近くの他人

特になし

            「近 く の 他 人」
                   古山 健行
           「1」

 その日珍しく早苗に会いたくなって、寄り道をした。タクシーを下りると歩道が小雨に濡れ、水溜りにネオンの光が映りキラキラと輝いていた。路地を少し歩くと、居酒屋「海図」の明かりが見え、暖簾には平仮名で「かいず」と書いてあった。
 「海図」の暖簾をくぐると、相変わらず店の中は客がいっぱいで、座る席はなかった。店内にはカウンターとこあがりがあって、その他に小部屋が一つあったが、どこの席も満杯だった。
 高居雅之の顔を見たアルバイトの娘が、あわててカウンターの客に詰めてもらおうと頭を下げていた。カウンターは7~8人の客が座れる。アルバイトの娘の指示に従い、客は席を詰めてくれた。高居はカウンターの隅に座るとき、席を空けてくれた客に、目で礼を言った。
 早苗は高居の顔をチラッと見ただけで、そんな高居には目もくれず、背中を向けたまま手を止めるようすもなく、客に注文された料理を作っていた。高居が何か頼もうにも、早苗は忙しすぎて声も掛けられない状態なのだ。次々に料理が作られ、アルバイトの娘が客の間を縫って料理を運ぶ。見ていると、まるで戦争状態だった。
 この店はいつも馴染みの客が多く、皆一度や二度は会ったことのある顔ばかりだった。この店の特徴は安くてうまいのに加えて、ママが若いことだった。客が混むと料理は遅くなるが、それで文句を言う客は一人もいなかった。
 早苗は若いのに天性料理の味つけがうまく、調理師の資格は持っていたが、味付けは調理師の免許とは別物だと笑っていた。
「いつも口うるさい父の酒の肴を作っていたから・・・・・・」
 早苗は言われるたびにそう答えていた。
 彼女は高校を卒業すると商事会社の事務員として勤め始めたが、六カ月足らずで会社を辞め、その後しばらくクラブ・ドリームでホステスとして働いていた。
 クラブ・ドリームに勤め始めたころ、高居と知り合いになった。当時の早苗はやたらとお金を欲しがっていた。
「若い娘が、やたら金を欲しがるのはよくないぞ。足下を見られる」
 高居はそう忠告したが、お金を必要とする理由は聞いても言わなかった。この店を出すときになんとなくその理由が理解でき納得した。子供のころからやりたかったと言っていた。
 高居はカウンターの隅でビールを飲みながら、そんな時代のことを思い出していた。ぼんやりとあたりを見回していると、高居の前にキノコと野菜の炒め物が出てきた。まだ何も注文はしていない。それなのにさらにイカの姿焼きも置かれた。これらは高居の好物でいつも注文している。だから頼まなくとも、ある意味定番だった。
 しばらくすると、客が少しずつ帰り始めた。もうそんな時間になっているのかと、腕をめくり時刻を確かめた。
 高居雅之は今日、残業で遅くなって、それで急に早苗に会いたくなり「海図」に立ち寄ったのだ。会ってどうするというわけでもなかったが、何となく話がしたかった。店に来たのは十時を少し過ぎたころだろうか。それから、かれこれ一時間半は経過しているから、もう十二時に近い。帰り支度をしている客に、早苗は小さなメモを渡す。そのメモには請求金額が記入してあった。
「なんでこんなに安いの?」
 客の一人は初めてらしく、少し驚いた顔をしていた。連れの客が「だろう・・・」と得意顔で頷いていた。
「これで儲かるのかい?」
 客はぶつぶつ言っていたが「とにかくうまかった」と言いながら店を出た。高居のまわりの席も少しずつ余裕が出始めていた。カウンターにいた客も「美味しかったよ」と、ほろ酔い加減で勘定をしていた。
 高居の前にも請求用の小さなメモがそっと置かれた。それで高居は少し驚いてメモを取り上げた。彼はいつも現金で払ったことはなく、支払いはいつもツケだった。客を連れてくることもあるから、そのときは会社に請求してもらうが、それ以外の個人払いは、月末に請求してもらい銀行振込にしている。二つに折ったメモを広げると、「最後まで残って」と書いてあった。請求金額を書いたメモではない。何か相談したいことでもあるという意味なのだろうか。高居はそのメモを小さく折ってそっとポケットにしまった。
 早苗は相変わらず目は合わせない。だからイエスにせよノーにせよ、返事を伝えることはできない。もっとも彼女とすれば、高居は頼めば必ず残ってくれると信じているのかも知れない。
 客が更に減り、ついにアルバイトの娘二人にも、早苗は帰ってもいいと指示を出していた。
「いいですか? お先に失礼して・・・」
 済まなそうな顔をしてアルバイトの娘も店を後にした。
 それを境に、最後まで残っていた客も勘定を払った。その客に早苗は愛想良く、「有難うございました。また宜しくお願いしますね。待ってますから・・・・」と明るい笑顔で送り出した。その声の後は二人だけになった。もう十二時はとうに過ぎている。客のいなくなった空間は、先ほどの喧噪とはうって変わって静かになっていた。早苗は黙って、ビールのビンを高居の前に差し出した。注げと言う意味だろう。
「まだ客が来るんじゃないのか?」
 呑んでいいのかと質問するかわりに、そう訊ねた。
 早苗は、アルコールは弱いほうではなかったが、アルコールが入ると舌の感覚が鈍り、料理の味つけができなくなるのだと言い、客のいるときはビールを勧められてもあまり飲まなかった。
「外の明かりは消したし、暖簾も外したから、もう誰も来ないわ」
 高居は彼女のコップにビールを注(そそ)いだ。乾杯するように、高居のグラスに自分のコップを軽くぶつけてから、一気に美味しそうに飲み干し、またコップを差し出した。
「呑みっぷり・・・。いいね」
「今日は無性に誰かに会って話がしたかったの・・・・・」
 高居は、酒はあまり強いほうではない。呑み比べをやったら早苗の方が強いだろう。
「悩んだり、苦しんだり、話を聞いて欲しいなァと思う時、いつも高居さんが来てくれる。助かるわ」
 早苗は鼻に掛かった甘い声でそう言った。
