南天の実

             南 天 の 実              
                               古山 健行
               「1」

 庭先に春の草花が咲き乱れていた。その花の周りに、蝶や蜂が飛び交っている。春になって、虫達が長い冬の眠りから目を覚ましたのだ。そんな様子を逸平太は、ぼんやりと眺めていた。春になって、いろいろなものが目覚めてきたのだ。何かが起こる。そんな嫌な予感がした。数日前、家老の大和田様から呼ばれ、
「そなたもそろそろ嫁を貰わぬか。わしが良い娘を世話しよう」と言われた。
 目的は嫁の世話ではなく、大和田一派に組み込もうという算段だ。秋月逸平太を味方に組み入れれば、更に磐石になると言う、家老一派の企みだ。
「嫁のことについては、いろいろ考えてはおりますが、何分にも父の病がさらにひどくなっており・・・・・」
 家老大和田は柔和な顔で、そんな逸平太を眺めていた。この柔和な顔が、いつ怖い顔に変貌するのかを考えながら喋っていた。
「今は、嫁を貰うどころの騒ぎではございませぬ。父の病が落ち着けば、いずれご家老様にご相談にあがるやも知れませぬが、今しばらくはご猶予を・・・」
 大和田多聞の屋敷の一室だった。二人の他は誰もいない。二人だけで話がしたいと、大和田多門が、家来達を、処払いしたのだ。
「父上の病はそれほど重いのか?」
 大和田多聞は、さも父の病を心配しているような素振りを見せたが、さほど心配していないことは、日頃の態度でわかっていた。
 父、秋月鱗太郎は、藩の剣術指南役であったが、5年前に病気を理由に引退した。父の引退後は、逸平太に剣術指南役の跡目を譲るという話もあったが、逸平太がそれを断った。それで藩の剣術指南役には、川野辺宗達という男がなった。
 藩の指南役には多くの候補者があったが、結果的に、川野辺宗達が指南役になったのは、候補者の多くを実力で排除したからである。川野辺宗達は、何人かの候補者を決闘と言う名で斬った。
 逸平太はそれが嫌だったのである。人を押しのけて、指南役になりたいとは思わなかった。決闘という名で人を斬り殺すのは主義ではなかった。逸平太が跡を継ぐと言えば、腕に覚えのある者たちが、われと立ち会えといってくるのは必定。立ち会って負けるとは思わなかったが、人殺しは性分に合わなかった。
「父の病が落ち着けば、嫁のことについては、ご家老様にお願いすることになりましょう。それまでは暫くこのお話は・・・」
 そう言ったが、それは嘘である。嫁の話を大和田多門にお願いをすることは、万が一にもない。主席家老の大和田様から推薦を受けた以上、そう簡単には断われない。多少意に染まなくても、嫁にしなければならない。
 大和田多門の本音は嫁の世話ではない。逸平太がどちらにつくか腹を探っているのだ。藩の中で、態度を明らかにしない逸平太を取り込むための策略なのである。ということは、いよいよ平沼一派が動き出したことに他ならない。
 平沼大膳の考え方や、行動は正しい。しかし手段が気に食わない。自分は安全な場所にいて、若い藩士をそそのし、大和田多聞を討とうと言うのだ。そんな藩の政争には関わりたくなかった。それが秋月逸平太の本音である。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと庭先で蝶や蜂の飛び交う様を眺めていた。
「兄上、何をぼんやりと?」
 妹の陸がおかしそうに手で口元を押さえ、笑いながら声を掛けてきた。
「春になると虫達が騒ぎおる。寝ておればよいものを・・・」
「春に虫達が起きなかったら、一生寝ていなければなりませぬ」
「一生寝ていれば良いのじゃ・・・」
「そんな・・・。兄上らしくもない。春には皆起きるのです」
「面倒じゃ」
「何が、でございます?」
 陸はさらにおかしそうに首を捻った。
「向井様は、その後変わったことはないのか?」
 逸平太は話題を変えた。
「何も変わりませぬ。いつもの通りでございます」
 陸は行儀見習いの名目で、藩の重臣向井様の屋敷に、手伝いに行っている。その向井様に変わったことはないのかと訊ねたのだ。向井彦九郎という重臣は利口者で、政争には加わらないように努力している。
「陸!兄に遠慮せず、好きな男がいたら、さっさと嫁に行って良いぞ」
「突然何を言い出すやら、何なのですか?」
 陸は不思議そうに兄の眼を覗いた。
 陸はしっかり者だが、心配事や、悩み事はないのか。逸平太としては、少し忌々しく思っている。いつも笑顔を絶やさず、明るく陽気なのだ。
「旦那様。夕餉の支度ができました」
 小夜が三つ指をついて、逸平太と陸の前に頭を下げた。言われて逸平太は座敷に上がり、膳の前に座った。すると小夜が、
「先ほどお庭で、大旦那様がこちらをずっと見ておられました。寂しいのではございませんでしょうか・・・」と心配そうに眉をひそめた。
 逸平太の父が病気になって以来、父親を離れの別棟に隔離するようにしている。陸も小夜もそれが納得ゆかない。まるで別棟に父親を押し込めているように見える。小夜はこの家に来てからずっと、逸平太の父親にも優しくしてもらっている。その父親が隔離されているのは悲しい。
 元々逸平太は親孝行で、親を大事にする人だった。それなのに、病気になった途端、父親を隔離したのはなぜだろうと、小夜は前々から、不思議に思っていた。
 そのことは、妹の陸も、兄に何度も食って掛かったが、
「父上はあれで幸せなのだ。余計な口出しはするな」と、まるで取りあおうとしない。
 優しい逸平太様にしては、合点の行かぬことと、かねてより小夜は思っていた。
「大旦那様は見かけ、とても元気そうなご様子。親子水入らずで、お過ごししたいのではないでしょうか・・・」
 小夜はここぞとばかり、日頃の胸のうちをぶつけた。
「そんなことはない」
 逸平太は不機嫌そうに答え、用意された食事に箸をすすめた。
 逸平太の父、秋月鱗太郎は、こちらとは交流できないように、垣根で仕切られていた別棟の家に住んでいた。
「たまには、ご一緒に食事などされては・・・・」小夜の言葉に、
「必要ない」と不機嫌に言った。
「そうですか・・・・」
 逸平太の強い口調に、小夜は上目遣いで、困ったような顔をした。ここ数年、陸も小夜も、近くで父親と会話を交わしたことはない。
「そうですよ。あれでは父がかわいそうです」陸も負けずに言った。
「父は病気じゃ。しかもうつる可能性もある」
「もし、陸と小夜にうつる病気でしたら、お里にもうつるはずです。なぜお里はうつらず、平気なのですか?」陸が少しむきになった。
 お里とは、病気になる前から、父の身の回りの世話をしていた年配の女中である。町人の出で、身寄りがなく、それで秋月家の勝手口を任されていたが、父の病気以後は、父の専属の女中をしていた。
「若い娘には移る病気だ。お里は歳をとっている。だからうつらない」
「また、そんないい加減なことを、そんな病気聞いたことがありません。以前は食事中に失禁するだの、大きなおならをするとか言っていたのに、今度は若い娘だけにうつる病気ですか。本当に勝手なことを言う兄上ですこと・・・・」
 流石に陸も呆れていた。しかし兄は頭のいい人である。理由もなく父を隔離する筈はない。そのことが解せなかった。
「何でもよい。もう父上の話はするな。飯がまずくなる」
 逸平太は不機嫌そうに、そっぽを向いた。父の話になると、逸平太はすぐに話をはぐらかし、話題を変える。何かある。陸はそう思っていた。小夜も昔から大旦那様には、可愛がってもらった。できれば余生は、心行くまでお世話をして、幸せに暮らして欲しいと願っている。でも、逸平太からは、
「父には、絶対に近寄るな」ときつく言われている。
 何があるのか、小夜も不思議に思っていた。

 荒れ寺である。何年も手入れされていない雑草が、ここぞとばかりに、生い茂っている。奥まった廃墟の寺には、人の気配はない。初夏の昼下がりであった。雑草の一部は木になりつつあった。そんな雑草の中に南天の白い花が咲いていた。
 そんな荒れ寺の裏手に三人の侍が難しそうな顔で立ち話をしていた。時折回りを飛び交う虫達を手で追い払っていた。
「やめたほうがいい。おぬしらが、いかに楯突こうとも、相手は筆頭家老だ。それに藩主様の弟でもある。そなたたちは平沼殿に踊らされているだけだ。大和田様の術中に嵌って、藩への反逆者扱いになるのが落ちだ。即刻計画は中止しろ」
 逸平太は、いきり立っている二人の朋輩に言った。
「いや。まともに歯向かえば、家老の術中にはまるが、まずは家老の手先の者を何人かを斬る。そうすれば、藩主様も何がおきたのかとお気づきになる。このままでは藩主様のお命すら危ない。そのための警鐘を鳴らすのだ」
 高浜半四郎が、逸平太の鼻先に、顔を近づけ興奮気味に言った。
「高浜の考えていることは、警鐘にも何もならん。ただの斬り合いに終わる。筆頭家老がそう仕組むだろう」
「逸平太殿に、我々の仲間になれとは言わない。ただ我々の邪魔だけはしないでくれと、頼んでいるだけだ」
 葛西新之助が、高浜を押さえて、冷静な口調で言った。
「そなたたちのやることは、ただの犬死だ。命を粗末にするな。筆頭家老や城主様は、いずれももうお歳だ。それに引き換え、そなたたちは、はるかに若い。放っておいても、あちらが先に死ぬ。新しい時代は必ず来る。それまで我慢致せ」
「いいや。これ以上は待てぬ。このままあと少し放置しておけば、この藩は腐ってなくなってしまう。お家騒動が幕府の耳にでも入れば、おとりつぶしになるのは必定。今は行動あるのみじゃ」
 高浜は興奮している。
「放って置けば、お家騒動にはならない。腐ってもなくなりはしない。それにおぬしらの行動は、事前に大和田様に漏れている」
「いや漏れてはいない。5日後の夕刻、城から下がるときに、滝田、山形、佐伯を斬る」高浜は刀の柄に手を掛け言った。
「先手を打たれて、犬死するのが目に見えている。高浜!そなたが討たれたら、残された奥方と、病弱の母上はどうなる。父上の無念の死だけで十分であろう」
 高浜の父親も、ご家老大和田様に意見して、大和田様の一方的言いがかりで、反逆者扱いされ、切腹した。妻のことを言われ、高浜は少し冷静になった。そして、
「いざことある時は、妻のことをよろしく頼む。あ奴は隣国の生まれじゃ。万が一の場合は、実家に帰る様、申しつけてある」
「馬鹿を言え。どんな濡れ衣を着せられるかわからないのだぞ。反逆者の妻では救いようがない。すこしは冷静になって考えろ。相手が悪すぎる。ご家老様は、平沼一派を根絶やしにするつもりだ。次席家老の平沼様だって、自らの手は汚していない。お前たちは利用されているだけだ。藩の改革は、時節を選べ」
「それでは遅い」
「藩の改革など時間がかかるものだ。おぬしらがどうあがいても、結果は何も変わらない。刃の下から、理想は生まれない」
「秋月がなんと言おうと、我々は決行する。邪魔だけはするな」
 高浜半四郎は強く言った。
「もう秋月に言うことはない。我々は行く」
 秋月逸平太と高浜の会話中、あたりを注意深く気を配っていた葛西新之助も、説得をやめ、その場を立ち去ろうとした。
「まて、もう少し話を聞け、そなた達の手の内は既に読まれている。おぬしらの仲間の中に裏切り者がいる。せめて敵に動きを悟られないためにも、5日後の決行日は控えろ」
「心配ご無用。我々の仲間に裏切り者はいない。いれば拙者が斬る」
 高浜は秋月の手を払いのけて、それから高浜と葛西は、逸平太を振り切るように、小走りで荒れた寺を抜け出した。雑草が、むんむんして、虫がうなりをあげて飛び回っている。蒸し暑い初夏の日だった。南天の白い花だけが、鮮やかに咲き誇っていた。

 秋月逸平太は、二人と別れてから、「大変なことになるな・・・」と独り言を呟やきながら、むなしく家に戻った。
 家では小夜が出迎えた。庭にいた郎党も何人か、無言で出迎えた。
「小夜、布団を敷け」
「ハァ?まだ昼間でございますが・・・・」
「わかっておる。とにかく布団を敷け。わしは寝る」
「わかりました。あの・・・。私も・・ですか?」顔を赤らめて小夜が確認した。
「小夜が・・・?何でわしと一緒に寝るのだ。馬鹿なことを言うな」
「・・・ですよね」
 小夜は思い切り恥ずかしそうな顔をした。
「旦那様、お一人で寝られるのですか?」
「当たり前だろう。よいか。わしは今日から病気になる」
「病気・・・・?どこかお身体が悪いのですか」小夜は心配そうに顔を覗いた。
「どこも悪くはない」
 小夜は布団を敷きながら首を傾げた。
「小夜・・・、誰か訪ねてきたら、逸平太は熱をだして寝ていると伝えよ。郎党らに訊ねられても、病気らしいと言っておけ。しばらくは誰とも会わん」
「陸様とは・・・?」
「陸には病気で臥せっていると言え。陸が帰ってきたら、わしの部屋に来るように伝えよ」
「わかりました。夕餉のお支度は?」
「わしは、本当は病気ではないぞ。飢え死にさせるつもりか」
「そのような。何で旦那様を飢え死にさせるのですか。そんな言い方、小夜は悲しゅうございます」
「冗談じゃ。小夜は真面目すぎていかん。そんなことで泣くな」
「悲しゅうございます。小夜は旦那様のことを、第一に考えております。旦那様に死ねと言われれば、いつでも死ねます」
「大袈裟な。とにかく小夜と陸以外は、この部屋に近づけるな」
「はい。わかりました」

 夕刻になり、陸が戻ってきた。
「旦那様がご病気?」
 陸は小夜から聞いて驚いた。今朝あれほど元気だったのに。
「お陸様が戻られたら、旦那様の部屋に来るようにと・・・」
「ひどいのですか?」
 病気のことを聞いた。
「さあ・・・・?」
 陸は小夜の返事で、首を傾げた。府に落ちない返事をしたからである。

「兄上、如何なされたのです?」
 陸は逸平太の枕元に座って、兄の顔を覗いた。逸平太は頭から布団をかぶって寝ていた。薄い夏布団とは言え、頭から布団をかぶったら暑い。
「熱があるのですか?」
 すると、かぶっていた布団をがばっと、払いのけて、
「別に何でもない」
「何でもないのなら、なぜ小夜に病気などと・・・」
「今日からしばらくの間、病気と言うことにする。この部屋には誰も近づけるな」
「どういうことですか。わかるように説明してください」
「いずれわかる。ただ高浜や葛西などの朋輩を斬りたくはないからだ」
「何か始まったのですね」
 陸は感がいい。兄の仮病に、只ならぬ事が起きると考えた。
「そうだ。病気でない限り、態度をはっきりさせなければならない。大和田様の陰謀には関わりたくないのじゃ」
「わかりました」
 傍で小夜が不思議そうな顔をしている。
「小夜、あとで説明します」
 そんな小夜に、陸は優しく言った。二人の会話を聞きながら、逸平太は、
「明日は、向井様のお屋敷には出仕せず、わしの看病を致せ。明朝、向井様の屋敷に休暇の届けを出せ、その帰りに医師の道按(どうあん)に、兄が急病につき、至急来るようにと伝えてくれ」
「山瀬道按様に・・・ですか?」
 山瀬道按は藩のお抱え医師だ。名医と誉れ高い。信用もある。
「そうだ。高熱を出して、生死のあいだを彷徨(さまよ)っていると、脅かして参れ。そうすれば、直ぐに飛んでこよう」
 その言い方がおかしかったので、小夜は思わず口を押さえて笑った。
「小夜!何がおかしい」
「はい。旦那様、直ぐに夕餉の支度にかかります」
 小夜はまだおかしかったが、口を押さえて部屋を出た。
「やれやれ・・」
 陸も苦笑いを浮かべながら、小夜の後姿を眼で追った。
「陸。わしは、流行り病で人にうつるゆえ、誰も近づけるな」
「小夜も、・・・ですか?」
 陸もおかしそうに笑いながら口元を押さえた。小夜がいなくては何もできない筈である。陸は笑いながら、わざと意地悪くそう言った。
「だから、陸と小夜は別だ」
「わかりました」
 陸は台所に行くと、小夜に、
「旦那様のご病気は、他人に移る病気と言うことで・・・」
 二人は顔を見合わせ、必死に笑いをこらえていたが、思わず声をあげて笑ってしまった。その笑いが収まってから、
「何なのでしょうか?」
 小夜が不思議そうに陸の顔を見た。
「お城に上がるのに、何か不都合なことができたのでしょう」
 陸は言いながら思案げに天井を見上げた。
「本当に病気ではないですよね」
 小夜が少し心配そうに顔を曇らせた。
「当たり前でしょう。あんな元気な病人がいますか」
「そうですよね。それを聞いて安堵致しました」
「でも、仮病だと知っているのは、小夜と私の二人だけですから、他言は無用ですよ」
「はい。承知しました」
 小夜は病気ではないとわかって嬉しそうな顔をした。小夜は逸平太のこととなると、自分のこと以上に心配した。
 翌朝、陸は向井様のお屋敷に上がり、兄が病気ゆえ、暫らくの間看病するので、休ませて欲しいと願い出た。向井家の家来で青木と言うものが、
「伝えておくゆえ、安心して兄の看病をしなされ」と言ってくれた。
 陸が向井彦九郎の屋敷に奉公に出たのは、母が亡くなって、行儀作法やしきたりについて、より深く勉強するため数ヶ月間の約束で、上がったのだが、向井彦九郎にすっかり気に入られ、礼儀作法の習得が終わっても、そのまま勤めるように勧められ、家にいても仕方がないので、そのまま向井様の屋敷に出仕している。兄のことは殆ど小夜がやってくれるから、家の心配は何もない。
 向井家では、藩の騒動には関知せず、知らぬ半兵衛を決め込んでいる。騒動に巻き込まれたら、失脚はおろか、命の保障すらないことを知っている。本来重臣として、政(まつりごと)にも口を出さねばならぬところであるが、一切、知らぬ、存ぜぬ、を貫き通して、ひたすら身の安全を図っている。
 藩の大物で、向井様と同じ生き方をしているのは、江戸家老の畑中大学である。彼もまた筆頭家老大和田多聞とは一切の関わりを持たぬよう苦心している。藩主の弟でもある筆頭家老に逆らう損を知っている。従って家中の騒動とは別の場所にいる。
 もっとも今筆頭家老に逆らっているとされる平沼大膳も、公然と逆らっているわけではなく。あくまでも、普段は大和田に合わせているような態度を取り、その裏では、若い者や、正義感の熱いものをけしかけているのである。
 平沼は、藩の財政逼迫の折、財政建て直しのため、大鉈を振るい。大きな成果を挙げてきた。その意味では藩にとって大事な人物である。
 藩財政建て直しには、質素倹約もあったが、大和田多聞は、少し財政がよくなると、それをいいことに、浪費に浪費を重ねている。当然平沼としては面白くない。何とかして、大和田を排除したいと思うのは当然かも知れない。
 しかも大和田は、藩主の弟でなければ、ただの凡庸な、浪費家に過ぎない。藩主の弟でなければ、とうの昔に、失脚させられている人物なのである。折角平沼様が、苦心して、藩財政を立て直したのに、大和田一派が、藩の財政を、食い物にし、さらに逼迫させている。そのことで若い藩士が騒いでいるのである。このまま放置すれば藩は二つに割れ、大騒動になりかねない。
 陸は向井様の屋敷で休暇の許可を得ると、その足で医師の道按の屋敷を訪れ、兄の病気を伝えた。
 道按は秋月家とは古くからの付き合いで、「それは大変」とすぐに駆けつけてくれた。
「逸平太殿が倒れたら、秋月家もおしまいになってしまうだろう」と必死に心配してくれた。
 道按は50歳を過ぎている。最近は、息子にかなりの部分を任せているが、古い付き合いの秋月家には、自らが行かねばなるまいと、駆けつけてくれたのだ。
「如何か。どこか痛むのか?」
 道按は布団をかぶって寝ている逸平太に声を掛けた。逸平太は、しばらく寝た振りをしていたが、やがてがばっと布団を跳ね除け、
「仮病でござる」と道按の目を見て笑った。
「仮病とナ・・・・」
 さすがに道按も、こうはっきりと仮病と言われては驚く振りをするしかなかった。
「さようか。仮病でござるか・・・」
 道按は、仮病と聞いて、途端に手持ち無沙汰になった。
 逸平太は以前から、道按には無駄な努力はするものではないと言われていた。特に藩の政(まつりごと)には、いらぬ口を差し挟むな、身を滅ぼす元だと言われた。いま仮病を使わないと、身を滅ぼすと判断したのだ。
「さようか。どのくらいの期間、仮病を使いなさる?」
「そう・・・。二十日間くらいを考えている」
「それでは完治一ヶ月と診断しておきましょう。出仕が必要となれば、いつでも登城するがよろしかろうが、取り敢えず医師としての判断は、一ヵ月としておきましょう」
「かたじけない」
「医師は人の命を助けるものじゃ。それでそなたの命が助かるのなら、医者としては本望じゃ。昨今は若い者が無駄に命を落としすぎる。悲しい事態じゃ。仮病か・・・・。それもよかろう。仮病も立派な病気のうちじゃ」
 道按もわけのわからないことを言った。
「ありがたい」
 理解してくれたことへの感謝の気持ちを伝えた。
「薬は後から届ける。飲んでも害にはならぬが、仮病なら飲まぬともよい。ただし薬代は貰うぞ」言われて、逸平太は道按と顔を見合わせて笑った。

