今、この柵を越えた先に
そこからは…
家を出て3分ほど歩くと、40年ほど前につぶれた廃病院がある。確か当時の日本で3番目にでかい病院だったかな。今は若者に人気の心霊スポットになっていて、夜な夜な肝試しにくる奴らや、スプレー缶を持参して彼らなりのアートを壁に残しにやってくる。
一階の玄関から受付を抜けて、101号室から121号室までゆっくりと歩く。病院のあの独特な匂いは消えてカビ臭さに変わっていた。埃まみれの階段をあがると、さっき話したアート達が壁一面にかかれていた。デフォルメされたバイクの絵。筆記体で綴られた英語。エイリアン。僕にはよくわからない世界だが、確かにこれもある種の形だ。彼らは何を思ってこんな絵を描いたんだろう。壁に触れてみるが、シンナーの嫌な匂いしか感じることはできなかった。
左を見ると、201号から221号室の廊下だ。ここはひどく荒れている。スプレー缶や花火のゴミ、惣菜の発泡スチロール。ありとあらゆるゴミが置き去りにされている。寄り道をしようか階段を上がろうか迷ったが、寄り道をしようと思う。これは、去年のこの日にはなかったことだ。去年の僕はここでただ階段をあがった。
201、202、203、204。各病室には置き去りにされたベッドや、引き出しのあいた棚、日付の過ぎたカレンダー、謎の書類が散乱している。1つ1つ拾い上げてみるが、風化していて何が書いてあるのかはわからない。さほど重要なものではなさそうだが、これが何かの秘密なのかと考えると、楽しくなった。
205、206、207、208。あとは何も変わらない。変化のない部屋が続くだけだ。
221号室。この先は行き止まりだと思っていたが、ここからでも3階にあがれるみたいだった。
これにより、寄り道に意味が生まれた。寄り道をしたからこそ見つけた道。こういう些細な発見は日々の中に腐るほどある。しかし、僕たちはそれに気付くことはない。正確には気付いても手放すんだ。確かにその変化は新鮮そのもの。日常を嫌う僕らにとって、それは宝だ。けど使わなければ要らないもの。必要でないものを持って何になる。その判断が頭の中で0.4秒で行われる。その瞬間、宝はガラクタに変わる。これが何気ない平凡な僕らが望む、特別に出会えない理由だ。
3階にあがると、危ない気配がした。ここまで歩を進める人はそういない。ある種の線引きがあるのだろう。確かにこの場所に足を踏み入れると、入ってはいけない感じがする。
あまり光の入らない廊下を進む。ここには何も落ちていなくて、埃とカビの匂いだけが充満している。空気も静まり返っていて、歩いているだけで気分が悪くなってくる。
301、302、303、304。本当にここには何もない。部屋の中も空っぽ。ベッドすらない。まるでこの階で起きた『何か』を隠すように。
305、306、307、308。各部屋の所々に赤みがかったシミがある。これが何なのかはだいたい察しがつくだろう。
321号室。ここが一番損傷の酷い場所だ。40年前、ここで爆発が起きた。1人の少年が起こした悲劇的な事件。それについては触れないことにしよう。掘り下げても後味が悪いだろうからね。
屋上に上がると懐かしい感じがした。というのも、僕はここに来るのは21回目なんだ。最初に来たのは7歳の時だった。歳のわりに大人だった僕は、人間は何でこんなにも醜いんだと思っていた。きっと態度に敏感だったんだな。先生や親の顔の裏表に隅々まで気づいてたんだ。この人は、こういう場面ではこうして、あの場面はこうなる。何で違ってるんだろう。それが逃げや、嫌われないための近道だっていうのはすぐにわかった。そいつらから僕は学んだ。感情豊かな人間はこういう風に生きていかないと、幸せにはなれないんだと。
季節は夏。梅雨明けの綺麗な青空の下、僕はここに来た。死んでやろうと思って。
でも当時のぼくにそんな勇気はなかった。単純に高いところが怖くて足がすくんだ。ここから飛び降りれば終わりだってわかってても恐怖が必死に腕を掴んでそれを許さなかった。
8歳も、9歳も、僕はいつまでたってもここから飛び降りることはできなかった。
中学に上がった僕も、相変わらずこの場所から飛ぶことはできなかった。早急に終わらせたいのに、意味のない人生にいつまでしがみついてるんだと頭に言い聞かせても、僕の体がこの柵を超えることはなかった。
高校3年の夏。いつもと同じ日、同じ時間に僕はここから柵の下を覗いた。いつの間にか僕は大きくなっていて、昔は見えなかった景色が見えるようになっていた。学校だってそれなりに楽しいし、家に帰ればそれなりの家族がいた。でもこれじゃダメなんだ。本当に心から楽しいことをするのは、人生で一度あるかないかなんだ。
───そうやって思うだけ。結局僕は生きていた。
そして今、21回目のここは…やっぱり変わらない景色だった。何か変化があればいいのに、この場所にはない。
前は30歩ほどかかっていた柵までの道のりも、今や14歩で着いてしまう。これ以上はないほど大きくなってしまった。
柵に手をかける。すると、体が芯から震えだす。この震えの正体が僕ずっとわからなかった。いや、わからないフリをしていたのかもしれない。
でも、今回はそれがはっきりした。ぼやけていた視界のフォーカスがやっとぴったり合った。
『生きたい』
いつのまにかこうなっていた。やはり人生というのはわからないもので、今の僕にはそれなりに楽しい友達がいて、きつくてだるい仕事があって、どうしようもないくらい可愛い恋人がいる。
こうなってはもう、死ねない。いや、素直に言えば死にたくない。子供の時に見ていた景色、態度、風評は確かに現実だが、飲み込まないといけないものだった。
かなしいよ。でも、幸せだよ。
そうして僕の心は、生きることを選んだ。
今、この柵を越えた先に本当の答えはある。
しかし自動でくるその答えを待つという選択こそが、一番なんだろう。
だから、生きて欲しい。
綺麗なものばかりは見れないけど、そもそもこの星に生まれたこと自体が、こうして考えるすべての時間が、何もかも大事だから。
さようなら。今までの僕たち。
初めまして。これからの人生。
今、この柵を越えた先に