お前なんて知らない
昨日は酔って眠ったんだ
「久しぶりだね」
突然声をかけられた。白髪の見たこともない奴だ。
「お前なんて知らない」
俺は言ってやった。確かにこんな奴は知らないからだ。
「いいや。それは君が逃げているだけだよ」
白髪の男はにやりと笑いながら言った。
「意味のわからないことを言わないでくれ。多分だが、君の間違いだ。ほら、よく見て。俺の顔なんて知らないだろ?」
「間違いなもんか。僕は君の名前だって知ってるし、歳だって、家だって知ってるんだ」
やばい。本格的にやばい奴だ。俺は後ろを向いて逃げだした。人をかきわけながら一心不乱に逃げた。なんでこんなにあわてているのか自分でもわからないが。
「おいおい。どこに逃げるっていうんだ…」
“逃げられないのはわかってんだろ?”
気付くと俺の前にお前はいた。
「だ、誰なんだよお前!」
「おいおいおいおい。もう聞き飽きたぜ。やめようぜ。やめにしよう」
そういうとお前は俺の髪の毛を掴んだ。
「おい!何すんだ、ああ、あ、あああおい!」
そのまま俺を引っ張っていく。体験したことのない痛みに顔が歪む。
お前は俺を大きなガラス張りの店の前まで引きづっていき、乱暴に投げ捨てた。
「いてぇ…くそ!お前はなんなんだよ」
「いいからほら、前見ろ。教えてやるよ」
そう言われて向いた前のガラスには、俺とお前の姿が映っていた。黒髪に黒縁メガネをかけた俺と、セットされた白髪に、何もかも俺の好きな衣装できまっているお前。
「まずは…頭だな」
そういうとお前は俺の髪を乱暴につかみ、いつの間にか手に持っていたスプレーを頭に吹きかけた。
真っ白いガスが俺とお前の周囲を曇らせる。呼吸がし辛い。苦しい。スプレー独特の粉々した空気を吸い込むたびに喉に何かが詰まっていく。
「…ふぅ。次」
お前はそう言って、自分の着ていたジャケットをパタパタと仰いで、煙を飛ばした。前のガラスを見ようとしたが、焦点が合わない。意識が朦朧としていて、体に力すら入らない。お前は今何をしているんだろうか。焦点のあっていない目で見てみるが、何をしているのかは分からない。ただ意識だけが遠のいていく。タチの悪いやつに引っかかっちまったな。意識が途切れる寸前、お前の声が聞こえた。
「おい。起きろ。これで分かるだろ?」
パチンッと顔の前で指を鳴らされた。ぼやけていた視界、苦しかった呼吸が楽になり、徐々に体が動くようになってきた。
「な……これは」
ガラスの前には俺と俺が映っていた。
「俺が捨てた俺を忘れんじゃねぇ。まだ諦めんな。したい事やるなら…今しかねぇぞ」
ジリリリリリリンッ
目覚まし時計の音で目が覚めた。
汚い四畳半には、俺が昨日買ってきた着たかった衣装と、クレイジーカラースプレーのシルバーが置いてあった。
お前なんて知らない