               「2」

 その頃、大和田多聞の屋敷では、大和田一派の主だった者が集まり、額を寄せ合っていた。
「それで、4日後の12日に、わしの家来の何人かを斬ると言うのか・・・」
 大和田多聞が太目の身体をゆすりながら、信じられないと言った目で皆に確認した。
「左様でございます・・・・」
 答えたのは、三好勘十郎と言う男で、大和田多聞の懐刀を自認する男であった。
「相手は何人じゃ?」
 自分の家来を襲う相手の人数を確認した。
「6人にございます。高浜を筆頭に、葛西・栗田などの面々です」
「わしを斬るというならわかるが、なにゆえに、わしの家来を襲うのか」
「ご家老様の警護は厳しいので、襲撃しても目的は達せられないと、判断してのことと存じます。それゆえ下役の者を襲撃するものと思われます」
「わからんな。それで何か、目的を達せられることはあるのか?」多聞は小首を傾げた。
「もし、ご家老様の家来ばかりが、襲われたとなれば、藩主様も何事かと、調査に乗り出すと考えておるようです」
「そうなると思うか?」
「いや。そうはなりますまい。奴らは、ご家老様の実力をわかっておられないのです」
「万が一、藩主様が、調査に乗り出したらどうなる?」
 常田(ときた)という男が、三好に訊ねた。
「さしずめ、調査隊を結成し、なにやらご家老様の身辺をかぎまわるでしょう」
「その場合、調査に当たるのは誰じゃ」常田はさらに追及した。
「江戸家老、畑中大学の弟の畑中主膳、それに向井あたりでしょう」
「平沼はどうじゃ?」
 調査隊に平沼は入らないかを確認した。平沼という名前に、大和田多聞の目がキラリと光った。高浜ら若手の後ろにいるのは、平沼大膳であることはわかっている。
「平沼は、名前が出ても、表向き断るでしょう。狡賢い男です。決して表には出てきません」
 三好が忌々しそうに言葉を吐いた。
「ところで、襲撃する6人に対して、こちらはどう対処するのじゃ」常田が確認した。
「敵の6人が、2人が一組となって、ご家老様の家来、滝田、山形、佐伯などを襲います」
「ん・・・・」
「そこで、対抗手段として、それぞれ腕の立つものを、遠巻きに護衛につけます」
「護衛は誰と誰じゃ」
「まずは、藩随一の使い手、諸星十兵衛・・・・」
「あやつなら心配はない。それと・・・」
「秋月逸平太。奴は、いまいち・態度がはっきり致しませんが、これではっきりするでしょう。断れば、御家老様に背くものと判断してよろしいかと・・・・」
「他には・・・」
 三好と常田のやり取りの間、大和田多聞は目をつぶり、じっと聞いていた。
「腕のほうは今ひとつですが、迫田慎吾朗、但し迫田には数名の配下をつけます。高浜らが襲って来たら、一気に取り囲んで、逆に斬り伏せます」
「秋月にも、配下のものをつけるのか」
「そう考えております」
「諸星などは一人で十分と言うだろう。奴は一人で10人程度の敵は斬り殺せると豪語している」
「そうですが、そこは万が一を考え、何人かはつけます」
 三好はとうとうと説明した。大和田多聞を見ると、納得したように頷いている。
「ところで、秋月逸平太は、腕は立つとの噂は聞いているが、本当に強いのか」
 常田が疑問を口にした。
「もし噂ほどの腕ではなかったら、取り逃がすことになるが・・・」
 別の者も心配そうに訊ねた。
「確かに、噂では強いと聞いていますが、その腕前を見た者はおりません。それを確かめるためにも、絶好の機会かも知れません」三好には考えがあった。
「しかしそれで高浜らを取り逃がしたら、面倒なことになりはしまいか」常田である。
「秋月一人に任せるわけではありませんからご心配なく。生きて捕まえろと言うわけではありません。首を刎ねればいいこと。それでも取り逃がすようなことがあれば、高浜らに味方した可能性ありと判断し、秋月にも責任を取らせます」三好はにやりと笑った。
「秋月は高浜らと親しい間柄との噂もある」また別のものが口を挟んだ。
「それも、この際はっきりするでしょう。もし取り逃がすようであれば、ご家老様に対して、二心ありと考え、お家を取り潰します。秋月にはその覚悟で、ことを当たるよう申し付けます」
「それで、あ奴の態度も、はっきりするか・・・」一同は、三好の説明に納得した。
「ところで・・・」
 大和田多聞が、口を開いた。
「秋月の強さは、本当かどうか、確認したいものよ・・・。何か方法はないか」
 三好に向かって訊ねた。
「噂では、居合い斬りの達人と聞いております。本当かどうか疑わしき点もあります」
 別の者が、口を挟んだ。
「一度諸星と手合わせさせてみてはどうか?」
 常田が三好に言った。
「この件が、決着すれば、いずれご家老様の前で、試合などさせて見ましょう」
 
 その翌日、三好のところに、道按が訪れた。
「なに!秋月が病だと・・・」
「はい。ひどい熱で、下痢と嘔吐が激しく、生死をさまよっている有様で、ご報告しておこうかと。大和田様にもお伝え下さい」
「仮病ではないのか」
「滅相もございません。京都周辺では大流行している流行病で、他人にうつります。確かめられますか」
「馬鹿。うつると言うのに、確かめられるか」
「一応、消毒などすれば、うつる可能性は低くなります。それでも郎党などは気味悪がって、近寄りません。万が一うつった場合は仕方ありませんが、一応お確かめになるのなら、消毒をして見舞いなど・・・・」
「必要ない」
 三好は憮然と答えた。
「一月持ちこたえれば、元の元気な姿に戻りますが、今はすっかり憔悴して・・」
「わかった。仕方なかろう。ご家老様にも報告しておく」
「是非よしなに」
 医者からの報告である。三好も信用するしかなかった。

 逸平太はまったく部屋からは出なかった。厠に行くにも、人目をはばかるように、移動した。陸と小夜だけが、出入りを許されていたが、それも郎党にも知られぬように、目立たない往来であった。
 陸は兄のことより、父のほうが心配であった。里が買い物に行った留守に、父の部屋に行ってみた。別棟で、玄関も別であったから、まるで他人の家に行くようなものであった。
「陸です。上がりますよ」
 陸は勝手に部屋に上がった。父は書斎でなにやら本を読んでいた。陸が現れると、驚いたような様子で、それから馬鹿丁寧に挨拶した。
「これは・これは、お隣のお女中ではありませぬか。以前よりそなたのことは、気にしておった。してお名前は?」
「はあ・・・・・?」
 陸は父親の物言いに驚いた。
「娘の陸にございます」
「陸殿と申されるか。隣の逸平太殿には、再三そなたを嫁に欲しいとお願いしておったのだが、いい返事は貰えなかった。陸殿がみずからこうして来られたのは、吉兆と捉えてよろしいか」
「はぁ?娘の陸ですよ・・・・」
 陸は唖然として父の顔を窺った。冗談を言っている顔ではない。真顔である。
「陸殿、わしの嫁になってはくれまいか」
「・・・・・・?」
 父の目はいつになく真剣だった。だから気持ちが悪かった。陸は驚いて、迫ってくる父親から、飛びのいて身をかわした。決して冗談など言っている目ではない。らんらんと目を光らせ迫ってくる。陸は薄気味悪くなって、さらに接近してくる父に、思わず横面を平手で殴った。それでも父親は怯まない。この時点でおかしいと思い始めた。目が血走っている。物音を聞きつけ、買い物から帰ってきたお里が、慌てて部屋に飛び込んできた。
「旦那様、なりませぬ。そのお方は、隣の奥方です。ご法度はなりませぬ」
 お里が慌てて止めに入った。父はわれに返ったのか、
「隣の嫁御殿か・・・・。それはいかん」
「陸様、この場はお里に任せて、お逃げ下さい」
 里は、体当たりで、父の身体を止め、陸に逃げるよう言った。それで慌てて陸は部屋から逃げた。嫌な汗が、背筋に流れた。信じられない父親との再会だった。その後も、里が必死で父をなだめている声が聞こえた。胸の鼓動を落ち着けて、兄の部屋に行った。そして、兄に詰め寄った。
「父が呆けているのは、今はじめて知りました」
「・・・・?」
「父の病が他人にうつる病気だとか、食事中に失禁するとか、おおきなおならをするとか言うのは、まったくの出鱈目ですね」
「親父に会いに行ったのか。どうせつく嘘なら、そのほうが面白いかと、思って・・・」
「呆れました。自分の父親ですよ」
「父親だから参っている。わしが息子だと言うこともわかっていない」
「向井様のお屋敷どころでは、ないではありませんか。父親があんなになっているのに、他家のお手伝いなどしてはおられません」
「いいのだ。里に任せておけ。里は上手くやっている」
「そういう問題ではないでしょう」
 陸は血相を変えている。胸がまだ大きく鼓動している。
「陸や小夜が行くと、話しがややっこしくなる。今まで通り近づくな」
「そうは参りませぬ。知った以上は、今後のことは私と小夜でやります」
「よせと言っているのがわからぬのか。それに里は身寄りもなく、ここを追い出されたら行くところがないのだぞ。お里の仕事を奪うな」
「何もお里さんの仕事は奪いません。今まで通り、お里さんにもここにいていただきます」
「だったら、父上のところに近づくな。揉め事の種になる」
「何ゆえです。兄上こそわかりませぬ」
 陸は膝を交えて父親とよく話し合えば、わかると信じている。逸平太はしばらく考えてからおもむろに、
「一年ほど前のことだった」と重い口を開いた。
「庭で顔を合わせた小夜を見て、あの娘を嫁に欲しいと真剣に里に相談したそうじゃ。里は仕方なく、あの方は去るお方の嫁女で無理でございますと、納得させたそうじゃ。それだけならまだしも、今度は陸を見かけ、あの娘なら独り者だろう。是非嫁に欲しいと里を困らせたそうじゃ。陸殿の親と会い、正式に嫁に欲しいとお願いすると言って、聞かなかったそうだ。色ボケじゃ」
「・・・・・?」
「わしを息子として認識していないのは、まだ良いとして、自分の娘を嫁に欲しいとなっては、どうにもならない」
 そこに小夜も入ってきた。
「そなたたち二人のことで、揉め事になると大変じゃ。親父は、呆けていても腕は立つ。刀など抜かれたら厄介なのだ」
 逸平太は陸と小夜の顔を交互に見ながら、渋い表情を作った。父は本当に若かったころ、祝言前の母をめぐり、何人かの男と斬り合いになっている。父は昔から面食いだ。美しい女性を見ると、命がけで戦う習性があった。
「本人はわしより若いと思っている。父親から嫁になってくれと言われても、陸も困るであろう」
 小夜は何の話かまったくわからなかった。さすがに陸もそう言われて、返す言葉もなかった。
「父の病気は、説明してわかるものではない」
 小夜は更に怪訝な顔をしている。
「小夜を嫁に欲しいそうです・・」
 途中から入ってきた小夜に陸が説明した。小夜は前後の話がわからず、
「誰が、でございますか?」と訊ねた。
 突然そういわれても、何のことかわからない。まさかそれが、昔可愛がってくれた大旦那様の話とは想像もつかない。小夜が、嫁入りと聞いて、余りにも真剣な顔をするので、陸はいつになく、小夜をからかいたくなった。
「小夜を貰いたいという人が現れました」
 それを聞いて、小夜は迷惑そうな顔で、
「私のことでございますか。私はどこにも嫁には行きません。ずっと旦那様のお傍で一生お仕え致します」
 真剣な目で答えた。
 言われて逸平太は、驚いたように小夜の顔をみた。いつになく必死な小夜を見て、陸も驚いた。小夜が逸平太のことを、これほど好きだったと知って、陸も今更ながら驚いていた。逸平太は話題を変えるように、
「父上が呆けて、小夜や陸を嫁に欲しいと騒いでいるから、二人を近づけなかったのだ。年はとっても、親父殿は二人よりは体力はある。それに元は藩の剣術指南役だ。腕にも自信がある。それゆえ、なおさら厄介と思って・・・・」
 陸は隔離した本当の理由が理解できたが、それ以上に驚いたのは、陸が考えていた以上に、小夜が兄のことを好きだということである。ボーっと考え事をしている陸に、
「なにを考えている。兄の言うことがわかったのか」と念を押された。
「何となく、わかりました」
「親父殿は、お前達を見て、興奮すると、余計に病気は悪化する」
 陸は立ち上がった。それにしても大きなおならをするから近づくなとは、よくもまあいい加減なことを・・・そんな兄の顔を振り返って、睨みつけた。それにしても小夜は可哀想だと思った。小夜は武家の娘ではない。小夜がどんなに兄上のことを慕ったとしても、兄の嫁にはなれない。そのことが、ひどく悲しかった。

 突然城から使いがあった。陸が対応したが、城の使いは、兄に会いたいと言っていた。兄は、流行り病で、他人にうつり、うつされた人は高熱が出て死に至ると説明したら、腰が引けて直ぐに帰ってしまった。城の使いは用件も言わずに帰ってしまったので、どのような要件で来たのかわからなかった。
 大事なことなのだろうか。兄の部屋に行くと、兄は一人で碁を打って、のんきそうにしていた。陸は思わず兄を睨んだが、そんな陸の顔には気付いていない。
「陸か。城のものが来たって?」
「はい。兄は流行り病で、人にうつる病気ゆえ迷惑かけてはと申したら、慌てて帰ってしまわれました。お陰で要件も聞くことができませんでした。何でしょうか?」
「聞いても理由は言うまい。高浜か葛西か栗林あたりを斬れという話だろう」
「高浜様や、葛西様といえば、朋輩ではございませんか。それらの方々を斬れと・・・・。何故にございますか」
「大和田様の公費横領を暴こうとしている」
「暴けるのですか」
「無理だろう」
「何故無理だと高浜様に説明をなさらないのですか?」
「高浜と葛西には何度も言ったが、聞き入れられなかった」
「何故そのようなご無理を」
「わからんが、いずれにせよ、わしに高浜と葛西は斬れぬ」
「それで突然の仮病なのですね」
 城からの使いは大和田多聞からではなく、藩主からの使いであった。藩主様は、秋月逸平太の病気のことはまだ知らない。最近藩に不穏な空気が漂っているので、秋月に調べて欲しいと頼むためだった。ついでに父親の病気の見舞いもかねていた。

「なに。秋月は病気だと・・・」
 大和田多聞は、三好勘十郎の説明を受けて驚いた顔をした。
「はい。数日前から熱を出し寝込んでいるとのことです」
「役に立たぬ奴よ・のう」大和田多門は渋い顔をした。
「仮病ではないのか?」
「そのことも確認いたしましたが、山瀬道按の見立てによりますと、命に別状はないが、かなりの重症とのことで、しかも他人にうつる病気だそうでございます」
 山瀬は、藩内では著名な医者である。信用も高い。
「他人にうつるのではまずのう」
「至急別の案を立てます。つきましては、秋月に斬らせようとしていた高浜と葛西の処置は、諸星十兵衛にやらせます」
「わかった」
「諸星が抜けた後は、別のものを当てます」
「そうか。秋月の腕は試すことができなかったか。運のよい奴じゃ。残念じゃ」と、大きな身体をゆすって苦笑いを浮かべた。