「俺も今日はなぜか無性に逢いたかった。君が必要としているときに必ず来ているかどうかは知らないが、とにかく今日は逢いたかった」
「いつもそうなの。何か相談したいなって思っていると、必ず高居さんが来てくれる。不思議なのね。もっとも私が来てくれって電話することもあるけど・・・・」
「そうだな。今日は暇だから来てくれと言われて、店が本当に暇であったことは一度もなかったけど」
「ごめんね」
 早苗はすまなそうな顔をしたが、高居は声をあげて笑った。頼まれて来た時は、いつも足の踏み場もないほど混んでいたが、その盛況ぶりが高居には嬉しかった。
「電話する時点では本当に暇だったのよ。でも高居さんに電話をすると、必ずそのあと混んでしまうの」
 そのとき決まって早苗はそう言った。それで高居も、
「福の神と言うことか」と同じ答えをしていた。
「ところで話ってなに・・・・?」
 二杯目のビールを味わいながら飲んでいる早苗の顔に話しかけた。
「いつも、そこのカウンターに座っていたお客さんがいたでしょう。覚えている?」
 カウンターの隅を目でさした。
「のっぺりとしたあの二枚目か」
「そう。色白で背が高い人」
「分かるよ。その隅でいつも陣取っていた客だろう」
「久本さんて言うの」
「そんな名前だったかな。連れの客が、そう呼んでいたので多少の記憶はあるよ」
「昨夜亡くなったの」
「亡くなった? でも先週まで来ていただろう」
 高居は少し驚いて、その男の記憶をたどってみた。人の命はなんとも儚い。
「そう。三日前まで来ていたわ」
「事故?」
「病気みたい。詳しくは知らないけど肝臓とか、すい臓とかが悪くなったのだと言っていたわ」
「そう言えばやけに青っ白く、顔色もよくなかったよな」
「顔色のことは、あまり気付かなかったけど?そう。顔色悪かった?」
 早苗が、急に沈んで浮かない顔になっていた。この男の死と何か関係があるのか。
「よく通ってくれた客だろう」
「そうなの。ほとんど毎日のように立ち寄ってくれていた」
「葬式には行くのか?」
「行くわけがないでしょう。いつだったか、あの人の奥さんが店に乗り込んで来たのよ。あの人の女と勘違いされたわ」
「へー。そんなことがあったんだ」
「しつこかったのよ、あの人。店が終わってからしきりに呑みに行こうって誘うの。呑みに行くはずないでしょう。本当はホテルに誘いたいだけなんだもの、結構それがプレッシャーになっていた」
「行ったことあるの?」
「あるわけないでしょう。ああいうタイプ、好きになれないし」
 少し怒ったような顔をしたが、ビールのせいで、うっすらと赤みがさした顔が、やけに色っぽかった。
「君は、色っぽくて魅力あるから、俺でも時折ドキッとすることがあるよ」
「いまさら、何言っているのよ」
 早苗とは以前チョットした関係があった。彼女がまだクラブ・ドリームのホステスをやっていたころのことで、あれからもう三年は経っている。最近、よりを戻してもいいかなと思うことがある。高居はそのことを言ったが、早苗は、「馬鹿みたい」と笑った。いまさら寄りは戻せないと言う意味か。
「この店は安くてうまいが、もう一つママが綺麗で色っぽいから、そういう評判があるのを知っているかい?」
「さあ。色っぽくなったのは、誰かさんのお陰かしら・・・」
 高居は当時を懐かしく思い出していた。まだ早苗には初々しさがあった。
「クラブ・ドリームにいた頃、急激に色っぽくなったと言われ、男が出来たんだろうと、お客さんからよくからかわれた。高居さんと付き合いはじめて半年くらいしてからかな」
 早苗も過ぎ去った日々に目をやった。
「俺のせいかどうかは別にして、当時の君は日に日に綺麗になっていたよ」
「一年くらいすると、ママからも艶っぽくなったと言われてね。付き合う男によって女は変わるけど、あんたは本当に変わったわよね。と何度も言われたわ。当時はチョット恥ずかしかった。高居さんと付き合っていることはママも知っていたから・・・・」
 早苗が少し元気になった。
「その男が死んで、客は一人減ったことになるが、気は楽になっただろう」
「久本さんといつも一緒に来ていたお客さんの一人が、ママをものにするまでは絶対諦めない。そう久本が言っているぞと教えてくれたの。正直それを聞いてから怖くてね。それで危ないときは高居さんを呼んだの」
「俺を呼んで何か役に立ったのかい?」
「高居さんが来ると諦めた。そうしないと、帰りに送るからってきかないの」
「なぜ俺が来ると諦めるのだろう?」
「前の男だと決めつけていたみたい」
「それにしても危険が迫っていることが事前に分かり、俺に電話をするのだとしたら、ママもずいぶん勘がいいわけだ」
「あの人、私を誘うときはお酒をセーブしているから、そんな日はなんとなく分かるの。アルバイトの娘がいるときは、彼女たちを送るので一緒には帰れないと言って断るんだけど。車で通っているアルバイトの娘がいて、その日をちゃんと調べてあるのよ」
 アルバイトは曜日毎の日替わりで、常時二人が手伝っていた。
「でもお陰で、怖い思いはしなくて済むようになったわけだ」
「そうね。その煩わしさから解放されただけでも助かるわ。でもこの間まで元気だったお客さんが、急に亡くなったと聞くとショックで、その意味では複雑な心境なの」
「君も罪だよな。こんな綺麗で、しかも若いのに、こうして店を構えている。客の中には君が欲しくて来ている客もたくさんいるだろうに・・・」
「あの人、ここのとこずっと毎日のように来ていたから、正直言って参っていた。高居さんの顔を見ると、決まって翌日、あれが前の男だろうって、しつこく聞くの」
「久本という男も、勘はいいほうだね」
「今でも続いているのかって・・・」
「違うって言ったのだろう?」
「もちろんよ。事実今は違うんだから」
「そうだな」
 今は違うと言われると、その通りで少し寂しい気がしないでもなかった。
「前の男だとも言えないしね。あの人クラブ・ドリームにいた頃のことを調べたみたい。そんなことも言ってから・・」
 珍しく早苗は深酒をした。

