涼宮さんが佐々木さんに対する嫉妬心からあなたと佐々木さんを登場させたのかもしれませんね。
 あなたのことだから、一世一代の恋心で三年前の涼宮さんの傍にいるなんて決断されたら元も子もないわけで、ですから、この時間平面上にはすでに三年前のあなたがいて、佐々木さんもいるということを最後の保険としてあなたの目に焼き付けた、そんなとこですかねぇ。佐々木さんを登場させるほうがよりインパクトが強いわけですし」
 「あ、朝比奈さんのTPDDの件はどうなんだ?外部からの強大なエネルギーによって……」
「狂言ですよ、狂言。朝比奈さんには気の毒な役回りをさせてしまって、張り切っていたんですがね。朝比奈さんは、あなたを騙したことがどうも心に引っかかっているようです。それについては朝比奈さん(大)も同様かと」
 まあいいか、あんな素敵なマシュマロに埋没する機会など早々ないわけだし。
「ま、まさかグラウンドに現れたのは、今の長門か!?」
「そうですよ。あなたも見たでしょ、心象風景の具現化を……あの長門さんにとって寸分違わぬあなたが見たマンションを造ることなど造作もないことでね、ああ、あの無数の岩で攻撃された一件ですか、そうですね、あなたにも本気になってもらわなければならなかった。本気で恋に落ちてもらうには生死の境をさ迷うような出来事も必要不可欠かと……もちろん、長門さんに攻撃されて即死なんて事態は起こりえません。長門さんは放った岩の塊を激突数ミリのところですべてコントロールしてましたから、バックアップの朝倉涼子さんにも協力いただきました」
 「なぜハルヒは俺のことを忘れてるんだ? 数時間といっても俺の記憶にはしっかり刻まれてるんだが」
「あのあと三年前の涼宮さんは何度も何度もあなたを探しました。北高にまで行きました。もちろん、あなたの言葉を信じてね。望めば傍にいるし、会いたいと願えば会えるとあなたはいいました。でも、どんなに願っても会えなかった。
 記憶力抜群の涼宮さんは、それに耐えられなかった。つまりジョン・スミスの記憶を抹消したんですよ、完全にね。あの能力で」

 デートらしきもの?を楽しみ喉が渇いたというハルヒのために自販機で缶コーラを買った。
 長門に呼び出されたことのある光陽園駅前公園のベンチに座った。
 「ほらよ」
「ありがと」
プルトップを開けたハルヒの缶コーラから勢いよくコーラが飛び出した。
 「キ、キョンわざとでしょ、ったく」
 ハンカチを渡す。三年前の涼宮ハルヒが記憶の中で微笑んでいた。

「なあハルヒ」
「なによ」
いくぶん、高飛車ないつものハルヒになぜだかおれはほっとする。
「まぁ、これからも、よろしく頼む。ハルヒ……」
「なにがよ、バカキョン。わたしはいつだって団長なの! SOS団のためなら身を粉にして働く覚悟よ」
ハルヒ、お前はお前だ。ほんと、今のままでいい。
 お前はおれにとって? 俺は、お前にとって?
いったい、なんなんだろうな?

……機関とは別にぼくの個人的な意見として聞いてください。
 
《わたしは、ここに、いる》

 あれは、宇宙に、銀河の辺境に、ベガとアルタイルの先に、あるいは宇宙人に向けたメッセージなんかじゃなかったんです。あれはあなたに向けた、あなただけに向けたメッセージだったんです。
 古泉は最後にこう付け加えた。



                       <了>

涼宮ハルヒの初恋

涼宮ハルヒの初恋

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-06-24

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