 数日後、久しぶりに陸が向井家に出仕した。
 秋月家では小物たちが、主人が寝込んでいるため、何をやるにも落ち着かず、そわそわしていた。様子がわからない。主人に、もしものことがあれば、小者や郎党なども全員路頭に迷うことになる。それが心配なのだ。
 小夜は相変わらず忙しく、逸平太の身の回りの世話や、炊事・洗濯と忙しかった。見舞いと称し向井家から人が訪れた。その対応は小夜があたった。見舞い客は、
「うつる病気とかで、直接お会いできませんが、よしなにお伝え下さい」と丁寧に挨拶して帰って行った。
 小夜は奉公人でありながら、陸不在の折は、勝手口の仕事が終わると陸と同じ様に、この家の中を取り仕切っていた。着るものを整え、見舞い客などを応対し、小物などに仕事の指示を与えていた。
 小夜は昔から読み書きそろばん、それに礼儀作法、料理、縫い物など、亡くなった逸平太の母親から、武家の娘として必要なことは総て教わり、何でもこなせるようになっていた。
 逸平太の母は、小夜を自分の娘と同じように扱い、陸と分け隔てなく育ててきた。小夜は町人の娘であったが、故あって、秋月家に引き取られてからは、どこに嫁に出しても恥ずかしくないように、自分の娘として育ててきたのだ。そんな関係で、ボケる前の秋月鱗太郎も、小夜を娘のように可愛がってくれた。ただ鱗太郎は、
「小夜は町人の娘ゆえ、武家の家に嫁ぐことはできないが、それなりの立派な町家の嫁に行かせる」と言っていた。
 小夜は町家に嫁ぐつもりはなく、逸平太様のお傍で、一生お使えするつもりでいた。逸平太が嫁を貰えば、その嫁様にも仕えるつもりでいる。それが世話になった秋月家への恩返しだと思っている。
 見舞い客は、向井家に戻ると、早速陸に話し掛けた。逸平太の病気の心配などしてから、
「ところで、秋月家では、娘子は二人おられるのか?」
 身支度が陸と同じ着こなしから、向井家の見舞い客は、陸にそう訊ねた。普通奉公人なら、あきらかにそれとわかる地味な、粗末な服装が普通であったが、小夜の服装は、陸と同じ様な服装であった。
 陸は向井家に奉公に行くので、逆にそれに相応しい着物を着ていたから、ある意味小夜のほうが立派に見えたかもしれない。
「秋月家の娘は、陸一人にございます」陸は笑った。
「お宅に伺い、出迎えてくれた美しい女子(おなご)は、何者です。もし一人身なら、世話をしたい人もござって・・」
「世話とは・・・・・?」
「あれほどの娘なら、何処に出しても、貰い手はおります」
「実は、あの者は、町家から預かった娘で、礼儀作法の勉強のために来ておりますが、そのような話でしたら、兄の病気が治ったら、相談下さいまし・・・・。いずれにしても侍の娘ではございません。武家への婚儀は無理かと・・・」
 武家の娘と偽って、嫁に行ってから、事実がわかったら、一番苦労するのは小夜本人である。
「町家の娘でござったか。どこか名のある町家の娘でござろうな」
 小夜の親はもういない。その意味では、小夜は嫁に行くまでは、兄が親代わりである。本来は父親がその役目を負って欲しいのだが、小夜を嫁にくれでは、話にならない。
「町家の娘であっても、それに相応しい大店に嫁に行ける。商人とも親しい。もし何かあったら、お世話致そう」
 向井家の見舞い客はそう言った。見舞いの客は更に、
「それにしても、いいものを見せてもらった」と陸に言った。
「昨今あれほどの美しい女子に、巡り会ったことはない。何とか、いいところに世話をしたいものよ・のう」
 向井家の郎党は、陸に何度も言っていた。
 
 そのことを帰ってから、兄に言うと、兄は不愉快そうに、
「小夜も年頃なのはわかるが、陸が先に行け」と言った。
 逸平太は、小夜のことを言われると何故か腹がたった。
「なにゆえに、うつる病だというに、向井様から見舞いが来た」
 腹立し紛れに、陸にそう当たった。
「そのことは、向井様にも申し上げましたが、礼儀として、陸殿を預かっている以上、逸平太殿と会えなくても、見舞いは必要と申されて・・・・」
「しかも、余計なことを言いおって、何が小夜を嫁にだ。そんなことは言われなくとも、わかっておるわ」
「それは兄上、おかしゅうございます。小夜もすっかりよい娘になっております。良い縁談をと申す者も、当然あるかと存じます。なにゆえ兄上はお怒りなのですか」
 陸も逸平太の本心はわかっている。だから目は笑っていた。兄も小夜が好きなのだ。
「小夜はどこにも嫁には参りませぬ」という言葉を聞いて以来、明らかに兄の様子が変わった。
 小夜が秋月家に来たのは、小夜がまだ8歳のときだった。兄は小夜を妹のようにかわいがっていた。ついこの間まで、兄は小夜を妹と思っていたはずだ。しかしその小夜から、
「一生旦那様にお仕え致します」との言葉を聴いてから、小夜を妹としてではなく、女として、意識し始めたようだった。

               「3」
「兄上大変です」
 陸が珍しく慌てて、逸平太の部屋に飛び込んできた。
「何が起こった?」
 陸の慌てぶりに、逸平太は逆に落ち着いた。確かに今日は、家の周りの様子があわただしくなっている。小夜にそのことを聞くと、お役人様とか、藩の方々が、慌しく走り回っておられます。そう報告を受けたばかりであった。小夜は洗濯物を取り込んで丁寧にたたんでいた。
「お小夜も、聞きなさい」と陸は姉として命じた。
 小夜も緊張して、陸の少し後ろに座った。
「高浜様が、朋輩の葛西様を斬り捨て、逐電したとのことでございます」
 陸は、向井様から聞いた話を説明した。
「高浜が葛西を斬って逃げた・・・・・?」
「葛西様は一刀のもとに斬られ、即死のご様子。高浜様は行方知れずだそうにございます」
「高浜が葛西を斬るはずはない」
「城内では、高浜を何としても探し出し、連れて来るか、その場で首を刎ねろとか、とにかく大騒ぎでございます。追っ手には、高浜半四郎を見つけるまでは帰るなと、ご命令が下された芳にございます」
「ふーん」
 逸平太は遠くに眼をやった。ありえないことだと思っている。
「向井様のご家中でも、家来の方が半数ほど討手(うって)に駆り出されたそうにございます」
「向井様のご家来まで・・・」
「討手は、相当な数に登るようです。一方警備も厳重になったと聞いております」
「向井様の屋敷で聞いてきたのか」
「町でもその噂で、もちきりでございます。もし兄上が病気でなければ、追っ手に動員されていましたものを・・・。これで、兄上の仮病の理由が、更にわかってきました」
「わしが病気にならずとも、追っ手には加わらん」
「そうでございましょうか」
「わしの仕事は城内の警備と、重役の身辺警護じゃ。こんなときこそ、重臣の方々の警護を命じられている筈じゃ」
「それなら何故仮病などを・・・」
「仮病は別のことじゃ」
「そうですか。それにしても、なぜ高浜様は、葛西様をお斬りになったのでしょう」
「斬ってはおらぬ」
「えっ!斬っていないのですか」
「斬ったのは恐らく十兵衛あたりであろう。十兵衛は、葛西は斬ったものの、高浜は取り逃がした・・・・」
 そこで急遽、高浜が葛西を斬ったことにする。そうすれば、公然と高浜を追える。諸星か三好辺りの浅知恵であろう。
「十兵衛様って、あの諸星十兵衛様ですか」
「そうだ・・・」
「何故でございます」
 葛西様を斬ったのは、諸星十兵衛様と決め付ける兄に疑問を持ったのである。
「高浜と葛西の腕は互角、一刀のもとには斬れぬ。恐らく高浜を葛西殺しの下手人にして、藩の者すべてから追われるように仕組んだのであろう。ご家老に逆らった反逆罪だけでは、追手は大和田様一派に限られる」
「反逆罪・・・・」
 女の陸にはわからないことだ。
「他にも死人が出ただろう」
「はい。何でも若い藩士が、暴漢に襲われ、四名の方が亡くなられたそうにございます」
「みな、葛西や高浜と同じように、次席家老の平沼に踊らされた連中だ」
「・・・・・・?」
「それらの者を反逆罪にしなかったのは、藩を立て直すため立ち上がった者として、後々英雄扱いにされては困る。それゆえ大和田一派が、それらの口を封じることにより、若い藩士が後に続くのを防ぎたかったのじゃ」
「それでは犬死・・・・?」
「わしが仮病で休んでいるのは、この手で高浜と葛西を討たねばならず、しかも大和田一派に組み込まれ、泥沼にのめり込むからじゃ」
「兄上が、朋輩の高浜様や、葛西様を・・・」
「よいか陸、今の話は忘れて、かようなことには首を突っ込まず。知らぬことにしておれ」
「わかりました。そうですか。仮病を使わないと、兄上が高浜様や葛西様をお斬りにならなければならなくなるから・・・・・・」
 兄の深い読みに陸は感心していた。
 陸がこの話を小夜にも一緒に聴きなさいと言ったのは、今後小夜は、陸以上に兄のことを知るべきだと思ったからである。陸は心のうちで、何とか小夜の思いを遂げさせたいと思い始めていた。
「怖い・・・」小夜が後ろで小さく呟いた。

その頃、筆頭家老大和田様の屋敷では、
「高浜の家族はいかがなされますか?」
 三好が大和田多聞に訊ねた。
「捨てて置け。どうせ禄は召し上げだ。この後どのように生活するか。藩内に住みづらくなって逃げ出すのか。それともじっと我慢して耐えるのか。聞けば高浜の母親は病気だそうではないか。気にすることはない。藩に対する反逆罪は封印し、ただの私恨にしたのだ。反逆罪ならば、家族共々処刑するが、私恨では家族まで罪には問えまい」
 つまり、高浜と葛西はただの喧嘩で斬り合ったことになっている。
「わかりました。そうなりますと、死んだものたちの家族も、そのままでよろしいですな」
 葛西以下亡くなった5名の若い藩士のことである。
「そうじゃ。どうせ働き手を失ったのじゃ。放っておいても、家は衰退する。高浜家の禄は直ちに召し上げなさい」
「仰せのとおりに致します」三好がにやりと笑いながら答えた。
「高浜を取り逃がしたのも、怪我の功名じゃ・・・・」
 常田が意味ありげに笑った。
「追っ手は50名。一応高浜を捉えるまでは帰ってくるなと申しておりますが、それでよろしゅうございますな」三好はさらに大和田に確認した。
「毎月、状況報告に来いと言ってあるナ」
 大和田多聞は大きな腹を揺すって言った。
「追っ手には、そう伝えてあります」
「討手の件は、適当なところで、打ち切るかも知れぬ」
 大和田多聞は意味ありげに笑った。家族をそのままにしておけば、高浜は必ず家族に会いに来る。その時捕まえるか、殺すのだ。
「高浜を捉えなくとも、捜査を打ち切ることが・・・・」
 あるのかと、常田が不思議そうな顔をした。常田は大和田多聞の腰巾着である。
「日本国は広い。このあたりで見つからなければ、こちらに危険が及ぶこともあるまい」
「左様で・・・」
「首には賞金を掛けたであろうナ」
「はい。高い賞金をかけました。見つけて捉えた者。首を刎ねた者。いずれでも賞金を与えるとしてございます」
「取り逃がした諸星十兵衛にも賞金は出すのか」
「そう伝えてございます。そうしませんと、諸星十兵衛は、高浜を必死で探しませんので・・・・」
 三好は意味ありげに笑った。
「そうか。取り逃がしておいて、後で賞金を貰える。十兵衛にとっては悪くはないな」
 腫れぼったい目で、家老は皮肉まじりに笑った。

 秋月家では、陸が小夜を呼んで、
「小夜、そなたに聞きたいことがあります」
 陸はもう一度小夜の本当の気持ちが知りたくて、陸の部屋に小夜を呼んだ。小夜は最近機嫌がよく、楽しそうにしている。その原因は、逸平太が小夜の結婚話を断ってくれたと、無邪気に喜んでいるのだ。陸は小夜の気持ちを再確認したかった。
「はい。お嬢様、何でございましょうか」
 小夜は陸の部屋に入ってくるなり、明るくそう言った。
「そのお嬢様という言い方はお辞めなさい。小夜と私は姉妹同然に育てられたのに、お嬢様はおかしいでしょう。名前を呼びなさい」
 陸の目は優しく笑っている。しかし小夜は叱られたように、珍しく落ち込んだ顔をした。小夜にすれば、今更名前では呼べないと思っている。
「小夜は自分の将来をどのように考えているのですか」
「将来・・・・?小夜は今の生活以外の生き方は考えられません」
「そうですか。小夜は町人の娘ゆえ、兄の嫁にはなれません」
 陸は心にもないことを言った。町人の娘であっても、なんとか兄の嫁になれないか必死で考えている。しかし現実は確かに難しい。祝言となれば、藩主様にも報告しなければならない。藩主様が、ご法度にそむいて、町人の娘を嫁にすることを、了解するとは思えない。なにかよい方法はないか考えていた。
「旦那様の嫁?小夜は、そのような大それたことは、一度も考えたことはございません」
「そうなれば、いずれは小夜もどこかに嫁にゆかねばなりませぬ」
「いいえ。小夜はどこにも嫁には行きません。一生旦那様にお仕えしとう存じます」
「それは無理と思うが・・・」
「何故でございましょう?」
 小夜は悲しそうな顔をした。
「兄上も、いずれは嫁を貰いましょう。そうなれば・・・・」
 兄の身の回りの世話は、嫁になった人がやる。しかも、小夜の様な美しい娘が傍にいたら、嫁も落ち着かない。焼き餅も焼く。
「小夜は旦那様の奥方様にも、全力で尽くします。お子が生まれれば、そのお子様にも全力でお仕え致します。小夜は旦那様とお嫁様のために、一生懸命尽くす所存でございます」
 陸は黙って小夜の目を覗いた。真剣な目である。嘘ではなさそうだが、例え小夜がそのつもりでも、奥方はそうはゆかない。
「小夜は旦那様の言いつけは守れますか」
「小夜は旦那様のためなら何でもできます。旦那様のために死ねと言われたら、いつでも死ねます」
 兄のために死ねると言われて、陸は次の言葉を失いかけた。
「小夜の夢は、一生旦那様のために尽くすことです」
 陸は意地の悪い質問と思いながら、
「もし、旦那様が、嫁を貰い。小夜にはこの家を出て行ってくれと頼んだらどうするつもりです?」
 陸も心ならずのことを言い、胸が痛んだ。
「旦那様の頼みとあれば仕方がございません。でもこの家を出されたら、小夜は生きてゆく張り合いがございません。その時は、小夜は覚悟が出来て・・・・」
 そこまで言って、小夜は急に悲しそうな顔をした。その顔を見て、兄は間違えても、小夜にそのような残酷なことは言わないだろうと思った。
「そうですか。そうなれば、悲しいですか」
 陸も悲しそうな顔をした。こんな一途な小夜がいとおしいと思った。
「はい。暇を出されないために、小夜は必死でお仕え申し上げます」
 必死に使えれば、暇を出されないと、小夜は信じている。まだ男と女の機微はわかっていない。もし兄が嫁を貰えば、兄の嫁は、焼き餅から小夜とは一緒に暮らしたくないと思う気持ちを、今小夜に説明しても、わからないだろうと思った。
「そうじゃナ。しかしおなごと言うものは、いずれは誰かの嫁に行かねばならぬ。小夜は可愛いから、もう少したてば、誰かが欲しいと言ってくるであろう」
「嫌です。小夜は終生旦那様にお仕え申し上げます」
「わかりました」
 陸は小夜の気持ちが痛いほどわかった。
「でも、小夜は何故そこまで兄を・・・」
 小夜は、陸の言葉に何か不吉なものを感じ、不安そうな目で見上げた。目には一杯涙を溜めている。
 陸が、これ以上何か言ったら、どっと泣かれそうな気がした。確かに小夜は全力で兄に仕えている。いや秋月家に全力で尽くしている。そのことは陸が一番よく知っている。
 小夜は小夜で、必死に胸のうちを伝えたいと思っていた。
「小夜は旦那様に助けていただけなかったら、今頃はとうに死んでおります。旦那様が江戸から帰る途中、雨の中で倒れている小夜を見つけ、助けてくださいました」
 小夜がまだ子供の頃であった。
「そうであったな」
「あの時、小夜は栄養失調でやせこけ、しかも数日間何も食べておらず、目の前が真っ暗になり倒れておりました。それを旦那様が助けてくれたのです」
「・・・・・・」
「その時、旦那様は、小夜を旅籠まで運び、医者を探し、帰る予定を遅らせてまで、小夜の看病してくれました」
「・・・・・・」 
「秋月家に来てからは、旦那様の父上様からも母上様からも、陸様からも大変優しくしていただき、毎日が幸せ一杯でございました」
「そうですか。小夜は幸せでしたか」
「はい。それまでの日々は、いつも食べ物もなく、着る物すらなく、冬の寒さにはいつも震えておりました。夏はまだ山に入れば、木の実や草の根など、食べるものは確保できました。でも冬は食べ物がありません。私の家族は、他にも兄や弟妹などおりましたが、寒さと飢えでみな死にました。小夜は旦那様に助けられたとき、一生この方に使え、恩返しをするのだと、心に決めました」
 恩返しだけなら、まだ良いが、小夜は気がついていないが、兄に恋している。陸はそう思った。
「小夜は旦那様のためなら、必死で頑張るつもりでございます。旦那様のためなら何でも出来ます。旦那様が喜んでくれたとき、それが小夜の幸せなのです」
「よくわかりました。今の話は忘れなさい」
 小夜の想いは、陸の胸に突き刺さった。小夜は今が一番幸せなのかもしれないと、庭の南天の赤い実をみながらそんなことを考えていた。
 兄もまた小夜のことが好きな筈である。だから兄はいつになっても、嫁を貰おうとしないのだ。兄はもしかすると、藩を捨ててでも、小夜を嫁にするつもりかも知れないし。そんなことも考えていた。
 兄が藩を捨てるということは、秋月家もそこで消滅することを意味している。その場合、呆けた父をどうするのか。恐らく陸が嫁に行ったら、兄は小夜と共に藩を出るつもりかも知れないと、急に胸騒ぎがした。

 それから更に数日後、逸平太は陸を枕元に呼び、
「陸、済まぬが、明日の朝早く、人の往来が始まる前に、高浜の家に行ってはくれぬか」
「高浜様の・・ですか・・・・?」
「そうだ。小物たちの話によると、高浜の母親が亡くなられたそうじゃ」
「・・・・・」
「葬式も出せなかったと聞く。高浜家の寺の片隅に葬られたらしい」
「それで・・・」
「奥方のことが気になる。人目につかぬように行って、どのように暮らしているかを探ってくれぬか」
「なぜ朝早く」
「高浜と言えば、犯罪者だ。そんなところにのこのこ行ったとあっては、後で痛くもない腹を探られる。人目に付かぬよう、頭巾で顔を隠し行ってくれ」
「人目に付かぬと言っても、どんなに早く行っても人目はあります。町人の朝は早いのですから・・・」
「わかっている。町人に見られても構わない。藩の者に見られなければ問題はない。町人といえども、何処で話が出るかわからない。だからできるだけ顔は隠して行け。しかし見られたら見られたで、それはそれで仕方がない」
「兄上は病気ゆえ、のこのこと町は歩けぬというのですね」
「わかっているではないか」
「明日の朝、出掛けてみます」
 翌朝、陸は朝早く起き、準備を済ませると、あたりがまだ暗いうちに、家を出た。兄が人目につかないように、そっと見送ってくれた。高浜半四郎の家は、歩いて小半時ほどかかる。藩士の屋敷町から少し外れた場所にあった。半四郎の家に行くには、町人の住む町並みを通り、武家屋敷と呼ばれる大きな塀のかかった寂しいところを通らねばならなかった。
 町人の朝は早い。朝早い職業もあって、手代らしい若い男が、道に水をまいている通りを足早に駆け抜けた。
 高浜半四郎の屋敷は、武家屋敷の少し外れた人通りの少ない場所にあった。半四郎の家は秋月家の半分ほどの屋敷だったが、手入れがされず荒れ果てていた。雑草が背丈ほど伸び、既に枯れて黄色くなっていた。壁の一部が崩れ、ここに人が住んでいるのかと疑うほど、寂(さび)れていた。
 家の周りには矢来が組まれ、事件の起こった頃は、見張りがいたらしいが、今は誰もいなかった。見張る必要がないと判断されたのだろう。陸は小さな声で、家の中に声を掛け、訊ねてきたことを告げたが、中から返事はなかった。誰もいないのだろうか。いくら呼んでも返事がないので、恐る恐る家の中にはいった。
 畳もなく、人が住んでいるとは思えなかった。幾つかの部屋を探っているうちに、日の当たらない薄暗い部屋に人の気配を感じた。よく目を凝らしてみると、布団が敷いてあり、確かに人が寝ていることが確認できた。朝が早いのでまだ眠っているのだろう。戸締りは殆どされていない。
 陸は枕元に座り声を掛けたが、死んでいるのか生きているのか、とにかく返事はなかった。痩せこけた手を握ると、まだ多少は暖かかったが、それでも普通の人よりは冷たく感じた。
「高浜様の・・・」
 陸は声を掛けた。周りは板の間で、布団も煎餅のように薄かった。夜は寒いはずだが、この布団では寒さは凌げない。何度か声を掛けたとき、やっと目を覚ましたのか、反応のにぶい目で、陸を見上げた。
「・・・・お陸様・・」
 やっと聞き取れるほどの小さな声で、反応した。病気に間違いはないが、その前に食事をしているのだろうかと、とっさに思った。
 