               「2」

 結局、高居が家に帰ったのは、明け方近くになっていた。それでもいつもと同じ時間に起床した。すこし頭が重かったが、そうも言っていられない。
 高居家の朝は、いつもとまったく同じだった。同じすぎるほど同じ朝だった。
 食卓には、家族4人の朝食が並べられている。娘たちは和食だった。高居は胃がもたれるからと言って、いつもパンにコーヒーかミルクだった。それに果物と卵それが毎朝のメニューなのである。卵はゆで卵のときもあれば目玉焼きのときもあり、スクランブルエッグのときもあった。それにウインナー・ソーセージがついていたりもする。
「今日はお店、休みにしたから、帰ったとき私がいなかったら適当に何か食べてね。夕方までには帰るつもりだけど・・・・」
 妻は娘たちにそう言った。
「何でお店休むの? 今日は定休日じゃないでしょう」
 上の娘が、母親に向かって不思議そうに言った。妻は美容室をやっている。5人ばかり人も使っている。最近、店を大々的に改装した。流行に遅れないためらしいが、それだけではなく、東京の有名な美容室にまでも研究のため出向いたりしていた。
「お友達のところで不幸があってね」
「お葬式?」
「そう。できるだけ早く帰るつもりだけど」
 妻は仕事柄友人が多い。友達の多くは店の客だが、それ以外にも、学生時代の友達、それに旅行仲間と付き合いは広い。
 高居は娘達よりも先に家を出た。いつもそうである。朝、妻との会話は殆ど無い。それでも出掛けに妻から、
「夕べはずいぶん遅かったようね」と嫌みったらしく、言われたが、高居は「ああ」と曖昧に答えただけで、多くは語らなかった。
 いつのころからか、妻との会話がなくなってしまった。妻は仕事を持っている上、いつも疲れていた。特に子供たちにあまり手が掛からなくなってからは、共通の趣味もなく共通の話題もなくなっていた。子供に問題でもあると必然的に会話は増えるのだが、二人の娘は親から見ても平凡な娘であった。変な化粧をするわけでもなく、帰りが遅くなるわけでもなかった。
 上の娘は短大で、下の娘は高校生だった。
 会社はいつもと変わりはなかった。昨日は残業で遅かったせいもあり、今日は早く会社を出た。会社を出ると後ろから男に声を掛けられた。
「高居雅之さんですね」
 男は二人だった。
「そうですが?」
 高居は、不思議そうな顔をして男たちを見つめた。あまり人相も良くなく、ネクタイもしめていないラフな格好の男たちだった。
「ちょっとお伺いことがありまして。時間は取らせませんので、付き合ってもらえませんか?」
「どちら様ですか?」
 高居は露骨に不機嫌な顔をした。そして眉を曇らせ、不審そうに人相の悪い二人の男を眺めた。
「これは失礼。申し遅れましたが、こう言う者です」
 男たちは警察手帳を見せた。
「警察?」
 高居は驚いて男たちの顔を見直した。差し当たって警察に呼び止められるような心当たりはなかったが、娘のことだろうか。娘たちに何かあったのか。一瞬そんなことが頭をよぎった。
「あくまでご参考なのですが、ちょっとお話を伺えればと思いまして・・・・」
 刑事たちはあくまでも低姿勢で「お茶でもどうですか」と高居を近くの喫茶店に誘った。 喫茶店では、高居はコーヒーを頼んだが、いつも思うことは、朝、家で呑むコーヒーと
外で飲むコーヒーは、どこか味が違うような気がしていた。どちらがうまいというわけで
もなかったが、ひと味何かが違う様な気がする。そのことを妻に言うと「豆が違うからでしょう」と煩わしそうに言われ、「コーヒーの種類はたくさんあるのよ、うちはキリマンジャロの最高級品よ」と恩着せがましい答えが返ってきた。
 コーヒーはあまり通ではないので、別段種類には拘らない。なんでもよかったのだ。妻は、「味がきついのは極上のせいよ。それに朝と夕方では舌も違うから、そのように感じるだけよ」そう言っていた。妻の口癖は「文句があるなら自分でやってよ」だった。

