安奈
第一話:後ろを歩く、地球の裏側の人
初冬。
場所は日本では北国と呼ばれている地域。
ホテルから出てきた俺達の目に飛び込んできたものは、この冬になって初めての雪だった。
乾燥した空気ではある。だけど同時に澄んだ空気でもあった。
少しだけ良い気分になる。火照った自分の体には、これくらいが丁度いい。
「……寒いですね」
後ろにいる少女が口を開いた。
「あぁ」
俺はそう言って両手に息を吹きかける。
本当は別に寒く無い。
「あの」
再び少女が口を開く。
「ん?」
「その……つ……ま……んか?」
「……何?」
「手……」
「手?」
「……手、繋ぎませんか?」
「……」
別に拒否する理由も必要も無い。
……無いはずだのだが……
「いや」
そして、繋ぐ理由も、また無い。
無いと、自分に言い聞かせる。
「そ……そっか……あ、別に気にしないでくださいね。なんか……すみません」
「……別に」
少女は何故謝ったのか。俺には理解できない。
少女は照れくさそうに、差し出しかけていた左手をそっと体の背に引っ込め、うつむきながら喋らなくなった。
俺はその姿を横目で見ながら自分の手をコートのポケットにつっこみ、もう一度少女のほうをチラっと見たあと、自分が住んでいる安アパートへと向かい歩きだす。
俺は振り返らないで、少女の足音を耳で確認する。
しっかりと、一定距離を保ちながら付いてきているようだ。
これが、俺と安奈の形。
時には恋人のように体を求め合う。
しかし時には他人以上に無関心。
肉親以上に親密ではあるが、同時に地球の裏側に住んでいる、自分とは無関係な人間のような、そんな関係。
これが、俺と安奈の形。
「……ねぇ、松本さん……」
ホテルからの帰り道、安奈は突然話しかけてきた。
どうやら安奈は歩みも止めているようで、足音も聞こえてこない。
俺は面倒くさがりながらも後ろを振り返り「何?」とだけ聞き返した。
「う」
「何だ?」
「……う」
安奈はうつむきながら立ち止まっている。
俺が買い与えてやった薄い安物の黒いコートが風に吹かれてひらひら揺らいでいた。
「置いてくぞ……」
この台詞は、半分本気だ。
「置いて……かないで」
「じゃあ早く来い。雪が本降りになるだろ」
「……うぅ」
安奈はうつむき黙ったまま。
俺は相当面倒くさくなってきている。少しずつイライラもしてきている。そう思う事にしている。
何故、こいつのために立ち止まらなければならないのか。早く帰りたい。そう思う事にする。
「……もういい」
ガキじゃあるまいし、一人で帰って来れない事も無いだろう。
俺は前を向きなおしてゆっくりとまた歩きだした。
「ヒックッ……置いて……グスッ……かないでぇ……」
……面倒くさい。
勝手に泣けばいいだろう。俺には関係無い事。
俺は歩くスピードを上げた。
「グスッ……グスッ」
泣き声は、しっかりと俺の後ろから付いてきているようだ。
その声を確認できて、俺は少しだけ、安心していた。
これが、俺と安奈の形。
第二話:掴んでくれる人の居ない、さし延ばされた腕
私は、元々野良犬だった。
ホテルのチェックアウトを終えて、私と松本さんはホテルの外に出た。
相変わらず、私は松本さんの5歩後ろを歩いている。
外に出ると、積もりはしない程度の雪がちらちらと舞っている。もう冬なんだなぁと、私は思った。
……ふと、ある曲のフレーズが頭をよぎる。
昔聞いた歌。なんて曲名だったかは忘れてしまったけど、たしかこんな内容の歌。
『この寒い季節だから貴方の側にいられる。冬の風はより一層、二人の距離を短くした。貴方の右手から感じるぬくもりは、心も、体も、私を温めてくれる』
私は、小さく声を漏らしていた。
「……寒いですね」
実はそれほど寒くは無かった。さっきまで暖かい部屋にいたし、何より松本さんの体温を感じていたから。
それでも私は、寒いと言っていた。
「あぁ」
そう言って松本さんは自分の手に白い息を吹きかける。
「今日こそは」と、心の中でつぶやいた。
「あの……」
松本さんはチラッとこちらを見た。その眼は、声をかけられた事を疎ましく感じている眼だった。
「……ん?」
あぁ、今日もダメだ。