 陸が家に戻ったのは、かなり時間がたっていた。普通の往復なら、かかる時間の倍はかかっていた。
「どうした?」
 陸の顔を見ると、逸平太は声を掛けた。
「遅かったではないか。何かあったかと心配したぞ」
「私には何もありませんが、お糸様はあのままでは、数日のうちに息が絶えましょう」
「それほど悪いのか」
「あんなところにいたら、健康な人でも病気になります」
 陸は興奮気味にそういった。
「そうか・・・・」逸平太は何か考える目をしていた。
「今日は遅くなりすぎて、向井様のお屋敷には行けぬのではないか」
「そう思って、帰りに向井様のお屋敷にも立ち寄って参りました」
「そうか・・・」それで遅くなったのかと合点がいった。
「今日は休ませて欲しいと伝えました」
「膳の用意ができました」
 小夜が二人の前に頭を下げ、膳を二つ置いた。
「今日は陸も向井様のお屋敷を休むそうじゃ」
「承知しました」
「小夜、そなたも一緒に食べよう」
 小夜が主人より先に食事をすることはないから、陸はそういった。陸がいないときは、兄の命令で、兄と小夜が並んで食事をしていることは知っていた。陸がいるときは、遠慮して、兄が別に食事をするよう指示している。これからは三人で一緒に食事をしましょう。と陸は提案した。
「陸もそう言っている。小夜も一緒に食べよう。膳を持って参れ」
 逸平太も陸にそう言われて、嬉しそうに小夜に声を掛けた。
「これからは、小夜も一緒に食事をしなさい」
「そんな滅相もない」
 小夜は、なかなか承知しなかったが、陸が勝手に小夜の膳を作って、三角になるように小夜の席を作った。
「小夜。これからは兄上と一緒に食事をしなさい。膳の中身も同じにしなさい」
「そんな・・・・」
 小夜は困ったように、逸平太を覗き見たが、逸平太も小さく頷いた。
「小夜は、私の妹と同じ様に育てられました。これからは、私のことを本当の姉と思いなさい」
「はい・・・」と答えながら、再度逸平太の顔を盗み見た。
「陸がそう言っている。今後はそうしなさい」
 逸平太も嬉しそうな顔をした。
「ところで陸。向井様のお屋敷に顔を出しただけで、これほど遅くなったのか」
 当時は、食事は朝と夕方である。朝の食事が昼近くになっていた。
「いいえ。どうやら高浜様のご新造様は、ここ数日間何も口にしていないような様子だったので、町の豆腐屋から、豆腐やおからなどを買い求め、豆腐をつぶし紫で味付けし、食べさせておりましたので、少し時間がかかりました」
「そうか。豆腐なら消化にもよい・・・・」逸平太は考えるように遠くに目をやった。
 翌日も陸は前日より早く起きて、高浜の屋敷に向かった。今日は向井様の屋敷に伺候するのに間に合うように戻って来た。そして向井様の屋敷に向かった。

               「4」

 数日後、逸平太は、陸が出掛けた後、残った小夜に向かい、
「東側の使っていない部屋を掃除しておけ、そして客用の布団を出しておけ」と指示した。
「はい。わかりました」
 どうしてなのかとは、小夜も聞かない。小夜の後に逸平太も続いて部屋を見回した。
「この部屋なら日当たりもよく、清潔だろう」
 部屋に入るなり、逸平太はそう言った。
「はい。この部屋は、母上様が使っていたので、いつも綺麗にしておきました」
「庭も見え。いい空気が入ってくる」
「病人には、もってこいの部屋かと存じます」
「病人・・・・・?」
「あっ!申し訳ございません。いらぬことを申しました」
「いや。いい。相変わらず感のいい娘だ」
 逸平太は笑った。その笑顔に、小夜も嬉しそうに笑い返した。夕刻陸が戻ってから、
「決心したぞ。明日の朝は、高浜のご新造のところには、行かずとも良い」
「決心されましたか。町人の朝は早いので、気をつけなさいまし」
 逸平太は病気を理由に、城には出仕していない。外出して他人に見られたら、大変なことになる。お家断絶だけでは済まなくなる。そのことを陸は心配した。逸平太は、病気とは言え仮病である。毎晩体力は鍛えていた。
 深夜、逸平太は頭巾で顔を隠し、家を出た。この日は月の明かりもなく、真っ暗であった。高浜の屋敷に着くと、陸に教わった部屋に真っ直ぐ進み、
「秋月逸平太でござる」と脅かさないように声を発した。
 それからおもむろに、提灯に火をつけた。高浜の妻は驚いたとしても、声をあげるほどの元気すらない。その痩せこけた身体を逸平太は背負った。普通の大人の半分もない重さだった。逸平太は、暗がりの中を高浜の妻を背負い、足早に家に向かった。そして、こんなにも痩せこけた高浜の女房を背負っていると、「高浜の馬鹿者めが・・」と心の中で叫び、涙がこぼれた。
 家では、小夜が寝ずに待っていてくれた。高浜の女房を布団に寝かせ、
「小夜、身体を拭いて、新しい着物に着替えさせなさい」と命じた。
 ご新造は起きているのか寝ているのかわからないほど反応に乏しかった。
 翌朝、陸が部屋を覗くと、気がついたらしく、懸命に身体を起こそうとしていた。
「そのままお休み下さい」
 陸は枕元に座り、やつれた身体をさすった。逸平太も起きてきた。
「兄上・・・」
「他言は無用じゃぞ」
「承知しております。小物たちにもよく言いつけてあります」その点、陸はぬかりない。
「自分の女房をここまでやつれさせて、何が理想だ。それで藩の何が変わったと言うのか」
 吐き捨てるように言ったが、目には涙を溜めていた。陸は何も言うことはなかった。小夜は、珍しく旦那様が涙を溜めている姿を見て、小夜も悲しくなった。
 数日たって、高浜の女房は大分元気になった。布団から身体を起こせるまで回復していた。
「小夜様、お世話になり、お礼の言葉もございません」
 高浜の女房、糸は小夜に向かって、丁寧に礼を言った。
「いいえ。私は旦那様の言いつけ通りやっただけでございます。お礼は旦那様に・・・」
「小夜様は、この家の方なのですか?それとも逸平太様の・・・・」
 そのあと少し咳き込んで、話が途切れた。糸が何を言おうとしたのか、その後の言葉がなかった。妹と言おうとしたのか、それとも逸平太様の奥方と言おうとしたのか、定かではなかったが、小夜は質問の意味を察して、
「この家の使用人でございます。旦那様に昔助けられたのでございます。旦那様はお優しい方で、高浜様の母上様を助けることができなかったと、ひどく悔やんでおりました」
 義母の話をすると糸も、少し取り乱し涙を流した。
「母上様が亡くなられたのは、糸様の責任ではございません」
「母者をくれぐれも頼むと言われたのに、何もできずに死なせてしまい・・・」
 糸は身を揉んで泣いた。
「半四郎様もきっとわかってくれます」小夜は必死に糸を慰めた。
「小夜様は、本当に優しい方なのですね。心から感謝しております。当初逸平太様の奥方かと思いましたが、そうではないのですか・・」
 奥方と言われて、小夜は顔を赤らめた。
「いいえ。違います。私は町人の娘でございます。お侍様の嫁にはなれませぬ。でも旦那様のお傍にいられるだけで十分でございます」
「でも、小夜様を観ていると、とても町人の出とは思えません。立派な武家のご息女かと思いました」
「ありがとうございます。そのように言われると嬉しゅう御座います。旦那様の母上様が、読み書きそろばんから、礼儀作法、家のことなどすべて教えて下さいました」
「逸平太様の母上が?」
「はい。旦那様の母上様は、貧しい武家の出だったそうで、女中なども置かず、すべてのことはご自分でやってこられたそうにございます。ですから、母上は何でもできる人だったのです」
「そうですか。きっとお優しい方だったのですね」
「はい。それはもう。小夜のことを、自分の娘の様に大事に育てていただきました」
「私のほうは、お陰で大分元気になりました」
「良かったです」
 小夜も嬉しそうな顔を返した。
「でも、私を匿ったことで、秋月家の皆様に、ご迷惑がかからないでしょうか?」
 糸は、急に顔を曇らせ、不安そうな目をした。犯罪者の妻を匿ったと知れれば、大変な迷惑を掛けてしまう。
「旦那様は大変頭のよい方でございます。その点は、ぬかりはございませんので、ご安心下さいませ」
 小夜は逸平太のやることはすべて信じていた。

 そんなある日、また新しい出来事がもたらされた。藩主持豊様が、血を吐いて倒れたというのである。その報告は、いつもの通り、向井様のお屋敷にいて、陸が聞かされたことであった。藩内の医師が総動員されたと言う。当然山瀬道按も城に呼び出された。それを聞いて、逸平太も、
「ほー。道按も呼び出されたか・・・」
「はい。そのようでございます」
 小夜はもくもくと仕事をしている。決して話には加わらない。頭のいい娘だと、逸平太も陸もそう思っていた。
「陸。道按殿に、兄者の病気がまた悪くなったゆえ、手のあいたときに来てくれと伝えてくれぬか」
「また兄上の我侭が・・・・」
「来られなければ、来なくても良い。来ても来なくてもどちらでも良いが、声だけは掛けてくれ」
「わかりました。お伝え申し上げます」
「この一ヶ月で、藩の情勢も大きく変わるな・・・・」
 逸平太は目を瞑って腕組みをしながら今後のことを考えていた。
 
 翌日の夕刻、山瀬道按が駆けつけてくれた。
「どう悪くなったのじゃ?」
 道按は意地悪そうに笑っている。小夜が茶を運んできた。
「で、藩主様の様子は・・・・?」
 道按を呼んだのは、城の様子が知りたいからだ。道按は医者の中でも、とりわけ頭がいい男である。何か掴んだことがあるかも知れない。
「藩主様は、毒か何か飲まされている可能性がある。血を吐いて倒れたと言うことだが、顔や皮膚に見たことのない斑点ができておる」
「下手人は?」
「それはわからぬ。そんな詮索をしても、こちらの命が危ない。藩主様ももうお歳じゃ。何か飲まされなくとも、寿命はそう長くない」
「それなのになぜ?」
 毒を盛るのかと訊ねた。
「それはわからぬ。ただ大和田様の周辺がにわかに騒がしくなっておる」
「・・・・・?」
「平沼一派と思われている者が、次々と呼び出され、失脚させられたり、帰りに襲われ命を落としたりと・・・・」
「それで、平沼様は・・・・」
「江戸家老、畑中様のところに駆け込んだとか・・・」
「平沼様が江戸へ?」
「身の危険を感じて、逃げたのでしょう」
 道按は、大和田様も平沼様も、同じ穴の狢だと言わんばかりに、不快な顔をした。
「畑中様も迷惑な話・・・・」
 逸平太は、平沼に駆け込まれた畑中大学の困惑そうな顔を思い浮かべた。畑中様が今後どう出るのか、大いに興味はあった。
「そうなると、今度は大和田様と畑中様が・・・・・」
 道按は憂鬱な顔をした。
「そのようには、ならないでしょう」
 逸平太は畑中様と大和田様の関係を考えていた。
「大和田様はなぜか畑中様を苦手にしておられる。畑中様は利口者ゆえ、大和田様と対抗するようなことはしない」
 恐らく畑中大学は、平沼を一時預かって置くゆえ安心されたい。そう手紙を書くだろう。大和田様にとっては、苦手な畑中大学、引き渡せとも言いにくい。むしろ平沼が居なくなったのを幸いに、平沼一派を壊滅させる。そのことで、仮に畑中が異議を申し立てれば、畑中対大和田の図式は成立するが、畑中大学は何も言うまい。畑中大学とすれば、大和田多聞が病気にでもなり、実権を失うまで待つしかないと思っている。
「確かに・・・・・。畑中様と大和田様という図式にはならないか」
 山瀬道按は逸平太の読みに鋭さを感じた。
「平沼様が江戸に向かったとなると、益々大和田様の天下です」
 逸平太は渋い顔をした。
「この際、平沼一派を掃除するのに、藩主様が横槍を入れて邪魔になったのかも知れんな・・・」
 道按は遠くに目をやった。
「大和田様もそう長くはない。焦っておられるのだろう」
「逸平太殿は、首を突っ込まぬことだ。もう暫く病気のままでいなさい」
 道按の目は、慈悲にあふれていた。
「藩主様が亡くなると、どうなりますかな?」
 逸平太は藩全体がどうなるのかを考えていた。
「なるようにしかならない」
「そうなると、ご幼少の松丸様が、跡を継ぐことになりますが・・・・・」
「これこれ、今首を突っ込むなと申したばかりではないか」
 幼君松丸様は今江戸にいる。病弱な藩主様に代わり、代わりに江戸行きを命じられたのだ。幕府とのやり取りは総て、畑中大学が取り仕切っている。
「首は突っ込まぬが、流れは考えておかないと。藩主様が亡くならないまでも、執務が困難となれば、筆頭家老の大和田多聞様が松丸様の、後見人になりましょう。すると益々ご家老の思いのまま・・・・・」
「思いのままになったとしても、今と大きな変化はございますまい。もともと勝手放題にしていたわけじゃ。何も変わらん。ただ、平沼がやりかけていたことを、潰したいと思っただけだろう。平沼は藩主様のお気に入りだからな。或いは何か平沼が、藩主様に告げ口をしたのかも知れぬ。そのことを問い詰められて・・・・」
 大和田多聞が藩主に毒を盛ったのかも知れないと、案にそういった。
 しかし何れも想像でしかない。道按は皮肉たっぷりに顔を歪めた。
「ご家老の放蕩は、主に町に出て、芸子をたくさん抱え、飲み明かすのが道楽でございましょう。藩主の後見人となると、そう自由勝手な振る舞いもしにくくなる。そうなるとかえって窮屈ではないでしょうか」
「どう対処するかな」
「しかし藩主といい、弟のご家老様といい、子宝には恵まれませなんだ」
 逸平太はそんな藩主の顔を思い浮かべていた。
「そのようじゃのう。藩主様はたくさんお子がおりながら、いずれも女ばかり五人、若い側室に生ませた子が始めて男の子、それもまだ7歳・・・」
「松丸様が、藩を切り盛りするには、あと10年はかかります」
 10年という歳月は、筆頭家老大和田様の命も奪うであろう。そうなると藩の勢力地図はどう変わるのか。
「平沼が藩主様に可愛がられ、大和田にとっては、邪魔になったとはいえ、大和田の権力は、藩主様の弟という立場で築き上げたもの、藩主様が亡くなれば、その後ろ盾を失い、大和田の勢いも衰えましょう」
 道按は苦笑いを浮かべた。
「そのことを、大和田様はわかっておられない」
 逸平太は、先読みのできない大和田多聞を哀れに思っていた。
「藩主様が亡くなり、大和田様の力が衰えると、次は、やはり江戸のご家老様か、それとも林田様か。向井様なども力をつけるでしょうな」
 道按はずっと先のことを考えていた。道按は更に、
「そうなると、また藩士の取り込みが始まりましょう。逸平太殿は気をつけなされ」
 それから道按は話題を変え、
「ところで最近畑中宗一郎殿が江戸から戻ったそうじゃな」
 畑中宗一郎は江戸家老の畑中大学の甥っ子に当たる人物である。
「江戸のご家老様の・・・・。畑中宗一郎殿・・・」
 逸平太は突然の話に、江戸にいた頃を思い出だしていた。
「ご存知か?」
「親しく付き合いはないが、江戸にいたころ何度か・・・」会ったことはある。
「なかなかの傑物だそうで」道按は意味ありげに笑った。
「頭のいい男とは聞いていますが・・・」
 それが何かと、道按に聞きたかったが、話をはぐらかされた。
「ところで、陸殿はまだ向井様のお屋敷に・・・」
「家にいても、やることがないなどと申しまして」
「お年頃でござろう」
「病気が治ったら、そろそろ婿を探さなければと思っております。と言っても、当てなどさらさらないのですが・・・」
 当時は自由に恋愛などと言うものはない。年頃になると嫁・婿は一般的には親が捜すものだが、親は色ボケしている。母親は既に他界しているとなれば、陸の婿を探すのは逸平太と言うことになる。何とも煩わしいことだ。

 藩主が亡くなったという知らせが舞い込んだ。
「いよいよ来たな」
 逸平太は独り言をつぶやいた。それからは慌しい日が続いた。逸平太も病を押してきたという体で、葬儀には参列した。逸平太の、わざと苦しそうな振る舞いを見て、朋輩や上役から、
「早く家に帰って休まれよ」と忠告を受けたが、最後まで付き合った。もちろん仮病ではあるが、少し落ち着いたら、出仕しなければならないなと覚悟を決めた。