「話ってなんでしょうか?」
 席に座ってから、改めて二人の警察と名乗る男たちに訊ねた。
「高居さん。よく海図という居酒屋に行きますよね」
 年配の刑事が訊ねた。
「ええ。行きます。昨日も行ってきたばかりです」
「そうですか。あの店によく久本さんという方が出入りしていたのはご存知ですか?」
「ええ。まぁ・・・?」
 曖昧に答えた。知っているという意味では特別親しく会話を交わしたわけではない。昨夜早苗から亡くなったと聞いて、初めて知った程度である。
「亡くなりましてね」
「聞きました」
「どなたから?」
「海図のママからです」
「そうですか。海図のママから聞きましたか。他にママは何か言っていませんでしたか?」
「特には・・・・・」
 怪訝な顔をしている高居に刑事は、
「まだはっきりしたわけではないのですが。久本さん、薬物による中毒死の可能性もありましてね」
「薬物?」
「少量ずつ与えると、知らず知らずのうちにあのような肝機能障害を起こす可能性があるということです。ただし薬物でなくともありうる症状だそうでして、今のところどちらともいえないのですが。可能性があれば警察としては調べる必要があるものですから」
 刑事は言葉を慎重に選びながらしゃべった。
「久本さんの奥様の話ですと、ご主人は海図には入りびたりだったそうで」
 高居は急に言葉が重くなった。早苗が犯人として疑われている。直感的にそう思った。
「奥様の話によれば、久本さんは家ではほとんど食事をしたことがないそうです。ですから仮に連続して何かを口に入れるとすれば、それができるのは、海図ということになります」
「動機は?」
「久本さんのお友達の話によりますと、久本さんは海図のママに執拗に迫っていたそうですね。そのため海図のママは大変迷惑していると聞きました。それで可能性としてはあるなと考えまして」
 早苗が薬物を・・・、信じられない。もしそうだとすれば、ある程度薬物の専門知識が必要だ。早苗にそんな知識があるとは思えない。誰かそんな入れ知恵をする客がいるのだろうか。とにかく早苗を守りたいという気持ちだけが強かった。
「久本氏の奥様の話では、海図の開店の資金も久本さんが一部も出していたらしいと言うのです。それを返せと言われ、困って薬物を料理に混入させたのではないかと」
 若いほうの刑事が言った。
「そんな話は聞いたことがありません。お店を出した当時のことは、おおよそ知っていますが、彼女がクラブで働いていたとき貯めたお金と親の援助だと聞いています」
「そうですか。亡くなった久本さんからじかに聞いた話ではありませんので、なんとも言えませんが、動機という点では愛情と金銭のもつれとでも言いましょうか。それに薬物を混入させることができたという点で、一応調べたいと思いまして」
「彼女はどんなに追い詰められても、人を殺せるような人間ではありません」
 高居は刑事と別れてから、あれこれ考えていた。人を殺せるような人間ではないと言ったものの、根拠があるわけではなかった。早苗はしっかりしている分、きつい面もある。 
 しかし人を殺せるような薬物を彼女がどうやって手に入れたかだ。そんなことができるだろうか。薬物の知識があるとも思えない。彼女にじかに刑事の話を伝えようかとも思ったが、彼女に妙な誤解もされたくない。
 高居は正直言って早苗を疑っているわけではないが、話の切り出しようによっては疑っているようにも取れる。そうは取られたくはなかったのだ。
 刑事たちの目的は、久本と早苗の関係で何か知っていることがあったら教えて欲しいということだったらしいが、久本のことは昨日早苗から聞いたばかりで、刑事に答えられるだけの情報は持ちあわせていなかった。