さっきまで私をあんなに激しく求めていたのに…松本さんの眼は、もう、冷たい。
「……その……手……つなぎませんか……?」
私は小さく、松本さんに聞こえないようにつぶやいた。
言う前から、答えは解っていたから。断られるのが、怖かったから、小さくなってしまう。
「……何?」
松本さんはやっぱり聞き取れていなかったらしく、面倒くさそうに聞き返してくる。
私は目を合わせる事も出来ずに、うつむきながらごにょごにょと声にならない声を漏らした。
「……チッ」
松本さんはイライラしてきたのか、小さく舌打ちをした。
あぁ……このままじゃ余計松本さんの心境を悪くしてしまう。
私は断られるのを覚悟で、松本さんに思いを伝える事にした。
「手……」
「手?」
私は左手を小さく差し出した。
「……手、繋ぎませんか?」
私が松本さんと外出するのは、これで何度目だろう。
大体はホテル。だけどその数も10回や20回ではすまない。
この一年間、一週間に2回か3回は通っているはずだ。
それなのに松本さんは、ただの一度も手を繋いでくれた事は無かった。
私は月に一度だけ、ものすごく寂しい気持ちになった時だけ聞いている。そのたびに、「嫌」と一蹴されるだけで終わっている。
そして私は、もっと寂しい気持ちになる。更なる孤独を感じる。
……それでも私は聞いてしまう。
断られるって解っているのに、もしかしたらって、期待してしまう。
「嫌」
「そ……そっか……あ……別に気にしないでくださいね……」
松本さんは私の顔をギロッと睨み、また小さく「チッ」と舌打ちをした。
私は小さく「なんか……すみません……」と呟き、左手をそっと松本さんの視界に入らないよう、自分の背中にまわした。
私はいつも松本さんの五歩後ろを歩いている。
はぐれないよう、松本さんの背中を見ながら歩いている。
この不自然な二人は、周りの人達にはどんな風に見えているのだろう?
恋人同士には……見えていないんだろうな。
友達ですら並んで歩くというのに……私はいつも五歩後ろ。
松本さんは話しかけない限り決して振り返る事は無い。
そして私も、滅多に話しかけるような事はしない。
どうして、こうなったんだろう。
いつから、こうなったんだろう。
なんで手を繋いでくれないのだろう。
なんで冷たくされるのだろう。
それなのにどうして、私はあのアパートを追い出されないのだろう。
私は、松本さんにとって、どういう存在なんだろう。
近くにいるはずなのに、すごく遠くに感じる。
……一回だけ試させてもらいたい。私の事、どう思ってるのか、確認させて欲しい。
どう反応するのかだけ。それだけでいい、見たい。
「……ねぇ、松本さん……」
アパートに向かって歩いてる途中、私はまた松本さんに声をかけた。私は歩くのをやめている。
松本さんは振り返り、私が止まっているのを見て、立ち止まってくれた。
それだけの事なのに、嬉しく、感じた。
「……何だ?」
「う」
でも。
「……う」
やっぱり、眼は見れない。
「チッ」
松本さんの舌打ちが、胸に刺さる。
「置いてくぞ……」
なんでそんな事が言えるのだろう。
「置いて……かないで……」
「チッ……じゃあ早く来い。雪が本降りになるだろ」
「……」
私はうつむき黙ったまま。一言もしゃべらない。
松本さんの機嫌はわかりやすい。すぐに顔にでるから。私がぐずぐずしている間に、どんどんと不機嫌になっていくのがわかった。
どんどんと……どんどんと……松本さんの顔が曇っていく。
この状態が十秒ほど続いただろうか……松本さんは小さくため息をついた後「……置いてくわ」と言って歩き出した。振り返りもせずに。
私から逃げるように。歩き出した。
振り返りもせず、気にもとめず、逃げるように、本当に、置いていった。
「っく……ヒック……うぅぅうっ……」
「……」
「ヒックッ……置いて……グスッ……かないでぇ……」
それでも松本さんは、もう止まってはくれない。
「ックッ……ヒックッ……ごめんなさい……ごめんなさいぃ……」
この寂しさは、私への仕打ち。
私が悪いんだ……私が松本さんを試そうとしたから。
私が悪いんだ。私が全部悪いんだ。
安奈