 ある日、昼頃、小夜が驚いたように逸平太の前にひれ伏した。
「どうした?」
「はい。ただいま畑中様というお方が、お見えになりました」
「畑中・・・・。畑中なんと申した」
「畑中としか申しておりません」
 畑中という性は、藩では江戸家老の畑中の一族しかいない。
「誰だろう?」
「立派なお武家様でございます」
「何か用事は言っておったか?」
「いいえ、何も・・・、ご用件は?と伺いますと、見舞いに来たと申されました」
「畑中様ほどのものが、秋月家などに見舞いに来るはずがない」
 逸平太もさすがに考え込んだ。藩主様が亡くなったとは言え、もう取り込みはいささか早すぎる。考えたが結論は出ない。あまり待たせるわけにもゆかない。病気の振りをするしかない。
「お通しせよ」
 逸平太は仕方なく、病人の振りをして、半身だけ身体を起こし、布団の中で、畑中氏を出迎えた。
「よう。容態はどうじゃ」
 畑中宗右衛門である。畑中主膳とも言う。江戸家老畑中大学の弟である。歳は50歳くらいだろう。立派な体格をしている。元気で、とても歳には見えない。重役の警護のとき、何度か警護したことはあるが、それを覚えていて、見舞いに来てくれたとも思えない。藩主が亡くなって、いよいよ藩の実力者が動き出したかと思った。
「そなたも大変じゃのう」
「・・・・・?」
 何がどう大変なのか、迂闊なことは答えられない。
「どうせ仮病じゃろう」
 畑中宗右衛門はいきなりそう言った。
「はぁ・・・・?」
「よいよい。人間仮病を使ってでも避けたい場面はある。わしもそうじゃが、兄などもよく仮病を使いおった。かの豊臣秀吉公も、清洲会議のときは仮病を使って、まんまと天下を手中に納めた。仮病を使って堂々と乗り切るのは、実力者と、頭のよいものの特権じゃ」
「・・・・?」
「そなたも、朋輩を斬るか、自分が討たれるかの瀬戸際だったのだろう。上手く切り抜けたではないか」
「あの、今日はどのようなご用件で・・?」
「そうそう。仮病とわかって病気見舞いとは空々しいか。陸殿はいかがした。さきほど案内してくれた女子がいたが、あれが陸殿か」
「いいえ。あれは陸ではありませぬ」
「そうか。やはりな。話とはちと違っていた。それにしても可愛いおなごじゃのう。気に入った。そなたは独り者と聞いたが、いずれは奥方に・・・?」
「いいえ。違います」
 言ってはみたものの、耳の後ろが火のように火照った。
 なんだろう。何しに来たのだろうと逸平太は少し不安になった。
「そうか。陸殿はまだか。向井殿の屋敷に上がっていると聞いたが・・・」
「はい」
「ふーん。生活が苦しいからとも思えぬが・・・」
 畑中宗衛門は屋敷の庭と部屋を見渡した。
「お陰さまで、生活のほうは何とか。陸は礼儀作法などを更に学ぼうと、期間限定で向井様のお屋敷に上がったのですが、向井様よりたってのお願いで、期間が過ぎても勤めております」
「さようか。そろそろ帰られるのか」
「そろそろ帰ると思います」小夜が茶を出した。
「可愛いというか。綺麗じゃのう。男というものは、幾つになっても綺麗な女子を見ると、心が和む」
「・・・・・・?」
 逸平太と畑中宗右衛門は小夜の美しい手元を見ていた。この男何しに来たのだろう。何か陸に不始末でも・・・。逸平太は少し不安になった。
「あの、何ゆえに陸を・・・。陸が何か致しましたか」
「わしの息子が江戸から戻ってきてのう」
 その話は医者の山瀬道按から聞いた。
「江戸で綺麗な女子をたくさん見ているから、江戸におなごの一人や二人はいるかと思ったが、江戸の女は信用できないなどと抜かしおって。ところが、最近になり態度・様子が急におかしくなったので、家来につけさせたところ。おなごと会っていることが判明した。それで息子を問い詰めたところ。死ぬほどすきだなどと抜かしおって・な。聞けば秋月逸平太殿の妹だとわかったので、一度どんなおなごかと、会いに来たわけじゃ」
 逸平太は腰を抜かすほど驚いた。そんなことで来てくれたのか。
「陸も、そのことをご存知なのでしょうか?」
 陸からそんな話は聞いたことが無い。それとも陸の預かり知らぬことで、宗一郎殿の片思いなのか。
「何のことだ?陸殿から何も聞いてはおられぬ・のか」
 畑中宗衛門は少し驚いたような顔をした。兄者なので多少のことは聞いていると思って来たのだ。
「いや。陸も宗一郎殿のことは好きなのかと思い・・・」
「好きなのであろう。二人が会っているところは、家来の者が何回も見ておる。嫌いではそう度々は会わん・だろう」
 そんな話は聞いたことがない。仮病がばれた以上は仕方がない逸平太は、布団の上に正座していた。
「どうじゃ。相手にとって不足はあるか」
 畑中宗右衛門は、豪快に笑った。
「滅相もございませぬ。畑中様と、我が家では身分が違いすぎ、釣り合いが取れませぬ。それでもよろしいかと・・・」
「身分?男と女の間で、身分など関係があるのか。かの豊臣秀吉は百姓の子倅であった。それが天下を取り、太閤殿下となったのじゃ。身分が障害となるなら、天下など取れぬわ。とりわけ男女の仲は、例え身分がどうあれ、好きなものは好きなのじゃ」
 随分裁けたお人である。もし本当なら、立派な武士には考えられぬ、裁けようである。
「そうは申しましても・・・」
 逸平太は、身分は大事なことだと言いかけたところに、陸が帰ってきた。小夜は早速陸を出迎え、
「陸様お客様がお見えになっております」
 兄の部屋に行く前に、陸に告げた。
「兄上に・・・、であろう?」
「確かに旦那様のお見舞いと申しておりましたが・・・、でも陸様をお待ちのようでございます」
「私に・・・・・?どなたじゃ」
「何でも畑中様とか・・」
 畑中と聞いて陸の顔が、急に赤く染まった。
「畑中様?・・・・。幾つくらいの方じゃ」
 畑中宗一郎様が突然来るとは思えなかった。                                  
「50歳は過ぎていましょうか」
「宗一郎様の父君か」
 父親の話は宗一郎から聞いている。陸は考えるようなしぐさで小首を傾げた。そして、
「恐らく・・・・」と呟いた。
 小夜は、宗右衛門様のご機嫌な様子に、きっと縁談を進めに来たのだろうと思ったが、陸は別のことを考えていたのだ。
「畑中家と秋月家では、身分も違うゆえ、身を引いて欲しいというお話であろう」と陸は小夜に説明し、覚悟はできていると言うような目をした。
「いいえ。御様子からはそのようには見えませんでした」
 小夜は嬉しそうに微笑んだ。それから、
「ただいま陸様が戻られました」
 次の間に小夜が正座して声を掛けた。その後ろに主人筋の陸が、神妙に三つ指をついて頭を下げていた。
「おお帰られたか、面(おもて)を上げられよ」
 畑中宗右衛門は陸の姿を凝視していた。陸はゆっくりと頭を上げた。
「ほー。これはまた、別の才女じゃな。上々・上々」
 別のとは、小夜との違いを言ったのであろう。
「美形である。気に入った」
 そして逸平太に目を向け、
「先ほどの話進めてよいな。しかとよい返事を待っているぞ」
 陸は話しの前後がわからず困惑げな顔をしていた。
「ひと目見ただけでよろしいのですか?」
 逸平太は不安そうな顔をしていた。
「おなごは、顔を見て、目の輝きを見れば一目でわかる」
 と勝手なことを言って、さっさと帰り支度を始めた。
「長居は無用。それでは拙者はおいとま致そう」
 そう言うと、畑中宗右衛門はさっさと立ち上がった。逸平太も陸も小夜も畑中宗右衛門主膳を玄関まで見送った。

               「5」

 仮病といわれては、いつまでも寝ているわけにもゆかなかった。
「小夜。布団をたため」
 そう言ってから、着替えを始めた。
 畑中主膳が共の者たちと秋月家を後にし、その姿が見えなくなってから、小夜に指示した。小夜がおかしそうに口を押さえて笑った。
「何が可笑しい」
 逸平太は憮然として、小夜の顔を見た。
「だってあのお侍様、入ってくるなりいきなり、旦那様のことを仮病だなどというものですから・・・」
「笑い事ではないぞ。下手な人に知れたら手打ちになるかも知れない」
 手打ちと言われて、小夜も真顔になった。
「ところで陸。聞きたいことがある」
 逸平太は、陸の目をみて座るよう促した。それで小夜が立ち去ろうとすると、
「小夜もここに座れ」と命じた。
「畑中宗一郎とは何者じゃ。そなた知っておるのか?」
 何者と言っても、氏素性はよくわかっている。陸との関係をそう訊ねた。
 陸は逸平太の顔を見ながら、正座した。
「知っているのだな」
「ハイ。知っております」
「何故黙っていた」
 父親が乗り込んでくるとは、相当親しい間柄に違いない。しかしそのことを、逸平太は陸の口から、ただの一度も聞いたことはなかった。父親が呆けている以上、陸の父親代わりは逸平太である。その父親代わりの自分に内緒にしていたことが許せなかった。
「わしに話しては、まずいことでもあるのか・・・・」鋭い目を妹に向けた。
「兄上から、高浜様のお屋敷に行くように命じられて、何度か伺いました。そのおり、数人の風体のよくない若者に絡まれまして、それを畑中宗一郎様が助けてくれたのです。若者たちとは、結局何もありませんでしたが、以後心配して、向井様のお屋敷に行くときや、帰るときに送ってくれました」
「なぜそれを言わんのだ。何か隠さなければいけないことがあるのか」
「いいえ。何もありません」
「なら、何故隠す」
「隠してなどおりません。宗一郎様とは、まだお会いしたばかりで、特別親しくお話をしたわけでもございません。またこれから先どうなるものでもありません。身分が違いますゆえ・・・・、どうなるものでもないと思っておりましたから・・」
 陸の目は清んでいる。兄に問い詰められても、別段うろたえるわけでもなく、平然としていた。
「何もないのに、何故、宗一郎殿の父親がわざわざ来るのだ」
「そんなこと、陸は知りません。何ゆえに来たのかと、宗一郎様の父上に聞けば良かったではありませんか」
「嫁に欲しいようなことを言っておった」
「あら・・・・」陸は多少顔を赤らめた。
「あら・・・、ではない。そういう話は事前に話しておくものだ」
「だから、畑中宗一郎様とは、何回かお会いしただけで、特に込み入ったお話もしておりませんし・・・」
「陸は宗一郎殿をどう思っているのじゃ」
「優しい方。立派な方とは思っておりますが、身分も違いすぎます。ただ単に親切な方と思っておりました。送り迎えも、たまたま同じ道なのでとだと申しておりましたので、特別陸のためとは思っていませんでした。気まぐれかと・・・」
「すると何か。陸は何とも思ってはいないが、相手が勝手に熱を上げているだけだと申すのか」
「そうは申しません。仮に陸が好いたとしても、相手は江戸のご家老様の甥っ子、家柄が違いすぎますので、考えられないと申しているだけです」
「仮にもわしは、陸の親代わりをしようというのだ。隠し事をされては困る。もし陸の婿捜しをして、話を進めていたら、陸には別に男がいましたでは、わし立場がなかろう」
「あら、そんなお人を、探しになっていたのですか?」
 陸はいたずらっぽく笑った。小夜もおかしそうに下を向いている。
「探そうと思っていた・・・」
「いずれに致しましても、畑中宗一郎様とは、特別親しい間柄とは思っていませんでした」
「で、どうするのだ」
「それでどうすると申されましても、畑中宗一郎様本人からは、まだ何も伺ってはおりませんので・・・・」
「陸を息子の嫁にするには、事前にどんなおなごか知っておきたいと言ってきた。見舞いなどと申しておるが、見舞いに来られるほどの知り合いではない。それにわしのことを仮病などと・・・。陸が宗一郎殿に何か言ったのか?」
「言うわけがないでしょう。仮病でお城勤めを休んでいるなどとわかったら、お手討ちはともかく、お役目を解任されます」
「そうだ。では誰が仮病だと話した」
 小夜の顔を見たので、小夜は慌ててかぶりを振った。
「陸もそんなことは知りません」
 誰が仮病だと話したのかは気になるところである。もし大和田一派に知られたら、お役御免となってしまう。
「陸。そなたにもし畑中宗一郎殿が、嫁に欲しいと言ってきたらどうするつもりじゃ」
「今急にそんなことを言われましても、お答えできません」
 珍しく陸のほほが赤くなった。
「断ればいいのだな」
 逸平太はわざと意地悪く言った。
「旦那様。そんなご無体な。陸様も好きなのですが、身分が違うからと・・・・」
 小夜が陸の代弁をした。
「陸に聞いておる」
「わかっているくせに、兄上の意地悪・・・」
「一度、宗一郎殿にも会いたい」
 その上で身分の違いを確認しておきたい。それでも承知なのかと・・・。父親の早とちりの可能性もある。

 翌日、逸平太は出仕の支度をしていた。
「畑中様に仮病とわかってしまっている以上。いつまでもこうやっているわけにはゆかぬ」陸と小夜にそう言った。
「出仕なさるのですね」陸は笑っている。
「それに一度、畑中宗一朗殿にも会っておきたい」
 陸は突然下を向いて顔を赤らめた。いつもしっかりものの癖に、宗一郎の話になると、途端に娘になる。
 逸平太は登城すると、各重臣に挨拶し、休んでいたことを詫びた。みなからは、元気になったかと声を掛けてくれた。筆頭家老大和田多聞に挨拶に行くと、
「そなたが休んでいたお陰で、高浜を討ちもらしたぞ」と言われた。
 やはり、葛西の死は、ご家老が命じたものだと思った。
 脇には腰巾着の家来共が数人整然と座っている。その末席に諸星十兵衛がかしこまって座っていた。しかし目は鋭く光っていた。
「そなたがいれば、討ちもらすことはなかったに・・・」
 大和田多聞は、太目の身体をゆすって笑った。退席すると、直ぐに諸星十兵衛が追いかけてきた。
「そなたとは、いずれ決着をつけねばならぬ」
 諸星十兵衛は、鋭い目を向けた。
「何ゆえでございますか?」
 逸平太は不審そうに諸星の顔を見詰めた。
 諸星十兵衛は、三年前に江戸から来て、腕を見込まれ三好の郎党となり、その一年後に藩の剣術指南役であった川野辺宗達を一刀のもとに斬り殺したことから評判となり、大和田様の家来になった男である。剣術指南役の川野辺宗達がまったく歯が立たなかったというのだから、腕は確かである。
 川野辺宗達は藩主のお気に入りで、そのことをいいことに、大和田様に意見したことから、大和田様に睨まれ、最後は大和田様にたてついたということで、三好の命により、諸星十兵衛に斬られたのである。
「藩に二人の剣客はいらぬ」
「藩随一の剣客は諸星殿ただ一人でござる」
 逸平太はすかさずそう言った。
「今度立ち会え」
「理由がござらぬ。それに拙者は病み上がりでござる」
「逃げるのか。いずれ必ず決着をつける」
「私は諸星殿に遺恨はござらぬ。剣の腕なれば、立ち会うに及びません。諸星殿が、圧倒的に強い」
「しかし藩のものはそうは思っていない」
「なんと言おうと、一向に構わぬではござらぬか。諸星殿のほうがはるかに強い」
「それを皆の前で言えるか」
「もちろんでございます。それが事実でございますから。私の腕など、諸星殿の足元にも及びません」
「そう申してよいのだな」
「結構でございます。拙者の腕は、高浜や葛西にも及びません」
「そなたは、藩随一の使い手との噂がある」
「それはあくまでも噂でございます。誰かが勝手に振りまいた噂、本人もそのことには、至って迷惑をしております」
「江戸にいた頃、江戸を震撼させた辻斬りを一刀の元に斬り捨てたと聞くが・・・」
「それも噂でございます。拙者などは、その辻斬り騒ぎが起きたときは、怖くて布団をかぶって寝ておりました。従って、当時は怖さのあまり、夜は一切外出をしておりません」
「何故そのような噂が出た。辻斬りは相当な剣の達人で、20名近い者が殺されている」
「そのように聞いておりますが、拙者には関係ございません。何故そのような噂が立ったのか、不思議でなりません」
 諸星はこれ以上問答しても埒は空かぬと見て、その場を立ち去った。その後姿を見詰めながら、逸平太は、
「そんな問答を繰り返しているほど暇はないのだ」と呟いた。
 逸平太はその足で、道按の屋敷に向かった。道按は、逸平太を見ると、
「病気は治ったか。まあ上がれ」と勧めてくれた。
「患者はいないのですか?」
 昔はいつも忙しそうにしていた。今日も待たされる覚悟できたのだが、
「待合室は患者だらけだ。しかし最近は殆ど、息子がやってくれている」
「親には似ず、優秀な息子と聞きましたが」
「それだけ憎まれ口が叩けるようになれば、安心だな」
「この前拙宅にきていただいたとき、畑中宗一郎殿が江戸から帰られたと聞きましたが・・・」
「会ったのか?」
 畑中宗一郎に会ったのかと聞かれた。
「いや、まだ会ってはおりません」
「なかなかいい男だ。逸平太殿とも話は合うだろう」
「何ゆえに畑中殿か江戸から戻ったと教えてくれたのか。少しばかり気になりまして・・・・」
 逸平太は道按の目を見た。何もないのに、そのような話はすまい。何か伝えたいことがあったはずだと思い始めたのだ。畑中宗一郎と陸とのことを何か知っているのだろう。
「あの男は、これからの藩を背負って立つ男と見込んでいる」
「この間、畑中宗右衛門殿が、見舞いと称して、我が屋敷に参られた」
「ほう。宗一郎殿の父親が・・・」
「いきなり仮病と言われた。私が仮病と知っているのは、妹の陸と小夜、それに道按殿だけです。何ゆえに宗右衛門殿が知っているのでしょうか・・」
 逸平太は道按を疑っていた。
「畑中宗一郎は、いい男だ。頭もいいし、立派な男だ。是非近いうちに会いたまえ」
 道按は、完全に話をはぐらかしている。
「畑中宗一郎殿は立派な御仁かもしれないが、何ゆえに、その親が来たのかと訊ねております」
「陸殿に会いに行かれたのか・・・」
 やはり道按は畑中宗一郎と陸とのことを知っている。と言うことは、父親の宗右衛門に仮病と話したのも道按か。
「畑中宗一郎殿と陸のことを何故・・・」
「実は宗一郎殿から、相談を受けた」
「相談・・・?」
「どうやら、陸殿に心底惚れたらしい。江戸の女はすれっからしが多いが、陸殿は江戸で会ったどのおなごより、しっかりしており、聡明な方だと言っておった」
 逸平太はそんな道按の目を見ていた。
「それで、陸殿の家族のことを聞かれた。特に父親のことを・・な。それで父親は気の毒にボケておられ、陸の兄逸平太殿が父親代わりだと伝えた。宗一郎殿も逸平太殿のことは、多少は知っておったが、親しく話したことはないと言っておった」
「・・・・・・」
「江戸に居たとき、逸平太殿のことは、頭のいい、機転の利く男だと聞いていておったようじゃ」
「・・・・・・・」
「それから、陸殿のことは、今後は父親ではなく、逸平太殿に相談すればよいでしょうかと聞かれた。勿論逸平太殿が親代わりだと伝えておいた」
「病気のことは・・・?」
 何か言わなかったかと聞いた。仮病のことである。
「大和田一派の動きから逃れる方法としては、仮病を使う以外にないが、もしそれで仮病を使われたのなら、噂どおり、頭の良い御仁だと感心しておった。断わっておくが、わしが仮病などとは一言も言っておらん」
「宗一郎殿の勝手な推測だと申されるか」
「頭の良い者の考えることは、同じということじゃ、そのことで宗一郎殿が、逸平太殿にとって不都合な動きをするとは思えぬ。なにしろ陸殿の兄上だからな」
「陸と畑中宗一郎殿では、不釣合いと思うが、道按殿はどう思われる」
「身分のことでこざるか。江戸の畑中家とは違い、こちらの畑中家はそういう古いしきたりは余り好まぬゆえ、気になさらなくても良いのではあるまいか」
 道按は気持ちよさそうに笑った。