               「3」

 数日過ぎたが、その後警察からは何も聞かれることはなかった。海図に行っても、いつもと同じで何も変ったことはなかった。相変らず早い時間は混んでいたし、客が少なくなるのはいつも十二時近かった。高居は最後まで残ることが多かったが、客のいる間は、早苗が高居に親しく話しかけることもなかった。 
誰もいなくなると甘えた声で今日も疲れたわと言ってビールを飲み干した。
「変わったことはない?」
 警察のことが気になって、高居は訊ねてみたが、
「特に何もないわ。いたって平穏。不思議なことにあの人がいなくなって、緊張感みたいなものはなくなったけれど、だからと言って充実しているわけでもないの。人間って我侭な動物よね」
 彼女の話には警察の「け」の字もなかった。
「前向きな緊張感は必要だけど、後ろ向きの緊張感は何の役にも立たないからな。その分神経的には休まるはずだよ」
「ストレスはなくなったかもね。その分食事が弾んで今度は少し太り気味」
 彼女は笑った。その笑顔に警察から調べられている雰囲気はなかった。
「あの男以外にも、口説く男はいるだろう?」
 高居の口から、警察の話はしづらかった。
「いるにはいるけど、しつこくはないし、半分は冗談。冗談で切り返せば、それ以上は迫ってくることはないわ」
「それはいいことだ。君ほどの魅力ある女性が、誰からも口説かれないわけはないからな」
「あら。今日は随分誉めてくださるのね」
「今日に限ったことではない。いつもそう思っている。久本という男には、何か特別に狙われる原因でもあったのか?」
 金銭面でのつながりを聞くつもりで、そんな言いまわしをした。
 警察は、早苗が久本に借金があるのではないかと疑っていた。そのことを遠まわしに訊ねたつもりだったが、
「ないわ。困ったことがあったら、助けてあげるとは言われていたけど、助けてもらったことはただの一度もない」
 この言葉から、久本が開店資金の一部出したという妻の証言は、疑わしい話だと思った。いずれにしても久本か早苗か、どちらかが嘘を言っているのだろう。彼女がクラブにいたときからこの店を出すまで、高居は彼女のことをずっと知っている。
 店はそのまま居抜きで買っている。その費用は自分の貯めた預金と、残りは親から借りたと言っていたが、その話は真実だと思っている。
 店を出したばかりのころ、両親が心配だからと言って、客を装いよく店に来ていた。他の客には親だとは言わなかったが、高居には両親だと紹介してくれた。
「娘がいろいろお世話になっていることは、早苗からよく伺っております」
 母親が丁寧にそう言った。お世話とはどんな内容で説明したのだろうか。そのとき高居は顔が火照ったのを覚えている。
「バカね。親に二人の本当の関係なんか言うわけ・ないでしょう」
 後で早苗に確認したとき、彼女はおかしそうに笑った。
「娘がここまでやるとは思わなかったので内心ほっとしています。正直なところ最初は心配でしたが、高居さんのような人がついていてくれるので安心しました」
 父親も、昔は頑固者だと聞いていたが、そのときはただ人のよさそうな年寄りにしか見えなかった。
 高居も早苗がクラブ・ドリームにいたころは、多少の経済的援助はしていたが、金銭面では全体の比率は低く、むしろ精神面のほうが大きかったように思う。
「とにかく、よその人が援助してくれているのに、親として知らん振りもできませんので、なんとか必要な金の一部は出してあげました」
 当時高居は、父親の言葉をうなずいて聞いているだけだった。
「町の金融業者などで借金しますと、いいときばかりではないので、いつか負担になります。その点親からの借金でしたら、返せるとき返せばいいわけで、まぁ借金を取り立てるつもりもありませんが・・・・、あの子には、昔からたいしたこともしてやれなかったので、せめて花嫁衣裳代相当くらいは親の務めだと思いましてナ」
 早苗の父親は目を細めて、高居に熱心に語ってくれた。
「素晴らしい娘さんですよ」
 あのころから、他人には借金はしていないと早苗はよく言っていた。しかし現実どうだったかは知らない。また、その後の経営の中で金銭的に行き詰まったことがあったかどうかは聞いていない。高居が経済面で苦しいと言われても、助けてやれないことは事実だが、それでも彼女から金銭的な話をされたことは一度もなかった。
 商売としては薄利多売だが、なんとかやってゆけると笑っていた。久本が出したという金はどうなったのだろう。
「ねえ。ちょっと気になる話を思い出したんだけど」
 早苗は急に顔を近づけて、甘えた声をだした。
「なんだ。気になることって?」
「亡くなった久本さん。高居さんのことは、なんでも知っていると言ってたわ」
「俺のことを? 俺は奴のことは何も知らんよ」
「娘さんが二人いるとか、奥さんが髪結いだとか。髪結いの亭主って昔から放蕩に決まっているとか」
「なんで知っていたのだろう。俺の会社と何か関係があるのかな?」
「よくわからないけれど、高居さんの会社の人ならその程度のことは皆知っているの?」
「会社関係なら知っているかも知れないが、別の会社の奴に知られているとなると気分がいいものではない。あの男、どこに勤めていたのだ?」
「確か電話会社よ」
「気持ち悪いな」
「でしょう。盗聴器でも仕掛けられたら嫌よね」
「もし盗聴器が仕掛けられているとしたら、久本は死んだんだぜ。盗聴器はその後どうなっているんだろう?」
「そのままになってるんじゃない。でも死んだのだから、役には立たないと思うけれど・・・」
 背中に薄気味の悪い戦慄が走った。
「どこにどう仕掛けたのだろう?」
「高居さんのことを知ってるんだから、高居さんの家とか会社関係よね」
「なんの目的だろう?」
「わからないわ。でもそのことがずっと何か気になっていたのよ。この前高居さんが来てくれたとき話しそこねたの」
「気をつけてみるよ」
「そうして」
「君と俺の関係が調べたかったのかな」
「どうかしら。何か思い当たることある?」
「君との会話は電話ではやらないし、必要なときは携帯電話だからな。思い当たることはなにもないよ」
「携帯電話だから、二人の会話は聞かれることはないと思うけど」
 高居が持っている携帯電話は、勤め先の会社のものだ。それにしても妙な話だと身体全体に嫌な汗が流れた。

 その後も警察の動きは何もなかった。どうやら薬物絡みだと警察の腰も重い。証拠を固めるのに時間が掛かるようだ。特に警察の話では薬物は少量ずつしか与えられておらず、この前の話では、病気か薬物かはっきりしないといっていた。ただ薬物の可能性も否定できないと言う程度のことで、薬物の種類もなにもいってはいなかった。薬物の反応が出ないことには逮捕は難しいだろう。速効性のない薬物の場合、体内には残留しないらしい。警察にその後の動きがないということは諦めた可能性もある。

               「4」

 久本という男が亡くなってからは、海図に行く機会が増えた。それまでは週に一度行くか行かないか程度だったが、あれ以来毎日のように行くようになっていた。
 それから一月くらいして、急に体調がおかしくなった。どこといって、はっきり悪くなったわけではないが、身体全体がだるくなり、気力が失せ、とにかく疲れやすくなった。
 それで医者にかかってみた。こんな程度では医者も真剣には扱ってくれないだろうと思ったが、医者は血液や尿を調べるうちに急に慌しくなり入院を進められた。肝臓がかなり悪化していると言うのだ。
 それを聞いて高居は急に血の気が引いた。「しまった、久本と同じではないか」薬物を飲まされた。とっさにそう考えた。
 海図には、以前はそれほど頻繁に行っていない。ところがここ一月前ほどから毎日のように行くようになった。薬物の効き目が現れたのだ。
 しかしなぜ早苗は俺にも毒を盛るのか。そこが分からなかった。
 久本の場合は、執拗に彼女の身体を求め接近していた。しかも警察の話では金銭も絡んでいる可能性があったという。しかし俺には金銭も愛欲も絡んではいない。それなのになぜ?
 早苗は借金なんかなさそうなことを言っていたが、真実は久本に借金でもしていたのだろうか。
 海図なら、どんな食べ物にも少量の毒物を混入させることは可能だ。久本を殺す理由は分かる。しかしなぜ自分を、そこがどう考えても分からなかった。
 何かこちらの気がつかないうちに、彼女を傷つけるようなことがあったのだろうか。どう考えても早苗に恨まれるような心当たりはなかった。
 なぜだろう。自分が邪魔になったとすれば、彼女に男ができたのか。その男が医者だとすれば薬物の知識はあるだろう。その男と結婚の約束まで交わした仲だとして、そのくらいのことで邪魔になって俺を殺すだろうか。根拠のない妄想が次から次へと湧いてきた。
 もし早苗の結婚が決まったのだとすれば、高居が邪魔などするはずはない。むしろ祝福してやる。それなのになぜ殺す必要があるのだ。
 夫が入院したと聞いて、妻と娘たちがあわてて着替えを持って病院に来た。
「お父さん大丈夫なの?」
 下の娘が心配そうに高居の顔をのぞいた。
「大丈夫だ。発見が早かったので心配はいらない。医者はそう言っていた」
 高居は根拠のない嘘の説明をした。
「よかったわ。びっくりしちゃった」
「急な発病なの。前兆はなかったの?」
 妻も青白い夫の顔を心配そうにのぞいた。
「心配かけたな」
 妻にはいつになく優しい声で答えた。
 自業自得か。高居は心の中で呟いた。海図に毎日のように行くようになったのが運のつきだった。もし以前のペースだったら、こんなことにはならなかったろう。後悔してもあとの祭りだった。
 久本は毎日のように行っていたから利き目が速かった。高居は週一回程度だったから効き目はなかった。それが、久本が死んでからは海図に行く頻度が毎日のペースになった。もし以前のように週一回程度のペースだったら量が少なすぎて、こんなに悪くなる前に、手が打てたのかも知れない。早苗と早く縁を切っていたら、こんなことにはならなかった。
 それにしてもなぜ殺す必要があったのか、なんとしても釈然としなかった。悔やんでも悔やみきれなかった。
「昼間は来られないけど、夜は毎日来るから」
 妻はそう言った。昼間は髪結いの仕事がある。娘たちも昼間は学校がある。着替えと必要なものを確認して家族は帰った。
 発見が早かったから治るというのは気休めで、医者はそんなことは一言も言っていない。むしろ危ない状況だと話していた。家族が帰ったあと高居は強く唇を噛んだ。
 今さら、早苗に毒を盛られたと騒いでみたところで、早苗との関係を世間に公表するだけで、なんの解決にもならない。結果的には妻にも家族にも、秘密を知られるだけのことだった。家族や世間に公表したところで、病状が回復するわけでもない。
 翌日、昼間電話があった。看護婦が出られますかと訊ねた。安静というわけではない。数日前までは一応元気に会社に行っていた。気持ちの問題を除けば身体は動く。
「誰だろう?」
「会社の事務員の方だと言っていました。女性の方です」