 陸が向井様の屋敷から帰るとき、いつものように、畑中宗一郎が待っていてくれた。そして、
「父が大変失礼を致した」
 近寄ってくるなり、いきなりそう詫びた。それで、陸も軽く頭を下げた。
「困った父親です。勝手なことをして、迷惑だったでしょう」
「いいえ。私は挨拶をしただけです。応対は兄が致しました」
「では、兄上にご迷惑を掛けて・・・・」
「兄はそれしきのことで、迷惑などとは・・・・・・・」
 思っておりませぬ。と言った。
 陸は今迷っている。本当に宗一郎様が、陸のことを好いていてくれるのかどうか。宗一郎の気持ちは何も聞いていない。陸は無言で歩いた。
「一度、兄上に会わせて頂けませんか?」
「何故でしょう」
 好きと言われたわけではない。今後のことを話したこともない。身分の違いはどうにもならない。陸は現実的である。無理なものは無理と諦めている。
「兄上は何か申されていましたか?」
「宗一郎様に冷やかされているのだろうと・・・」
「冷やかす?何ゆえそう思われたのか?」
 珍しく宗一郎の目が真剣に光った。
「身分が違いすぎますゆえ」
「身分が違うと一緒にはなれませんか」
「一緒に?」陸は暫く考えてから、
「なれないでしょう」と答えた。
「私は身分など、考えたことがありません」
 宗一郎はきっぱりと強い口調で言った。
「そうですか。でも私は身分を考えます」
「それは私が嫌いと言うことでしょうか」
「違います。好き嫌いの問題ではありません。身分の違いとは、そういうものです」
「私も、私の父親もそのようには考えておりません」
 陸は内心嬉しかった。しかしそれを顔に出すことはなかった。

 その日、逸平太は城で警護の仕事が終わり、帰る時であった。岡倉小十郎という男から声を掛けられた。岡倉小十郎は、逸平太と同じ年であり、昔からよく知っていたが、筆頭家老大和田様のお気に入りとなってからは、余り口を聞いていない。その男から、折り入って話があるというのだ。しかも、
「秋月にとっては大事な話だ」というのである。
 そう聞くと放っては置けない気がする。
「一杯やろう」岡倉小十郎に言われた。
「よかろう」
 急いで帰宅しなければならない理由はない。それに岡倉小十郎はそう大酒飲みでもない。昔はよく飲むことはあったが、飲みすぎて迷惑を掛けられたこともなかった。
「おぬし、こんなところに来るのか」
 料亭に連れてこられて、逸平太は少し驚いた。逸平太は江戸にいたころ、こうした場所にほんの数回行ったことはあるが、戻ってからは初めてだ。
「ご家老様のお供で何回か来たことはある。個人的に来るのは初めてだ」
「大丈夫なのか」
 金銭面を含め心配して聞いた。
「女将に話はしてある。人払いを頼んだ」
「人払い・・・・?」
「聞かれたくないのでナ」
 部屋に通され、料理と酒が運ばれた後は、誰も来ず静かであった。どこかで三味線の音が聞こえる。
「重大な話とは何だ」お互い酒を注ぎあってから、逸平太が訊ねた。
「江戸のご家老様。畑中様の甥っ子に当たる畑中宗一郎という男を知っているか」
「会って話したことはないが、名前は知っている」
 近いうちに会おうと思っている。陸とどういうつもりで付き合っているのか確かめるためだ。
「そうか。秋月が江戸にいたころ、あの男も江戸にいたか?」
「いたが、江戸ではあまり会っていない」
「そなた妹がいるよな」
「いる・・」
「その妹と畑中宗一郎が親しげに会っているのは?」
「その話なら、多少は聞いている。重大な話とは、そのことか」
「まあ。黙って聞け」
「・・・・・?」
「実は畑中宗一郎とは、以前一緒だったことがある。それでそなたの妹のことを遊びかと尋ねてみた。遊びにしては可哀想だろうといったところ。畑中の奴め、むっとした顔で、女を遊び道具と考えたことは、ただの一度もないと、怒っていた」
「・・・・・・?」
「と言うことは、そなたの妹を本気で嫁に貰うつもりらしい」
「・・・・・」
「ところで畑中宗一郎は、江戸では、幼君松丸様に学問を教えていたらしい。松丸様も宗一郎ことを大層気に入り、大和田様の推薦する学者ではいやだということで、重臣の方々の意見もあって、今後とも、畑中宗一郎が教えるらしい」
「・・・・・・」
「しかし面白くないのは、大和田様だ。宗一郎は頭もいいし、毛並みも申し分ない。と言うことは、このまま放置しておくと、畑中宗一郎は、藩の要職に就くことが確定したのも同然じゃ。そこで大和田様としては、何とか畑中宗一郎を始末したいらしい」
「始末・・・・・・・!」
「そこで、大和田様は諸星十兵衛に命じ、密かに畑中宗一郎を始末するよう命じたわけだ」
「諸星十兵衛が畑中宗一郎を・・・・?」
 捨てては置けぬ一大事である。畑中宗一郎が殺されたら、陸が可愛そうだ。なんだかんだ言っても、陸も畑中宗一郎に惚れている。
「諸星十兵衛は、以前畑中宗一郎に一喝されたことがあるらしい。それを根に持って、個人的にも恨みがあるようだ。すなわち、おぬしの妹の思い人が、斬られるかも知れない・・・」
 本当だろうか。にわかには信じられないが、ありえないことだと否定する根拠もない。教えてくれたことには感謝するが、それが本当のことかどうか、どうやって確かめる。逸平太は虚空を睨んで考えていた。

 その後秋月逸平太は、畑中宗一郎と始めて会った。
「破天荒な父親で、申し訳ござらぬ」と宗一郎は丁寧に詫びた。
「面白いお方で・・・」
 逸平太も突然訪れた畑中主膳のことを思い出していた。
「姉の婚儀のときも、相手の家に勝手に乗り込み、さっさと縁談を決めてしまった。一方妹のときは、相手の男が気に食わぬといって、縁談をぶち壊してしまった。勝手な行動をとる父親で、いささか手を焼いております」
「なるほど・・・」
「しかし今回のことは、父親を怨んではおらぬ。陸殿のことは、今後どのように勧めてよいか、思い悩んでいたところだから、父が勝手に秋月家を訪れたことにより、一気に話が前に進んだことは事実・・・」
 宗一郎は、半分は父に感謝していた。
「妹を、嫁にする気はおありか?」
「あるかなどという生易しい言葉では表現できぬ。何としても嫁に戴きたい。そう願っている」
「そうですか。宗一郎殿がそう仰しるのなら、陸も幸せでしょう」
「実はまだ陸殿には、心の内は、打ち明けていない。どのように伝えるべきか悩んでいたところでござる。それを察して父が勝手な行動をとった」
「身分の違いについては、どう考えておられる」
「身分?そんなことは一度も考えたことはござらぬ。気にしたこともない。男女の中で、身分など関係ないと思いますが・・・」
 その様な時代ではない。身分制度は厳然とあり、しかも多くの武士はその身分制度の中で生きている。身分など関係がないという、畑中宗一郎の方がおかしい。逸平太はそう思っていた。
「確かにお父上も、それに近いことを仰せられていたが、本当に後悔はしないのか?」
「親父は、身分制度については、常に一過言あり、男と女の中に身分など関係はないというのが口癖でしてナ」
「・・・・・」
「母は数年前病気でなくなり、その後は遊郭の女を好きになり、身請けして、正式に妻に迎えたいと言ったのだが、伯父の猛反対受け、未だに外に囲っております」
「伯父とは江戸のご家老様か」
「伯父と父は正反対の性格でして、同じ兄弟でありながら、こうも違うかと思うほど、異なった考えを持っております。伯父は武士としての本分をわきまえ、曲がったことが嫌いで、謹厳実直と言うか、決められたことには逆らわない性格だ。それに比し、父は武士の本分などクソ食らえ。決め事、ご法度には、ことごとく反発し、武士にあるまじき生き方をする」
「宗一郎殿はどちらに似ておられる?」
「丁度その中間かな。伯父ほど一徹にもなれず、さりとて父ほど破天荒な生き方も芳とはしない」
「そうですか・・・」
「ところで、逸平太殿。私もいずれはこの藩の役に立ちたいと思っている。今も幼君の教育係として、ある部分の教育を受け持っている。いつも悩むことは、この藩をいかにして強くするか、どうすれば豊かな、栄えた国にできるか考えている」
「強く?まさか戦国時代でもあるまいし、今更強い国を作ってもどうにもなるまい」
「武力のことではない。この藩が経済的に他藩に負けない藩にすること言う意味です」
「なるほど、その強さでござったか。藩が豊かになり、強い藩とするには、何としても生産力の向上でございましょう。生産力に背を向けては、豊かな国など作れません」
 逸平太は富国の話になると、いささか持論があった。
「生産力・・・・。でござるか?」
 宗一郎も興味ありそうに、姿勢を正した。
「穀物にせよ、農作物にせよ。あるいは漁業にせよ。加工品にせよ。着物にせよ、今より数倍の生産力を上げる工夫と取り組みが必要でござろう」
「例えば?」
「穀物・・。米を例にとっても、まず現在の、藩の生産力を倍にすることです」
 宗一郎は、真剣な目で逸平太の目を見ている。真面目な男だと思った。そして、目を輝かせて、
「そのためには?」と前に出てきた。
「穀物は、お天道様のめぐみと、土地と水でしょう。お天道様はどこでも同じ様に照らしてくれます。土地は沢山余っております。しかし土地はあっても水がなければ、不毛の地となります」
「なるほど・・・・・」
 宗一郎は、逸平太が何を言わんとしているか、大凡の理解は出来ている。宗一郎も頭の良い男だ。
「かの武田信玄は強い国を作るために、治水、灌漑事業に腐心され、随所に治水を施された。国の強さは、領民を養うための生産力です」
「治水・灌漑事業ですか」
「藩に流れている川を主流として、幾つもの小川を流すのです。さすれば今まで田畑には向かない土地も、開墾できます」
「新田開発・・・」
「耕作地が広がれば、実質的に土地が増えたのと同じになります。農作物がたくさん収穫できれば、税収入も増えます」
「・・・・」
「水路はまた物の運搬も容易(たやすく)します」
「逸平太殿は、その方面に詳しいのですか」
「詳しくはありません。しかし関心は高い。江戸は世界でも有数の水路が整備された土地と言われております。江戸にはその専門家がたくさんおります」
「それらを知っておられるか」
「たくさん知っております。職人は、水路が一端整備されますと、しばらくは必要なくなります。腕のある職人が多数あぶれております」
「治水・灌漑ですか。逸平太殿、現在の仕事の合間に、この地の、灌漑事業を研究してみては戴けないでしょうか」
「わかりました。やってみましょう」
「しかし、逸平太殿の研鑽したことが、日の目を見るかどうかは、今後の拙者の動向にかかっている。拙者が要職につけなかった場合は、日の目を見ぬことになるが、そのときは許して欲しい」
「いや。気になさるな」
 先のことなど考えて夢は実現できない。
「それにしても、逸平太殿は、剣の達人とは聞いていたが、新田開発にも詳しいとは恐れ入りました」
「剣の達人というのは、噂だけでござる。江戸にいたとき、強くなりたいと思っていた頃もありました。しかしやむに已まれず、人を斬ったとき、剣のもとでは何も生まれないことを悟りました。剣の強さでは理想は作れませぬ・・・・」
「気に入りました。いずれ逸平太殿と兄弟になれる日が楽しみでござる」
 宗一郎は逸平太より2歳年下だったから、さしずめ逸平太が兄と言うことになるが・・・、
「ところで、宗一郎殿は諸星と言う男ご存知か」
「よく知っております」
「宗一郎殿が、幼君に気に入られ、教育係をしているのが、大和田様は気に食わないらしく、それで、宗一郎殿を、始末するため、諸星十兵衛に斬るように命じたという噂がある」
「その噂、聞いたことがあります。気をつけるようにいわれた。しかし理由もなく、いきなり斬りつけることもありますまい。それではただの人殺しでござる。そうなれば藩にはいられなくなる」
「宗一郎殿は腕のほうは」
「諸星や貴殿ほどではない」
「私の方は噂だけで、腕など立ちません。恐らく宗一郎殿のほうが達者でござろう」
「そうですか?大和田様などは、諸星と秋月殿を、真剣というわけにも行かぬが、一度たち合わせてみたいものと言っておりましたが・・・」
「滅相もござらぬ。無様な格好を見せるだけでございます」
「ではなぜ強いという噂が立ったのでしょう」
「さぁ。私にもよくわかりません。朋輩に桜井というものがおりまして、そのものが勝手に流した噂でございます。こちらとしてはいい迷惑です。とにかく諸星にはお気お付けなさいますよう」
「ありがとうございます」

               「6」

 宗一郎と別れてから、高浜の家の前に来た。荒れ果てて、到底人の住める環境ではなかった。逸平太がそんな高浜の家を腕組みしながら眺めていると、御高祖頭巾の女が、裏から顔を出した。この女も高浜の家を眺めていたのであろう。逸平太の姿を見ると、立ち止まった。若い女のように見える。
「秋月様では?」聞き覚えのある声だった。
「もしや、葛西殿の妹・・・」
 高浜に斬れたことになっている葛西新之助の妹だ。
「加代にございます」
「この度は、とんだことになり・・・・」
 逸平太は悔やみを言った。
「兄上の仇と、この家を見張っております。確かご新造さんが、臥せっていたはずなのですが・・・」
「不在なのかな。居たとしても、この家では暮らしてゆけまい」
「そうですね」
「何ゆえに、こんな所に・・・?」
 逸平太は葛西の妹が、何故こんな所にいるのか、不思議に思った。
「高浜様がこの家に、いつ現れないとも限りませんので、見張っておりました」
 葛西の妹はそう言ったが、昼間だけの見張りでは、本気とも思えない。
 逸平太は、葛西新之助を斬ったのは、高浜ではないと思っている。それを葛西の妹に言うべきか迷っていたが、
「葛西新之助殿を斬ったのは、本当に高浜でしょうか」
 逸平太は葛西の妹にその疑問をぶつけてみた。
「家中の人たちは、皆そう申しております。でも高浜様と兄の腕は同じ様なもの。そう簡単には斬れないと思っております。高浜様に会って、その点を確かめたいと・・・・」
 葛西の妹も疑っている。やはり高浜が斬ったのではなく、下手人は別にいると思っているようだ。
「誰も見ていたわけではない。高浜が下手人だとは誰から聞かされた?」
「諸星様でございます。諸星様は大和田様の御家人で、疑うわけにも参りません。高浜様とお会いになって、具体的にお話を伺えば、もう少しはっきりすると思います」
「もし高浜がいたら、あだ討ちを・・・・」するつもりか訊ねた。
「父と弟はそのつもりです。家中の皆様が、兄を斬ったのは高浜様と言っている以上、あだ討ちを致さねばなりません」
「加代殿は、高浜ではないと・・・」
「兄のそれまでの話からすると、兄を斬ったのは、諸星様ではと思っておりますが、迂闊にそのようなことを言うと、こちらの首が飛びます」
「そうだな。暫くの間は、高浜が斬って、逐電したことにしたほうが良さそうだ」
 加代は高浜が犯人ではないと思っているらしく、その事を聞いて逸平太も安心した。
「高浜様の、奥方は今どうしておられるのでしょうか?」
「ここにいないことだけは確かだ。しかし行き先まで知ると、かえって身に危険が及ぶ。さしあたって、安全な場所にかくまわれているようじゃ」
 つまり細かく聞くなと言う意味でそう言った。
「わかりました」
 加代は素直に引き下がった。しばらく二人は連れ立って歩いた。
「最初の頃はお役人が、高浜様の家の周りを監視しておられましたが、高浜様は戻らないと判断して、引き上げたようにございます」
「そのようじゃ」
 逸平太は、葛西の妹を家まで送り届けた。

「宗一郎殿と会ったぞ」
 逸平太は帰ってくるなり、妹の陸にそう告げた。
「それで・・・」
 陸は多少顔を赤らめた。あの時以来、逸平太と陸と小夜の三人が揃って食事を摂るようになっていた。
「なかなかの傑物だ。身分など関係なしに、陸を嫁に欲しいと言っていた」
「まぁ。でもわたくしには、何も申しておりません・・のに・・・」
 陸は恥ずかしそうに目を伏せた。
「どのように言ったらよいのか悩んでいるうちに、親父殿が勝手に行動に移されたようじゃ。親父殿も陸のことをたいそう気に入っているらしい」
「小夜も、畑中様とお会いしたい」
 宗一郎と会いたいと言って、小夜も嬉しそうに口を挟んだ。どのような人なのか是非会ってみたい。小夜は素直にそう思った。
「もし、陸がその気になって祝言をあげると言う事にでもなれば、陸の妹として、その後は何度も会うことになるであろう」
 だから、慌てることはないと言いたかった。
「嬉しい・・・」
 小夜は、はしゃぐように喜んだ。陸は黙って下を見ている。あまり箸が進まない。
「畑中殿の気持ちはわかった。ところで陸はどう思っている。受けてもよいのだな」
「兄上にお任せします」
 嬉しかったが、そう表現するのが精一杯だった。
 二人の婚儀は着々と進み出した。気がかりなのは、諸星十兵衛が本気で畑中宗一郎の命を狙っているのかどうかである。
 その後の様子では、畑中宗一郎は、明らかに命を狙われているらしい。その兆候が現れ出した。誰かに尾行されたり、行動を見張られていると言うのである。諸星十兵衛本人ではないが、いつ登城し、いつ帰るか、どこで何をしているかを調査されているらしいと、陸に告げていた。
 陸も心配し始めた。諸星に狙われていることは、兄からも、宗一郎様からも聞かされている。諸星十兵衛の強さは兄からも、向井家の郎党からも聞いている。しかし女の陸ではどうすることも出来ない。心配で眠れない日が続いた。しかし畑中宗一郎はいたって元気で、気にしたそぶりも見せない。何か秘策でもあるのか。そのことを陸は聞いてみた。
「別に秘策などない。いざ危険となったら、逃げるまでのこと、そなたの兄上と同様、仮病を使って屋敷から出ないとか、それとも陸殿と手に手を取って、江戸にでも逃げ出すか」
 畑中宗一郎はそう言って笑った。逃げ出すという割には、至って明るい。悲壮感などまるでない。
「江戸へ逃げるのですか?」
「陸殿は嫌か」
「いいえ。どこまでもお供いたしますが、若君の養育のほうは・・」
「そうな。拙者が居なくなれば、次のことを考えるだろう。元々は若君の教育のことから始まったこと、大和田殿が好きにやったらいい。大和田殿もそう長くはない。大和田殿が居なくなれば、諸星もよりどころを失う。腕は立っても、よりどころを失えば、恐れることはない。それでも襲うようであれば、ただの人殺しになってしまう。それまでは緊急避難をすべきかも知れない」
「お城の力で、とめることは出来ないのですか」
「難しいだろうな。若君はまだ幼い。実権は大和田様の手中にある。大和田様の命令を止めない限り難しい」
 藩主持豊様が亡くなってから、幼君松丸様は国表に一旦戻られている。
「そうですか。わかりました。そうなったらどこまでも宗一郎様のお供を致します」
「ありがたい。わしもそなた無しの生活は考えられなくなって来た。仮に藩の要職を剥奪されても、陸殿と一緒ならやってゆける。江戸に行けば、生きる方策はいくらでも見つけられる。逆に陸殿を失ったら、藩の要職につこうが虚しい。江戸では伯父上もいるし、仮に藩から離れても、古今東西の歴史などを教えて、学問所講師などやってもよい。以前頼まれたこともあったが断わった。今でもその学問所は流行っている。例えどうなろうと陸殿と一緒なら、生きてゆける。脱藩しても、心配なさるな」
「少し気が楽になりましたが、でもくれぐれも、お気を付け遊ばしませ」
「これでも、勘はいいほうでな。実はこちらも人を使って、諸星の動きは監視している」
「・・・・・」陸は安心して、宗一郎を見上げた。
「ところで、話は変わるが、小夜殿を畑中家に養女に出さぬか」
「小夜を養女に・・・・ですか?」
 突然のことで、なんの意味かわからなかった。
「畑中家の養女となれば、立派な武家の娘。畑中家から、秋月家に嫁に出そうと思っている」
「小夜を畑中家から嫁に・・・・」
 陸は考えても居なかった。恐らく兄の逸平太も考えていないだろう。畑中家から嫁を貰う。そうなれば、誰も文句を言うものも居ない。更に宗一郎は、
「町家の者を嫁に貰うと、身分の差と言うより、生活習慣や物の価値観が違いすぎて、行った先で思わぬ苦労をする。小夜殿は既に町家の生活より、武家の生活になじんでいる。仮に小夜殿が、町家に嫁入りしたとしても、生活習慣が違いすぎて、苦労することは間違いない。それに引き換え、武家に嫁げば、かって知ったる生活、違和感もなかろう。その意味では、小夜殿は逸平太殿の嫁になるのが一番望ましい」
「小夜がこの話を聞いたら、どんなに喜びましょうか」
 いや、小夜だけではない。兄もどんなに喜ぶだろう。しかし兄はそのことを顔に出して、素直には喜ばないだろう。そういう兄なのだ。陸は兄の顔が目に浮かんだ。早く帰ってこの話をしたかった。
「養女として、どのくらいの期間、畑中家にお世話になったら・・・」
 それでも陸は訊ねてみた。
「逸平太殿の都合で良いのではないか。半年後でも、一年後でも、逸平太殿の準備が整い次第いつでも・・・・。藩には婚儀が整えば、いつでも届けを出す。畑中家の娘の嫁入りであれば、反対するものは居ない」
「そのことを宗一郎様のお父上様には・・・」
「実はこの話、父から出た話じゃ」
「父上様から・・・・」
 陸は目を丸くして驚いた。
「逸平太殿は、小夜殿に惚れておる。目を見ればわかると申されてな。町家の出身の娘ゆえ、どうしてよいかわからぬのであろう。畑中家の養女にすれば、何の問題もないものを。そう言われて私も気が付いた。畑中家の養女であれば、たとえ小夜殿の出生がわかっても、文句の言うものはおらぬ。畑中家の養女となった時点で、詮索するものはいなくなる」
「兄も小夜も喜びましょう。畑中家の養女となれば、これに勝るものはありません」
 