「分かった。出るよ」
 多分、電話は仕事の関係で、会社の女子事務員が部長か誰かに頼まれて掛けてきたのだろうと思った。電話に出ると女性の声が聞こえた。事務員ではない。早苗の声である。
「ごめんね。変に思われるといけないので会社の事務員と名乗ったの。心配でお見舞いに行きたいと思ったけれど、家族のいるところではまずいでしょう。奥様は、昼間は仕事だから今なら大丈夫かなと思って、電話をしてみたの」
「昼間は女房も子供も来ないよ」
 今までさんざん早苗を恨み憎んでいたのに、声を聞くと、とたんに優しく返事をしてしまう自分が情けなかった。「なぜ俺に毒を盛った」そう怒鳴れない自分が哀れに思えた。
「今日は行けないので、明日の昼間伺うわ」
 そう言って電話は切れた。声の調子は本当に心配してくれているようにも聞こえた。演技かも知れない。電話をしてきた本当の目的は、高居のようすを探るためだったのかも知れない。でも声の質は真実のようにも思える。これが俺の弱さかな。早苗の澄んだ声を聞くと迷いが出た。演技でようすを探りに来るなら、それでもいいかと思ったりした。
 顔を合わせても、「毒を盛ったな」などと言う勇気はない。気のせいか、早苗は高居にとっては菩薩のように穏やかな顔に見える。いつもそれで気持ちが萎えでしまう。
 翌日の昼ころ、早苗は大きな花束を抱えて見舞いに来てくれた。
「本当に大丈夫なの?」
 花を花瓶に飾りながら、早苗は心配そうに眉を曇らせた。その顔に陰りはなかった。本当に心配してくれているように思える。
「何だろう? 急に体調がおかしくなった。それもこの一月くらいだ」
 高居は暗に海図に毎日行くようになってからだと言ったつもりだったが、彼女はまったく気づいたようすもなく、
「高居さんは、そんなにお酒を飲むわけでもないのにね」
「そうだな。食べ物が中心だ」
「奥様は毎日来られるの?」
「昼間は仕事だからな。夜は必ず来るよ」
「お店大変なんですってね」
「店って?」
 突然の早苗の言葉に、なんの話だと不思議に思った。
「お客さんから聞いたわ。離婚の噂もあったんですって?」
「離婚。誰の話だ?」
 突然の話題に高居は驚いた。自分が妻と離婚する?そんな話し合いを妻としたことがなかった。
「高居さんの家庭のことよ」
「離婚なんて話はないよ」
「私も信用はしていないけど、そんな噂を耳にしたものだから・・・・・・。もしそうなったら、私をもらってくれるかしら、なんて考えたりしてね」
 早苗は冗談半分で笑った。
「もちろん家庭がうまくいっているのは分かっているけど、でも奥様はお店を改装して大変なんですってね、そう言っていたわ」
 知らない話だった。自分の家庭のことである。それを早苗や他人のほうが知っていることに、多少なりとも違和感を覚えた。
「なんでも、お店の改装に相当お金を掛けたらしいわね。けれども思うようには客は増えなくて、改装のために借りたお金の金利負担だけでも大変なんですって」
 なにも聞いていない。それほど妻の仕事と家庭には無関心だった。
「だからご主人を当てにしていた矢先の病気でしょう。ついていないって」
「誰がそんなことを言っているのだ?」
「亡くなった久本さんと一緒に来ていたお客さん。久本さんが亡くなってからは、会社の手続きなどで、よく久本さんのお宅に伺うんですって、そこで出る噂話みたいよ」
 なんで久本の家で、我が家の噂話が出るのだろう。久本の家でということが引っかかった。盗聴器の話も解決はしていない。
「俺ものんきだな。女房のことはなにも知らないよ。女房と言うより家庭内のことは何も知らない」
「病気よくなったら、もっと家庭を大事にしないといけないわね。今までのバチが当たったのかも知れないから」
 早苗の顔を見ると、自分に毒を飲ませる、そんな恐ろしいことが出来る顔には見えなかった。まして「毒を盛ったのか?」などと到底言えることではなかった。
「その後、久本の家はどうなっているのだろう?」
 警察は、早苗が薬物を飲ませたと疑っていたが、久本の妻は早苗のことは疑ってはいないのだろうか。そのことで、久本の妻は早苗のところに押しかけたりしてはいないのだろうか。それらのことが聞きたかった。
「久本さんの奥様は、旦那の生命保険が入って優雅にやっているみたい。久本さんの友人の話では、葬式の後はしばらく混乱していたようだけれど、やっと生活も落ち着き、とにかく一安心だと言っていたわ」
 生命保険が入ったのか。人間経済的にもゆとりができると落ち着くものである。それで早苗も攻撃されずに済んでいのか。どの道警察でも躊躇するくらいだから、素人が早苗を責めてみたところでどうにもならない。それで早苗は助かっているのだ。