 陸は戻ると、まずは宗一郎との話をして、それから早速兄に、小夜を養女に出す話をした。兄は喜ぶと思ったが、
「馬鹿を申せ。そなたは宗一郎殿と手に手を取って江戸に行き、小夜は畑中家の養女だと、それではわしの面倒は誰が見る」
「兄上の面倒など、誰でも見られます」
 折角小夜と兄上の心配をして言ったのに、喜ぶどころかいきなり文句を言われた。それで陸は意地になって、わざと冷たく言ったのだ。
「わしの面倒など、誰でも見られるだと・・・・。何ということを・・・。しかし小夜が畑中家の養女か・・・・」
 兄は悪いと思ったのか急に優しそうな目で、考える振りをした。考えることではない。小夜を嫁にするにはその方法しかない。
「小夜に早速申し伝えます」
 必要な話だけ済ますと、陸は少しむくれたように立ち上がった。逸平太はその後姿を目で追いながら、その後姿にどう声を掛けるか迷っていた。
 部屋を出ようとした陸は、一瞬立ち止まった。
「暫くの間お寂しいでしょうが、小夜は決して遠くに行くわけではございません。ほんの少しの我慢です」
 振り向きざまそう言った。
「しかしそなたを江戸にやるわけには行かんぞ。父上のことはどうする」
「何を仰っているのですか。父上の面倒など誰も見ていないではありませんか。父上にはお里がついております」
 陸は、今度は後ろを振り返らず、怒ったように部屋を出た。
 逸平太は、陸の提案を考えていた。親父殿が亡くなれば、藩にお暇を頂いて、小夜と江戸に行くつもりであった。この藩を出れば、小夜が町人の娘だろうと、何だろうと誰も詮索する者はいない。藩に居るから届けを出さなければならなくなる。届けを出せは、小夜が町家の娘と明かさなければならない。嘘を言って届けても、後々問題が残る。町家の娘と届ければ、藩は認めない。
 つまり小夜を嫁に出来ないのは、藩に居るからで、脱藩をすれば、誰の眼も気にすることはない。

 陸と宗一郎の婚儀の話が出る前に、陸から小夜をどうするつもりかと、執拗に聞かれたことがあった。その時、「陸が嫁に行き、父上が亡くなってしまったら、向後の憂いなくなる。その時は脱藩するかもしれない」と言ったとき、陸が血相を変えて、怒ったことがあった。
「やはり兄上は、秋月家を捨てる覚悟なのですね」
「秋月家を捨てるわけではない。秋月家は残る」
「残っても、藩にいるからの秋月家です。脱藩すれば、秋月家は亡くなったも同然」
「そなたが、宗一郎殿と一緒になり、たくさん子を生めば、そのうちの一人を秋月の名前を継がせたら良かろう」
「なんとまあ。身勝手なことを」
 その時は喧嘩別れで終わった。
 今度は陸が、宗一郎と江戸へ行くかも知れないと言う。それは困る。その事を言うと、
「それでは、宗一郎様が討たれても良いと・・・」
「そうは言ってはおらぬ」
 小夜を畑中家の養女か。悪くはない。それにしても、宗一郎が江戸に逃げるとなると、このまま放置は出来ない。いよいよ行動を起こさねばと逸平太は覚悟を決めた。
 
 陸は小夜を呼んだ。小夜は夕餉の支度に、勝手口の女達に指示をしていた。指示だけではなく、自分でも魚をさばいたりする。小夜は洗濯でも、縫い物でも、料理でも何でも出来た。女達は、
「小夜様が何でも手を出しますと、我々の仕事がなくなります」と苦情を言ったが、
「ごめんなさい。でも私も身分は貴女方と同じですよ」と自分の立場を伝えたが、そう思っている女中は一人も居なかった。
「陸様がお呼びでございます」
 一人の女中が声を掛けた。小夜は手を拭きながら、陸の前に座った。
「お呼びでございましょうか」
「そなた暫くの間、畑中家の養女として、畑中家に行ってはくれまいか」
「えっ!私が畑中家に・・・・」
 小夜は意味がよくわからなかった。
「そうです。養女として・・・」
「養女・・・・?何のためですか」
 小夜の目は、いつになく真剣になった。
「そなたが、畑中様の養女になれば、立派な武家の娘です」
「嫌でございます。私は町家の娘で十分でございます。ここにおられれば、他に何も望みはございません」
「小夜は武家の娘になりたくないのですか」
「はい。別に武家の娘になることなど、望んではおりません」
「でも小夜が武家の娘にならなければ、そのうちに兄は嫁を貰うことになります」
「わかっております。旦那様の奥方様にも、きっと見事にお仕えしてみせます」
「そういうことではない。とにかく畑中様のお屋敷に行くのです」
 陸は少し語気を強めた。
「陸様の頼みでも、それだけは嫌でございます。もし秋月家で小夜が邪魔になったのなら、死ねと仰せ下さいませ。秋月家のために、見事散ってご覧に入れます」
「何を馬鹿な。小夜が死んでどうするのです。これは小夜のために言っているのですよ」
「小夜は、旦那様に一生お仕えするのが、夢でございます。武家の娘になれるから、養女に行けとは、あまりにもひどい仕打ち。旦那様のお傍を離れるなら、いっそ死ねといわれたほうが幸せです」
 陸は呆れて小夜を見詰めていた。これほど恋をすると盲目になるものだろうかと呆れ果てた。説得する気にもなれない。小夜がこれほど頑固だとは思っても見なかった。
「そうですか。わかりました」
 陸は勝手にしなさいとは言わなかったが、小夜を置いて部屋を出た。そして逸平太のもとに行き、
「兄上。小夜を説得してください」と冷たく言った。
「陸は先ほどから何を怒っているのか」と言ったが、陸は何も言わずにプイと部屋を出て行ってしまった。
 逸平太は仕方なく、小夜に来るように言った。小夜は目に一杯涙をため、逸平太の前に座った。
「小夜はわしが好きか」
「はい。死ぬほど好きでございます」
「わしも小夜のことが好きでな・・・」
「・・・・・・?」
「親父殿が死んだら、小夜を連れて江戸に行こうと思っていた」
「江戸へ・・・・、でございますか?」
「藩に居ては、そなたを嫁にすることは出来ない。脱藩して江戸に行けば、小夜が町家の娘かどうか知るものも居ない。どこにも届ける必要はない。そうなれば晴れてそなたと一緒になれると思っていた」
「小夜が、旦那様の嫁でございますか。恐れ多い・・・」
「嫌か・・・」
「滅相もございません。嫌だなどと、小夜はそのお気持ちだけで嬉しゅうございます」
「しかし、宗一郎殿から、時代が変わったら、藩のために力を貸してくれといわれた。そうなると、安易に藩を捨てるわけにも行かなくなった。そこに宗一郎殿から、小夜を畑中家の養女にすれば、立派な武家の娘として、小夜を嫁にもらえるといわれた。暫く辛抱してくれれば、小夜を正式に嫁として迎えられる。暫くの間だけ、畑中家に行ってはくれまいか。必ず迎えに行く」
「またここに帰れるのですか?」
「勿論。ずっと畑中家の者になれというのではない。近いうちに正式に嫁として迎えに行く・・・」
「必ずこの家に戻れるのなら辛抱致します」
「そうか。行ってくれるか」
「はい。また旦那様と一緒に暮らせるのなら」
「そうか。良かった」
 陸の奴め。肝心なことを伝えていない。逸平太は苦笑いを浮かべた。

 数日後、逸平太と陸は、小夜を連れて畑中家を訪れた。わざわざ宗右衛門が迎えに出てくれた。
「このような可愛い娘と、例え僅かでも一緒に暮らせるのは、楽しい」
 宗右衛門は年甲斐もなく喜んだ。
「父上、ただの女子(おなご)ではありません。畑中家の娘ですよ。いずれは逸平太殿の嫁女になるお方ですよ」宗一郎がたしなめた。
「判っておる。いい冥土の土産が出来た」
 畑中宗右衛門は小夜を見て、すこぶるご機嫌であった。
「是非よろしくお願い申し上げます」
 逸平太は丁寧にお願いした。
「逸平太殿、余り早くなくとも良いが、遅すぎると、わしが口説くぞ」
「父上。何を馬鹿なことを・・・」
 宗一郎が眉をしかめた。
「早からず、遅からず、必ず迎えに参ります」
「畑中家の娘じゃ。立派に婚儀の支度はさせる」
「ありがたきお言葉・・・」
 こうして小夜は畑中家の養女となった。畑中宗右衛門は優しかった。どうやらこの御仁、若い娘にはことさら優しいのかも知れない。小夜も先のことを考えると、幸せであった。畑中宗一郎様が、何くれとなく気遣いをしてくれた。

「大和田様が倒れられた!?」
 諸星十兵衛は三好に呼ばれ、大和田多聞が病で倒れたことを知らされた。三好の屋敷である。大和田様の屋敷ほど広くはないが、結構広い庭のある家であった。
「大和田様にもしものことがあれば、畑中か向井あたりの天下になる。江戸から平沼大膳も戻ってこよう。そうなれば我々の立場は危うくなる」
「それはわかります」
「だから早く畑中宗一郎を始末致せ。大和田様にもしものことがあっても、畑中宗一郎がいなければ、大和田様の甥っ子の大和田和磨(かずまろ)様が、幼君の守役となり、我々の生きる道はまだある。しかし宗一郎が幼君の守役となれば、畑中の天下となり、我々大和田様一派は追放されるだろう。そうなる前に奴を始末するのだ」
「畑中宗一郎は我々の考えを察知しているのか、警護が厳しく、警護を破って理由なく奴を殺れば、私恨として処理され・・」
「私恨でも何でもいい。とにかく宗一郎を何とかするのだ」
 私恨でも良いということは、三好は自分を切り捨てるつもりだなと考えた。私恨で宗一郎を殺せば、十兵衛は単なる犯罪者として処分される。それでも大和田一派としては、目の上の瘤(こぶ)は取り除ける。三好たちの考えは、瀬に腹は変えられず、十兵衛を犠牲にしても、目の上の瘤は取り除く。そういうことを考えているのだ。
 しかしそれを拒否すれば、十兵衛の立場もなくなるのもまた事実だ。ここは一か八か覚悟を決めないと、大和田様が亡くなってからでは遅い。十兵衛は覚悟を決めた。
「とにかく、往来で暴漢に襲われ、それを助ける振りをして、宗一郎を殺す。あとは、大和田様がなんとでもしてくれる」
「わかりました。やってみましょう」
「時間はない。明日でも明後日でも、城から下向のおり、暴漢に襲わせるのだ。そのために浪人者を何人かは雇っている」
「任せておいてください。必ずしとめて見せます」

「兄上。大変でございます」
 陸が転げるように飛び込んできた。
「どうした?」
 日頃落ち着いている陸の慌てぶりに、何か重大なことが起こったことを感じた。
「向井様の屋敷で聞いたのですが、大和田様が倒れたそうにございます」
「大和田様が・・・・」
「それで大和田様のご家来衆がにわかに色めき立ち、焦っているようにございます」
「宗一郎が危ないな。宗一郎殿に伝えよ」
「何を・・・ですか?」
「仮病を使ってでも登城を取り辞めるのだ。いくら焦っているとは言え、諸星十兵衛が畑中家の屋敷までは襲うまい。屋敷には郎党も沢山いる。一歩も外に出てはならないと伝えよ」
「かように伝えればよろしいのですね。でも、いつまで臥せっているのですか」
 何時までと問われて、逸平太は考えた。大和田多聞は危篤というわけではない。完治する場合もある。永遠に臥せっているわけにもゆかない。
「数日中に決着をつける」
「決着をつける?どうされるのですか」
 陸は兄の言葉に少し驚いた顔をした。
「そんなことはどうでも良い。とにかく宗一郎殿を外に出しては拙い。宗一郎殿にもしものことがあれば、そなたが可哀想じゃ。それにわしの計画にも狂いが生じる」
 逸平太は近い将来、藩のために力を貸して欲しいと宗一郎から言われている。藩の財政を強くするための方策をあれこれ考えている。しかし宗一郎が居なくなれば、その構想も吹っ飛ぶ。せっかく将来に夢を持ち始めたのに、頓挫させるわけには行かない。
「決着と申されたが、兄上は何を考えておられるのですか?」
 陸は何か不吉なものを感じた。
「そのうちに話す。もし計算通り行かなければ、宗一郎殿は殺されるかもしれない。殺される前に、うまく陸と江戸に逃げるか。どちらかになる」
「兄上が何を考えているのか、まったくわかりませぬ」
「今はわからなくとも良い。とにかく宗一郎殿に伝えよ」

               「7」

 逸平太は預かっている高浜糸の部屋を訪れた。食も進み、だいぶ元気になった。糸は逸平太を見るなり、丁重に頭を下げ、
「このご恩一生忘れませぬ」と礼を言った。
「元気になって何よりじゃ。外に出られぬので、何かと不便であろう」
「いいえ。小夜様に、ことの外良くして頂いております。お庭なども散歩させていただき、足腰もだいぶ元気になりました」
「元気になったついでに、如何であろう。そろそろ高浜殿のところへ行かれては」
「夫のところですか・・・」
 驚いた顔をしたが、嬉しそうでもあった。
「高浜家の中間が出入りしていることは知っておる。高浜半四郎殿との手紙のやり取りであろう」
 糸を秋月家に連れて来て以来、高浜家の中間と思われるものが、よく出入りしていた。最初怪しいものと思ったが、糸のところに来ていることを知り、そのまま見過ごしていた。
「ご存知でしたか。隠すつもりはございませんでしたが、夫からは何度となく文が届きまして・・・」
 糸は申し訳なさそうに頭を下げた。
「高浜殿も元気でやっておるか」
「はい。隣国の糸の実家近くで、浪人をしながら、内職などしているようにございます。生活は苦しいようですが、それでも何とか・・・」
 生活は成り立っているようである。
「実は、大和田様一派の動きが活発になってきた。ついては、糸殿がいつまでもここにおるのは危険ゆえ、元気になったのであれば、半四郎の元に行かれてはどうかと思って」
「一人でここを出るのは不安でございますが、秋月様がそう仰せになるのなら・・・」
 秋月家にはこれ以上の迷惑は掛けられない。
「半四郎に、国境近くの韮山まで出向いてもらうのじゃ。そこまでは、わしが送ってゆく」
「秋月様が・・・・。でももし誰かに見られたら、高浜の女房を匿っていたと知れ、秋月様に迷惑が掛かります」
 糸は自分の身より、秋月家の方が心配であった。
「夜、人通りがなくなってから、家を出る。夜道の女の一人歩きは危険。よってわしが韮山まで送ろう。いずれ時代が代わり、半四郎の疑いが晴れれば、藩に迎え入れることを約束する」
 若い藩主の守役として、畑中宗一郎が実権を握れば、高浜家の再興も願い出るつもりでいる。
「滅相もございませぬ。秋月様のことは、夫もえらく感謝しております。秋月様のご指示であれば、何なりと・・・・」
「かたじけない」
 さらに、逸平太は郎党に使いを出した。葛西の妹に、
「こちらから出向くもよし、こちらに来られるのもよし、相談したきことがある」と伝えよと命じた。
 逸平太はいつでも出掛けられるように準備したが、郎党の報告では、葛西の妹、加代殿はこちらに向かったと知らせを受けた。来てくれるらしい。
「葛西新之助の妹が来られる。高浜のご新造さんと鉢合わせせぬよう、気を配れ」
 小夜にそう命じた。葛西の妹加代と高浜の妻糸は、今は敵同士である。加代は何となく、高浜が葛西を斬ったのではないことは薄々気が付いているようであるが、それでも今の段階で顔を合わせるのは良くないと思っている。
 暫くして葛西新之助の妹、加代が屋敷に来た。小夜と同じくらいの歳だ。小夜が茶菓子などだし、緊張がほぐれたところで、
「加代殿。頼みたいことがある」
「何でございましょうか。私に出来ることなら・・・」
「前にも言ったとおり、そなたの兄上を斬ったのは、高浜ではない」
「恐らくそうだと、思っております」
「新之助を斬ったのは、諸星十兵衛だ。葛西殿ほどの腕の立つ男を、一刀のもとに斬り捨てられるのは、亜奴をおいて他に居ない」
「やはりそうでしょうか・・・」でもその証拠はない。
「諸星十兵衛は、葛西殿を斬り、高浜も斬ろうとしたが、高浜には逃げられた。そのままにしておくと、高浜に喋られる。そこで高浜が葛西殿を斬って、逐電したことにする。そうすれば高浜は、のこのこ姿を現すわけには行かない。高浜を下手人に仕立て上げれば、追われる立場になり、姿を隠すより他になくなる。高浜を捉えろと命令が出ているが、見つかれば、大和田一派に口封じのため、その場で殺すであろう」
「怖い・・・」
 お加代は首をすくめた。同時に、もし諸星十兵衛が兄を斬った下手人とわかったとしても、強すぎてどうすることも出来ない。
「そこで頼みとは、諸星の所に行き、高浜半四郎が、ご新造さんを迎えに国境(くにざかい)の韮山まで来る。ついては、私一人では高浜を打つ力はございません。兄の仇、高浜を討っていただけないでしょうか。と申し出るのじゃ」
「高浜様を・・・・」
 加代は驚いた様に逸平太の顔を見た。
「高浜は、そなたの兄を斬ってはおらぬ」
「承知しております」
「従って、事実を高浜に喋られては拙いので、必ず諸星十兵衛は一人で行くはずじゃ」
「本当に高浜様は参るのですか」
「そこのところは、諸星も根ほり葉ほり、聞いてこよう。そなたは兄の仇を討つため、四方八方に手配りし、この情報を得た。間違いなく来ると伝えよ。この期を逃せば、高浜は国境を越え、二度と再び高浜を討つ機会は無くなるゆえ、どうしても兄の仇を討ちたいと懇願せよ」
「でも、本当に兄を斬ったのは諸星でしょうか?」
「そうだ。そのことも、その時判明するであろう」
 しかし加代はまだわからなかった。本当の下手人としたら、その諸星を誰が討つのか。
「この機を逃せば、高浜は、他国に入ってしまう。他国に入れば討つことは難しい。また先々藩の情勢が変われば、いつ舞い戻るかも判らず。そう脅せば、そなたの兄を斬ったのは諸星だから、この機を逃さず、一人で出向くはずじゃ」
「諸星が誘いに乗って、出て行くのは良いとして、そこに本当に高浜様が来られたら、高浜様の口が、封じられてしまいます」
「心配致すな。高浜とご新造さんは、命に代えてもわしが逃がす」
「秋月様が・・・」
「そうだ」
「何ゆえ秋月様が・・・・」
 加代は理解できなかった。秋月様が、高浜様の奥方を連れて、諸星十兵衛の前に現れたら、許すはずがない。諸星十兵衛と秋月様が斬り合いになってしまう。何故そこまでして・・・、という疑問が残った。
「高浜のご新造さんは、わしのところにいる。わしが高浜のところに連れてゆく」
「それで・・・・?でも何ゆえそこまで、秋月様にも危険が及びます」
「判っているが、どうしても諸星とは、一度は戦わなければならない。でないと、畑中宗一郎が危ない」
「畑中様・・・・?」
 畑中宗一郎と逸平太の妹陸が、いい仲になっていることは、噂で聞いている。その宗一郎が命を狙われているとしても、諸星十兵衛を斬るのは容易ではない筈。
「申し遅れたが、畑中宗一郎と妹の陸は、祝言を挙げる予定だ。宗一郎殿が殺されては、陸が可愛そうじゃ。いきなり陸が未亡人になってしまう。それに畑中宗一郎は将来藩を背負って立つ人材じゃ。諸星ごときに討たせるわけには参らぬ」
「お噂は聞いております。そうなのですか。噂は真実なのですね。畑中宗一郎様と陸様が・・、おめでとうございます」
「いや。それがめでたいことか、不幸の始まりになるかは、このことに掛かっている。頼む」
「と言うことは、諸星十兵衛は秋月様が・・・・・・・」
 秋月逸平太が剣の達人であるとは、加代は聞いていない。果たして勝てるのだろうか、加代はそこに疑問が残った。
「それで・・・、諸星を討つ自信の程は・・・」
「やってみなければわからないが、考えはある」
「わかりました。正式には諸星が兄の仇、やってみます。ただ、そうであれば、高浜様は別の日に逃がせば、より安全では御座いませぬか」
「高浜とご新造さんが居なければ、騙されたと思うであろう。そうなれば、今度は加代殿が危ない」
 なるほどと加代は頷いた。
「茂平!」
 逸平太は中間の茂平という男を呼んだ。茂平は転がるように庭先に走ってきた。
「茂平。こちらにおられる加代殿の家に行き、暫くの間は、家の周りの整備などしてくれ」
「暫くの間ですか・・・・?」
 茂平と呼ばれた中間は、どのくらいの期間なのかをはかりかねていた。
「主がおらぬので、隠れたところは荒れ放題になっておる」
「承知いたしました」
「諸星との約束が取れたら、このものに文をしたためてくれ」
「わかりました」
 加代は何が言いたいかを察知した。
「茂平は最近雇ったものゆえ、葛西家に奉公していても怪しむものは居ない」
「わかりました。さっそく戻りまして、諸星と会う約束を取り付けます」
「決行日は5日後の午前・・・」
「委細承知」
 加代は不安ながらも秋月家を後にした。

 逸平太は加代が帰ってから、暫く一人になって考えた。万が一諸星十兵衛に負けた場合のことを考えていた。高浜夫妻は何としても逃がさなければならない。加代にも迷惑は掛けられない。よしんば葛西新之助を斬った本当の下手人が、諸星十兵衛と判ったとき、加代はどうするのか。加代が、十兵衛に立ち向かったところで、返り討ちにあうのは必定。例え葛西新之助を斬った下手人がわかったとしても、しらばっくれて諸星十兵衛に従う振りをするしかない。その前に逸平太が諸星に勝てば良いのだ。そんなことを考えていた。
 小夜が居ないと何となく不便で、逸平太は落ち着かなかった。

「そんな無茶な。諸星十兵衛といえば、剣の達人ではござりませぬか。諸星が来るまでは、葛西様や、高浜様が藩随一の剣の達人といわれながら、簡単に斬られたのですよ。それなのに何ゆえ兄上が・・・」
 陸は兄の決意を訊いて驚いた。
 兄が負けた時点で、秋月家は終わってしまう。父はボケているし、陸は嫁に行ってしまう。他に子供は居ない。兄の死は秋月家の終わりを意味する。
「わかっておる。しかしいずれ諸星とは刃を交えなければならぬ」
「兄上は、宗一郎様のことを考えておられるのですね。畑中様は頭の良い方です。何とか切り抜けます」
「一度や二度逃れたとしても、執拗に狙うであろう。諸星十兵衛の後ろには大和田様が控えておる。畑中宗一郎を討つまでは執拗に狙ってくる」
「でも、もし兄上に何かあったら、秋月家はおしまいになってしまいます。小夜などは喉を掻っ切って、死にますよ。小夜は、見掛けはおとなしい女ですが、芯は私などより数段強い女です。信じたらとことん行きます。命など惜しいとは思っておりません」
「小夜のことはわかっている。小夜のためにも、秋月家のためにも生きる」
「勝てる自信はおありなのですか?」
 陸も必死だった。兄が死ねば、秋月家は断絶になってしまう。葛西様や高浜様がそうであったように・・・・。
「少ない機会だが、一つだけある。わしが居合斬りと知れば、一定の距離を保ち、おいそれとは飛び込んでこない。しかし諸星は自信がある。わしなどには負けるはずがないと思っている。そこが付け目だ。居合いの間が確保できれば、諸星は斬れる」
「本当ですか。信じられません」
 兄が強いという噂は、陸も聴いたことはある。しかし兄の言うとおり単なる噂と思っている。兄の強さを示す、それらしい姿は一度も見たことはないのだ。
「そうな、陸も小夜もわしの腕は見せたことがないからな」
「小夜のためにも、秋月家のためにも、生きていただかないと困ります」
「わかっておる。だからと言って、宗一郎殿が殺されるのを見ているわけにもゆくまい。どの道、いずれは、諸星十兵衛とは立ち会うことになる。であれば、今において機会はない。宗一郎殿が斬られてからでは遅い」
「本当に勝つ自信がおありなら何も申しませんが・・・」
 陸はまだ信じられなかった。
「負けるつもりで斬りあいはやらぬ。と言っても、勝つ自信があるわけでもないが・・・」
 陸は何とか止めようとしたが、兄の覚悟も硬かった。

                「8」

 その日、逸平太は元気になった高浜の女房お糸を連れ、まだ陽が登る前に、韮山の国境を目指した。月明かりで思ったより明るかった。
「夫は、卯の刻には国境のお堂の前に到着いたします」
 糸はそう言った。現在で言えば、午前7時ころである。
「糸殿、何が起きようとも、後ろを振り返らず、半四郎殿と、逃げてくれ」
「本当に秋月様には、何から何までお世話になり、申し訳なく思っております」
「礼を言うのはまだ早いかもしれない」
「それは何故?」
 高浜の女房は不思議そうな顔をした。山に入る頃から当たりが白み始めてきた。
「諸星十兵衛が来るかもしれない」
「えっ!」
 女房は一瞬足がすくんだ。足が出なくなったというのが現実である。固まったように身体を硬直させた。
「心配致すな。高浜とお糸殿は何としても守る」
「秋月様が諸星十兵衛と立ち合うのですか?」
「そのつもりだ」
「秋月様になにかあったら、秋月家の方々に合わせる顔がありません」
「心配してくれるのはありがたいが、それより何食わぬ顔で、国境まで同行して欲しい。わしにもしものことがあっても、糸殿は、高浜と一目散に逃げて欲しい。山道は、諸星より高浜の方が詳しい筈。必ず逃げ切って欲しい」
「そんな・・・・」
 糸はそんな卑劣なことはできないと思っている。既に自分はあの時死んでいたのだ。それを助けられた。その恩人を置き去りにして逃げるわけにはゆかない。高浜の女房はまたも歩を進めたが、足取りは重くなっていた。山を登った頃には辺りがすっかり明るくなり始めていた。
 その頃、秋月家に小夜が噂を聞きつけやってきた。
「陸様。旦那様は?」
「何か聞いたのですか?」
「諸星十兵衛と立ち会うと聞きました」
 知らせたのは秋月家の中間である。
「韮山に行きます」
 小夜は決然として言った。
「小夜が・・・・?」
「旦那様にもしものことがあったら、小夜は生きていられません」
 それは判る。しかし小夜が行っても・・・・・。
「小夜が行っても、役には立つまい・・・・」
 陸は言葉に出した。
「判っております。しかし旦那様にもしものことがあったら、小夜も叶わぬまでも一太刀浴びせ、見事に旦那様の後を追います。旦那様の居ない世の中なんて、小夜には考えられません。私は町人の娘です。この世では逸平太様と一緒になれないのなら、あの世行って、もしかしたら一緒になれるかも知れません」
「何を言うのです。そなたは畑中家の養女となったのです。立派な武家の娘です。だから待ちましょう」
「いいえ。誰が何といおうと、旦那様を見届けに参ります。旦那様に勝っていただくよう、お祈り致します」
「小夜が旦那様のお傍に行ったら、余計心配を掛けます」
「いいえ。旦那様に知られぬように後をつけます」
「知られぬように・・・・?」
 そう言う手もあったかと、陸は小夜の目を見た。
「旦那様にもしものことがあったら、飛び出します」
「貴女は死ぬのが怖くないのですか」
「旦那様の居ない世の中で、生きてゆく方が、よほど怖いです」
「小夜は、旦那様のことになると、本当に頑固じゃのう」
 陸も少し呆れていた。陸は小夜より年長ということもあって、気丈に振舞ってはいるが、小夜以上に不安だった。小夜は信じるものがある。負けても勝っても、兄を信じている。陸は兄の強さなど信じては居ない。
「わかりました。小夜一人で行かせるわけには参りません。私も参ります」
「陸様が・・・・・?」
「兄に何かあったら、秋月家は終わりになります。それを見届けましょう」
 秋月家の最後は、この目で確かめ、宗一郎様にもお伝えしよう。ある意味兄は、宗一郎様のためにも戦う決心をしたのだ。小夜のように死ぬわけにはゆかぬが、秋月家の最期は見届けようと決意した。秋月家がなくなったとき、陸と宗一郎がどうなるかはわからないが、父のこともあり、結果だけ聞くのは忍びない。陸も慌てて支度をした。

 その頃、諸星十兵衛と加代も別の道から山を登っていた。お堂の前に来ると、人っ子一人いなかった。
「高浜は居ないではないか」
 十兵衛は辺りを見回しながら、加代に言った。
「ご新造さんもまだ着いておりません。ご新造さんが到着すれば、必ず高浜は現れます」
 加代は言うが、根拠があるわけではない。秋月逸平太の言葉を信じただけである。
「高浜の女房は一人で来るのか」
「恐らく匿っていた者が連れて来ると思われます」
「そうかそうなれば、誰が高浜に味方したか、かわかるというものだ。大和田様にも報告が出来る」
「その通りだ」
 後ろから声がした。高浜の女房と一緒に立っていたのは、秋月逸平太であった。
「おぬしが、高浜を・・・。何故じゃ?」
「高浜は葛西を斬ってはおらぬ。葛西を斬ったのはそなたであろう」
「・・・・・・」
「高浜と葛西は剣の腕はほぼ互角。一刀のもとには斬れない。それが出来るのは、藩なかでは、諸星殿只一人じゃ」
 すると堂の蔭から男が顔を出した。
「その通り、拙者は葛西新之助を斬ってはいない。諸星に一刀のもとに斬られ、腕の違いをまざまざと見せ付けられ、これは叶わぬと逃げたが、自分が斬ったことになっているので驚いた」
 高浜が、草叢(くさむら)から顔を出した。高浜の女房が慌てて走り寄った。
「苦労を掛けた」
 高浜は女房を抱きか抱えた。
「高浜。早く逃げろ」
 逸平太が声を掛けた。
「高浜。逃げるな。そちが目的だ」
 諸星十兵衛が怒鳴った。
「逃げはせぬ。恩義を受けた秋月殿を置いて逃げられるか」
「高浜。離れておれ」
 逸平太が刀の柄に手を掛けた。その姿に、諸星十兵衛は、
「秋月家もこれで終わりだな。貴様を殺さなくても、大和田様が処分してくれる。そなたが仮病を使っていた頃から、大和田様は疑っていた。これではっきりした」
「いろいろ言うが、そなたが死ねばすべては丸く収まる」
 逸平太は油断なく身構えた。
「秋月。そなたにこのわしが斬れるのか」
「斬らねば、秋月家がおわってしまう。叶わぬまでも御相手致す」
「面白い。抜け・・・」
 諸星は鯉口を切った。その一瞬、逸平太は大地を蹴った。そして目にもとまらぬ速さで、諸星の脇をすり抜けた。諸星は一瞬何が起きたかわからなかった。わき腹に激痛が走った。逸平太が刀を抜いて諸星十兵衛の脇を通り過ぎたのだ。諸星十兵衛はまだ刀も抜き終わっていなかった。半分刀を抜いたところで、勝負は終わっていた。
 諸星のわき腹から大量の血が噴出した。一瞬の出来事だった。諸星はゆっくりと膝をつき、顔から地面に突っ込み絶命した。恐らく諸星は何が起きたのかわからなかっただろう。負けたことも判らないまま、絶命した。
 その光景を見ていた高浜と高浜の女房、そして加代も一瞬何が起こったのか、自分の目を疑った。よく見えなかったのである。気がついたときは、諸星の脇をすり抜けた逸平太が刀をかざして、身を屈めていた。見えたのは、逸平太が地を蹴った瞬間、諸星の後ろに駆け抜けたことだけだった。
 物陰から見ていた小夜も陸も何が起きたのか判らず、口をあけたまま、その光景を見ていた。その光景とは、おびただしい血が噴出し、ゆっくりと諸星が倒れてゆく光景だった。逸平太は血糊のついた刀をぬぐった。しかし速過ぎて、血糊の跡さえ残っていないように見えた。
 逸平太は刀を納め、加代の肩を抱いた。加代は真っ青になって小刻みに震えていたからだ。
「怖かったであろう」
「・・・・はい。大丈夫です。一太刀(ひとたち)なり諸星に浴びせようと考えていましたが、そんな暇もありませんでした」
 青い顔のまま、加代は言った。
「秋月・・・・!」
 今の光景に驚きを隠せない高浜が、後の言葉もないままに近寄ってきた。
「驚かせたな」
「いや、凄いとしか言いようがない。秋月の強いという噂は本物だった。それにしても凄すぎる」
「高浜、これから他国で苦労が多いと思うが、諸星が死んでも、大和田様の目の黒いうちは、藩には戻れぬ。いずれ代が変われば、国に戻れることもあろう。それまで達者で暮らせ」
「何とお礼を申し上げてよいやら」
 高浜の女房は涙を流していた。小夜と陸が物陰から飛び出した。それを見て、逸平太は驚いた。まさかこんなところまで、陸と小夜が来ているとは思わなかった。いらぬ強さを皆に見せてしまった。
「そなた達も来ていたのか」
 逸平太は少し呆れた顔をしていた。
「もしものことがあれば、小夜も生きてはいられません」
「・・・・・・?」
 逸平太は言葉が見つからなかった。
「それにしても兄上・・・」
 陸も今の光景に驚いていた。兄がこれほど凄腕とは考えてもいなかった。
「わしが勝ったのは、諸星がこちらの腕をわからなかったからだ。わしが居合いだとわかっていれば、一定の距離を保ったであろう。十兵衛は己の腕を過信しすぎていた。しかしこのことは宗一郎殿には言うなよ。わしは剣の腕で身を立てようとは思わぬ故・・・」
「他言無用ということでございますか・・・」
「今まで通りの逸平太で良い。高浜殿気をつけて参られよ」
「陸様、小夜様本当にお世話になりました」
 高浜の女房は深々と頭を下げ、礼を言うと、山に向かった。隣国に行くためである。高浜夫妻は、何度も振り返り頭を下げながら山の中に消えた。
 その後姿を暫く見ていたが、やがて逸平太は、諸星の遺体を草叢に隠した。いずれ村人に発見されるかもしれない。いや誰にも発見されず、諸星は逐電したと思われるかもしれない。よしんば諸星の死体が発見されたとしても、ここにいる者がしゃべらない限り、斬った相手は永遠にわからない。諸星がいなくなれば、いずれは畑中宗一郎の時代がくる。
「行くか」
 と、逸平太が声を掛けた。陽は高くなり始めた。陸、小夜、加代は逸平太の後に従った。足元に家の庭と同じような南天の赤い実がなっていた。その南天の葉が朝露に光っていた。
 山間(やまあい)から登りかけた朝日が、4人の背中を照らした。

                                おわり

南天の実

南天の実

「兄上が敗れたら、秋月家は終わってしまいます。小夜は喉をかききって死にます。小夜は一見弱そうな女に見えますが、死など恐れない強い女です」「諸星十兵衛に勝てる好機はある。可愛い妹のためにも、小夜のためにも、ボケた親父のためにも、宗一郎のためにもまだ死ねない」

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-06

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著作権法内での利用のみを許可します。

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