 夜は毎日、妻と子供たちが見舞いに来てくれた。三人揃ってくることもあれば、ばらばらのときもあった。
「店のほうはどうなんだ?」
 妻に優しく訊ねてみた。
「相変わらずよ」
「店の借金返済や、なにやかやで、大変なんじゃないのか?」
「ちょっとね。でも病人は心配しないで、それより一日も早く治して」
 しばらく話しているうちに急に睡魔に襲われて、眠ってしまった。目が醒めたときは、もう家族は帰った後だった。時計を薄明かりに照らして確認してみると、深夜の二時を指していた。うとうとしたときに「保険に入っておいてよかったわね」という長女の声を耳にしたような気がした。「眠っているから起こさずに帰りましょうよ」という次女の声もかすかに覚えている。夢うつつで正確な会話は覚えていなかったが、確かに生命保険に加入していると言っていたような気がした。
 別に気にする会話でもなかったが、高居の保険は会社で掛け捨ての団体保険に入っている。八千万円である。掛け捨てだから満期に下りることはないが、手間は掛からないし掛金は安い。人間ドックは毎年受け、健康状態に問題はなく良好だった。肝臓にも異変はなかった。今年受けたのは六カ月前である。ドックのデータを使えば保険に入れるのかも知れない。そう言えば会社の掛け捨て保険に加入していることは、妻には説明していなかったかも知れない。生命保険は、新たにいくら加入したのだろう。掛け捨ての保険の他に新たな保険に入ったのは、まったく知らないことだった。案外家のことは何も知らない。妻に任せっきりにしてある。
 翌日、下の娘に生命保険に入ったことを訊ねた。妻と長女は後から来ると言っていた。
「そう。万一に備えて全員入ったの、お店を改装したあと。それに美容室に来るお客さんで保険の外交員をやっている人がいて熱心に勧められたみたい」
「全員入ったのか」
「お父さんは働き手だから一億円。お母さんが五千万円、それにあたし達も」
「健康診断は?」
「お父さんはドックに入ったばかりだったから、その診断書。あたし達は一応検診したわ。なぜ?」
「いや。備えあれば憂いなしだから、その意味では安心だ」
「駄目よ。まだ死んじゃ。あたしたちがお嫁に行くまでは元気でいてくれないと」
「嫁に行ったら死んでもいいのか」
 冗談のつもりで言ったが、笑顔が弱々しく引きつっているのが自分でも分かった。
「そう言う意味じゃないけれど、お父さんはいつまでも元気でいて」
「わかった」
 娘を抱きしめた。
 それから数日後、更に容態が悪化した。病室には誰もいなかった。枕元には、急用のときのために看護婦を呼ぶボタンがあったが、それをぼんやり眺めていた。

 この間、下の娘が来たとき「今度は近いうちにお母さんのお友達の、久本さんと言う方もお見舞いに来るって言ってたわ」と教えてくれた。それで何となくすべてが分かったような気がした。
 妻が毎日入れてくれたコーヒーに薬物が入っていたのだ。妻が葬式に行くと言って、店を休みにしたのは久本の葬儀だったのだ。久本の妻と家内が友達だったとは、まったく気がつかなかった。気づくのが遅すぎた。二人は友達同士だったから、久本の妻は美容室の経営が思わしくないことや高居の家のようすまですべてを知っていたのだ。妻がすべてを話していたからだろう。
 亡くなった久本が盗聴器を仕掛けたわけではなく、妻同士の間で情報が伝わっていたのだ。それらの情報は久本の妻から久本が生前勤めていた会社の者に伝わり、その話が海図で早苗にも伝わったのだろう。
 久本に毒を少量ずつ飲ませ、殺したのは久本の妻だ。そして同じ方法で自分も妻にやられた。
 薬物の知識は、どちらかが知っていて、お互い教えあったに違いない。警察に不審な点があると指摘されたとき久本の妻は、とっさに家では食事をしていないとごまかしたが、家でなにも口にしないということはありえない。疑いの矛先を変えるための詭弁だ。
 警察は久本の奥さんの言葉を信じて早苗を疑ったが、もとより早苗は関係ない。いくら調べても疑わしい点などない。それで警察は諦めたのだろう。
 考えてみれば、久本の妻と家内が友達だったことを知らなかったのは迂闊だった。久本が俺のことをよく知っていたのは、しごく当然で当たり前のことだったのだ。
 二人が友達だったと言うことは、俺が海図に行っていることも家内は知っていたのだろう。久本から、俺と早苗ができていたと吹き込まれていたかも知れない。久本が早苗に資金を出したと言っていたが、あれは久本の妻がとっさについた嘘だろう。あるいは本当に久本自身が何かで金を使ったかも知れない。金を使った相手は早苗ではないだろう。しかし久本の妻は、早苗と思い込んでいる。金銭と嫉妬が絡んで、久本は自分の妻に殺害されたのだ。
 そして自分も同じ道をたどった。早苗とのことは真実と嘘を交えて久本から聞いているに違いないから、それを聞けば当然嫉妬心も生まれる。その上美容室の経営が思わしくなく、まとまった金が必要だった。なによりもまして、夫としての役割を何も果たしていない俺は不要だったのかも知れない。
 急に早苗がいとおしく思えた。それにしても考えが浅はかだった。コーヒーの味が違うと思ったとき、徹底的に調べておけばよかった。早苗を疑って済まなかったと心の中で詫びていた。
 薄れる意識の中で、自分が死ぬとまた早苗が疑われると思った。久本の妻と家内が共謀して、苗を犯人に仕立てるための共同作戦なのかも知れない。
 早苗のことを思うと胸が熱くなった。そしてまた、さらに意識が遠のいていった。
 完

近くの他人

特になし

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早苗はなぜわたしに毒を盛ったのか?殺す理由があったのか。しかしそれを言う勇気がなかった。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-07

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